第3話 ~モノクローム~

 捜査一課の灰原はいばらは、黒岩が店内で姿を消す前から、常連客としてCaféに通い続けていた。


 窓際の席が灰原の指定席だ。


 灰原はブラックコーヒーを見つめながら、海軍型ミルクピッチャーを目の高さまで持ち上げた。


 一呼吸置いてから、真っ直ぐに白の滝を黒の湖に落とす。


 ミルクの直線を眺める瞬間が、灰原は好きだった。黒一色だったコーヒーの湖面は、白濁はくだくしたうずを受け入れ、徐々に亜麻あま色へと姿を変えていった。


 最後にCaféの女性店員の白石が消えた時、灰原は偶然にもトイレから出る瞬間だった。


 白石が本に頭を突っ込み、首から下だけをさらした姿は衝撃で、目を疑った。両手をばたつかせ、必死に抵抗する白石の姿は現実の出来事として、とうてい受け止められなかった。


 灰原が放心状態で眺めていると、白石は身体ごと『黒の牢獄』に飲み込まれていった。


 残された白石の両手の指先が、本の中から最後のあがきを見せた。だが、白石の人差し指は、力なく本の端から外れて姿を消した。


 宙に浮いた『黒の牢獄』は、一瞬、満腹感にあえぐように震え、店内の床にばさりと落ちた。


 その後、本から全裸の黒岩が吐き出された。


 ここまでくると、もう自分の頭がおかしくなったのかと思った。マスターと黒岩の叫び声が、今でも耳にこびり付いている。


 異変に気付いたCaféのマスターが慌てて通報したが、時はすでに遅かった。言葉を失った灰原は、マスターに真実を告げられないまま、店を後にした。


 マスコミは連日に渡り、この奇妙な失踪事件を取り上げた。ワイドショーは好き勝手な憶測をき散らした。犯人はCaféのマスターで、客を殺害しては料理の材料に使っているとか、店が宗教団体と繋がっていて客を生贄いけにえとしてささげているなど、ありもしない事実を書き立てた。


 マスターは日を追うごとに疲弊ひへいしていった。


 一方、捜査一課も犯人を特定できずに、連続失踪事件は暗礁あんしょうに乗り上げていた。『黒の牢獄』から解放された客は皆、精神に異常をきたし、事件の重要参考人として役割を果たさなかった。


 最初に黒の牢獄から帰還した黒岩は、警察が何かを尋ねる度に頭を掻きむしり、奇声を上げるだけだった。


 黒岩はすぐに精神病院で応急入院となった。今でも閉鎖病棟で理解不能な言葉を発し続けていると聞く。


 二番目に解放された男は、警察から参考人として呼ばれたその日に自殺した。警察署の目の前で首にカッターナイフを突き立て、署の入口を赤い血の海へと変えた。


 灰原だけが犯人を知っていた。『黒の牢獄』は誰かを呑み込み、代わりに誰かを吐き出す。


 吐き出す順番は、まるでランダムだ。


 黒岩の前後にも何人か吞み込まれているようだが、白石が吞み込まれた際に黒岩が生還した。いや、本が人を呑み込む時点で、時系列や犯行の手口を考察しても意味はない。


 灰原は、それから眠れぬ日々を過ごした。


 白石を救えなかった灰原の後悔は日ごとに増し、自分への苛立ちはピークを迎えていた。


 灰原は意を決して、Caféに向かった。白石が消えてから、実に一週間ぶりだった。


 店に辿り着くと、マスターは準備中の木製看板を両手に持ち、立ち尽くしていた。小刻みに震える肩から、マスターが泣いていることは明らかだった。


 少しの気遣いをマスターに向け、離れた位置から声を掛ける。マスターは涙を白いコックコートのそでで拭うと、笑顔で振り向いた。


「いやぁ、なんかもう分かりませんわ。連日、警察が出入りして、ここがCaféであることも忘れてしまいそうです。奇妙な事件は止まらず、私の大切なスタッフまで失いました。廃業しようかと考えましたが、こうやって訪れてくださるお客様がいる限り、私の仕事としてコーヒーをれなければなりません。私が姿を消した時は、どうかこの店のことをよろしくお願いします」

「マスター。事件については、私が解決する。あとは任せてくれれば良い」

「いえ。常連のお客様まで失ったら店を続ける意味がなくなります。どうか変な事件に、お客様が巻き込まれぬように祈っております」


 マスターが厨房へと姿を消すと、灰原はグラスの水を一口飲んだ。灰原は店のテーブルに、昨夜、書き上げた遺書を置いた。


 店内のトイレに、女性用のワンピースを一着とサンダルを一組、隠した。


『黒の牢獄』事件に首を突っ込めば、殉職じゅんしょくもあり得る。警察も事件の度に床に落ちている『黒の牢獄』を疑い、本を鑑識に回したが、失踪に関連する情報は何一つ出てこなかった。


 だが、灰原は確信していた。だからこそ、遺書を書いた。もうこの事件を終わりにするために。


 ――決意はできている。


 人生が辛い時、何度も救ってくれたCaféの温もりと、あの素敵な笑顔の白石を奪った本が許せなかった。


 作りたてのイカスミのタリアテッレがテーブルに運ばれてくると、灰原は遺書を裏返した。

 黒い麺から白い湯気が立つ様子は、ブラックコーヒーに落としたミルクを巻き戻しに見ているようで思わず見惚みとれた。


 フォークに巻きつけた麺を口に運んだ。

 次の瞬間。

 灰原の想像通り『黒の牢獄』が床に落ちた。


「やはりな」


 朝のカフェに静かに埃が舞っていた。


 灰原はマスターに気付かれないようにそっと席を立った。躊躇ちゅうちょせずに、表紙に描かれた両目と視線を合わせた。


 灰原は大きく息を吸って、本に語り掛けた。


「私は君を知っている。今は白石さんだね? 隠さなくても良い。そうであれば黒目を左右に動かして欲しい」

 表紙の両目をじっと見つめていると、遠慮がちに黒目が視線をらせた。


「やはりね。私のテーブルに遺書が置いてある。この本から脱出したら、私の衣類や靴を処分して、トイレの中ですぐに遺書を読んで欲しい。マスターのためにも君のためにも、これで終わりにしよう。それが君と私との約束だ」


 黒目が左右に繰り返し動いた。

 灰原の行動を理解して、止めてくれているかのようだった。灰原は『黒の牢獄』を抱き締めた。


 覚悟を決め、ゆっくりとページを開く。


 灰原の視界が反転した。

 身体を吞み込もうとする『黒の牢獄』に、今更抵抗などしない。なにもかもが想像していた通りだった。


 代わりに脱出した白石が、目に涙を浮かべながら灰原を見つめていた。裸の白石はすぐに『黒の牢獄』と灰原の衣類を手に取った。


 それでいい。


 白石がテーブルから遺書を持ち去り、トイレへと駆け込んだ。


 灰原は本の表紙から白石を見つめていた。

 白石が狭いトイレの洗面台で顔を洗い、涙の跡を消した。用意されたワンピースを着て、サンダルをくと、遺書の封を切った。


 白石が震える声で遺書を朗読する。


「これを読んでいるのなら、私はもう本の中だ。そう、私は自ら『黒の牢獄』に捕えられた。君が客のためにそうしたように。私はこのCaféを愛しているし、いつも私に笑顔をくれた君を密かに愛している。どうか私でこの奇怪な事件を終わりにして欲しい。君は何事も無かったように服を着て、トイレを抜け出す。そして、この本を自宅の押入れの奥底にしまうのだ。もう誰も囚われることのないように。それから何事も無かったように、マスターの店で仕事を続けて欲しい。また君の笑顔で、客に幸せを届けて欲しい。もし、『黒の牢獄』が君の自宅にあることで、君が怯えてしまうのであれば、燃やしてくれて構わない。海に捨てても、地面に埋めても構わない。私のことは気にしなくていいんだ。最後に君をこの牢獄から解放できて、私の人生は輝いた。どうか、私のことは忘れてくれ。『黒の牢獄』を闇へとほうむり、君の人生を明るく生きて欲しい」


 読み終えた白石が、『黒の牢獄』のページを開こうとした。だが、灰原は本を固く閉ざして、開けさせなかった。


 表紙の両目を閉じた。


 灰原はもう白石と視線を交わさなかった。


 白石の叫び声が、トイレの中でいつまでも響いていた――。

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黒の牢獄 東海林利治 @toshiharu_toukairin

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