20 再出発

「ほ、本当に着いた!」

 真っ暗な樹氷の森の中に、提灯のように光る魔道具のオーナメント。眼前に広がる魔族の里の景色を見て、僕は開口いちばんそれだった。

 海中トンネルをずっと進むと、再び洞窟に差し掛かった。その最奥地、ぞんざいに立て掛けられた小さな梯子をのぼると、頭がコツンと天井に触れる。そのまま頭突きで押し上げたら、外に出られた。

 トンネルの外は、ごみ捨て場のような場所だった。お師匠様が言っていたとおり、魔道具の廃棄所であるようだ。その隅っこにある大きな樽が、トンネルの出入口。僕はこの樽から顔を出していた。

 樽から這い出て、腕をさする。

「寒い。皆、大丈夫?」

 続いて樽から出てきたチャトが、ぷしゅっとくしゃみをした。

「フィノが魔導で温めてくれてるけど、それでも寒い」

「川から入るとき、水に濡れましたしね」

 フィーナが続き、最後にイリスが顔を覗かせる。

「凍りつきそうじゃ……」

 目の前には、こんもりと積まれた魔道具の山がある。正確には、捨てられた魔道具だ。壊れたものや、失敗作だろう。だれけどそれは、ひとつひとつがきれいな鉱石や衣料品である。だから夜空の星が山になっているような、宝石箱のような、幻想的な美しさがあった。

「ヌッ!? ツバサ!?」

 聞き覚えのある中性的な声がする。僕の顔にカッと、青白い光が当たった。

「う、眩し……」

 僕はその光の先に目をやった。

「アルロ!」

 光の正体は、アルロの光る目だったのだ。これもお師匠様から聞いたとおり、アルロはこの廃棄所に壊れた魔道具を運んでいる最中だったようだ。手押し車に鉱石をたくさん載せて、枝みたいな手で押してきている。

「なぜココにイルだ? 魔族の案内ナシでハ、里には辿り着けないハズ。ソレもコンナ、里の外れに」

「魔族が作ったトンネルに導かれてきたんだ。お師匠様に会ったよ」

 エーヴェから流されたことを含めて経緯を話すと、アルロは相変わらずの淡々とした口調で返してきた。

「フム。大変ナ思いしたダナ」

 本当に、大変な思いをした。船が動き出したときはびっくりしたし、あのまま死ぬのではないかとまで思った。しかも船は沈んだし、未知の島に上陸した。得体の知れない毛族との出会いも、彼らを知らないうちは死を覚悟したものだった。

 ようやく、知っているところに戻ってこられた。いや、魔族の里も大陸の果てであり、都市からは遠いのだけれど、それでも今はアルロの目の光に安堵してしまった。

 チャトがぷるぷると震えながら、アルロに歩み寄る。

「ねえアルロ、お腹空いたよ。寒いし眠い」

 か細い声で言ってから、チャトはアルロの足元でぺしゃっと崩れ落ちた。疲れ果ててしまったようだ。

 アルロは光る目でチャトを照らして、手押し車から手を離した。その細い指がかざされると、辺りがふわっと暖かくなる。

「アルロの家デ休むヨロシ。最近、新しい魔道具作ったダ」

 アルロの目の仄かな灯火が、暗い森の中に拡散する。

「熱の魔導を込メタ、毛布。他種族、寒がりダカラ」

 震えるチャトの頭をひと撫でしてから、アルロは僕らを案内してくれた。


 *


 アルロの家は、以前も連れてきてもらった工房のことである。凍りつきそうな寒さと、アルロの目の光がないと周りがよく見えない暗さ、作りかけの魔道具の輝きはあの日と変わっていない。

 魔族は他種族と関わるのを拒むが、嫌っているわけではない。だからアルロは、寒がる旅人たち、即ち僕らを見て、熱を発する毛布を作ったのだという。

 その毛布を貸してもらい、包まって、僕たちは工房の隅に身を寄せた。柔らかな質感の毛布がじんわりと体を温めてくれる。心地よくて、眠くなってきた。

「魔族、食事シナイ。でも魔導習いに来ル他種族のタメに、食べ物アル。持ってクル」

 アルロの声がする。眠るか眠らないかのボーダーラインを行き来していると、チャトの声が僕を覚醒させた。

「いい匂い!」

 咄嗟にまたチャトに噛まれるかと思って身をよじったが、どうやらチャトはアルロが持ってきた食事の匂いに反応したようだ。

「野菜のスープ。食べるヨロシ」

 魔道具を運ぶものと同じ盆に載せられて、四つの器が湯気を出している。

「ありがと!」

 チャトが即座にがっつく。僕もスープを受け取って、ひと口啜った。クリームシチューみたいな、甘くてしょっぱい味がした。温かくて、胸がほっとする。

 食事を終えると、フィーナがすぐに寝てしまった。彼女は寒さに耐えるために、空気を温める魔導をずっと使ってくれていたのだ。体力が消耗していたようで、泥のように眠っている。お腹がいっぱいになったチャトも、彼女に寄り添って眠りに落ちた。

 僕らに食事を出したあと、アルロは工房の作業台に立ってなにか作りはじめた。魔道具に使う鉱石を削っているようだ。細い指の先端で、ちまちまと作業している。

 僕は空いた器をお盆に載せて、立ち上がった。食器を洗う場所を探し、周囲に目を凝らす。

 ふと、家で皿洗いをするお母さんの後ろ姿を思い出す。遅い時間に疲れて帰ってきて、もくもくと食事をして、食器を洗う。先に夕飯を済ませていた僕は、一緒に食卓についてそれを眺めていた。

 僕が座っていれば、お母さんは僕に学校でどんなことがあったかとか、話を振ってくれた。だが疲労が溜まりに溜まっているときは、話す元気もないみたいだった。「食器洗いは、僕がするよ」と気を利かせても、黙って首を振る。やっと口をきいたと思ったら、「寝なさい」と促すのだった。

 お母さんは今、どうしているのだろう。僕がいなくなった世界で、なにを思っているのだろう。ひとりで黙ってご飯を食べて、寂しい背中で食器を洗っているのだろうか。

 なんだか、考えたくなかった。考えると、前を向けなくなりそうだ。

「アルロ、洗い場はどこ? 借りてもいい?」

 魔道具を作っているアルロに、声をかける。と、アルロの目がカッとこちらに向いた。ぬっと細い手が伸びてきたかと思うと、僕の鼻先で止まり、稲妻のような青い光が弾け出る。

「うわあっ!」

 驚いて肩を竦めると、手に持っていた器がガチャッと跳ね上がり、空中で静止した。アルロの放つ青く透明な光に包まれたかと思うと、数秒後、僕の手のひらに戻る。しばし、なにが起こったのか理解できなかった。だがアルロの目の光が明かりになって、器がきれいになっていることに気づく。

「魔導でこんなこともできるんだね。便利だな」

 仕事を終えて帰ってくるお母さんも、こんな風にできたらきっと楽だった。

 きれいになった器は、アルロが掴んでどこかへ持っていった。本人は一歩も動かず腕をぎゅんぎゅん伸ばして物を移動させるので、魔族でない僕は思いも寄らない動きに呆気に取られる。

 驚いているのは、イリスも同じだった。毛布から顔を出して、目をぱちくりさせている。

「魔族って、むちゃくちゃな動きをするのう……。あのアルロという魔族は、ツバサ殿たちの知り合いなのか?」

 そういえば、イリスとアルロは初対面なのだった。

「うん。以前にも魔族の里に来たときに、お世話になったんだ。僕に杖を作ってくれた人だよ」

 イリスに紹介してから、僕も毛布を体に巻き付けた。会話を聞いていたアルロが、仕事をしながら尋ねてくる。

「杖、調子どうカ?」

「ああ、それがね。もしかしたらすごい力があるかもしれない!」

 僕は毛布の中でごそごそとリュックサックのポケットを探った。アルロに貰った杖を取り出し、毛布の外へと突き出す。

「襲ってくるマモノに羽根を振りかざすと、マモノが大人しくなるみたいなんだ。フィーナが言うには、マモノを傷つけずに落ち着かせたいっていう僕の思いが形になったんじゃないかって」

 興奮気味に話す僕を、アルロは静かに眺めている。

「間違いナイ、と、思ウ。意志が形にナル杖、そういう意味。アルロ、マサにそういうの、作ッタ」

 アルロは話しながらも、魔道具を作る手を動かしていた。

「銀世界グマと遭遇したとき、アルロ驚イタ。ツバサ、怯えテ、戦おうとシナイ」

 前回この里に出向いたとき、大きなクマのマモノに襲われた。僕はアルロに杖を使うよう促されるまで、その発想がなかった。

「戦わないと追い払エナイのに、ツバサ、戦わナカッタ。ツバサは勝とうとシナイ。そういう人」

「そういう人の意志は、白く柔らかい羽根の形をしてる、と。そう言いたいのかの?」

 口を挟んできたのは、黙って聞いていたイリスだった。アルロはイリスの方に目を向け、また作業に戻った。

「ココロに形があるとスレバ、そうかもシレナイナ」

 杖を作ったアルロ自身が、間違いないと言うのだ。ならばやはり、この杖はチャトが考えたとおり、マモノを落ち着かせる能力がある。

 戦いを避けることは、情けないのかもしれない。だけれど、これで仲間もマモノが傷つかないのなら、僕はそれがいちばん望ましい。

「その娘、新シイ友達カ」

 アルロの目が、暗さに慣れた目には眩しい。イリスは目を細めていた。僕は杖をしまいながらこたえた。

「この子はイリス。竜族なんだって」

「竜族、滅亡したダ」

 抑揚のない声で、アルロが返してくる。イリスがすかさず言い返す。

「それはもう聞き飽きた! 竜族はたしかに滅亡に追い込まれたが、種を後世に保存するためにコールドスリープさせられていた生き残りがおるのじゃ。それが私。使命を背負った誇り高き竜族じゃ」

 まくし立てられたアルロは、無言でイリスを見ていた。イリスがひと頻り熱弁し終えると、アルロが僕の方に顔を向ける。

「竜族ナラ、竜魔導も使えるノカ」

「うん、そうなんだ。イリスが本当に竜族で、本当に竜魔導を使えるんなら、アナザー・ウィングを再製できる」

 僕は改めて、考えを話した。

「竜魔導には竜が必要らしいから、これから竜を探さないといけない。まだ道程は長いけど、先が見えてきたよ」

 竜はどんなところにいて、こちらに協力してくれるのか。竜魔導というものはどんなものなのか。分からないことはまだまだあるけれど、理屈の上では解決策が見えつつある。

「アナザー・ウィングは、竜魔導の魔力を、魔族が作った腕輪に込めたものだったよね。その器になる腕輪は、アルロ、君が作ってくれる?」

 尋ねるとアルロは、作業をする手を一旦止めた。青白い光が、暗い工房にぼんやりと満ちている。アルロは再び、手元の鉱石に向き合った。

「イイノカ? アルロ、鈍臭いカラ、腕輪作るの失敗スルかもシレナイ」

「たしかにアルロはちょっとそういうとこあるけど、でも僕は、アルロが作ってくれたら嬉しい。忙しかったら、無理にとは言わないけど」

「アルロ、自信ないダ」

 鉱石を弄りながら、アルロはぽつぽつと話した。

「デモ、ツバサがそう言ってクレタ、アルロの自信ニナル。作れるように、ガンバる」

「ありがとう!」

「腕輪デキタラ、魔道具の出荷と一緒ニ、鳥で輸送スル」

 竜魔導は、イリスが使えるという。アナザー・ウィングの器となる腕輪は、アルロが作ってくれる。元の世界へ帰る材料が、少しずつ揃いはじめている。

 同じように考えていたようで、イリスが口角を上げた。

「ふむ、あとは私が空間転移の竜魔導を勉強して、そして竜が捕まればよい。よかったのう、ツバサ殿。この私に出会った奇跡のお陰で、アナザー・ウィングは目の前じゃぞ!」

 材料は揃いつつあるが、イリスの魔導がいちばん心配だ。堂々としている彼女だが、実際に竜魔導を使った経験も、見たこともないというのだ。

 だが今は、自称とはいえ唯一の竜族であるイリスに、賭けるしかない。

「竜ガ生息スルのは、流星の霊峰ダケ。ココから南西に進んだ、山脈のいちばん高いトコロ。あの山は、霧の山脈の中デモ、最も険シイ」

 アルロが鉱石を加工しながら話す。イリスが毛布の中でもぞもぞと姿勢を変えた。

「うむ。あまりの切り立っておるから、運び鳥も出入りできなかったほどじゃ」

 一度まばたきをして、彼女は毛布に顎をうずめる。少しうつらうつらしている。

「かつて竜族が栄えていた時代、竜族は他種族と関わらず自給自足の生活をしておった。外部とは殆どやりとりがなかった。私も……眠りから覚めて初めて……外の世界を見た……のじゃ……」

 もう一度、イリスが目を閉じた。今度はまばたきではなく、そのまま膝を抱いて眠りに落ちていく。僕はその様子を横で眺めていた。アルロはまだ、作業に没頭している。

「陸の道は険しいカラ、運び鳥、出入りできナイ。とはいっても、空運び鳥ダッタラ、行けルかも。空運び鳥、最近生まレタ種類のマモノだカラ、まだ試してナイけド」

「空運び鳥って、有人飛行はだめなんじゃなかった?」

「安全面、気をつければヨロシ」

 身体を持たない魔族だからだろうか。アルロは結構、こういうところは雑である。

「魔道具、鳥族の谷に出荷スルとき、空運び鳥、余分に呼んでオク。ツバサたち、それに乗るヨロシ」

「またカイルさんに会ったら叱られそうだなあ」

 苦笑で返して、毛布の中で蹲る。僕もイリスに釣られてうつらうつらと眠りに落ちた。


 *


 目を覚ました頃には、もうチャトもフィーナもイリスも、起きて出かける支度をしていた。食べて眠って元気になったチャトが、毛布を肩にかけた格好で僕の前に立っている。

「お寝坊だな。アルロが空運び鳥を呼んでくれるっていうから、行くよ」

「もう!?」

「早く竜に会いたいじゃん! ここにいたって、寒いしさ」

 僕の肩を叩いて急かしてくる。イリスがアウレリアを脱走したときもそうだったが、チャトはいつも遠足みたいに楽しそうである。

 僕も久しぶりに充分に眠って、体力を回復した。すぐに跳ね起きて、工房の外で待っていたアルロの元へ駆け出した。アナザー・ウィングに近づいてきた実感が、僕を掻き立てる。

 その後、アルロの案内で木々も凍る森を抜け、切り立った崖の真下に着いた。空はほんのり赤い。この世界の、昼の空の色だ。

 アルロが空中に向かって合図をすれば、空運び鳥の影が五つ、舞い降りてきた。爆風で足元の砂利や雪を吹き飛ばし、バスケットを持った鳥が、五羽着地した。

「なんじゃ、この鳥!?」

 空運び鳥を初めて見たイリスはおののいていたが、一度で慣れたチャトは悠々とバスケットに乗り込み、フィーナもその隣の鳥に身を預けた。アルロが別の一羽のバスケットに魔道具を積み込んでいる。

「そっちの四羽ニハ、南西に向かウように指示シタ。鳥も流星の霊峰行くの初メテだから、漠然と、方向ダケ」

 アルロが抑揚のない声で言う。

「方向変えタイときや、下りタイとき、鳥に言うダ。空運び鳥賢いカラ、言葉分カル」

 話すアルロを横目に、僕も恐る恐る、バスケットに足を踏み入れる。

「ありがとう。行ってくるね」

 バスケットの中から身を乗り出して、アルロに会釈する。アルロは僕の方に瞳を向けた。

「腕輪、頑張って作ル。期待シテ待っテロ」

「うん。よろしくね」

 僕が言い終わるや否や、空運び鳥が羽ばたいた。大きく宙を掻いた風切り羽が、粉塵を撒き散らす。

「しっかり捕まるダ」

 アルロの声は、羽音に掻き消されてほとんど聞こえなかった。

 バスケットが浮く感覚がする。空運び鳥が舞い上がり、崖の側面に沿って急上昇していく。絶叫マシンさながらの加速度で、気を失いそうになる。

 風を切る轟音の隙間から、チャトのハイテンションな歓声とフィーナの悲鳴が聞こえた。僕はバスケットの縁を両手でがっしり掴んで、頭が底に着くくらいに縮こまっていた。この鳥がうっかりバスケットを離したりしたら、間違いなく死ぬ。やっぱり、僕は空運び鳥の有人飛行は反対だ。

 しばらくすると、真上からの空気抵抗がなくなってきた。今回はなんとか、気を失わずに済んだ。慎重に顔を上げてみて、思わず、おお、と声が出る。

 視界に広がる、薄紅色と黄色の斑の空。バスケットは、山脈の木々が親指の爪ほどに見えるくらい、高く浮遊していた。あまりの高さに、脚がそわっとした。

 風圧で前髪が巻き上げられる。空運び鳥は悠々と翼を広げ、ほとんど羽ばたかずに空を切っている。バスケットは、空気を孕んで後ろに傾いていた。

 高い空に霧はない。しかし真下には、霧に包まれた山脈の大地が広がっている。白いもやの隙間から赤茶けた岩肌や痩せた木が覗いていた。

「ツバサー! こっちこっち」

 右から名前を呼ばれて顔を向けると、チャトがバスケットの縁から片手を離してこちらに振っていた。

「危ないよ! ちゃんと掴まって!」

 スリルを楽しむチャトを叱って、僕は慎重に首を動かした。チャトがいるのと反対側の空に、空運び鳥が二羽、飛んでいる。僕と同じようにバスケットから顔を出すフィーナと、頭を引っ込めてバスケットの縁を握っているイリスだ。

「大丈夫ですか? 限界だったら、無理せず下りてくださいね」

 フィーナがイリスを気遣うが、イリスは引っ込んだまま返事をしない。

 流星の霊峰の場所を分かるのはイリスだけなのだから、イリスが鳥に方向指示を出してくれるのがいちばんありがたい。だが怖くて下を見られない気持ちには、僕も心から同意だ。自分がしっかりバスケットに掴まっていたとしても、鳥が足の指を開いてしまったら真っ逆さまである。怖くて当然だ。

「わ、私だけ下りるわけにはいかぬ」

 強がりなイリスの震え声が、風の隙間から微かに聞こえた。

「流星の霊峰が近くなれば、竜の遠吠えが聞こえてくるはずじゃ。どうかすれば、飛んでる竜が見えるかもしれぬ」

「それじゃ、よーく耳を澄ませて探ってみるよ」

 チャトが楽しそうに返し、しばし目を閉じて、またイリスの方を向いた。

「竜の遠吠えってどんな声なの?」

「竜の種類によって声は違う」

「この、ゴオオーって音、そう?」

 耳のいいチャトには、なにか聞こえているようだ。僕には風の音しか拾えない。チャトが風で裏返った耳をぱたぱたさせている。

「だんだん近づいてきてるよ」

 風圧が強くなっているのを感じる。目を開けていられない。

「あっ、私にも聞こえました」

 フィーナがこちらに向かって言った。

「でもこれ、遠吠えというよりは……」

 彼女が言いかけたとほぼ同時くらいだろうか。僕の頬にぽつっと、冷たいものが当たった。

「雨?」

 ぽつりぽつりと、その水滴は間隔を短くしていく。赤っぽい空が、うっすら黒ずんできた。夜が近い夕焼けみたいな色に変わっていく。

 鳥が大きく羽ばたいた。バスケットがぐらつく。雨の中でも、空運び鳥は飛べるのだろうか。そろりと頭を上げると、鳥のお腹とくちばしが見えた。心做しか、高度が下がってきている。

 鳥が傘になっているとはいえ、正面から雨が吹き込んでくる。バスケットの中に雨水が溜まりはじめた。

 雨はみるみる強くなった。バスケットの縁が濡れて、手が滑りそうになる。体温と血の気が引いていく。不安が胸の中に増殖する。

 チャトがなにか叫んでいる声が、遠く途切れている。もしかしたら、チャトが聞いた音は、この雨や乱気流の慟哭だったのではないか。

「グルル……」

 僕の真上で、空運び鳥が喉を鳴らす。また、ガクッとバスケットが揺れる。

 雨がスモッグになって視界を奪われる。誰がどこにいるのか、まるで見えない。バスケットに吹き込む雨で、体はずっしり重くなった。流星の霊峰どころではない。

 突如、体がふっと浮いた気がした。

「えっ?」

 なにが起きたのか、理解できなかった。ただ上空には、足の指を開いた空運び鳥のお腹があった。真上にあったはずの羽毛が、あっという間に小さくなっていく。加速度は上がっているはずなのに、スローモーションに感じる。

 雨の中に霞んでいく鳥の影は、僕を置いて高い空へ消えていく。いや、消えているのは落ちていく僕の方なのかもしれない。

 こういうとき、なぜか冷静になる。

 雨の中の飛行は、空運び鳥とって負担だったのだ。飛ぶだけで大変なのだ。握っていたバスケットなど、離してしまっても仕方がない。

 そうだよね、ごめんね。

 バスケットもろとも落下する僕は、消え掛けの意識の中で鳥に謝った。


 *


 ここはどこだろう。

 僕はひとりぼっちで、真っ白な空間に取り残されていた。背中にリュックサックはない。

「チャト、フィーナ」

 僕は小さく呟いた。

「イリス」

 僕を見つけてよ。

 でも、誰の返事もなかった。

 誰かがいるような、いないような。声が聞こえるような、聞こえないような。どこからか見られている気がするのに、人の気配がない。

 ここはどこだろう。学校だろうか。それとも、お母さんが戻らない日の僕の家だろうか。

 いつもそうだった。傍で監視されているような視線と、誰も僕を見てくれない寂しさが、矛盾しているくせに同居する。

 そして、ここから一歩も歩き出せない。なにも変えられない。それが僕だ。

 真っ白な世界に蹲って、目を閉じる。

 僕の居場所はどこだったのだろう。アナザー・ウィングで元の世界に帰りたいと思ってはいたけれど、元の世界なんてそれほど居心地のいいものでもなかった。イカイには、僕に寄り添ってくれるチャトとフィーナがいる。イリスだっている。リズリーさんは僕を心配してくれるし、駆除班のふたりも、駆けつけてくれる。涼風の吹く森の獣族や精霊族、魔族のアルロも、鳥族のカイルさんも。エーヴェの人たちや、毛族も。出会ってきた人たちは、文化は違えど皆いい人たちだった。

 ここが僕の居場所だったらよかったのに。だけれど何度も死にかけるのは、結局余所者だからなのかもしれない。世界が僕を排除しようとしているのだ。

 目を閉じていると、微かな音が鼓膜を擽った。

「……ら、くん」

 夏の風で揺れる、風鈴みたいな澄んだ声だ。

「神楽くん」

 今度は少し、はっきりと聞こえた。

 顔を上げると、ミルクティーのような明るい色の髪がきらっと艶めいていた。

「天ヶ瀬さん……?」

 セーラー服に身を包んだ、可憐な少女だ。細い脚で真っ直ぐ立って、小さくしゃがむ僕を見下ろしている。

「……なんで、君なのかな」

 僕は膝を抱えて自嘲的にぼやいた。

「僕と天ヶ瀬さんは、そんなに親しくないのにね。なんで、今会いに来てくれたの?」

 どうしてか、この世界に来てから、君の姿を捜している気がする。君に導かれている気がする。

「こんなところで寝ちゃだめ」

 涼しい声が僕を窘める。

「風邪を引くよ。学校休むの?」

 だけれど僕は、座り込んだまま立ち上がれない。

「もう、怖いよ」

 学校も嫌だし、家にいてもひとりだし、なにもかもから逃げ出したい。

「立ち止まるの?」

 天ヶ瀬さんの澄んだ声が、白い空間に溶ける。

「どうして、戦おうとしないの?」

 同じ問いかけを記憶している。

 あのとき僕は、なんとこたえただろうか。

「どうして、かな。怖いからかな。もう嫌なんだ。怖い思いするの」

 立ち向かうと、返り討ちに合う。だったら耐えるか、逃げた方がずっといい。天ヶ瀬さんの目は、見られなかった。彼女はしばらく、無言で僕の前に佇んでいた。

 数秒後、静かな声が発された。

「あなたのために、戦おうとしてくれる人がいるのに?」

 言葉が、稲妻のように僕の胸に突き刺さる。

 僕のために、戦おうとしてくれる人。

『俺も行く!』

 好奇心でどこまでも一緒に来てくれるチャト。

『ツバサさんが、優しいからですよ。放っておけない人柄なんです』

 見守るように傍にいてくれるフィーナ。

『竜族は魔力が長けておるから、勘が鋭いのじゃ。おぬしらがおれば大丈夫じゃと、分かるのじゃ』

 我が強いけれど、僕らをしっかり信じてくれるイリス。

 僕がひとりぼっちにならないように、遅くまで働く、お母さん。

「戦う」とは、必ずしも攻撃だけを意味するわけではない。逆境に立ち向かい、めげずに笑うことも「戦っている」と言えるのならば。

「それでも、僕は戦いたくないけど」

 僕はゆっくりと、頭をもたげた。

「立ち止まりたくもない……!」


 *


 ハッと視界が拓けた。

 いつから夢を見ていたのだろう。雨の音が聞こえる。冷たい岩の感触が、体に突き刺さっている。

 そして目の前には、宝石みたいに透き通る鳶色の瞳があった。淡い茶色の濡れた髪が、僕の胸の上に垂れ下がっている。

「うわっ!?」

 思わず跳ね起きると、瞳の主はすっと顔を離した。

「気がついたのね。死んでるのかと思った」

 夢の中で聞いたのと同じ、涼やかな声だ。

「あま……」

 途中まで名前を言いかけた僕は、一旦呑み込んで、その少女の姿をまじまじと眺めた。

 ミルクティー色の髪に、鳶色の瞳。胸に黒いリボンを結んだ、深い緑色のエプロンドレス。泥が跳ねて、汚れている。

「また会ったね」

 彼女が耳に後れ毛をかける。

 雨の音、冷たい岩、フランス人形のような少女。

 僕は目をぱちくりさせた。

「君の、名前は」

 くらくらする頭の中で、海辺で聞いた名前を反芻する。

「ミグ」

 どうしてか、この世界に来てから、君の姿を捜している気がする。君に導かれている気がする。

 少女は死んだ魚の目をして、僕を見据えていた。

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