11・空戦

 コックピット側のAORのロックが開けられた。

 谷垣が、袖口に血がついたスクラブを脱ぎながら通路に顔を出す。その下は空自のデジタル迷彩服を着たままだ。

「中野さん、手術終了。容態は安定していますが、鎮静剤を強めにして眠ってもらってます。次、どうしましょう?」

 手術が終わった時点で、作戦行動を決める資格は看護官から消えている。この先どう行動するかの選択は、現段階で最高位の中野が担うことになる。

 中野もそれを自覚していた。

「患者さん2人と鬼嶋機長をAORのベッドに固定して。長谷川を排除できれば、激しく揺れる操縦をすることになるから。それが済んだら、コックピットを奪還するよ」

 中野は、機長の死体を背後から抱えて後退りながらAORのドアを越える。

 谷垣が手を貸す。鬼嶋の死体をベッドに横たえ、固定する。

 それが終わると、中野は鬼嶋の首から認識票を外した。それを握りしめて、祈るようにつぶやく。

「機長、しばらくお借りします。わたしをパイロットにした責任、取ってもらいますから。力を貸してくださいね……」

 そして、認識票を自分の首にかけた。

 キャビン側のドアが開き、灘が入ってくる。

 その後ろについてきた由香里が、窮屈な室内で身をよじりながら圭子に近づく。

「おばあちゃん!」

 AORの空間がさらに狭くなる。

 森が言った。

「薬で眠ってるだけです。大病院レベルの治療を無事に終えましたから、緊急事態は完全に脱しました」

「ありがとうございます!」

 そして由香里は、圭子の足下に腰を下ろして手を握った。

 中野が由香里に言う。

「怖い思いばかりさせてごめんねさいね。でもまだわたしたちは安全じゃない。この先しばらくドタバタするけど、おばあちゃんのそばにいてあげてね」

「はい。でも……」その目がベッドの機長に向かう。「え? 本当に……死んでるんですよね……」

「怖いかもしれないけど、ここにいてもらうしかないの。我慢してね」

 由香里の表情からは怯えが消えない。

「でも……。やっぱり撃墜されちゃうんですか……?」

 中野は、気休めを言う気はなかった。回避するアイデアは進行しているものの、成功する確率は極めて低い。数10分後に仲間に撃たれて命を失うという最悪のエンディングは、反故になったわけではない。

「生き残るために最善を尽くします。自衛隊は国民を守るためにあります。救える道があるのなら、決して諦めません」

「お願いします……あたしたちを助けてください」

 中野は由香里の目を見つめてしっかりうなずいた。そして、谷垣に命じる。

「手術が終わったばかりで悪いけど、あなたにはたっぷり働いてもらうわよ」

「当然です。売り出し中の筋肉系ですから」

「まず、山下をキャビンに連れてって爆弾の前のシートに縛り付けて。絶対に逃げられないようにね」

 山下が通路からAORを覗き込み、不満そうにつぶやく。

「狭いな……なんでこんな場所に集まる?」

 中野が振り返る。

「手術が終わったばかりだから仕方ないでしょう!」

「誰か、俺の肩を直してくれないか? 痛くて仕方ねえ」

 中野が振り返って、いきなり山下の腕を掴んだ。

「うるさいな!」

「何しやがる⁉」

 中野は山下の腕を軽く捻った。

「治れば誰でもいいんだろう」

「は? 何を……あれ? 治ってるな……」

「ただの脱臼だ。柔道やってりゃ、戻し方も知ってる」

「お前、そんなことまで……?」

「それより、逆らうんじゃないわよ。あんたの拳銃、今はこっちにあるんだから」

「信用されねえのは当然だがな……。寝返ったんだし、上に交渉してくれるんじゃねえのか?」

「それは、これ以上邪魔しなければの話。あの爆弾を持ち込んだのはあんただからね。万一爆発するときは、確実に責任を取ってもらわないと」

 谷垣が拘束ベルトを握る。中野と位置を代わった山下の腕を掴み、キャビンへ引っ張っていく。

 森が手術用のラテックス手袋を外しながら、中野に言った。

「私も何か手伝えないか?」

「お願いしたいことがあります。AORの中から山下を見張って、もしも逃げるようなことがあったらドアを閉めてロックしてください」

「分かった。でも、それだけでいいのか?」

「闘うのは、自衛官の役目ですから」そして灘を見る。「長谷川にすぐ鎮静剤を打てるように、準備しておいて。それと、この中に武器になるようなものはないかな?」

「拳銃の他に?」

「拳銃は谷垣君が持つべきね。でも、長谷川も銃を持ってる。こんなに狭い場所で撃ち合いなんかしたくないし……。麻酔ガスみたいなものはないかしら?」

「ガスといえば、これぐらいですが……」

 灘がロータブレーター用のガスボンベを示す。高さ50センチほどの小ぶりな大きさだ。

「中身は?」

「窒素ガス。ガスタービン用です」

 中野がニヤリと笑う。

「それ、冷たいんでしょう?」

「まともに浴びれば、運が良くても凍傷ですね」

「コックピットに吹き付けられるようにできる? ホースは、わたしが使う。恥ずかしいけど、ピストル、苦手なんだ」

 灘がボンベを乗せたキャスターをベッドの下から引き出し、アドバンサーにつながっていたホースを外す。

「自分がバルブを操作します。撃たれているんで、荒事は勘弁してください」

 しかし中野は、灘の声からなぜか生気が消えていることにまで気が回らなかった。

 灘は機長の真上に補助ベッドをセッティングし、二段ベッドのような形にする。谷垣とともに望月を運び、ベッドに持ち上げて固定した。望月は拉致された経緯を証言した後に再び鎮静剤を打たれ、昏睡状態に陥っている。

 その間2人は、無言だった。

 と、灘が再び窒素ボンベを持ち上げる。

 谷垣が、灘を見つめた。

 灘の緩慢な態度に不自然さを感じたのだ。深刻な考え事をしているようだ。

 灘は、ずっしりと重みがあるボンベを抱えながら、開け放したAORのドアを跨いで立ち尽くしていた。何かに迷っているようだ。

 谷垣が見つめる。

「灘さん、どうかしましたか?」

 返事はない。

 中野も、灘の不審な態度に気づく。

「灘さん? 大丈夫?」

 灘ははっと顔を上げた。

「大丈夫……って、何が?」

「なんか、上の空みたいで……。コックピット奪還、できますよね?」

 灘の目に意志が戻る。そして中野に質問を返した。

「確認したいんですけど……この機体、攻撃されるんですよね?」

「だから一刻も早く――」

「北朝鮮のウイルス兵器が機内に充満してるからですよね?」

 中野も灘の態度に明らかな異常を認めた。度重なるストレスで精神的に追い詰められているようだ。だが、どう答えていいか分からない。

 谷垣が灘の肩に手を置く。

「灘さん……どうしました? 疲れたのは分かりますけど、まだ気は抜けません。今は考え事より、行動が――」

 灘は谷垣の目を見返した。その目はもう、迷っていない。

「考えなければならないのは、お前だ。日本にパンデミックを起こさせるわけにはいかない。何があろうと、絶対に。その可能性があるなら、確実に防ぐべきだ。医療に関わっている者なら理解できるだろう?」

「俺もさっきそう言ったでしょう?」

「違う。自分は、〝絶対に〟と言っている。100パーセント、確実にだ。この機を攻撃するということは、それが国の意思でもあるということだ。異論を挟む余地はない」

 谷垣は灘の目に、決意を見た。何かを覚悟している……。

「なんで急にそんなことを……」

 灘は息を整えてから、淡々と言った。

「さっき意識を戻させた時……望月さんの足に膿疱が現れていた。明らかに天然痘の初期段階だ。文献でしか見たことはないが、疑いようはない。これまでの天然痘なら、1週間以上の潜伏期間があるはずだ。ウイルスが遺伝子操作されている結果だと思う」

 灘の言葉には抑揚が欠けていた。思い詰めている様子だ。

 谷垣は、そこに危険を予感した。

「灘さん……何を考えてるんですか……?」

「放置はできない。絶対に」

「ですが、熱傷のせいで免疫機能が低下して発症が早まっただけかもしれないし……」

「だとしても、未知のウイルスは天然痘で間違いないだろう。この機体は、本土に入れてはならない。近づけてもならない」

「だからそのために――」

「確実に、止めるのが自分の役目だ。この機体を飛ばし続けるわけにはいかない……抵抗には協力できない……」

 谷垣はついに恐れを口にした。

「自爆すると……?」

「キャビンには爆弾がある」

「ダメだ! 早まるな!」

 しかし灘は谷垣を肩で突き飛ばし、身を翻してキャビンに突入する。爆弾の上に振り下ろそうと、ボンベを掲げる。

 激しい衝撃を与えれば、おそらく振動センサーが作動する……。

 谷垣は壁を腕で思い切り押し、反動で後を追う。背後から灘に飛びかかった。

 ボンベが振り下ろされて、鈍い衝撃音がキャビンを満たす。しかしボンベが打ち付けたのは、爆弾の10センチ先の床だった。跳ね上がったボンベが灘の手を離れ、床に転がる。灘が、前のめりに倒れる。

 谷垣は灘の背中に覆いかぶさって床に押し付けた。

「早まらないで!」

 灘が暴れる。

「お前こそ、ためらうな!」

「俺たちだって助かる可能性はあるんだ!」

「本土にウイルスが入ったら日本は滅びるぞ!」

「そうと決まったわけじゃない!」

「自分らは死んだっていい!」

 灘の突然の行動に、皆は呆然と言葉を失っていた。

 と、AORから由香里が叫ぶ。

「おばあちゃんを殺さないで!」

 その声で、灘が動きを止めた。

 谷垣が力を緩め、ささやく。

「俺に助手をさせたのは灘さんだ。おばあちゃん、助けたかったんでしょう? せっかく手術が成功したのに、台無しにするんですか?」

 灘は嗚咽するように声を絞り出す。

「だが、どうせ撃墜される……」

「コックピットを奪還できれば、母島に戻ることもできます! 設備は貧弱ですけど、望月さんもそこで治療すればいい!」

「島の住人まで危険に晒すのか⁉ 母島に感染が広がっている確証はない! 工作員を発症前に隔離できれば、止められるかもしれない!」

「島にウイルスが入ったことは確認されています!」

「今ならまだ感染力はないかもしれない! だが機内では発症が始まっている! この危険は見過ごせない!」

「そうかもしれない。でも最後まで生き延びる方法を考えたっていいじゃないですか。民間人を守るのが俺らの仕事です。任務を全うしましょうよ」

「自分らは全員、ウイルス兵器に感染してるんだぞ。死ぬしかないじゃないか……」

「だから、どうせ撃墜されるんですって。ウイルス兵器のパンデミックなんて、自衛隊が許すはずがないでしょう? 結果は決まってるんです。でも、まだ少しだけ、時間はある。やるだけのことはやらないとね。まずは、コックピットの奪還です」

 我に返った中野も言い添える。

「そうよ、わたしたちの作戦はちゃんと進んでるんだから――」

 不意に、灘の言葉に力が戻る。

「いや、ダメだ! 自爆するんだ! そんな当てにならない方法には頼れない! 発症が確認された以上、パンデミックは確実な方法で防がなくちゃならない!」

「諦めないで! 待ってる奥さんだっているんでしょう⁉」

「だからパンデミックが――」

「もちろん、防ぐわ! だけど、家族も大事にしなさい!」

 灘は、中野の命令口調に反発するように叫んだ。

「あいつとはとっくに別れているんだよ! だから自衛隊に逃げ込んだんだ!」

 中野は二の句が継げない。

 谷垣は悟った。

 灘は、とっくに人生を諦めていたのだ。灘にとっての自衛隊は、人生の荒波から身を守るためのシェルターのようなものだったらしい。感染拡大を防ごうとしていることは間違いないとしても、その根底には破滅願望が潜んでいるのかもしれない。今もまた、理屈をつけて現実から逃避しようとしているなら……。

 谷垣は不意に怒りに囚われた。

「あんたが死ぬのは勝手だ! だがみんなを巻き添えにはさせない!」

「どうせ生きて帰れない!」

「だから足掻くんだろうが! 最後は殺されるなら、急ぐ必要はない。やれることは全部試してから殺されるなら、仕方ないですから。それでもまだ、俺たちの邪魔をしますか⁉」

 灘は心の奥に押し込めていた気持ちを言葉に出して、幾分か落ち着きを取り戻したようだった。声の荒々しさが弱まる。

「何をやっても無駄だろうが……」

「そうと決まったわけじゃない。パンデミックは止めます。その上で、この機内の民間人も救いたい。それが衛生隊の任務で、最後まで投げ出しちゃいけない役目です」

「そんなことは分かってるさ……」

「分かってないから、こんなバカなことやらかしたんでしょう⁉ まだ抵抗するなら、拘束しなくちゃならない。ただでさえ人手が欲しいのに、そんな手間をかけさせないでください!」

 灘の声が和らぐ。

「お前……死にたくなくて言ってるんじゃないだろうな?」

「事に臨んでは危険を顧みず――それが、自衛官です。そもそも、戦闘機からは逃げ切れません」

 灘は長い溜息を漏らしてから言った。

「分かった。約束しよう……もうこんな真似はしない」

 灘が理性を取り戻したことを感じて、谷垣が立ち上がる。

 灘もゆっくりと起き上がった。

 谷垣がボンベを取った。

「これ、俺が持ちますから」

 そして彼らはAORに戻った。

 由香里が、怯えたように灘を見る。

 灘は引きつった笑みを浮かべて、言った。

「怖い思いをさせてしまったね。すまない……」

 中野がうなずく。

「もうやめてくださいよ。わたしたち、文字通り一蓮托生なんだから」

「反省している。だが、分かって欲しい……」

「大丈夫。本土には絶対に入りませんから。コックピットが取り返せなければ抵抗する方法もないんだし」

 そして中野は機体の奪還計画を説明し、作戦を開始した。

 谷垣が灘の耳元にささやく。

「望月さんから証言を取っていただいて、ありがとうございます。実力行使、すみませんでした」

「謝るのは自分だ。みんなを怖がらせて、馬鹿な真似をしたと思う」

「パンデミックを防ぐためです。分かってもらえますよ」

「自分は、心が弱い……。痛感するよ」

「弱いのは、みんなです。だからこうして、力を合わせる」

「自分に荒事をこなせるかどうか分からん……」

「俺がカバーしますって」

 AOR前の通路に、中野、灘、谷垣が並ぶ。スライドドアを閉めて皆が配置に付く。

 コックピットのドアに、ホースを握った中野が近づく。再びヘルメットをかぶっていた。谷垣が、AOR側のシステムをつなげていたのだ。

 その後ろに灘がしゃがみ、窒素のボンベを抱えている。さらに後ろで、谷垣が拳銃を構えていた。

 中野は正面の補助シートを跳ねあげて、ドアが全開にできるようにした。そして、叫ぶ。

「長谷川! 出てこい!」

 長谷川は、通路の気配を察してドアに近づいていたようだ。意外に大きな声で答える。

『出たところで何が変わる⁉』

「出なければ、進路はこのままだ。F2の的になるだけだぞ」

『自衛隊は仲間を撃ったりはしないさ……』

「そう思うのは勝手だ。だが、私たちの無線は傍受していたんじゃないのか? 他の工作員からも情報を得ているんだろう? だったら分かるはずだ。貴様の――いや、北朝鮮のテロ計画はすでに瓦解した。貴様が死のうが生きようが、もはや北朝鮮にとってはどうでもいいことだ。だったら、生きろ」

 長谷川はコックピットで孤立して、計画の破綻に打ちのめされていたのだろう。返事には、力がない。

『なんでだよ……なんでこんなに早く、計画が暴かれたんだ……?』

 それは、心の底から発せられた悲痛なうめきに思えた。

 長谷川の疑問は、中野の疑問でもあった。

 母島を発ってからまだ2時間ほどしか経過していない。その短い間に、北朝鮮が総力を振り絞ったであろうテロ計画が暴かれ、封じられ、葬られようとしている。生物テロを予見していただけではなく、あらかじめウイルスを検出するセンサーまで母島に持ち込んでいたという。水面下で対抗策を進めていたのだ。

 そして、母島まで便乗してきた浮ついたカップルを思い出す。

 彼らなのだ……。

 彼らこそが、統幕が言っていたエコーという〝組織〟――テロ情報を収集し、対抗策を練り、阻止を指揮する中核だったのだ。不釣り合いな容姿は偽装だと見抜いた機長の読みは、正確だった。

 中野は、日本にそのような防御機構があったことに心から安堵した。

 しかし今は逆に、その組織に命を脅かされている。生物兵器の〝運び屋〟にされるよりは死を選ぶ方が耐えやすいのは、自衛官として当然だ。とはいえ、民間人まで巻き添えにするのは心苦しい。

 できることなら、自衛隊が民間人を殺したという汚名は残したくはない。そのために全力を尽くすことが、唯一中野に許された行動だった。

 中野は言った。

「出てこい」

『だから、出たところでなんになる?』

「本土以外の着陸地を探す。完全に隔離できる場所さえあれば、撃墜する必要はない。お前も生きられる」

『生きる? 首領様の理念を裏切ってまで、生きる意味はない』

「そうか? 北朝鮮は何度も日本に牙をむいてきた。民間人を拉致し、弾道ミサイルを放ち、暗号通貨を奪い……その度に人々は恐怖を味わい、怒りを口にし――それでも時が過ぎれば、日本はまた元の能天気な平和主義に立ち戻ってきた。確かに、これまではそんな国だった。だが、今回は別だ。生物兵器まで持ち出してきたことが明るみに出れば、国民は心の底から恐怖し、激怒する。遠い国の出来事ではなく、自分や家族が確実に巻き込まれる災害だからな。しかも世界は、パンデミックの恐怖を嫌というほど味わった。二度とあのような悲劇を起こさせてはならない。だから日本政府は、パニックを恐れずに事実を公表すると決意した。当然、アメリカを主体にした連合軍が、平壌を更地にするだろう。北朝鮮はこの世から消える」

 長谷川が叫ぶ。

『その前に祖国は全てのミサイルを発射するだろう!』

「アメリカは、ミサイル発射基地を把握している。使用可能な小型核もとっくに配備を終えている。総攻撃が行われるときは、すでに基地は廃墟になっている。かの国と貴様の祖国と戦力差は、お前もよく知っているだろう?」

『そんなわけはない!』

 中野は冷静に語りかけた。

「日本は、北朝鮮が消えたところで困りはしない。それでも、パニックは防げない。世界経済も予測不能の変調に見舞われるだろう。政府も自衛隊もそのような事態は望まない。お前がおとなしく機体の制御を明け渡せば、わたしが政府と交渉しよう。離れ小島に着陸してウイルスを無効化できるまで隔離させればいい。事件を公にしないことを約束させよう。北朝鮮は、世界から非難されることもなく、これからも存在し続ける。これだけが、お前の祖国を守る方法だ」

『たかが下っ端自衛官に、そんな交渉ができるものか!』

「だが、交渉しなければ北朝鮮は滅びる」

『うるさい! 首領様の意思は絶対だ! 私は首領様に命を捧げたのだ!』

「国を滅ぼすことが首領の願いなのか⁉」

『私は……』

「もうすぐF2が到着するだろう。決断できるのは、今しかない!」

 と同時に、機内にくぐもった爆音が響いた。同時に、機体がわずかに揺らぐ。中野にはそれが、F2のエンジン音であることがすぐに分かった。2機編隊に挟まれたようだ。

 コックピットからなら、間違いなくその機体が目視できたはずだ。

 中野のヘルメットに戦闘機からの通信が入る。今は統幕もAORの回線をメインに使用している。

『中野一尉。応答せよ』

「こちら中野。誰か? 送れ」

 無線の声は苦渋に満ちていた。

『所属や指名は名乗るなという命令だ。撃墜を命じられている。そちらの状況に変化はないか? 送れ』

「その声、山崎君⁉」

 山崎は、訓練生時代に中野を支えた隊員だった。唯一結婚を考えた相手だ。

『バカ、名前を言うな! これからお前を落とそうとしてるんだぞ!』

「もうちょっと待って。10分ぐらいで事態を変えられるかもしれない。コックピットの中の長谷川をビビらせてくれないかな」

 と、再び機内が轟音に包まれる。風防の真正面を2機で掠めたのだろう。

 と、ドアの奥で物音がした。ロックを外したのだ。

 長谷川が叫ぶ。

『今出る! 何もするなよ!』

 さすがに、戦闘機の巨体を間近に見せつけられて心が折れたようだった。

 ドアがわずかに開き、銃が突き出される。

 中野は叫んだ。

「バルブ!」

 同時に、灘がボンベのバルブを開く。

 中野がホースをドアの隙間に突っ込む。ホースから吹き出す冷気が通路にも広がる。窒素ガスを浴びた長谷川が獣じみた叫びをあげる。

 中野は拳銃を掴み、銃口を上に向けて奪い取った。

 灘がガスを止め、口にくわえていた注射器のキャップを外す。中野を押しのけるようにしてコックピットに突入し、長谷川の腕に突き立てる。そして、通路に引きずり出す。

 すべて、計画通りだった。

 中野が長谷川の背中を踏みつけてコックピットに入る。操縦席に滑り込んでベルトを締めると、自らを鼓舞するように叫ぶ。

「アイ・ハブ・コントロール!」そして、マイクに叫ぶ。「こちら中野。長谷川を無力化した! 操縦を取り戻した。攻撃の中止を要請する!」

 返事はしばらく返ってこなかった。

『中野……すまない。撃墜は、決定事項なんだ。日本を危機に陥れるわけにはいかない』

「バカな⁉ 民間人だっているのよ!」

『命令ははっきりしている。お前の機を首都圏には入れられない……』

「何がなんでも落とす気なの⁉」

『それが、米軍と協議した結果だ』

「離島に降りれば、パンデミックは防げる!」

『あちらさん、譲る気は一切ない。俺らがやらなければ、米軍が出てくる』

「だからって、山崎がやらなくたって……」

『志願したんだよ! お前は仲間だ。俺が認めた女だ。だから痛みは、俺が一生抱えていく。死ぬまで……』

 中野の目に涙がにじむ。

「何言ってるのよ……」

 山崎も声を詰まらせていた。

『お前を殺さなければならないなら、他の奴になんかやらせない……。やらせてたまるか……』

「やめて、そんなの!」

 山崎は絞り出すようにつぶやく。

『相手は戦争慣れしたアメリカ人だぞ……。人殺しにだって苦痛を感じない奴もいる。撃墜だって、命令に従うだけだ。生身の人間が乗ってると分かっていたって、引き金を引く。それを気に病むかどうかさえ、分かったもんじゃない。たとえその日は苦しんだとしても、明日は忘れる。明日じゃなくても、いつかは忘れる。俺なら、忘れない。死ぬまで忘れない。忘れられない。だから、俺じゃなければダメなんだ……』

「そんなもん、邪魔になるだけよ!」

『忘れられたら、お前は消える。俺は絶対、お前を消さない!』

 中野は、おどけたような涙声でつぶやく。

「何よ、それ……今さら、愛の告白?」

 だが、返信は真剣だ。

『だったらまずいか?』

 中野の笑みが引きつる。

「別の女とさっさと結婚しちゃえばよかったのに……」

『相手はとっくに選んでる。お前以外にいない』

「でも、殺すんでしょう……?」

『すまない』

 中野は三度、深呼吸を繰り返した。そして、覚悟を決めた。

「いいわ。だったらわたしも抵抗する。せめて、逃げ回ってみせる。練習機じゃ、わたしの方が腕が上だったんだから!」

『無駄なことはやめてくれ! こっちはファイターなんだぞ!』

 2機のF2が、コックピットを挟むように飛行している。操縦席のパイロットの顔が、はっきりと目視できる距離だ。

 中野は振り返って叫んだ。

「始めるよ! 準備は⁉」

 通路から谷垣の声が返る。

「全員ベルトをした! だが、あまり派手に暴れないで! 爆弾があるんだから!」

「そんなの、やってみないと分かんない! あっちは手加減しない気よ! 爆発する前に撃墜されたら同じでしょう!」

 谷垣が絶叫する。

「ええい、もうどうにでもなれ! 好きにしろ!」

 その声を合図に、中野はオートパイロットをオフにした。ビデオゲームのコントローラを思わせる操縦桿を軽く握り、付属するスイッチを指先で素早く操っていく。

 オスプレイの速度が一瞬で落ちた。固定翼モードからヘリモードへ変換したのだ。左右のF2がジェットエンジンの排気音を残し、猛スピードで過ぎ去っていく。旋回して戻ってくるまで、数10秒はかかる。その間にホバリングしながら、機体を90度旋回させる。

 F2の20ミリバルカン砲の射線から逃れるためだ。

 F2は最高速度マッハ2・0を誇る。だが逆に、時速300キロを下回る低速での飛行は困難だ。一方のオスプレイは最高速度が500キロ程度で、ジェット戦闘機を振り切ることなど不可能だ。反面、ヘリモードでのホバリングや背走飛行、その場で高度を変えることが容易にできる。

 高速に対抗する手段は、低速とアクロバティックな運動性能だけなのだ。射撃から逃れるには、細かく動いて的を絞らせないようにする他はない。

 しかしそれも、F2がAAM3――短距離空対空ミサイルを発射すれば無意味になる。軍用オスプレイであればミサイルをかわすためのチャフやフレアを装備しているが、医療業務に特化したAORタイプにはそのような対抗兵器は用意されていない。

 低速であることはすなわち、狙い撃ちしやすいということでもある。いったんミサイルが放たれれば、的を外すことは100パーセント、ない。

 それでも、戦う術は他にない。今は、ほんの少しでも時間を稼ぐことを考えるしかなかった。

 中野は、20分ほど前に逆転の布石を指示していた。キャビンのカメラのレンズを塞いだペイントを削り、AORと機体前後の外部カメラの様子を一画面にまとめ、その映像をリアルタイムでインターネットに中継させていたのだ。

 そんな〝情報漏洩〟が可能だったのは、AORの通信機が各病院とデータをやり取りのために一般の5G回線を使用しているからだった。自衛隊独自の通信網を利用していれば、拡散する前に遮断されるのは確実だ。

 中野の〝依頼〟に賛同した谷垣が、手術が山場を超えた直後から映像発信を開始していた。長谷川を無力化する前からの映像が、すでにネットに流れ込んでいる。

 同時に知り合いの軍事雑誌やマスコミ関係者に、そして自衛隊員にも、日本近海で発生している〝軍事衝突〟のライブ中継を知らせていた。森もまた、連絡がつく全ての医療関係者にネット配信の情報を拡散していた。

 さらに灘が、手術中からずっとキャビンのカメラに向かって現状を説明し続けていた。

 母島を発ってからの出来事、熱傷患者の素性や拉致の経緯、北朝鮮工作員に占拠されていた漁船、機内に仕掛けられた爆薬、民間人への緊急手術、テロリストたちとの戦い、そしてパンデミックの危機――その全てが、自衛隊看護官の視点から詳細に語られていたのだ。その後に灘が起こした自爆騒ぎさえも、公開されている。

 配信開始からおよそ20分――。炎上するに充分な時間とはいえないまでも、統幕にも中野の決意は伝わっているはずだ。

 中野の目論見は、全員で生き残ることだった。長谷川を制圧できれば、その道が拓ける。統幕が撃墜の意思を変えないのは、アメリカの圧力に抗えないからに過ぎない。だとすれば、それに拮抗する圧力を加えれば、最悪の事態を回避できる可能性が生まれる。

 自衛隊が、そして日本政府が恐れるもう一つの圧力は、世論だ。国民注視のもとで自国民を殺害する胆力は、そのどちらにもない。そもそも、隊が撃墜を望んでいるわけではない。パンデミックを防げさえするなら、他の方法を選択したいのが本音に決まっている。

 統幕も、間違いなく中野と同じ考えだ。だからF2に攻撃を命令しても、いきなりミサイルで粉々にすることはないだろう。少しでも時間を引き伸ばすために、逃げ回る余地を残す。その間にもアメリカ側と、ギリギリの交渉を続ける。

 必ず、そうするはずだった。

 統幕に〝逃げ道〟を与えることが、中野の役目だった。

 時間を1分伸ばせば、生存確率は2倍ぐらいには上がる。2分伸ばせれば、それが10倍になる。3分なら100倍……希望的観測と笑われようとも、信じて抗うほかはなかった。

 しかしそれも、長谷川が抵抗を続ければ実現できない。コックピットの奪還は、最低限の条件だった。成功するかどうかは、賭けでしかない。賭けに負ければ、命で代償を支払うことになる。しかも、自衛隊の〝失敗〟を世界中に配信する結果になる。

 中野はそれでも止むを得ないと覚悟して、ネット中継を開始した。

 何もせずに洋上で散るだけなら、パニックや政治的混乱を避けるために北朝鮮のテロ計画は闇に葬られるだろう。アメリカの圧力は、両国にとって知られてはならない汚点として、封印される。結果、日本は危機感を持たないまま外国勢力の脅威に蝕まれ続け、次第に国力を吸い取られていく。時代が激変している今、脅威の実相から目を背けることは、緩慢な死と同じ意味を持つ。

 テロは現実に起きた。

 その事実は、国民全てが知らなければならない。事実を知った上で、自らの未来を選択しなければならない。そのためには、〝目を覚ます〟に足る衝撃が不可欠なのだ。

 かつて首相は、専守防衛を守るなら『ミサイル一発目は甘受しなければならない』と明言した。都心が廃墟にされても仕方がない――という意味だ。北朝鮮の弾道ミサイルも、日本上空を通過した。

 それでも国民は動かなかった。

 首相の発言でさえ、充分な衝撃に成り得なかったのだ。

 たとえ自分たちが撃墜されようとも、偽りのない世界情勢を認識させ、全うな論争を促すものなら悔いはない――それが中野の本心だった。

 ネット中継は、命を賭した一自衛官の悲鳴でもあったのだ。

 かつて中国漁船が海保の艦艇に体当たりした際、時の政権は隠蔽を図った。その事実を暴露したのは、一海上保安庁職員の志だった。それがなければ国民は真実を知らされず、正しい決断もできなかっただろう。

 自分はどんなに非難されても構わない。ただ、事実は事実として国民に知らせたい。世界に知らせなければならない。命を失っても、志は残すことができる。

 中野の思いは、その一点にこそあった。

 問題は、時間だ。統幕が撃墜の意思を変えるまで、一体どれだけの時間が必要なのか? ネットの炎上は、どれほどの速さで拡大するのか?

 炎上が間に合わなければ、オスプレイは破壊される。

 中野ができることは、可能な限り撃墜までの時間を引き延ばすことだけだった。

 F2が旋回して、戻ってくる。中野の側面の風防の中で、ぐんぐん機影が拡大する。

 中野は叫んだ。

「山崎君! しばらく待って! お願いだから!」

『待ってどうなる⁉ 命令は下っている!』

「それが変わるかもしれないから!」

『許せ! 我々は下命に従うのみだ!』

 一機のF2の20mmバルカン砲が火を吹くのが見えた。毎分2000発以上の銃弾を吐き出す破壊者だ。オスプレイの機体ならなんの苦もなく貫き通す。

「バカ!」

 中野はローターの回転を一気に絞り込んで機体を急降下させた。火線から逃れると再びパワーを戻し、バンクさせながらF2の真下を突っ切っていく。2機のジェットエンジン音が頭の上を通過していく。

『無駄なことはするな!』

 だが、山崎は最初にバルカン砲での攻撃を選択した。迷いがなければ、いきなりミサイルを発射することもできたはずだ。

「統幕に命令の確認を!」

 返事からは、苦悩と逡巡が隠せない。

『たった今、変更はないとの返事が返ってきた!』

「もう少し待って! 5分でいいから待って!」

『統幕は米軍からも監視を受けてるんだ! そんな勝手が許されるか! 貴様も自衛官なら理解しろ!』

 背後では、F2が再び急旋回しているはずだ。

 中野は機体を180度旋回させてF2の機影を探した。その瞬間、またバルカン砲が放たれる。

 今度は間に合わなかった。右翼端のエンジンナセルが被弾したのが、振動ではっきりと分かった。

 コックピットに警告音が鳴り響く。エンジン停止のランプが点灯する。身を乗り出して翼端を目視すると、わずかな炎と凄まじい黒煙が噴き出していた。

 中野はすぐ右エンジンへの燃料をカットした。オーバーヘッド・コンソールの消火スイッチをオンにする。火災はすぐに収まるはずだ。間を置かずにモード変換が可能かどうかをチェックする。今のところ、エンジン停止以外の異常は起きていないようだった。

 オスプレイは片方のエンジンが止まっても、翼の中を通るトランスミッション連結駆動軸によって両翼端のローターを回転させることができる。駆動系が損傷していなければ墜落することはない。しかしパワーが格段に低下することは否めない。万一エンジン火災が拡大すれば翼の炎上、あるいは燃料タンクが爆発する恐れもある。

 と、F2が離れていくのが見えた。

 ここまでして、攻撃を諦めるはずはない。中野が逃げ回る覚悟だと知って、ミサイルでの撃墜に切り替えたに違いない。予測通り、2機のF2は大きな弧を描いて旋回した。

 中野は、言った。そして、自分の声が異様に落ち着いていることに驚いた。

「ミサイル……使うの?」

『すまん。さようなら』

 一機のF2から、AAM3が放たれるのがはっきりと見えた。もはや、赤外線誘導装置の追尾からは逃れようはない。

 このオスプレイは、数秒後に跡形もなく霧散する……。

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