27 アナザー・ウィング

「『平行するふたつの世界は、交わることこそないが特定の緯度経度が固定的に存在している』……ん? どういう意味だ?」

 アウレリア政府管理局、医務室。

 僕は「楽だから」という理由で破けたジャージを着て、寝台に腰掛けていた。伝言鳥が運んできた、ジズ老師の教えを反復する。

「つまり、学校から薬草の森に飛んだから、薬草の森でもう一度アナザー・ウィングを使えば学校に戻れる?」

「多分そうですね。逆に、違うところからアナザー・ウィングで転移すれば、どこに出てしまうか分かりませんね」

 フィーナも首を傾げながら返してくれる。

「わあ。海の真上とかに出ちゃったら大変だな」

「よくもまあそんな、最悪な事態を思いつきますね」

 ミグの魔力が浄化され、アウレリアに戻ってきて七日が経った。アナザー・ウィングは紐で吊るして、僕の首に引っ掛けてある。

 連日、兵団員が都市を離れてパトロールをしては「異常なし」の報告が繰り返される。マモノはマモノの生活を営み、無関係の人間の社会に干渉してくることはないという。あれだけ興奮していたマモノが、唐突に大人しくなった。急な変化に、世間はまだざわついている。だがマモノが暴れ出す前のイカイに戻ったと、皆が気づきはじめていた。

 窓の外からはお祭り騒ぎの歓声が聞こえてくる。賑やかな笑い声と、そこから少しだけ隔離された医務室の静けさが心地よい。寝台の傍の壁には、小さな額がかけられている。飾られているのは、シルヴィアさんに描いてもらった絵だ。リュックサックごと濡れたせいでボロボロになってしまったが、パズルみたいに並べて飾っている。

「イフへ戻る予定は、決まりました? 」

 フィーナに徐ろに尋ねられ、僕はお昼時の明るい空に視線を投げてこたえた。

「そうだなあ……少なくとも、飛ばしたぶんの伝言鳥が帰ってきてからかな」

 マモノが大人しくなったイカイでは、再び伝言鳥が空を舞うようになっていた。僕も集められる限りの伝言鳥を集めて、お世話になった人にお礼のメッセージを飛ばしたのである。緑色の鳥たちが黄色がかった桜色の空へ一斉に舞い上がる姿は、とてもきれいだった。

「アルロからは、今朝、返事があったよ。フィーナにもよろしくって言ってた」

「よかった! お元気にしてらっしゃるのですね」

「それとね、クラウスさんとサラからも返事が来たよ。ふたりも、ぜひチャトとフィーナにまた来てほしいって。あと返事が来てないのはカイルさんだけだな。かなりの大怪我してたから心配なんだけど……」

 言ってから、僕は小さなため息をついた。

「それとは別に、僕、実は帰るのに尻込みしてるんだ。どうも、イフとイカイって時間の流れ方が違うらしいから、イフに帰ったらどれくらいの時間が経ってるのか想像すると不安なんだよね」

「あら……下手すると、イフでは時代が移り変わってるかもしれないんですね」

「やだなあ、折角帰ってもひとりぼっちだったら怖いなあ」

 帰るまでは、アナザー・ウィングに腕は通せない。だがなくすわけにはいかないし、他の人が迂闊に触ってしまうのも危ないから、紐を通して胸に下げ、肌身離さず持っている。

 のんびり空を見ていると、背後で部屋の扉がバアンと開いた。つんのめりながら、チャトが転がり込んでくる。僕はジズ老師の伝言鳥を指に乗せたまま、怪訝な顔で彼を見た。

「どうしたの、そんなに慌てて」

「忘れたのか!? 今日はイリスの式典だよ!」

「あっ」

 僕はフィーナと顔を見合わせた。すっかり忘れていた。

「そうだった! だから外があんなに騒がしいのか!」

「バタバタしててすっかり失念してました。あまりにイリスさんらしくなくて」

「もう! お昼の鐘がなる時間に出てくるらしいから、早くしないと間に合わないぞ!」

 チャトに手招きされて、僕とフィーナは慌てて駆け出す。

「いやあ、感慨深いなあ……」

 管理局の廊下を走りながら、僕はしみじみ呟いた。

「あれだけ人騒がせ者扱いだったイリスが、王宮に認めてもらえたなんて」


 僕らが戻ったアウレリアは、びっくりするほど世界が変わっていた。

「女神が! 女神がご帰還なさったぞ!」

 ポピに乗って現れた僕らを迎えたのは、ボロボロの街で腕を振り上げて歓喜するアウレリアの住民たちだった。ポピが広場に降り立つやいなや、囲まれて喝采を浴びる。なにかと思ったら、どうやらイリスがちやほやされているみたいだ。

 というのも、どうやらアウレリアがマモノの襲撃に遭った際、マモノが引いていった直後にポピに乗ったイリスが舞い降りたのがきっかけのようだ。王宮のテラスからそれを見たアウレリア国王の目には、イリスがマモノを一掃したように映ったのである。

 不幸中の幸いで死者が出なかったのは、女神の祝福と掲げられ、イリスは救済の女神だと都市に発表されていた。「漆黒の竜に乗った、蒼銀の女神」。僕らが、というか、イリス本人すら知らないうちに、そんなふたつ名がついて、ありがたがられていたのだ。

 救済の女神が、世界の危機を救った……。マモノによる厄災は封じられた。アウレリアの街にはそんな新聞が出回って、人々は歓喜に沸いた。

 竜族の末裔として、というよりは救済の女神として、イリスはアウレリア王宮に招き入れられた。幼い少女の姿ではなく、凛とした大人の女性の姿をしていたことも相まって、イリスは本人も戸惑うほどに女神としてあがめられている。ポピも王宮に引き取られることになり、現在、王宮の屋上に専用の小屋を建設してもらっているらしい。

 事実と異なる認識が深まるアウレリア社会に、僕は苦笑いだった。イリスは女神ではないし、実際にマモノを静めたのはミグだ。だけれど僕はその事実は黙っておいて、創作されるアウレリアの歴史を傍観していた。

 僕とチャトとフィーナはというと、速攻でリズリーさんに捕まった。自己判断でポピの時を解凍した一件や僕ひとりでエーヴェに向かった件など、しっかりお叱りを受けた。だが同時に、ポピを大きくしたことは結果的にメリザンドの被害を抑えたのだから、英断だったとも言われた。

 それと、僕の持っていた羽根の杖は、メリザンドへ運ばれた。マモノの行き場のない興奮を静められる魔道具として、研究機関である魔導学園へ送られたのだ。イフの人間でないと使えないものであるとも伝わっているが、その上で、どんな機能が働いているのか改めて調べるのだという。

 世界滅亡に近づくような悲劇は二度と起こってはならないが、この世界の安寧に役に立つのなら、それにこしたことはない。

 そんなこんなで、今日はイリスの晴れの日である。王宮に招き入れられたイリスが、民衆の前で挨拶をする式典が行われるのだ。僕らはその姿を見に行こうと、アウレリアの王宮、すなわちアウレリア城の前の広場へと向かったのだ。

「ふぎゃっ!」

 先んじて走っていたチャトが、変な声を出す。曲がり角で人とぶつかったらしく、反動で跳ね返って尻餅をついている。

「いってえな! 危ないな」

 チャトを叱責する威圧的な声の主は、ラン班長である。

「走るなと何度言ったら分かるんだ!」

「分かってるけど、急がないと間に合わないんだよ!」

 チャトも強気に言い返す。ラン班長はもうひと言チャトに苦言しようとして、はたと顔を上げて僕と目を合わせた。

「ああ、ツバサ。さっきお前宛に伝言鳥来てたぞ」

「誰からですか?」

「鳥族のカイル。背中の傷は回復してるらしいぞ」

「よかった!」

 誇りの翼が片方だけになってしまった彼は、最後に会ったときはいろいろ開き直っているようにすら見えた。だが傷は治ってきたようだし、僕に伝言鳥を返してくれる心の余裕もできたみたいだし、ほっとした。

 カイルさんだけではない。涼風の吹く森のサラや村長ふたりも、無事に助かった。一旦メリザンドへ避難していたクラウスさんはすぐに森へ戻り、今はマモノに壊された土地の復興をおこなっている。

 魔族のアルロは、毛族の島に移住して新たな里を作っているらしい。毛族とは言語が通じ合わないが、仕草や態度でなんとなくコミュニケーションを取れているという。元の樹氷の森の中へ帰った魔族もいるそうだが、なぜかそちらへついていく毛族もいたりして、なんやかんや仲良くやっているのだそうだ。

「返事をしないと。伝言鳥は今どこに?」

 ラン班長に尋ねていると、とっくに起き上がっているチャトがじたばたと足踏みをした。

「後にしよ! 早く行かないとイリス見えなくなっちゃうぞ」

「そうだね! 返事はゆっくり考えよう」

 今は式典が優先だ。ラン班長にぺこりと頭を下げてから、僕はチャトを追って、フィーナを手招きして、再び廊下を駆け出した。

「だから、走るなって言ってるだろ!」

 ラン班長の怒号は無視して、管理局の外へ飛び出す。街はカラフルな花やオーナメントで彩られ、祝賀ムードに華やいでいた。

 マモノに攻め入られて都市の一部が倒壊したようで、飾られた街の建物はまだ崩れているところも多い。それでも上空にはいくつもの旗がはためいて、街の人々は通りへ出てきて歌って踊っていた。テーブルを出してお酒を飲んでいる人もいれば、小さな旗を貰ってはしゃぎ回る子供もいる。かなりの人混みで、チャトとフィーナとはぐれてしまいそうだ。

 人を避けて坂道を登ると、小高い丘にそびえるアウレリア城が見えてきた。坂の先に建つ巨大な城は、集まった市民を包み込むかのように堂々と構えている。白い壁には色とりどりの花のバスケットが下げられて、無数の窓からは赤い国旗がたなびいている。真正面には広いバルコニーがあり、白っぽく透けたレースが垂れ下がっていた。

 王宮が近くなるにつれ、人混みは更に密度を高め、賑やかなざわめきも比例して大きくなった。女神の姿をひと目見ようと、多くの人が王宮前の広場へ詰めかけているのだ。出遅れた僕らは、近くで見られそうもない。

 チャトがするすると人混みの中を掻き分けて、広場の端っこに潜り込んでいく。フィーナがもたつきながら、彼とともに人の波へと溶けた。

「見えそうですか?」

「多分。あそこのバルコニーに出てくるはずだよな」

 会話こそ聞こえてくるが、大人に囲まれたふたりは僕からは見えなくなってしまった。僕も人々にポコポコぶつかりながら、ふたりの傍へ駆け寄る。

 そのときだ。ピンッと甲高い音がして、肩がやけに軽くなった。嫌な予感がして振り向くと、二歩ほど後ろの地面にガラスの腕輪が落ちている。肩からさげていた紐は、胸元で千切れていた。

 咄嗟に、僕は屈みながら人の波に逆らった。アナザー・ウィングが踏まれて割れたら大変だ。親切に誰かが拾って、うっかり腕を通してもいけない。なんとしてでも拾わなくてはいけない。

 地面に寝そべって光るアナザー・ウィングに手を伸ばす。

 瞬間、真上からゴーン、ゴーン、と、鐘の音が鳴り響いた。同時に人々の歩みが止まり、ざわめきは歓声に変わる。

 僕も、屈んだままで顔だけ上げた。大人の頭の間に、王宮のバルコニーが見える。遠くて、しかも人の隙間からだが、僕の目にもはっきり捉えられた。すらりと立つ、赤い瞳の女性の姿。

 銀色に光る青みがかった髪が、風に揺れる透けた黒いベールから覗く。濃紺のドレスは日の光できらきら、銀河みたいに煌めいて、夜空のようだ。ちょうどポピの毛並みに似ている。

 風が吹いて、飾られた花が花びらを散らす。彼女のドレスが波打つ度に、星影の装飾がきらきらと眩しく輝く。

 一秒間ほど目を奪われたが、僕はすぐに下を向いてアナザー・ウィングに指を触れた。ちょっとだけ端っこが割れている。人に踏まれそうになり、慌ててひったくるようにして拾う。

 無事に拾えたが、小さく屈んでいた僕は人にぶつかられ、ころんと姿勢を崩した。またアナザー・ウィングが手から滑り落ちそうになる。

 僕は反射的に、輪っかの中へ手を突っ込んだ。

「あっ」

 アナザー・ウィングの中を通る、オーロラ色の筋が光りだす。それが徐々に強くなり、辺りを照らし、何事かと人々が振り向く。

 僕は頭を上げて、ぐるっと周りを見渡した。あまりに人で混んでいて、チャトもフィーナも見つけられない。

「待って」

 思わず腕輪に向かって叫んだが、そんなのは聞き入れてもらえるはずもなく。光の輪はみるみるうちに広がって、イリスに注目していた大勢の民衆もどよめきながら僕からは離れた。

 白い光が翼のように広がって、僕を包み込んでいく。

 僕は高いバルコニーに目を向けた。彼女の方からも見えたのだろう。こちらを見下ろすイリスの、呆れとも呆然とも取れる顔がある。

 しかしその顔もすぐに光の向こうに霞んで、見えなくなった。


 *


 朦朧とする意識の中で、懐かしい声がする。

「翼……?」

 僕を呼ぶ声だ。うっすらと目を開けると、飛び込んできた光が眩しくてまた目を細めた。

「翼!? 翼!!」

 声がはっきりと聞こえてきて、僕の意識も少し浮上した。一度ぎゅっと目を瞑ってから、そっと開けてみる。

 僕を覗き込む、お母さんの顔が見えた。

「……お母さん」

「翼!」

 続いて顔を近づけてきたのは、スーツ姿の男の人だった。ちょっと頭がぼうっとしてよく分からなくて、突然ハッと覚醒した。

「えっ!? お父さん?」

 思わず跳ね起きた。

 目の当たりにしたのは、白いベッドと淡い緑のカーテン、テレビでしか見たことのない、病院機器の類。

 お母さんは布団の上に顔を突っ伏して泣き崩れ、お父さんは口を半開きにして立ち尽くしていた。

「よかった、目を覚ましてくれて」

 お母さんが嗚咽を洩らす。僕は目をぱちくりさせて、お母さんの後ろ頭を眺めていた。

 ここは……いや、考えなくても分かる。ここは、僕が生まれ育った世界。イカイの言葉でいう、イフだ。

「……帰ってきたの……?」

 僕の声は、掠れて声にならなかった。

「待って、僕、……」

 喉を微かに震わせる。

 チャトとフィーナに、ちゃんとお別れを言えていない。

 ぽろっと、涙が零れ落ちた。布団の上に落ちて、小さなシミになる。

 布団の中でぴくりと手を動かしてみた。チャリッとガラスの擦れるような音がした。ちらっとだけ布団を持ち上げてみると、欠けて割れた透明の腕輪が、手首に寄り添っていた。


 それから僕は、落ち着いた頃にいろんなことを聞いた。

 ここ二週間、僕が行方不明になっていたこと。昨日になって、住んでいる町から数キロ離れた隣の県の山の中で倒れているのを発見されたこと。

 なにかの事件に巻き込まれたか、家庭の事情や学校での生活にくたびれて家出をしたか……そんな風に考えられていたのだそうだ。

 両親や病院の先生だけでなく、警察も来て、なにがあったのかと問われた。けれど面倒くさかった僕は、「なにも覚えていない」と忘れたふりをして押し通した。

 そう、なにもかもを。

「意識が戻ったばかりのところ、申し訳ないんだけどね」

 病室に来た警察官が無機質な声で尋ねる。

「君は、天ヶ瀬つぐみちゃんとはクラスメイトだよね。彼女とは一緒にいたかい?」

「天ヶ瀬……」

 僕はふるふると首を横に振った。

「いえ。あまり話したことないので、知らないです」

 なにもかも、忘れたふりをした。もちろん、彼女のことも例外ではない。

 警察官がメモを取りながら、「そうかあ」と間延びした声を出す。

「君がいなくなった日のあたりから、つぐみちゃんは学校を休む日があったみたいでね。ここ五日は連日来てないんだ。翼くんの件と、なにか関係があるのかなと思っててね」

 天ヶ瀬つぐみは、学校を無断欠席して初めて行方不明だと認識されたのだそうだ。連日の欠席で、先生が彼女の親に連絡を取ろうとしたのがきっかけだ。学校に報告されていた親の名前は架空のもので、連絡先は届出すらなかった。天ヶ瀬さんの捜索願を出したのは、担任の先生だったという。

 なんだかちょっと、耳に覚えのある展開だ。そう思うと同時に、彼女はどちらの世界線にいてもひとりだったのだと気付かされた。


 その後、数日は入院したけれど、異常がないと分かるとすぐに家に帰してもらえた。しばらくは通院の必要があるそうだが、学校へは、もう今日から行っていいのだそうだ。

「ええ、そう。今日からもう学校始まる。見た目は元気そうだけど、そうね。ちゃんと様子は見てるから」

 お母さんが朝から電話をしていた。相手は、離婚したお父さんだ。

 僕の両親は連絡先はお互いに持っていても、交流は全くと言っていいほどなくなっていた。しかし僕がいなくなった日、お母さんはお父さんのところへ行っていないかと連絡をしたという。心配したお父さんは、久しぶりにお母さんと会って一緒に捜してくれたのだそうだ。

 僕は、お父さんがお母さんを責めるのではないかと心配していた。僕がいなくなったのをお母さんの責任にするかと思ったのだ。しかし実際はそんなことはなく、抱え込んで憔悴するお母さんを、お父さんが宥めているようだった。

 退院してからも、お母さんはお父さんに経過報告の電話をしている。仲の悪いふたりのことだ、恐らくそれ以上の対話はないのだろうが、僕はそれでもちょっとだけ嬉しかった。

「翼、今日はお母さん、仕事早く上がるからね」

 電話を切ったお母さんがこちらを向く。

「お夕飯、なにがいい?」

「えーと、カレー!」

 鞄を背負って玄関にいた僕は、振り向きながらこたえた。結構長いこと我慢していたメニューだ。そして扉を開けてから、付け足す。

「一緒に作ろ。僕も寄り道しないで帰るから、待っててね。行ってきます」

 約束してから、僕は家の外へと飛び出した。

 街の景色はさほど変わっていない。当たり前の通学路、いつもの教室、見慣れたクラスメイト。とても長い時間をイカイで過ごしたような感覚だが、イフでは二週間程度しか経っていない。なにも変わっていなかった。

 とはいえクラスメイトからすれば、二週間も行方不明だった奴が登校してきたのだ。教室に入った途端ざわついた。興味本位で僕に話を聞こうとする人もいたが、どこか遠慮して離れていく。僕の方もあまり聞かれたくないので、ちょうどいい。

 ふいに、教室の隅の机が視界に入った。窓際のその机の天板に、はためくカーテンがゆらゆらと影を泳がせている。

 天ヶ瀬さんの席だ。空席のまま、日差しを受けて佇んでいる。

 朝のホームルームが始まっても、午前の授業が始まっても、お昼になっても放課後が来ても、とうとう彼女は来なかった。

 僕が忽然と消えた日から、彼女はぽつぽつと無断欠席するようになったと聞く。僕が向こうに閉じ込められている間も、彼女はイフとイカイを行き来していたのだろう。そんな想像をしてみたけれど、もう彼女本人に確認することはできない。もう二度と、この教室にあの子は現れないと、僕は確信していた。

 君と話してみたかった。

 話せたけれど、あれだけじゃなくて。もっと他愛のない話を、毎日、少しずつでも、これからもっと、話したかった。

 だけれど彼女はもういない。僕だけはありふれた日常に戻ったというのに。

 なんの変哲もない一日が過ぎて、僕は流されるように帰り支度をした。ふいに、よく聞き慣れたダミ声に呼び止められる。

「神楽! お前、二週間もどこ行ってたの?」

 渡辺だ。放課後まで話しかけてこなかったから、油断していた。

 朝の彼は僕を見て明らかに動揺していた。僕が行方不明になったのは、自分のいじめが原因かもしれないと思って危機感を持っていたのだろう。

 でも僕は彼にされてきたことを親にも先生にも言っていない。誰からも怒られなかった渡辺は、試験的に僕に突っかかってきたようだ。

「学校サボって遊んでたのか?」

「か、和彦、やめなよ……」

 彼の取り巻きは、顔を青くして萎縮している。一応、事情ありげな僕を弄るのはやめた方がいいと思って怖気付いているみたいだ。それでも渡辺は、彼らを自分側に引っ張りたそうに口先だけ堂々としている。

「お前がいない間、掃除当番がいなかったからな。今日もきれいにしとけよ」

「渡辺くんってさ……」

 僕は机の上の汚れたリュックサックを持ち上げ、背負った。

「頑なに掃除を嫌がるね」

「は?」

「面倒なのは分かるけどさ。そこまで徹底してやりたくないっていうのもすごいなと思うよ」

 これはちょっと、嫌味っぽかったかな。

「なんだよお前、偉そうだな」

 僕が口答えするなんて初めてだったせいだ。渡辺の眉間にみるみる皺が寄っていく。

 今までの僕なら、これだけで怖くて言いなりになっていた。今でも怖い。でも、もう負けない。

「これからは一緒に掃除しない? 僕も手伝うから」

「バカにしてんのかよ!」

 渡辺が怒鳴って、僕の胸を突き飛ばした。押された僕はふらついて、自分の机にガシャンと体をぶつける。

 渡辺は舌打ちして、取り巻きに目配せした。

「行こうぜ」

 机に体を預けて、僕は渡辺の後ろ姿を見送った。

 とりあえず、今日はこれくらいでいい。初めから、いきなり勝てるとは思っていない。勝てなくていい。戦いたくもない。だけれど、負けたくはなかった。

 戦わないのと逃げるのは違うのだ。僕はもう、あいつの言いなりにはならない。僕は僕のやり方で、渡辺よりうわ手になってやろうと思う。強くなれなくていいけれど、強く生きたいのだ。

 しかし渡辺は帰ってしまったし、掃除を怠るのもよくない。仕方なく、僕は掃除ロッカーへ箒を取りに行った。今日のところは、僕の負けだ。

 掃除ロッカーを開けようとしたら、先に横から手が伸びてきた。扉を開けて箒を二本出す、ジャージの男。

「畑田くん……?」

 渡辺の取り巻きのひとり、畑田だ。彼は僕に箒を片方突き出して、ぶっきらぼうに言った。

「よく言った」

「ん?」

「渡辺に。俺も、あいつに同じこと思ってた」

 畑田が床を掃きはじめる。

「お前もウジウジしてて湿っぽくて嫌いだったけど。今のは少し、スカッとした」

 僕はしばし固まって彼を眺めて、それからくすっと笑った。

「謀反だ!」

「うるせえな。下手に反発すんの面倒だから、クラス替えまで我慢しようと思ってただけ」

 つっけんどんな態度に、僕は笑いながらはいはいと頷いた。

「ありがとう」

 僕の世界も、変わりはじめている。ほんの少しずつ、些細なことから。

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