オスプレイ・ダウン
岡 辰郎
1・収容
降下するV―22オスプレイのローターが起こす激しい気流が、ヘリポートの小石を吹き飛ばす。エンジンの排気がまばらに生えた雑草を焼く。両翼の端に取り付けられたエンジンナセルから吹き出すタービン音が弱まり、ローターの回転が弱まっていく。
その機影を、100メートルほど離れた木蔭から島の住民たちが見守っていた。真夏の日差しが照りつける中でも、5組ほどの家族連れが集まっていたようだ。中にはオスプレイに近づこうとして、駐在している警官に引き戻される幼児もいる。
そのオスプレイは機体こそ明るいグレーに塗られているが、運用している航空機動衛生隊は自衛隊の一部門だ。〝軍用機〟と呼んでも差し支えはない。しかし小笠原諸島、そして母島の医療は彼らの活動に大きく支えられていて、自衛隊を〝軍隊〟と考える住民はいない。欠くことのできないインフラの一部として、制服自衛官も温かく迎えられるのが常だった。
そんな親しみやすさを表現するためか、機体の先端には動物キャラクターのような目玉がペイントされている。
機体の後部が割れる。上半分は機内に収納され、下の扉がタラップ状に降りていく。全開するのを待ちきれないかのように、スロープ状になった後部ランプから1組の男女が飛び出してきた。
男は背中を丸めて、巨大なスーツケースを重そうに抱えている。まるで、理不尽な妻の尻に敷かれる夫のようだ。女はといえば、年始恒例のハワイ観光に訪れる芸能人のような出で立ちだ。
副パイロット――中野翔子一等空尉がコックピットから出て、胴体右横の主キャビン扉から地上に降りた。軽くシャツのシワを伸ばす。航空自衛隊独特のデジタル迷彩服と呼ばれる制服で、コンクリートの滑走路など溶け込むようにグレーが基調になっている。
中野は、足早に去っていくカップルに冷たい視線を向けて、つぶやいた。
「あの連中、なんだったんでしょうね……?」
横に立った機長の三等空佐、鬼嶋正がうなずく。
「だよな。しかし、上から命令されたら従うしかない。どうせ、救助ルーティンのついでだしな」
中野はあからさまに嫌な顔を見せた。
「そうはいっても、タクシーじゃないんだし。都合がいいからって相乗りされたんじゃ……」
「まあ、そういうな。素性も明かせないような人物を乗せろと、空将から直々に命じられたんだ。理由があることは間違いない。それに、隊の活動は税金で支えられている。政府の要請には従わなくてはなるまい。彼らも一応、警察関係者らしいしな。燃料費も、より有効に使えたと考えておけ」
中野が、女から手渡された名刺に目を落とす。
「だからって、下僕を従えて遊びに来た女王様みたいじゃないですか。しかも、マリアって呼んでねって……場末のスナックじゃあるまいし」
確かに名刺には『大庭真理亜』という名が記されていた。だが、警視庁の様式ではあるものの、所属も階級も見当たらない。これが警察の検問なら、偽造を疑われかねない。なのに彼らは、何らかの権力が働いて救命の現場にねじ込まれてきた。
〝政権への忖度〟という、マスコミでおなじみになってしまった言葉が浮かぶ。
カップルは母島に着くまでの数時間、機内のあちこちを見回りながらずっと他愛ない馬鹿話ではしゃいでいた。航空機動衛生隊の『AOR型オスプレイ』は医療活動のための特殊装備が満載で、世界的にも注目を浴びている。その価値を知る人間なら、隅々まで舐め回すように観察して当然の機体だ。
なのに、電子装置に囲まれたコックピットに顔を出した時ですら、女の他愛ないお喋りは止まることはなかった。まるで大学サークルのノリだった。年齢は2人とも30歳を超えていそうだったが、カジュアルな服装もダイビングに訪れる観光客と大差はない。医療活動に特化した部署だとはいえ、自衛隊の活動に同乗するにはまるでふさわしくない。
中野は、自分の〝聖域〟を土足で踏みにじられたという屈辱感が拭えなかった。
中野一尉は、女には無理だと言われた戦闘機パイロット訓練生として航空自衛隊で頭角を現した。空への憧れは、戦闘機パイロットを目指しながらついに手が届かなかった自衛官の父親の影響だった。女性初の戦闘機乗りというわけではないのだが、その道のりが困難であることは少しも変わりはない。事実中野は、ファイター特有の激しい加速度に対する耐性が基準に達せず、訓練途中で候補から弾かれている。これは体質によるもので、努力でどうなるものでもなかった。
願いを阻む壁は無数にあって、その1つに跳ね返されただけで夢はあっけなく砕かれる――それが現実なのだ。数えきれない壁を超えてきた中野にとっても、事情は変わらない。
それまでの中野は厳しい訓練に耐えるために、時間を惜しんで自らを律した。男性隊員たちが息抜きに費やす自由時間や休日にも、体を鍛えることを忘れなかった。筋力を上げ、持久力を増し、反射神経を磨き、感覚を研ぎ澄まし、電子機器や機体の構造を学び、国際情勢の知識を貪欲に吸収した。男性隊員の大半が、そんな姿を陰で笑っていたことも知っている。だが中野は、決して気を緩めなかった。
おそらく傍目からは、餓えた野良猫のように見えていたことだろう。
それでも、中野の努力を認めた同期生もいた。人目を気にせずに格闘訓練に付き合ってくれた同期生とは、結婚を考えたこともあった。それが中野にとって、最も幸せな時期だったかもしれない。
それでも、体質は変えられなかった。
目的を奪われた中野は、落ち込んで真剣に退官を考えた。中野を最も理解していた同期生との関係も、いつの間にか立ち消えになった。着実にステップアップしていく同期生の慰めが、逆に中野を傷つけ、突き放したのだ。
中野は荒れた。
救いの手を差し伸べたのが、鬼嶋三佐だ。
鬼嶋もまた、挫折を体験していた。ファイター訓練から弾かれ、隊の要請に従って不承不承ながらヘリパイロットに転向したのだ。だが数年後にオスプレイパイロットに抜擢され、才能を開花させた。アメリカでの訓練生時代にすでに、鬼嶋の操縦手腕は米軍のベテランを凌ぐといわれていた。
中野を動かしたのは、『オスプレイなら前線で働ける可能性があるぞ』という一言だった。
不安定な東アジア情勢の中にあって、日本が有事に突入する危険は日に日に高まっている。ファイターでスクランブルに参加できないのなら、せめて実戦が始まった時には先頭に立っていたいと中野は願っていた。一旦危機が迫れば、オスプレイはヘリ空母への搭載のみならず、兵員輸送や兵站に絶大な威力を発揮するのだ。
中野が父親から受け継いだ使命感が、再び燃え上がった。
父親は目的を失ってから心が折れ、家庭でも不和が続いた。結果的に両親は離婚し、数年後に父親は事故死した。父と暮らしていた中野は、決して自殺ではないと信じたかった。それ以後は母親とも完全に没交渉になっている。
だからこそ、だった。
中野は、父親を阻んだ壁を越えなければならなかったのだ。最後まで自衛官の任務を全うしなければならなかったのだ。そこには、気力をなくした父親を支えきれなかった母親への〝恨み〟が込められてもいた。
中野は鬼嶋の後押しを受けて、大量導入の方針が決まったオスプレイのパイロットを目指した。しかも指導教官になることを最終目標に定めたのだ。その転換は、隊の幹部にも温かく迎えられた。中野の操縦センスそのものは高く評価されていたからだった。
自衛隊に異を唱える団体や市民の多くは、オスプレイを目の敵にしがちだ。その反発を少しでも和らげるための〝広告塔〟にされることは覚悟していた。
中野自身は、男女同権の波が自衛隊にも及んだことが有利に働いたと認めている。いわば、女であるがゆえの〝ゲタ〟を履かされたことも理解している。事実、男性同僚から白い目を向けられることもしばしばだ。だがそれ以上に、努力を重ねたという自負は揺るがない。それは、国の守りを担いたいという女性自衛官に共通した思いでもある。
その結果が、現在の女性自衛官の隆盛なのだ。
先陣を切ってきた中野にとっては、マリアたちような人種は近づきたくもない〝異世界人〟でしかない。
感情的には許しがたい存在だった。
鬼嶋は中野の不服そうな表情を横目で見ながら、穏やかに答える。
「彼らの外見、偽装だと思うぞ」
「どうしてですか⁉」
「目が笑っていなかった」
中野の目も真剣に変わった。
「あ……」
「思い当たることが?」
「男の方ですけど。わたしが『硫黄島にも行ったことがある』って言ったら、基地の事をしつこく聞かれました」
「そんな話をする時間があったか?」
「父島で工藤さんたちを収容していた時です。機長は?」
「何も聞かれていないが……もしや、あの記事を調べているのか……?」
中野が鬼嶋に目を向ける。
「記事って……?」
「細菌兵器の研究所」
中野が軽く吹き出す。
「あのオカルト雑誌の与太話、ですか? まさか……」
「根も葉もない、都市伝説並みの噂だ」
「でしょう? そんなもの、どうして警察が?」
「噂が立つにはそれなりの原因があるだろう。噂そのものより、その出所に関心があるってことも考えられる。私に質問しなかったのは、階級が高い者が共謀して極秘裏に何かを企んでいると疑っているからかもしれない」
「クーデターとか? どこのラノベですか、それ」
「確かに、安っぽい劇画みたいな話だ。だが、本来なら研究だけはしておくべきだ。バイオ兵器開発と防御策は一体ともいえるからな。各国の新型コロナウイルスワクチンも、軍事技術が基盤になったからこそスピードアップが可能だったと聞く」
「日本もするべきだ、と?」
「それは政治家が、つまりは彼らを選ぶ国民が決めることだ。少なくとも、自衛官が軽々しく口を出すべきではない。現実には、ろくな予算もない自衛隊には不可能なことだしな」
「日本人の危機感って、本当にお粗末ですもんね……」
「とはいえ、現状に疑問や不安があるなら、無視するべきではない。他国が仕掛けてきた情報戦の一環だという恐れも高い。実際、あのアメリカですら屋台骨が揺らいでいる。荒唐無稽な陰謀論の中にも、真実が紛れ込んでいるかもしれない。警察に嗅ぎ回られるのは心外だが、調査を始めたことは歓迎すべきだ。警察もまた、防諜活動をないがしろにしていないという証だからな」
しかし中野は納得できないようだった。
「だとしても、もう少しやりようがあるんじゃないですか? 特にあの女、完全にミスマッチですって」
鬼嶋は含み笑いを抑えながら言った。
「やはり君は、同性には厳しいな。だからこその偽装なんじゃないか? レザースーツの女スパイが拳銃を振りましながら情報を探る……ってなわけにはいかんだろう? それより仕事だ。要救助者の収容を手伝ってこい。子供らが近づかないように、見張っていてくれ。お前の愛機、大人気だからな」
中野もその笑顔につられて、肩をすくめる。女刑事への怒りも和らいでいた。
「了解。でもこのオスプレイ、わたしのモノじゃありませんよ」
「まだ、な。このミッションが終われば、君が機長だ。私は一足先に、指導教官の退屈な職務に励むよ」
「改めて、栄転おめでとうございます」
「現場が好きな人間にとっては、めでたくもないんだがな。それに、オスプレイの本格導入が開始されれば、すぐに教官の補充が必要になる。その時は、また補佐を頼むぞ」
「了解です! でもそれって、いつぐらいのことでしょうね」
「早くて1年後、これまでの自衛隊の動きを考えれば3年後ってところかな。国際情勢が激変しているから、なんともいえないがね……」
「その時は、真っ先に声をかけてください」
「だからお前に目をつけたんだ」
中野はいきなり姿勢を正し、声を張った。
「鬼嶋三佐にはお世話になりました! 今のわたしがあるのは三佐のおかげです」そして、わずかに涙ぐむ。「本当に苦しかった時に声を掛けていただけて、感謝しています……」
鬼嶋が微笑む。
「落ち込みようが半端じゃなかったからな。お前みたいな一本気な奴に居場所がなかったら、なんのための自衛隊だか分かりゃしない。鍛え甲斐もありそうだったしな。それに、信頼できる後継者が欲しかった。同じ道を辿ってきたお前になら、後を託せると睨んだんだ。まあ打算ではあるが、狙いは間違っていなかったな」
「ありがとうございます、わたしを選んでいただいて……」中野は明るく笑って涙を拭った。「で、今夜の昇進祝いですけど、7時からですから。お忘れなく」
「いいのか? そんな早い時間で」
「ご家族も一緒に楽しめるように、谷垣君が知恵を絞ってます」
「酒はないのか?」
「それは二次会から。美沙ちゃん、もう中学生ですよね。思春期の女の子が谷垣君の醜態を見たら自衛隊に幻滅しちゃいますって」
「大丈夫だよ。美沙の目標は君だから」
「あんまり買い被らないでください。美沙ちゃんの前でも気が抜けなくなっちゃうじゃないですか」
「君は自然体でいいんだ。苦しんだ末に手に入れた自分に、自信を持ちなさい」
「そんな……」と、不意に吹き出す涙をこらえきれなくなる。背を向けて声を詰まらせる。「では、職務を遂行いたします」
中野が機体後方へ歩いていく。しかしその視線は、人だかりに入っていくカップルの背に止まった。
あえて彼らの観察に集中する。
機長の推論は筋が通っているが、それでもやはり不釣り合いな印象は否めない。中野は軽く肩をすくめると背中を向け、タラップの警戒に向かった。
先を急ぐカップルとすれ違うように、横付けされた救急車からストレッチャーに乗せられた要救助者が降ろされる。母島沖港に曳航されたマグロ漁船から収容を要請された、重度の熱傷患者だ。焼津港から漁に出た漁師で、船の火災で怪我を負ったという。体を覆った布から覗いた顔面は、湿ったガーゼで覆われている。
鎮静剤で意識を失っているのか、動く様子はない。
ストレッチャーは、後ろをナース服の看護師に押されていた。前を引く男は背広姿だ。いかにも漁師風の大男が随伴していたが、彼は大きなドラムバッグを肩から下げていた。皆、緊張した面持ちでオスプレイの後部ランプに向かっていく。
カップルは怪我人を確認するかのようにストレッチャーに目をやったが、それ以上は関心がなさそうに先に進んで行った。
そのカップルに、地元の小学生を押しとどめていた制服警官が声をかける。
「新宿北署からいらした方ですよね……?」
警官の声は自信がなさそうだ。
当然のことながら、2人の服装が警察官には見えなかったのだ。
男が顔を近づけて小声で言った。
「新宿北署の進藤です。こんな格好で失礼します。あまりおおっぴらにできない調査がありまして」
「島の中をご案内するように指示されています。車は、そちらにあります。私、竹村といいます」
女が声をかける。
「わたしは大庭真理亜」
そう言った大庭の視線はしかし、傍で自分を見上げる男児に向いていた。
男児がいきなり問う。
「おばさん、あの飛行機に乗ってきたの?」
「あれ、飛行機とは違うし。あたし、おばさんじゃないし」
「おばさん、偉い人なの?」
「それは少し当たってるかも。君、学校は?」
「1年生だから、もう終わった。偉い人なのに、そんなことも知らないの?」
父親らしい男が男児の手を引っぱる。
「こら、失礼なことを言うんじゃない!」
男児がオスプレイを指差しながら父親を見上げる。
「あれ、飛行機じゃないの?」
父親が大庭にペコペコ頭を下げながら、説明する。
「オスプレイっていう、飛行機とヘリコプターの合いの子みたいなやつだ。飛び立つ時はヘリコプターで、スピードを上げる時はプロペラが向きを変えて飛行機みたいに変わる」
男児の目が輝く。
「変形するの⁉」
「エンジンごと、向きを変えるだけだけどね。固定翼機っていう、普通の飛行機と同じような仕組みになるんだ。だからヘリコプターよりずっと速いし、遠くまで飛べる」
親子の会話の間に、大庭たちはパトカーへ向かって去っていた。
男児の好奇心は止まらない。
「ねえねえ、先っぽに書いてある目玉はなんなの? ほんとは『まそたん』みたいな生き物なの?」
「なんだよ、まそたんって?」
「アニメのドラゴン。ジェット機にギタイするんだよ」
「あ、あれね。あれとは違う。多分、魚鷹の目玉だ」
「うおたかって、何?」
「ミサゴっていうのが普通の呼び方かな。魚を捕る鳥だ。空中で止まったり、急に水面に突っ込んで魚を捕まえるそうだ。その鳥、英語ではオスプレイっていうんだ。動きが似てるからだろうな。だから、魚鷹の目を書いたんだろうね、きっと」
「なんで島に来たの?」
「さっき通ってた人を運ぶためだよ。近くに来た漁船が火事になって、大やけどをしたそうだ。東京に運ぶんだ」
「島の病院じゃ治せないの?」
「簡単な怪我じゃないんだろう。ほら、島の診療所には大した設備はないから」
子供が、夢見るようにつぶやく。
「あれに乗れば、東京に行けるんだ……」
父親は慌てて息子の腕を掴んだ。
「だからって、忍び込んだりするなよ!」
「だったら、東京連れてってよ。島はつまんないんだもん!」
「1000キロも離れてるんだぞ。船で行ったら1日以上かかる。海が荒れればもっとだ。簡単に行けるもんか」
「あれなら、すぐなの?」
「急病人を運ぶからな。3時間ぐらいだろうな」
「すっげー!」
親子が見守る中、怪我人を乗せたストレッチャーはオスプレイの後部のスロープを上っていった。
少し離れた場所では、コックピットから降りた中野が周囲に危険が及ばないかを確認している。当然、必要以上に近づく人物を警戒している。
機内では、看護官の灘武志一等空尉が待ち構えていた。迷彩服の上に、赤十字のマークが入った白い腕章を付けている。
「そこでお待ちください! 今、収容の準備していますから」
オフホワイトのオスプレイ内部――キャビンと称される部分は、極めて狭かった。幅は1・8メートルで、畳の長辺と同じ程度だ。奥行きも4メートルほどで面積は4畳半の部屋に相当するが、天井が低いためにはるかに狭く感じる。その先は白い〝壁〟で、AORと大きく書かれたドアがある。ドアには小さな窓、その横にはインターホンのような装置が付いていた。
ハリウッド映画などで描かれる海兵隊の汗臭そうなオスプレイとは全く印象が異なる。軍用オスプレイの壁面は、まるで化学プラントのミニチュアのように配管や配線が入り組んでいる。だが、このオスプレイの内部は病院の一室といっても違和感はなかった。
キャビンの左右の壁には跳ね上げ式のシートが作りつけられていた。軍用では32席が設けられているが、奥行きがない分、数は14席に減らされている。今はすべての席が畳まれていた。シート自体は軍用機の部品を流用していたが、民間人に威圧感を与えないように白く塗り替えられている。
輸送する病人たちを不安にさせないための配慮だ。
それが、医療業務に特化させたAOR型V―22だった。アメリカから買い取ったオスプレイを日本の最新技術で〝魔改造〟した、特注品だ。AORと記された扉の中には、さらに特殊な最新医療機器が詰め込まれている。
奥に入った灘が突き当たりにドアを横にスライドして、中に話しかける。
「いったんこちらに出ていただけますか」
中から2人の女が現れる。やや腰が曲がった年寄りと、高校生ぐらいの気が弱そうな娘だ。島の住民らしく、お揃いのアロハ風のシャツにジーンズという軽装だ。
灘は右舷最後尾のシートを2つ倒して彼女たちを座らせた。無表情な少女が年寄りを支えている。
灘は、ストレッチャーの後ろを押してきた島の看護師に言った。
「あとはこちらで。なにしろ狭いもんで」
「分かりました」
看護師が後部ランプから降りていく。
ストレッチャーの横に立つ大男が、苛立ちを隠せないようにつぶやく。
「早くしろよ」
灘が事務的な口調で詫びる。
「すみません。壁の先も狭いので、いろいろ時間がかかるんです。あ、自分は看護官の灘です」
大男は不満げな表情を見せたが、それ以上は何も言わずに女たちを睨む。
老婆はにこやかに大男を見返していたが、少女は怯えたように視線をそらした。
ドアからもう1人の隊員が姿を見せる。
「セット完了。こちらへ」
手招きされて、灘がストレッチャーをドアの奥へ押していく。中にはベッドがあるようで、灘が手を貸して患者をストレッチャーから移動した。空になったストレッチャーを押しながら姿を見せた、もう1人の隊員が言った。
「私は医官の長谷川です。東京までお連れします」そして、ストレッチャーの前を引いていたスーツの男に問う。「あなたが母島の医師ですか?」
男がうなずく。
「母島診療所の森です。東京まで付き添っても構わないですよね?」
「同行したいというお話は聞いていましたが……島の医師は不在にならないのですか?」
「もともと、東京に行く予定があったんです。医局から大事な話があると呼びつけられていてね。同乗できれば不在日数も減らせるもので」
長谷川もうなずく。
「席は余裕があります。ですが一応、統括に再確認します。熱傷の初期治療を行なった医師が同行してくだされば安心ですけどね」そして灘を見る。「ストレッチャー、返してきてもらえるかい?」
「了解」
灘はストレッチャーを押して後部ランプから出ていった。
統括とは小牧基地に置かれた航空機動衛生隊の指揮所で、正式には統括班と呼ばれる。全国で活躍する実働部隊をコントロールし、医学的な判断や提携病院からの情報を集約する役目も担っている。
大男がドラムバッグを肩から下ろして、会話に割り込む。表情には焦りが現れている。
「東京の病院までどれぐらいかかるんだ⁉」
長谷川は穏やかに答えた。
「予定では3時間弱です」
「もっと早くできんのか⁉」
「安全な飛行が求められますし、気流にも左右されますから。基本的な治療はAORで――そこの機内医務室で行えますので、ご安心を」
大男が疑い深そうな視線をドアの奥へ向ける。
「そんなちっこい部屋で……? 船の病室より窮屈じゃないか」
「それでも、最先端設備を用意しています。あなたが船長の山下さんですね?」
「おう。火傷したのは大和田正道。駆け出しのくせにエンジンが吹いた火を消そうと無理して、爆発に巻き込まれた。助けてやってくれ。で、俺も乗り込んでいいんだろう?」
「保護者、ということですよね?」
「当然だ。船長ってえのは父親みたいなもんだからな。マサに必要になりそうな荷物も、こうしてごっそり持ってきた」
「船の方は?」
「港に係留してもらったし、副船長が管理を引き継いだ。船員の面倒を見る手配も任せたから、心配はない。どうせ、エンジン修理に何週間もかかるそうだからな」
「ではどうぞ」
灘が機内に戻り、内部を見回して移送準備が整ったことを確認する。
「ドアを閉めます。忘れ物とか、ありませんよね?」
山下が言う。
「さっさと行ってくれ。マサは鎮静剤で眠ってるが、起きたら並みの痛みじゃ済まないだろうから」
灘は壁にセットされた操作ボックスのボタンを押した。上下に分かれていた後部ランプが閉じていく。
長谷川が山下に微笑みかけた。うろたえる近親者を落ち着かせるために自然に身についた、職務遂行を円滑にする笑顔だ。
「そのために、AORには設備や機材を充実させているんです。緊急事態に備えた薬品も充分に備蓄していますから、ご心配なく。すでに中で救命士がバイタルなどの基礎データの収集を始めています。あとは我々にお任せください」
山下が仕方なさそうにため息をもらしてから。改めて周囲を見回してぼやく。
「とにかく、急いでくれや……。しかし、狭いな。すぐ前は壁だし、窓がなくて息苦しいし、なんでこんな作りにしてるんだ?」
「壁の奥がAORと名付けられた〝空飛ぶICU〟になっていますから。このオスプレイは超高価な特注品でね。医療活動に特化した最先端の機体です。AORがあれば容態が急変しても、大抵の症例には対処できます。最悪、外科手術も行えるだけの設備は備えていますしね。このキャビンも狭いですが、酸素が欠乏するようなことはありませんから」
長谷川は、山下には閉所恐怖症の傾向があるかもしれないと疑っていた。
しかし山下は、あまり関心がなさそうに応える。
「そうなのかい」
長谷川が逆に質問する。これも近親者対策のルーティンワークだ。
「あなたはどこの港から?」
「焼津港だ。狙いはマグロだよ」
長谷川が笑顔を広げる。
「焼津には私の親戚がいます。遠縁ですけどね。市場の管理部の一ノ瀬っていう男、ご存知ですか?」
山下の表情が急に真剣に変わる。
「一ノ瀬大貴か?」
「ええ。娘の夫の従兄弟――だったかな」
「大貴はなかなか話が分かる奴だよ」
2人の会話を、AORを覗き込んでいた森の声が遮る。
「こっちが機動衛生ユニットですよね!」
長谷川は山下に会釈して、振り返って嬉しそうにうなずく。
「衛生ユニットが進化してオスプレイと一体化したAOR――エア・オペレーティング・ルームです」
「患者の移送には何度か立ち会ってますけど、ここまで入るのは初めてでして……」
「詳しい説明は、離陸してから。時間はありますから、ゆっくりご説明しましょう。巡航高度に達するまでキャビンのシートで座っていてください。いったん、AORのドアは閉めます」
長谷川は中に入ってスライドドアを閉じた。
森が『機動衛生ユニット』と呼んだシステムは、AORの前身となる装備だった。航空自衛隊機動衛生隊――AEMSの切り札として開発された医療システムで、〝空飛ぶICU〟の異名を獲得した装備の原点だ。
自衛隊が救援を求められる有事や災害時には、多数の傷病者が一斉に発生する。と同時に、その地域の医療機関の診療機能が著しく低下する。特に重篤な患者を受け入れられる医療機関が限定され、搬送距離も長くなる。この長距離を搬送するためには航空機が不可欠で、自衛隊が行う場合には輸送機を利用することになる。
しかし航空機は傷病者搬送に不利な点もあり、これを克服するために開発されたのが機動衛生ユニットだった。飛行中でも、一般病院の集中治療室レベルの医療監視と処置を可能にしたのだ。
第1世代は2007年に配備されている。その外形はコンテナ型で、横幅2・5メートル、高さ2・4メートル、全長5・1メートルの〝金属の箱〟だった。前面の真ん中にだけ、縦177センチ、横77センチのドアが付いている。ドアには小さな窓があるが、それは防弾効果を持つポリカーボネート製だ。自衛隊の輸送機――C130Hであれば、2機のユニットが搭載できるサイズだった。
ユニットの中にはストレッチャーにもなる主ベッドが1台、取り外しができる簡易ベッドが2台、充分な照明、酸素、電源、医療機器搭載スペースを装備していた。さらには、防音、電磁遮蔽性も備え、高性能患者監視モニター、人工呼吸器、採血をその場で分析できる血液ガス分析装置なども搭載している。その他にも、経皮的心肺補助装置や大動脈内バルーンパンピングを部外医療機関から持ち込んで対応できるように、100V交流コンセントを装備していた。
しかし第1世代の機動衛生ユニットは、重症患者を医療機関に運ぶまでの生命維持を主な任務としていたために、治療自体は最低限しか行えなかった。傷の縫合などの簡単な外科手術は可能でも、当然、心臓や脳の疾病の対処には限界があった。
そのため第2世代型として、3種類のユニットの開発が進められた。心臓疾患に特化した『ハートユニット』、高度な脳外科手術を可能とする『ブレインユニット』、そして効率的な人工透析が行える『透析ユニット』だ。
それは、東日本大震災での経験から求められた災害派遣の究極の手段であり、万一自衛隊が戦場に赴く時には隊員保護に必要となるツールでもあった。
大震災の被災地では、無理な避難と重すぎる喪失感、そして不自由な環境でのストレスから内科的重症患者が多発して被災者の命を奪っていった。その大半は脳と心臓の疾患による。もしもそれらを治療できる機動衛生ユニットが数多く存在し、避難所に運び込むことができたなら、かなりの割合の患者を助けられたはずなのだ。
高度な治療を可能にするユニットが欲しいという要請は、自衛隊と連携を組むことが多い日本DMATに届けられ、数人の開発適任者がリストアップされた。さらに先端技術を持つ企業とタイアップすることで、開発は精力的に進められた。
いち早く完成した『ハートユニット』は国際的な高評価を勝ち取り、今も広まり続けている。派生的に製作された『小型手術コンテナ』も世界各地で〝日本の奇跡〟として高評価を受けている。
ハートユニットの小型化が成功したのは、同時進行で開発が進んでいた特殊なX線――後方散乱X線を使用するレントゲンの完成によるところが大きい。しかしその他のユニットは小型化の壁が厚く、依然開発が難航している。
しかし自衛隊は、ハートユニットだけでは満足していなかった。さらに高度なスペックを要求し、本格的治療を可能とする〝空飛ぶ超小型病院〟を求めたのだ。そして最終的に、オスプレイで運べるまでサイズダウンした第3世代型――すなわち、現在のAORが計画された。
患者を病院に運ぶのではなく、手術室を現場に届けるという考え方だ。急患を現場で治療し、術後はそのまま地元の診療所でケアできれば、患者の負担は圧倒的に軽くなる。機動性が高いオスプレイで地方を巡回すれば、国内すべての過疎地で高度な医療を実現できる。無医村に病院を〝配達〟する――という逆転の発想だ。
日本の僻地医療は様々な問題を抱えている。医師や看護師の不足はもとより、人口減少によって病院そのものが採算が取れない〝お荷物〟になっていたのだ。一方で、過疎地の多くは国土の辺縁や島嶼部に存在し、国境としての性格も併せ持つ。不便だからといって医療サービスを切り捨てれば、さらなる人口減少に拍車をかけて他国の侵略に対して無防備になってしまう。
定住民は確保しなければならないが、過大な資本は投下できない――そんな政府の悩みを解消するために着目されたのがAOR型オスプレイだった。
離着陸時にヘリコプター同様に振る舞えるオスプレイなら、滑走路や穏やかな海面がなくても自在に要救助者を運べる。地震や火山の噴火などによって住民を一斉に避難させる際も、高速で飛べる固定翼機モードで効率的なピストン輸送が可能になる。台風や豪雪で陸路が寸断されても素早く援助物資を運び入れることができる。山間部や島嶼部に住民が点在する日本にとって、最も使い勝手がいい輸送手段といえるのだ。
そこに飛行中でも高度な医療活動ができる機動衛生ユニットの機能が加われば、僻地の医療レベルは飛躍的に向上する。病院がないからという理由で移住をためらう家族の誘致も後押しできる。
AOR型オスプレイは国境保全の切り札でもあったのだ。
政府には他にも隠された目論見があった。
中国を念頭に入れた防衛力強化のために、機動的な運用を可能にする兵器体系の見直しが進められている。海上自衛隊の大型輸送艦の空母化計画のためにも、垂直離着陸機の導入が求められている。また、対米貿易黒字を解消するためにも多額の武器購入が必要になる。
オスプレイの大量購入は、その全てを満たす最善の策だったのだ。
しかし反対派は殊更にオスプレイの危険性を強調し、そのアレルギーは一般国民からも消えない。強硬に導入を進めれば、政権運営にも支障を来たしかねないのが現実だ。
その〝忌避感〟を拭い去る一手が、医療業務に特化したオスプレイの開発でもあった。
隊員の献身的な災害対応によって、自衛隊への評価は格段に向上した。同様に僻地医療にオスプレイが活躍すれば、その有用性が実証できて導入が容易になるだろうという計算だ。
しかし、開発には困難が伴った。
そもそもオスプレイのサイズでは、C130H用のユニットは大きすぎて搭載することができない。根本的なコンセプト変更を余儀なくされた防衛庁装備開発部が出した結論は、オスプレイ本体と機動衛生ユニットの一体化だった。
オスプレイ後部のキャビンを分割し、中央部を隔離可能なAORとする。機体本体の配管や配線は極力整理統合して省スペースに徹し、利用できる空間を広げる。また、民間人輸送を円滑に行うために可能な限り振動や騒音を抑える。
その目的のために、国内の技術者が結集して最新の吸音、制震素材が集められた。本来耳栓がなければ鼓膜に負担をかけかねない機内でも、普通に会話ができるまで改良を重ねた。機器の小型化によって、AORにハートユニットと同様の装備を詰め込むことも可能になった。
無駄は極限まで削った。だが、機体の容積そのものを広げることはできない。その結果、ハートユニットでは3人の医師らが作業できる余裕があったが、AORでは2名が限界になった。つまり、医師にはより高い技量が求められることになったのだ。
逆にAOR化によって進化した部分もある。
オスプレイが持つ加圧機能とAORの高い機密性を利用することによって、内部の気圧を大幅に変えられるようになったことだ。例えば海自や海保、観光客がダイビングで事故にあった場合、加圧室や減圧室として使用することが可能になったのだ。したがってより多くの救助者を収容できるように、ベッドはデフォルトで2列、予備ベッド利用で最大6床が詰め込めるデザインになった。機体から得られる電力を利用して温度や湿度の調整も自由に行える。
この魔改造は世界から驚きの声をもって賞賛された。現在も各国の視察団から同乗したいという要請が引きも切らない。しかも、開発元のアメリカ軍からさえも逆輸入の打診がある。前線での負傷兵を死に至らしめた場合の政治的損失は、計り知れないものがある。たとえ多額の資金を投入してでも、人命を重要視しているという姿勢を見せることがアメリカ政府の利益になるからだった。
主に国内世論対策として推進されたAOR型オスプレイは、外貨取得の〝人気アイテム〟となり得る潜在力を備えていた。
小牧に本部を置く航空衛生機動隊は、航空自衛隊の航空支援集団直下にある組織で、現在5機のAOR型オスプレイを配備している。沖縄県の島嶼部、対馬周辺、佐渡島、北海道、そして小笠原諸島だ。それよって国境の医療体制は格段に質が上がり、着実な人口増加にもつながっているという。
北海道では、北方四島やサハリンで対処できないロシア人の急患を道内の病院で治療するという試みも始まっている。住民にとって欠かせないインフラとして定着することで、返還の機運を高めようという戦略だ。四島の住民の中には、日本の永住権を得られるなら返還に賛成しようという意見も聞かれ始めている。
とりわけ、父島、母島では歓迎されていた。両島ともに村立の診療所はあるものの、高度な医療は扱えない。それまでは、急患や対処できない患者が発生した場合は、自衛隊に都心の病院への搬送を依頼する以外になかったのだ。
父島の場合、日中で天候が安定していれば海上自衛隊の飛行艇US―2が直接島に上陸して患者をピックアップできた。しかし母島では、患者はいったんヘリコプターで硫黄島に渡り、そこで飛行艇に乗り込む手順になっている。母島には飛行艇が上陸できる港湾がなかったからだ。父島でも、夜間は母島と同じ手順を踏むしかなかった。US―2の到着地も羽田空港か厚木基地に限られ、さらにそこから病院への搬送が必要になる。中継地が多く、決してスピーディーな輸送とはいえない。
AOR型オスプレイが配備されることによって、機動性が格段に高まったのだ。母島にもいくつかのヘリポートがあるし、整備されていなくても空き地さえあれば離着陸ができる。ベースが軍用兵器なので、悪天候への対応力も高い。巡航速度もUS―2に匹敵し、何よりも目的地の病院敷地に直接降りられるという利点があった。
高齢者の増加で緊急輸送が増える傾向にあった小笠原村にとって、それは福音ともいえた。さらにこの最新装備が反響を呼び、若い家族が移住するきっかけにもなった。
たまたま搬送に居合わせた観光客がSNSなどで広め、若者の間では勝手に『まそたん』の愛称で呼ばれるようにもなっていた。アニメオタクの間では『まそたん』はF15しか認めないという非難が巻き起こったが、多くのファンにとっては大した違いはないようだった。
小笠原に行って『まそたん』に会うと幸せになれる――そんな作り話が現実に観光客を増加させてもいる。
自衛隊が歓迎される所以だ。
灘は、副操縦士の中野一尉がこのオスプレイを密かに『健さん』と呼んでいたのを聞きつけたことがある。目玉を描いて擬人化したことで、より愛着を深めていたようだった。独り言を聞かれたことに気付いた中野は、真っ赤になってうつむいていた――。
キャビンに残っていた灘が、改めて乗客を観察する。
女性たちに対面するシートを倒しながら、話しかけた。
「山下さん、でしたね? ここに座っていてください。すぐ離陸しますから、シートベルトをしてください」
一時は苛立ちを見せていた山下も、落ち着きを取り戻していた。無言でうなずき、素直に従う。
その声を聞きつけたかのように、両翼の先端に付けられたローターが回転し始める振動がかすかに伝わる。
シートに座った山下がベルトを握って戸惑いを見せる。
「どう付けるんだ?」
「あ、車のベルトと仕組みは同じです」
AOR型オスプレイは、民間人にとって扱いやすいように、可能な部分には民生品を取り入れていた。
「おう」
灘は山下のベルトを確認してから、言った。
「自分はしばらくあっちにいます」
「マサを頼むぞ」
「お預かりします」
灘はAORに入ってドアを閉めた。
山下が、女性たちの横に座った森を見ながらつぶやく。
「あんたら、知り合いなのかい?」
森が答える。
「父島の工藤さんたちだ。私の患者でね。週に一度は父島に往診に行って、様子を診ている」
山下は不満そうだ。
「先客が乗ってたとはね……」
少女が応える。
「あ、あたし……父島の工藤由香里っていいます。おばあちゃん、心臓が悪くて、東京の病院に――」
「こっちは大至急だっていうのに、父島で油売ってたのかよ……」
工藤由香里は、きつい語気にたじろぐ。
「ごめんなさい、でも、島じゃ治せないからって……」
しかし森は、由香里がその間一度も祖母の顔を見ようとしなかったことに気づいていた。祖母の方も、孫娘に遠慮するように視線をそらしている。不和というほどではないにしろ、2人が幸せな関係ではないことは知っていた。彼女らの仲を取り持ちたくて由香里に同伴を依頼したのも、森自身だ。
迷う由香里を、東京を案内するからといって説得したのだ。由香里が原宿やディズニーランドの誘惑に勝てないことを見越しての提案だった。
圭子が由香里との仲直りを望んでいることを察していたからだ。
森は、山下の不満をなだめるように言った。
「船長が焦る気持ちも分かるが、お互い様だ。離島じゃ難病は処置できない。一緒に運べるなら、その方がいいに決まっている」
由香里が言い添える。
「あたしたち、1週間以上前から移送を準備してたんです。船で運ぶと、途中で何が起きるか分からないからって……」
だが、山下の表情は和らがない。
「だったら、さっさと行ってりゃよかったんだ」
森はあくまでも穏やかだ。
「そうもいかないんだよ。一度の飛行に、一体どれだけの税金が使われるか、考えてもみなさい。天候も悪かったしね。離島に住む人間も、長期航海に出る人間も、立場は同じだろう? 助け合うのが当然じゃないのか?」
と、AORのドアが開き、別の隊員が現れた。
「森先生、正式な搭乗許可が届きました。あ、俺、救命士の谷垣二等空尉です。シートベルト、確認させていただきます」
そして乗員たちのベルトの位置を確かめようとする。
と、森医師と目が合う。
途端に谷垣の表情がこわばり、口調が変わった。
「おい……森って、お前なのか⁉」
谷垣の視線には、明らかな敵意が吹き上がっていた。尋常ではない憎しみだ。
森が怪訝そうな表情を見せる。
「どこかでお会いしましたか?」
谷垣の語気が荒くなる。
「覚えてもいないのか⁉」
「何を?」
「3年前の『港ハートセンター』の患者だ。ロータブレーターで血管を破って緊急に開胸手術になった」
「あ……」
「おかげで姉貴は傷だらけだ。婚約も破談になって、今もうつ病で引きこもっている。お袋は、自殺されるんじゃないかと気を休める暇もない。……お前が手術に失敗したせいだ」
森が顔色を失ってうめく。
「そうだったのか……君は、あの時の弟さん……」
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