9・反攻

 中野のヘルメットには、AORで緊急手術が開始されたという連絡が入っていた。その後に、淡々と最新情報の伝達が続く。それは、目まぐるしく変化していく国際情勢の姿だった。

 自衛隊は、そして官邸は、米軍の固い決意に晒されていたのだ。

 すなわち、東京へのウイルス侵入は絶対に阻止する――。

 アメリカの関心は、自国民の保護と権益の確保のみにある。万一日本でパンデミックが起これば、在日米軍の将兵や在日アメリカ人の救出に膨大な労力と費用が必要だ。アメリカの防衛戦略も根底から覆される。感染が海外まで拡大することも、おそらくは避けられない。

 同時に、感染症対策を迫られる日本の経済力は破滅的に毀損される。

 経済破綻の影響は、日本一国の現象には止まらない。

 世界は今、破局向かって進みつつある。新型コロナウイルスによるパンデミックの痛手。長引く米中対立と、迫り来る中国のハードクラッシュ。台湾と尖閣危機の拡大。EUの迷走と凋落。中東やロシアを含めた新興国の行き詰まり。大統領選挙後のアメリカの混迷と膨大な累積債務――。

 それらすべてが、出口の見えない迷路となって世界を脅かしている。危うい均衡をかろうじて支える数少ない〝エンジン〟の1つが、デフレから抜けきれない日本から溢れ出る金融緩和の余剰資金、数兆ドルに及ぶ海外投資だった。

 天然痘ウイルスが再度パンデミックを起こせば、その資金源を一瞬で奪い去る。世界は――何よりもアメリカ自身が、経済の下支えを失う。医学的なパンデミックは、すなわち経済的なパンデミック――国家破綻の連鎖でもあるのだ。

 それこそが北朝鮮の狙いなのだろうと、中野は考えていた。

 過去の友好国からの援助すら受けられず、国際的な固い囲い込みも破れずに、進退極まって選んだ自暴自棄の一手だ。

 自分が救われないのなら、世界を道連れにする――。

 捨て身の脅迫が、今、この機体の中で芽を吹いたのだ。

 北朝鮮の背後に中国の思惑が蠢いていることも、ほぼ確実だった。

 経済破綻が避けられない中国にとって、日本の復活は最大の脅威だ。大統領選への介入でアメリカを手中に収めたはずだが、国民の抵抗によって議会の動きは制御しきれない。中国共産党の凶悪さと欺瞞性は、すでに世界の共通認識として定着している。ならばパンデミックによって徹底的に日本の足を引っ張って、「中国と力を合わせなければ難局を切り抜けられない」という世論を誘導したい――共産党指導部がそう考えたのなら、北朝鮮のバイオテロを支援するメリットは大きい。

 核戦争で数億の自国人が死んでも耐えられると嘯く指導者を生む中国なら、下層民がウイルスで息絶えていくことも容認できる。むしろ、重荷にしかならない大量の老人や教育の行き届かない農民たちを、一気に〝処分〟しようと目論んでいる恐れすらある。

 さらにその裏には、もっと巨大で計算され尽くした〝世界再編〟が画策されている可能性が横たわっている。

 北朝鮮という無法国家は、長きに渡ってマネーロンダリングの最適地として生き抜いてきた。無法であるがゆえに、使い勝手のいい〝鉄砲玉〟として存在を黙認されてきた。時に軍事的緊張を高めて兵器産業を活性化し、時に麻薬や偽札で世界経済を揺るがす――その結果、膨大な利益を手にする者たちを生んできた。最大の顧客は、グローバリストの筆頭である国際金融資本家たちだ。世界の富の大半を独占する、ひとつまみの人種――ディープステートの異名を持つ彼らは、北朝鮮を自分たちの手駒として活用してきた歴史を持っている。

 中国も同様に、歪んだグローバリズムの尖兵として操られてきた。現在の中共は〝本家〟の金融資本勢力から覇権を奪おうと蠢き始めているが、それは21世紀に入ってからに過ぎない。共産主義の皮を被った、グローバリズムの〝鬼子〟だ。本家にとっては、許しがたい思い上がりなのだ。アメリカが国を挙げて中国潰しに動き出したことは、当然の成り行きでもある。

 グローバリズムの台頭こそが、ロシア革命以後に蔓延し、固定化されてきた〝世界が向かうべき方向〟だったのだ。

 しかしその趨勢に反発するように、国家を守ろうという動きが世界中に生まれ始めている。静かに折り重なってきた不満が臨界点を超え、一気に表面化しつつある。それは、幼虫がサナギの中で身体を再構築し、羽化する姿に似ている。

 世界はサナギを破ろうとしていた。アメリカ大統領選挙への介入は、それを防ぐ手段だった。にもかかわらず、世界を二分する対立構造は激しさを増すばかりだ。北朝鮮だけではなく、中国や国際金融資本家もまた、その地位を根底から脅かされているのだ。ここで再び、グローバリズム勢力が手を結んで反転攻勢に動き始めたとするなら……。

 パンデミックが彼らの劣勢を跳ね返す〝福音〟ともなりうることを、新型コロナウイルスは証明した。第2のパンデミックが起きれば、最終的な勝利へとまた一歩近づくのだ。

 グローバリストたちは、地球の資源をただ浪費するだけの〝余剰人口〟を処分し、生き残りを奴隷として使役することができる。北朝鮮はウイルスのワクチンを〝彼ら〟にだけ高額で売り渡して、経済的苦境を乗り越える。さらに北朝鮮指導部は中国の介入を跳ね除けると同時に、〝特権階級〟にのし上がることも画策しているだろう。

 ウイルス兵器とワクチンを握ることは、核ミサイルを振りかざす以上の破壊力を秘めているのだ。

 中国共産党と裏で繋がると噂されるアメリカ大統領といえども、その企て察知すれば容認はできない。テロには屈しないという建前からではなく、合衆国という国家そのものの消滅が現実になりかねないからだ。だからこそ彼らは、事件発生とほぼ同時に妥協のない対策を打ち出してきた。

 それこそが、米軍の宣言だった。

『ハイジャックされたオスプレイは、都内に接近する前に米軍が海上で撃墜する――』

 日本政府は、すでに在日米軍機がスタンバイしていると通告されたという。

 作戦開始は30分後――。

 統幕もまた、決断を迫られた。

 自衛隊の名誉にかけて、米軍に隊の機体を撃墜させるわけにはいかない。日本国民を殺させるわけにはいかない。しかし、撃墜の方針自体は認めざるを得ない。

 だとすれば、攻撃は航空自衛隊が自ら行うしかない――。

 状況説明が終わったのちに通信を変わったのは、統合幕僚長本人だった。

『中野一尉。選択肢がないことを理解してほしい。そして、入隊時の宣誓を思い出してほしい。事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえる――その誓いを実行する時が、今だ。我々には、日本を――いや、世界を守る責務が与えられたのだ。私も君の後を追う。勝手ではあるが、だから堪えてくれ』

 幕僚長に代わって、今度は撃墜作戦の詳細なレクチャーが続く。中野自身を殺すための作戦だ。

 中野は顔色一つ変えずに、ただ一方的に通信を聞いていた。長谷川に悟らせないためにも、変えるわけにはいかなかった。それでも、感情の揺らぎが消えるわけではない。

 日本は、民間人までを犠牲にしてテロの拡大を防ごうとしている。それが論理的な帰結であることは、中野にも理解できた。

 単純な、数の比較でしかない。

 再びパンデミックに襲われれば、世界で億単位の人間が死ぬかもしれない。世界経済の急激な収縮による副次的な犠牲者を含めれば、死者はその数倍、数10倍にも上るかもしれない。対して、このオスプレイだけを消滅させれば、犠牲はたった9人の生存者と100億円の機体で済む。

 理解はできる。

 だが、納得はいかない。

 たとえこの〝襲撃〟だけを阻止したところで、北朝鮮がテロを放棄することはおそらく、ない。年間3000万人以上が流入する観光客の1人にウイルスを植えつけられれば、日本が破滅しかねないことも変わりない。

 にも関わらず、自分たちは殺されることを受け入れるしかないのか……。

 しかも国は、〝殺す〟と決めた医師や患者に手術の決行を許している。無意味ではあるが、その目的も明らかだ。

 下手に刺激して抵抗されると予想外の事態が発生しかねない。今は何も知らせずに平静を装い、時が来れば躊躇なく手を下す――。

 そう決めたからだ。

 あまりに冷たい計算だ。

 中野にだけ事実を知らせたのは、パイロットの抵抗を防ぐためだ。誓いに従って死ね――自衛官になら、その命令が通用するからだ。

 中野は、迷わずにはいられなかった。

 民間人までも巻き添えにしても許されるものなのか?

 自分は、彼らの命を救うために働いているのではないのか?

 そして、考え始めた。

 オスプレイを撃墜する必要があるのは、ハイジャックされているからだ。本土のどこに侵入するか、決めるのはテロリストだ。たとえ感染拡大の恐れがない場所に封じ込め対策を準備しても、彼らはそこへの着陸を許さない。あくまでも狙いは、日本全土でパンデミックを起こすことなのだから。

 長谷川はまだ、ウイルス兵器の拡散計画は暴かれていないと考えているようだ。当然、山下も同じだろう。だから今は、緊急搬送の手順通りに提携病院に向かっている。

 目的地が明確な段階でなら、オスプレイは確実に撃墜できる。しかし、長谷川が東京以外に進路を向ければ、監視網をすり抜ける危険性も出てくる。オスプレイはウイルスを乗せたまま、どこにでも着陸できる。

 だから統幕は、今のうちに機を撃墜しようとしている……。

 だったら、ハイジャックを阻止すればいいのではないか?

 長谷川を食い止めさえすれば、着陸地点は自由に選べる。封じ込め可能な離島にでも降りて、そこで患者の治療を行えばパンデミックも防げる。

 機体の支配権を取り戻す方法はないのか――。

 中野が必死に考えを巡らせる間にも、作戦の説明が続いていた。

 いかにしてこの機を確実に撃墜するか――。

 そのための作戦だ。統幕は中野に、中野自身を殺す作戦を命じている。

 もはや、死地に向かって飛行する特攻隊員として扱われているのだ。乗員の死は、確定したものとされている。

 ならば、命令には従う。それが自衛官の使命だ。

 だが、テロリストに従う理由はない。彼らは、制圧すべき敵だ。どうせ、黙っていても生き残れはしない。制圧に失敗すれば、隊の仲間が後始末を引き受けてくれる。仮に機体の主導権を奪い返せるなら、その時初めて生還の可能性が生まれる。抗えば可能性を勝ち取れるかもしれないが、失敗したところで不利になることはない。

 中野は決断した。

 いきなり通信のスイッチをスピーカーモードに切り替える。

 コックピットに統幕からの指示が響く。

 長谷川が中野をにらみつけて叫んだ。

「なんだ⁉ 何をした⁉」

 中野は吹っ切れたように笑顔で答えた。

「統幕からの通信よ。もうすぐこの機を撃墜しに来るってさ」

 長谷川が口を半開きにする。

 さらに通信が入る。

『――通信に妙な雑音が入った。何か異常が起きたのなら、なんらかの合図を送れ』

 中野は平然と言い放った。

「異常なのはそっちよね。今、コックピットにこの通信を流した。長谷川にも撃墜されるって教えてやったところ」

 通信員の動揺が口調に表れる。

『は⁉ 何を言ってるんだ⁉』

「芝居掛かったやり取りはもうたくさん。この機はウイルスに汚染され、パンデミックを防ぐために撃墜される。テロリストも隊員も移送患者も、みんなまとめてあの世行き。そうなのよね。どうせ殺されるなら、抵抗することにしたわ」

『命令に逆らうのか⁉』

「無論、従います。ただし、ちょっとだけ抵抗します。どうせ殺されるんだから。そっちは勝手に撃墜作戦を進めればいいわ。わたしはわたしで、好きにしますから」

『何をする気だ⁉』

 中野はシートベルトを外して立ち上がった。振り返って山下をにらむ。

「山下船長、あんたが連れてきた患者が天然痘ウイルスに感染してたって知ってた? このウイルス、ただの病気じゃないわよ。北朝鮮で生物兵器化された化け物らしいから」

 山下が、呆然と中野を見上げてうめく。

「なんだよ、それ……」

 中野はニヤリと笑った。

「やっぱりね。そこの長谷川は知ってるわよ。知ってて、あんたを利用した」

 山下が、振り返った長谷川に目を移す。

「なんだって、そんなこと……」

 長谷川は中野を見てうめいた。明らかにうろたえている。

「なぜこんなに早く見抜けた……?」

「そんなの知るか! お前らが間抜けだからだろうが⁉」

 山下が叫ぶ。

「馬鹿野郎! 話が違うぞ!」

 長谷川は冷たい視線を山下に向ける。

「我々は、首領様の理想を叶えるための手足に過ぎない。母国が追い詰められている今、我々が命を捨てて復活への道を拓くのは当然の責務だ」

「誰がそんなこと! 俺は金になるって言われたから――」

「黙れ! 貴様のような不逞分子にはヘドが出る! この腐りきった国に心まで侵されてしまったようだな。革命の精神を思い起こすがいい。我々末端の細胞にとって、革命の血統に命を捧げることが唯一の名誉なのだ!」

 長谷川の目は、一瞬で狂信者のそれに変わっていた。

 中野が皮肉っぽい笑みを山下に投げかける。

「よかったわね、立派にお国に尽くせて。この機はもうすぐ戦闘機に撃墜される。幸せでしょう?」

 山下が長谷川を見返す。

「そうなのか……?」

 長谷川は固く唇を締め、それ以上口を開こうとはしなかった。本土にウイルスを持ち込むという意図が暴かれた以上、計画はすでに破綻している。内心ではその失敗に打ちのめされているようだ。

 代わって中野が説明する。

「あなたはなんて命令されていたか知らないけど、身代金を払わせるっているのは見せかけ。お金が入ればラッキーって程度のおまけ。本当の狙いは、患者にウイルスを植え付けておいて、病院からパンデミックを起こさせること。あんたが始めたのは、日本を、そして世界を破滅させるかもしれないテロなの」

 山下が中野に目を移す。

「パンデミックって……だが、なんだってそんな手間をかける? 東京の真ん中で菌をばら撒けば済むことじゃないか」

「自衛隊が硫黄島で細菌兵器を開発してるっていう噂を知ってる?」

「それがどうした。日本だって、それぐらいはしてるだろう?」

「とんでもない。自衛隊は軍隊というより警察に近いし、憲法やらマスコミの監視やらに縛られて身動きが取れない。トイレットペーパーだって自腹だって笑われてるのに、そんな開発費がどこから出てくるの? あんたの国みたいに、軍がやりたい放題できるわけじゃない」

「だったら、なんでそんな噂が……?」

「当然、このテロ計画の布石よ。国民にも、国が離れ小島で危険な兵器を弄んでいるっていう疑念が生まれる。硫黄島に近い母島から運ばれた患者がパンデミックの起点になったら、ただの疑念が確信に変わる。北朝鮮のテロなんか一瞬で吹き飛ぶ。マスコミに煽られた国民が一斉に政府を糾弾する。政権が倒れ、国民が死に、経済もズタズタに破壊され、世界中から非難され……日本はもはや、立ち上がれないかもしれない」

「それで、北朝鮮にどんな得があるんだ……?」

「パンデミックは朝鮮半島にも広がる。北朝鮮の国民は栄養状態が悪いから、バタバタと死んでいくでしょうね。でも指導部にはワクチンがある。細菌兵器っていうのは、ワクチンを持っていなければ自分まで危険が及ぶ。それなしじゃ使えない、奥の手なのよ。世界中の金持ちが、そのワクチンに群がる。どれだけ金を出しても、手に入れようと奔走する。委員長様は金塊を敷いたベッドで高笑いすることになるんでしょうね。今でも生きているなら、だけど」

「まさか……」それでもまだ、山下は信じられないようだ。何かにすがりつくようにつぶやく。「でも……だったら俺が仕掛けた爆弾はなんのためだ? 病院を感染させるのが目的なら、あんなもん必要ないじゃないか。身代金を奪うための脅しじゃなかったのか……?」

 中野は答えを用意していた。

「病院を飛び立ってから爆破させる気だったのよ。街じゅうに破片が降り注いだら、オスプレイは危険だっていう印象が消せなくなる。たとえ予測通りにパンデミックが起きなかったとしても、オスプレイ配備への反対意見は圧倒的に強くなる。大量導入は難しくなるし、防衛力増強のペースも遅れる。北朝鮮も中国も、オスプレイの輸送力と機動性が怖いの。配備を許せば、自衛隊の能力が爆発的に増大してしまうから。むしろそっちが計画の主目的だったのかもしれない」

「なんでそうなるんだよ!」

「兵器化されているとはいえ、ウイルスは生き物みたいなものよ。綿密に計算したところで思い通りにはコントロールできない。風向きとか温度や湿度とかの条件でだって拡散のスピードは変わるはず。感染力が弱ければ広がらないし、強すぎるせいで封じ込めが容易くなることもある。効果が上げられなければ全てが無駄になる。その点、オスプレイを破壊すれば、確実に軍事的な優位を保てるから」

 山下は引きつった笑みを浮かべ、自分に言い聞かせるようにつぶやく。

「あの爆弾はどうせニセモノだ……」

 中野が迷いを見せた山下に追い打ちをかける。

「そう聞かされたの? それも嘘よ」

「デタラメ言うな!」

「中身はレントゲンで確認したから。部品も配線も本物にしか見えないって。気圧センサーまで付いてるそうよ。偽物ならそんな手間をかけずに、石でも詰めておけばいいじゃない。あれ、間違いなく、危険な爆弾ね」

「じゃあ、身代金の要求は本気じゃなかったのかよ……」

「あんたみたいな金目当ての工作員を集める口実、そして本当の狙いから目をそらせる偽装。その証拠はあなたが握っているはず」

「証拠だと……?」

「爆弾って、いつ機体に接着したの?」

「いつ、って……」

「最初の計画では、都心上空に入ってから接着する手はずだったんじゃないの?」

「そりゃそうだが……」

「さっき長谷川から計画の変更を指示されたんじゃないの?」

 山下がムキになって抗弁する。

「いつ貼り付けたかなんて大した意味はないだろうが!」

「図星か……」

「だからなんなんだ⁉」

「計画が暴かれなければ、身代金要求は都心に入ってからのはずだった。そして支払われるまでは病院上空で旋回して待つ。だから、爆弾は海上ではくっつける必要がない。むしろ、疑念を招かないように余計な行動は控えるはずだった。で、拒否されたら都心上空で爆破――ってところね。むろん、あんたを乗せたままでね。そうすれば、オスプレイの危険性が全国民に刷り込まれる」

「俺まで殺す気で……?」と、山下が何かに気づく。「だが、それじゃパンデミックが起こせねえ!」

 中野が予測していた疑問だ。

「他の工作員が破片の近くにウイルスをばら撒けば済むことよ。死んだ熱傷患者から広がったように見えさえすれば、簡単にマスコミを騙せる。遺体からウイルスが発見されれば、完璧よね」

「じゃあなんで計画を変えた⁉」

「だから、ウイルスを仕込んでることがこんなに早くバレちゃったから。母島に残された工作員から、仲間が捕まったって情報が長谷川に入ったんじゃない? だから慌てて身代金を要求して、爆弾も接着した。海に捨てられたら爆破できなくなるから。それがオスプレイの破壊が重要な目的だってことの証明よ」

 山下が不意に勝ち誇ったように身を乗り出す。

「は? それじゃあ、うまく身代金が取れちまったら逆に困るだろうが⁉ 病院には降りられても、爆弾が床にくっ付いてたらまだ何か企んでるって教えるようなもんだ!」

 その疑問も想定内だった。

「緊急輸送の患者が着いたら、病院は臨戦状態になる。その上、今回は2人同時だから、キャビンの荷物なんかに関心を払う人間はいない。あんたや長谷川が姿を消したって、誰も気づかないかもしれない。しかも、反感を持つ人も多いオスプレイをいつまでも病院に置いてはいられない。機体に爆弾が張り付いてるって分かったところで、除去作業は危なくてその場じゃできない。どっちみち、基地に戻る必要がある。飛び立った時に爆破するのが狙いよ。都心のど真ん中で、ね。気圧の変化で起爆するセンサーが付いていたのはそのため。レントゲンで配線まで暴かれちゃうなんて、思いつかなかったのかもね」

 もはや山下は中野の言葉を認めるしかなかった。ガックリと首をうなだれる。

「ホントかよ……?」そして、いきなり叫ぶ。「おい! それって、俺もとっくに感染してるってことなのか⁉」

 中野が鼻で笑う。

「バカ過ぎ。今頃気づいた? 船員は全員感染者。だから島の中を逃げ回らせて、ウイルスをばらまいているんじゃない。当然、あんたもね。この機内の人間も、もうウイルスに触れてる」

「死ぬのか……?」

「放っておいたら、たぶん」

 そして、山下の視線が長谷川に移る。

「おい……ふざけんじゃねえぞ……。そんなの聞いてねえ……ウイルスなんて、誰がばらまいたんだよ……」

 中野は、微かな笑みを浮かべて言った。

「船員の誰かでしょうね。おそらく、母島に着く直前に全員を感染させたのね。症状が出てからじゃ、感染症を疑われて寄港を妨害されるかもしれないから。長谷川みたいな狂信者を1人でも紛れ込ませていれば、簡単にできることでしょう?」

 山下の目に、怒りが渦巻く。

「ホントなのかよ……」

 長谷川は無言だった。

 中野の言葉を否定しようともしない。

 できないのだ。

 それこそが、中野が狙った効果だった。コックピットは2人のテロリストに占拠されている。彼らの間の不和が生まれれば、事態を動かす鍵になるかもしれない。中野自身は唯一の操縦士として〝安全圏〟にいられる。自分自身を、彼らを引き裂く楔とすることができる。

 中野は言った。

「わたしなら、統幕と交渉できるわよ。きっと政府も説得できる。この機をどこかの小島に下ろせば、治療も受けられるし、パンデミックも起こさずにすむ。あなたも生きられる」

「で、一生刑務所か?」

「そうとも限らないんじゃない? 日本には〝超法規的措置〟っていう魔法の呪文があるから。心を入れ替えてテロを防げば、ですけど」

 山下の視線は長谷川から離れない。

「国を裏切れと?」

「だって、目的はお金なんでしょう? 表向きはともかく、日本はそんなに杓子定規な国じゃない。報奨金だって期待できるわよ」

 長谷川がようやく口を開く。

「黙れ」

 銃口が中野に向かった。

 それでも中野は怯まない。

「撃てば? 東京までは自動操縦で飛んでいけるけど、その先はどうするの? どうやって着陸するの? 都心に入る前に、自衛隊に撃墜されるんですけど。でも、わたしが生きていれば攻撃をかわせるかもしれない。これでも、戦闘機パイロットの訓練は充分に受けていますから。山下さん、どっちを選ぶの? 選択できるのはたぶん、あと数分間だけよ。長谷川は、あんたも殺すから」

「小賢しい女だな」

「愚かな人間がパイロットになれるわけがないでしょう?」

 山下が叫ぶ。

「長谷川! 本当なのか⁉ お前ら、俺まで殺す気だったのか⁉」

 銃口が、山下に移る。

 中野が言った。

「これが答え。あなたはどっちを選ぶの?」

 長谷川は引き金を引いた。だが、一瞬の戸惑いがあった。

 中野はそれを見逃さなかった。素早く身を屈めると、銃を握った長谷川の腕を下から突き上げる。

 銃弾は山下の頭をかすめて背後のドアに当たって跳弾となり、電子装置が詰め込まれたオーバーヘッド・コンソールに吸い込まれた。

 銃声に身をかがめた山下が、我に返って振り返る。

「ちくしょう!」

 コックピットのロックを外して狭い廊下に飛び出す。

 中野は突き上げた右腕を引きながら体をひねって、反動をつけて左の手のひらを長谷川の顔面に叩き込んだ。まっすぐに突き出された手のひらに、長谷川の鼻骨が陥没する感触が伝わる。

 長谷川は一切の戦闘訓練は受けていないはずだ。反射的に反撃に移れる神経回路は出来上がっていない――。

 中野のその判断は的中した。

 しかし長谷川は、武器を奪われることは防ごうとした。恐らくは衝撃と痛みで視覚もままならないまま、うずくまって拳銃を抱え込む。

 中野は瞬間的に決断した。

 抵抗する長谷川から武器を奪っている余裕はない。まずは脱出を優先する。

 迷わずに操縦席から飛び出し、山下の後を追う。背後に、長谷川の気配を感じた。

 手術中でAORがロックされているなら、コックピットの外の通路は畳1帖以下の空間しかない。そこで再び発砲されれば、逃げ場はない。

 通路に出た中野は、体を回転させながらドアを思い切り閉じた。完全に閉まる寸前、隙間から長谷川が拳銃を突き出す。その手首を挟むと同時に、引き金が引かれる。

 窮屈な空間を揺さぶる発射音が鼓膜を圧迫する。

 中野はわずかにドアを引いてから、もう一度全体重をかけて押した。軽く飛び上がってから、両足で反対側の壁を蹴る。その瞬間、長谷川は腕を引っ込めていた。ドアが大きな音を立てて閉まる。

 長谷川がドア越しに叫んだ。

『山下! 貴様は裏切り者だ!』

 山下は、機長の死体を盾にして通路の隅にうずくまっていた。銃弾は、死体が受け止めたようだ。

 山下が応える。

「殺されてたまるか!」

『売国奴め! 必ず処刑してやる!』

 コックピットのドアは外からはロックできない。中野は、通路の左翼側にある補助シートを倒した。こうすればドアを開けようとしてもシートが当たり、外に出てくることはできない。さらに隙間に、折りたたんだ車椅子を詰め込む。

 中野は山下に命じた。

「こっちに来い! ドアが開かないように、このシートに座って見張っていろ!」

 山下が機長の死体を押しのけて立ち上がる。

「命令するんじゃねえ!」

「だったら、ここで殺されたいか⁉ 貴様ごとき、女でも首をねじ切れるんだぞ!」

 一瞬恐怖の色を見せた山下が、中野と場所を入れ替わる。

「女のくせに……」

 中野がささやく。

「自衛官、だ」そしてさらに声を落とす。「貴様が鬼嶋三佐にしたことは許さない。死体だからといって、ただのモノじゃない。今は守ってやるが、それも撃墜されるまでだ。わたしたちが仲間に撃ち殺される前には、この手でお前を殺してやる」

 山下の胸を強く押す。

 山下はへたりこむようにシートに座った。

 中野は言った。

「あんた、最初から長谷川がスパイだって知ってたの?」

 山下は中野の鬼気迫る表情に気圧されていた。

「いや……機内に協力者がいるとは知らされてたが、誰かは分からなかった」

「だったらなんで長谷川だって?」

「暗号だよ。市場の管理者の一ノ瀬大貴――架空の名前を知ってりゃ、お仲間だってことだ」

「今でもお仲間か?」

「いや。契約は反故だ」

 中野はニヤリと笑うと、コックピットに向かって叫んだ。

「長谷川! オートパイロットに任せたままなら、1時間後には東京上空に着いてしまうぞ! その前に、有無を言わせずに攻撃される。それを避けたいなら、銃を渡して投降しろ。どっちみち、貴様らの計画は破綻した。わたしなら、交渉ができる。燃料が切れるまでは逃げ回ってみせる。残り時間は短いが、よく考えるんだな」

『黙れ、黙れ、黙れ!』

 それはもはや、狂人の繰り言にしか聞こえない。

 中野がヘルメットのマイクに叫ぶ。

「統幕、聞こえていますか⁉」

 返事はなかった。全く無音だ。

 隠れて通話をしていたことを知った長谷川が、接続を絶ったようだ。その程度の操作法は、密かに調べていたのだろう。

 中野はヘルメットを外し、AORのスライドドアの横のインターホンのボタンを押した。外見は一般家屋と似た装置で、小さな液晶画面で相手の顔も見られる。

「中野です! コックピットから脱出しました! 統幕との通信が断たれました。そちらはどうですか?」

 AORの内部が画面に映ったが、まさに手術の真っ最中で、医師たちが背を向けている。施術しているのは森で、その先に谷垣の顔が見える。

 谷垣が通信に気づく。マイクから遠いので声は小さかったが、通話は可能だ。

 互いに現状を報告した後に、中野は反抗計画への協力を依頼する。

 それを聴き終えた谷垣は、あまりの大胆さに驚愕の叫びを上げた。

『いいんですか、そんなことやらかして⁉ 俺ら、これでも公務員なのに……』

「だから頼んでるんでしょう! このまま殺されたいの⁉ わたしの独断先行ってことで構わないから、力を貸して。非常時なんだから、超法規的措置よ!」

 しばらく間をおいてから、谷垣が言った。

『計画は分かりました。俺も乗りますよ。20分ぐらいしたら取りかかれると思います!』

「よろしく。それが済んだらこっちにも手を貸してね。コックピット、取り返すから!」

『分かってます! あとはキャビンと話してください!』

 中野が切り替えボタンを押すと、キャビン側のカメラ映像が映った。

「中野です! 誰か出て!」

 返事をしたのは灘だった。

『こちらは灘、キャビンです。この通話は、統幕にもつながっています。コックピットから出られたんですね! 誰が残っていますか?』

「長谷川1人。拳銃所持。AOR前の通路に山下がいます」

『生きているんですか⁉』

「もちろん。制圧しました」

『危険はないんですか⁉』

「今は一応、反抗する気はないようです。鬼嶋機長は死亡。オートパイロットで飛行中」

 統幕が割り込む。

『中野一尉、何をする気だ⁉』

「抵抗するんですよ」

『やめたまえ! こちらでは背後関係の調査が進んでいる。迂闊な行動は控えろ!』

「調査って、なんですか⁉」

『灘一尉が、望月氏を覚醒させて拉致の状況を聞き出した。祖父である大臣に命じられて行ったホテルで、待ち構えていた一団に拐われた――そう証言した』

 中野は一瞬絶句した。

「それって……」

『自分の孫を拉致させた、ということだ。間接的であれ、テロを支援したことに他ならない』

「大臣がスパイだったと……?」

『そうともいえる。知らず知らずに取り込まれ、抜けられなくなる工作員は無数に存在するからな』

「だからって、お孫さんをウイルスに感染させるなんて……」

『その情報を得て大臣を追求した。焼かれたり感染源にされることなど、考えてもみなかったと自白した。身代金目的の狂言に協力しろと命令されたという。マネトラ、ハニトラにどっぷり浸かった結果だ。背後で動いた組織は急速に明らかになっている』

「背後関係が暴かれたら、攻撃を中止してもらえるんですか⁉」

『その可能性もある。希望を捨てるな』

「希望を捨てる? むしろ、食らいつきます。他人任せの可能性なんかには頼りません。機体奪取が唯一の希望です。それができれば、撃墜されなくてすむかもしれないんで」

『まだ言うか⁉ 勝手な真似はやめろ! 自衛官なら命令に従え!』

「従うって、黙って撃墜されろって意味でしょう? 統幕は本当に隊員や民間人を殺したいんですか? 誰がこの機を撃つんですか? 私が知ってるパイロットが引き金を引くんですか? ろくな給料ももらえず、憲法違反だとか罵られ、自治体の汚れ仕事を押し付けられ……挙げ句の果てに仲間を殺させるんですか? それが自衛隊なんですか⁉ それがアメリカの要求なんですか⁉」

『聞き捨てならない暴言だぞ!』

「いいじゃないですか、どうせ殺されるんだから。ほんの数10分でも足掻いて、仲間に殺されるのを引き延ばそうってしてるだけですよ。気がすまないっていうなら、わたしの死体を切り刻んでくれても結構。でも今は、徹底的に逆らってやる!」

 灘が統幕の反論を封じるように割り込む。

『今はそんな事を言ってる場合じゃない! AORでは手術の最中なんだ。中野さんが操縦しないで、機体の安定は保てるんですか⁉』

「大丈夫、天候は安定していますから。でもその手術、成功したところできっと無駄になりますよ」

『それでも我々はやります。医療に携わっている身なのでね。できる条件が揃っているのに、やらないわけにはいかない。たとえ数10分後に撃墜されると分かっていても、です。職域は違いますが、あなたと同じことです』

「私はパイロットです。その数10分、なんとか1時間ぐらいには引き延ばしてみせますよ」そして灘に命じる。「灘さん、しばらく統幕との通信を切断して」

「は? 何する気ですか⁉」

「これから説明するから」

 それが中野の反抗計画の始まりだった。

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