4・正体
熱傷患者の無傷な背中を撮影するために上体を支えていた谷垣が、力を抜いてため息をもらす。
「この人、結構重いっすね。漁師にしてはぶよぶよしてるし」
灘は撮影を終えたデータを、バイタルやレントゲン映像を収めたフォルダに加えながら穏やかに叱責する。
「患者の前だ、口を慎んでほしい」
「意識は戻ってませんよ」
「それでも、礼儀ってもんがある」
だが、谷垣の感触は灘自身が感じていたことに他ならない。
谷垣は引き下がらなかった。
「この患者、身元が不審なんでしょう? 四肢の白さといい、日焼けも潮焼けもないって不自然じゃないですか?」
相手が同僚でも、事実はまだ明かせない。
「データを送れば、身元も判明するかもしれない。それまではとやかくいうべきじゃない。自分たちの仕事とは無関係なことかもしれないからな」
「でも、どうしてAOR回線で送らないんですか? わざわざUSBに入れる必要ないのに」
谷垣も疑問を隠そうとしない。この作業になんの意味があるのか知りたそうに、灘を見つめる。
しかし灘は、まだまだ統括の疑念を知らせるべき段階ではないと判断していた。
「命令だから、仕方ない。統括には何か考えがあるんだろう。機密性の高い情報かもしれないからな。どう扱うかの最終判断は機長に任せたい」
「それって、なんか妙ですよね……。俺、すっごく嫌な予感がするんですけど……」
その感覚もまた、灘と同じだった。谷垣は、純粋な勘で危機を察知しているようだ。
だが、口には出せない。灘は、備え付けのコンピュータからデータを収納したUSBメモリーを抜いて言う。
「機長に渡してくる」
「了解しました。俺は患者を看ています」
灘はコックピットに向かった。
中に入って、後ろから軽く機長のヘルメットを叩く。
振り返った鬼嶋の表情は一層緊張していた。
灘に顔を向けた副操縦士の中野翔子にも、尋常ではない緊張感がにじんでいる。彼らのヘルメットの中には、新たな情報が流れ込んでいるらしい。
鬼嶋がヘッドセットを指さす。
灘はUSBを手渡してからヘッドセットを被った。
鬼嶋が通信機を操作すると、ヘッドセットに通信が流れ込む。統括からの連絡だ。
『――が判明した。母島での調査担当者の身分は明らかにできないが、情報の確度は保証されている。繰り返す。母島の漁船は、爆薬を用いて故意に破壊されたものだと断定。島内に潜伏していた船員1名が捕縛され、北朝鮮の工作員であると特定された。よって、母島から収容した熱傷患者と船長は要注意人物であるとする。患者のデータはまだか。送れ』
鬼嶋がUSBをコンピュータにセットしながら応える。
「今、データが届いた。送る」
『このまま回線を開いたまま待て。すぐにデータを照会する』
鬼嶋の疑問が思わず口を突く。
「すぐに、って……? すでに患者の身元が推定されているのか?」
『すり合わせるべき人物の生体情報が、ある筋から届いている。そのデータと照合するだけなので、時間はかからない』
「了解」
統括の側でも、事態は急速に進行しているようだ。
コックピットが緊張に包まれたまま、数分が過ぎる。
再び通信が入った。
『患者の身元が確認された。最重要の要救助者だと断定する。何があっても守り抜け。送れ』
「危険人物ではないのか? 送れ」
『要救助者には危険はない。ただし、絶対に救わなければならない人物だ。それ以上の情報を与える権限は統括にはない。送れ』
「命じられるまでもなく、要救助者は全員救わなければならない。だが、それ以上の重要性があるというなら、理由はなぜか? 情報の開示を制限されると、対処法を誤る可能性がある。送れ』
返事が返るまで、しばらく間があった。知らせるべきかどうか、統括には迷いがあるのだ。上層部、それも自衛隊の権限を超える部署との調整が行われているようだ。
しばらくして返ってきた通信士の声にはさらなる緊張がにじみ出している。
『緊急事態だ。機密事項なので取り扱いには特に留意せよ。熱傷患者は、先日誘拐された望月国交大臣の孫である望月誠だと特定。よって、同乗している山下船長は誘拐実行犯だとする。北朝鮮の工作員の可能性大。テロを画策し、誘拐もその一部だと推測される――』
鬼嶋がうめく。
「訓練を受けたプロか……」
鬼嶋の頭の中で疑問が渦巻く。
都内で誘拐された人物が、なぜ漁船に乗っていたのか?
漁船の乗組員が全員工作員だったのか?
誘拐した人物わざわざ母島まで運び、しかも熱傷を加えた理由とは――?
それはおそらく、オスプレイに乗り込むための手段だ。だが、手段であっても目的ではない。
北朝鮮工作員がオスプレイに乗り込もうとする理由は何か?
目的は機体の強奪だという可能性もある。だがそれなら、熱傷患者は誰であっても構わないはずだ。自衛隊は、医師のトリアージ以外で要救助者に優劣をつけることは滅多にない。大臣の孫を誘拐する必然性があるとも思えない。
その答えはすぐに出た。
通信士の声が1オクターブ跳ね上がった。
『追加情報! 先ほど、官邸にテロリストからの要求が届いた。望月誠氏の身代金として、100億円の暗号通貨を要求してきた。これが工作員の目的だろう――』
暗号通貨は近年その有用性を急速に失う傾向にあった。しかし中国からの資金逃避の必要に伴い、価値が反転しつつある。従来の銀行システムと無縁でいられるために資金移動の捕捉が困難で、マネーロンダリングにもたやすく利用できるからだ。
鬼嶋は通信の手順も忘れ、反射的に答えていた。
「身代金⁉ ってことは、拒否したら……?」
『爆破すると言ってきた。彼らの仲間があらかじめ機体のどこかに爆発物を仕掛けたという』
「自爆するって⁉」
『事実かどうかは疑わしい。しかし患者の熱傷の度合いは明らかに危険だと確認された。予定通り病院に運ばなければ、命に関わる』
「なぜ今頃、身代金要求を……? すでに全速で東京に向かっているというのに……」
『燃料切れまで着陸を阻まれる恐れがある。爆発物はブラフかもしれないが、人質を取られてもまずい。ハイジャックの可能性にも備えろ。万一オスプレイごと破壊されれば損失は100億円を超え、今後の配備計画にも計り知れない打撃を与える。主導権を渡すな。時間を稼がせるわけにはいかない。直ちに山下を隔離しろ。送れ』
「爆発物があったらどうする⁉ こっちは戦闘員じゃないのに! そもそも、どこに仕掛けたんだ⁉」
『事実かどうかも含めて、これから統括で検討する。山下の現状はどうか? 送れ』
機内カメラの映像は、統括からもリアルタイムでモニターできる体制になっている。だが音声を送る機能がないために、現場の感触も知りたいのだろう。
鬼嶋がキャビンの映像を確認する。特別変化があるようには見えない。
「灘、向こうの状況を報告しろ」
灘がインカムのマイクに答えた。
「灘一尉です。現状では不穏な様子はなし。父島で収容した患者一行、母島の森医師とともにキャビンに収容。長谷川三佐が同席」
『船長をキャビンから移動させないように。状況を維持しながら、次の指示を待て。常に指示を受けられるように秘匿回線の接続を維持せよ。送れ』
鬼嶋が答える。
「了解」
通信が途絶えると、全員が一斉にため息をもらした。
100億円という身代金は、おおよそオスプレイ1機の金額に等しい。
一部にはアメリカ本国では20億円で調達されているという情報も流されたが、明らかな誤りだ。それは旧式のUH―1ヘリコプターの価格であって、もはや現代戦の装備としては用途が限られる。最先端の機体制御テクノロジーや複合素材をふんだんにつぎ込んだオスプレイは、本国でさえ80億円ほどの価格になっている。オスプレイはその価格に見合うだけの機動性と輸送力を備えた機体なのだ。
つまり、北朝鮮やその背後にいる可能性もある中国にとっては、極めて厄介な装備だ。
要求された身代金は〝適正価格〟だともいえそうだ。
最初に言葉を発したのは中野一尉だ。
「爆発物を仕掛けたって……」
鬼嶋は冷静だ。
「その件は後で考えよう。時間稼ぎの脅しかもしれない。事実だとしても、今爆破する意味はないだろう」そして灘に尋ねる。「灘君、キャビンは本当に無事なのか?」
「機内カメラで確認できませんか?」
「こちらからは異常は見られないが――」そして、再びモニターに目を向ける「まずい! 映像が切れた!」
「え? 今ですか⁉ 故障では⁉」
「故障のサインは出ていない!」
「それって……」
「すでに行動を起こされたかもしれない」
「カメラが壊されたのなら……。山下に制圧されていたらどうしましょう?」
統括が割り込む。
『直ちに現状を把握せよ!』
鬼嶋が命じる。
「AORの小窓から覗けば、分かるかもしれない」
「行ってきます」
灘はヘッドセットを置いて、AORに戻った。
谷垣が何か質問しようとしたが、それを制して場所を入れ替わる。ドアに付けられた小さな窓に向かう。
窓のすぐ外に、長谷川が背中を向けて立っていた。
おかしい。
シートは空いているのだから、何事もないなら座っていて当然だ。長谷川がキャビンに出てからずっと立ち尽くしているのだとすれば、それこそ異常だ。
灘は、長谷川が自分の体を使ってドアの小窓を塞いでいるのだと直感した。
身をかがめて、長谷川の肩の横の隙間からキャビンを覗き込む。
左舷シートに座った山下が確認できた。灘から見れば右側になる。その姿は、工藤由香里の背後から拳銃を突きつけているようにしか見えない。
キャビンのカメラは、機体後部左舷上に設置されている。その周辺だけが、異様に黒ずんでいた。レンズも黒く塗られている。
山下は、すでに正体を現していたのだ。もはや事実を隠す段階は終わった。
灘は背後を振り返って、怪訝な表情を見せている谷垣にささやく。
「船長はテロリストだ。この機体を奪取しようとしている」
谷垣は一瞬驚きを見せたが、すぐに状況を理解する。
「だったら、この熱傷患者も?」
姿を現したテロリストに対抗するには隊員全員の協力が不可欠だ。情報は共有しなければならない。
「彼は望月誠」
「それって――」
彼の名前は、ここ数日テレビのニュースを賑わせている。
「誘拐された望月大臣の孫だ。実行犯は北朝鮮工作員。1人が母島で逮捕された。で、官邸に100億円の身代金を要求してきた。絶対に断れないように、意図的に重傷を負わせたんだ」
「意図的に⁉」
「おそらく、バーナーか何かで皮膚を焼いている」
谷垣の目がガーゼで覆われた患者に向かう。
「惨いことを……」
「キャビンの会話が聞こえるようにする。ただ、山下は絶対にAORには入れたくない。どこかに爆発物も仕掛けてあるらしいので、出来るだけ刺激はしないように」
「爆発物⁉ どうやってそんなことを⁉」
「静かに! ハッタリかもしれない。スイッチを入れるぞ」
そして灘は、ドア横のインターホンのスイッチを押した。スピーカーに耳を寄せると、キャビンの会話がかすかに聞こえてくる。
山下のうんざりしたような声だった。
『――しかし、よく喋るよな。まるで、小学校の道徳教師だな。話も独りよがりで、つまらねえ』
長谷川が答える。
『君だって若い女性を殺したくないだろう?』
『なあ、そろそろそこをどいてもらえないか? 俺を改心させようとしても、ムダだ。指が疲れてきた。うっかり引き金を引いたら、この女の脳みそをぶちまけちゃうぜ。それ、あんたの責任だからな』
人質にされている工藤由香里の声は聞こえない。恐怖で声も出せないのだろう。
工藤圭子が叫ぶ。
『やめて! 人質ならあたしを!』
『死にかけのババアじゃ意味ねえだろうが!』
『由香里ちゃんまで奪わないで!』
灘は圭子の訴えを聴きながらも、必死に状況を分析していた。
長谷川は、銃を持ったテロリストをなだめようとしていたようだ。おそらくは、長谷川自身が無駄だと感じているだろう。効果は期待できなくても、AORのドアに立ちはだかっていれば前方には進めない。コックピットを占拠される恐れはない。そのための時間稼ぎに徹しているようだった。
だが山下は、泰然と長谷川の相手をしている。その口調も、慌てているようには聞こえない。
テロリストが時間稼ぎに動じていないなら、それも計画に織り込んでいる可能性がある。キャビンで時間を浪費していても一向に差し支えないのだ。計画は、今も着々と進んでいるということだ。
そこまで考えられているなら、爆発物の件もフェイクとばかりはいえない。
空飛ぶ密室ともいえるこの機体を、奪取する必要さえないのかもしれない。緊急を要する熱傷患者を運んでいる以上、目的の病院に直行する以外に行き先はないのだから――。
それでも長谷川は説得を続ける。
『だから、君の目的はなんだ⁉ 関係もない女性を脅してまで、何がしたい⁉』
『あんたに教える必要はない。おっと、そっちの先生も変な動きを見せるんじゃないぞ。2人で飛びかかろうとしても、その前に娘をぶっ殺せるんだからな』
森の声がする。
『そんなことをすれば、本当に2人で同時に押さえ込む。銃ぐらい奪えるぞ』
『何度も言わせるな。こっちはこうして時間が過ぎて行きゃあそれで構わない。この娘が傷つくとすれば、お前らがつまらない抵抗を企んだ時だけだ。そうやって東京に着くまで突っ立ってりゃいいさ。それだけで俺は役目を果たせるんだからな』
灘の推論は当たっていた。
谷垣が身を寄せて小窓を覗いた。死角に入って見えないが、長谷川の横には森医師もいるようだ。膠着状態が続いているらしい。
素早く状況を判断した谷垣がインターホンを切り、小声で言った。
「山下船長を制圧する必要があります」
その結論は、灘の思考の数歩先に進んでいる。
灘は思わず答えていた。表情から怯えが隠せない。
「危険だ……」
「だから、です。今やらなければ、危険はもっと拡大します」
「なぜ⁉」
「明らかなテロだからです。北朝鮮が絡んでいるなら、日本に対する戦争行為です。たかが身代金で終わると考えるべきじゃない」
「なぜそこまで断定できる?」
「キャビンのカメラ、黒く塗っていますよね」
灘がキャビンを見直す。
「本当だ。よく気づいたな……」
「たぶん、ペイントスプレーを使ってます。監視カメラの位置まで知った上で準備していたわけです」
「だから……?」
「隊の中に内通者がいますね。製造業者とか整備員とか、機体の細部を熟知してる人間を抱き込んだんでしょう。そいつが爆弾を仕掛けたのかもしれない。そこまで手間をかけた計画なら、要求が身代金だけってショボすぎません?」
「それはそうだが……。制圧といっても、どうやって……?」
谷垣が、恐怖をにじませる灘の目を見つめる。
「隊員になって間もないあなたには厳しい状況だと思います。怖くて当然です。でも、民間人を危険に晒しておくことはできません。彼らを守るのが役目ですから」
「そうはいっても……」
「女社会から逃げ出して戦場へ――なんて、ツイてないですね」
灘は引きつった笑みを浮かべた。
「昔っから、不運ばっかりなんだよ……」
谷垣は肩をすくめて、ドアの横に配備されていたヘッドセットを被った。コックピットとの通話を開く。
「機長、谷垣です。灘さんとAORにいます。キャビンが銃を持った山下に占拠されました。由香里さんが人質にされていますが、長谷川さんが説得しながら、時間を稼いでくれています」
機長の声は落ち着いている。
『やはり間に合わなかったか……。状況は聞いたか?』
「テロリストと断定されたんでしょう? 制圧します」
『危険はないか?』
「現状の方が危険に思えます」
鬼嶋もまた、一瞬で谷垣と同じ判断を下したようだ。
『銃の種類は分かるか?』
鬼嶋は、谷垣が兵器オタクであることを承知している。
「銃身の長さから見て、隠しやすい小型拳銃でしょう。9ミリ口径のスミス・アンド・ウェッソンかコルト」
『制圧の方法は?』
「合図で可能な限りの急上昇をしてください。機体が大きく傾くように。山下がうろたえた隙に俺が突っ込んで銃を奪います」
『無謀だ。人質が殺される恐れがある』
「殺してしまえば、こっちがためらう理由がなくなります。一応は訓練を受けた自衛官が5人もいるんですから、分が悪くなるのは向こうです。山下自身が、自分の役目は時間稼ぎだと言ってました。テロリストといえども、それぐらいの計算はできるでしょう」
『どこかに爆発物もあるらしい。起爆装置とか、持っているんじゃないか?』
「身代金を要求してきたんでしょう? 爆発させてしまったら、投資も回収できないないじゃないですか」
『熱傷患者に危険はないか?』
「ベッドにしっかり固定しています」
鬼嶋がわずかに言い淀む。
『私に決断しろ、と?』
「やるなら、早い方がいい。官邸が脅されているなら、なおさらです。抵抗もせずにテロリストの言いなりになったら、隊の名折れです」
『分かった。灘はそこにいるか?』
山下が灘を見て壁のヘッドセットを指差す。
灘がそれを装着した。
「灘です」
『君の判断は?』
灘も覚悟を決めたようだった。
「リスクはありますが、やるしかないんでしょう? 早く由香里さんを助けないと。奴らの計画はまだ全貌が不明です。ためらっていると、被害が拡大するかもしれません。万一ハイジャックされたら、要求が身代金にとどまらない恐れもあります。……怖いですけど」
『現場判断で作戦を了承する。そちらの準備ができたら、合図をくれ』
灘が谷垣に問う。
「お前が行くんだろう?」
谷垣は前に出て、ドアの取っ手を握りながらうなずく。
「当然。取り押さえたら捕縛できるように、ベルトを準備しておいてください」
「ベッド用の固定バンドで代用できるだろう。2本でいいか?」
「いや、3本ください。すぐ後ろについてきて」
「分かった」
そして、灘が固定バンドを取って握りしめる。
谷垣が呼吸を整え、ヘッドセットに指示した。
「機長、カウント3で急上昇を」
『了解』
「3……2……GO!」
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