8・悪化
爆発物の透過データを送った数分後に、AORにもコックピットと同じ通信が入った。すでに中野には、長谷川には悟られないように情報を提供しているという。
民間人は再びキャビンに移し、ドアは閉じられている。外に情報が漏れる心配はなかった。
統幕からの報告を聞き終えた谷垣が、うめく。
「パンデミックって……」
灘が熱傷患者を見おろす。
「天然痘か……。今じゃ、扱ったことがある医師は皆無だな。いったん広がり始めたら、甚大な被害は避けられない……。新型コロナウイルスで経済がズタズタにされたばかりだというのにな……」
谷垣が無意識に身を引いていく。
「この患者が……? 灘さん、なんでそんなに落ち着いているんですか……?」
灘が冷静に谷垣を見つめる。振る舞いに、自信が蘇っている。
「君とて医療に携わる身だろう? 逃げてどうする? ウイルスこそ、我々が闘う敵だ」
「しかし、防護服もなしじゃ……」
「聞いたろう? この患者が感染しているという確証はない。少なくとも、体表を撮影した時点では兆候は現れていなかった」
「そうはいっても、あれだけいじくりまわしてますからね……」
「天然痘なら、潜伏期間中には感染力はない」
「ですが、遺伝子操作されていたら? 感染力も強化されているかもしれません……」
灘の返事は冷静だ。
「その場合、すでに機内の全員が感染している。ジタバタしたところで、手遅れだ。この患者は母島か漁船内で感染させられていたはずだから、島全体も隔離しなければならない。とはいえ、普通は天然痘が発症するのは感染から一種間以上先だ。だからこそ、今は冷静な対処が必要だ。特に都心にウイルスを持ち込むことは、なんとしても阻止する」
「しかし、ここでの熱傷対策は限りがあります。一刻も早く設備が完備した病院へ移さないと。安定した環境での長期監視も必要ですし……。最終的には人工皮膚の培養もするんでしょう?」
「お偉いさんの身内だからな。官邸としても判断に苦しむところだろう。しかし、身内を救うためにパンデミックを許したなどと知られれば、与党は瓦解する。またぞろ悪夢の政権交代の繰り返しだ。次善の策を検討中と言っていたが、そっちが採用されることは確実だな」
谷垣は観念したかのような重苦しいため息をもらした。
「ですよね……おそらく俺たちは、すぐには基地に戻れない。戻れたとしても、長い防疫期間の後――ってことですね」
「まずは確認だ。バイオセンサーを起動しろ」
「はい」
谷垣は背後の薬品庫を開いた。その一角に、極限まで小型化されたEFA―NIバイオセンサーが組み込まれている。
この装置は、センサーから高さ数マイクロメートルの空間だけを照らす近接場光と外部磁場を利用して病原体を〝動く光点〟として検出する。『外力支援型近接場照明』と呼ばれる仕組みを使っているため、極めて低濃度のウイルスも素早く検出できる特徴を備えていた。このセンサーのデータをAIが分析し、細菌やウイルスの種類を特定する。病変患者を収容した際に、いち早く原因を突き止めるために装備されたものだ。
その間に灘が、注射器(シリンジ)で熱傷患者の血液を採取する。
谷垣が差し出した試薬キット――顕微鏡のプレパラートのようなガラス板にシリンジから数滴の血液を加える。キットをセンサーに差し込んで数分後――モニターに分析結果が表示された。
『Detect unidentified virus』
データバンクにはないウイルスが検出されたということだ。
谷垣がうつむく。
「ウイルス感染は確実だ、ってことですよね……」
「生物兵器ではないことを祈ろう」
「俺らは諦めがつきます。自衛官ですから。でも、キャビンの3人は……?」
「自分から説明する。幸い森医師は、工藤さんたちの主治医で付き合いも長いそうだ。どんな状況になっても、落ち着かせてもらえるだろう」
谷垣が心配そうに言った。
「しかし、あのばあちゃん、危ない状態だから今回の搬送になったんでしょう? もしも隔離中に危険になったら?」
「圭子さんは東京に着き次第ロータブレーター手術の準備に入る予定になっていた。あまり手術を延ばす余裕がないのは確かだが、かといってこの状況ではどうにもならん。隔離中に病状が切迫したら、AORで手術するしかない。そのために、ロータブレーターを含めたカテーテル手術の機材を準備したんだからね」
「ここで、って……誰が施術するんです⁉」
「自分には資格も経験もない。長谷川はもはや敵だし、そもそも高度なカテーテル手術のスキルは持っていないだろう。君はできるか?」
「補助の研修は何度も受けましたが、施術なんてとんでもないです。そもそも、俺だって資格はないし……」
「だろう? どこかに着陸できれば、専門医が派遣される可能性もあるが……その医師まで長期間隔離されることが避けられない。その間、他の患者は手がけられないことになる。そんな損失は認められないだろう。施術するとすれば、森医師の他にはないだろうな……」
谷垣が姉の失敗を思い出すのは当然でもあった。
「しかしあいつ、俺の姉貴を……」
「何年前の話だ? 医師は失敗から学ぶものだ」
「そうはいっても、今じゃ町医者みたいなもんでしょう⁉」
「無論、最悪の場合だ。それでも、経験を積んだ医師がいるだけで心強い。今は、杞憂であることを祈るしかない。いずれにしても、間もなく対応策が指示されるだろう。我々は命令に従う。それだけだ」
谷垣も仕方なくうなずく。
「了解……」
「自分は状況を説明してくる」
灘はそういって、キャビンへのドアを開けて出て行った。
谷垣は、依然として意識を失ったままの患者を改めて見下ろす。ウイルス感染がなくとも、熱傷の治療は欠かせない。
飛行時間はすでに1時間を超えている。飛行行程の半分近くに近づいているはずだ。それがどのような手段であれ、対応策は早急に決定しなければならないのだ。
と、ヘッドセットに統幕からの通信が入る。
『爆発物の分析結果が出た』
「しばらく待ってください。一緒に聞きたいので灘一尉を呼んできます!」谷垣はドアを開けて灘に声をかける。「統幕から指示が入ります!」
工藤圭子の傍らにしゃがんで何か語りかけていた灘が、振り返って走り寄る。AORに入るとスライドドアを閉じた。ヘッドセットを装着する。
「灘一尉、参りました!」
『ご苦労。この通信は中野一尉にも聞こえている。まずは爆発物の分析結果だ。処理班と変わる』
無線の声が変わった。
『特殊作戦群の小此木三尉です。分析自体はまだ続けていますので、途中経過だと考えてください。まず爆薬ですが、C4の文字がうっすら確認できます。本物であれば最善でも機体後部が吹き飛ぶほどの量で、空中で完全に破壊される可能性も高いと思います。選ばれている部品、そしてその組み方も、矛盾がなく効率的です。手の込んだ仕掛けを施したかなりの手練れの仕事です。ですので、爆薬がフェイクだという理由はない、と考えてください。起爆装置は最低4種類。無線での起爆は確実に可能です。タイマーらしきものも確認されましたので、2つ目は時限装置です。無線で時限スイッチを入れることも可能でしょう。3つ目が振動感知装置で、手荒に扱うと爆発するでしょう。ただし、どの程度の振動まで許容されるかは不明です。もともと振動が避けられない航空機ですから、あまり敏感なセッティングはしていないはずです。最後が現在まだ分析中ですが、おそらく気圧の変化による起爆装置だと思われます。すでに稼働しているとすれば、着陸体制に入って気圧が上昇した時に起爆させるようなことができます。ここまでで何か質問は?』
谷垣が言った。
「機内に液体窒素があります。冷凍で無効化できませんか?」
『確実ではありませんが、対冷却用の温度センサーらしき部品も確認しました。これも起爆装置の一種だといえますが、冷却すると爆発するでしょう。センサーがフェイクだとしても、冷凍したところで爆発を遅らせる効果しかありません。高度な解体技術や逃げ場がない機内では、あまり役立ちませんね』
「参ったな……でも、着陸時に爆発させる意味は? ウイルスは爆発の熱で無力化されかねません。パンデミックを起こすことが目的なら、確実性を毀損するのではありませんか?」
『どのようなプログラムが組み込まれているかは、X線映像では判別できません。最初の着陸時の気圧上昇で起爆装置がオンになって、再び上昇して気圧が下がった時に爆発するといった仕掛けも可能です』
「だとすれば、気圧に変化さえなければいいわけですね?」
『理論上は、それで気圧感知は無効化できるでしょう。可能な方法は考えられますか?』
「オスプレイはそもそも気密性が高い方で、軍用型では核物質などが入り込まないように陽圧が保たれています。AORには減圧タンクとして使用できる改造もしてありますから、利用できるかもしれません」
『こちらでも検討します。ただし、気圧感知を無効にしてもその他のスイッチは生きています。特に振動は危険ですから、爆発物自体を移動することは避けるように。絶対に床から剥がそうとはしないでください』
「タイマーが起動した場合、それを知る手段はありそうですか?」
『蓋のすぐ下にカウントダウン表示のような装置も見えます。天板を外すと起動するようです。箱は二重になっていて、開けても見えるのはタイマーだけですね。わざわざ目視できるようにしたのは、心理的な圧力を掛けるためでしょう。カウントゼロで爆発するかどうかも、判断しかねます。タイマーを見せておいて、停止命令を無線で送る代わりに譲歩を迫るような交渉も狙ってるかもしれません。ただ、一方的にカウントダウンを始められれば、多分知りようがありません。警告音を出す部品らしいものも確認されましたが、残り時間を読み上げる機能までは付与されていないと思います。今のところ、分かったのはその程度です。他に質問は?』
灘が加わる。
「オスプレイの床板ごと外せないだろうか?」
『その方法はまだ検討段階ですが、難しいでしょう。爆弾周辺の様子も多少写っていましたが、低粘度の瞬間接着剤を大量に流し込んだようです。床材の隙間にも染み込んでから固着していますね。映像には5本の業務用接着剤が写ってましたけど、箱をくっつけるだけなら1本で充分です。何本かは、あえて機体に流し込んだんでしょう。外すにしても、整備工場に持ち込まないと不可能でしょう。それでも振動は避けられません。残念です』
谷垣が悔しげにつぶやく。
「仕方ありませんね……」
灘が言った。
「山下は、そんなことまで……いつの間にそこまで細工ができたんだ? だいたい、瞬間接着剤って独特の匂いがしないか? なぜ誰も気づかなかった?」
「誰もっていっても、山下と一緒にいたのは民間人ばかりです。初めて乗った自衛隊機で変な匂いを感じたって、こんなもんかなって思うだけじゃないですか? みんな山下に同情していたわけだし、バッグの中身を探っていたって、まさかハイジャックは疑わないでしょうし……」
「そりゃそうか……」そして、マイクに質問する。「その他に新たな情報はありますか?」
再び無線の声が変わる。
『現時点ではこの程度だ。今はこちらも情報収集で手一杯だ。エコーからもかなり詳細な情報が入りつつある』
谷垣は好奇心を抑えきれなかった。
「あの……エコーって、シンクタンクのようなものでしょうか?」
思わず疑問が口をついたが、同時にたやすく明かせる内容ではないだろうという諦めも浮かぶ。しかし答えは、意外にもあっさりと返ってきた。
『君たちには一部情報の開示が許された。シンクタンクというより、かなり政権に近い実務部隊だそうだ。各省庁から選抜した人員を集めて緊急事態に備えた少数精鋭だ。ECHO――エクストラ・ケース・ハンドリング・オフィスが正式名称で、日本名は『例外事象対策室』という。役所内の特命タスクチームといった扱いのようだな。空自の仲間も何人か引き抜かれているという。バカンス中の警官を演じながら母島に渡った女性は厚生省からの出向で、島にはウイルスを分離、特定する装置を持ち込んでいたそうだ。これは機密事項なので、そのつもりで』
「了解しました。それにしても、この短時間でよくそこまでの情報を集められましたね」
『漁船の爆破がなければ、テロの開始に気づけない危険もあった。逮捕した漁船員の自白によれば、修理業者がすぐに破損状態を確認に来るというので慌てたそうだ。プロが調べればエンジン火災が偽装だと見抜かれる。しかも長年、密入国や麻薬密輸で北朝鮮に協力していたので、痕跡がどこかに残っている危険もある。その隠滅を図ったらしい。すでにオスプレイは飛び立っているので、身代金奪取の計画は自動的に進行する。自分たちは他の漁船に便乗して本土に帰る気だった――ということだ』
「工作員はウイルスのことを知っていたんですか?」
『誰も知らなかった。ばら撒いた本人が混じっているなら、そいつは嘘をついているがね。捨て駒にされたと知ったら何もかも白状したそうだ。エコーは、テロが起きるとしても数ヶ月は先だろうと読んでいたという。これほど準備が進んでいたとは考えていなかったそうだ。しかも今回は、国交大臣の親族の誘拐まで絡んでいる。この2つの事件を結びつけることはできなかったようだな』
「では、この先もエコーが指揮を取るんですか?」
『そうなるだろう。官邸も国家的テロと判断して、最大限の対策を講じると決断している。我々も時間が限られていることは充分理解している……』
統幕が不意に言い淀んだ。迷いを感じさせる沈黙が生まれる。
谷垣は、機密の開示には何かしらの理由があるからだと直感した。
「で、何か私たちにできることがあるんですか?」
『君たち医療関係者には頼みづらいことなのだが……望月氏から聞き出して欲しい情報がある。エコーの依頼だ』
「今は昏睡状態です」
『統括班の話では、モルヒネ拮抗薬を使用すれば意識を回復させられるということだが?』
灘が叫ぶように割り込む。
「危険です! ただでさえ弱っている患者に、致命的なストレスを与えかねません!」
『拮抗薬の中には、鎮痛作用を維持するものもあると聞いた。ペンタゾシン――とかいう薬剤なら、そこにも装備されているはずだ』
「それはそうですが……」
灘の意識は、あくまでも患者の状態を悪化させないことに集中している。
しかし谷垣は、エコーの要求内容に関心があった。
「エコーは何を知りたいんでしょう?」
『彼がテロリストに捕らえられた経緯だ。望月大臣の聴取は進めているが、何かを隠している節がある。まさか他国の工作と知って加担しているとは思えんが、利用されている恐れは捨てきれない。エコーは、その情報によってテロの全容を明らかすることを期待している。都内でもハイジャックに呼応した工作が進行している恐れが高い。運が良ければ、計画を封じる可能性も出てくる。今は一刻を争う状況だ。関わりのある情報は全て手に入れるべきだ。ぜひ協力をお願いしたい』
「命令、ではないんですか?」
『あくまでも依頼だ。現場では医療従事者の判断が優先されるからな。しかしエコーは、その情報を重要視している』
反論しようとする灘を、谷垣が制する。
「分かりました。至急検討します。返事はなるべく早く送りますから」
『君たち現場の隊員に頼るしかない事柄なのだ。頼んだぞ。最新の指示は、順次下知する。今後は、必ず誰かが無線の近くで指示を待つように。以上だ』
「了解」
いったん無線が途切れると、谷垣がため息をもらす。
「ということですが……灘さんは反対なんでしょう?」
「当然だ! ただでさえ危険な状態なのに、安静を破るなど非常識だ!」
「今は非常時です」
「お前は賛成なのか⁉ それでも救命士か⁉」
「もちろん。ですが、自衛官でもあります。テロを封じれば、パンデミックも防げるかもしれません。逆に手をこまねいていれば、日本中が――いや、世界が危険に晒される。致死率が低いコロナウイルスでさえ、全世界に大混乱を起こせたんです。国の安全を預かっている以上、俺には選択肢がありません」
「患者が目の前で死んでもそう言えるのか⁉」
「死ぬとは限りません」
「意識を回復させたところで、有益な情報があるとも限らない!」
「有益な情報があれば、日本を救えるかもしれないんですよ」
灘は悔しそうにうめく。
「それが自衛官の考え方なのか……?」
「患者の命も日本の命運も、共に守らなければなりません」
「自衛官になれ――ということか?」
「ここは病院じゃありませんから」
「少し時間が欲しい」
「少し、なら。でも、エコーなんていう組織が動いているとはいえ、情報がなければ打つ手はないでしょう」
灘はうつむきながら考え込む。
「それは分かるが……。しかし、母島を発ってまだ1時間ちょっとだ。なのにこれほどの情報が得られていることの方が驚きだ。時間稼ぎも、どうせ燃料切れまでだろうしな……」
谷垣は灘の迷いを察して、あえて話題を変えた。信念に反する決断を下すには、それなりの時間を要するものなのだ。
「奴らが空中給油を許すとは思えませんしね……。政府も犯人側との交渉を進めているのかもしれませんしね」
灘が意外そうに言う。
「交渉っていっても、パンデミックを起こすのが奴らの本当の狙いだろう? 譲歩する気はないんじゃないか?」
「それが分かっていても、ウイルスに気づいたことを隠さないとまずいじゃないですか。交渉しなければ、逆に疑われます」
「なるほどな」と、表情を曇らせてつぶやく。「しかし、なんでこんなに手間のかかる計画を選んだんだろうな? 大臣の孫を重症熱傷にしたのは都心の提携病院に収容させるためだっていうのは、理屈が通る気もするが……。そもそもウイルスをばら撒くのが目的なら、いきなり都心で拡散する方が効果も高いだろうに……」
それは、谷垣が真っ先に突き当たった疑問でもある。
「北朝鮮のバイオテロだと見抜かれたら、徹底した制裁を加えられるからでしょうね。天然痘ウイルスを保管している国なんて、そう多くはありませんから。国際的にも許されません。最初に硫黄島の偽情報を拡散したのは、パンデミックの責任を自衛隊になすりつけたいからです。発生源が自衛隊だと疑われるだけで、日本の信用は地に落ちますから。国内だって、他国のテロなら国民が団結しますけど、隊が犯人なら逆に国論が分裂します。日本を弱体化させるには、ダブルパンチ――いや、経済的ダメージを考えればその何10倍もの効果があるでしょう」
「それでも長谷川は、命をも捨てられるっていう筋金入りのスパイなんだろう? あいつが1人で機内にウイルスをばら撒けば、そもそも誘拐事件とか漁船の一団も必要なかったんじゃないか?」
谷垣はその疑問についても、自分なりの結論を出していた。
「硫黄島がウイルスの発生源なら、まずは一番近い母島が感染しているのが自然ですよね。母島の中学生は、硫黄島に見学とか行きますから。都心から離れた母島が汚染されていれば、犯人は自衛隊以外にいないって証拠になります」
「だったら、硫黄島の基地が先に感染していないのはおかしくないか?」
「自衛隊が細菌兵器の漏洩を隠蔽している――そう国民に思い込ませるだけでいいんです。マスコミを使って騒ぎ立てれば、否定する証拠をいくら出したところで信用されません。疑惑はさらに深まった――とかいってね」
「そうだとしても、長谷川なら簡単に母島にウイルスを拡散できるんじゃ……?」
「そんな余裕って、俺らにあります? 母島に着いても患者を収容してすぐ飛び立ちますから、外に出ている時間なんてほとんどないじゃないですか。ちょっと足元にウイルスをばら撒いたところで、いつ広がるか分からないし、そもそも感染が拡大する保証もない。だから、確実な方法として手下の漁師をウイルスまみれにして滞在させたんだと思います」
「部下全員が生きた感染源だということか……?」
「残酷なやり方ですけどね。仲間の命さえなんとも思っていないんでしょう」
灘は重苦しいため息を漏らした。
「厄介な相手だな……。長谷川は、医師でもあるのに……」
谷垣はすでに、長谷川に人間的な良識が残っているとは期待していない。
「工藤さんたちにもこの件、話しますか?」
「必要があればな。騒いでもどうにもならないことは理解できたようだ。爆弾やウイルスと一緒だと分かったところで、どうせ逃げ場はない。さっきも由香里さんは動揺していたが、森先生がなだめてくれている。少なくとも、邪魔はしないでおとなしくはしているだろう」
「それで、心配事は少し減りますね」
と、キャビンからドアがノックされた。
小窓の先に緊迫した表情の森が立っていた。灘がドアをスライドする。
森が言った。
「圭子さんの容態が急変している」
「危険な状態ですか⁉」
「極めて。熱傷患者の隣に寝かせられないか? 改めてバイタルも計測してほしい」
「分かりました。ですが、手術になる可能性は?」
「手術? ここで? それに長谷川先生はテロリストなのでは……?」
灘が質問を無視して、強い口調で繰り返す。
「緊急手術が必要な可能性は⁉」
森が目を伏せる。
「私が病院の管理者なら、すぐに順番を変えてオペを割り込ませる」
灘の判断は一瞬だった。振り返って谷垣に命じる。
「望月さんをキャビンに移動する。それと、ペンタゾシンと再麻酔の準備だ。キャビンのシートに固定した上で、覚醒を開始する」
ホッとしたようにため息をもらした谷垣の表情も、しかし緊迫していた。
「了解。市ヶ谷には俺から連絡します」
森が言った。
「わざわざ動かさなくても、ベッドが2つあるんだし――」
「万一手術が必要なら、少しでも広くしておく必要があります。AORに設備は備わっていますが、狭いがための医療事故を起こせば双方の患者に危険が及びますから」
谷垣にはその本当の理由が分かっていた。
望月は天然痘ウイルスに感染している可能性が高い。そんな中で他者の手術を決行するのはあまりに無謀だ。
すでに機内は汚染されているとしても、感染拡大が確定したわけではない。センサーが検出したウイルスも、天然痘だとは断定できていない。危険度の低いウイルスの亜種かもしれないのだ。
AORで手術を決行するなら、せめてドア一枚は隔てるのが当然の配慮だ。
2人で望月の固定バンドを外し、体を持ち上げる。頭側を持った谷垣は熱傷部位に触れないように細心の注意を払いながら、すり足でキャビンへ出て行く。
キャビンのシートでは、工藤圭子が体を折り曲げて苦痛に耐えている様子だった。由香里が、心配そうな表情でその背中をさすっている。傍らに森がひざまづいて圭子の脈を測っている。
森が灘を見上げた。
「車椅子はどこですか?」
灘が、並べたシートに熱傷患者を横たえながら答える。
「AORの外です。コックピット側なので、ドアを開けるのは危険です。圭子さんは我々が運びます」そして森に顔を寄せ、小声で言った。「中にはロータブレーターの用具も揃っています。最悪の場合、施術をお願いできますか?」
森の表情に、明らかな緊張が走り抜けた。
「ここ数年、手がけたことはないんですが……」
「事情は聞いています。それでも、お願いするしかありません。我々には資格がないし、そもそも経験がない。他の方法があるなら、民間人のあなたには頼みません」
「僕にはできないから、東京に運んでいただいているのに……」
「それでも、あなたには経験の積み重ねがある。ロータブレーター以外なら、カテーテル手術も行なっている……。もちろん、あくまでも緊急の際に限ったお願いです」
「選択肢はないってことですか?」
灘の表情は厳しい。
「ここに一刻を争う患者がいる。機材も揃っている。スキルも資格もある医師もいる――たった1人だけ、ですけど。さて、その医師はどういう決断をするんでしょうね?」
森は答えられずに呆然と灘を見返す。
会話を聞いていた谷垣は、森をにらんだ。
「あなたの気持ちなんかどうだって構わない。俺の気持ちだって意味はない。今は、すべての状況に対応できる準備を進めるだけです。俺はAORの滅菌を進めて、手術の機材を用意しておきます」
谷垣はAORに入り、手術を前提とした準備を開始した。
灘がうなずく。
「自分は森先生とともに圭子さんの状態を確認する」そして、森の目を覗き込む。「先生、あなたは少なくとも今まで圭子さんの主治医だった。次に危険な状態になったらロータブレーター手術以外に危険性を取り除く方法がないと判断したのも、あなただ。そもそも、あなたが赴任してくれたおかげで小笠原諸島でカテーテル手術全般が可能になったんでしょう? おかげで隊の搬送回数は半減したし、離島での生活の質は格段に向上した」
「しかしまだ、島でロータブレーターを使ったことはない。経験を積んだ助手のサポートがなければ困難な手術だからだ。何年もブランクがある」
「それでも、準備終了までは責任を持ってもらわないとね。転院先に渡すデータは持参しているんでしょう? まずはそれを、AORのコンピュータに入力します」
「その先はどうするんだ……」
「この機内にいる医師は、他には長谷川だけ。あなたが施術できないなら、彼を拳銃で脅してでもやらせるしかない」
「そんな、バカバカしい……」
「あなたができないと言い張るなら、です」
「しかし、あと2時間もすれば転院先に到着するんじゃ……?」
「長谷川はテロリストだ。そいつが、金を手に入れるまでは時間を引き伸ばすと宣言している。病院で手術ができるまでどれだけ待たなければならないか、誰にも分からない。決断するのは、主治医のあなたしかいない」
都心に入れないことは、まだ明かせない。機内に爆発物があるだけでも耐えがたい恐怖だろう。その上に生物兵器感染の恐れが高いと知れば、落ち着いて手術ができるはずがない。
「そうは言っても、そこまでの緊急性があるのかどうか――」
灘がいきなり怒声を放った。
「これからそれを確かめるんだ! お前が医師なら、グダグダ言ってねえでさっさと動きやがれ!」
一瞬ひるんで目を伏せた森が、灘を見上げる。
「そうだな……まずは、できることをしよう」
工藤圭子は、シートで胸を抱えていた。その背中を、由香里がさすっている。
「おばあちゃん、大丈夫……?」
圭子の声は消え入りそうだ。
「大丈夫じゃないかもね……」
「そんな……」
「いいのよ、これで。もうおばあちゃんなんだから……。そろそろ、つらい思いは終りにしたいの。あの世でお父さんに会ったら、由香里はいい子に育ってるって教えてあげられるしね……」
「やめてよ!」そして由香里は、灘を見つめる。「手術、できるんですよね⁉」
圭子は由香里の腕にすがる。
「もう許して……あんたのお父さんに、早く謝りたいのよ……」
由香里は言葉を失った。
2人を、森が厳しい目で見つめる。その目に決意が滲み、きっぱりと言った。
「圭子さん、ごめん。まだ死なせるわけにはいかない。由香里さんとゆっくり話がしたいって、ずっと言ってたでしょう? 息子さんに会うのは、その後でも遅くないから」
そして森と灘は、工藤圭子を両側から持ち上げてAORに運び始める。灘はもはや銃創の痛みも忘れているのか、顔色一つ変えない。
灘が振り返り、心配そうに見つめる由香里に言った。
「ごめんね、狭すぎて君は中に入れないんだ。おばあちゃんは責任を持って預かるから、そこで待ってて」
由香里はゆっくりとうなずく。
「助けてくださいね……」
彼らはAORのドアをくぐった。
窮屈な通路で身をよじりながら場所を変えた谷垣が言った。
「機材の準備は、一応終えました。オゾン滅菌も最大にしてあります」
中には、アルコールとオゾン水で周囲を消毒した臭気が充満していた。雑菌の侵入を防ぐためにAORの内部は気圧が高めに設定されている。その臭気はすぐにキャビンへ排出されるはずだ。
多機能のオゾン発生装置は、AORが備えている装備の一つだった。低濃度のオゾンガスを循環させて室内をくまなく殺菌している。
オゾンは三つの酸素原子が結合した酸素の同素体で、強力な酸化力を持つ。分子との反応性が極めて高く、酸素原子が他の分子を切断することで、強力な殺菌作用を発揮する。しかも反応後は酸素に戻り、過剰な量でなければ人体への悪影響もない。
その殺菌力は強力で、細菌のみならずウイルスにも効果を発揮する。インフルエンザやノロウイルスにも効果的で、多くの食品工場や病院で使用されているシステムだ。副次的に脱臭効果も認められている。AORではさらに、機材や手指消毒用としてオゾン水の生成装置も準備されていた。
灘が、キャビンへ出ようとした谷垣の肩を軽く掴んでささやく。
「バイタル測定と症状の確認は自分がする。だが、傷で腕が自由にならない。手術が必要なら、サポートはお前がしてくれないか?」
谷垣が一瞬、息を呑む。
「AORの中で、森と……?」
「つらいのは分かる。しかしこの腕では機材も自由に扱えない。さっきから痛みもひどい。鎮静剤を使えば、頭も働くなる……」
顔には出さなくとも、灘は必死に苦痛をこらえていたのだ。
「しかし俺は、ただの救命士で……」
「付き合いは短いが、お前が常に努力してきたことは知っている。非番を使ってカテーテル手術の研修を頻繁に受けていることもな」
谷垣は意外そうに灘を見つめた。
「隊を辞めても活かせる技能が欲しくて……」
「その程度の理由で、あんなに熱心になれるか?」
谷垣は、新入り自衛隊員としての灘を軽く見ることもあった。
しかし灘は医療従事者の先輩として谷垣を観察し、冷静な目で評価していたのだ。
「もう姉貴みたいな事故を起こさせたくないから……医師の技量を100パーセント活かせる助手になりたかったんです……」
「理由はどうあれ、知識は充分だ。実習も受けている。裏付けもなしに信じているわけじゃない」
谷垣は、決断を避けるように言った。
「まずは、状態の確認です。緊急性が少ないなら、こんな場所で手術を始めるのは非常識です」
「判断は森に任せていいな?」
「異論はありません」
「分かった。キャビンからも統幕と通信できるよな?」
「あっちの通信装置はAORに接続できます。ヘッドセットもありますし、コックピットに聞かれないようにセッティングすることもできます」
「状況説明は任せた。すまないが、望月さんと由香里さんの対応も頼むぞ」そして声をさらに落とす。「ちなみに、感染症の件はまだ隠しておけ」
「了解」
谷垣がAORを出ると、背後で灘がドアを閉じた。
谷垣はキャビンを見渡した。
熱傷患者が右舷に寝かされている。
由香里はその対角に座り、縮こまって体を抱えている。望月が意識を取り戻した様子はない。
由香里の傍にしゃがんで、語りかける。
「おばあちゃんは森先生に任せてください。灘さんも見た通りベテランですから」
由香里の視線が床に向かう。
「でも、爆弾があるし……」
谷垣は、あえて恐れを隠さずに答えた。
「ご心配は分かります。俺らだってテロリストに狙われるだなんて思ってませんでした。でも狭い機体だし、空の上だから逃げられないしね。怖いのは、実は乗員も同じなんです。自衛隊員だからって、こんなのは初めてですから。俺らが自分の身を守るということは、すなわちあなたの身を守ることにもなります。だから、協力してください。無理なことはお願いしません。怖いと思ったら、目を閉じてじっと我慢してもらえればそれでいいんです。民間人を巻き込むのは心苦しいですが、一緒にこの危機を乗り越えましょう」
由香里がうなずくと、谷垣は立ち上がって統幕への状況報告を開始した。
数分後、その通信に灘が割り込んだ。その報告は、そのまま統幕へも伝わっている。
『灘です。今、患者の容態がさらに悪化しました。度重なったストレスが発作の引き金を引いたようです』
谷垣が叫ぶ。
「AORで手術するんですか⁉」
『急性心筋梗塞の兆候が顕著だ。一刻を争う状態だ。谷垣、自分と代わってくれ』
「まさか、そこまで……森先生はなんと言ってるんですか⁉」
『手術決行は森医師の判断だ。彼が施術する』
谷垣は絶句した。あれほど手術を避けようとしていた森を決断させたなら、患者の命が危機に瀕しているのは間違いない。
谷垣の個人的感情など入り込む余地はない。
統幕が割り込む。
『手術にはどの程度の時間を予定しているか? 送れ』
灘の返事は躊躇がなかった。森との話し合いが付いているということだ。
『カテーテル挿入の準備はすでに開始しています。およそ1時間後には全ての手術が終わる予定です……万一終わらなければ、延命に処置に切り替えます。その場合、患者の命は保証できません。テロリストに占拠されたままでは、開胸手術までは行えませんので』
『了解した。その計画に従ってこちらも対応する』
『AORの振動防止機構は衛生ユニットほど高性能ではありません。コックピットに連絡がつくようなら、なるべく機体を安定させるように要請してください。間もなく手術を開始しますので』
『了解した。終わる』
同時にAORのドアが開いた。
灘と谷垣が無言で入れ替わる。
奥では森がスクラブ――AORに備え付けの濃紺の手術衣を羽織っていた。谷垣もスクラブを取って袖を通す。そしてスライドドアを閉じた。
谷垣がヘッドセットを通じて受けた通信は、由香里には聞こえていない。
ドアが閉まると、キャビンの由香里が灘を見上げて目を合わせる。
「こんな場所で手術をするんですか……」
灘はすでに事実を隠すつもりはなかった。
「一刻を争います。ロータブレーターを開始します。危険ですが、全力を尽くします。谷垣なら、きっとやり遂げてくれます」
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