26 真夏の公園

 夕焼け色に染め上げられたエーヴェの海は、波ひとつ立たない穏やかな水面を煌めかせていた。

 ポピが舞い降りた場所は、エーヴェの北側の浜辺、船の墓場の付近である。砂浜を眺めて、イリスが呟く。

「海が穏やかじゃ。水棲マモノが上がってきたりして、こっちも惨事になっておるかと思ったのじゃが……エーヴェには、マモノが来てないようじゃの」

「そうだね、多分、ここには来ないよ」

 僕は根拠のない自信で言い切った。僕の勘が正しければ、エーヴェはこれからも無傷だ。イリスが不思議そうに首を傾げる。しかし深くは聞いてこないで、彼女は切り替えた。

「ツバサ殿、本当にひとりで行くのかの?」

「うん」

「私がポピ殿を連れて行ってしまったら、帰れなくなってしまうじゃろう。ミグ殿に会えたとしても、連れ出す手段がないではないか」

「大丈夫だよ。それよりイリスとポピには、チャトとフィーナを迎えに行ってほしい」

 僕だけがポピから飛び降りた。ポピが頭を低くしてくれたお陰で、砂浜の上にトンッと着地できた。イリスがまだ不安げに尋ねてくる。

「なにか考えがあるのじゃな? ならばなぜ話してくれぬのじゃ」

「うん……それは、ごめん。話せないけど、心配しないで」

 ポピが顎を砂浜につけて、僕をじっと見つめる。耳を澄ませると、ポピの喉がキューと鳴っているのが聞こえた。

「君まで心配してるの? 僕ってそんなに頼りないんだね」

 鼻先を撫でると、ポピは目を閉じた。両腕を広げて、ポピの顔を抱きしめる。

「大丈夫だよ。ありがとう」

「ウグゥ」

 ポピが僕の肩に顎をすり寄せる。ふわふわの鼻先が僕の頬に触れて、擽ったい。そっと手を離しても、ポピはまだ僕に寄り添っていた。

「イリスを頼むね」

「グウー……」

「時間がない。すぐまた会いに行くから」

 もうひと撫ですると、ポピはやっと、名残惜しそうに顔を引っ込めた。すっと顔を高く上げて、自身の首にいるイリスを一瞥する。それからふわっと羽根を広げ、足を浮かせた。

 ポピと共に浮かび上がるイリスが、身を乗り出す。

「ツバサ殿」

 燃えるような赤い瞳が、不安そうに僕を捉える。

「信じてよいのじゃな!?」

「うん!」

 彼女をまっすぐ見つめて頷くと、イリスは顔を歪め、ポピの毛をぎゅっと掴み、大声で叫んだ。

「裏切ったら承知しないからの!」

 語尾は羽音に掻き消されて、少し掠れて聞こえた。僕はポピの羽ばたく風圧をもろに食らった。砂浜の細かい白い砂が舞い、髪がぼさぼさになる。

 バサバサバサと、ポピが高く上がっていく。黒い毛の塊はだんだん遠くなって、薄暗い空にのぼっていって、やがて東の星空へ、黒い線のようになって見えなくなった。

 イリスとポピを見送って、僕はくるりと海に背を向けた。目の前には、一度見たことのあるエーヴェの海岸の景色が佇んでいる。

 僕は迷わず、一歩を踏み出した。

 潮の香りで鼻の奥がツンとする。大丈夫だと言ったけれど、本当はあんまり、大丈夫ではない。イリスに一緒に来てほしかったし、チャトとフィーナにも傍にいてほしかった。ひとりはやっぱり、不安だ。

 歩いていると、どんどん孤独感が増してくる。

 ずっと隣にいてくれたチャトとフィーナに会いたい。でもこれだけ離れていれば諦めるしかない、ひとりで行くしかないと、頭では分かっている。

 せめて島主に挨拶に行きたいなとか、絵描きのシルヴィアさんが帰ってきているなら会いたいなとか、心の隅っこでは考えた。甘えたがりの僕は、誰かに近くにいてほしいのだ。

 しかし今は一刻を争う。今はとにかく、心当たりのあの場所へ向かう。

 目指すは、彼女の名前を初めて聞いた場所。

 砂浜から疎らに木が並ぶ森に入り、海風に揺れる木の葉の音を聞く。静かだ。海の向こうではマモノが都市を襲って大混乱になっているというのに、ここだけはまるで、時間が止まっているみたいな静寂に包まれている。

 足を止めることなく、砂利を踏んで前へ進む。暗くなりかけた森が、無言で僕を呑み込む。心臓がどくどくして、指先と膝が震える。口の中が乾く。それでも、足が止まることはなかった。

 木々の隙間に、白い柱が見えてきた。夜闇に浮かび上がるように現れた、その建物を前にして、僕は歩みを止める。

 朽ちて欠けた四角い屋根に、汚れて蔦の這う柱。石造りの床の隙間には、小さな花が芽吹いている。

 人の手が入っていない森の中に、忘れ去られた遺産としてそこに鎮座する。初めて来たときは、これがなんなのか、僕には分からなかった。

 だけれど今なら知っている。柱に刻まれた、消えかけの文字。風で削られた床に微かに残る円の跡。奥には美しくも物々しい、白っぽい石碑。一対の翼を描いた紋章。

 柱と柱の間を、海風が吹き抜けた。誰もいない祭壇に、砂が舞う。

「ここにいると……思ったんだけど……」

 ひとり言が風にさらわれる。ひとつまばたきをして、僕は神殿の床へと上がった。

 長らく放置されてきたのだろう。床には砂浜の砂が積もって、歩くと靴底でじゃりじゃりと音がした。奥の祭壇まで歩み寄り、読めもしない記号に目を走らせる。

 祭壇の周りを歩き、やがて僕は右の端っこに床の崩れている場所を見つけた。崩れているというか、人が入られる程度の穴が空いている。いや、むしろもともとあった穴を埋めるように、祭壇が造られているのだろうか。地下へと続く階段があるのだ。

 恐る恐る、足を踏み入れてみる。中はやけに涼しい。左右の壁は狭くて、ひとりで通るのが限界だ。壁に手をついて、ゆっくりと階段を降りていく。

 階段の幅は徐々に広くなり、いちばん下につく頃にはすれ違えるほどの余裕になっていた。周囲は暗くて、よく見えない。ただ、冷たい岩で囲まれた狭い洞窟のような、辛うじて人が通れる道になっているのは分かる。岩がぼんやり青く光っているお陰で、真っ暗にならずに足元が見えた。

 なんだろう、ここは。怖くて心臓が激しく跳ねて、背中に汗が浮かぶ。僕は浅めの呼吸を繰り返しながら、奥へと進んだ。

 すると突然、暗い道の奥にミルクティー色の長い髪が見えたのだ。

「ミグ!」

 やっぱり、ここにいた。

 走り出そうとすると、ぼこぼこの地面に足を取られて、突き出た壁の岩に体がぶつかる。つんのめりながらも壁面に寄りかかって、奥に見えた少女の姿を追いかける。

「待って!」

 岩の細道の先に、光の粒が見えてきた。出口だろうか、少女がその向こうへと、光に呑まれるようにして消えていく。僕も夢中になって走った。岩を蹴って、転びかけて、よろめきながら、よくやく辿り着いた光の中へと、飛び込んでいく。

 眩しくて、視界が真っ白だった。

 そして気がついたときには、僕は炎天下の公園で立ち尽くしていた。

 子供たちがはしゃぐ声がする。真昼の日光が空気を蒸し暑く煮立たせて、遠くが陽炎のように歪んで見えた。ジワジワジワと、蝉の声が溢れている。

 ここは、どこだ。いや、知らない場所ではない。僕が幼かった頃に遊んでいた公園の景色だ。でも、それがこちらの世界にあるわけがない。

 振り向いてみたが、先程までたしかに駆け抜けていた洞窟はない。なぜだろう。声がするのに、人がいない。しかも笑い声も話し声も、全ての音が雑音に聞こえて、言葉として聞き取れない。まるで、周りに人がいるのに、自分も彼らも、お互いに無関心で、互いの姿が見えていないかのように。

 首の角度だけ変えて周りを見渡し、正面を向いて、ハッとした。

 真夏の日差しの中に、あの子は立っていた。正面の砂場に立って、ひとりで山を作って、それを足で崩していた。

 深い緑色のエプロンドレス、感情を見せない鳶色の瞳。なんだか、捨てられた人形みたいに見えた。

「ミグ」

 名前を呼んでも、振り向かない。

「天ヶ瀬さん、と、呼ぶべきかな」

「ミグでいいよ。そっちが本当の名前だから」

 ようやく、彼女は返事をしてくれた。

「やっぱり、君はとっくに私に辿り着いていたんだね。“神楽くん”」

 こちらの世界では誰も呼ばないはずの名前で呼ばれる。

「でもちょっと、意外だった。来るなら大好きなお友達と一緒に来ると思った」

「そうしたかったけど、君とは一対一で話したかったんだ」

 本当は怖くて仕方なかった。ミグの言うとおり、誰かと一緒がよかった。だけれど、彼女の秘密を解くのなら、誰にも聞かれない方がいい。

「『ミグ』が本当の名前なら、『天ヶ瀬さん』が仮の姿なの? 君はイカイの生まれなんだね」

 聞くと、ミグはゆっくりと頷いた。そうか、彼女は僕と同じイフの人間ではなかったのだ。どうりで、チャトが「おいしそうな匂い」を感知しないわけである。

 僕は一旦呼吸を置いて、尋ねた。

「ここはどこなの?」

「エーヴェの炭鉱跡地」

 僕が生まれ育った世界の景色の中で、異世界の地名が語られる。頭の中で情報が噛み合わなくなって、不思議な気分になった。そんな僕を見かねてか、ミグは付け足した。

「あなたの目に見えている光景は、私から洩れ出す魔力が映す幻影」

「あ、だよね。まさか本当に、向こうの世界のこの場所に繋がってたわけじゃないよね」

「ええ。ここはただの閉鎖された炭鉱。その上に神殿を配置して、人が入らないようにしてあるの。稼働してた頃は、労働者の生活スペースも炭鉱内にあってね、環境が悪くて死者も出たんだって」

 世間話のように語るミグに、僕はふうんと相槌を打った。

「そっか。じゃあ隠れ家にするにはちょうどよかったんだね」

 日差しが眩しくて、長めのまばたきをする。ミグは僕を一瞥し、静かな声で話した。

「かつてはここで、青い鉱石が採れた。それを顔料にして、特産品の染物を作っていたの」

「特産品の染物って、あの青地に白い模様のだよね」

 鳥族の谷にいた空運び鳥の足には、あの染物が巻かれていた。そしてその内側には、黒い汚れのような滲んだインクで、走り書きがあった。

『私はここにいる』

 それは、アナザー・ウィングの変換でなく、僕の世界の文字で書かれていたのだ。

「なんであんな、まだるっこいヒントにしたの? 空運び鳥が無事に谷に帰れたか確認できないし、僕が鳥族の谷に行かなかったかもしれないし、鳥の染物に気づくとも限らない。見つけたとしても、エーヴェの染物だって気づかないとか、君のメッセージを見つけないかもしれないのに」

「それくらいでよかったの。これだけ脆弱な情報で、全ての条件が揃ってあなたがここに来たら……私の負け。それが、運命だって思った。つまり神楽くんを試したの」

「君らしいと言えば君らしいね」

 日差しが、眩しい。なんだか息が苦しくなってくる。酸素が足りないのだ。ミグは苦しそうな素振りは見せず、砂山を足で均してからこちらに目線を向けた。

「想像以上に、神楽くんは私の傍まで来ていたね。あなたはいつから、どこまで辿り着いてる?」

「うーん……分かんないことも多いし、『だろうな』って思ってることもいくつかあるし。最初に違和を感じたのは、アナザー・ウィングの名前を聞いたときかな」

 あれは、メリザンドでジズ老師に調べてもらったときのことだ。

「この世界の言葉は、僕の耳には分かる言葉に変換されて見聞きできる。道具や生き物の名前は、なんか無理やり訳したみたいな、おかしな語感になるんだ。だけどアナザー・ウィングは、それとちょっと雰囲気が違った。だから、アナザー・ウィングは訳されて聞こえている言葉なんじゃなくて、イフの言葉なんだろうなって……薄々感づいた」

「鋭いのね。そんなところで気づくとは思わなかった」

 ミグが驚いている。でも、声は単調だし顔は無表情だった。僕はちょっと置いて、再び続けた。

「確信に近づいたのは、山脈で遭難した僕を君が介抱してくれたとき」

 空運び鳥で流星の霊峰に向かおうとして、墜落した日だ。

「マモノがミグの言うことを聞いてたのは、心を開いてるというよりミグにひれ伏してるみたいだった。そしてマモノを自在に操れるなら、つまり、彼らを暴走させるだけの影響力もあるんじゃないかなって……」

 マモノを狂わせられるのは、彼女しかいない。

「君の行動拠点がエーヴェなんじゃないかって決定づけたのも、それにひもづいてる。ここがマモノに襲われないのは、海に囲まれていたからじゃない。君がいたからなんだ」

 三つの都市の中で、エーヴェだけが異端だった。海に囲まれていたからマモノの襲撃を受けなかった、と聞いたけれど、海から上がってきて人を襲う水棲マモノがいるのは、この目で見ている。ミグに恐れをなすマモノたちは、この島には近づけなかったのではないか。

 ミグはふっと目を細めた。

「流石ね。そこまで分かってたんだ。だというのに私に『味方』してくれたのも、とても神楽くんらしいね」

 気づいていた。でも、だからこそ誰にも言えなかった。

 竜族の魔力を授かってマモノを突き動かした張本人として、ミグに疑いがかかったら、彼女はきっと処罰を受ける。そこまで考えてしまったら、軽々と人に話すなんてできなかった。

「でも、まだ分からないことがいっぱいある。どうして君がこんなことをしたのか、どうして僕がここにいるのか。君が全部知ってるなら、話してくれる?」

 暑さで目眩がする。でも不思議と汗はかかない。ミグのひんやりした視線が、僕を射抜く。

「お喋りは得意じゃないの」

「ゆっくりでいいよ」

「信じてもらえないかもしれない話よ」

「そんなの慣れてるよ。僕自身のこともイリスの件も、信じてもらえないような話だった」

 ちょっとため息混じりにこたえると、ミグはほんの少しだけ、頬を緩ませた。

「私には前世の記憶がある、って言ったら、信じる?」

 蝉の声がする。真夏のコンクリートの匂い、高く真っ青な空、入道雲。砂場に立ち尽くす、少女。

 僕の中にフラッシュバックしたのは、骨ばった腕で砂山を作っていた、黒いおかっぱ頭の小さな女の子だった。

「私ね。前世で虐待を受けてたの。当時は自覚できてなかったんだけどね。それで施設に預けられたり、両親の元に戻ったりを繰り返していた」

 ミグが話しはじめる。どうしてか僕の頭の中で、あの黒いおかっぱの女の子が重なる。

「だけど三歳くらいのとき、真夏の暑い部屋に放置されて死んじゃったの」

 僕は砂利に落ちた自分の影を見つめていた。ミグの声が頭の中で膨らんで、飽和していく感じがした。

「そんな環境でも、私は自分のお父さんとお母さんが大好きだった。だから憎んだりはしなかったけど、でも、私がもっと強かったら、もっと違ったのかなって……。もしも生まれ変われるなら、次は誰より強く、凛としていたいと思った」

 酸素が、足りない。

「そして君は、この世界……『イカイ』に生まれたの? 前世の記憶を残したままで」

 僕がぽつんと聞くと、彼女は深くまばたきをした。

「偶然だったのか、そういう導きだったのかは分からないけれど。この世界は、たとえ力のない子供や老人、体力の乏しい華奢な人、病人でも、強くなれる世界だった」

 僕は暑さでくらくらする頭で、フィーナやリズリーさんを思い浮かべた。この世界には、魔導がある。才能の有無はあるにしろ、魔力は勉強して身につけることだって可能だ。

「私は魔力を手に入れた。自分より背の高い大人や筋力のある人だって、片手でねじ伏せることができる。魔力は磨けば磨くほど高まっていった。前世ではなにもできなかったのに、この世界ではいとも簡単に思いどおりになる」

 ミグはそこで、ひと呼吸置いた。

「それってね、すごく複雑なの。一度死んで自分の脆さを実感しているせいかしら、『もしも今の私なら、前世でも生きられたの?』って悔しくなるの。そしてその反面、もっともっと強くならないと、自分より更に強いものに殺されてしまう気がしてる」

「だから君は、竜族から魔力を貰ったの?」

「うん。自力で手に入れられる魔力には限りがあったから」

 そうして彼女は、世界じゅうのマモノを操るほどの魔力を手に入れた。

「それによって反応したのは、マモノたちだった。彼らは自分より強いものに屈する。それまでは人間に対して攻撃性を持たなかったマモノたちだけれど、圧倒的な魔力を持った私という存在を前に、本能ごと突き動かされたのね。私のための王国を作るかのように、マモノは世界を制圧するようになった」

 特に強く影響を受けたのは、攻撃能力の高いマモノ。格付けの高いものほど、従順にミグに仕え、人々を襲った。

「私の魔力に反発できるものは、竜くらいしかいなかったんじゃないかな。竜は遺伝子レベルで、他のマモノに恐れられているから」

 ミグの睫毛に、日差しが憩う。

「アナザー・ウィングを作ったのは、竜族から魔力を授かるより少し前のこと。前世の自分が生まれた世界を、今の私の視点で見てみたかったから」

 ミグはすっと、右手と左手、両方の人さし指を立てた。

「そうしてふたつの平行世界を繋げて、それぞれに名前をつけた。前世から見た“異界”は、『イカイ』。今の私が“もしも”前世の世界に生まれていたら……という意味を込めて、向こう側は『イフ』。まあそれは、イフで中学生の暮らしをして、英語を習ってからつけた名前なのだけど」

“異界”という日本語と、“if”という単純な英語。アナザー・ウィングと同じで、彼女がイフの言語で名付けたものだったのだ。

「空間が交わらなければ時間の流れ方も違う。私がイカイで生まれ変わって十三歳まで大きくなっていても、イフではもう少し短い時間しか流れていなかった。前世の記憶に残ってる男の子を見つけたんだけどね、それが自分と同じくらいに成長していたの」

 瞬間、心臓がどくんと締め付けられる感じがした。

 ミグはそんな僕の反応を眺めて、淡々と話す。

「私は『天ヶ瀬つぐみ』と名乗って、彼と同じ空間に溶け込んだ。いじめられても反抗しない、戦わない、その男の子に興味があったの。三歳の子供とふたりの大人のような、圧倒的な力の差があるわけでもないのに、いじめっ子に抵抗しない……本当におかしな子だなって」

 最後に教室で聞いた、天ヶ瀬さんの声が蘇る。

『分かるよ。私はずっと、あなたを見てた。強い者に屈して抵抗しようとしない神楽くんを、私はずっと見てたよ』

 彼女は知っていたのだ。僕が幼い頃に、痩せ細った痣だらけの女の子に、なにもしてあげられなかったことを。

 ミグが長い髪を耳に引っ掛けた。

「『天ヶ瀬つぐみ』でいるときも、たまにイカイへ戻った。竜族自身が記録を残したいと言うから、異世界の存在や私がつけた世界線の名前を伝えていたの。ただ、速さにムラはあれど、イカイの方がイフより時間の流れ方が速い。竜族に魔力を貰って以降、竜族は知らぬ間に滅んでしまった。あなたがイカイに来た時点では、百年も経ってしまっていた」

 百年前のマモノの暴走は、彼女が魔力を手に入れたのが原因だった。そしてその百年後である現在に、ミグはこの世界に戻ってきた。お陰でマモノがまた暴走を極め、竜族の予言どおり、世界はミグのために統一されようとしていたのだ。

 百年の間に、マモノが人里を攻撃して孤児や身寄りのない人が大勢出ただろう。比較的安全な都市への移住は、管理局が専門の部署を作っているほど管理に手間取った様子だ。今はだいぶ管理が行き届いているらしかったが、恐らく百年前当初は戸籍がない人もいた。イフにいるうちにイカイで百年が経過したというミグは、家族も戸籍もない謎の存在になっていたのだ。

「僕をイカイに呼び寄せたのは?」

「あれは呼んだんじゃないの。ただの誤算。転移の際に、アナザー・ウィングを落としてしまっただけ」

 僕の質問に、ミグはあっさりとこたえた。

「学校の廊下で自分自身をイカイに転送するときに、うっかり手首から腕輪を落としてしまったの。魔導は発動していたから、私自身はイカイへ飛べたけれど、腕輪だけイフに残してしまった。神楽くんはそれを拾った。それだけ」

 天ヶ瀬さんを追いかけたとき、彼女はもういなくなっていて、廊下に腕輪が落ちていた。僕はそれを興味本位で拾って、腕に通してしまったのだ。

 ミグはふう、とため息をついた。あまりお喋りをしない彼女は、一度にたくさん話して疲れてきた様子だった。

「悪用されたら大変だから、私はなんとしてでも、神楽くんからアナザー・ウィングを奪い返す必要があった。ちょっと手荒だったけど、噛み付きトカゲを操ってあなたを襲わせ、腕輪を回収したの」

 そういえば、噛み付きトカゲが森に現れるのは不自然だとリズリーさんが言っていた気がする。あのトカゲも操られていたのだ。

「どうりで見つからなかったわけだ。それで、回収したアナザー・ウィングは?」

「ここにある」

 ミグがエプロンドレスのポケットに手を入れる。取り出された手には、オーロラのように光る腕輪があった。夏の日差しを直に受けて、キラッと反射している。

「でもそれなら、直接僕に言ってくれればよかったのに。そしたら僕はその場でイフに帰れたんじゃない?」

「ええ、これを嵌めた手であなたを引き込めば、一緒にイフに転送される。それから自分だけイカイに戻ればいい。そういう対策も考えたんだけど……それ以上に、私はあなたに興味があった」

 研究対象を見るような目で、ミグが僕を見据える。

「誰でも強くなれるこの世界でも、神楽翼は戦わないのか。彼が戦わない理由はなんなのか。イフでは弱かった私がイカイでは誰より強くなったように、イフではいじめられていた神楽くんもイカイでは強くなるのか……検証してみたいと思ったの。だから、遠巻きに見守ることにした」

 思わず、眉間に皺が寄った。

「……なるほど。つまり僕は、強さの頂点に立った君の道楽だったわけだね」

 僕がミグに導かれていたのではない。ミグの方が僕を見物していたのだ。

 棘を含んだ言い方をしてみたが、ミグは反論することなく続けた。

「とても不思議だった。この世界では努力で魔力が手に入るし、魔道具で魔導に似た攻撃ができるようになる。それなのにあなたは強くなろうとしなかった」

 ミグは砂場からあがり、僕の方へ歩み寄ってきた。僕の手のひらに腕輪を置いて、彼女は不思議そうに首を傾げる。

「マモノに襲われても反撃するよりは逃げる。ダガーを持たされても攻撃に使わない。行く先々で他人に頼ってばかり」

 そうだ。僕は初めからずっと、戦いを避けてきた。

 ミグは嫌味でもなんでもなく、心底僕の行動を理解しかねるようだった。

「ここでは強くなろうと思えばなれるのに、あなたは獣や精霊を含め他人に助けられてようやく生きてる。かたや私は世界を壊せるほどの力を持ったのに。情けないとは思わないの?」

「人を頼って生きて、なにがいけないんだ」

 考えるより先に、口が動いた。

 手渡された腕輪を握った手に、ぐっと力が入る。

「人はひとりでは生きられない。だからお互い様で生きていくんだ」

「頼ったら生きていけるの? そんなの妄言。助けを求めても誰も助けてくれないのが現実だった。助けを求める方法すら、誰も教えてくれなかった。だから私は、自分を守るために強さを求めるしかなかった!」

 初めて、ミグが怒鳴った。聞いたことのない大声に、全身の血がざわつく。

 公園の砂場でひとりぼっちで、それなのに誰にも相手にされず、世界から切り取られていたあの女の子。

 あのとき、僕がなにかしてあげられたら。

 イカイは壊れずに済んだのだろうか。

「力を持たないと、戦わないと、勝てないの。あなたみたいに甘えてる人間は、いつまでたっても底辺から動けない。変わろうという意志がなければ、なにも変わらない。誰かが助けてくれると思って弱ったところをさらけ出していれば、強いものの餌食になる」

 ミグの言葉が胸にグサグサと容赦なく突き刺さる。イリスも、同じようなことを言っていた。弱いところを見せるのが怖い。だから強がるのだと。ミグもきっと、それだ。

 しかしイリスとミグには明白な違いがある。イリスは、自分には実際には大きな能力はないと自覚した上で強がっている。対してミグは、本当に力を手にしてしまった。恐怖があるから、強さを無限に求めてしまう。ミグはそうやって、孤独になっていったのだ。

 ミグは一旦呼吸を整えて、再び声のトーンを落とした。

「甘えていても生きてこられたあなたには、分からないでしょうね。私が観測していた限りでは、神楽くんが武器のようなものを手にしたのは、お友達を守ろうとするときだけ。それも、なんだかよく分からない白いふわふわしたものでマモノに当てるだけで、傷をつけるものではない」

 ミグが僕のリュックサックの、横ポケットを覗き込む。

「これの存在も、私の想像の外だった。最初に見たときは、マモノから戦意を削ぐものだと思った。マモノを惰性に陥れて制圧する魔道具なのかと。でもどうやら違う。あれは乱心したマモノを正気に戻すもの……マモノの私への服従を解くものだった」

 彼女は少し屈んで、ポケットから突き出た杖をじっと眺めた。

「ここへ来て、私の魔力に拮抗する勢力が、竜の他にもうひとつ、現れたということ。しかもそれがあなた自身の意志の力だというのだから、余計に驚き。そうまでして戦いたくないというのは、どうしてなの?」

 ミグの目線が急に、杖から僕に移った。間近から見上げられると、どきりとする。

 ミグの体温のないような瞳が、僕を真っ直ぐ射抜く。

『どうして、戦おうとしないの?』

 これは、“天ヶ瀬さん”からも尋ねられたことだった。彼女はかねてからこの疑問をずっと胸に抱いて、僕を観察し続けている。

 僕自身も、そのこたえを探していた。

 声を荒らげたばかりの僕は、まだ胸がばくばく跳ねて落ち着かなかった。短く浅い呼吸を繰り返し、乾いた唇をゆっくりと開いてみる。

「こたえが出たわけじゃないけど、考えてはみたんだ」

 僕はこのままでいいのか、間違っていないのか。弱い僕は迷惑なだけなんじゃないか。自問自答を繰り返してきた。

「守るために戦わなくちゃならないことがあるのは、分かる。でも仮に僕が抗う力を手に入れたとして、相手を貶めるような戦い方ならしたくない。それが僕が戦わない理由なんだ」

 訥々とこたえて、僕は目を閉じた。

 マモノが暴れたのだって悪意があったのではない。マモノも自分で自分が分からなくなってしまっただけだ。力でねじ伏せるのは、違う。

 そうは言っても例外だらけである。ミグが言うように、自分より圧倒的に力のある大人に、面白半分で命を奪われるような場合は、反撃しないと生き残れない。

「君にとっては間違いかもしれない。でも、傷つけないと決めたのは、紛れもない僕の意志だから。これが僕なりの回答なんだよ」

 もしかしたら、本当はただ怖かっただけかもしれない。きれいごとで言い訳しているだけかもしれない。だが、今のところは、これが僕のこたえだ。

「僕もミグのことを間違ってるとは言えない。臆病なだけで言い訳ばかりして、変わろうとしなかった。それはミグの言うとおりの事実だよ」

 僕がここまで生きてこられたのは、僕の代わりに攻撃の手段に出た人がいてくれたからだ。僕が自分が戦いから目を背ける代償に、他の誰かが手を汚していたのだ。僕の御託が正義だなんて、絶対に言えない。

 ミグはしばし、黙って僕を見上げていた。そしてどこか諦めたように、僕の傍から体を引く。

「私も神楽くんのように、人に甘えることを覚えればよかったのかな」

「分からない、けど」

 僕は少し、声を詰まらせた。

「あのとき、僕に助けを求めてくれたら……もしかしたら、なにかできたかも、しれ……ない」

 真夏の真ん中でひとりぼっちだった、あの女の子の未来が変わったかもしれなかった。

「……もういいわ。過ぎたことをあれこれ考えても、もうなにも変わらないし。いずれにせよ、あなたは私に辿り着いた。私の負け。これも変わらない」

 ミグは冷めた目で俯いた。

「ひとつ確実に言えるのは、アナザー・ウィングはもう二度と生み出してはいけないということ」

 感情の死んだ声が、淡々と事実だけを告げる。

「本来平行して存在し、交わらないイフとイカイは、干渉が起これば悲劇を招く。もう二度と、こんなことはあってはならない」

 彼女が「悲劇」という表現を使ったのは、どこか虚しくて、どこかほっとした。

 ミグ自身が起こしたこの世界の混乱は、ミグにとっても意図しないものだった。彼女から見ても、この世界の現状は悲劇だったのだ。世界を壊して遊んでいたのではなく、心を痛めていた。

 しかしミグ自身も自分ひとりで抱えて、どうすることもできなかった。

 彼女も、なにもかもを歪められた被害者だったのかもしれない。

 ミグの長い髪が、日差しを受けて艷めく。僕は彼女に手を差し出した。

「ねえミグ、ここから出よう。マモノが人を襲ってる。止められるのは君しかいないんだよね」

 彼女を連れ出して、マモノの暴走を静める。それが僕の目的だった。

「僕と一緒に来……」

 喉から出かかった言葉が、止まる。

 ミグの手には、いつの間にかダガーが握られていたのだ。

「もう無理なの」

 彼女の潤んだ唇から、涼しげな声が落ちる。

「私の魔力は増幅してる。もう体の中に留めていられないほど。もう私自身も、制御できない」

 彼女が握っているのは、僕のリュックサックのポケットに入れてあった、護身用のダガーだ。傍に来たときに、抜かれていたのだ。

「待っ……」

 咄嗟のことで、思考回路が狂う。変な汗が背中に流れ、ひゅっと血の気が引く。

 ミグはダガーの柄を両手で握って、銀の刃先を自身の胸に当てた。

「本当は、分かっていたの。全てを終わらせるには、魔力の宿主を消し去るしかない」

「ミグ!」

「でも死ぬのが怖かった。だからずっと、壊れていく世界を傍観していた。誰かが私に気づいて追い詰めるまでは、誤魔化して生きていようとしていたの」

 ダガーの先が、胸元の黒いリボンの下に潜っていく。白い襟にじわっと赤い点が浮かんで、それがだんだん広がっていく。

「あまっ……天ヶ瀬さん!」

 やっと、足が動いた。手に持っていたアナザー・ウィングを放り出して、ひったくるようにミグの左腕を掴む。ガラスの腕輪は地面に叩きつけられて、カシャーンと甲高い破裂音を立てた。細かいガラスの粉が飛び散るのが、視界の端に映る。

 僕にダガーを取られる前に、ミグはぐっと、刃先を胸に押し込んだ。

「心配しないで。私が消えたら魔力は蒸発する。そうすればマモノは正気を取り戻す」

 がくんと、ミグの膝が崩れ落ちる。僕は彼女の肩を抱いて、一緒にしゃがみ込んだ。

「待って、天ヶ瀬さん。それ以上はやめて。すぐに助けを呼ぶから、もう、これ以上は……」

 声が震える。

 彼女が自覚していたか分からないけれど、きっと助けを求めていた。自分の中の抑えようのない魔力、それから孤独と、ひとりで戦い続けていた。

 僕はようやく、それに気づくことができたのに。

「あのね、神楽くん」

 彼女の声は、殆ど声になっていなかった。掠れた無声音が、微かに僕の名前を呼ぶ。

「前に私に、『話してみたかった』って、言ってくれたよね」

 僕は山脈で、ミグに一方的に話したことを思い出した。

 クラスにいた、天ヶ瀬つぐみという少女のこと。

 夕方の教室で彼女に初めて話しかけられた日。先に帰ろうとした彼女を、僕は掃除を放り出して追いかけた。もうちょっとだけ、声を聞いていたいと思ったから。

 ミグはか細い声を絞り出していた。

「私も話してみたかったんだ。教室で出会ったときから、ずっと……あなたのことを、見てたから。前世の私を見つけてくれて、気にしてくれたのは、神楽くんが最後だったから。今こうして、私がどんなことを思ってたのか、聞いてもらえて嬉しかった。こんなに全部話したの、神楽くんが初めてだよ」

 例えば、『一緒に帰ろ』って、言えていたら。

「もっと早く、こうして神楽くんと話せていたら……」

 帰り道で会話をして、よく知らない彼女を、ひとつでも多く知ることができたなら。彼女が客観的にでなく、直接僕と話して、僕を知ってくれたなら。

「私の“居場所”、広がった、かな」

 ぽた、と、公園の砂利が丸く濡れる。落ちた雫は、僕の頬を伝った涙だった。

 ミグの体がみるみる冷たくなっていく。肩を抱いた指の間から、なにかが通り抜けていく。まるで、彼女の体から魔力が干上がっていくような、そんな風に感じた。

「僕も……」

 なにか言わなくてはと思った。でも、伝えたいことがありすぎて、なにか言えばいいか分からない。喉で絡まる声を、無理やり押し出す。

「僕も、話したかった。だって天ヶ瀬さんってなに考えてるのか分かんないし、顔に出ないし、あとかわいいから、話したいって、ずっと」

 涙が溢れて、ぽたぽたと地面を濡らす。

 ミグは鳶色の瞳をうっすらとだけ開けて、僅かに口角を上げた。

 ミグの体が、くたっと横に倒れた。長い髪が砂利の上に広がる。いや、いつの間にか足元は砂利ではなくなっている。青白く光る、岩石の地面だ。

 公園の幻影が消えた。いつの間にか、僕は元の洞窟の中で座り込んでいたのだ。

 しばらく僕は絶句していた。横たわる少女は、もう動かない。

 彼女の細い腕に手を触れてみると、そこだけクシャッと砂のように崩れてしまった。

「えっ」

 手を触れた辺りから、彼女の体がさらさらと砕けていく。揺さぶって起こしたかったのに、触ることすらできない。風がないのに、ほろほろと砕けて、どこかへ消えていく。

 眠っているみたいな彼女から、目を離せなかった。細い体は、火のついた紙くずがだんだん燃えつきていくように消えていく。徐々に形がなくなっていって、気がついたら跡形もなくなっていた。

「天ヶ瀬さん」

 彼女はもしかしたら、もう人ではなかったのかもしれない。魔力を蓄えた器でしかなかったのではないか。そんな風に思えてきた。

 ぐすっと、喉が鳴った。足が震えて立ち上がれない。岩肌の地面には、散らばった粉々のガラス。なんの音もない、深淵のような静寂が、僕を包んでいる。

 どれくらいの時間を、こうして過ごしただろう。数分だった気もするし、何時間も経ったような気もする。体も頭も全く動かなくて、立つことすらできなかった。

 突然、洞窟の中に高い声が響いた。

「いた!」

 狭い岩の中をほわんと反響する、耳慣れた声。ようやく僕は我に返った。通路を器用に駆け抜けてくる、小さな影が見える。

「ほら、フィノ、早く! ツバサの匂いだよ!」

 近づいてくると、壁の青い光に当てられて、その輪郭がはっきりしてきた。掠れた声で、僕も彼を呼ぶ。

「チャト」

「よかった、生きてた」

 僕に飛びついてくる、薄汚れた腕。抱きしめられると、ふわふわの耳が頬に当たって擽ったかった。

 どうしてここに、チャトが? 頭がぼうっとして、しっかり考えられない。

「ツバサ、大丈夫? 怪我してない?」

「うん……」

 なんだろう、涙が出そうで出ない。哀しみと安心とが同居している。複雑な感情を脳が処理しきれなくて、虚無だけが打ち出されている。

 やがて、はあはあと息を切らす音が聞こえてきた。顔を上げると、チャトを追いかけてきたフィーナの姿が目に入る。亜麻色の髪はぼさぼさになって、きれいなスカートは汚れて破けていた。

 彼女の青い瞳が僕を見つけるなり、立ち止まる。

「ツバサさん……」

 そして立ち止まったフィーナは、その場でぽろぽろと涙を落としはじめた。

「あ、あの、フィーナ。泣かないで。ごめん、いろいろと」

 だんだん冷静になってきた僕は、抱きつくチャトを引きずりながら腰を上げた。フィーナがふるふると震える。

「説明……してください……」

「そうだね……」

 チャトとフィーナには、たくさん心配をかけてしまった。

 僕は素直に頷くほかなかった。


 炭鉱跡地の外には、無数の星が広がっていた。深い紺色の空に浮かぶ小さな星々が健気にまたたいて、なんてきれいなのだろう。

 神殿の屋根の下には、ポピとイリスが待っていた。

「グルルー」

 僕を見つけるなり、ポピが頬ずりしてくる。大きいせいでその勢いがものすごくて、僕はころんと尻餅をついた。

「いたた。ポピ、お待たせ。ここまでありがとうね」

 尻餅をついてもポピはまだぐりぐりと顔を押し付けてきて、僕はどんどん床に寝そべっていった。

「もう分かったよ、やめてよー」

「全く、弱虫のくせに変な度胸見せおって」

 いかりの声が聞こえて、目を上げる。僕を仁王立ちで僕を見下ろすイリスがいた。

「無事じゃったからよかったがの。お主は自分の脆さを自覚するべき……いや、自覚はしてるんだから、それに見合った行動を取らぬか。バカ者め」

 彼らから聞いた話によると、僕と別れた後、イリスは約束どおりメリザンドに急行したそうだ。チャトとフィーナは、竜を使って学園を破壊したならず者という扱いで捕えられていた。イリスとポピは更に学園の壁をぶち抜いて、チャトとフィーナを強制的に回収し、そのままアウレリアまで逃げたのだという。

「イリスが戻ってきたと思ったら、ツバサがいないじゃん? 『どこ行ったの』って聞いたら、エーヴェだって言うからさ。俺とフィノも向かったんだよ」

 チャトが僕の顔の横にしゃがんで、不満そうにむくれている。

「おいしそうな匂い漂ってたからすぐ見つけられたけど、あんな狭くて暗いとこひとりで行っちゃだめなんだぞ」

「うん、そうだね。ごめん」

 寝転がったまま謝っても、チャトはしばらく不機嫌顔だった。ちらと目を背けると、ポピに寄り添って俯くフィーナが見える。泣き止んではいるが、目を赤く腫らしていた。

 僕の真横で、イリスが腕を組む。

「一応、アウレリアの管理局は訪ねたぞ。まあ、私たちが相手してもらえる余裕なんかないほど、バタバタしておったがの。なんでも、アウレリアもメリザンドと同じでマモノの群れが襲撃しておったようじゃ」

「そうだったのか。技術力のあるメリザンドの壁が破られたくらいだもんね」

 寝転がったまま繰り返すと、イリスは怪訝な顔で頷いた。

「しかし私たちが到着した頃には、マモノはおらぬかったの。リズリー殿が言うには、ちょうど夜が来たくらいの頃合に、マモノが一斉に巣に帰ったのだそうじゃ」

「ポピが到着する前に?」

「そうなのじゃ。まるで突然自我を取り戻したかのように、しれっと撤退したそうじゃぞ」

 なぜじゃ、と呟くイリスを見上げ、僕はひとつまばたきをした。ちょっと首を動かして、神殿の割れた天井から見える星に視線を投げる。

 きっと、ミグだ。

 ミグが言っていたとおり、魔力の宿主が消え去ったことで、全てが終わったのだ。

「兵団の方はまだ警戒は解いてないようじゃったが、都市内の安全は確認済みじゃったのう。その後は分からぬがの。私たちはすぐ、エーヴェに発ってしまったからの」

 首を傾げるイリスとともに、チャトも頭を傾けた。

「もう心配いらないのかな。マモノはもう、人を襲ったりしないの?」

「さあ……。また来るかもしれぬが、でも今までにこんな事例はない」

 本当に、終わったんだ。

 体の力が抜ける。僕は長いため息をついて、目を瞑った。

「そっか。もう終わったんだ……」

 吐き出した息と一緒に、そう呟いた。

 彼女が歪めた世界は、彼女の命を代償にして、悲劇に終わりを告げた。

 これでよかったのだ。こうするしかなかった。

 頭の中で正当化する言葉を探して、なんだか納得いかなくて、また胸が詰まる。

 チャトがほお、と感嘆した。

「断言したね。もしかして、ツバサが助けてくれたの?」

 それを受けてイリスも食いつく。

「む!? そうなのか。は、もしやミグ殿がなにかしたのか?」

「うーん……」

 僕は喉を鳴らしただけで、そのまま黙った。ありのままに起こったことを話すべきか。君たちになら、話してもいい気もするけれど。

 チャトの明るい声が届いてくる。

「んん? この地下の洞窟は、ツバサがいたとこで行き止まりだったよ。ミグはいなかったよ?」

「ふむ。では一体なにが……」

 チャトとイリスのやりとりが降ってくる。フィーナはまだ黙っているし、ポピはどいてくれない。なんだろう、彼らがここにいるという実感だけで、とても安心する。いろいろな意味で疲れた僕は、このまま眠ってしまいそうだった。

 平静を装っているけれど、心の整理はまだついていなかった。動揺していたら悟られてしまうから、なにもなかったふりをしている。ミグのことは、誰にも知られたくないのだ。

 信頼できるこの人たちになら、本当のことを話してもいいのだろう。でも、僕は口を閉ざした。ミグが抱えていた過去も、秘密も、孤独も、全部僕の胸の中に隠しておこうと思う。

 これは僕なりのミグへの償いであり、祈りだ。

 イリスがむうと唸っている。

「まあ、ともかく様子見じゃの。いずれにせよ、この状況だから当然『これ』を作るまでに至っておらぬ」

 額にちょんと、冷たいものが当たる。目を開けると、イリスが僕のおでこにガラスの腕輪をくっつけていた。そうだった、それをイリスに任せていたのだった。

 僕はのっそりと上半身を起こす。

「そっかあ。メリザンドでチャトとフィーナを回収して、アウレリアにちょっと立ち寄って、すぐにこっちに来てるんだもんね」

「うむ。なにより、私たちはメリザンドで学園を破壊したり町を削ったりと問題を起こしておる。アウレリアの王宮なんて、間違いなく入れてもらえぬ」

 イリスが開き直る。それもそうだ。メリザンドの祭壇も爆風で壊れてしまったし、竜魔導を使える場所は更に限られた。

「あーあ。アナザー・ウィングどころじゃないな。アウレリアに帰ったら怒られちゃうね」

「そうじゃのう。嫌じゃ嫌じゃ。怒られとうない」

 イリスが自嘲気味に駄々をこねた。大人の容姿で子供っぽい言動をされると、可笑しくてつい笑ってしまった。チャトもひゃひゃっと笑う。そして釣られたように、俯いていたフィーナまでもがくすりと吹き出した。

 驚いて、全員がフィーナに目線を送った。ポピまで振り向いている。急に視線が集中したフィーナは、泣き笑いみたいな表情を僕らに向けていた。

「それなら帰るのを後回しにして、もうちょっとだけ時間潰しませんか?」

 そのとき、空にひゅんと、金の糸が走った。

「わあ、流れ星!」

 チャトがぴょこっと跳ねて、神殿の柱の向こうへと駆けていく。フィーナも顔を上げ、ポピが首をもたげてグーと鳴いた。

 イリスも口を半開きにして、それからぱあっと無邪気に笑った。

「今ここで作ろうかの! アナザー・ウィング!」

 見計らったように、流星が降りはじめた。

 細くて長くてきらきらしていて、少しだけ、ミグの髪みたいだ、なんて思う。

 イリスが腕輪を高く掲げた。

「ここも祭壇のある神殿じゃ。星も降りはじめたし、ポピもいるし、絶好の機会じゃ!」

 ポピがグルーと喉を鳴らして、羽根を揺さぶる。行動の早いイリスはすぐに、陣形を描く杖を祭壇から取って床に突き立てた。

 寝転がったままだった僕の腕を、チャトがぐいっと引っ張る。

「よかったね、ツバサ!」

 フィーナも微笑みかけてくる。

「これでようやく、元の世界へ帰れますね」

 チャトに腕を引かれて立った僕は、ふたりの顔を見比べた。

 そうだ。ずっと求めてきたアナザー・ウィングが、やっと完成するのだ。

 長い長い旅路が終わる。元の世界へ戻る。お母さんに会える……。頭では分かっているけれど、実感が湧いてこない。

 イリスが熱心に陣形を描いている。彼女の手首には、これからアナザー・ウィングの器になる腕輪が引っかかっていた。

「ねえ、イリス!」

 僕は作業中の彼女に駆け寄った。イリスが手を止めてこちらを向く。

「む? なんじゃ」

 無数の星が、濃紺の空を切っていく。僕は一旦息を止めて、言葉を探して、改めて口を開いた。

「アナザー・ウィング、条件が揃えばこうして作れるけどさ。これでもう、作るのは最後にしてほしいんだ。僕も、使うのはこれっきりにするから」

「ほお?」

「えっ、なんでなんで!?」

 反応してこちらに走ってきたのは、チャトである。

「またいつでも会いに来てくれるんでしょ? アナザー・ウィングでこっちと向こうを行き来してさ」

 だんだんと、チャトが早口になっていく。

「そうだ、俺とフィノにツバサの世界を案内してよ。イリスも、リズリーも一緒に。行けたらポピも……」

「そう思ったんだけど……でも、ごめんね」

 ミグが言っていた。アナザー・ウィングは、二度と生み出してはいけない。イフとイカイは、干渉してはいけないのだ。

「なんでだよ……」

 理解ができないチャトは、泣きそうな顔で僕の腕を掴んだ。イリスが固まっている。いたたまれない静寂が流れる。

 シャリ、と、砂が擦れる音がした。フィーナがゆっくり歩いてくる。

「なにか、理由があるんですね」

 僕ははっきりと返事ができなくて、小さく唸った。

「僕自身は、ここで過ごして学んだことがたくさんある……。知らない文化と交流して、知らないことを知るのって、とっても大切だと思う」

 イカイのダメージはミグが強さを求めたのが原因だ。それがなければ、自由に行き来しても恐ろしい出来事は起こらずに済むのだろう。

 でも、と、僕は思うのだ。このままアナザー・ウィングがふたつの世界を当たり前に繋げてしまったら、きっとまた新しい悲劇が起こる。

 魔族のアルロが言うには、魔族は魔力が高い故に、無自覚に誰かを傷つけないよう自ら隔離されて暮らしている。自分の魔力の強さを自覚して、高慢になって人を傷つけるのはもっと怖い、とも言っていた。

 こういうことが、一方の世界線の中ですら起こるのだ。僕のいたイフでも、外来生物が固有種を脅かすとテレビで見た気がする。

 魔力をはじめ、超常的な力を持ったイカイの人が、イフへ行き来するようになったら。進んだ文明を持つイフの人が、イカイに文化を持ち込んだら。ミグのように、思いが破壊へ繋がるほどの人がいたら……。

 長けた能力、価値観、なにもかもが違うイフとイカイがまぜこぜになったら、きっと、なにかが噛み合わなくなる。

 なにかを察したように、イリスが俯いた。

「そうじゃのう。もともと平行して交わるはずのない世界じゃ。交わってはいけない理由があって、切り離されておるのがことわりじゃったのかもしらぬ」

 そう言って、イリスは再びガリガリと床に線を引きはじめた。チャトがぽかんとしている。彼の肩に、フィーナが手を置いた。

「ツバサさんが帰ってしまうのも、もう会えなくなってしまうのも、受け入れるしかありません」

「フィノは寂しくないの?」

「寂しいに決まってるじゃないですか」

 フィーナがチャトの問いに被せるようにこたえる。

「それでも私は、ツバサさんにはツバサさんの場所があると思ってます。ツバサさんが会いに行きたい人に会いに行ってほしいです。たとえ、もうこちらに会いに来てくれなくなっても」

 それから彼女は、ちらと僕の顔を窺った。

「会いに来てくれなくなっても……忘れないでくださいね」

「もちろんだよ」

 星が、夜の闇を繊細に彩る。

 忘れようもない。ふたりがいたから、こうしてここまで来られた。ふたりがいなかったら、なにもできなかった。ミグが言っていたように、自分よりずっと強いものの力に屈して潰されていただろう。

「あのね。チャト、フィーナ。今まで、本当にありがとう」

 改めてお礼を言ったら、一瞬、チャトとフィーナの表情が固まった。

 そしてふたりとも、にこっと笑う。

「なに言ってるんですか! まだお別れじゃないですよ」

 フィーナがいたずらっぽく言うと、泣きそうだったチャトも吹っ切れたように明るい声を上げた。

「アウレリアには一緒に戻って、しっかり叱られてもらうかんな!」

「あはは、逃げ損ねた」

 僕も釣られて笑う。

「よし、これで完璧じゃ!」

 イリスが魔導陣を完成させた。彼女がポピを見上げる。

「さあポピ殿。ツバサ殿への祈りを叫ぶのじゃ!」

 ポピが夜空に向かって吠えた。

「オオオー!」

 どこまでも響くような遠吠えが、夜闇を突き抜ける。僕らを囲んだ円が目が眩むほどの光を放つ。ポピの黒い毛並みが艶めいて、イリスの赤い瞳がオレンジっぽく星を宿す。チャトの耳は細かい産毛まで白く一閃して、フィーナの長い髪が銀河のように煌めいた。

 眩しくて細めた目に、イリスの手から浮かんだ金のリングが映る。魔導陣から吹き上がる光の粉が、細く繊細なガラスの円に吸い込まれていく。

 それはまるで、寄せ合ったふたつの白い翼のように見えた。

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