21 ミグ
「君、空から落ちてきた」
ミグは岩壁に背を預けて、訥々と話した。
「でも、運良く毛玉イシコロの上に落ちたの。それがクッションになったから、君は怪我せずに済んだ」
大人が三人入れるくらいの、狭い洞穴だ。僕はここでリュックサックを枕にして伸びていた。今は、ズキズキする体を起こして、体育座りしている。
毛玉イシコロ、と聞いて、思い出すまでに時間がかかった。メリザンドから出発したばかりの頃に見た、石に擬態したプレーリードッグみたいなマモノだ。足元にうじゃうじゃいて、気づかずに踏んずけて怒らせた覚えがある。
「毛玉イシコロ、潰れちゃった?」
「いいえ」
「僕が上に落ちたのに?」
「君の身長の五倍はある、大きな個体だったから」
「僕の五倍の大きさ。あれ、そんなに大きいのがいるんだ」
僕は膝を抱いて、顔をうずめた。
ミグは自分からは喋ろうとしない。僕から質問をすれば、最低限の返事をする。なかなか会話が広がらず、ここまでミグから話を引き出すのに、ちょっと苦労した。
「そっか、だから無傷で済んだのか。でも僕、鳥から落ちた時点で気を失ってたと思うから……」
少し考えて、ミグに視線を戻す。
「君が、助けてくれたんだね」
ミグは返事をしなかった。ただ、雨の降りしきる岩穴の外を眺めている。
気絶状態で落ちてきた僕を、雨に濡れないように、ミグがこの洞穴に連れてきてくれた。リュックサックを枕に置いて、気がつくまで待っていてくれたのだ。
「ありがとう」
「別に。あなたが生きてたのは、マモノがクッションになっただけ」
ミグが外の方に顔を向けて、素っ気なく返す。僕は、膝に顎を乗せた。
「そうだけどね。こうして介抱してくれたのは君だよ」
ミグは返事をしなかった。糸のような雨から、目を離さない。雨に興味があるのではなく、僕から目を背けている、そんな感じだ。
黙ってしまった彼女に、僕は再び切り出した。
「あの、さ。僕のこと、覚えてるよね」
横顔は振り向かない。
「エーヴェで会って、話したよね。そのとき名前を言えなかったけど、僕、翼っていうんだ」
ミグは口を結んだままだ。もしかして、覚えていないのだろうか。ミグは僕に関心がなさそうだし、話したことも、彼女にとってはどうでもいいのかもしれない。
「ミグはどうして、こんなところにいたの? ひとりなの? なにをしてるの?」
なぜこんな山脈の奥に、登山に向かない格好で。荷物もなにも持っていない。なにもかもが異質だ。
質問攻めはしたくない。頭ではそう思っていても、気になることが多すぎて、口から溢れ出してしまう。
「アウレリアには、帰った?」
「アウレリアには戻らないって、エーヴェで会ったとき、こたえた」
ミグがようやく口を開く。ちょっとほっとした。会話を覚えてくれていたみたいだ。ミグの生気のない瞳が動き、僕を捉える。
「『皆が捜しているのなら、せめてあなたは、私の味方でいて』……とも、言ったはずよ」
「うん……そうだった、ね」
僕はミグの冷たい態度に、しゅんと縮こまった。
「あの後、兵団の人たちに会ったよ。ミグのこと、話そうかどうしようか、迷ったけど」
ぽつぽつと話す僕を、ミグがつまらなそうに見ている。
「君にもなにか、事情があるんだと思ったから、やめておいた」
「そう」
「だからさ。その事情を、僕に分かるように話してくれないかな」
なんだか、ミグは放っておけない。どことなく危うい印象があるからなのか、見た目が天ヶ瀬さんにそっくりなせいなのか、分からない。
「味方でいたい。でも理由が分からなきゃ、できることもできないよ。ね?」
アウレリアからマモノに連れられて消えた少女は、なにもかもが謎に包まれていた。名前も戸籍も、全てがである。だからこうして、ミグ本人から話を聞き出せれば、と思った。
しかしミグは、やはり素っ気なく顔を背けた。
「じゃあ、兵団に私と話したこと、教えていいよ」
「えっ」
「私はあなたに助けを求めてるわけじゃない。『味方でいてほしい』というのは、ただ、黙っててほしかっただけ。それをしてくれないなら、勝手に話せばいいわ」
ミグは肩に乗った髪を払い、立ち上がった。
「あなたが話したところで、私は兵団から逃げるまでだもの」
唖然とする僕を尻目に、ミグはスカートの泥も落とさずにさっさと歩き出した。洞穴の口から出ていってしまう。僕も慌てて立ち、リュックサックの肩ベルトに片腕だけ通した。
「ま、待って! ごめん。もう無理に聞いたりしない」
ミグの腕を掴む。ミグは迷惑そうにこちらに目を向けた。冷たい目だけれど、そこに憎悪があるわけでもなく、ただただ感情のない色をしていた。
細い腕にしがみついて、僕はひょろひょろとした声を出した。
「ごめんね。もう嫌がることしないから……あの、ひとりにしないで」
正直、これが本音だ。
「仲間とはぐれちゃったんだ。こんな山脈の、どこだか分からないところでひとりぼっちにされたら、死んじゃう」
「それなら、死ぬのが自然の摂理なんじゃないの」
ミグは僕に冷たい。それでも僕は、彼女の腕を離すわけにはいかなかった。
「死ぬはずだったのに、君が介抱して、助けてくれたんじゃないか!」
すると、ミグの感情のない目が、一瞬だけ丸く大きくなった。どうでもいいはずの僕を助けた、自分の行動に、今更びっくりしたみたいだ。僕は自嘲気味に彼女に甘えた。
「だから、助けたついでだと思ってさ。邪魔しないから、ついていってもいい?」
再び、ミグの瞳が血が
「……勝手にすれば」
可憐な声で冷ややかに言うと、ミグは洞穴の外へと足を踏み出した。腕を取っていた僕も、共に洞穴を出る。
雨は小降りになっていた。か細い雨が霧に混じって、周辺を煙らせている。足元に枯れた大地が広がるのはなんとか見えるけれど、霧のせいで数メートル先は霞んでいた。
「これからどこへ行くの?」
しっとりと顔に張り付く前髪を払い、ミグに尋ねる。ミグは動きにくそうなスカート姿で、少しよたよたと、足場の悪い岩の道を歩いていた。
「そうね……。あなたのお友達でも、捜す?」
「それはありがたいけど。ミグにもなにか、目的があるんじゃないの?」
ひとりでこんな山脈にいたくらいだ。どこかへ向かっていたのだろう。しかしミグは、自身のことは話そうとはしない。
「伝言鳥が見つかるといいね。そうしたら、生きてるとだけでも報告できる」
あくまで他人事っぽく、彼女は言った。
僕は声になるかならないかの声で、そうだね、と相槌を打った。ミグの事情に深入りするのはやめた。やめたつもりだけれど、気にならないかといえば嘘になる。
なぜ頑なに、アウレリアへ戻りたがらないのか。アウレリアに戸籍がないのなら、どこか別の出身なのか。空運び鳥を利用してどこへでも移動していたのは、どうしてなのか。なぜこんな山脈にいるのか。
なぜ僕を助ける気になったのか。
「ねえ、あまが……」
話しかけようとして、呑み込んだ。また、クラスメイトの名前で呼びそうになってしまった。
これも、ミグという少女の謎のひとつだ。なぜ、天ヶ瀬つぐみに瓜ふたつなのか。
――だめだ。聞いたって、こたえてくれない。天ヶ瀬さんについては、ミグだって知らないだろう。
「僕の仲間たちは今、流星の霊峰に向かってるんだ」
雨粒の間隔が広がっていく。天気が回復しつつある。
「今、僕は自分がどこにいるのかも分からないし、方向感覚もなくなっちゃった。流星の霊峰、どっちの方向か、分かる?」
厚い雲に覆われた空が、のしかかるように重い。ミグは黙って、先を歩いた。無視されているのか。
「あのさ、今まで何度か会ったとき、ミグは空運び鳥で移動してたでしょ?」
僕はしつこく、別の話題を切り出した。ミグは振り返らない。聞いていないかもしれない。だが僕は、めげずに話しかけた。
「今は、あの鳥はどこにいるの?」
「さあ。知らない」
一応、こたえてはくれた。僕はぬかるんだでこぼこの地面に足を取られながら、ミグを追いかける。
「知らない? お別れしたの?」
「使う度に、別れてる」
「どういうこと?」
「毎回、同じ個体を使ってたわけじゃないから」
どうも、ミグが乗っていた空運び鳥は、一羽ではなかったみたいだ。
ミグが濡れた空を見上げる。白い頬に水滴が垂れた。
「この天気では、いないかもしれないわね」
「なにが?」
「伝言鳥」
ミグの話し方は、なんというか、テンポが掴めない。
「天気が悪いと、飛ぶのも大変だもんね」
僕も上空に顔を向けた。鳥の影は見えない。僕を落とした空運び鳥や、チャトとフィーナ、イリスは無事なのだろうか。鳥がパニックを起こしたり、乱気流でバスケットが傾いたり、してもおかしくない。僕の同じように、落ちてしまったかもしれない。僕はたまたま、柔らかいマモノの上に落ちたから無事だったけれど……。考えれば考えるほど、不安で胸が曇る。
下を向いて歩いていた、そのときだ。オオオオ、と、地の鳴るような音がした。
「なんだ!?」
僕は肩を縮こませた。ミグが立ち止まる。
「マモノがいるわ」
ミグの小さな声を受け、僕はリュックサックのポケットを探った。アルロがくれた杖が、指に触れる。よかった、落としていない。
「ミグは下がってて。ここは僕が」
杖を握りしめて、ミグより一歩前に出た。ミグの表情は、少しは強ばっているかと思ったのに、全くの無表情だった。
「あなた、戦えるの? 弱虫のくせに」
突然酷いことを言われて、僕は思わず固まった。すぐに我に返って、この杖の仕組みを説明しようと思ったのだが、遅かった。
霧の中から、白っぽい大きな影が浮かび上がる。霧が揺れ動き、姿が徐々にはっきりとしてきた。白い体に、耳と鼻先と尻尾だけ、淡い青色がかった狼である。かなり大きい。頭から尻尾の先まで、二メートルはありそうだ。
姿勢を低くして、牙を剥き出しにし、銀色の目でこちらを睨んでいる。僕は慎重に、その影の出方を窺った。どういう動きをする生き物なのか、見定めたい。
しかし、ミグは僕を置いて狼の方へとスタスタと歩き出したではないか。
「ちょっと、ミグ!」
僕の大声で、狼が身構えた。臨戦態勢のマモノに対し、ミグは臆することなく進んでいく。
そして、あろうことか、狼の鼻先に手を差し伸べた。
ミグが噛まれる前に、狼を追い払わなくては。杖を羽根に変えて駆けつけた。でも、ミグと狼の様子を見て、立ち止まる。
狼の方が、恐れをなしているように見える。耳を下げて、小刻みに震えているのだ。
「大丈夫。怖くないよ」
ミグが狼の鼻から眉間をそっと撫でる。
驚いた。ミグはマモノを手懐けられるのか。もしかして、ミグもマモノの怒りを止められるのだろうか。
狼が僕に気づき、銀色の目がキッと僕を睨んだ。しかしミグが眉間を押すと大人しくなる。狼が威嚇をやめたのを確認すると、ミグはまた、優しく額を撫ではじめた。
リズリーさんとドリーくん、鳥族のカイルさんと牧場のマモノたちとは、少し違う。彼らのようにお互いを全く警戒していない関係とは異なるのだ。どちらかというと、ミグという王様と、それに謙虚に尽くす家臣のような、そんな関係に見える。
アルロの杖とミグのこの力は、似ているようで、まるで違うように思えた。僕が使う羽根は、襲ってきたマモノの怒りを抑えるものだ。しかしミグは、初めからマモノが襲おうとしない。
「実は、不思議に思ってたんだ」
僕は大人しく目を閉じる狼を、じっと見下ろしていた。
「鳥族の谷で、空に向かって手で合図をして、空運び鳥を呼んでたよね。もしかしてミグは、マモノと心を通わせられるの?」
合図ひとつで鳥が来て、本来は行き来できないはずの区間まで飛べるのも。明らかに警戒していたマモノを、こうして手懐けているのも。
「マモノは、私を襲わない」
ミグが狼の耳を指で撫でる。
「あなたは、流星の霊峰の場所、知ってる?」
彼女の問いかけに、僕は首を捻った。分からないと言ったはず、とこたえようとして、気がつく。彼女は僕に尋ねたのではない。
「そう、竜が住んでいるところ」
ミグは、狼に話しかけているのだ。
グルル、と狼が喉を鳴らす。ミグの手から顔を離し、くるりと後ろを向いた。青みがかった尻尾が、霧の向こうに消えていく。ミグは無言で、その背中について歩き出した。僕も、見失わないようについていく。
「この狼、案内してくれるの……?」
「鳥が見つからないから、陸の生き物に頼るしかないじゃない」
ミグが当たり前のように言う。僕にはマモノに案内してもらうという考え自体がなかった。ぽかんとしてしまう。
濃霧の中を、狼の尻尾を頼りに進む。整備されていない道は、岩がゴロゴロしていたり足場が崩れていたりして、何度も転びそうになった。道に慣れた狼は、ぴょんぴょんと身軽に進む。
「んっ」
僕の少し先で、ミグがつんのめった。態度こそ淡々としているミグだが、態度どおりにそつなく歩くわけではない。過酷な山道に足を取られ、よろめいていた。
「大丈夫?」
手を取ろうとしたが、素通りされた。ミグは僕なんか見えていないみたいに、狼の尻尾に集中している。狼は、顔をこちらに向けて待っていた。僕が転んでも置いていくだろうが、ミグに対しては、まるで主人を待つ忠犬みたいだ。
冷たい霧の中を歩いていると、体が怠く重くなっていった。体温が奪われるだけでなく、濡れた体は不快感がまとわりつくし、寒い。疲れも溜まってくる。アルロに食べさせもらった温かいスープを思い出しては、ため息が出た。
ときどき、マモノと遭遇することもあった。頭がふたつある大蛇や、大量に群れをなすクモみたいなものを見た。僕はその度にぎょっとしていたが、ミグが通りかかれば、マモノたちはその場で止まって見ているだけだった。
ミグといると、ミグのことが分かるようになるどころか、却って謎が深まる。ミグが通れば、マモノが道を開ける。彼女は一体、何者なのだろう。
そしてまた、僕の思考は同じところへ戻ってくる。
……どうして、ミグはこんなところにひとりでいたのだろう。
アウレリアの街、鳥族の谷、エーヴェ。気がつくと君は、僕を導くようにそこにいる。いるのに、手が届かない。まさに、霧の中で見え隠れするみたいに。
思えばアナザー・ウィングを拾ったのも、天ヶ瀬さんを追いかけようとしたときだった。いや、天ヶ瀬さんとミグは別人のはずだから、それは無関係かもしれない。無関係かもしれないが、頭が勝手に関連づけてしまう。だって、こんなにそっくりなのだ。
「ねえ、ミグ。興味ないかもしれないけど、会話がないの寂しいから、喋ってもいい?」
僕はリュックサックの肩ベルトに両手を添えて、ひとつ、深呼吸をした。
「無視してもいいよ。独り言だと思ってくれていい」
前置きをして、切り出す。
「僕はね、ここじゃない別の世界から来たんだ。『イフ』と呼ばれてるところから」
言ったら、変な奴だと思われるだろう。でも、話しておきたかった。
「その、僕の元いた世界にはね。君にそっくりな人がいたんだよ」
案の定、ミグは返事をしてくれない。それでもよかった。
「その子も、君と一緒で不思議な女の子だった。でもミグよりよく話すし、たまに笑ったりもしたかな」
会話をしたのは一度だけだったから、あまりよく知らないけれど。
「それでね。これもやっぱり君と一緒で、……なんだろう、どこか儚げで、ミステリアスだからかな。掴みどころがなくて、だからこそ、僕はもっと、あの子と話せたらいいなと思った」
ミグが今、聞いてくれていなかったとしても、僕自身が言葉を吐き出してしまえれば、それでよかった。
「あのとき僕は、彼女を追いかけて、なにを言おうとしたのかな。話したいことが決まってたわけじゃないんだけど、もうちょっとだけ、声を聞いていたいと思ったんだ、きっと」
思ったことをそのまま口にする。要領を得ない言葉の羅列は、ミグに話しているというよりは、本当にただの独り言だった。
「例えば、『一緒に帰ろ』って、言えてたら」
帰り道で会話をして、よく知らない彼女を、ひとつでも多く知ることができたなら。
「僕の“居場所”は、広がったのかな」
霧にまみれたみたいに視野が狭い僕の世界は、変わったのだろうか。
「そうしたらさ。渡辺にいじめられたって、やり返せなくたって、平気だったかも。僕がいつも楽しそうにしていたら、渡辺にとっても、いじめがいがなくて飽きるかもしれないし」
足がもつれる。歩き疲れて、ふくらはぎが痛い。腰もズキズキする。こちらを見もしないミグに、僕は改めて呟いた。
「ごめんね。なに言ってんのって話だよね」
「……本当ね。バカみたい」
ミグはやはり振り向かず、容赦のない言葉を落とした。
「戦わないで勝とうなんて、甘えにもほどがあるわ。脆弱な生き物は淘汰されるの」
ミグの言うとおりだろう。結局、僕は自分の世界を変えられなかった。それが、僕の弱さで。弱いから強い人に負ける。当然だったのだ。
だけれど、そのシンプルな理論を受け入れられない自分もいる。
「チャトは、『めちゃくちゃ強い』って、言ってくれたよ」
僕の意志が武器になった羽根の能力を、チャトは「無敵だ」とはしゃいでいた。
「フィーナも、『どんな魔導より心強い』って」
沈みかけの船の上で、僕に微笑みかけてくれた。
言葉にしてから、僕は苦笑した。
「なんてね。『強い』って言われたのは、羽根のことだ。マモノを追い払う力に変われば強さなのかもしれないけど、羽根がなくてただ怯えてるだけの僕だったら、弱いよね」
狼の背中が、数メートル先で僕とミグを待っている。ミグは僕の方を一瞥もしない。
「この世界では、強さは手に入れられる」
ミグの髪が、霧の雫できらきらする。
「素人でも扱える武器はあるし、努力すれば、魔導を使いこなせるようになる。いくらでも強くなれるの。でも、それを使おうとしてこなければ、使える者に置いていかれる」
僕はリズリーさんから持たされたダガーを思い出した。身を守るものとして手渡されたのに、それでマモノに立ち向かうことはできなかった。
「戦うことを放棄した者に、勝利はないの」
ミグの正論は、言い返す余地が全くなかった。
「うん……もう少し、考えてみる。元の世界に帰るまでに」
元の世界へ帰り、生活が元どおりになったとして。ミグの言葉を受け止めれば簡単に渡辺に勝てるかといったら、そんなことはないのだ。
僕は一旦切り替えて、ミグの背中に笑いかけた。
「聞いてくれてありがとう。天ヶ瀬さんとはあんまり話せなかったけど、今こうして、ミグに聞いてもらえてよかった。別人なんだから、ミグにとってはいい迷惑だろうけどさ」
ミグはまた、口を閉ざした。
ぬかるんだ道が続く。その上、傾斜の急な上り坂だ。冷たい空気が体温を奪って、疲労の溜まった脚からは感覚が失われていく。いつの間にか、ミグは僕より後ろを歩いていた。顔色が悪い。気丈に振る舞っているが、彼女も体力の限界なのだろう。
「ちょっと休もうか」
僕が声をかけると、ミグは首を振って拒絶した。
「私が足枷になるなら、置いていっていい」
「そうじゃないよ。ていうか、ミグがいないとあの狼、案内してくれないし」
葉のない痩せた木の下で立ち止まると、ミグも不服そうながらも足を止めた。そして崩れ落ちるみたいに座り込む。ミグが止まったのに気づいて、霧に消えかけた狼も歩みを止めた。
「飲み物、ちょっと残ってた」
僕はリュックサックに残っていた飲み物を、ミグに差し出した。ミグは受け取らない。膝を抱き、顔を伏せてしまった。僕は彼女の前に座り、しつこく勧めた。
「フィーナがね、ああ、フィーナっていうのは、精霊族の子の名前なんだけど。高山病になって動けなくなっちゃったことがあるんだ。水分摂ると、よくなるらしいよ」
「要らない」
「だめだよ。飲まないと」
「その飲み物も、もう僅かしかないじゃない」
「いいから!」
ちょっとだけ、声を荒らげてしまった。ミグはびくっと肩を弾ませ、顔を上げた。僕は引き続き、声を尖らせる。
「弱い者は淘汰される、なんて言うけど。そうかもしれないけど、誰もが見捨てるわけじゃないんだよ。君だって僕を助けてくれたし、僕だって、ちょっとくらい君の力になりたい」
僕がマモノの上に落ちて、その上ミグに見つけてもらえたのは、奇跡だった。ミグに出会えなかったら、仮に墜落死を免れたとしても、ひとりぼっちで野垂れ死んでいただろう。
飲み物を突き出す僕を見つめ、やがて根負けしたみたいに、手を伸ばす。彼女はぽつっと、小さな声を出した。
「手を差し出してくれるのなら、どうして……」
光のない瞳で、ひとつ、まばたきをする。
「どうして、あのとき助けてくれなかったの」
「……あのとき?」
僕が繰り返したと同時に、ミグはひと口だけ水分を摂った。水筒を僕に返し、ふらっと立ち上がる。
「ありがと。もう大丈夫」
「待って、あのときって?」
ミグはには何度か会ったけれど、僕はなにか見逃していたのだろうか。
しかし尋ねても、ミグはもうこたえてはくれなかった。
狼を追いかけて、どれくらいの時間が経過したのだろう。体感では、もう二時間以上は歩いたと思う。赤茶色だった足元の岩道は、岩石の質が何度か変わって気がつくと色が変わっていた。黒っぽくなったり、青っぽくなったりを経て、今は白っぽい道が続いている。ゴロゴロした岩が転がっていて、足が取られる。
急激な坂道を、しかも霧の中を、ほとんど休まず無心に進んでいる。体力の限界だ。全身が重たいし、脚は棒になってしまった。
強がりなミグは文句を言わずに歩いていたが、顔つきは深刻だった。僕も疲れ果てて、途中から話しかける元気もなくなっていた。
疲れが募ってくると、気持ちまでマイナスに傾いた。仲間たちは無事だろうか。雨で飛べなくなった鳥が飛ぶのをやめたかもしれないし、僕のようにバスケットが墜落したかもしれない。チャトなんか身を乗り出してふざけていたし、心配だ。
不安が頭を埋め尽くしていく。無言になるとひとりで考え込んで、悪い予感ばかりに押し潰される。僕の悪い癖だ。
ただ、マモノが一切攻撃してこないことだけは救いだった。それどころか、マモノが殆ど姿を現さない。
「ミグが追い払ってるの?」
なにをとは言わなかったが、ミグには伝わったようだ。
「私はなにも。生態系よ。マモノの中でも竜は特に力があるから、他のマモノが寄ってこないの」
「竜!」
そういえば、流星の霊峰には竜がいる。その竜だってマモノだ。他のマモノ同様気が立っていて、人を襲うかもしれない。
頭が重い。顔を上げるのも怠くて、足元だけ見て、機械のように歩いていた。そのときだ。
「ポピィ!」
口笛みたいな、小鳥のさえずりみたいな音がした。
顔を上げてみたが、霧でよく見えない。
「ピュイ、ピュイ」
「なにかいる?」
足を止めてキョロキョロしていると、ふいに、僕の肩にトンッとなにかが落ちてきた。
「プキッ」
耳元で声がする。見ると、左肩に真っ黒なイタチみたいな生き物が乗っている。
「うわあっ! なんだこれ」
「ポピッ」
僕の大声にびっくりしたのか、黒い生き物は甲高い声を上げて飛び跳ねた。イタチに似ているが、背中に鳥のような羽根がある。体の毛色と同じ、黒い羽根だ。僕の顔の横でホバリングしている。
満月みたいな黄色っぽいまん丸の目をしていて、おでこからは小指の爪くらいの小さな角が生えている。四つの短い足は先っぽだけ白くて、丸い肉球があった。レモン型のふっくらした尻尾があって、その毛先も白い。全身の黒い毛並みは、よく見ると星空みたいにきらきらしていた。
「星影ドラゴンのヒナね」
ミグが呟いた。僕は黒い毛の塊を呆然と見つつ、繰り返した。
「星影ドラゴン……? ドラゴンって、これ竜なの?」
「キュウッ」
喉から絞るような声で鳴いて、黒いそいつは空中で一回転した。そして僕の頭の上に降り立つ。
ドラゴンというからには、もっとトカゲのような鱗があったり、巨大な鳥のようだったりの幻想的で威厳のある姿を想像していた。しかし今、僕の頭の上に座っているのは、ふわふわの小動物である。
「竜がいるってことは、いよいよ流星の霊峰が近いんだね」
想像していたものと違って衝撃を受けたが、これが竜だというのなら間違いない。
僕は頭に竜を乗っけたまま、狼のいる方向に目を向けた。先の霧が微かに晴れている。陽炎のように霞む、白い岩の大地。僕はふと、美術館で見た石膏像を思い出した。ちょうどあんな、サラサラした滑らかな質感だ。
そこへひゅんと飛ぶ、イタチのような影。
「あっ、あそこにもう一匹いる。この竜よりちょっと大きかった」
指をさして、僕は駆け出した。希望が見えてくると、疲れきって感覚の消えた脚が、ちょっとだけ元気を取り戻す。駆け足になっても、竜は頭の上から降りなかった。
狼のいる方へ数メートル進んでから、振り返る。ミグの深緑色のスカートと、ミルクティー色の髪が霧に霞んでいる。追ってこない。
「ミグ、どうしたの? 行こうよ」
「私は、もういい」
「へ? どうしたんだよ。もうすぐ流星の霊峰に着くのに」
山岳の大地には風の音しかない。それでも、距離があるせいで声が拡散してしまい、ミグの声はよく聞こえなかった。
「一緒に行こうよ!」
僕が大声を出すも、ミグは声を張り上げることなく返す。
「とくに用事ないから」
そうしてミグは、くるっと後ろを向いてしまった。彼女の背中が、霧の向こうへ消えていく。
「待って!」
僕はもと来た道を駆け戻ろうとした。ここでミグと離れるわけにはいかない。彼女の髪が光を孕む。このまま霧の中に消えたら、二度と会えない気がする。
「待ってミ……」
「ツバサー!」
僕の声をかき消すようにして、背後から声が飛んできた。思わず首を振り向くと同時に、どんっと背中に体当たりされた。衝撃に驚いて、僕の頭に乗っていた竜が飛び上がる。
僕もびっくりして、目の前にいる彼を認識するまでに時間がかかった。茶色い三角の耳と、ぶんぶん振っている尻尾がある。
「チャト!」
どうやら先にこの辺りまで来ていたみたいだ。僕を見つけて、飛びついてきたのだ。
「よかった! よかったあ!」
チャトは僕の背におでこをぐりぐり押し付ける。ごめんね、とチャトを撫でていると、霧の中からイリスの影が見えた。
「あ、イリス!」
声をかけると、彼女はツカツカ歩いてきて僕の真正面に立ち、パンッと頬を引っぱたいてきた。
「なにが『あ』じゃ! 心配したのだぞ!」
「ごめんね。でも落ちたの僕のせいじゃない」
叩かれた頬を抑えて弱々しく反発する。ずっと僕にしがみついていたチャトが、なぜか僕の腕をがぶがぶ噛みはじめた。
「痛い! なんで!?」
「俺の心臓の痛さはそんなもんじゃなかった!」
チャトがくわっと顔を上げる。
「死んじゃったかと……思ったんだからな」
普段へらへらしてなにも考えていなそうなチャトが怒っている。僕はそれを聞いて、大人しく腕を差し出した。好きなだけ噛ませようと思う。
やがて、ふらふらとした足取りのフィーナが現れた。
霧の中から僕の姿を確認すると、彼女は徐々に歩みを緩め、そしてへたっと膝から崩れ落ちてしまった。僕はチャトの頭を撫でながら、フィーナに笑いかけた。
「心配かけてごめんね」
フィーナがなにか、返事をした。多分、「バカ」とか言ったのだと思う。だけれど、声が震えていてよく聞こえなかった。
僕も、胸がいっぱいになって泣きそうだった。よかった、皆無事だったんだ。しかもこんな広い山の中で合流できて、奇跡だ。
そうだ、こんな奇跡が起こったのも、彼女がいてこそだった。
「ミグ!」
僕はまた、来た道に向かって叫んだ。だが、もうとっくに長い髪の色は見えない。白い霧に吸い込まれて、消えてしまった。
「ミグ……」
追いかけてきた狼も、いつの間にかいなくなっていた。
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