第3話 求婚されました


 暗い、暗い闇の中に揺蕩たゆたう内、武はふと立ち止まった。黒い水の川を渡ろうとしていた所で、後ろから誰かが抱き着いて来たのだ。振り返ってみると、そこにいたのは、どこか見覚えのある金髪の少女。彼女は有無を言わさず武の唇に己のそれを重ねると、口内に舌を割り込ませてきた。繋がった口を通して、熱い液体のような何かが口を通じて武の中に流れ込んでくる。そして彼女は武の手を取り、川から反対に向かって歩き出した。


 きっかけは些細な事。ここはどこなのか。少女は誰なのか。それを聞こうとした瞬間、異変が起こった。今までかすかに在っただけの違和感が巨大な蛇となって武を飲み込む。そして眩いばかりの光に目を僅かに開けた。まどろんでいた意識が眠りの縁から急浮上し、曖昧あいまいだった五感の全てが戻ってくる。


 まず目に映ったのは白い天井だった。ついで硬めのベッドの上に自分が寝かせられている事を確認し、ベッドの周りにごちゃごちゃと置かれた幾つもの機械とぶら下げられた輸液パック、そしてパックから伸びた腕に刺さっているチューブを眺める。


 この部屋を武はよく知っていた。病院の観察室。代償のために昏睡し、その都度救急に連れ込まれ、容態が安定してからはこの観察室に移されるというのがいつもの流れだ。


 現状を確認し、何故自分が助かったのかを疑問に思う。復元の魔法の代償は多量の熱量カロリー。そのエネルギー源はアミノ酸や脂肪だけではない。血中のブドウ糖さえもが急激に消費されるため、術者は低血糖症を起こし即座に昏睡するはずだった。


 普段武の力が必要とされるケースでは、ブドウ糖液を何本も打ちながら、小さな範囲に魔法を使用する。それでも代償として必要される熱量は大きいもので、充分な準備をしていても昏睡状態に陥る事さえあった。


 それと比べるなら、今回武が生き延びられたことが奇跡だ。だが、魔法使いである武はよく知っている。奇跡が何の代償もなく起こる筈が無い。


 武は右腕を天井へと伸ばしてみる。そこには、枯れ枝のように骨と皮だけになってしまった干からびた腕――などではなく、いつもと変わらない腕があった。


 自分がどうやって助かったのかが解らない。そんな武の頭の中に、肉声ではない女性の声が響く。


主様あるじさま。よかった。御目覚めになりましたか)

「……ごめん。心配させたね、冥月めいげつ


部屋の中には武以外の者の姿は無い。だが武はそれを当然のように受け入れ、言葉を返していた。


(まったくです。お願いですから、どうかあのような無謀な真似はしてください)

「うん。これからはそうならないように気をつける。……ねえ、冥月。どうして僕が助かったのか知ってる?」

(はい。一昨日に主様が助けた少女、あやかしの類いであったようです。不完全な治癒でありながら息を吹き返し、主様に自分の血を飲ませ、再び倒れました。おそらく精を分け与えたのだと思います)

「死にかけの僕の命を救うほどの精、か。かなり高位の異族いぞくなんだろうね」


 異族。それは獣の耳などの特徴を持った獣人、人の姿を取れるようになった器物や獣などの化生けしょう、人語を解する霊獣、その他鬼や雪女などのあやかしなど人ならざるモノである彼らの総称だ。


 そしてここ神木町かみきちょうでは、異族と多くの人間が共に生活している。例えば姿を現すことなく武と会話するこの冥月も、そういった異族の一員だ。武が助けようとした少女も、この地で人と共存する事を望んだモノの一人だったのだろう。


 しかし気にかかったのは、『一昨日』という言葉。低血糖で二日も眠り続けたのは初めての経験だ。


 武が物思いにふけっていると、コンコン、と軽いノック音が聞こえた。その瞬間冥月の気配が消え去り、そして観察室の扉が開く。


 扉の向こうから出てきたのは、夢で見た少女だった。

 金の髪にみどりの瞳、武と同じくらいの背丈、そして気品のある整った顔立ちと、病人用の寝巻の上からも分かる発育の良い体。その美貌に武は一瞬我を忘れた。その間に少女は上半身を起こした武を見てベッドの傍に歩み寄る。


「あの、体の方は大丈夫ですか?」

「……あ、うん。大丈夫みたい――だね。えっと、君は?」

「クリスティーナ・槙原まきはらといいます。クリスと呼んで下さい」

「分かった。僕は坂上武。下の名前で呼んでくれると嬉しいかな」


 クリスが手を差し出してくる。武もそれを握り返し――武の脳内フィルターに引っかかった単語があった。


「……あの、槙原ってもしかしてあの槙原? 血液内科の?」

「あ、はい。娘です」


 血液内科の花形エース、エレン・槙原。吸血鬼ヴァンパイアである彼女は、血液及び造血器官である骨髄に干渉する異能を持ち、白血病を初めとする血液疾患の患者を数多く救ってきた、世界的な有名人だ。


 エレンだけではない。この病院の医療の最前線では、様々な分野で異族が活躍している。二十年前、人間に宣戦布告し、この町の自治権をもぎ取った異族達の武器。それは暴力などではなく、異族の異能を活用した、人間の手では成し得ない医療の提供だった。人間に自らの利用価値を見せつける事で、異族は自身の存在価値を世界に認めさせたのだ。


 以来、異族は誤解や偏見を一つ一つ時間をかけて解消していき、一縷いちるの望みをかけて病院を訪れた人間の病を取り除いてきた。そして異族達の隠れ里であった神木かみきの山村は、病院を中心とした人口十万を越える町へと成長を遂げた。


 そしてその過程で明らかになっていった物の一つに、吸血鬼の生態がある。彼らは夜、その中でも新月の夜に尋常ならざる身体能力を発現し、肉体は最盛期まで成長したところで老化を停止、新陳代謝を繰り返すのみとなる。また彼らにとって、吸血行為とは異性に対する愛情表現であり、生存に必要な物ではない。だが日の光にさらされる限り、彼らは人間とほぼ変わらない。日中車にね飛ばされれば死んでしまうのは当たり前で、決して武の行動は無意味な物ではなかったのだ。


「もう怪我はいいの?」

「大丈夫です。もう全部治っちゃいました」

「えっと、それじゃあクリスが助けたあの子は無事?」

「はい。り傷が出来ただけで済んだそうです」

「そっか……」


 安堵のため息をつく。助けたかった者は助けられた。だから、これから聞くのはその奇跡の代償だ。吸血鬼の能力が聞いた通りの物であるならば、彼女が武の命を繋ぎ止める手段は一つしかない。

「ねえ、クリス。君は吸血鬼なの?」

「……はい」


「それは、僕も?」


 その言葉に、クリスは沈痛な面持ちで頷いた。

 生まれついての吸血鬼は、契約コントラクトと呼ばれる儀式によって他人を吸血鬼に変えるすべを持つという。ただし、契約を同時に複数の相手と交わす事は出来ない。吸血鬼が契約を結ぶ相手とは、永劫えいごうの時を共に生きる伴侶はんりょと同義なのだ。


「僕が人間に戻ることは出来る?」

「……出来ません。契約は対象が死ぬまで続きます」


 しばらくの間、沈黙が場を支配する。やがてうつむいていた顔を上げたクリスと武の視線が合う。その瞳に秘められている強い意志に武がたじろいだ次の瞬間、クリスは武の手を取ると、自分の胸に押し当てた。


「く、クリス!?」

「どうか私に責任を取らせてください。私の命はあなたに救われ、私はあなたから人間であることをうばいました。これから未来永劫、この身に流れる血の誓約せいやくもと、隣に立ちあなたを支え続けます。ですから、どうか――」


 真っ直ぐ武の目を正面から見つめるクリス。そして一瞬の溜めの後、再びその口が開かれる。


「――私と結婚してください!」


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