7・策略
ドアを閉めた長谷川は、息絶えた機長を見下ろしながら言った。
「中野君、事態は呑み込めたかね?」
そして、予想外の展開に思考を奪われた中野翔子一尉の目を覗き込む。
長谷川を見つめた中野の目に、ゆっくりと理性が戻る。
「長谷川さん……あなたは……?」
長谷川は冷たく厳しい表情を崩さない。
中野には、そんな長谷川の顔を見た記憶はない。
「君たち日本人は、心底お人好しだ。そして愚かだ。国を守る立場にある自衛隊でさえ、簡単に侵入を許し、しかも信用しきってしまうとはな」
「何を言ってるの……?」
「私は唯一無二の革命的遺伝子を持つ指導者に忠誠を誓った細胞なのだ。その命令は絶対だ」
「それって……チュチェ思想⁉ 北朝鮮のスパイだったっていうこと⁉」
長谷川の目に、狂気にも似た光がゆらめく。
「スパイ、か……俗な言葉だな。我々は、首領様の高邁な思想を実現するために選ばれた戦士だ。日本人民を野蛮で下品な帝国主義から解放するために、その内部から突き崩そうとするのは当然の責務ではないか? この世界は常に戦時なのだからな。そのために私は、この腐敗した国に住むことに耐え、医師としての資格を身につけ、自衛隊に潜入した。我々、革命の戦士にとっては、すべてが容易いことだった。苦しいのは、この国の人民が放つ腐臭に耐え、己もまたその腐りきった精神を演じ続けなければならなかったことだ。だがそれも、待ち続けた命令が下ったことでようやく終わりを告げる。私は解放される。君たちもまた、解放されるのだ」
中野がつぶやく。
「なに、そのカルト……」
長谷川は怒りも見せない。唇にははっきりと嘲笑が浮かんでいる。
「君は哀れな日本人の典型だな。腐りきった世界の腐臭にも気づかぬまま、踊り狂う哀れな猿だ。首領様はやはり正しかったのだ。日本人は天皇制などという欺瞞を捨て、首領様の血統によって統治されるべきなのだ。それが歴史の進化というものだ」
中野が機長の無残な死体を見て、我に返る。
「ふざけたことを! あんたは身代金目当ての犯罪者にすぎないわ!」
それでも長谷川は動じない。
「だから哀れだと言っているんだ。我々の計画が単に金目当てだと思うか? お前がそう考えるのは、貴様ら帝国主義者が金の亡者であるという証に過ぎない。我々の指導者には、はるかに遠大な計画があるのだ。そして正義は、常に首領様の御心とともにある」
「首領様って……とっくに死んでるんじゃないの⁉ 北朝鮮は集団指導体制に移りつつあるって――」
「それが欺瞞なのだ。安っぽいデマに騙されるほど我々は愚かではない!」
山下が振り返った。
「いいのかよ、そんなにベラベラ喋って」
長谷川がかすかに笑う。
「お前が馬脚を露わしたせいで、計画は修正せざるを得なくなった。それでもなお、着実に進行している。首領様のご指示はそれほど揺るぎない。もはや後戻りはあり得ない。私は最後まで正体を晒す予定ではなかったが、今更それは言うまい。何年もの長い間、自分を圧し殺して自衛隊での日々を耐えていたんだからな。この苦行を終えられるなら、それも救いだ。ただ、少しぐらいは鬱憤を晴らさせてほしいものだ」
「だからって、こんな下っ端の女に当たっても仕方ねえだろう?」
「その下っ端が、今はこの機体の命運を握っているのだが?」
「ま、男の機長よりは御し易いだろうからな」そして、長谷川をドア近くまで押し付けて声を落とす。「だからこそ、反抗されたらまずいんじゃねえのか?」
長谷川も小声で答える。
「反抗などできない。後ろには死なせることができない重症患者が乗っている。こんな事態に備えてわざわざ拉致した重要人物だ。しかも、運よく一般の患者まで運んでいる。もはやこの機は、どうあっても東京に向かうしかない。お前さえヘマをしなければ、私なしでも問題はなかったのだ」
「だが俺の正体がこうもあっさり暴かれたのは、その計画の手落ちじゃねえのか? 火傷が偽装だって見抜かれたのは俺の責任じゃねえ」
「疑いを持たれない焼き方はレクチャーされたはずだ。なぜ、教えられた通りにできなかった?」
「医者じゃねえからな。そんなに都合よくできるはずがねえだろうが。そもそも、身代金の要求だって東京上空に入ってからのはずじゃなかったのか?」
「プランに変更はつきものだ。灘が感づいてしまった以上、プランBに移るしかなかった」
「そう判断したのは、お前だろう?」
「ああ。すぐに病院の仲間に暗号メールを送った。向こうには、母島で船員が捕まった情報まで届いていた。このリアクションの速さは、確かに想定外だ」
「だったら、俺に当たるな」
「それでもお前は、簡単に制圧されすぎた」
「ふん、お気の毒様。あいにく、マグロを追っかけるしか取り柄がない船乗りなんでな。で、確認だ。俺の役目は病院に着くまで。そこから先は金を手にして、あんたらが用意したルートで韓国に逃走、そして身分を変える。以後は一切あんたらとは関わりを持たない。それでいいんだな?」
「貴様が望むままに」
「ま、当然だよな。日本に家族はいないが、在日の暮らしだってそう悪くはなかった。それを捨てるんだから、相応の見返りがもらえなくちゃな」
「貴様も金の亡者に過ぎないということか」
「なんとでも言え。返済は終わっているが、唯一の財産だったポンコツ船だって燃やしちまった。金がなくちゃ、この先、生活できねえだろうが」
「我が国の指導者は、協力者に恩恵を与えることを躊躇しない。だが計画を完遂するまでの残り数時間は、首領様の信念に従って行動することを要求する」
「これ以上何かしろってか?」
「貴様は私の指示に従っていればいい。考えるのは、私だ。そして私の考えは、首領様の意志だ」
「はいはい、分かりましたよ」
その投げやりな答えに、長谷川はあからさまに不快な表情を見せた。そして、狭い通路の中で体をよじって山下と場所を変わる。
「機長が邪魔だ。私がそっちに出すから、貴様は死体を通路に運べ」
「ドアを開けたら銃撃されるんじゃねえか?」
「いや、あいつらはAORのドアを密閉して立てこもったはずだ」
「今はあっちに拳銃があるんだぞ」
「武器はあっても、使う意思が定まっていなければ、恐るには足らない。自衛隊員に、戦う覚悟があると思うか?」
「さっきは抵抗されたじゃないか」
「撃たれたわけじゃない。問題は、相手の目を見て引き金を引けるかどうかだ」
長谷川は言いながら機長のシートベルトを外し、死体を引っ張り出す。
中野には、騒音に紛れた2人の会話は聞こえていなかったようだ。驚いたように叫ぶ。
「鬼嶋さんをどうする気⁉」
長谷川は微笑んだ。
「機長席を空けてもらうだけだ。おめでとう、ここが君の席だ」
「お断りよ!」
「機長になりたかったんじゃないのか?」
「バカにしないで!」
「まあ、ほんの1日早まっただけだがね。さて、新機長に最初の任務を与えよう」
「何を言ってるの⁉」
「君が操縦しなければ、この機は着陸できない。隊員だけならともかく、君は重症患者と民間人を巻き添えにしたいのかね?」
中野が悔しげにつぶやく。
「ふざけたことを……」
「コックピットは狭いんでね。東京に着くまで、外の通路に置いておくだけだ。我々とて、死者は粗末には扱わない」
「東京に着くまでって……それからどうするつもり⁉」
長谷川は、躊躇なく答えた。
「別に。その時は、我が祖国に大量の資金が流れ込んでいる。患者たちを病院に降ろし、再び飛行を開始するだけだ」
中野の顔に初めて恐怖に似た色が浮かんだ。
「飛行って……」
中野の言葉は強気だったが、初めてかすかな吐き気を感じていたことに気づいた。
長谷川が、その恐れを的確に読み取る。
「当然、操縦するのは君だよ。他にオスプレイを扱える人間はいない。なに、私が指示する場所に着陸してさえしてくれればいい。そこで私たちは姿を消す。君たちもこの機体も、そこで解放される。それだけだ」
中野は、恐れを表情に出すまいと必死だった。
それだけ――のはずがないのだ。
目的がたった100億円の資金なら、離島でオスプレイをハイジャックする必然性はない。一時期よりは困難になったとはいえ、サイバーアタックで入手できる程度の金額だ。過去には、海外銀行や暗号通貨を襲って2000億円を超える金額を奪ってきたともいわれている。
他に何かある。彼らの目的は、金だけではない。
中野は確信した。
彼らはおそらく、オスプレイ自体の強奪を企てている。北朝鮮にとっては、機密情報の宝庫だろう。最新電子制御システムと複合素材の集合体――AOR型には兵器管制システムは搭載していないが、その代わりに最先端の医療技術が詰まっている。そのものを模倣することは不可能でも、劣化コピーを量産するだけで軍事力は格段に高まる。
その上、中国やロシアとの交渉材料としても凄まじい価値を持つ。軍事技術開発者を招き入れれば、代償として経済協力や食糧支援を引き出すことも簡単だ。臓器移植やバイオ産業の一段の発展を求める中国共産党にとっても、AORの先端技術は垂涎の的だろう。
だとすれば、操縦に長けた人間も一緒でなければ価値は半減する。操縦者がいなければどこにも行けないし、機体の取り扱いを学ぶこともできない。
高度な最新製品には、マニュアルが不可欠ではないか――。
今の状況でなら、それは自分だ。彼らが屈強な機長を射殺したのは、自分に恐怖を植え付けるためだ。操縦能力は同等でも、より体力が劣る自分を手駒にするために、有無を言わせずに排除したのだ。
つまりそれが、〝初任務〟なのだ。
長谷川の狙いは、戦術的には正しい。だが、体力と精神力は必ずしも一致しない。
たやすく屈してたまるか――。
中野には、女性自衛官だからこその覚悟があった。
体力で劣るというなら、精神力では絶対に男には負けない。智力や機敏さ、粘り強さで遅れをとってはならない。血を見ることを恐れてはならない。求められれば、ためらわずに〝敵〟を撃退する。それは、ナイフを武器にした肉弾戦であっても同じだ。
自衛官を志した時からの信念だった。
だから中野は航空自衛官には珍しく、常に戦闘訓練に時間を割いてきた。パイロットには必要とはされなくとも、参加可能な格闘訓練には必ず志願してきた。中野がオスプレイの操縦士として頭角を現したのは、その地道な努力と揺るぎない信念が認められたからでもある。
戦わなくてはならない――。
同時に、冷静な判断も働いていた。
だが、今ではない――。
東京に着く前には、きっとその時がやってくる。
その瞬間のために、今は長谷川の指示に従いながら、彼らの計画を正確に見抜かなければならない。少しでも多くの情報を集めなければならない。
それが自衛官として、今の自分ができることだ。国民を守るためになさなければならない責務だ。
中野はそう決意した。
振り返ると、背後で山下がコックピットのドアを開いたところだった。恐る恐る通路に首を出し、そして安心したように戻る。
長谷川に言う。
「あっちのドアは閉まってる。奴ら、閉じこもったわけだ」
「さっさと死体を出しておけ」
山下はうなずくと、鬼嶋機長の死体を無造作に引きずってコックピットを出た。
中野の表情に、死者の扱いに対する怒りが浮かぶ。
それに気づきながらも、長谷川が命じる。
「さあ、操縦席へ」
中野は無言でシートを移動した。まだ機長の温もりが残っている気がする。軽い吐き気とともに、悔しさを呑み込んだ。
激しい喪失感に襲われる。気力も萎える。恐怖に体がこわばる。それでも、耐えなくてはならない。
言いなりになるしかないのだ。
今は――。
長谷川は空いた副操縦席に座り、中野の顔を見る。
「そんな顔はするな。あれはもはや死体だ。怪我人と一緒に君の祖国に返還するので、気がすむまで丁寧に葬ってやればいい」
長谷川の手には、いつの間にか黒いセカンドバッグのようなものが握られていた。操縦席の後ろの隙間から取り出したようだ。オスプレイの備品ではない。
中野が言った。
「それ、何⁉」
長谷川がバッグから拳銃を出し、銃口を中野に向ける。
コルトの文字が刻まれた小型拳銃だ。機長が撃たれた時に一瞬見えた拳銃と同じ種類のようだ。
「我々はこの機体をハイジャックした。当然、武器は必要だろう?」
さらに大きめの携帯電話を出して、窓際に置く。衛星通信電話だ。次に小ぶりなペイントスプレー缶を出し、立ち上がって天井の両脇に配置されている2つのカメラのレンズに吹きかけた。
これでコックピットの様子は外部から監視できなくなる。
長谷川はあらかじめ、コックピットに機材を隠していたのだ。
もともとオスプレイ専属の医官であった長谷川は、誰にも誰何されずに乗り降りが可能だ。そもそも医療活動が任務の航空衛生隊は、武器に対する警戒心も薄い。いったん自衛隊の組織内部に侵入してしまえば、一般の航空機の乗客のようなチェックすらされない。
自衛隊の盲点だ。長谷川が武器を隠すことは容易だったのだろう。
中野が長谷川をにらむ。
「拳銃でわたしを脅すの?」
「それに、どんな意味がある? 君を殺せば、我々もオスプレイとともに海の藻屑だ。自動操縦で運良く東京までたどり着いたところで、病院に着陸することもままならない。そうなれば、怪我人たちも治療を受けられずに、この世を去るだろう。なぜわざわざ大臣の孫を島まで運び、危篤状態にしたと思っている? 君たちの抵抗を封じるためだ。ただし、逆らえば殺すことをためらわない。最悪、自爆も覚悟している。だから反抗はすなわち、君が機動衛生隊の任務を放棄したということになる。一般人まで巻き添えにして玉砕することを、正当な職務だと思うのか?」
中野は言葉を返さずに、コンソールに目を戻した。改めて、自分に言い聞かせる。
今は耐える時だ。情報を集め、対策を考え、実行するチャンスをうかがうべき時だ。
行動を起こすタイミングは、必ず来る――。
そう信じて……。
と、統括からの通信が入った。
ヘルメットを介してのみ通話が許された秘匿回線だ。ヘルメットをつけていない長谷川には聞こえない。通信パネルのランプの色は変わるが、その意味や操作手順を熟知していなければ通信を受けていることにも気づかないはずだ。
パイロットではない長谷川は、当然操作パネルの知識は薄い。
中野は、長谷川の表情を確かめたい気持ちを必死に抑え、何事も起きていないかのように装った。
通信は通常より音量が絞られていた。明らかに、中野以外には聞かせたくない内容なのだ。
通信士がささやくように言った。
『通信を受けていることを気づかせるな。こちら、市ヶ谷の中央指揮所。口頭での返信は不要。キャビンの谷垣二尉より状況報告は受けた。現在、持ち込まれた爆発物の内部を解析する作業が進行中。市ヶ谷ではコックピットの現状を、以下のように推測している――機長は長谷川医官に射殺され、コックピットが封鎖された。長谷川医官は山下船長と協力し、ハイジャックを行なった。他国、恐らくは北朝鮮によるテロと推測される。現在、中野一尉はその2名に操縦を強要されている。――以上、大筋で間違いはないか? テロ犯に気づかれない方法で、なんらかのサインを送ってほしい』
航空機動衛生隊の指揮所機能を持つ統括班は、愛知県の小牧基地に置かれている。しかし通信は自衛隊の中心ともいえる市ヶ谷から送られてきた。それは〝作戦〟の指揮権が統幕――統合幕僚監部に移管したことを意味する。通常の命令系統から外れたということだ。厳密な役割分担に則って活動する自衛隊にとっては、まさに異例だ。
事態は、国家的規模に発展している。
中野は目の前の液晶表示に異変を察したかのように身を乗り出し、振り返って翼端のローターを確認する。その際に、わざとヘルメットを窓にぶつけた。
長谷川がその動作に気づく。
「なにか異変か?」
その声をかすかに捉えたのか、統幕が息を凝らすのが感じられる。エンジン音に紛れてはいるが、防諜部門が機内の会話の解析に全力を挙げているのだろう。
中野は言った。
「自動操縦なのに高度が少し下がった。ローターには異常はなさそうだから、たぶん気流変動のサインね。これから、少し揺れるかもしれない。よくあることよ」
長谷川がうなずく。
「分かった。だが、抵抗しようなどとは考えるなよ」
中野は返事もしなかった。
統幕が通信を再開する。
『返信を確認した。今後、この方法で情報を伝達する。答えが必要な場合、イエスなら何もしないでいい。ノーの場合のみ、可能な方法でサインを送れ』
長谷川が訝しげな表情で銃口を中野に向ける。
中野は大げさなため息を漏らすと、長谷川に顔を向けて平然と言った。
「長谷川さん、何をピリピリしてるの? 別に乱気流に突入しようってわけじゃないのよ。気象は安定してるし、空が晴れてるの見えるでしょう?」
中野はその言葉が統幕にも聞こえていることを意識しながら話していた。これで、長谷川自身も相当な緊張状態にあることが伝わったはずだ。
長谷川が答える前に、山下が戻った。
「死体は手術室のドアに立てかけてきた。もし奴らがドアを開ければ中に倒れる。肝を冷やすことになるぞ」
中野は気配を察したかのように振り返っていた。山下の方向に顔を向ければ、ヘルメットに内蔵したマイクがその声を捕らえやすくなるからだ。
長谷川が答えた。
「ごくろう」
山下はコックピットのドアを閉じ、予備シートを倒して座り込む。
「この先、何をすればいい?」
「とりあえずは、待つ。金が送金されれば、連絡が入る」
「入らなければ?」
「次の行動を指示される。我々は首領様の意思に従うのみだ」
中野は体を元の向きに戻した。
ヘルメットに、再び通信が入る。
『コックピット内の会話が、わずかだが聞き取れる。今、クリアになるように補正している。その調子で情報を収集してほしい。官邸との協議の結果を伝える。現時点では、テロリストの要求には一切応じないという基本路線は揺らいでいない。当然、身代金の支払いは行わない。ただしこれは、公の見解だ。大臣周辺からの圧力は凄まじいようだ。官房機密費に加え、財務省のいわゆる〝埋蔵金〟からの支出が密かに検討されている。一方で、各種テロを防いだ経験を持つ国家安全保障局内の特別班――ECHO(エコー)と称するチームだが、彼らの指揮で対策が立てられている。官邸は彼らの問題解決能力に期待しているようだ。統幕もエコーの指揮下に入るように指示されている。国をあげて君たちのバックアップに動き出しているので、決して軽はずみな行動は起こさぬように。繰り返す。指示なき行動は慎むように』
東京への飛行時間は、残り2時間を切っているだろう。しかし、身代金の支払いが行われなければ、燃料が切れるまで旋回を命じられるはずだ。通信からは、官邸はすでに支払い拒否を決断したというニュアンスが伝わった。裏取引は画策されたとしても、必ず実行される保証はない。そうなれば熱傷患者の本格治療が遅れ、最悪の場合は死に至ることが避けられない。
問題は、支払い拒否の通告後にテロリストたちがどういう選択をするか、だ。
金目当てにしか感じられない山下はともかく、長谷川はチュチェ思想を盲信する確信犯だ。言葉通りなら、命を捨てることも厭わない。最悪の場合は、9・11のようにオスプレイを重要施設に突っ込ませることも画策しているかもしれない。
例えばそれが国会議事堂や皇居なら、実害は少なくても国家の威信が失墜する。国民のパニックを誘発して、経済に回復困難なダメージを与えるかもしれない……。
そこまで考えて、中野に一つのアイデアが浮かんだ。
支払いが行われなければ山下は利益を得られないどころか、命を失いかねない。それを山下が思い知れば、長谷川を止める側に回るのではないか――。
今は、行動を自重すべき時だ。しかしいったん事が動き出せば、状況を左右するカギになるかもしれない。そのためには、山下に現実を知らせる必要がある。
どうすればそれが可能なのか……?
中野の頭は激しく動き始めていた。
さらに通信が入る。通信員自身が驚きを隠せないような口調だ。
『たった今、重大な情報が届けられた。長谷川らに見張られているなら、絶対に表情に出さないように。繰り返す。絶対に表情に出すな。君たちが母島に運んだ2人の警官は、先ほど伝えたエコーの調査員だと明らかにされた。硫黄島で細菌兵器が開発されているという噂の真偽や出所を探るための活動中だった。しかし偶然にも港に退避していた漁船の爆発に遭遇し、噂との関連性を疑った。逃亡した漁船員が爆破の疑いで逮捕されたが、その1人から未知のウイルスが検出された。最新のバイオセンサーで確認したという。天然痘の亜種である可能性が高い。世界中で根絶されたウイルスだが、緊急で特定作業が開始された。どうやらエコーはアメリカの情報当局から、北朝鮮軍の一部が天然痘ウイルステロを計画していると警告されていたようだ。おそらく、望月氏も感染させられている。彼を都内の病院に収容することでパンデミックを起こすことがハイジャックの真の目的であると疑われる。長谷川は、まだ我々がウイルス感染を察知したことを知らないと推測できる。その前提で行動せよ。現時点でのエコーの状況分析を知らせる。――この天然痘ウイルスは、北朝鮮が兵器化した株だと推定。罹患率も致死率も従来知られていたウイルスより高いと思われる。したがって、そのオスプレイを都内に入れてはならない。繰り返す。オスプレイを東京上空に侵入させてはならない。――これは、命令だ』
そして無線の声が変わる。
『統合幕僚長だ。異例なことだが、この作戦は特別対策室を設けて私が直接指揮することとなった。命令を繰り返す。何があろうと都内には侵入するな』
中野は吐き気が強まったことにも気づかなかった。無表情を装うことに必死だったのだ。
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