5・制圧
谷垣の足元に急上昇のショックが伝わる。下から突き上げられるような加速度が加わり、機体が大きく傾く。
それは、急降下したジェットコースターが上昇に転じる時のような感覚だった。
ドアの小窓を塞いでいた長谷川の背中が消える。バランスを崩して2、3歩、前のめりになったようだ。
山下が叫ぶ。
『なんだ⁉』
その一瞬で、谷垣はキャビンの状況を把握していた。
山下が持った銃は、工藤由香里の頭から離れて長谷川に向かう。長谷川の体は、バランスを崩したまま突進する。森は膝をついて、山下と対面側のシートにしがみつく。
チャンスは、この一瞬しかない。
谷垣は邪魔になるヘッドセットを投げ捨て、AORのドアをスライドして飛び出した。姿勢を低くして長谷川の背中を左側に突き飛ばしながら山下に突進し、銃に手を伸ばす。山下の手首を掴んで突き上げながら、体を回転させて抱え込む。そのままねじり上げ、銃口を機体後方へ向けようとする。
しかし抵抗する山下は、反撃を試みる。船長として鍛えた腕力は、谷垣と拮抗していた。
銃口は、次第にAORに向かっていく。
と、山下が悲鳴を上げる。肩の関節が外れたようだ。それでも反射的に引き金を引いていた。しかも乱闘の最中に、銃口は下向きに変わっていた。
銃声がキャビンを揺るがす。
工藤由香里は頭を抱えて目を見開きながらも、悲鳴をこらえて山下から体を離そうとシートを立つ。
その隙間に、谷垣が体を割り込ませた。谷垣は銃弾が放たれたことを無視して、力を失った山下の右腕をさらにねじり上げて銃を奪って安全装置をかける。
そして銃をズボンの背中に差し込んで叫んだ。
「捕縛のベルトを!」
灘がAORのドアにしがみついていた。谷垣の声で我に返り、ヘッドセットに叫ぶ。
「機長! 機体を水平に!」
そしてキャビンに突入し、谷垣にベルトを渡す。同時に、山下に覆いかぶさるように押さえ込んだ。
谷垣が叫ぶ。
「灘さん、そのままこいつの脚を押さえて!」
言いながら、山下の顔面を殴りつけて抵抗を封じ、体を後ろ向きに回す。両腕を背中で重ねてベルトを回し、思い切り締める。
山下が初めて苦痛の声をあげた。外れたままの肩が、さらに捻られたのだ。
谷垣はそれも無視して、山下の体を倒して床に這わせる。足首もベルトで縛り、さらに手足のベルトに3本目のベルトを通して引きしぼる。
山下は両手足を縛られたまま、反り返って床に転がされた。
その間谷垣は、緊張で息を止めていた。機体が水平飛行に戻っていたことにも気づかなかった。
ようやく安堵の溜息をもらす。
そして、額の汗をぬぐって気づいた。手のひらに、べったりと血が付いている。
背後で、灘がシートに座り込む気配があった。谷垣が振り返るとと、灘が右の二の腕を押さえていた。
「灘さん!」
「撃たれちまったようだ……」
谷垣が悔しそうに言った。
「俺、しくじっちゃいましたね……。今、処置します!」
そして、AORに飛び込んでいく。
灘は、ヘッドセットに言った。
「機長、山下を確保。その際、自分が右上腕部に銃創を負いました。銃弾は抜けているようで、痛みも感じません。すぐに谷垣に処置させます。貫通した弾がどこに飛んだかが不明です。機体に損傷がないか、計器のチェックを丁寧にお願いします」
『了解。だが、君は大丈夫なのか⁉』
「初めての銃創ですが、致命的な部位ではないでしょう。出血も少なそうだし、指も動きますし」
『本当か⁉』
「正直、よく分かんないですけど……。なんか、興奮してて……」
『早急に正確な報告を!』
谷垣が治療キットを持ってAORから戻る。
「これから処置します」
『それが終わったら、こっちに報告に来てくれ。統括に連絡しておく』
「了解」
谷垣は素早く灘の迷彩服の腕を切り裂き、傷の状態を確認する。
「灘さんの見立て通りですね。銃弾は抜けています。消毒と簡単な縫合で問題ないでしょう」
「あ、今、痛みが来た……撃たれた瞬間は、なんだか分からないもんなんだな……」
「そうなんですか? 俺は経験したくないですけど」
灘が消毒の刺激に顔をしかめる。
「名誉の負傷だぞ? 新入りに先を越されて悔しいか? 自衛隊員なら一生誇りにできるんじゃないか?」
「それでも嫌ですって。局所麻酔、打ちます」
「好きで撃たれたわけじゃないがな。ツイてないんだよ、いつも」
2人は、ただ運が良かっただけだということを知っていた。銃弾が逸れていたら、即死の可能性もあった。他の誰かに当たるかもしれなかったし、死者が出る恐れも少なくなかったのだ。機体が損傷している危険も残っている。
制圧は、成功だとは言い難い。
だからこその軽口だった。
それでも彼らの会話で、ようやくキャビンの緊張が解けた。
灘たちと対面する右舷シートには工藤圭子に抱きかかえられた由香里、森医師と長谷川が表情をこわばらせて座っている。
長谷川が、足元に転がされている船長を見下ろした。うつ伏せで横を向いた山下は、固く口を閉ざして身じろぎもしない。そして、しみじみと言った。
「自分はただの医師とは違うって、初めて実感したよ……。この仕事、命懸けなんだな……」
森がうなずく。
「医官って、並みの医者じゃなれませんね……」
谷垣が処置を続けながら応えた。
「こんな状況、何億円もの宝くじに当たる程度の確率ですって。だから医官も看護官も、ろくに実戦訓練は受けていないです」
「でも、こうして襲われましたよ」
「当たっちゃいましたね、悪運に……。まさか、衛生隊にテロだなんて……。基地とかでなら、ともかく」
森が首をかしげる。
「この船長、なんでこんな真似を?」
谷垣も、民間人に真実を教えるべきではないと分かっている。
「さあ? ちっぽけな拳銃だけでハイジャックできるとでも考えたんですかね。このオスプレイは高価ですから、隣国にでも売り飛ばす気なのかも」
そのとぼけた返答に、森も真意を見抜く。
この先は機密事項なのだ、と。
「でも、君は戦えた。みんな格闘術とか習ってるのかい?」
「俺は変わり者だから何度も訓練に志願してました。だからこんなこともできたんでしょう。っていうか、俺以外に矢面に立つ人間、いないんですよ。航空機動衛生隊って、武器なんか持ってませんから。そもそも自衛隊って、年寄りばっかりだしね」
灘が加わる。
「次も若いのに任せたぞ。まあ、ないことを祈るがね。ただし、銃は撃たせないでくれ」
「そこまで約束できませんって」そしてニヤリと笑う。「知ってます? 俺、救命士が本職なんですよ」
「そうだったのか?」
それは灘が珍しく口にした冗談だった。
と、灘のヘッドセットに機長の声が入る。
『統括に報告した。現場で勝手な判断を下すなと怒鳴られたよ。だが、結果には満足しているそうだ。傷の様子はどうだ?』
「もう止血も終わります」
『痛みは? 強い鎮静剤が必要か?』
機長は、欠員が生じることを心配しているようだ。
「東京に着くまでは職務を続けられます。意識を失うような薬を使う必要もないでしょう」
『キャビンは制圧できたんだろう? 休めないのか?』
「身代金要求は続いているんでしょう?」灘の目は谷垣に向かう。「谷垣は、テロがそれだけで終わると考えていません。この先何を企んでいるのか、まだ不明です。だから自分も、現場は離れません。決着が付いたら、休暇をいただきますけどね」
『自衛官の覚悟が身についてきたようだな』
「谷垣に感化されたようです」
『君の要望は責任を持って進言しよう。で、山下船長の確保は完全か?』
「銃も奪いました。今は身動き取れない状態です」
『統括が、直接尋問をしたがっている。キャビンでするわけにもいかんから、コックピットに連れてきてほしいのだが』
「分かりました」そして谷垣を見た。「こいつ、機長のところに連れていけるか?」
処置を終えた谷垣が長谷川に目をやる。
「長谷川さんと2人でなら」
長谷川が席を立つ。
「手伝おう」
そして谷垣は、山下の手足を結んでいたベルトを外した。山下の体が、ようやく平らに伸びる。しかし、手首のベルトには依然として3本目のベルトが結ばれていた。
谷垣が命じる。
「立てよ」
山下がようやく口を開いた。
「肩を直せ。痛えんだ」
「我慢しろ」
「足も外せよ。歩けねえだろうが」
谷垣が睨みつける。
「ふざけるな。跳ねて進め。外して足技でも使われたら迷惑だ。この狭さじゃ、蹴りも出せないだろうけどな」そして、長谷川に言う。「すんません、こいつのベルトを持って押してってもらえませんか? 実は俺、さっきどこか捻ったみたいで、腕にちょっと力が入らないんで」
長谷川は一瞬ためらいを見せたが、息を整えて応える。
「分かった。君、ちゃんと後ろにいてくれよ」
「もちろんです。でもこいつ、右腕が使えませんから、抵抗はできませんって」
長谷川が谷垣の前に出て、3本目のベルトを受け取る。山下の背中を軽く押した。
「前に出ろ」
「押すんじゃねえよ。腕が痛えんだって」
「ゆっくり進めばいい」
谷垣は背中に差した拳銃を抜き、改めて確かめる。
「コルト・ディフェンダーか……正規品みたいだな。バッタもんのトカレフとか使わないあたり、三下マフィアとは違うってことだろう? 本気のテロリストってことで対応するしかないな」
そして長谷川の背後に近づく。銃口を長谷川の脇腹の横から出して、山下の背中に押し付けた。機内は窮屈で、通路に使用できる部分も狭い。間に長谷川の体を挟んでいると船長の背中は目視できないが、感触は確かめられる。
山下がうめく。
「なんだよ、これ……」
「お前の拳銃だ。抵抗したら、撃つ。自衛隊員じゃ人は撃てないなんてタカを括るなよ。警察と違って、いざとなったら殺す訓練は受けている。相手がテロリストなら、ためらう理由もない」
山下は何も答えない。両足を揃えて軽く跳ねて、少しずつ前進していった。窮屈そうにAORのドアを超え、ベッドに横たわって意識を失ったままの患者の横を進んでいく。
最後尾の谷垣は患者を見下ろしたが、彼が世間を騒がせている誘拐事件の被害者だとは信じられなかった。
全てが、低予算のテレビドラマのような作り事に感じられる。それでも、拳銃で乗客を脅迫するテロリストが潜んでいたことも、発砲されたことも現実だ。
ならば現実を認め、対処するしかない。
今のところは、ためらわずに行動を起こしたことが正しかったとも思えた。振り返って、背後の人々を確認する。
キャビンでは、残された人たちが彼らを心配そうに見守っていた。工藤由香里は圭子に抱きしめられて、震えている。緊張状態から脱して、ようやく体が恐怖に反応し始めたようだ。
圭子がつぶやく。
「ごめんね……こんな目に合わせちゃって……」
由香里が意外そうに圭子の目を見る。
「なんでおばあちゃんが謝るの……?」
「だって、由香里は一緒に来るの嫌がってたのに……なのに無理に頼んじゃって……」
「仕方ないじゃない。他に付き添える親戚がいなかったんだから……東京にも行ってみたかったし……」
「あたしのこと嫌いなのに……?」
「うん、嫌い。でも、ありがとう」
「なんで?」
「あたしの代わりに、人質になるって……」
「だってあたし、由香里からお父さんを奪っちゃったんだもの。代われるものなら、お父さんとも代わってやりたかった……」
由香里は不意に気づいたようだった。
「そうだよね……。お父さんって、おばあちゃんの子供なんだもんね……」
圭子は由香里の肩に顔を埋めて、背中を震わせた。
森医師は彼女たちをあえて無視するように、痛みをこらえているような灘を気遣っていた。
彼ら全員、犯罪者と対峙した経験などないはずだ。しかも相手はテロリストで、海抜3000メートルの高空で銃まで発砲している。狭い密室での銃声は、恐怖感を極限まで高めただろう。実際に銃創を受けた隊員も出た。
事態が沈静化して初めてその危機を実感できたのも、当然といえる。自衛隊の実弾使用訓練を経験していたはずの灘でさえ、放心状態に陥っているのが顔に表れていた。前線に立つ可能性が少ない看護官ではあっても、自衛隊員である以上覚悟は決めているだろう。それでも初めての〝実戦〟での衝撃を受け止めるには、それなりの時間がかかるのだ。
谷垣自身の心臓は、今でも激しく脈打っている。普段は意識などしたことのない鼓動が、胸を突き破りそうに高まっている。めまいすら感じられる。過剰なアドレナリンが全身を駆け巡っているようだ。
腕に力が入らなかったのは事実だが、感覚は急速に戻ってきていた。山下の制圧を長谷川に任せたのは、この状態で冷静さが保てるか自信がなかったからだ。それでも、発砲の必要があれば長谷川に責任を負わせるわけにはいかない。
万一テロリストを射殺すれば、過剰防衛どころか殺人罪を問われかねないのが日本の法体系だ。長谷川が自衛官の立場にあることは事実でも、臨床医から転身した医官に〝殺人〟は強要できない。
反面谷垣は、救命士の資格自体を自衛隊内で取得した。医療活動と国防は、谷垣の中では一体化している。拳銃を持つべきは自分だということに疑いを持ってはいなかった。
その程度の良識は働き始めている。
そして、決断していた。
避けられないなら殺す、と。
だから、今は気を休めることはできない。休むのは、山下から情報を引き出し、完全に拘束してからだ。いや、患者を無事に病院に運び、全てを終わらせてからだ、と――。
細かく跳ねながら、山下がAORを出ていく。その先の狭い通路を曲がる。コックピットのドアは開いていた。
副操縦士の中野が、ヘルメットをかぶったまま顔を出す。目の前の山下を無視して背後の長谷川に言った。
「拳銃、奪ってますよね?」
山下が声を上げる。
「こいつ、女か⁉ パイロットなのか⁉」
制服とヘルメット姿、その上に逆光なので、最初は性別が分からなかったようだ。
中野が山下を睨む。
「黙れ、テロリストが。女だからって、自衛隊員だ。これから貴様を尋問する。いくつか確かめたいことがあるが、時間が限られている。機長の質問に正直に答えなければ、実力を行使する」
山下の目に戸惑いが浮かぶ。
「なんだよ、その実力って……」
「手段を選ばず、話させるってことだ。これ以上の被害を防ぐためなら、お前を切り刻むことだってできる」
「まさか、拷問を……?」
「わたしたちは警察じゃない。お前……望月さんを焼いたんだろう?」
山下は明らかな恐怖を見せた。
「それは……」
「どうやって焼いた⁉ 船員みんなで押さえつけて、ガスバーナーでも使ったのか⁉」
「分かってんなら聞くんじゃねえ! 麻酔はかけてたから、痛みは感じてねえし!」
「やっぱりか!」
大男の山下が、中野の眼力に気圧されてわずかに身を引いた。
「だったら、なんだっていうんだよ……?」
中野はさらに山下の目を覗き込んでから、ニヤリと笑った。
「安心しろ、ただの脅しだよ。自衛隊でも過剰防衛は禁じられている」
山下が安心したように息を吐く。
「ハッタリかよ……」
「過剰防衛はできない、ってことだ。だから、お前の顔を焼く以上のことはしない。だが、麻酔は患者のものだ。お前に使う分は、この機内にはない」
山下は言葉を返すことができなかった。
通路の奥から谷垣が言った。
「銃は俺が持ってます。そっちにあった方がいいですか?」
中野が答える。
「わたしが持ちます。訓練は受けていますから。長谷川さんに渡してください」
長谷川が振り返ってささやいた。
「安全装置はかけてくれよ。自分の足は撃ちたくない。ここは窮屈だからな」
確かに通路は狭く、息苦しささえ感じる。
谷垣は銃口を山下の背中から離して拳銃を持ち変えると、長谷川に握らせた。間に2人の男を挟んでいるために、ドアの奥までは見えない。入り口の角になって、中野に直接手渡すこともできない。
長谷川は拳銃を受け取ると、言った。
「もうちょっと前に出ます」
3人は一団となってさらにコックピットに入っていく。
谷垣も、2人の男の肩越しに明るいコックピットを見渡す。
アクリルとポリカーボネートを重ね合わせた風防の先に、真っ青な水平線が広がっている。窓のない後部での緊迫した状況から解放され、ようやく表情が緩んだ。
機長が振り返って言った。
「制圧、ご苦労だった。君たちの働きでテロを防げるかもしれない」
長谷川が笑顔で応える。
「機長、これから始まるんですよ」
そして長谷川は機長の額に銃口を向け、引き金を引いた。
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