第7話 イビチャ・オシム、伊東乾、福島瑞穂

週2泊3日の「外泊」が終わり、新小岩のアパートから群馬県伊勢崎市の原病院に帰る。 

群馬に帰る途中身の危険を感じ、新小岩駅でタクシーに乗り換え、東武動物公園駅まで逃げた。道中、村田さんが見てるかなと、facebookに書き込み続けた。

「「我々にはもっと可能性がある」と自分たちを信じる事ができたはずだ。こういうポジティブシンキングに客観性が加わるときに、平常心は生まれる。逆に何も信じるものがなくなったときに、あらゆる可能性が泡となってその姿を消すのだ。私は対戦相手を過小評価すべきだと言っているのではない。決して50:50のゲームではないことを知るべきなのである。「普段通りに試合に入りなさい」「相手側にプレッシャーを与えなさい」「これをしなさい。あれをしなさい」そう言うのは簡単だ。では、平常心を手にするには、どうすればいいのか?最も大事なのは、どのようにして、それを実行するかだろう。      

そしてさらに、それを具現化するには複雑な話になってくる。

私は「自分たちのサッカーをするだけです。相手がどうであろうと関係がありません」という姿勢は好きではない。これは相手を過小評価しているということである。相手をリスペクトしなければならないし、相手が自分たちをどうやって危険な状況に追い詰めてくるのかを知らなければならない。自分のチームに誠実にならなければならないし、相手に対しても誠実になることが不可欠なのだ。     (イビチャ・オシム 考えよ)」

「ランニングとプレーのビルドアップにおいて組織化する訓練も足りてない。計画通りにゲームが進まないと選手はナーバスになって忍耐力を失いがちになる。すぐに作戦に対する技術的アドバイスなども忘れて、ずるずると負け始める。たとえ負けるはずのない状況でも理性を失ってしまうことがある。私なりに日本の歴史を振り返ると、神風特攻隊などが行われた太平洋戦争においては、恐るべき訓練と自己鍛錬を要求されたに違いない。そういうディシプリンは本来、日本人の美徳だったはずだ。 」

「ヨーロッパから日本を訪れた人は、日本がいかにディシプリンを持った国かということに深い感銘を受ける。規律とルールの下に社会が平和に機能している。

しかし、サッカーにおいては、少なからず失望した。

これは日本の教育システムから来る問題なのかもしれない。日本のディシプリン教育は幼少期からスタートしている。ひょっとすると、そのスタートが早すぎて、結果、長い期間、ディシプリン教育を受けることになり反作用が生まれているのかもしれない。

1億人を超す人口を誇る日本では、国としてディシプリンや責任感、ヒエラルキー無しでは生きていくことはできないのかもしれない。だから、いつも常に誰かに意見やアドバイスを求めているように思える。自分で考えることをせずにディシプリンやルールを重視した行動をとってしまっている。その行為は、言い方を変えれば非独立性のサインに他ならない。この問題は、日本の教育や社会、学校の組織にまつわる事項だから簡単に変革を求めることは難しいと理解している。だが、やりようはある。」

「「リスクを負わない者は勝利を手にすることができない」が私の原則論である。リスクとは、負けることによって認識すべきものではない。だが、日本人は、そのようにして生きているように思える。誰もが敗戦を恐れすぎているのだ。かつて東洋の小国だった日本は、太平洋戦争においてハワイを先制攻撃するというリスクを負った。そして何者でもなかった者が、何かになりたいことを望む経験をした。だが、その太平洋戦争において日本は敗戦を味わう。恐らく想像するに、そこが歴史的に日本人のメンタリティの転換期になっているのだろう。リスクを負うということが、日本人にとっては深層的なトラウマになっているのではないか。しかし、何かに勝つためには、リスクや犠牲を負わなければならないのだ。日本代表チームは、リスクを負えるチームである。資質を持っていない者はリスクを負えないが、

なぜ、彼らはそのアドバンテージを有効に活用しないのか。私はいつもそこに疑問を感じている。もう少しのリスクが必要なのだ。それは個人のリスクであってもいい。チーム全体のリスクであってもいい。リスクを負うことによってゲームで敗戦を味わうことより、もっと多くのものを得ることができる。

今回のワールドカップの組み合わせ・・・

世界の基準から見れば予想通りの結果に過ぎない。負けても現在と同じ状況に留まるだけのことである。しかし、もしそこで勝利を得られたならば、それは「自信」というとてつもなく大きな財産になるのだ。まず、負けないためにどうすべきかではなく、勝つためにどうすべきかを考えようではないか。では私が語り続けている、このリスクとは何か?疑問が残るだろう。どんな種類のリスクか?誰に対するリスクか?どの選手にとってのリスクか?誰もが自分のリスクを負うことはできるが、誰も他人のリスクを負うことはできない。これは戦争のようなものだ。誰もが戦場には行けるが、誰かのためには行けないのである。」

「サッカーにおいて責任感の果たす役割は大きい。現代サッカーは責任感に基づいていると言っても過言ではない。責任感のある選手だけが、プレーできるのだ。責任感のない選手、いいかげんな選手、エゴの強すぎる選手ー彼らが成功することは難しいし、ジャージを着る資格がないのかもしれない。私は、これまでインタビューで「日本人はプレーにおける責任感に欠けている。まるで疫病から逃げるようにして責任から遠ざかる」と答えてきた。責任感は日本の学校教育、社会システムと絡まるようにリンクしている。常に上の立場の人間が責任を負うという風習、仕組みがあることが、ピッチ上のプレーにおける責任感というものに少なからず影響を与えている。本来、日本人には責任感がある。責任感の強いプレーが、日本の強みの一つである。しかしながら、この責任感というものを強調しすぎてはいけない。一部の日本人選手たちは、大きすぎる責任のためにリスクを少ししか負わないからだ。責任感の強すぎる選手は、リスクを全く負わなくなるのだ。結局、サッカーであろうと人生の他の分野であろうと、誰もが多くのリスクは負わないのだ。現在では、誰も必要以上のリスクは負わない。そこが私にとって日本人の理解しがたい部分である。なにしろ銀行家でさえリスクを負わないのだから。」

「リスクを負いなさい ただし計算されたリスクを (イビチャ・オシム 」

「コピーはダメだ。コピーはオリジナルには絶対かなわない」

「日本人は「日本人選手がハングリーでない」と解釈するのが、お好きなように見える。

 これは無意識の意識なのかもしれない。生活水準の高さが選手を甘やかしてるということも真実ではある。

 当たり前のように過度なサービスを受け、いちいち満足感に浸る必要すらない。

世界の貧しい国々の選手たちは、成功すれば、貧しさから抜け出しまったく違う天国のような生活を送ることができる。成功を手にすることができなければ、永遠に貧しさから脱出することはできない。試合に出られなければすべてを失う。

だから常に高いレベルを追い求めるのだ。

 しかし、日本では、明日の生活に困るということはない。整備された学校があり、誰でも義務教育を受けることができる豊かな社会である。ハングリーである必要がないのだ。私は何も豊かな生活を批判しているわけではない。素晴らしい社会である。

 サッカーは複雑なゲームであるから、

 サッカーの為にはハングリーな状況を生きるということも学ばねばならないのではないか。

 プロフェッショナルとしてサッカーを職業にすることは、19歳や20歳の青春期にガールフレンドと遊ぶような、楽しく美しいプライベートを放棄することになる。

 これだけの犠牲をしなければ手に入れることのできない何かがサッカーにはある。私は、人生の貴重な1ページと引き換えにサッカーに生きることも悪くないのではないかと考えている。 それこそが人生観なのだ。けれどどうだろう。日本人はサッカーを人生の一部と考えるほどの覚悟があるだろうか。

 私は、ハングリーでなくなったことが、マイナスに働いてしまう事実を、最近、2010年1月のアフリカ選手権で目撃している。」

「私は監督時代、人前で選手を叱ることも褒めることも、なるべく避けようと心掛けていた。

誰を叱ればチームに効果があるのか。私の批判に耐えうることのできる「叱られ役」を戦略的に選ぶことも監督としては大切なのだ。そいて、どんな時も、その選手の為だけの叱咤となってはならない。全員のために言っているという意識を持たなければ、何かを変える叱咤にはつながらない。そして、その叱咤が日本人の「無関心」を変えることになるならば、重大な意味を持つ。」

「誤解を恐れず言うならば、今大会は史上最悪だったという見方もできる。サッカーはバーゲンセールのように自分たちを売り、そしてすべてが崩壊した。多くのチームがディフェンシブにプレーしたが、それは失敗に対する恐怖心が生んだ結果である。監督という職業についているほとんどの人は、心のどこかに守備的な戦術傾向を持っていて、試合に「負けないためのチーム」、「負けないための戦術」を求めた。そして、ほんの僅かな監督だけが、「勝つためのチーム」を追い求めた。」

「何となく覚えてるベルデニックさんのお話ですけど

 日本は社会主義国です 私も旧ユーゴという社会主義国で生きてきたので 日本人の考えてることはよく分かります 個人の責任ではなく集団の責任がクローズアップされるのが社会主義の特徴です 良くも悪くも集団性のルーツはその辺でしょうか まるで自分が集団の中にいれば責任を逃れられるというような 或は集団の中にいれば安全というような 根拠がよく分からない話です 過去に多数の方に付いて行ったからといって安全が保障された歴史でもあるのでしょうか」

「ユーゴスラビアではチトーという男が死んだあと 突然隣近所の人間同士で殺し合いが始まりました 理由はチトーが死んだから 他に理由があるのでしょうか?」

「オシムの話はユーモラスで愉快に聞こえるでしょう ただ、いずれ気付くはずです 彼が生きてきた世界でどんなことが行われて来て なぜ彼が生き残れたのか ちなみに分裂後のユーゴスラビアでは例えばセルビア人とクロアチア人は殺したいほどお互いを憎んでいます ストイコビッチとボバンの仲も最悪です ただ、彼らでもオシムの言う事だけは聞きます つまり、そういうことなのでしょう」

「ちなみに私の記憶が正しければオシムさんはヨーロッパで殆ど本を書いてない筈です ヨーロッパの記者が要請してもなかなか応じなかったそうです まず通訳というものを信用してないんですね オシムさんはドイツ語フランス語など多言語を使えますが英語に関しては一度誤解があったそうであまり使わなくなったそうです ただ、日本では本人の書下ろしだけで4冊以上出てます 翻訳者がどうかは知りませんけど これほど彼が心を許して本を書いた国はないと思います ちなみに全部ブックオフで108円で買いました(笑) 」

「オシムさんが日本にいたのは せいぜい6、7年だと思います 彼がどうやって日本の歴史や文化を学んだのかは知りませんが 一つエピソードを言いますと ワサビ田に興味を持たれて ワサビ農家を訪ねたそうです( ̄∇ ̄*)ゞ」

「ですからと言っては何ですけど 名言集とか余り意味が無い気がするんですよ 何しろ本一冊書いても 誰も何も読んで無い訳ですから だから108円で売ってるんだと思うんですけど」

「で、以前お話したデリダの話になりますけど 彼は 私の記憶が正しければ ユーゴが分裂したあとの状況等を見て 同一化を無理に進めて一気にアイデンティティーが崩壊したあと どうなったかという例え話だったと思うのですね」

「ですから オシムさんとベルデニックさんとデリダの話を照らし合わせると 同じモノを見てても違う切り口で話が見えると思うのですね こういうのもリテラシーかなと解釈してるのですけど」

「で、こういう風に横に繋げると言いますか サッカーに哲学を持ち込んだと言いますと語弊がありますけど まあ、他の監督とは違う切り口で仕事をしてますよね」

「ですからと言いますか ここまでで私のオリジナルの話等何一つ無い訳です 全部本や新聞に書いてあることですよね 記憶が正しければ」

「私は日本代表監督は日本人であることがベストだという持論を持っている。監督は選手たちを理解し選手たちも監督を理解している。そして選手たちのメンタリティをも理解できる。しかし、代表監督とは必ずしも長期的展望で選ぶものではないとも考えている。それは試合の周期にもよるし、監督に何を期待しているかという事情によっても変わってくる。

では、誰が日本次期代表監督としてふさわしいのか?誰がこれを継続していけるかという疑問がでてくるだろう。私は理論的に岡田監督と同じスタイルと考えを持つ監督であるべきだと考える。次の新しい監督は、前監督の経験を継承して同じ道を辿り続けるのだ。これが日本サッカー協会のポリティクスだ。彼らは、すでにこういうことはわかっている。そして、南アフリカワールドカップ以降に、日本代表に必要な監督像を語るならば、物事を現代的に見ることができ、大志を持ち、選手とのコミュニケーションがうまく取れ、メディアにとってカリスマ性があり、そして信用できる人間となる。(2010年4月 イビチャ・オシム」

「ザッケローニの日本代表監督就任のニュースには多少の驚きがあった。私が聞いていた情報では、突然の方向転換だったからだ。日本は何人かの外国人監督と交渉をしていたようだ。日々の新聞は、監督問題の進展を報じる多くの物語であふれ、多くの名前が浮上し、ファンは、テレビの伝えるニュースを注視していた。そういう状況に終止符を打ち、ザッケローニ就任に話題を集めたことで、ひとつのゴールが、すでに達成されたとも言える。サッカー界において著名な監督を招いたことで、今後、テレビは視聴率を稼ぐことができ、新聞は部数を増やし、日本代表も、さらに進歩する可能性を得たのだろう。」

「代表監督交渉の過程において、日本には、一本芯の通った「ぶれない指針」がなかったように感じる。新監督に望むものは何か。どういう日本代表を作りたいのかというビジョンが見えにくかった。日本は、これまで代表の指導者をドイツ、オランダ、ブラジル、フランス、旧ユーゴから招いてきた。イタリア人は、これまでの歴史にはない、まったく新しい形である。おそらく、ザッケローニを連れてきた人々は、自分たちが抱えている武器庫に、イタリア人がいたことを示したかったのだろう。そして彼らは、いつの日にか、ロシアやスペインからも監督を迎えるに違いない。何れにしろ、それらは、ごまかしのような単なる監督の取り換えである。

なぜ、JFAが、新しい代表監督を探すことを決めたのか。その理由は、私以上に、JFAが最もよく知っているだろう。(2010年10月 イビチャ・オシム」

「メディアは人々の考えに恐ろしいほど大きな影響を持っている。例えば、サポーターが試合に訪れ、あるいはテレビで試合を見たとする。その時点では、その試合の内容、結果に関して千差万別の考え方を持つものである。しかし、翌日になって新聞を読み、テレビを見る。すると、自分の考えよりも、新聞記者やテレビ上の人物が考えるようなことが正しいと思ってしまうのだ。なぜなら、サポーターはプロフェッショナルではないからである。彼らはこのように思うだろう。「テレビで働き、文章を書くからには、この人物はプロフェッショナルだ。つまり、サッカーに関することは私たちより彼の方が知っているはずだ」そうして、自分の考え方を彼の考え方へとすり替えてしまう。意味を考えることもなく、彼はプロフェッショナルであるだろうという無意識の推測から、そのようにしてしまうのだ。実際にはサポーターの考え方のほうが正しいかも知れない。なぜならば、ジャーナリストでも、必要であるべき事柄を書けるほど精通していない可能性も充分あるからだ。しかし、多くの人は惰性に流されてしまう。つまり、自分自身の考えを持つことよりも、書かれたものやテレビで話されたことを信じる方が楽なのである。これはサッカーだけの話ではない(2007年6月 イビチャ・オシム」

「メディアに関して、私が最も危惧するのはジャーナリストが政治に向かうことである。ある政治家たちにとって戦争が必要ならば、彼らは新聞やテレビを通して見るもの全てを信用し始めてしまう。サッカーですら戦争のタネになる。残念ながら、旧ユーゴスラビアでは新聞やテレビを通して戦争が始まった。民衆にとって良い情報を一方的に削除し、政治家が自分に都合のいいことだけを並べて、国民に火を点けるのは簡単なことである。その瞬間に国民は狂い出すのだ。話が多少ずれたが、私が心からお願いしたいのはこれだけだ。「ジャーナリストもプロフェッショナルであれ」(2007年6月 イビチャ・オシム」

「その点、日本人の場合は、つまり自分たちの知らない外部の世界に対するおそれ、できることなら関わらないで済ませたいという、ごく人間的な感情から発するものです。一言で言えば、世間知らず。でもヨーロッパの差別に見られるような偏見や先入観はない。居酒屋で外国人の私に失礼な物言いをするおじさんでも、30分も話していればすぐ打ち解けて分かり合える。根を持たない。(フローラン・ダバディー タンポポの国の中の私」

「大事なことは、企業も家族も支えられず、社会保険なども使えないとき、人が生きていくためには生活保護しかない、という現実である。(湯浅誠 貧困襲来」

「やはり16、17歳の、尾崎豊演じるところの不良高校生みたいなトリスタンも

 まさに自殺行為です。王への忠誠と恋愛、二つの矛盾する気持ちの中で、若いトリスタンはイゾルデとの心中に心惹かれてしまう。21世紀の日本でも起こりうる、実に危険な心理状態で、まったくお上品なきれいごとではありません。(伊東乾 指揮者の仕事術」

「おはようございます まあ病院ですることも無いので 伊東先生の本などで勉強しています」

「工場の例で考えるなら、優れた社長さんが必ずしも職人としても優秀だとは限らないと思います。指揮者で言うなら、必ずしもバイオリンやフルートの名手が指揮台に立つとは限りません。おのおの個別の技能については、職人さんの技の方が明らかに勝っているはずです。指揮者に求められる仕事は、各々の名匠の下手な真似をすることではなく、名匠の力をフルに発揮できるように全体状況を整えることです。(伊東乾」

「他の先進国と比べても、本当に日本は、殺人が少ないのですね。人を殺すのはもちろん良くないけれど、実はうつ病になるか自殺をしてるのじゃないかと思うのですね。つまり他殺か自殺かの現象は違うけれども、自殺のような他殺が増えているような気がします。向いている方向が、自分に向かうか他人に向かうかの話で、どうしようもなさというのは変わりません。人を傷つけたくはないから、自分を殺すかうつ病になるかというように、内に向かっていると思います。(福島瑞穂」

「自傷と他害は背中合わせです。他害に走らず自傷だったから良かったという話ではありません。孤立とか貧困の問題に絡んできます。厳罰化で済まそうというのは、「明後日の方向」へ向かうようなものです。そういう問題解決の方向しか見えないのだとすると、貧しい発想だということになってしまうのですね。(湯浅誠」

「日本にノーベル賞が来る理由は期待です。先進国から途上国まで、全世界が日本のこうした働きを心待ちにしています。食糧も自給できない国が「一人勝ち」で孤立することにどんな未来があるのでしょう?(伊東乾」

「今問題の所在が明確になるよう、あえて国際紛争に例を求めましたが、アメリカ人も、イラク人も、アフガニスタン人も、日本人も、同じ人間という生物であることに、一切の変わりはありません。「絶対の正義」を振りかざすとき、人間は必ずどこかに死角を作ってしまいます。特にそうした「正義」を振りかざして暴力を振るうとき、あとで冷静に検討すれば、明らかに誤りだったと指摘される事柄を、人は避けることが出来ません。逆に、いつ、いかなる状況下でも正しい「絶対の正義」に基づいて振るわれる暴力ほど、悪質なものはありません。(伊東乾」

「「ひょっとして俺は本当に立派な医者なのかも知れない」「そうか、俺は聖医だったのか」「可能性への挑戦」「最善の努力」「つまり、馬鹿が薬やメスを振り回してしまうことになる」「死の床で、感動させる役は死ぬ側の人間であるはず」「そもそも医者にそんな聖職者のような役割を担わすのは本当に正しいことなのだろうか。医療技術者であって、しかも魂も救う。医者が魂まで救ってしまうと、神様も仏様もやることがなくなってしまうではないか」(永井明 ぼくが医者をやめた理由 」

「伊東先生の本は4冊しか持って来てないんですから しかも読み始めたのはごく最近ですからね そんなに色々要求されても無理ですよ 色んなことを咀嚼する時間が必要です どう考えても」

「エドシーランはPVが好きなんです こういうのを残虐だから虚血で思考停止状態になると解釈されるのかも知れませんけど こういうのを正視できない人間は裸足のゲンも正視できないでしょうし原爆の直後にパニックになって合理的な判断ができないのではないでしょうか これよく見るとシーラン自身がちょこちょこ出たりしてユーモラスなんです これはね フランス映画や北野武の映画のようにブラックユーモアだと思うんですね ですから人によるでしょうけど 私は芸術性を感じるんですね」

「ですから エドシーランもそうなんですけど まあ歌詞が聞き取りにくいですね 別に他の英語の歌でも日本語の歌でも 大抵は歌詞カードを見ないと まあ何を言ってるか分かりません ですから私がレイジアゲンストマシンが好きではないのもそこなんです 白人ラップとか奇を衒い過ぎて不愉快なだけなんです」

「その点オアシスは誰でも分かる単語や文法で覚え易いし聞き取り易いですよね オーディエンスはノリノリで歌ってますよね ただよく歌詞を読むとですね」

「例えばwonderwallとかですね wonderwallって何ですか?私のレベルでは聞いたことのない英語なんですけど and after allって言ってますから結論ですよね you are my wonderwallとか wonderwallって何ですか?」

「whateverもですね 俺は何でもできる お前も何でもできる 何でもありなんだ 自由なんだっていう感じの歌詞ですけど ブリッジの部分で 全部妄想だ 早く夢から醒めろって言ってますよね?こういう一言で全部台無しにするっていうか サビとブリッジで言ってること全然違うじゃねえかっていう(笑) こういうことを確信犯的にノエルはやっていると思うんですよ で、よく読むと歌詞もファッションも最初からメッセージが極めて政治的なんですね で、曲はキャッチーで歌詞も覚え易いから凄く売れたんだと思うんです(笑) これを全部狙ってやってたとしたら ノエルはとんでもない奴ですよね(笑) 」

「で、オアシスが解散したあと 何も変わらずノエルのピンでやっているんですけど まあ何でしょう 深夜のフジテレビで 多分視聴率2%ぐらいの時間帯にdon't look back in angerのアコースティックバージョンを生放送でやっているんですよ 多分他の国ではやってないと思うんですけど 前と後ろをジャニーズとYUIとかに挟まれながら で、後ろでマラカス振ってるのは多分リアムですよね まあ私の仮説が正しければ 世界中で鼻摘み者になって当然っていう凄いユーモアだと思うんですね」

「で、YouTubeでオアシスの曲を検索すると 殆んど広告なんか掛かってないんですね これじゃあ 広告料を取って曲とか配信してるYouTuberはまずノエルより面白いコンテンツじゃないと広告料すら取れない訳です つまりノエルが無料で配信してハードルを無茶苦茶上げてるんですね これじゃもう商売もヘッタクレもないですよね」

「父は1955年、なんとか脊椎カリエスを克服して大学に戻り、新制の経済学部を卒業した。当然ながら学者にはなれず、周回遅れの新人としてサラリーマンになった。当時の上司から父の没後に聞いたところでは「伊東君は30を過ぎてからの入社であったが新卒のごとく誠実に業務に精励した」そうだ。ハゲだった父は、さぞトウの立った新人だったろう。毎年8月になるとテレビなどが「戦争は多くの人の人生を狂わせた」と放送する。だが、大所高所からの表現は、人間の真実の何ほども伝えない。等身大の生活の断片だけが、痛みを伴って本当のことを伝える。大正末期に生まれ、戦争によって人生を破壊され、寝たきりの闘病生活を数年送った父と母が、縁があって知り合い、不器用な交際を3、4年続け、40で結婚して生まれたのが私の出自だ。(伊東乾 」

「先ほどお兄さんが障害者で、家にボランティアがたくさん来ていたと言っていましたが、家の中にたくさんのボランティアを招き入れるのは、ご両親が開放的でリベラルな面があったからではないですか?(福島瑞穂」

「だと思います。親父は日本経済新聞の正社員でした。記者ではなく裏方でした。いろいろあったようですが、親父は兄貴のために転勤をしなかったので、出世コースから完全に外れていました。兄貴を介した屈折があったんだと思います。地元では、駅にエレベーターをつける運動に取り組んだりして、革新系議員の世話になる訳ですから、選挙の投票は当時の社会党共産党に入れていました。おふくろは小学校の先生でしたから、典型的な中の上くらいの家庭でした。それなのにこうなったのは、いろいろな屈折が反映してると思います。(湯浅誠 」

「私の父は1ヶ月前(2008年12月末)に亡くなったのですが、まじめな地方の銀行員でした。保坂展人さんのお父さんはNHKの職員でドラマの時代考証をやっています。それもまた面白いのですが、リベラルなところで育ったのだと思います。湯浅さんの場合は、お兄さんの存在は大きいかも知れないですね。(福島瑞穂 」

「小さい頃から、兄貴を迎えに養護学校へ行ったりしていました。毎年夏休みになると、二泊三日の障害者向けの団体旅行に行って、身近にそういう人たちと接していました。だから、野宿の人に対しても、「変な人」「近寄りたくない」という意識にはならない。(湯浅誠 」

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