24 時の解凍

 窓風がカーテンを揺らしている。僕は窓の外の欠けた空を、無言で眺めていた。ずっしりした雲が、引きずられるみたいに流れている。

「ほら、お茶を入れたぞ。一服しよう」

 魔導学園の一室、ジズ老師の書斎。彼はお気に入りのお茶を淹れて、僕らに振る舞ってくれた。着いた頃がちょうどお昼時だったこともあり、食堂でお腹いっぱい食べた、その後の休憩時間である。

「驚いたか、ツバサ。メリザンドは随分変わったろう」

 赤い空には、オオオオと異様な轟音が響き渡っていた。無数の小型の船が飛び交っている。僕は見たことのないその飛行物体を見つめ、老師の言葉に小さく頷いた。

 メリザンドに着いてから、僕らはすぐにジズ老師に出迎えられた。彼は門の内側で、僕らの到着をずっと待っていてくれたのだそうだ。

 マモノの群れを潜り抜けて辿り着いたメリザンドの街は、初めて来たときとはすっかり変わり果てていた。

 メリザンドには街をぐるっと囲い込む背の高い柵があったが、それは厚い外壁に変わっていた。しかもところどころ破壊され、緊急で修復した形跡もある。外壁の上部には鋭く尖った刃が設置してあり、越えようとする者を威嚇している。

 門の前には大きな砲台が置かれており、門番は装備が厚くなっていた。マモノの侵入を食い止めるためだろう、五人も立っていた。

 そして、空中には例の空飛ぶ船が旋回している。

「ねえジズ、あの空を飛んでるのはなに?」

 チャトが窓に張り付いて空を見上げている。ジズ老師は本で散らかったテーブルを片手で雑に片付けた。

「あれは鳥船とりぶねだ。空から来るマモノを迎撃するための空中機体。ここ数日でマモノが一気に増えたから、兵団員が交代でひっきりなしに飛ばしてるんだ。空からなら、遠くから来るマモノも早くに発見できるしな」

「ふうん。なんか俺、あれやだな。怖い」

 チャトが乾いた声で言う。珍しいものが飛んでいれば喜びそうな彼だが、それ以上に不穏な空気を察知しているのだろう。まさに、戦争映画の始まりみたいな、あの不安感。

 お茶をテーブルに置き、ジズ老師はどこか寂しげに言った。

「メリザンドの技術力が活きてるのは幸いだが……平和的じゃないのが、虚しいな」

 街と外とを隔てる壁が破壊されていたくらいだ、マモノはかなり近場まで攻めてきたのだろう。産業が発達しているメリザンドは、あのような最先端の乗り物が存在している。それらを動員して、最大レベルまで警戒しているのが窺えた。

 護衛についてくれたアウレリア政府兵団のふたりは、僕らをジズ老師に引き渡したのち、メリザンドの兵団員と少し情報交換をしてすぐにアウレリアへ帰っていった。そのとき耳に挟んだ会話によれば、マモノの数は日々増えていて、更にマモノの興奮も日に日に激しくなっているという。

 特に、元々持っている破壊力が強いマモノほど、性格が荒くなっているという。旅の途中で見かけたキュロボックルみたいな、ああいう攻撃のすべが乏しいマモノは、あまり影響を受けていないのだという。

 僕は以前お母さんと見た、戦争映画の冒頭を思い出した。これから恐ろしいことが起こる、そんな予感がふつふつ立ち込めるあの空気感。アウレリアも以前よりだいぶ警戒心が強まった印象だったが、メリザンドはそれ以上だ。初めて訪れたときの活気ある町の様子が頭の中に蘇り、無性に物悲しくなる。イリスが言っていた、「世界の滅亡」という言葉が頭を巡る。

 ドンッと、空気が震えるほどの爆発音がした。全員が肩を縮こませる。チャトが耳をぺたんと寝かせた。

「今の音、なに?」

「マモノが都市の近くまで来たんだ。鳥船が火薬で攻撃した音だ」

 ジズ老師の回答を受け、チャトは余計に不安げな顔になった。

「怖い」

「なに、そんなに怖がることはない。マモノが街の中にまで入ってくれば警報が鳴る。そうならないように、鳥船や門番の砲台が警戒してるんだしな」

 ジズ老師がチャトの頭を撫でて宥める。

「ポピッ」

 足元に置いていたカゴの中から、ポピの甲高い声がした。お茶を並べたジズ老師が、カゴの前にしゃがむ。

「ほう、これがリズリーの言ってた星影ドラゴンか。小さいな」

「この小さな竜でも、アナザー・ウィングは作れるんでしょうか?」

「さあな。竜魔導は、いまだ謎だらけだからな。あれは竜族が人知れず使ってきた秘密の魔術だ。他種族に伝わっている情報は殆どない。非常に力が強いのはたしかだがな」

 ジズ老師がふかふかの椅子にドカッと腰を沈めた。

「なにしろ、文献の解読が進んでないんだ。竜魔導について書かれた本は、我々の文化にない文字が使われている」

「あっ、それって!」

 僕はパッとイリスの顔を見た。お茶を傾けていたイリスが、ニヤリとする。

 流星の霊峰で見た、竜族の古代文字を崩したという記号。竜魔導について記すときは、神聖なその文字と言語を使うのだと聞いている。

「ジズ老師、多分それ、イリスなら読めます!」

「かもしれんなと思っておった」

 ジズ老師も、口角を吊り上げた。

 老師とイリスは、これが初対面である。しかし老師はリズリーさんから伝言鳥を受け取っていて、イリスのことは充分に説明されているようだった。イリスがしたり顔でお茶のカップを置いた。

「よかろう。その文献を私に見せるがよい」

「生意気な娘だなあ」

 ジズ老師が笑い、それから僕らに目を向けた。

「解読しておる間、お前たちは魔導学園を見学しておれ。マモノ学の棟には飼育マモノがおるぞ」

 すぐさま、チャトが尻尾を立てた。

「見たい! 行ってくる」

 宣言するなり、チャトは書斎を飛び出してしまった。フィーナが廊下に向かって声を上げる。

「学生さんの邪魔しちゃだめですからね!」

 それからフィーナがこちらを振り返る。

「私も、授業を見に行ってもいいですか?」

「おお、行ってこい。ツバサもどっか見ておいで」

 ジズ老師に促され、僕はフィーナの後ろ姿とジズ老師とをきょろきょろ見比べた。

「僕はどうしようかな。リズリーさんや、ラン班長たちがいたところを見てみたい……かな」

「いいかもな。あの頃に比べればランもかなり丸くなった」

 ジズ老師は懐かしそうに目を閉じた。

 今でもツンツンしたラン班長だが、当時は更に棘があったようだ。

「ラン班長とフォルク副班長は、魔導ではなくて、マモノ学を勉強してたんですよね」

「そうだ。フォルクは変わり者だから単にマモノが好きだったから受講していたようだが、ランはもっと変な理由でなあ」

 僕の質問に頷いて、ジズ老師はニヤリとした。

「子供の頃に会った、マモノなのかマモノじゃないのかよく分からん奴らがいるらしくてな。マモノ学を学べば、そいつらの正体が分かるかもしれないと思ったみたいだ」

「えっ。マモノの弱点を知りたかったとかじゃなくて、近づきたかったってことですか? なんか意外ですね」

 勝手な先入観だが、ラン班長はどちらかというと、マモノが嫌いそうな気がしていた。ジズ老師も、本当になあ、と笑った。

「酒に酔ってたときに喋ってたことだけどな。なんでも、ガキの頃に飛ばした伝言鳥が知らない島に辿り着いて、その島にいた未知のマモノのようなものにお祝いしてもらったらしくてな」

 瞬間、僕の頭の中で、バラバラだったパズルのピースがくっついた感じがした。

「そいつらにまた会いたかったんだとよ。しかし皮肉にも、マモノ学を極めたが故にマモノを挫く職種に就いているが……」

 ああ、そうだったんだ。あの島であの人たちに名前をつけて、“表情”と“もてなし”を教えた人は、彼女だったのか。

 二日寝込んだ僕に、ラン班長がいちばん興味深そうに尋ねてきたのは、あの島のことだった。

『お前が漂着した、島のことを聞きたいんだ』

『毛族に会ったのか?』

 毛族は識族を憎んだりはしていないと伝えたら、険しい顔がふわっと緩んでいた。

『そうか、そうなのか。ならよかった』

 そういえば出会ったばかりの頃、伝言ミスの多い伝言鳥を信頼していないと聞いた。「子供の頃に街じゅうが大騒ぎになる事件を起こしてしまったから」と、フォルク副班長がからかい半分に話していたではないか。

 つい、考えていたことが口から洩れた。

「ラン班長、きっと会いに行くんだろうなあ……」

「その前に、世界がもうちょっと平和になって、また遠くまで行けるようにならんとだがな」

 ジズ老師はお茶をひと口啜り、さてと切り替えた。

「あいつらが学んでいたマモノ学棟は、東の方にあるぞ。ああ、ポピはこっちで預からせてもらうぞ」

「はい」

 僕はお茶を飲み干して立ち上がった。足元に置いていたカゴの中のポピに、ひと声かける。

「行ってくるね。では、ジズ老師、よろしくお願いします。イリスもよろしくね」

 残るふたりにも挨拶をして、僕も書斎を後にした。


 *


 魔導学園は、ジズ老師の書斎がある魔導棟、それから公務棟やマモノ学棟などのさまざまな校舎からなる巨大な敷地の学園だ。絨毯の敷かれた床は広く、長く、天井も高く、自分の存在がものすごく小さく感じる。

 書斎を出たはいいが、僕は特別見学したい場所があるわけではない。少し歩くと、フィーナがとある一室を廊下から覗き込んでいた。

「続いて、停止と転移の実習を行う。停止は時間魔導、転移は空間魔導の基礎中の基礎。また、マモノなどの敵の自由を奪う手段として広く用いられ……」

 魔導の授業が行われている。指導者の声が聞こえる。僕も、フィーナの隣に立って窓から中を覗いた。

 ずらりと並んだ机と椅子に、二十人ほどの学生。識族が殆どで、二、三人くらいの精霊族が混ざっていた。

 手前には、淡々と授業をこなす指導者の姿がある。彼の背後の壁面が淡いベージュの石板になっており、そこに火のついたペンのようなもので文字を焼き付けている。僕は自分のクラスの黒板を思い出した。

 指導者が立つ傍に教卓があり、その上には虫カゴのような箱があった。なにやら、内側から黄色っぽく煌々と光っている。

「時間、空間を操る魔導は、煙霧や冷却などの自然エレメント魔導に比べ格段に難易度が高い。生まれつき魔力を持つ者でも無意識に扱えることは少なく、学習して習得するのが一般的だ」

 指導者の言葉を聞いて僕が思い浮かべたのは、流星の霊峰からアウレリアへの瞬間移動である。しかし、指導者はさらりと付け足した。

「突き詰めたものが長距離の瞬間移動になると考えられているが、そんな魔力は魔族ですら持たない。我々に取得できる魔導は、あくまで目に見える範囲内で、物に触れずに動かす程度だ」

 それを聞いて今度は、出会ったばかりの頃にリズリーさんがチャトを空中に浮かせてくるくる回していたのを思い出した。まさにあれがそうだったのだろう。

 指導者がその光る虫カゴの脇に手を寄せた。

「これから、こちらの鉱石虫を放つ。全部で三十匹いるから、それらを全て時間停止の魔導で動きを止め、このカゴの中に転移させなさい」

 虫カゴの中にいるのは、鉱石虫という虫型のマモノだったようだ。ほわほわと光る様子は、蛍みたいできれいだ。

「下手な攻撃をすればマモノを余計に興奮させる。高等な魔導を扱えぬうちは、停止や転移で敵の動きを一時的に封じる、或いは煙幕などの目眩ましで逃げる時間を確保すること。煙幕は焦げ臭いので嗅覚の鋭いマモノにも有効なので、後日改めて演習を行う」

 指導者が淡々と説明している間、学生たちは落ち着きなく、ざわざわと互いに視線を交わし合っていた。学生のひとりが、手を挙げる。

「あの、今日は時間の魔導の応用で花を咲かせる実習ではなかったでしょうか?」

「授業内容が変更になった。この頃マモノの凶暴性が増していることから、咄嗟に身を守れる魔導を中心に指導していく」

 この回答を聞いて、生徒たちはまた互いに顔を見合わせた。それから素直に静かになる。

 どうやら、学生らがざわついていたのはこの突然の変更のせいだったようだ。

 そして急に変えられてしまっても誰も反論しないのは、マモノの暴走に誰もが危機感を持っている証拠だろう。

「なんか、怖いですね」

 フィーナが静かな声で僕に語りかけてきた。

「チャトもさっき、鳥船の火薬の音を聞いて『怖い』って言ってたけど。あれってマモノが攻めてきてるのが怖いんじゃなくて、メリザンドが変わってしまった気がして、怖かったんじゃないかと思うんです」

 フィーナの言葉が、妙にしっくりきた。僕が感じていた胸のざわつきも、多分、それが正体だ。いろんなことが解決する希望の街だと判断して、アウレリアからここへ来た。でもなんだか、思っていた雰囲気と違う。悲しみような諦めのようなものが、胸の内側で渦巻くのだ。

 指導者はペンを教卓のペン立てに置き、虫カゴの天板を外した。

「では始める。最低でもひとり一匹は停止、転移をかけるように」

 彼の手が虫を解放すると、たちまち黄色い光が周囲を包んだ。光る虫は意外にも素早く室内を飛び回る。学生たちが慌てて手をかざし、空中で虫の動きを止め、指で宙を掻いてカゴへ戻していく。虫の中には教室から逃げるものもいた。それを追いかけて、学生が数人、廊下へ飛び出す。

 魔導を扱えない僕にとっては新鮮な光景だ。

 フィーナには分かるのかな、と、ちらりと横を見る。真剣に見ている横顔があった。そこへブンと、光る虫が窓を飛び出し、フィーナの髪を掠めるようにして横切っていった。

 僕がびっくりしている隙に、フィーナはくるっと振り向いて虫に手を伸ばす。

「んっ!」

 ちょっと足を踏ん張って、フィーナが指先までぴんと力を込める。彼女の横をすり抜けた虫が、ピタッと動きを止めた。

 教室の中にいた学生たちが数人、フィーナの方を振り向く。フィーナはハッと手を引っ込めた。

「やだ、つい参加したくなって……! 私、学生じゃないのに」

 いつもは落ち着いているフィーナだが、今ばかりは興奮気味だ。学生ではないのに、勝手に授業に参加してしまったのである。

 初めてこの学園を訪れたときも、フィーナは魔導の勉強に深い関心を示していた。きっとここでこうして学びを得られるのが嬉しくて堪らないのだろう。

 指導者は少し呆れ顔だったが、学生数名はむしろ楽しそうに受け入れた。

「上手いじゃないか。そのままカゴへ」

 彼らの温かな声援を受け、フィーナは時間を止めた虫を魔導でおずおずと運んだ。虫は何度か宙から落ちそうになり、やがて止まっていた時間の魔導が解けて、再びブンブン飛び回りはじめた。

 学生たちは自分に課せられた実習は二の次にして、珍しい傍聴者のフィーナに集まってくる。

「惜しい! 君、時空魔導は初めて?」

「時を止めるのは、まずは呪波を十字に切って……」

 横で見ていた僕は、学生たちのフランクな姿勢に目をぱちくりさせていた。フィーナは真剣に彼らの話を聞いて、魔導を身につけようとしている。

 蚊帳の外になった僕は、そっと教室を離れた。そのまま魔導棟を後にして、外の芝生に出る。どちらにせよ、あの授業は聞いたって僕には真似できない。足元で緑色の芝がさざめいている。風が唸る。グオオ、とやけに重い音だ。上空を見上げると、あの空飛ぶ船……鳥船が、ゆっくりと僕の真上に影を作っていた。

 あの船に怯えているのか、上空には鳥一羽いない。マモノを追い払う目的で飛んでいる船なのだから、それでいいのかもしれないが、なんとなく寂しい気持ちになった。賑やかな教室を見た後だと、やけに拓けた空は尚更寂しい。

 人と、人以外の生き物の共存って、これで正しいのかな。そんなことを漠然と考える。これは僕が元いた世界でも、明確な正解のない問題だ。僕みたいなちっぽけな子供には、きっとこたえは分からない。

 とぼとぼと歩いていると、学生らしき人々や指導者の人とすれ違った。取っている授業によって空き時間があるのだろう、休んでいる人もいれば、広いところで魔導の練習をしている人もいた。

 彼らに道を尋ねて、マモノ学棟へと向かう。飼育マモノがいると聞いて、チャトが見に行っているはずだ。

 親切な人たちに教えてもらって、僕はマモノ学棟の裏に辿り着いた。飼育小屋がずらりと並んでいる。ちょっとした動物園みたいだ。

 その檻に張り付くようにして、茶色い耳をぴんと立てている少年がいる。

「チャト。どう? なにがいる?」

 声をかけると、チャトがこちらを振り向いた。もっと目をきらきらさせていると思ったのに、意外にも、つまらなそうな無表情をしていた。

「伝言鳥。あと、コケケ鳥もいる。向こうの小屋には溜池があって、クロコゲがいたよ」

 そうこたえるチャトの横に、僕も並んだ。彼が見ている檻の中には、とまり木にとまるたくさんの伝言鳥たちがいた。心做しか、体を細めて仲間と密着している。

「空に鳥船が来ると、ああしてくっつくんだ。飛んでる音が怖いみたい」

 チャトが呟く。頭のはるか上空を、鳥船の音と影が通り過ぎる。船が行き過ぎると、また明るくなった。空気の振動する音が遠のいても、飼われているマモノたちはまだ身を寄せあって縮こまっている。伝言鳥はぴんと羽毛を萎ませてやせ細り、コケケ鳥は檻の隅っこで皆で丸くなっている。クロコゲは溜池の中に潜って、頭の欠片ひとつ覗かせない。

「マモノを警戒する船だからね。この子たちも、本能的に怖いのかも」

 僕が言うと、チャトは尻尾をくたっと下げた。

「さっきね、ここにこのマモノに餌やりしてる生徒が来てて、教えてもらったんだけどさ。もしかしたらこのマモノ、全部処分するかもって」

「えっ!?」

 あまりに残酷な単語が出てきて、耳を疑った。チャトが目を伏せて続ける。

「万が一暴れだしたら危ないから、だって。外のマモノだって、元々は人を襲わなかったのに襲うようになったから、このマモノたちも、いつおかしくなるか分からないから」

 チャトの虚しげな声が、僕の胸を曇らせる。言っていることは、分かる。マモノを都市の中で飼っているのは危ない。都市の中にいるマモノが外のマモノと同じように破壊的になったら、それこそ大パニックになる。

 でも、と僕は檻の中の細くなった伝言鳥を見つめた。このマモノたちからは、敵意を感じない。彼らからすれば、人間側が脅威だろう。恐ろしい船を飛ばして、威圧してくるのだから。

 魔導の勉強をしていた教室の様子を思い出す。花を咲かせる授業だったのに、マモノ対策のための指導に内容が変更されていた。飼育小屋のマモノは、なにもしていなくても危機回避のために処分されるかもしれない。

 きっと、戦うって、こういうことだ。

 戦うつもりがなかった者たちも、身を守る刃ために持たされる。敵意のない者たちも、殺される。戦うということは、こういうことなのだ。

 チャトが憂いの目で空を見上げた。徐々に小さくなる、鳥船の船尾を眺めている。

「ツバサ、皆を助けてよ。あの羽根の杖で」

 マモノの興奮を静められる、あの羽根。僕もそうできたらいいなと思った。でも争いというものは、一瞬の感情を抑えたところで、永遠にはなくならない。チャトの祈りのような呟きに、僕にはなにも返事をできなかった。


 *


 チャトを飼育小屋に残して、僕は外の芝の上を散歩した。上空を鳥船が三隻、同じ方向に加速していくのが見える。直後に、火薬の爆ぜる音がした。都市のすぐ近辺まで、マモノが寄ってきたのだろう。

 マモノがこうも暴れているとなると、これからは都市を囲む塀は更に高くなる。壊されないように厚くなるだろうし、より閉鎖的になっていくと考えられる。

 僕は遠くの山脈の光景を頭に浮かべた。この様子ではもう、ミグの捜索も打ち切られたかもしれない。ミグひとりのために、何人もの兵団員の命をかけられない。

 ミグはマモノを服従させる力がある。だから、きっとマモノに殺されることはない。と、思う。しかし仮にマモノに襲われなかったとしても、危険な場所で怪我をしたり、食べるものがなくなったりして死んでしまうことはありうる。

 彼女の無事を祈る。生きていてくれればそれだけで充分だが、あわよくば、彼女の持つ僕の羽根の杖より強力な不思議な力が世界を救ってくれないかなと思う。マモノたちの怒りを静めて、全部チャラにしてくれたらいいのに。

 それにしても、ミグのあの能力はなんだったのだろう。リズリーさんには聞いたが彼女にはピンとこない様子だった。ああ、そういえば、落ち着いたらリズリーさんにミグのことを話そうと思っていたのだった。結局バタバタして、言える前にアウレリアを発ってしまった。ジズ老師に話そうか。彼なら、あの不思議な力の正体が分かるだろうか。

 魔導学園の広い敷地を宛もなく歩く。廊下から授業を眺め、芝生でスポーツをする学生たちを遠巻きに観戦し、やがて僕はもといた魔導棟に戻ってきた。

 しかし建物が大きすぎて、いよいよ迷子になった。ジズ老師の書斎に戻りたいのだが、どちらに向かえばいいのか分からない。周りに人はおらず、道を聞くことすらできない。

 うろうろと廊下を歩き、階段を上り、おもむろに角を曲がる。闇雲に右往左往していると、いつの間にか僕は最上階の廊下の突き当たりまで来ていた。

 目の前には、僕の身長の三倍くらいの高さの扉がどっしりと口を閉じている。両開きの重厚な木製の扉で、細やかな模様が彫り込まれている。どこかで見覚えのある図柄だと思ったら、流星の霊峰で見たものに似ていた。紋章の祭壇があった、あの神殿の柱や床に刻まれていた紋様である。

 ということは、きっとここは。

「おお、ここにいたか。ちょうどよかった」

 背後から聞こえた声に、振り向く。ジズ老師が、分厚い本を抱えて立っている。その横にはポピを肩に乗せたイリス、後ろにチャトとフィーナもいる。

「ポピイ!」

 ポピがぱっと羽根を広げ、イリスの肩から飛び立った。小さな羽根で羽ばたいて、僕の肩に飛び移る。

 イリスが不敵な笑みを浮かべた。

「文献の解読が大方済んだ。大船に乗ったつもりで、私に任せるがよい」

 自信満々なイリスを見下ろし、ジズ老師が苦笑いする。

「堂々としているな。まあいい、中で話そう」

 そう言って、ジズ老師は重たそうな扉を押し開けた。

 扉の向こうは、夜空のような黒い床広がっていた。広さは学校の教室の二倍くらいに見える。漆黒の床に白く紋様が刻まれていて、魔導陣のベースになる大きな円が描かれていた。壁には透き通る大窓が嵌め込まれ、その隙間の壁面は床と同様、黒地に白い紋様がびっしり並んでいる。

 そして室内の最奥地には、あの祭壇があった。威厳に満ちた石碑の巨像、竜を象る紋章。差し込む外の光を受けて物々しく佇む、紋章の祭壇だ。

 イリスが祭壇に向かって真っ直ぐ突き進んでいく。

「文献の解読によって新たに分かったことが、ふたつある。順番に話すとするかの」

 僕は少し身構えた。チャトとフィーナも、不安げな顔でこちらを窺っている。イリスは人さし指を立て、切り出した。

「まず、ひとつめ。竜魔導に必要な竜にも向き不向きがあるようじゃ」

 祭壇へ突き進むイリスに続いて、ジズ老師も奥へと歩く。

「ポピの種類、すなわち星影ドラゴンは、竜魔導に注ぎ込める能力がさほど高くないようだ。それもこんな小さなヒナだ。流星の霊峰からアウレリアまでの瞬間転移に成功したのが奇跡みたいなもんだったらしい」

「星影ドラゴンは、星の降る夜にその能力を最大限まで引き出せる。あの夜はたまたま流星群じゃったでの、そのお陰で子竜のポピ殿でも竜魔導に成功できたのじゃ」

 イリスがこちらに顔を向け、後ろ歩きで話す。僕も、イリスとジズ老師について黒い床を踏んだ。

「じゃあ、アナザー・ウィングを作るなんて、この子には難しいの?」

 肩で大人しくしているポピを一瞥して言うと、イリスとジズ老師は同時に頷いた。

「難しいどころか、不可能じゃの」

「かといって、流星の霊峰で他の竜を連れてくるのも不可能だ。まず道程が危険すぎるし、仮に強い竜を見つけたとしてもそれは他のマモノとは比べ物にならないくらいに凶暴だぞ」

 ジズ老師の言葉で、僕はイリスが流星の霊峰で話していた過去を思い出した。竜族の住む土地は、凶暴化した竜に襲われて焼き払われたのだ。いくら羽根の杖で相手を静められると言ったって、こちらが触れる前に火でも吐かれたらひと溜りもない。

「しかし不可能なのは『今のポピ殿では』じゃ。さっきも言ったとおり、星影ドラゴンは流星の夜に最大の力を発揮する。ポピ殿が大人の竜で、尚且つ流星の見られる夜であれば、可能性は捨てきれぬ」

 イリスが補足したが、裏を返せばポピが子供の竜である限りどうしようもないということだ。つい、そんなため息が洩れた。ポピは首を傾げている。とはいえポピが幼いのは仕方のないことだ。僕の都合でここに生きているわけではない。僕はきょとんとしているポピの頭を、そっと撫でた。

「竜魔導を自由に使いこなせれば、三つの都市は安定して繋がったんだけどな……条件が揃いそうもないね」

 チャトがイリスに駆け寄る。

「えー、ポピを連れて帰ってきても意味がなかったってこと?」

「そこで、ふたつめじゃ」

 イリスが人さし指と並べて中指を立てる。

「突破口がひとつある。ポピ殿の時間を“解凍”するのじゃ」

「時間を……解凍?」

 意味がさっぱり分からない。きょとんとする僕を見つめ、イリスは改めて説明した。

「ポピ殿は私と同じで、百年前に封印された存在じゃ。これは私もポピ殿も、百年の時間が体の中で止まっているということなのじゃ」

 イリスが自身の胸に手を置く。

「この時間を“解凍”する。止めていた時間を再び流すのじゃ。そうすれば、ポピ殿は一気に成長して大人の竜になる」

「そんなことができるの!?」

 大声を出すと、ジズ老師が苦笑した。

「イリスも文献でさっき知ったくせに、堂々と……。まあ、わしも初めて知って驚いたがな。竜や竜族はスリープ中のみ、成長に必要な栄養素を体外から摂取しないで体の中で作ることができるんだ。そしてその栄養素を角の中に溜めている。この栄養素を解凍することで、止まっていた成長を一気に促せるんだそうだ。これを『時の解凍』と称しておるのだ。全く、こいつらは我々には理解の及ばん力をまだまだ秘めておるな」

 ジズ老師も驚いたくらいだ。僕も口をあんぐりさせた。コールドスリープといって百年も子供の姿でい続けただけでも充分不思議だが、更に止めていた年月を一気に経過させることもできるとは。

 フィーナがそろりと口を挟んだ。

「でも、時間を解凍するって、どうやるんですか?」

「時間を操る魔導で解ける……と、文献にはあった」

 イリスが回答する。僕は思わず、フィーナに目配せした。時間の魔導といえば、フィーナが見ていた教室で実習が行われていたあの魔導のことだろう。フィーナも見様見真似で虫の動きを止めて、学生たちと共に実習に参加していた。

 イリスが引き続き、フィーナに説明する。

「ポピ殿の時間を解凍して大人の竜にし、流星の夜に、この部屋で竜魔導を実行する。そして社会全体に竜魔導の存在を認めさせる。さすれば、少なくとも流星の夜限定でなら、三つの都市は繋がるのじゃ」

 それから彼女は、僕にも視線を投げた。

「魔族の里へもひとっ飛びできる。アルロ殿から腕輪を受け取りに行けるのじゃ。魔族の里には祭壇がないから、帰りが問題じゃがの」

 僕に希望を投げかけながらも、最後の方だけ冗談ぽく言う。

 イリスの言うとおりだ。魔族の里とは流通が止まってしまったが、竜魔導で移動できれば直接会いに行ける。帰路については考えなくてはならないから、解決したとは言いきれないが。

 イリスはまた、真面目な口調で続けた。

「とはいえ私も、実際に解凍されるところを見たことがないでの。どんなふうになるのか、どこに負荷がかかるのか、全く分からぬ」

 ジズ老師も、こくりと頷く。

「そうだな。今は大人しいポピでも、大人になったら暴れるかもしれない。それに体の中で凝縮された時間が一気に流れれば、肉体にもダメージがあるだろう。もう少し調べてから、慎重に確かめような」

 それもそうだ。あまり焦らず、ひとつずつ解決していこう。ジズ老師は改めて、僕らを見渡した。

「わしはこれから、これらの情報を踏まえて、学園内の識者や政府とも話し合いを進める。進捗があればまた伝える。それまで休んでおりなさい」

「はい。ありがとうございます」

 僕はぺこりと頭を下げた。

 そのときだ。

 突然、ファーッファーッと聞き慣れない音が鳴り響きだした。やたらよく響く、不安を煽る音だ。救急車のサイレンが傍を通ったときのような、あのどきっとする感覚。

 どこから聞こえているのかは分からない。四方八方、壁や天井からも響いてくる。

「な、なにこの音」

 チャトが耳をぺしゃんこにして、尻尾を巻いている。フィーナが身を屈め、不安げにチャトに寄り添う。ジズ老師が穏やかな顔をひゅっと真顔に変えた。

「警報だ。都市内に危険度の高いマモノが侵入した!」

「なんじゃと!? あれほど警戒しておったのにか」

 周囲を見回していたイリスが、ジズ老師を睨む。ジズ老師も険しい顔で、彼らしくない低い声を出す。

「メリザンドの科学力をもってしても突破されるくらい、マモノの方が強くなっとるんだ」

 僕は横で唖然としていた。メリザンドの経済発展はイカイ随一だ。それが追いつかなくなるほど、マモノの攻撃力が高まっているなんて。

「ジズ老師! ここにおられましたか」

 廊下から中年の男性が声を投げてきた。恐らく、学園の指導者である。

「北の外壁を破られました。また、上空から来た飛行体のマモノを、鳥船で落とし損ねたとの報告もあります。学園上層部と都市管理局の緊急会議が決まりましたので、老師、すぐにご準備を」

「管理局の会見は」

「これからです」

 真剣な面持ちのジズ老師がツカツカと廊下へ向かっていく。指導者の男性は早口に状況を説明していた。

「破壊された壁から新たなマモノが侵入、死傷者確認中。少なくとも兵団員が六人負傷です」

 そこへ更に、甲高い声の女性指導者も駆けつけてくる。

「ジズ老師! 鳥船が少なくとも現段階で二隻墜落、そこから火災が発生しました。火の広がりが速いです」

「落ち着け、我々が慌ててはいけない!」

 ジズ老師が半ば怒鳴るようにしてふたりを制した。警報の音は、今も尚鳴り響いている。廊下へ出たジズ老師は、思い出したようにちらとだけこちらに顔を向けた。

「お前たち、心配しなくていいからな。大丈夫だ。怖がらず落ち着いて待ってなさい」

 それだけ言い残し、ジズ老師は早足に出かけていった。

 残された僕らは、互いに身を寄せ合って呆然と立ち尽くしていた。

 心配しなくていい? 大丈夫? マモノが入ってきて暴れていて、兵団員が負傷していて、火事が起こっていて、死者も出ているかもしれないのに?

 心臓がどくどくと激しく跳ねている。不安を煽るような警告音は、止まらない。

 廊下から、また新しい声がした。

「老師、兵団員死者二名確認されました! 北区の住民はパニック状態です。現在兵団員を向かわせているとのことです。更に鳥船が西でも墜落して……」

「学園敷地内に火炎能力を持つ大型マモノが侵入しました!」

「狼狽えるな! 学園内の貴重な歴史資料には到達させるな。ただし人命を最優先に! 死ぬくらいなら資料は捨てろ」

 ほんの数秒の隙に、事態が目まぐるしく悪化していく。僕は立ち尽くしたまま、動けなくてなにもできない。

「メリザンド、壊れちゃうの?」

 チャトの声が耳に微かに届いてきた。それとほぼ同時に、がくんと床が揺れた。近くで爆発音がして、壁が崩れるような音も続く。

 イリスが顔を顰める。

「ここも、もうだめかもしれぬな」

「そんなこと……!」

 フィーナが否定しようとして、言葉を止めた。そんなことない、とは言いきれない、彼女の絶望が垣間見える。イリスも悔しそうに怒りを滲ませた。

「仕方なかろう! もうこの都市は来たときから様子がおかしかった。すでに限界だったのじゃ」

 吐き捨てるように言って、イリスが祭壇に向かって走り出す。チャトが僕を見上げた。

「ツバサ、あの羽根の杖で助けてよ。マモノを全部追い払ってよ」

「あっ……えっと……」

 返事ができない。怖くて、足も頭も動かない。僕の代わりにフィーナが返事をした。

「だめ。リズリーさんも言っていたとおり、ツバサさんの羽根の杖はこれから重要な兵力になるかもしれない。ここで無鉄砲にツバサさんを危険な場所へ向かわせてはいけない!」

「でも、人が死んでるんだよ!? 都市がなくなっちゃうかもしれないんだよ!?」

 声を張り上げるチャトに、フィーナも感情的に叫んだ。

「ツバサさんに責任を押し付けるつもりですか!?」

「ツバサにしか救えないよ!」

「ツバサ殿は今は出すべきでない!」

 半分怒鳴るような口調で参戦したのは、イリスだった。祭壇を睨みつけていた彼女は、首だけ振り向いて僕らに諭す。

「この大規模なマモノの攻撃を、ツバサ殿の羽根の杖一本では対応しきれるはずがない。あれはせいぜい少数の敵と対峙したときにしか役に立たぬ。今は違う」

 僕が言葉にできなかったことを、イリスが全部言ってくれた。

「この広範囲、敵の数を考慮したら別の方法の方がよい」

 イリスがドンッと祭壇に手を突く。

「竜じゃ! マモノは自分より強いマモノである竜を恐れる。ポピ殿の時を解凍して大きな竜にし、マモノを撤退させるのじゃ!」

「えっ……でも」

 やっと僕は、声を絞り出した。

「ジズ老師がまだ、分からないことだらけだから慎重にって……」

「それは承知しておる。しかしリスクを恐れていてはなにもできぬ」

 イリスの堂々とした声に、チャトとフィーナが絶句する。僕も、イリスの凄む顔を眺め、肩の上のポピをそろりと見た。ポピは異様な雰囲気を感じて、きょとん顔で耳をぴくぴくさせている。

 イリスの言うとおりかもしれない。竜が威嚇すればマモノたちは萎縮する。少しでもマモノの隙を作れば、時間稼ぎくらいにはなる。

 チャトもフィーナも、黙っていた。黙っていたけれど、きっと僕と同じように思っていた。

「時間がない。よいな?」

 イリスが確認する。気がついたら、僕は肩からポピを抱き上げていた。

「そっか。じゃ、それしかないな」

 チャトがポピを目で追う。

「ポピが大きくなったら、竜魔導だって強くなるんでしょ。決まりだよ。早速ジズを呼んできて、ポピの時を解凍してもらおう」

「だめだよ、ジズ老師は僕らどころじゃない」

 僕が慌てて窘めると、チャトが焦った声で言った。

「じゃあ誰に頼むの? 誰なら、時間を解凍できるの?」

 僕は汗の滲む頭で迷った。

 ジズ老師はメリザンドの重鎮としてこれから仕事が山積みの様子だった。でも、彼にはそれだけ大きな魔力と影響力がある。安定的にポピの時の解凍ができるのは、ジズ老師だろう。

 ジズ老師が来られなくても、ここは魔導学園だから、魔導を使える人は他にもたくさんいる。魔導を極めた指導者や、学んでいる途中の学生もいる。でもこの緊急事態の中で竜の時の解凍なんてめちゃくちゃな話を説明している余裕なんかないし、それ以前に誰もがいっぱいいっぱいだ。

 大体、時を解凍するなんてこと自体、誰もが未経験だ。どんなリスクがあるか分からないのだ。こんなことを頼める人なんて、いない。

 すると、フィーナが微かに、震える声で言った。

「私にやらせてください」

 自信なくひょろっとしていたが、それでいて芯が通った声だった。チャトがえっと短く叫ぶ。

「フィノ、時間の魔導なんて使えたっけ?」

「覚えたばかりです。さっき、学園内を見学していて見様見真似で身につけたばかりで……解凍できるとは、言いきれません。でも、他に魔導を使える人は、この中にはいない」

 小さな声の中から、覚悟が滲み出している。僕もチャトも、イリスさえも、フィーナの判断に絶句した。

「ピャー!」

 ポピが僕の手に抱かれて鳴く。小さな牙が口から覗いている。

 イリスがこちらに歩み寄ってきた。

「分かった。フィーナ殿、頼むぞ!」

「は、はい!」

 フィーナの声が裏返った。また、床が揺れる。建物が傾くような衝撃が響く。

 僕は、ポピを抱きしめた。

「ねえ、時間を早送りするってことでしょ? 巻き戻しはできないよね? ポピがすっごく凶暴になっちゃったらどうするの!?」

「ツバサ殿が持ってる、あの羽根の杖でなんとかするのじゃ」

 イリスがばっさりこたえる。なんだか無性に不安になる。

「イリスも初めてなんだよね? ポピやフィーナにすっごく負担がかかるかも……」

 僕が言い終える前だった。ポピがぱさっと羽根を広げ、僕の腕からすり抜けた。

「ピュウ!」

 ポピが空中を旋回する。フィーナが戸惑いながら、ポピへと手のひらを突き出した。

「え、えい……!」

 ピカッと、周囲が明るくなる。眩しくて、視界が奪われた。直後、パンッとガラスの飛び散る音が、耳を劈く。突風が窓を枠ごと吹き飛ばしたのだ。

 多分、ほんの一秒間くらいだったと思う。

 上手く開けられない目に、フィーナの長い髪がぶわっと後ろに浮かんだのが映った。風圧に押されて、黒い壁が弾け飛ぶ。窓枠が取れた壁がひび割れて、瓦礫が飛び、正面の祭壇も粉々に砕け散っていく。

 フィーナ自身も、風に突き飛ばされて床に転がった。チャトは開きっぱなしの後ろの扉まで吹き飛ばされて、その向こうへころんと投げ出される。僕も後ろに転びかけて、足に力を入れた。腕で顔を覆って、眩い光と風を耐える。

 壁の破片や粉塵が頬を掠めた。全身が吹き飛ぶような圧が、体に押し寄せてくる。

 やがて、風が勢いをなくした。

「ギュアアッ」

 頭が割れるような声がする。恐る恐る目を開けると、きらきらと光る、黒曜石のような夜空色が見えた。

 高く振り上げられた頭の先から足元まで、僕の身長の二倍はあるだろうか。更にその後ろへとふっくらと伸びる長い尾まで含めると、七、八メートルはある。顔には満月のような金色の瞳。額には高く伸びる白金の角。そして背中には、巨体を包むほどのふたつの翼が、空気を孕んではためいていた。

 天井が吹き飛んで、真上には赤い空が広がっている。その天空に向かって、鋭く尖った牙を剥き出しにし、吠える。

「ガアーッ!」

 ぶわっと、黒い翼が床に叩きつけられる。規則正しく並ぶ羽毛が乱れ、数枚が抜けて飛び交う。

 僕は荒々しく首をうねらせる黒い姿を、呆然と見上げていた。

「……ポピ?」

「グアアー!」

 僕のつけた名前が、絶叫に呑み込まれる。

 首を振り乱し、尻尾でバシバシと床や壁の破片を叩き、双翼を羽ばたかせて風を起こす。空から降ってくる夕方の日差しが、真っ黒な毛並みにきらきらと星影を宿す。

 凍っていた時間が、一気に流れた。僕の肩に乗るほどだった小さな竜は、今では僕を包み込んで圧死させるほどの巨躯を持て余している。

「アグウ、ガウウ!」

 ポピは体の変化に驚いているのか、大きく負荷がかかったのか、はたまた、強い力を手に入れたことで凶暴になってしまったのか。気が動転しており、落ち着きなく叫び、のたうち回る。大きな翼の内側に空気をたっぷり含ませて、空気砲を飛ばすみたいに扇ぐ。同時に、巨体が浮き上がった。

「待って、ポピ!」

 僕は夢中になって、浮かび上がる黒い羽根に手を伸ばした。

 この興奮状態では、都市が余計に危険だ。まさに今、魔導学園の一部を破壊したほどの馬力である。こんなのが訳も分からず上空を飛び回れば、都市はあっという間に壊滅する。

 鋭い爪が突き出す足に、ようやく触れる。足先だけ毛色が白いのは、小さい頃と同じだ。手のひらいっぱいに毛束を掴む。体躯が大きい分、体毛も長い。全身でしがみつくと、僕の体は毛の中に埋まってしまうほどだった。

「ポピ、落ち着いて!」

 無我夢中で叫ぶも、多分、興奮したポピには届いていない。

 ポピの翼が羽ばたくと、また粉塵が巻き上げられ、黒い巨体は更に高く浮いた。足に抱きついていた僕も、一緒に床から浮き上がる。

「ポピ、ポピってば!」

 興奮状態では足先にまで目が届かないのかもしれない。僕はポピの長い毛束を握りしめて、よじ登った。ポピの黒い体が空を舞う。しがみついているだけの僕は、落ちれば死ぬ高さだ。

 バサバサと風を切る羽根に吹き飛ばされそうになりながらも、僕はなんとか、ポピの背中まで這い上がった。上下する大翼と吹き付ける風に耐えながら、毛を掴んで一歩ずつ、ポピの首筋へとのぼっていく。

 ポピは弾き飛ばした天井の向こう、大空へと飛び立った。僕は必死にポピの毛に掴まって、落ちないように手足を踏ん張っていた。

 ふと、下界に目が行く。メリザンドの住宅地が、すぐ足元に広がっていた。ポピが建物の屋根を掠めるように飛べば、風圧でバキバキと屋根が吹き飛んでいく。建物の間の通りでは、人々が悲鳴を上げて逃げ惑ったり、棒立ちになったりしていた。突如あらわれた真っ黒な竜に、恐怖を煽られているのだ。

「ポピ!」

 声が、爆風に巻き込まれて届かない。ポピが羽根をひとつ扇ぎ、ぐんと上昇した。同時に建物が数棟倒壊する。

 羽根の杖でポピを大人しくできないか、考えた。でも今の僕はポピにしがみついているだけで精一杯で、片手を離してリュックサックから杖を抜き取る余裕すらない。僕はポピの背中をじりじりとのぼって、風に煽られながら頭の方へと這った。

 高いところから俯瞰したメリザンドは、惨状だった。各地で火事が起こり、建物が瓦礫に変わって、逃げ惑う人々の波が見える。広大な敷地を持つ魔導学園にも、少なくとも十は超えるマモノの姿があり、学舎はあちこちが破損していた。マモノに応戦する兵団員や学園の指導者らしき姿もあったが、興奮したマモノにあっさり薙ぎ払われている。地面に突っ伏したまま、動かなくなっている人もいた。どこもかしこも大混乱である。

「ギャアア」

 ポピが首をうねらせて吠える。声帯が震えると首筋がびりびり震えて、のぼっている僕は振り落とされそうになる。その咆哮に、下界のマモノが反応した。街中の市場を荒らしていたイノシシみたいなマモノが、凍りついたように静止する。住宅街を闊歩していたクマのようなものが、びくっと跳ね上がって逃げ出していく。その隙をついて、兵団員がマモノを切りつけているのまで見えた。

 イリスの目論みどおり、ポピの威嚇でマモノが怯えはじめたようだ。ポピが声を上げれば上げるほど、各地のマモノたちが都市の外へと引いていくのが分かる。

 しかし、成功にほっとしたのは束の間だった。

 正面を向くと、鳥船が三隻、後ろにも一隻、ポピに向かって迫ってきていたのだ。そうだ、マモノなのはポピも同じだ。それも他のマモノとは比べ物にならないほどの攻撃力を持つ竜だ。それが学園の天井をぶち抜いて街を削っているのだから、都市からの攻撃対象になるのも無理もない。

 鳥船がドンッと炎の弾を撃ってきた。ポピの翼の先に当たったように見えたが、火は羽ばたきで掻き消された。もう一弾飛んできて、ポピの胸元に直撃する。

「ギャアア!」

 ポピが余計に頭を振り乱した。少し毛が燃えたようだったが、すぐに風に煽られて消火された。

「やめて! この子を撃たないで!」

 咄嗟に鳥船に向かって叫んでみたが、届くはずがない。それどころか、鳥船からは僕の姿が見えないようだ。遠慮なくポピに火炎弾が発射され、撃たれる度にポピは荒れ狂って鳴き叫んだ。

 このままでは、ポピが余計に暴れてしまう。

 僕は黒い毛をのぼり、やっとポピの額の角に辿り着いた。角を掴んで、ふかふかした耳に向かって叫ぶ。

「ポピ! 僕はここにいるよ!」

「グウウ!?」

 ぴたっと、振り乱されていたポピの頭が止まった。ようやく僕がいることに気づいたみたいだ。

「よしよし、怖かったね。大丈夫だよ」

 ポピの耳を撫でて、慎重に語りかける。ポピが叫ぶのをやめた。悲しそうにクウクウと喉を鳴らしている。

 しかしやっとポピが落ち着きはじめたのに、鳥船は更に集まってきた。次々と炎が撃ち込まれる。ポピが再び、ギャアッと悲鳴を上げた。

 僕の額には汗が浮かんでいた。鳥船に意思疎通はできないし、ポピは苦しんでいるし、僕もここにしがみついているのがやっとだ。頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしたらいいのか考えがまとまらない。

 すると、風音に混じって、背後から凛とした声が飛んできた。

「鳥船を避けて、メリザンドを離れるのじゃ!」

「えっ!?」

 掴まっているだけで手一杯になっていたせいで振り向けなかったが、声と話し方ですぐに誰だか分かった。イリスもついてきていたのか。全く気が付かなかった。

 だがのんびり話している暇はない。僕は彼女に従って、ポピに指示を出した。

「船にも建物にもぶつからないように、ここをすり抜けて。あっちの山の方向へ行くよ。都市を出るんだ」

「ギュウウー」

 ポピは僕のいうことを聞いてくれた。すいっと翼を畳んで首を下に向け、滑空する。鳥船の真下をくぐり、都市の建物の屋根すれすれをすり抜けた。

 鳥船を越えると、再度ばさっと羽根を大きく広げ、北に見える山脈へと向かった。鳥船が追いかけてくる。新たな鳥船も、ポピ目掛けて突き進んできた。ポピはそれらを器用に避けて飛んだ。炎の弾が撃たれてポピの体をじりっと燃やす。その度にポピはギャアッと叫び、僕は角を撫でて「大丈夫」を声をかけた。

 やがてポピは、メリザンドの外壁の向こうへと逃げ切った。都市を出れば、もう鳥船も追撃はしてこない。ひとまず、安堵のため息をついた。ポピもだいぶ落ち着いてくれた。翼を広げ、殆ど羽ばたかずに風を切っている。

 ポピの下にはどこの領地でもない荒野が広がる。メリザンドから逃げ出してきたマモノがぱらぱら、自分の土地へ向かっているのが一望できた。

「襲ってきたマモノ共は、竜の存在に恐れをなして逃げておる。しばらくは都市には近づかぬじゃろう」

 イリスの声がする。今度はもう少し近くで聞こえた。僕はポピの頭に座って、角をしっかり持ってから後ろを向いた。

「そっか。よかっ……」

 しかし、視界に映ったその姿を前に、僕は途中で言葉を切った。

 ポピの背中、ふたつの翼の間に座っていたのは、僕の知っているイリスではない。二十代半ばを過ぎたくらいの、大人の女性だったのだ。

 青磁色の髪に、くるんと巻いたふたつの角。ルビーのような赤い瞳。その特徴は彼女と同じである。だが髪はポピの背中につくほど長く、ゆとりのあった服はみちっと短くなり、少し破けてさえいた。

「……誰?」

「今更なにを聞いておるのじゃ。私に決まっておるじゃろう」

 呆れ顔の返事は、普段聞いていたあどけない高い声より、少しだけ大人びたトーンだった。

「フィーナ殿の魔導がやや不安定での。傍にいた私の時間も、部分的に解凍されてしまったのじゃ。咄嗟に身を屈めて避けたから、このくらいで済んだがの。まともに受けていたら、一気に老衰して死ぬところじゃったの」

「あっ、そうか。イリスも百年の時を体の中で止めてるんだもんね」

 理屈はなんとなく分かったが、だからといってこれまで同じくらいの見た目年齢だった女の子が突然成長したら、感情が理解に追いつかない。

「ツバサ殿、たしかダガーを持っておったの。貸してくれぬか」

 イリスがポピの背に跨って、じりじり寄ってきた。僕は首を傾げながら、リュックサックのポケットに手を入れる。激動だったが、ダガーは落としていなかった。

 イリスに手渡すと、彼女はなんの躊躇いもなく自身の後ろ髪に刃を通した。僕があっと声を上げるより先に、刃がイリスの髪を切っていく。

「髪がめちゃくちゃに伸びてしまって鬱陶しいのじゃ」

 長かった青磁色の髪は、ポピの羽ばたきに飲まれるように舞い、夕焼け空に散っていく。はらはらと飛ばされていく髪の束が、次第に見えなくなっていく。

 髪の長さが肩までになったイリスは、首筋に手を入れて細かい髪を払った。自然の風がドライヤーになって、髪の影がなくなると、大人になった彼女の凛とした顔がはっきりと現れた。

 どうリアクションしていいか分からず、僕はぼけっとその姿を見入っていた。イリスがむっと眉を寄せる。

「じろじろ見るでない」

「ごめん……それにしてもイリス、いつの間についてきてたんだね」

「うむ。ツバサ殿がポピ殿にくっついて飛んでくのが見えたでの。お主のことじゃ、考えもなしにポピに乗って、そのままどうすればいいのか分からなくなってしまうじゃろうと思っての」

 イリスが腕を組む。細い腕に成長した胸が乗っている。僕はとりあえず目を逸らして、そのまま黒いポピの毛並みに目線を映した。

「そのとおりだったよ。ポピに乗ったまではいいけど、どうしていいか分からなくなっちゃった」

 イリスの助言のお陰で、なんとかこうして落ち着くことができた。メリザンドもマモノが引いて、今頃怪我人の救護に手が回りはじめた頃だろう。

 僕は、背後で小さくなっていくメリザンドを見つめた。

「チャトとフィーナは……」

「ふたりとも吹き飛ばされておったからの……。ポピのことや、ツバサ殿と私の行方についても、あのふたりがジズ殿らに説明しておいてくれるじゃろう」

「そうだね。ふたりとも、怪我してないといいけど」

 ばさ、と、ポピが翼を扇いだ。日が沈んでいく空に、黒い羽根がひらひらと抜けて舞う。

「それで。これからどうするか、決めたかの?」

 イリスが問うてくる。僕は、風に流される羽毛を目で追っていた。

「少し、考えた」

 羽毛が、舞い踊ってどこかへ消える。僕はくるりと、前を向き直った。

「このまま山脈に進もうと思う。建物がないから、広いところでポピを着陸させられる。ポピがいればマモノも寄り付かないし」

 正面には、隆々と連なる霧の山脈がそびえている。

「なるほど。良い考えじゃ」

 イリスもすんなり頷いてくれた。僕は灰色の山々を睨み、続けた。

「それで、あの子を捜そうと思う」

「あの子?」

「マモノたちはあのメリザンドの外壁を破壊して、鳥船や砲台なんかの攻撃も突破して、発展した都市をあそこまで壊滅させたんだ。マモノは想像以上に過激だ。数も多い。僕が不思議な羽根を持っていようと、対応しきれるはずがない。それは、イリスも言ってたよね」

 それならば、あの羽根を上回る力が必要だ。

「ミグを、捜す」

 山脈がどっしりと北の大地に腰を据えている。僕はその威厳に挑むように、眉間に力を入れて睨んでやった。

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