3・疑惑
灘が小声で問う。
「どうしましょう……?」
長谷川はすでに答えを用意していたようだった。
「君は機長に疑惑を伝えろ。統括とも相談して、硫黄島分屯基地から人を送って母島の状況を確認させる必要があるだろう。緊急入港した漁船自体が犯罪に関わっているかもしれない。私は船長に不信感を持たれないように相手をする。東京から便乗してきた警官たち……もしかしたら彼らも何か関連があるのかもしれない」
「あ、そこまで考えませんでした……。だとしたら、以前から何か調査を進めていたってことですか?」
「そうなるな。しばらく前から、妙な噂が出回っているしな。あの警官たちは噂の出所を調べに来たのかと思っていたが、別件の捜査をしていたのかもしれない」
「噂って?」
「731部隊の生き残りが興した研究所が硫黄島の基地の中にあって、細菌兵器を作っているとか」
灘が呆れたような表情を見せる。だが医療関係者として、一応の関心は持っていたようだった。
「オカルト雑誌の捏造でしょう? 『クリスパー』とか、さらに進んだゲノム編集技術を駆使して殺人ウイルスを研究しているとか……もっともらしい屁理屈をつけたB級映画みたいですよね」
「ところが、大手新聞社が本気で調べているらしい。何度か報道もされたようだ。新型コロナウイルスだって、未だに生物兵器だったという噂が消えていない。私もそれとなく取材されたことがある。実際に国立感染症研究所はエボラ出血熱なんかのウイルスを輸入している。もちろん感染症対策に不可欠な準備なんだが、中国は生物兵器開発ではないかと騒いでいた」
灘の顔色が変わる。
「まさか、自衛隊がそんな研究を?」
「してるはずがなかろう。いや、できるはずがない。そもそも防衛費が不充分なんだからな。だが、多くの新聞は常に政権の揚げ足取りを狙っている。世間の疑念を掻き立てられるなら、嘘だろうだ捏造だろうが、お構いなしだ」
「酷い話ですね……自衛隊員を、なんだと思ってるんでしょう」
「一部の人間にとっては、高価な最新兵器を弄ぶ殺人集団でしからしい」
灘の目に悲しい色が浮かぶ。
「地震や噴火があれば救出に這いずり回り、豚コレラが出れば殺処分を押し付けられ、絶え間なくスクランブルに駆り出され、海外の海賊とも戦い、いったん有事が起これば最前線で死ねって……。それでいて、憲法違反だとか罵られて……。なんなんでしょうね、自分らって」
それは長谷川が、灘の口から初めて聞いた思いだった。
灘は長く男性看護師として一般病院に勤務していた。自衛官として航空機動衛生隊に加わったのは、ほんの半年ほど前に過ぎない。民間時代に医療業務に絶望して、一時期は無職だったという噂も聞いている。知識は豊富で仕事は堅実だが、無口で人付き合いが悪いのもそのためだと思われていた。ある意味、業界の悪弊から逃れて入隊したように感じられた。特別に国防への情熱があろうはずもなかった。
それでも、自衛隊に身を置けば別の景色に囲まれる。過酷な条件で黙々と任務をこなす同僚は、身の回りに事欠かない。僻地を巡るオスプレイに配属されたことで、灘は新たな自分を見出しつつあるようだ。
長谷川がうなずく。
「隊が平和の維持にどれだけ貢献しているかなど、考慮に値しないのだろう。私たちの医療活動だって、報じられることは皆無だしな」
「ほんと、悲しいですよね……」
「それでもやるべきことを続けるのが、我々の任務だ。少なくとも、地元の人間は味方だ。さあ、コックピットへ。考えすぎならそれで構わない。だが、不審な点は明らかにする必要がある。あの船長たちの島での行動、そして船の出航地での情報収集ぐらいまではやっておかなければなるまい。地元警察にも協力を仰ぐべきだろう。機長に進言してくれ。患者対応は私が受け持つ」
「了解しました」
そして灘はコックピットへ向かった。
AORのドアをスライドして狭い通路に出ると、すぐ左横に谷垣が首をうなだれて座っていた。補助シートを開き、小さく折りたたんだ車椅子を両腕で抱えている。
顔を上げた。その目には、微かな涙がにじんでいた。
灘は直感した。
姉の状況を思い起こして抑えられなくなった悔し涙なのだ。森を罵れれば憤りも和らぐのだろうが、医療に携わっていれば不可避な事故も受け入れなければならない。自分自身がいつ不運に襲われるかも分からない。今の谷垣は、悔しさを吐きだす相手が見つけらずに戸惑っているのだ。
谷垣がシートを立つ。
「コックピットでしょう? 場所を変わります」
オスプレイには輸送ヘリほどの広さはない。しかも機体の中央にはAORが作り付けられている。灘のすぐ後ろは、搭乗の際に使う主キャビン扉だ。右横はコックピットに通じるドアだが、AORとの間隔は1メートル程度しかない。しかも谷垣が座っていたシートを開いたままでは、ドアを開くことさえできない窮屈さだ。
灘は体を横向きにして言った。
「済まんな」
谷垣がシートを畳んで場所を入れ替わる。
「俺、ここにいていいですか?」
「森先生とは顔を合わせたくないんだろう?」
「いろいろあるんで……」
「まあ、手は足りている。落ち着くまで、好きにすればいい」そして付け加えた。「だが、医療業界を選んだ以上、いずれは立ち向かわなけりゃならない試練だと思うぞ」
谷垣が素直にうなずく。
「ですよね……。あの……聞いていいですか? 灘さんはなんでこの歳になってから自衛隊に?」
不意の質問に、灘がわずかにうろたえる。
「なぜ知りたい?」
「どんな事情があったんだろうって……ずっと気になってて」
灘はしばらく考え込んだ。いずれは話すべき事柄ではあった。だが、ふさわしい時でも場所でもない。それでも、苦悩を抱える仲間が目の前にいると知れば、ふさぎこんだ谷垣の気持ちも軽くなるかもしれない。
ゆっくりと答えた。
「不運だったんだよ。本当は医者になりたかったんだが、医学部に進めるほど裕福じゃない。まずは看護師に、と考えたんだが……民間の病院じゃ、男性看護師の居場所が少ない場合もある。何箇所か病院を変わったが、事情は同じだった」
「患者さんに拒否られました?」
「それもあったが、若い女性患者が男の看護を嫌がることは最初から覚悟していた。むしろ、女性看護師のコミュニティに馴染めないのがつらかった。お前のような開けっぴろげな性格なら重宝されたかもしれないが、散々嫌がらせを受けたよ。夜勤や超過勤務を押し付けられるのはいつものことで、無視、陰口、つまらない嫌がらせ……しまいにはセクハラだとか暴力を振るわれたとか、難癖をつけてなじられた。上司も決まって女の側に立つ。一度ならまだしも、どこに行っても同じ結果になった。原因はたぶん、自分の性格なんだろう。つい本心を口走ることが多かったからな。同僚の勤務態度がだらけていれば注意もしたしね。だが原因が分かっていたって、別の人格になれるほど器用じゃない。で、一時はうつ状態になって家にこもっていた」
それは、谷垣が聞いたことのない話だった。
同じようなハラスメントは、民間の男性看護師から何度か聞かされたことがある。しかし、身近な灘が〝被害〟に会っていたとは思いもしなかった。一方で、その程度のことなら、社会人としてありふれた障害ように思える。当の自衛隊でも、先輩や上官からの〝シゴキ〟は厳然として存在する。谷垣自身、心が折れそうになったことは数えきれない。
「それほど酷いもんなんですか?」
「自分には彼女たちの閉鎖社会は耐えられなかった。体にも変調が起きて、実際に倒れたこともあったほどだ」
ストレスに対する耐性は、個人差が大きい。そもそも、何をストレスと感じるかが千差万別だ。それでも看護師を辞めなかったことは、むしろ褒められるべきだろう。
「そんなに追い詰められたんですか……」
「嫁も看護師なんだが、すっかり家庭もギスギスしてね……男社会なら務まるかと思って、入隊を決めたんだ。自衛隊なら、医療関係者には間口が広いしな。まだ馴染めてるとはいえないが、なんとか続けられそうだ。少なくとも、一般病院からは距離を置いていられる」
「だからって、わざわざ過酷な自衛隊に来なくたって……」
「思い切って環境を変えたかったんだ。だが意外にも、入ってみたらそんなにつらくもない。看護師という技能がある分、大事にされる。訓練も思ったより容易いし、下積みの階級もパスできたからね。医療関係者からは敬遠されがちだから、希少価値があるんだろう。おかげで、のびのびと僻地医療に従事できている」
普段は寡黙な灘は、訥々と身の上を語った。話して楽しいことではないはずだ。
谷垣も、灘の気遣いを察した。
「みんな、何かしらつらい思いを抱えているもんなんですね……」
「お前もお姉さんのことでは苦労しているようだな」
「苦労してるのは母なんですけどね。でも、ありがとうございます、話してくれて」
「隊ではお前がはるかに先輩だ。しばらく休んだら、また助けてくれ」
「了解しました」
そして灘はコックピットのドアを開いた。
そのドアの内側にも、折りたたみ式の補助シートが作りつけられている。オスプレイ自体が、狭いスペースをとことん活用しようという知恵が詰まった機体なのだ。
コックピットの中は、まさに最新電子装置の集合体だった。
パイロットの正面には旧来の航空機のような計器やゲージはほとんど見当たらない。5面のカラーモニターを中心にしたグラスコックピット――アナログ計器を用いずに液晶ディスプレイに集約表示するシステムだ。
オスプレイはデジタル・フライ・バイ・ワイヤーと呼ばれる方式によって、飛行を制御されている。ヘリコプターモード、固定翼モード、そして飛行中にモードを変換する移行過程も、全てコンピュータによって管理されるのだ。パイロットが行う操作は電気信号に変換されてから各部の油圧装置などに伝えられ、フラッペロンなどの操縦翼面、エンジン出力、ローター角度などを精密にコントロールしていく。飛行速度や姿勢を加味しながら、それぞれの動作が矛盾して失速などを起こさないように調整するのもコンピューターの役目だ。操縦者の勘や技量に頼った制御法よりはるかに的確だといえる。
しかも全ての操縦系統に3重の安全性を持たせ、コンピューター自体も3台用意されている。その設計思想によって、機械的なリンクを排していながらも、特殊な構造の機体に信頼性を付与している。
航空機では通常、機長は左舷側に座る。逆にヘリコプターは右席が機長だ。両者の中間的オスプレイでは、右舷が機長席とされている。それぞれの席の前方には2枚の主計器モニターが、そしてサイクリック操縦桿が置かれている。多数のスイッチやダイヤルを集めたゲームコントローラーのような操縦桿で、各種機体のコントロールや無線、機内通話などの制御を行う。
AOR型のみの特徴としては、機長シート脇に機内の各部を映し出すモニターが追加されている。主に医療活動を行うために、民間人を収容するキャビン、医療行為を行うAORとの連携が欠かせないためだ。機体各所に設置されたカメラで乗客たちの居場所を確認でき、悪天候などによる緊急避難的操縦を行う際にも、あらかじめ警告を発することができる。その画像は常に記録され、運用の効率化にも利用されている。
さらに天井のオーバーヘッド・コンソールには、エンジンや照明などの基本操作、燃料投棄や酸素供給など緊急時対策をコントロールするスイッチ類がひしめいている。特に緊急時に使用するスイッチは白地に黄色のストライプで囲まれていた。
電子装置に囲まれた、ある意味息苦しい空間でもある。それらを過不足なくコントロールしていくには、当然長いパイロット養成期間が必要となる。
中に入ってドアを閉じると、副機長の中野翔子一尉が振り返った。その表情は、なぜか緊張している。直前まで機長と深刻な状況が検討されていたという雰囲気だ。
「灘さん、何か⁉」
灘が声を張り上げる。さすがにコックピットはキャビンよりはるかに騒音が大きい。
「機長にお話があって!」
鬼嶋も振り返って灘を見つめる。やはり、緊迫感を漂わせていた。ドアの補助席を指差す。
灘は補助席を開いて座った。
鬼嶋が身体をねじったまま身を乗り出す。
「谷垣から患者の容態は聞いているが?」そして表情の厳しさが増す。「後ろで何か起きたのか?」
「少し問題が」
鬼嶋は灘の深刻な表情にも、驚いた様子は見せなかった。
「中野、しばらく操縦を変われ」
すでに巡航高度に達してオートパイロットが作動してるので、特に操作は必要ない。
だが、中野が反射的に答える。
「アイ・ハブ・コントロール」
鬼嶋がヘルメットを外して灘に身を寄せる。あえて機密保持を強調したかったようだ。
隊には、部下にさえ知らせられないセンシティブな情報もあるのだ。
「緊急事態か?」
灘も鬼嶋の配慮を理解し、顔を近づける。
「熱傷患者の症状に不自然な点があります。もしかしたら、故意に熱傷を負わされた恐れがあります」
鬼嶋が息を呑む。だが、あらかじめそんな事態を予測していたような反応だ。
「やはりか……」
驚いたのは灘の方だ。
「やはり、って……?」
「実は今、重要な連絡を受けたばかりだ。発信してきたのは統括だが、母島漁港から緊急情報が飛び込んできたという。患者たちが乗ってきた漁船が、なぜか港で爆発した」
「は? 爆発って……火災ではなく? 鎮火はしていたんでしょう?」
「明らかに爆発だという」
「爆薬……とかを使って?」
「破壊工作の可能性が高いらしい」
「それって……?」
「何かしらの犯罪行為の証拠だな」
「船長は修理するって言ってましたけど……。保険金詐欺、とかでしょうか?」
「その程度の話なら、むしろ実害は少ない」
「だったら、なんですか?」
「統括は、それを調べ出せと命じてきた。爆破の首謀者は、漁船員の中にいるとしか考えられない。島の住民はみんな顔見知りで、不審な行動は見咎められやすいからな」
「観光客とかは?」
「なぜか乗員たちが全員一斉に姿をくらましたという。疑ってくれといっているようなものだ」
「はい? わざと逃げたと? なぜそんなことを……?」
「理由は不明だが、詐欺なら逃げる必要はないだろう」
「ですが、焼津から来るサイズの漁船なら、乗員は20人以上いるはずです。全員が一斉に消えたんですか?」
「そう聞いた。漁船に残っていたなんらかの証拠を隠滅するためだというのが、統括の見方だ」
「漁船なら、瀬取りとか密輸とか……でしょうか?」
「詐欺よりはその可能性の方が高そうだ」
「たとえ逃げても、狭い島だからすぐ見つかってしまうだろうに……」
「他の船を奪って逃走を図ることも考えられる」
「でも、自分たちもさっき飛び立ってきたばかりです。離陸して20分も経っていないのに……。犯罪だとしたって、なんで急に事を起こすんでしょう?」
「爆発が起きたのが離陸5分後で、乗員が消えたことも即座に判明した。その情報を得て、熱傷患者に不審な点がないか照会してきたんだ。偶然ではないと考えるべきだ」
「関連があると……?」
「熱傷が事故ではないなら、我々の機に乗り込む手段――いや、オスプレイを呼び寄せるための一種の偽装だったのかもしれない。巡航高度に上がるまで待って破壊活動を開始したのなら、筋は通る」
「なぜそんなことを?」
「機内で、何かを企んでいるのかも」
灘がうめく。
「それって……まさかテロリストとか⁉」
鬼嶋は厳しい表情のままだ。
「あるいは他国の工作員。金銭目当ての犯罪者にしては、仕掛けが大きすぎる気がする」
「漁船っていうのもダミーですか?」
「いや、船の素性は焼津港で確認が取れたという。漁船も乗組員も、本物だと分かった」
「それをわざわざ破壊したと?」
「船は修復不能らしい。あらかじめ捨てる覚悟で、何らかの計画を進めているようだ」
「船員たちがそもそも工作員だったわけですか……? だとすれば、一体どこの国が……?」
「北朝鮮か中国、ってところだろうな」
「しかし、北朝鮮は文句を言いながらもアメリカと話し合いを続けて、歩調を合わせようとしているのに……?」
「国全体がそうだとも限らない。経済制裁の解除が遅いことに苛立っている者たちも多いと聞く。指導部内の跳ね上がりか、軍の暴発か……今の雪解けムードそのものが、単に時間稼ぎの芝居なのかもしれない。経済的に追い詰められている中国だって、何をしでかすか分かったのもじゃない。アメリカとの関係も、大統領選挙以降ずっと安定していない。香港は抑えたとはいえ、経済苦や食糧難で国内に暴動が噴出しているともいう。外からは独裁国家のように見えるが、内部には複雑な権力闘争を抱え込んでいるんだ。一触即発の状態が消え去っているわけじゃない。その上、韓国まで日本を仮想敵国扱いしている始末だからな」
「それって、厳しいですね……」
「イスラム系から憎まれていないだけ、日本は随分マシな方だ。仮に、北朝鮮がテロを企んでいるとする。日本には戦後からずっと、朝鮮系の民間ネットワークが根付いている。終戦直後は朝鮮進駐軍などとうそぶきながら、共産党と組んで破壊活動を繰り返していたとも聞く。何100人という拉致被害者も、彼らの協力がなければ生まれなかったに違いない。山下船長が工作員なら、その指揮下に他の工作員を集めることもできる。2、30人程度なら難しくもないだろう。考えすぎなら助かるが、患者に疑問な点があるなら最悪の場合を想定しなければならない」
「長谷川さんも同じようなことを言っていました」
「熱傷に疑問があるのを知っているのは、他に誰だ? 母島から乗ってきた医師は?」
「まだ詳しく話していませんが、あるいは気づいているかもしれません。直接処置してますからね」
「長谷川は了解していると思うが、とりあえず口止めしておいてくれ。動揺が広がると困る」
そして鬼嶋はヘルメットをかぶった。軽くこめかみを叩いて、灘にもヘッドセットを装着するように合図する。
灘が、横に収納されていたヘッドセットをつけて疑問を口にする。ただし、熱傷患者に関しては触れるべきではないと理解している。
「それにしたって、なんで島の情報がそんなに早く統括に届いたんでしょう……? 漁船が爆発したって、事故かもしれないじゃないですか。そもそも火災で入港してたんだし。島の人間がすぐに爆発物だと見抜けるものですか? 警視庁経由ならともかく、地元から直に自衛隊にだなんて……。誰かが緊急事態だと判断したんでしょうか?」
「はっきり聞かされてはいないが、この機に便乗してきた警察のカップルが官邸に近いらしい。元々母島で何らかの調査をする予定だったようだな。それが偶然、漁船の爆発に遭遇した」
「何らかの調査って?」
「これもただの仮定だが、細菌兵器開発の噂を確認しに来たんだと思う。国会で騒がれたら正確な情報を開示する必要があるからな」
「官邸って……彼ら、何者なんでしょう……?」
「さあな。ただ、情報収集を担っていることは確かだろう。政府は公にされない情報機関を持っているのかもしれない」
ヘッドフォンの通話を聞いていた中野が思わず声を上げる。
「あのカップルがですか?」
鬼嶋がうなずく。
「君はやはり信じられないか?」
「だって……」
「官邸が隊の行動に疑念を抱いたなら、隠密調査は正当な判断だ。特に機動衛生隊は医療活動に従事している。生物兵器の噂を調べるなら、当然調査対象になるだろう。だからわざわざ、この機に便乗してきたのかもしれない。少なくとも、あのカップルが政府中枢に支援された立場であることは確かだ」そして灘に命じた。「君の疑問を直接統括に報告してくれ。そこの秘匿回線の使用法は分かるね?」
「了解しました」
灘は補助席右側のパネルを操作して統括を呼び出し、手早く患者の状況を報告した。統括側は、オスプレイからの連絡を待ちわびていたようだ。長谷川までが疑念を裏付けたことに驚いた様子だ。
『状況を検討する。しばらく待て』
数分後に返ってきた指示は、意外なものだった。
『患者の指紋と歯の状態を採取、さらに全身写真を詳しく撮影し、統括に送信するように。ただしAORの回線は使用不可だ。終わる』
それ以上の命令はなかった。しかし、統括は患者に対してなんらかの情報を持ち、その上情報漏洩を極度に恐れているようだ。
AORの回線はコックピットとは独立していて、5Gネットワークを利用している。受け入れ病院などと専門的な医療情報を交換するためだ。患者の生体情報を送るならAOR回線の方が効率的だが、機密保持の点からは脆弱性が否めない。
灘は通信を終えると、言った。
「後部を見てきます」
通話の内容は機長にも聞こえていた。患者の撮影を命じられたことも了解している。
振り返った鬼嶋が命じる。
「乗客たちにはくれぐれも気を許さないように。特に山下船長には注意しろ」
「了解」
灘はヘッドセット外して席を立った。補助席を畳んでドアを開く。
そこには谷垣が立ったままだった。森と顔を合わせることがためらわれ、AORに入ることもできない様子だ。狭い通路で再び場所を入れ替わる。
その際に、灘がささやく。
「もう少ししたらAORに入ってきてほしい。患者の写真撮影を命じられた。手伝ってくれ」
「撮影って……? どうせあと2時間ぐらいで病院に着くでしょうに」
「統括からの指示だ。急いでいるらしい」
谷垣の表情が曇る。
「統括が?」
患者はすでに緊急搬送の途上にある。受け入れ病院が準備を整えるために追加情報を要求してくることはあるが、運用を司る統括が患者の写真を欲しがる意味が分からないのだ。
灘はそれには答えずに、AORに入っていく。キャビン側のドアは閉じられていた。
灘は、患者を診ていた長谷川に顔を近づけて言った。
「なんか、事態が妙な方向に進んでいます。あの船長、工作員とかの可能性があるそうです」
長谷川がキョトンとした目で灘を見る。
「工作員って、どういうことだ……?」
「他国のスパイ、あるいはテロリスト」
「は? そんな奴がなんで機内に?」
「統括にも、別ルートで不穏な情報が入っていました」
「不穏って?」
「母島で、山下の船が爆破されたそうです」
長谷川の顔色が変わる。『爆破』の一言で事態の特異性を理解できたようだ。
「統括から何か指示があったのか?」
灘がベッドに横たわる患者を見下ろす。
「彼の全身写真をくまなく撮影して送れと言ってきました。この患者に関心があるみたいです、しかも、AORの回線は使うなと」
「ややこしい話になりそうだな……。しかし経緯はともかく、重症熱傷であることは確かだ。早く病院に運ばないと命に関わる」
「移送は通常どおり進行しています。撮影は自分と谷垣がしますので、長谷川さんはキャビンの乗客を見ていてもらえませんか? こちらが不審を抱いていると悟られなければ危険はないと思いますが……山下は要注意です。森医師も何か企んでいるかもしれませんので、気は許さないでください」
「それ……機長の指示か?」
「ええ。乗客には気を許すな、と。くれぐれも、異変に気づかれないように」
「分かった。だが……さっきちょっとキャビンの様子を見てきた。別に異常は感じなかったが?」
「今もそのままなら、世間話でもしていてくれれば構いません」
「もしも何か攻撃してきたら、私にどうしろと? 戦闘訓練など受けていないぞ。ハイジャックなど企んでいたら――」
「格闘なんかできないのは自分も同じです。自衛官の経験はあなたよりはるかに少ないですし。でも、AORを閉じていればコックピットには行けません。こっちには自分たちもいますから、機を乗っ取るのは不可能です」
「人質とかにされるんじゃ……?」
長谷川の不安を察した灘は、自分がこの場を支えるしかないと覚悟を決めた。自然と、饒舌になる。
「その気なら、すでに工藤さんたちがいます。まさか、あのおばあちゃんまでがスパイってことはないでしょうから。人質としての価値は民間人の方が上でしょうしね」
「しかし……」
「自衛官になりたての若造の言葉じゃ信じられないでしょうけど、何かとんでもない計画が動いているようです。計画があるなら、妨害しなければ反撃はしてこないはずでしょう? 何が起きているのか見極めるのが先決です。写真を統括に送ったらすぐにキャビンに行きますから、次の指示があるまでなんとか現状を維持してください」
「まあ医官とはいえ、私も自衛隊員だしな……。国の役に立ちたかったから自衛官を選んだんだ。逃げるわけにもいかんな」
「逃げたくても、この狭さじゃ行き場所なんかありませんしね」
「あまり脅かすなよ」
長谷川は不安げな笑みを浮かべると、AORの後部ドアを開けてキャビンに出た。背後で灘がドアを閉じる。
長谷川は狭苦しいキャビンを見渡す。
左右7席のシートに、2人ずつ分かれて座っていた。右舷側には工藤圭子と森医師。森は圭子を気遣って容態を聞き取りしていたようだ。
左舷には山下船長と工藤由香里がいた。防音対策は取られているとはいうものの、キャビンの騒音は民間機とは比べようもない。その中でも世間話に興じていたようだ。2人はすでに馴染んでいるらしい。
山下は笑顔を浮かべながらも、足元に置いた大きなドラムバックの中を探っている。何かを探しているようだった。
山下の頭上にはキャビンを見渡すカメラが設置されている。その映像は、コックピットやAORからも見ることができる。
長谷川は目立たないように深呼吸し、自分に言い聞かせた。
万一山下が不穏な行動を起こすようなら、すぐに誰かが援助に駆けつけるはずだ――。
と、森が長谷川に気づいた。一瞬、山下に目をやると、素早く立ち上がって歩み寄る。
森の表情は、山下に背を向けると一変した。緊迫した厳しさをにじませる。
長谷川も身構え、小声で言った。
「何か?」
森が顔を寄せてささやく。
「あの船長、おかしい。さっきからずっと荷物をいじり回していて、様子が異常だ。そもそも熱傷患者の症状が不自然だ」
森は、気づいていたのだ。山下船長の隙を見てそれを知らせる機会を探っていたらしい。
長谷川は表情を山下に見られないように背を向け、答えた。
「分かってます。ただ、今は騒ぎを起こさないように。すでに対策を講じていますから」
2人は、山下から顔を背けたままでしばらく現状を話し合った。2人とも、山下に不信感を抱かせてはならないと了解していた。
その間に、山下が立ち上がって監視カメラのレンズに何かを吹きかけたことには気づかなかった。山下はすぐにシートに戻り、工藤由香里の背中に左腕を回す。
由香里がかすかな悲鳴をあげる、
と、山下が大声を張り上げた。
「ひそひそ話か⁉ こっちを見ろよ!」
工藤由香里が表情を強張らせていた。山下に横から抱え込まれ、盾にされている。
山下の右手には拳銃が握られ、銃口が由香里のこめかみに突き付けられていた。
由香里がつぶやいたようだった。
「いや……何、これ……」
山下がニヤリと笑う。
「アイ・ハブ・コントロール……とか言うんだろう?」
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