2・離陸

 両翼の先端に付けられたエンジンの響きが高まるのが、キャビンでも感じられた。ローターの回転も急速に上がったようで、同時に機長の機内アナウンスが流れる。

「離陸します。着席してベルトを再確認してください。急上昇しますので体調不良などがありましたら、遠慮なくお近くの隊員にお声がけください。皆、医療のプロですので」

 さらにローターの回転が増したようで、機体が地面を離れるかすかなショックが起きる。

 谷垣は、しかし立ち尽くしたまま森を見下ろしている。

 離陸の振動はかすかなもので、谷垣の体はわずかに揺らいだだけだった。その揺れもすぐに収まり、機内は単調なエンジン音に包まれた。

 後部ランプが閉じた時から空調の効きも良くなり、室内の空気は真夏の島だとは思えないほど快適に変わっている。

 キャビンに窓はなく、外部は一切見えない。それでも急激に上昇している加速感は体感できる。新たな機械音が加わると上昇感はすぐになくなり、わずかに体が機体後部に向けて押される。

 翼端のローターがエンジンナセルごと回転し、一般の飛行機と同じような固定翼機モードへと変換したのだ。速度も上がっていることが分かる。

 谷垣にとってはおなじみの感覚だ。軽く壁に手をついて体を支える。しかしその目は、森から離れない。

 飛行が安定したのか、AORから医官の長谷川修三等空佐が現れて後部の乗員に声をかけた。

「今、熱傷患者のバイタルなどの基礎データを計測して――」

 しかし対峙する2人の緊張を察し、語尾を呑み込んでしまう。

 谷垣の横顔には激しい怒りがあったが、地元の医師の森は困惑しているようにしか見えない。

 シートに座っていた工藤圭子がタイミングを図っていたのか、ゆったりとした声を張る。

「あたしのためにわざわざ父島に寄ってもらってすみませんでしたねぇ。森先生、またよろしくお願いしますね。先生が付き添ってくれるんで、あたしも安心です」

 睨み合った2人の緊張がわずかに緩み、森が横に目をやる。

「圭子さん、具合はいかがですか? 気圧が変わると、体調が変化することが多いんですよ」

 圭子が微笑み返す。

「おかげさまで、今は調子いいですよ」

 長谷川が谷垣を押しのけるように前に出て視線を遮り、圭子の顔を覗き込む。

「だからって、我慢しちゃいけません。少しでも変だなと思ったら、気軽にお知らせくださいね」

「大丈夫ですよ。発作さえ起きなきゃ、普通なんですから」

 長谷川の行動は谷垣を落ち着かせることが目的だったが、森と同様の心配があったことも事実だ。

 オスプレイはそもそも、民間旅客機のような厳密な与圧が可能な機体ではない。それは主に運用上の問題で、3000メートルを超える高度を飛行することを求められていないことによる。

 固定翼のジェット機が高空を飛ぶのは、速度を上げながら燃費を抑え、さらに天候の影響を避けるためだ。したがって人体に悪影響を与えないように、最低でも高度2500メートル程度の気圧を維持することが要求される。対照的なのがヘリコプターで、空気密度との関係で高度2000メートル程度が最も燃費が上がる。

 オスプレイはその中間にあり、2500メートル付近が巡航高度として効率が高まる。その程度の高度であればほとんど高山病の心配はなく、与圧の必要もないということなのだ。

 ただし、軍用機として開発されたという特殊事情はある。

 戦地では化学兵器や核物質にさらされる危険が伴う。それらが機体の隙間から侵入することを防ぐという理由で、機内の空気圧を常に高めに保つ装置が備えられているのだ。

 機密性の高いAORが気圧を自由に変えられるのは、その装置を強化したからだ。一方キャビン側には、特に機密性を高める改造は行われていない。

 長谷川が受け取ったデータでは、工藤圭子は血管の石灰化が進んだために血流の90パーセント以上が遮られている。転院はその解消のためで、血管内を削ってステントを挿入するカテーテル手術を受けることが目的だ。高度を上げて気圧が下がれば、通常は血管が拡張して血圧も低下する。しかし急激な気圧変化が及ぼすストレスは個人差が大きく、自律神経の活性化によって極端な体調変化を起こす場合も少なくない。ヒスタミンの分泌によってアレルギー反応を招く危険もある。いずれにせよ、手術が必要な患者にとっては好ましくない。

 長谷川は、何らかの変化が認められればAORに戻した方がいいと判断した。それまでは肉親の由香里と一緒に過ごす方が気が紛れるだろう。

 圭子に優しく語りかける。

「発作の心配があるってことは、普通とはいえないんですよ」

 圭子は教師に叱られた少女のように肩をすくめた。

「でも、森先生だっているんだし……」そして、山下に説明するように付け加える。「悪くなってからずっと先生に診てもらってるんですよ。毎回わざわざ、父島まで来てもらって」

 工藤由香里が不機嫌そうにつぶやく。

「おばあちゃん、変な意地はらないで。危ないから東京まで運んでもらうんだから」

「はい、はい」

「これ以上迷惑かけないでよ」

 圭子の笑顔に陰がさす。

「ごめんなさいね、こんな体で……」

 圭子は孫に従う素直なおばあちゃんを精一杯演じているようだ。

 山下がかすかな悪態をもらす。

「何が危ないんだか。ベラベラ喋れるくせに」

 森が厳しい口調で叱責する。

「見た目だけで判断しないでいただきたい。次に発作が起きたら、命に関わるんだ」

 長谷川もうなずく。

「我々の診断でも緊急性が認められています」そして、谷垣に命じる。「灘君を手伝ってきたまえ」

 谷垣はまだじっと森を睨んでいた。しかし、長谷川の言葉で我に返る。

「了解しました」

 長谷川が、谷垣にささやく。

「職務を忘れるなよ」

 谷垣は立ち止まったが、目は合わせない。

「俺だって航空機動衛生隊の一員です。事情はともかく、それで任務を疎かにすることはありません」

 そしてAORに入っていった。

 長谷川は、谷垣が抱えた過去を承知していた。彼の姉の手術に失敗したのが森医師だとは思いもしなかったが、普段明るく仕事をこなす谷垣の感情的な表情を見れば、その理由は明らかだ。

 医療の業界は広いように見えても、重なることが多い。谷垣がそこに足を踏み入れた以上、いずれ2人は遭遇する運命にあったのだと諦めるしかない。

 長谷川がキャビンに残った民間人に言った。

「飛行が安定したようです。なるべく座っていて欲しいんですが、ベルトは外して構いませんよ」

 そして、AORのドアを開く。

 背後から、席を立った森が声をかけた。

「中を見せていただけませんか? このユニットにとても関心があるんです」

 長谷川が振り返る。

「構いませんが……AORの中、狭いんですよね。熱傷患者もいますので、ちょっと待ってていただけますか?」

 山下も立ち上がって、声を張る。

「そんなことより、マサの具合はどうなんだ⁉」

 そしてAORを覗き込もうとする。

 長谷川が中の灘に声をかけた。

「灘君、患者の状態はどうだね?」

 灘の返事は相変わらず事務的で、感情が現れていない。

「バイタルは安定はしています。ただ、鎮静剤が強すぎたようで、いつ意識を取り戻すか予測できません」

 山下がすまなそうに言った。

「船に医者がいなくてな。部下に救急医療の研修は受けさせていたんだが……」

 森がうなずく。

「船上ではオピオイド系の鎮痛剤を投与したようですが、意識が混濁したままもがいていました。効果が弱かったようです。暴れるとかえって危険ですので、モルヒネを追加投与して応急処置しました。さらに上半身前面に焼け付いた衣服を取り除いて洗浄のうえ、ワセリンガーゼで患部を覆いました。輸液も行いましたが、診療所ではそれ以上の治療は施せませんので」

 長谷川たちも、母島の診療所ではごく基礎的な治療しか行われていないという報告を受けていた。一旦ガーゼを外して患部も確認した。災害時の急患を見慣れた彼らの目から見ても、危険な状態にあることは間違いない。

 熱傷は顔面から胸部全体に広がっていた。受傷直後の深度判定は困難ではあるが、大半が深層Ⅱ度に当たるようだった。表皮だけではなく、痛覚を含む真皮までが損傷した状態だ。しかも一部はさらに奥のⅢ度にまで達していそうだ。知覚の大半が鈍麻するほどの深刻な症状といえた。

 火傷が酷すぎて痛みさえ感じない段階に達しているということだ。東京に着くまでに危機的な急変が起きない保証はない。しかし、基本的なバイタルデータは収集し終えている。

 長谷川が奥にいた谷垣に小声で命じる。

「谷垣、コックピットに行って患者の状況を報告してこい」

 その必要があれば、機内無線で事足りる。それが森医師との衝突を避ける方便であることは、谷垣には説明の必要もない。

「了解」

 谷垣がコックピットへの通路に出て、スライドドアを閉じた。

 長谷川が振り返る。

「森先生、こちらへ」

 AORに招き入れた。

 山下はシートに戻る。

 AORには2人分のベッドが並べられていて、熱傷患者はコックピット側に寝かされていた。長谷川が言うように横幅は狭いが、3人が入っても息苦しい感じはない。ただし、1人の患者に3人で対応するには、その幅の狭さが障害になるのだ。

 患者には各種のセンサーを集約したリストバンドが接続されていた。そこから得られるバイタルデータは無線でコンピュータに送られ、壁面に固定された大型カラーモニターに表示されている。心拍数、血圧、体温、動脈血酸素飽和度、心電図などがひと目で分かる。すでに採取されていた血液ガスや血球濃度など数値も並んでいる。さらに乳酸リンゲル液の輸液を行うチューブが肘の内側に刺されていた。

 モニターは2面あって、それぞれのベッド横の壁面に配置されている。患者を別個に管理するためだ。

 それらの機材やレントゲンを統合コントロールするコンピュータはベッドの下に収納され、邪魔にはならない。背後にある機材庫には、各種の薬品や用具、検査機器がぎっしりと収められている。

 それを見た瞬間、森がため息をもらす。

「この部屋、母島にも欲しいですね……」

 長谷川がうなずく。

「分析器やセンサー類にもずいぶん最新の技術が投入されていますからね。効率的で省スペースなものを作り上げないと、これだけの空間には収まりきれませんから」

「一から開発したということですか⁉」

「蓄積されていた技術が一気に投入されたってことでしょう。ツシマ精機をご存知でしょう?」

「全てあそこが開発を?」

「全部ではありませんが、主要部分はそうでしょうね。省スペースに最も貢献したのは、このレントゲン装置です」

「後方散乱X線型ですよね!」

 その利便性は、ここ数年、医学業界での評判になっている。

 長谷川が微笑みながら説明を始めた。

 ツシマ精機は精密機器、計測器、医療機器、航空機器の開発力を誇る世界的なメーカーだ。ノーベル賞クラスの研究を行う技術者を社内に複数抱え、実際に受賞した技術者も在籍している。

 彼らは第2世代機動衛生ユニットの開発要請を受け、全ての知識と技術を統合、結実させた。その最たるものが、後方散乱X線を用いた小型高性能レントゲンだった。テロ対策用の手荷物検査レントゲン装置を、血管造影に応用する技術を短時間で確立したのだ。結果、イメージングプレートとその支持部分が不要になった。

 従来大病院で使用されていた術中レントゲン装置は、X線を発生する部分とそれを感知するイメージングプレートの2つの部分を1セットとして構成され、それらを半円形の大きく太いフレームでつないでいる。その間に人体を挟むようにして、放射したX線を透過させて体内を可視化するのだ。

 カテーテル手術などで血管造影を行う場合、X線を遮断する造影剤を注入し、血管の形や太さを黒くはっきりと映し出す。透過する場所を変えるためには、重く巨大なフレームごとモーターで駆動しなければならない。結果として装置の小型化を困難にし、巨大な手術室を不可欠にしていた。

 しかし物体にX線を照射すると、透過する成分と同時に、反射する『後方散乱X線』が発生するという性質がある。この後方散乱X線を利用して対象物の内部を〝見る〟非破壊放射線検査技術は、テロ対策や橋梁などの検査に実用化されている。

 後方散乱X線の利点は、イメージングプレートのような〝X線を受け取る〟部分が同じ側にあるため、片側からの照射だけで対象物を透視できることにある。その装置をトラックに積み込めば、コンテナに横付けするだけで中身を確かめることができるのだ。

 だがこれまでは、後方散乱X線は人体の浅い部分までしか透視できず、医学的検査には不向きだとされてきた。体の中心に位置する心臓の血管までは、到底〝見られない〟と諦められていたのだ。確かにツシマ精機以外なら、世界のどの企業もこの画期的な装置は実現できなかっただろう。

 ツシマ精機は透過X線と後方散乱X線の双方で、高度なノウハウを膨大に蓄積していた。X線センサーの精度向上、解析装置とスパースモデリング理論を最大限に活用したプログラムによるデータ処理の大幅な高速化、そして各種の情報を組み併せてノイズを除去してコントラストの高い画像を瞬時に描き出す複合技術――それら基本技術の特許をすでに網羅していたのだ。

 いったん目標が与えれれば、最高のパフォーマンスを発揮するのが日本の技術者だ。日本人の『出来ません』は嘘だ、といわれる所以だ。画期的な小型レントゲン装置が実現するまでにさほどの時間は要しなかった。

 しかも後方散乱X線型レントゲンの効果は、装置の小型化だけに留まらなかった。装置自体を取り外して移動することができ、機動衛生ユニット内の画像解析コンピュータと無線でつなげることで、屋外でも自由に透過映像を撮影することが可能になったのだ。

 例えばユニット内で治療を行っている最中に、外で待つ次の患者のレントゲン映像を撮ることができる。その間に手術方針を決めて準備を整えておけば、患者が一斉に押し寄せても効率的に治療が進められる。横たえられた大勢の患者を順番に撮影していくことで、診断や正確なトリアージが短時間で可能となり、重症患者をレントゲン装置まで運ぶ手間も不要となる。

 何よりもイメージングプレートの必要がないために取り扱いが劇的に簡素になり、桁外れの機動性を実現したのだ。大規模災害の現場でも戦場でも、その有用性は計り知れない。

 しかも大きな手術室を作るスペースの余裕がない一般病院でも、大病院と同じ精度の設備を構築できる。ユニットごと設置すれば、離島や過疎地、開発途上国でも高度な手術が行える。ツシマ精機が先鞭をつけた新たな技術は、世界の医療事情を一変させるポテンシャルを秘めていたのだ。

 結果的に第2世代機動衛生ユニットは、1名の患者を医師、看護師、技師の3人で治療できるコンテナに仕上がった。地方病院でも設置できるという情報を聞きつけて、すでに何10件もの販売が成立している。自衛隊の予算で開発された医療機器の、民間へのスピンオフが実り始めているのだ。

 開発に3年以上の時間がかかりはしたが、厚労省への薬事申請や臨床試験期間も考慮すると、この手の機器開発としては異例の速さだった。しかも、それはツシマ精機の次なる事業収入の柱になりうる成果をもたらしていた。

 航空機やインターネットがそうであったように、軍から民への技術転換といえる。第3世代のAOR型オスプレイは、さらにその先の可能性を模索する存在でもあった。

 森は、概要を説明し終えた長谷川に言った。

「そんなにすごい成果を上げているんですね……。ほんと、母島にも必要ですね」

 長谷川がうなずく。

「当面はこのオスプレイでカバーしますが、もう少し価格がこなれてきたら実現するでしょう。政府の方針で、過疎地や離島には大幅な補助金をつけて広めていこうという計画も動き出していますから」

「政府の後押しがあれば安心です。離島でのびのび暮らしたいという希望は少なくないんですが、なんせ医療水準が低いもので。教育やレジャーの面では5Gの普及で格差が縮まっているんですがね」

「もうしばらく待っていただければ、環境は劇的に変わるでしょう。スペースの制限がない診療所であれば、遠隔診断のネットワークを組み入れてより高度で効果的な運用もできますしね。地域格差解消にこそ、テクノロジーは生かされるべきです」

「丁寧な説明、ありがとうございました」

「医療に携わる仲間、ですからね」

 そして長谷川は、レントゲン以外の装置の説明を始めた。

 森の背後のキャビンでは、山下が工藤圭子の横に移動していた。

 山下がきっかけを探るように、うつむいたまま圭子に話しかける。

「さっきは済まなかった。ちょっと、きつい言い方をした」

 圭子は気にとめていないようだ。

「はい? 仕方ないですよ、船長さんといえば親代りみたいなもんですから。あたしみたいなおばあちゃんなんかより、働き盛りの若者はずっと大事だし。それに、怪我の見た目も相当お悪いし」

 圭子の耳にも、火傷の患者が漁船の火災に巻き込まれたという情報は入っていた。

 その横では、工藤由香里がずっと顔を背けている。

 山下がぐったりと首をうなだれる。

「逃げろって命じたんです。それなのに、火を消そうと突っ込んでいって。殴ってでも止めるべきだった……」

「母島に来る途中で、早く大病院に運べれば命に別状はないって話していたの聞きました。お医者さんだってたくさん乗ってるみたいだし。あたしたちのために、こんな飛行機やら先生たちを送ってきてくださったんだから、ありがたいことです。東京の病院には専門の先生も待機しているって言ってましたよ」

「だといいんですけど……。それでもきっと、ひどい傷跡は残るんでしょうね」

「アイピーなんとかで作る皮膚で治せるだろうって」

「でも、親御さんになんといって詫びればいいやら……」

「親御さんなら、漁船に乗った時から覚悟はできてるんじゃないですか? 船を守るために頑張ったんですから。みんなの命を救ったんでしょう? 漁師の心意気って、そんなもんですよ」

 由香里がおずおずと言いそえる。

「兄ちゃんも、漁師なんです。そんなに大きな船じゃないから、いつ同じような事故があるか……。でも、漁師である以上、家族はみんなそれなりの危険があることは覚悟してます。父さんだって……」

 山下の話を聞いて、怯えは薄らいでいたようだ。

 だが逆に、圭子は不意に笑顔を失って声を詰まらせた。

「ごめんね……あたしがあんな体に産まなければ、あんたのお父さんは……。兄ちゃんだって、いつ同じことになるか……」

 由香里は再び顔を背けて口をつぐんでしまう。

 山下が小声で圭子に問う。

「何があったんです?」

 圭子は、つらそうにつぶやいた。

「体質って、遺伝するでしょう……? あたし、ひどく血管が詰まりやすいらしくて。息子も同じだったうえ、漁師仲間と一緒になって暴飲暴食してたもんだから……船の上で心臓発作を起こしたんです。島には戻れたんですけど、あの頃はこんな立派な飛行機がなくて、本土に運ぶのを待ってる間に……」

 由香里がようやく口を開いた。

「そんなこと、もういいから」

「だけど、あたしのせいだし……」

「死んじゃったんだから仕方ないでしょう! 思い出させないで!」

「でも、兄ちゃんだって――」

「兄ちゃんは気をつけてるから! あたしたちのことは放っておいて!」

 圭子が言葉を失う。

 山下があえて軽い口調で言った。

「遺伝じゃ、どうにもできないですもんね。俺なんて、マサを止められたのに……」と、不意に思いついたように話題を変える。「来る時、なんかチャラチャラしたカップルが出てきましたけど、彼ら、なんなんです? 観光客? なんで自衛隊の飛行機に乗ってきたんでしょう?」

 圭子は目を伏せたまま、涙をこらえているようだった。

 答えたのは由香里だ。

「詳しいことは聞いてませんが、警察の人だったみたい……」

 山下が、食いつく。

「警察⁉ あれで?」

 由香里も救われたように、あえてにこやかに答える。

「望月大臣でしたっけ……国交大臣のお孫さんが誘拐されたとか、ここ数日テレビで騒いでるじゃないですか。その名前が時々話に混じってましたから、そんな関係の捜査でもしてるんじゃないかな」

「誘拐? そんな事件があったんですか?」

「あ、船じゃあんまり情報が入らないですもんね。漁に関係ないし。誘拐された人、大学生なんだけど、だいぶ前から行方が分からなくなってたんですって。でも大臣に脅迫メールが届いたとかで、公開捜査に切り変えたとか……」

「でもそれ、本土の話でしょう? なんでこんな遠くの島に来るんですか? しかも、あんな観光客みたいな人たちが?」

「ですよね。まあ、ちょと名前が聞こえたってだけで、捜査に来たのかどうか、本当は分かりません。ただ、遊びに来ただけなのかも」

 圭子が小声で恐る恐る加わる。

「でも……遊びだけならこんな飛行機に乗ってくるかしら?」

 由香里もようやく圭子に視線を向けた。

「女の人、偉そうだったから、コネで便乗してきたのかも。お役人って、そんなもんなんでしょう?」

 山下は2人が視線を交わしたことに安心したように言った。

「おばあちゃん、悪いのは心臓?」

 圭子は由香里の顔色を伺いながら答えた。

「なんでも、心臓回りの血管がひどく硬くなっていて、骨みたいになって詰まりかけてるとか。バルーンとかいうので広げようとしたんですけど、硬すぎて膨らまなくてね……。胸を切るような大きな手術をしなくても直す方法があって、森先生はその専門家だったんですって。でも島じゃ設備やスタッフが不充分だから、なるべく早く東京で手術をしようってことになってたんですよ」

 由香里も不毛な言い合いは避けようとしているようだった。説明を付け足す。

「ロータブレーター手術っていうんですって。足の付け根の血管からカテーテルっていう管を差し込んで、心臓まで押し込んでから先っぽにつけたドリルで石灰化した部分を削るんです」

 山下が驚ろく。

「ドリルって……血管の中を?」

 由香里がうなずく。

「ドリルっていっても、小さなボールみたいなもんで、すごい速さで回転させるそうです。血管の内側から削るんで傷がすごく小さいし、ほんの数日で退院できるって聞きました。外科手術で胸を開いたら回復に何ヶ月もかかるし、おばあちゃんの体力じゃ難しいからって」

 山下は感心したようにつぶやいた。

「そんなことができるんですか……」

「森先生、東京にいた頃はその手術を何100回も成功させていたそうです」

「だったら、島でやってもらえばいいのに」

「島じゃ一度もやったことがなくて、装置もないんですって。助手もいないし、とても無理だって」

「でも、それほどの先生が、なんでこんな僻地に……?」

「さあ、そこまでは……」

 山下の視線が、AORの入り口に立つ森の背中に向かう。と、不意に立ち上がって大声を出す。

「俺も中を見せてもらうわ」そして、森の背後からAORを覗き込む。森に言った。「先生はマサの具合をどう思う?」

 森が振り返って、山下の顔の近さに驚いて身を引く。

 音は小さいとは言え、絶え間ないエンジン音に晒されているキャビンでは人の気配が感じづらいのだ。

 しかし、すぐに笑顔を浮かべる。

 山下が部下を気遣って落ち着かないのは理解できるが、いささか鬱陶しくもあった。だが、医師としては顔には出せない。

「安定しているようだ。ショックは脱しているし、小康状態だな。東京に着くまでは心配ないだろう」

「ありがたい」

 そう言った山下はしかし、その場を去る素振りは見せなかった。

 AORの中では、灘が屈んで患者に顔を寄せ、熱傷の状態を精査していた。

 再びガーゼを剥がし、患者に負担をかけない体勢で口の中をライトで照らしている。リアルタイムで表示されるバイタルデータも、容態がショックを脱して小康状態に入っていることを裏付けている。

 長谷川が入り口に立った森にささやく。

「この分なら、東京に着くまでは激変はないでしょう」そして、意を決したように付け加える。「あなたと谷垣の間のトラブルは聞いてはいます。ですが、一方からの話だけでは不公平だ。谷垣の上司として、あなたからのお話も伺いたい。いかがでしょう?」

 森が目を伏せて、軽いため息をもらす。そして背を向け、山下を押し戻しながら言う。

「彼らは仕事中だ。邪魔はしないように」

 山下は不満そうな表情を見せたが、何も言わずに席に戻った。

 長谷川が声を落とす。

「聞かせていただけますね?」

「当然でしょう。僕にとっては手痛い失敗でしたけど」

「谷垣の姉の医療事故ですよね」

「あらかじめ危険性はお知らせしていたので訴訟にはなりませんでしたが、事故は事故です。彼女、若年性の動脈硬化で石灰化が激しかったんですが、原因は不明でしてね。そのためか、通常の力加減で血管が破れてしまったんです。担当医を変わってからの緊急の開胸手術も、かなり難航したそうです。血管自体が脆くて……」

「避けられなかった、と?」

「僕のスキルが未熟だったというのは間違いありません。今なら、カテーテルでの手術は中断していたかもしれません。だとしても、どのみち開胸するしかないんですけどね……」

 長谷川はその言葉の先を嗅ぎ取っていた。

「あなたが僻地医療を志したのは、その失敗が原因ですか?」

 森はしばらく間を置いてから、ゆっくりと語り始めた。

「逃げたんですよ、僕は。谷垣さんは――弟さんは、自衛隊で救急救命士としての職務に就いたばかりで、僕にもいろいろアドバイスを求めていました。僕も弟のような気がして、仲が良かったんです。さっきは制服姿だから気がつきませんでしたけどね。まあ、ほんの1ヶ月程度の間でしたけど、2人で飲みに行ったこともあります。患者の家族に近づきすぎるというのは、こんな危険もあるんだと思い知りました。手術が失敗した後も罵られるようなことはありませんでした。彼も、危険性は充分承知していたんでしょう。だからと言って、笑って言葉を交わせるはずはありません」

「だったら、そこまで思い詰めなくても……」

「それまで大きな失敗を経験したことがなかった僕にとっては、逆に悲惨でした。とことん落ち込んで、仕事が手につかなくなってしまいました。先輩のアドバイスもあって、しばらく慌ただしい現場を離れることにしたんです。島では医師が不足してますし、気持ちを整理する時間が必要でしたから……。それが、結局何年にもなってしまって……なのに、まだ踏ん切りがつけられません。島の暮らし、居心地が良すぎるんですかね……」

「でも、カテーテルは今でも扱っているんでしょう?」

「バルーンぐらいはね。ですが、手術の数は激減しています。もうロータブレーターは無理ですって」

 長谷川は森のつらそうな表情を見逃さなかった。さりげなく話を変える。

「この先ずっと、島に?」

「そうしたいのは山々なんですが、医局から呼ばれましたからね……そろそろ戻れないかっていう打診だと思います。どこも、医者は足りてませんから……」

 長谷川は、言葉を濁した森に微笑みかけた。

「医者って、みんな似たような失敗を抱えているもんじゃないですか? 私だって、自衛隊に入隊したのにはそれなりの理由がありますから」

 森は長谷川を見て何かを答えようとしたようだが、言葉にすることはできなかった。患者の傍らに屈んでいた灘の緊迫した表情がそれを止めたのだ。

 長谷川に何かを話したがっているようだ。

 振り返った長谷川もまた、灘の表情に異変を察した。

 灘は長谷川を手招きする。内密な話がある、といったサインだ。

 長谷川は笑顔を浮かべてキャビンに向かって言った。

「ちょっとした治療がありますので、しばらくこのドアを閉めます。揺れると危険ですので、あまり歩き回らないように」

 そして森を外に出し、スライドドアを閉めた。ロックレバーを下げると同時に、気密性も高まる。インターホンを使わない限り、中の会話もキャビンには漏れない。

 灘が腰を伸ばす。普段あまり感情を見せない灘の表情が、珍しく緊張していた。

「ちょっと、ここ、見ていただけませんか?」そして、近くに来た長谷川に顔を近づけてささやく。「この患者、奇妙じゃないですか? 気道熱傷の痕跡が少なすぎます。意識を失ってから熱傷を負ったような感じがするんですが……」

 長谷川は驚きを見せなかった。小声で答える。

「やはり君もそう見るか。私も、単純な事故ではないと思う」

「お気付きでしたか……」

「微妙だが、不自然な熱傷だともいえる……」

「故意に熱傷を負わせた可能性が否定できません」

「あの船長は、何か隠しているかもしれない。危険だ」

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