19 海中トンネル

 日が高くなるにつれ、毛族は木陰の暗闇から一歩も動けなくなってしまった。どうやらまた夜になるまで、その場所から動けないようだ。

 密林について詳しく聞くと、飲める水がある場所や、危ないから近づいてはいけない場所などを教えてくれた。

 リュックサックに入っていたエーヴェのお土産を食べて、ひと息つく。ついに食糧が底をついた。幸いこの島には食べられるものがあるとはいえ、リュックサックが軽くなった絶望感は筆舌し難いものがあった。

 お腹を膨らませたチャトが、好奇心を取り戻した。ちょこまかと歩き回って、密林の奥へと進んでいく。

「伝言鳥が来るかもしれないから、浜辺の傍にいた方がよくない?」

 僕の提案を無視して、チャトは手招きしてきた。

「とりあえず、水のある場所は見ておこうぜ。こっちだって言ってたよね」

 毛族の口頭の案内に従って、密林の散策をはじめる。

 毛族が動けなくなる程度には光が差すものの、それでも密林は木の影で薄暗い。フィーナが魔導で明かりを足す。

「飲める水がある場所って、この地形から推測するに川ですよね、きっと」

 フィーナの言葉で僕は、教科書で見たアマゾン川を思い浮かべた。この島の規模は分からないが、これほど樹木が生い茂るのだから豊かな水路があることは想像に難くない。

 イリスが複雑そうな顔で唸る。

「毛族に飲める水が、私たちにも無害とは限らぬぞ」

「体が違うから、体質が違うことはあるかもしれませんね。少なくとも、毛族がごちそうしてくれた食べ物は、私にもツバサさんにも毒ではなさそうでしたが……」

 フィーナが語尾を濁す。僕も、絶対に大丈夫とは言いきれない。いずれにせよ、様子を見てみないとなんとも言えない。イリスは自身の体を眺め、唇を尖らせた。

「まあ、最悪水を飲めなくても水浴びができればよい。毛族の蔓が巻きついたところが、まだベトベトしておるのじゃ」

「それは、そうですね」

 フィーナも両手のひらを顔の前で広げた。僕もフィーナも、毛族のもてなしを受けたときに粘液まみれの食材を手に持って、手がベタベタなままなのだ。

 ふいに、ずっと黙っていたチャトが耳を立てた。

「水の音だ」

 その音を聞き分けてからは、チャトが駆け足で先頭を進んだ。彼の耳を頼りに歩くと、やがて視界いっぱいの広い川に辿り着く。

 幅は十メートルくらいだろうか。やや茶ばんだ水が結構な速さで流れている。濁っていてよく見えないが、相当深い様子だ。多分、学校のプールくらいの嵩はあるだろう。

「あったね。マモノと遭遇せずにここまで来られてよかった」

 安堵のため息をつく僕の横で、イリスが水面に顔を近づける。

「ふむ、ちょっと濁っておるな。でもまあ問題ないじゃろう」

 飲むのかと思いきや、イリスは突然服を脱ぎはじめた。

「うわあ! なんだよ急に!」

 目を背ける僕に、イリスが気だるそうな声を出す。

「急でもなんでもなかろう。さっき言ったとおり、なにより先にこのベタベタを洗い流したいのじゃ。う、冷たっ!」

 躊躇を見せないイリスの仕草を、フィーナが眺めている。

「気持ちは分かりますけど……。流れが速いし深いし、水棲マモノが潜んでいてもおかしくないですよ。気をつけてくださいね」

 窘めながら、フィーナは川の淵にしゃがんで手を洗いはじめた。

 僕もフィーナに倣って、イリスがいない方に顔ごと背けて手を濯ぐ。水はかなり冷たかった。

「イリスが気にしてなくても、こっちが気まずいんだよなあ」

 発熱する木が川を避けているせいだ。浜辺で感じたのと同じくらい、空気が冷たい。水もキンキンに冷えている。指が悴んで、あっという間に感覚がなくなった。

 目線を斜め上に飛ばしていると、川の上流方向に岩肌が見えた。どうやら岩山があるみたいだ。川の水源はあの岩山なのだろうか。チャトも同じ岩を見上げている。

「あの岩山を登ったら、遠くまで見えるかな。霧が薄ければ、大陸が見えるかも。行ってみようよ」

「えー、毛族のいる付近からあんまり離れない方がいいんじゃない? なにがあるか、どんなマモノがいるか分かんないし」

 僕が渋っても、チャトの好奇心は止まらない。

「それじゃつまり、まだ知らないおいしいものもあるかもしれないぞ! どっちにしろ助けが来るまで退屈だもん。探検しようよ」

「そうじゃの。岩山はすぐそこじゃ。そんなに危なくもなかろう」

 いつの間にか服を着たイリスが、会話に参加してきた。洗濯した服を、フィーナに魔導で乾かしてもらったようだ。

「大概のマモノは、水を嫌う。この川沿いを歩けばマモノとの遭遇も少ないはずじゃ」

「あの岩の方から水が出てるなら、あっちの方が水が澄んでるかも!」

 チャトはもう目をきらきらさせている。

 昨日の毛族との出会いとは逆で、今度はチャトとイリスが先を調べに行ってしまった。僕はちらとフィーナに目配せする。

「はぐれない方がいいよね」

「あんまり遠くに行かないように、見張っていないといけませんしね」

 フィーナも腰を上げ、先へ駆け出したチャトとイリスを追いかけた。僕もため息をつき、彼らの背中に続く。

 チャトとイリスの言うとおり、高いところからこの島や周りの海を俯瞰してみるのはいいかもしれない。

 空気が冷えた川沿いを数メートルも歩くと、ドドドドと分厚い水音が聞こえてきた。見れば、岩肌を滑るように水が落ちてきている。

「滝だ」

 僕は少し、駆け足になった。

 岩肌の足元まで、すぐに辿り着いた。

「わあっ! すっげー。川が縦になってるぞ」

 チャトが首をもたげて滝を見上げている。滝を初めて見たらしく、興味津々だ。フィーナも珍しそうに滝壺を覗き込み、イリスが水面に手を伸ばす。

「む……? 変わった水流じゃの」

 僕も、首をめいっぱい上に向けて滝の流れる岩を眺めた。傾斜はほぼないと言っていいくらい、急な岩山だ。苔だらけで足場はない。高いところから島や周りの海を俯瞰したかったが、これでは登れそうにない。だというのに、チャトが岩肌の窪みに足を乗せはじめた。

「いちばん上まで見に行こう。どうやって水が出てきてるのか気になる」

「危ないよ! 下りておいで」

 下で慌てる僕を尻目に、チャトはぴょこぴょこと器用にロッククライミングしていく。こうして見るとまさに獣だ。

「平気だよ。ツバサもおいでよ」

「登れないよ、こんなところ」

「怖がりだな! ちょっと滑るけど大丈夫……わあっ」

 調子づいて僕を煽っていたチャトだったが、一メートルくらい登ったあたりで足を滑らせてボチャッと滝壺に落下した。水飛沫が僕やフィーナ、イリスの顔まで飛んでくる。

「言わんこっちゃない。高さがなかったからよかったけど」

 僕は呆れながらチャトが浮かんでくるのを待った。滝の飛沫が水面を歪めている。

 数秒待って、僕はフィーナとイリスと顔を見合わせた。

「戻ってこないね」

 溺れているのなら、もっと水がバシャバシャするはずだ。しかし滝壺の飛沫は淡々と同じ強さで撥ねるだけで、もがくチャトの姿は見えてこない。

 どくんと、心臓が締まった。チャトの身体能力なら大丈夫だと過信していたが、もしかしたら、服や尻尾が水を吸って浮かんでこられないのかもれない。或いは下にマモノがいて、引きずり込まれたのかもしれない。

 フィーナが真っ青になる。イリスも、無言で水面を睨んでいる。

 僕は咄嗟に、水面に足を突っ込んだ。

「ちょっと見てくる!」

 しかし、その直後僕は足に違和感を覚えた。

「……あれ?」

 足首から脛の辺りまでは、たしかに水の流れがある。でも足の裏をつけているところは、川底ではない。乾いている。

 まるで水が流れているのは表面だけで、下の方には別の空間が広がっているかのようだ。

「そんなバカな」

 川が浮かんでいるなんて有り得ない。僕はしゃがんで片手を水面に突っ込んだ。手のひらが水を突き抜け、乾いた空間に届く。ザバザバと水流がぶつかるのは、手首から肘の下の間だけだ。やはり、水面が数センチ浮いている。そういえば先程、イリスが水に手を入れて変な顔をしていた。彼女もこの感触に驚いたのだ。

 更に周囲を足で探る。滝壺に近づけば近づくほど、川は深くなっていく。しかし水の厚みに比例して、乾いた空間も広くなっていく。僕は意を決して、深いところへ頭まで潜った。パチャッと顔に水が触れたのは一瞬で、当然のように目を開けられる。呼吸もできる。

 川底は、白い石がコロコロと転がった斜面になっていた。上を見ると僕の頭上スレスレのところを、川が流れている。

「あ、来た来た! すっげーぞ、ここどうなってるの?」

 無邪気な声に振り向くと、全身びしょ濡れのチャトが駆け寄ってきていた。水が音を吸収するようで、声はふわんと不思議な響き方をした。

「チャト、無事だったんだね」

「頭ぶつけたけどね。ねえ、なんで川が浮いてるんだ? 川が縦になってたのもすごいけど、川の下にこんな空間あるのもすごいな!」

「滝はともかく、この空間はなんなんだ?」

 水の天井が光を通し、白い石にクラゲみたいな模様を作っている。こんな、物理法則を完全に無視した場所がどうやって存在しているのだろう。

 そういうことをあまり考えないチャトは、しぼんだ尻尾をぶんぶん振り回していた。

「ちょっと探検してみたぞ。あっちの方、どんどん深くなってく。岩山の下まで洞窟みたいになってるぞ」

 チャトが指さしたのは滝の真下、岩山の足元だった。滝壺の裏の岩山にはぽっかり穴が広がり、乾いた空間を呑み込んでいる。

「ほらほら、通れるじゃろう」

「待ってください、流れが速いですよ。危ないです」

 背中の方からイリスとフィーナの声がした。ふたり分の足だけが、水の天井から突き抜けている。彼女らも川を突き破り、川底に下りてきた。一度は全身が水に触れるため、びしょびしょである。

 下りてきたフィーナは川底の空間に目を見張り、イリスも新鮮そうに辺りを見回した。僕はなにかと知識の豊富なフィーナに投げかけた。

「これ、どうなってるの?」

「私もこんなの初めて見ました」

 川が頭上を流れているという謎の景色が、僕らを包んでいる。

「でも、強い魔力を感じます。水を操る魔導を応用して、巨大な泡として、この空間を作っているのではないでしょうか」

 魔導で意図的に作られているのか。この島には毛族しか民族がいないようだから、この場所を作ったのも毛族だろうか。毛族が魔導を使えるとは考えていなかった。

 チャトが無邪気に石の上を駆けていく。

「岩の中、見てこようよ」

「やめようよ、なにがあるか分からないよ! あんまり遠くに行かない方がいいよ」

 僕が尻込みするのも無視して、チャトは川底の洞窟へと潜っていってしまった。心配したフィーナが彼を追いかけていく。

 僕はちらとイリスに目配せした。少しは躊躇するかと思ったのだが、イリスも好奇心を剥き出しにしている。

「ふむ、そうじゃの。折角珍しい島に来たのじゃ、探検してみるのもよかろう」

 イリスもチャトとフィーナと共に洞窟へと入っていく。取り残された僕は、自分だけ引き返すわけにもいかず、慎重に彼らの後についた。

 岩山の中は、洞窟が延々と続いていた。人がふたり並んで歩けるくらいの幅で、天井は低く、やっと屈まずに進めるくらいだ。足元は濡れておらず、滑りもしない。息もできる。

「寒いですね」

 フィーナがため息のような声とともに腕を抱いた。この空間に入るために一度全身が濡れた上に、洞窟の中は光が届かず、暗くて冷えきっているのだ。彼女が指を立てると、周囲が明るくなった。同時にほんの少し、温かくなる。魔導の光が、僕やその先のチャトとイリスを照らす。

「ねえフィノ、この空間も魔導で作られてるって言ってたよね」

 チャトが先をキョロキョロ見ながら尋ねる。

「川を押し上げて下に通路を作れるんなら、海の下だって歩けちゃうのか?」

「どうでしょう、考えたこともありませんでした。ただ、水を浮かせて固定するだなんて、どの魔導をどう使えばいいのか分かりません。水の魔導の応用かとは思いますが……なんにせよ、かなりの魔力が必要だと思います」

 フィーナもしげしげと洞窟を見渡していた。フィーナの光に当てられて、岩壁がはっきりと見える。なんだかいつの間にか、壁の質感が変わった気がする。

 地面がだんだん斜めになっている。この地下トンネルはどこまで続いているのだろう。

「あっ、出口があるよ」

 先頭のチャトが指をさした。遠くに小さな光の粒が見える。僕らは少しだけ早足になった。その光に向かって、進んでいく。

 やがてチャトが出口まで辿り着き、同時に叫んだ。

「うわっ! 危ない!」

 仰け反る彼の背後に、フィーナとイリスも追いつき、僕も後ろから覗き込む。見ると、洞窟の向こうには、真っ青な景色が広がっていた。足場は、ない。

「これ……海の中じゃない?」

 僕は岩穴から顔を出した。岩山の中の洞窟は、島の地下を貫通して海まで続いていたようだ。

 水棲マモノというのか、小さな魚のような生き物が傍を通り過ぎていく。下を向いても、底は見えなかった。深さがどれほどあるのか、目視では確認できない。ただただ、深海の闇がどこまでも沈んでいる。

 フィーナが出口の向こうへと手を伸ばした。

「海水がこの洞窟に流れ込んでこない。ということは、川底が歩けるようになっていたように、海にも空気のある空間が続いてるんですよね」

「じゃ、ここから出ても海に沈んじゃうわけじゃないのか」

 チャトが興味本位でぴょこっと出口から飛び出す。僕はびっくりしてチャトの手を掴もうとした。しかしチャトの体は沈まない。まるで水中に立っているかのように、トコトコ歩いている。彼はパントマイムみたいに周りをぺたぺた触りはじめた。

「目には見えないけど、透明のトンネルがあるみたい」

 川底の巨大な泡は、どうやら海にまで伸びていたようだ。しかもここからは、足場まで透明である。

 イリスもチャトの方へと足を踏み出す。

「本当じゃ。歩ける。一体どこまで続いておるのじゃろうな」

「こうすると海を触れるよ」

 チャトが恐れることなく透明の壁に手を突き刺す。透明のトンネルは泡のように爆ぜるでもなく、ただチャトの手だけを貫通させた。思えば、入ってきたときも膜上になった川を破ったのだから、案外簡単に境界を破れるのかもしれない。

 僕はまだ洞窟から足を踏み出せずにいる。

「足が床を突き破っちゃうんじゃない?」

「今のところは、そんなことないけど」

 怖いものなしなチャトが、強めに足踏みをしてみせる。勢いづいて片足が床を破ったらしく、足がザブンと沈み、チャトは慌てて足を引き上げた。

「危な! その気になれば破れちゃうみたい。危うく海の底に引き込まれるところだった」

「慎重に歩いた方がよさそうじゃの」

 イリスがよろつくチャトを支えている。フィーナまで海へと繰り出し、興味津々に周辺に手をかざしはじめた。

「どこからが海と通路の境界なのか、目で見えない。道がどう続いているのか、全然分かりませんね」

 僕はまだ、その目に見えない道が恐ろしくて洞窟から出られなかった。

「そろそろ毛族のところへ戻ろうよ。どこまで行くつもりなの?」

「行けるとこまで」

 チャトが即答する。僕は岩壁に寄りかかった。

「そのトンネルがいきなり爆ぜて消えたら、あっという間に溺れちゃうよ」

「そうなるとは限らないだろ。怖い怖いって言ってたら、どこへも行けなくなっちゃうぞ」

 チャトの無邪気且つストレートな言葉が、ぐさっと僕に刺さる。多分本人は深く考えていないのだが、臆病な僕にはいちばん痛い台詞だ。

「僕がそんなに勇敢じゃないの、チャトはわかってるでしょ!?」

「ツバサがどう思うかより、俺はこの先が見たいから行く! それだけだよ!」

 好奇心がなにより前面に出てくるチャトは、気の向くままに駆け出していった。フィーナとイリスも行ってしまう。僕はひとり悶々と葛藤してから、そろりと出口から海へと踏み出した。

 不思議な感触だ。足元はたしかに支えられているのだが、どこか浮遊感がある。パンパンに膨らんだ風船の上を歩いているみたい、というのだろうか。

 このトンネルがなんなのか、毛族に確認してから進んだ方がいいと思うのだが……。チャトが飽きるまでは、引き返せない。


 *


 体感で、十分は歩いたと思う。海中の透明トンネルは、まだ続いていた。

 周辺は真っ青な海に囲まれている。カラフルな魚型のマモノが上にも下にも泳いでいる。海上から降り注ぐ光が薄い板のように射し込んでいた。

 無数の魚が群れをなして、前を横断した。このトンネルの壁に当たる前に魚たちは軌道を変え、トンネルを避けて突っ切っていく。魚の群れに呑まれるような光景に、僕はおお、と小さく感嘆した。

「このトンネル、川底の空間の延長だよね。それじゃ、これもやっぱり魔導でできてるの?」

 フィーナに尋ねてみると、彼女は左の手のひらで壁をなぞりながら、頷いた。

「ものすごく強大な魔力がないと、こんな道は維持できないと思いますが……」

 壁に触れるのは、こうしていないと道がどちらに伸びているかわからないからだ。トンネルは急な坂こそないが、道がくねくね曲がっている。下手に直進だけしていると、壁をぶち破って水中に放り出されてしまうのだ。

 チャトが振り向かずに会話に参加する。

「すごいなあ、このトンネル作った人は、そんな魔力持ってる人なんだ。どんな人なんだろうな」

「どのくらいなんでしょうね。メリザンドのジズ老師ならできちゃうかも」

 フィーナが言うと、イリスが目を光らせた。

「いや、きっと竜族じゃ! 竜族の竜魔導に違いない」

「あ、ああ……。竜族の竜魔導なら、できてしまうかもしれませんね」

 フィーナがたじろぐ。イリスは火がついたみたいに語り出した。

「竜族にできぬことはないからの。きっと、霧で先の見えない海の向こうを調べるために、この通路を敷いたのじゃ。竜族は常に世界を俯瞰しておるからのう!」

 竜族がよほど誇り高いようで、イリスは空想混じりに話している。半ば呆れていた僕は、ふいに毛族と出会う前に話した竜魔導の件を思い出した。

「アナザー・ウィングも作ってくれるんだっけ?」

 島に漂着したばかりのとき、チャトとフィーナが眠ってしまったあとにイリスが話していたことだ。イリスが竜族で、竜魔導を使えるなら、アナザー・ウィングは再製できるのだ。

 フィーナと、先を行っていたチャトが振り向く。

「そういえば魔族のアルロさんが、アナザー・ウィングは竜魔導でできてるって言ってましたね」

「そっか、イリスなら作れるのか!」

「うむ。まずはこの状況を脱してからじゃがの」

 イリスは自信満々に胸を反らし、ふたりが寝ていたときと同じ結論でまとめた。僕は真っ青な海を見渡しながら、考える。

 アナザー・ウィングを生み出せる竜魔導には、竜族と、そして竜型のマモノが必要だと聞いた。イリスの言うとおり、まずは元の大陸に戻ることが先決になるのだが、その後の行動も徐々に定まってきた。

「まず竜型のマモノを連れてきて、それで魔族の里にもう一度行かなくちゃ。魔力を魔道具に込めるのは魔族の技術らしいから」

「竜族本人である私も付き合わなければならぬの」

 イリスがちょっと面倒くさそうに言う。僕はイリスの真正面に回って手を合わせて拝んだ。

「お願い! 孤高の天才、最強の竜族、その末裔のイリスにしか頼めないんだ」

「仕方ないのう!」

 お調子者のイリスは、満更でもなさそうに顎を撫でる。続いてチャトも、僕らより少し先でぴょんぴょん跳ねて言った。

「竜型のマモノって見たことないから、見てみたい。寒いのはやだけど」

「イリスさん、竜魔導って具体的にはどんな方法を取るのですか?」

 落ち着いた声を添えてきたのはフィーナである。問われて、調子づいていたイリスはピタッと固まった。

「え……えーっと、魔導陣を描いて、その中央で竜の遠吠えを響かせるのじゃ。図形については、その……流星の霊峰に記録が残っておるはずじゃ」

 なんだか急にしどろもどろである。チャトが後ろ歩きで先頭を歩いている。

「さてはイリス、竜魔導使ったことないんでしょ」

「わ、私自身はたしかに使ったことはないが……! でも、誇り高き竜族である私に不可能はないのじゃ! だから大船に乗ったつもりで任せてほしいのじゃ!」

 どうやらまた、根拠のない自信にすぎないみたいだ。

「まあよい、これで私が完璧に竜魔導を使う姿を見せれば、誰もが私を竜族だと信じるほかない。今まで私を獣族だと疑っておった者ども全員、見返してやるのじゃ」

 イリスがまた堂々と胸を叩いた。眼前の真っ青な世界に、また、魚の群れが横切る。僕はイリスの話を思い出していた。

「それでさ。竜ってたしか、流星の霊峰にしかいないんだよね」

「そうじゃ。だからアナザー・ウィング再製のために竜魔導を使うとしたら、まずは流星の霊峰へ行き、竜を捕獲しなくてはならぬ」

 イリスも魚の群れに目をやる。

「竜は他の地域にはいない希少なマモノじゃ。竜族の滅亡に伴って更に数も減ったじゃろうが……きっと、まだ残っておる」

 しっとりと目を閉じ、それからイリスはまた元気に顔を上げた。

「竜にも種類があってな。火を吐くものや、水を操るものなどいろいろあるのじゃ」

 チャトが目を輝かせる。

「え、すごい! それって、魔導を使えるようなもの?」

「そうなのじゃ。竜はマモノの中で唯一、魔導を使うマモノだと考えられておる。その力を利用したのが竜魔導で、竜と竜族の民のそれぞれの魔導による全く違った呪波が発生して……」

 イリスがしたり顔で語り出す。チャトは多分半分も理解していないだろうが、楽しそうに頷いて相槌を打っていた。

 僕の方もやはり、半分も理解できなかった。魔導については、聞いてもよく分からない。でもアナザー・ウィングは魔導による産物なのだし、魔導を使えない僕でも知識くらいは頭に入れておいた方がいいのかも。そんなことを考えて、海の中の透明のトンネルを歩いていた。

 真横を大きなマモノが泳いでいる。僕がそれに気を取られて、よそ見していたときだった。

「チャト!」

 フィーナの甲高い悲鳴が耳を劈く。顔を前に向けた僕は、心臓を掴まれたみたいにどきりとした。

 後ろ歩きをするチャトの背後……すなわち、僕らの進行方向に、真っ黒な煙のようななにかが浮かんでいたのだ。

 形のない黒い煙が、ゆらゆら渦巻く。その中心には、緑色の光がぼやっと閉じ込められている。ブラックホールみたいだ、と、僕は固まる頭の端で思った。

 背後のそれに気がついたチャトが、ぴょんっと跳ね上がって、素早くフィーナの横に逃げる。

「なっ、なにこれ!」

 音もなく現れた闇の渦に、チャトは怖がるというよりは驚いていた。イリスが一歩、後ずさる。

「ここまでなにもなかったから油断しておった。こんな狭いところでマモノと鉢合わせるとはの」

 人がふたりようやくすれ違えるくらいの、狭いトンネルだ。一本道で遭遇したあの不気味なものに追いかけられたらと思うと、血の気が引く。とはいえ得体の知れないなにかに向かって突っ込んでいくのは危険だ。

 誰からというでもなく、僕らは一斉に逃げる姿勢に入った。が、しかし。

「お前ラ、なぜココにイル?」

 驚いたことに、闇の渦が言葉を発したのだ。

「えっ、喋った」

 僕は逃げ腰の体勢のまま、間抜けな反応をした。渦はうんざりした口調で続ける。

「私ノ顔を忘れたカ」

 顔もなにも、黒い気体にしか見えない。ぽかんとしていると、闇の渦はぎゅるっと回転してその範囲を拡大し、僕の身長より大きくなった。同時に、足元にひらりと裾を広げる。

 ずんぐりむっくりの、黒いマントの塊。顔らしきところには黒い気体と、緑色の丸い光。

 忘れようがない。この姿は、あの樹氷の森で出会った、あの種族だ。

「魔族?」

 見ていたら、だんだん思い出してきた。

「あっ、アルロのお師匠様!?」

「ヤット思い出したカ。私は忘れてナカタぞ」

「だって顔がない……目の色を見て思い出したけど」

 怖いマモノではないと分かって、肩の力が抜けた。びびっていたチャトも、キャッキャと駆け寄る。

「こんなところで会うなんてびっくりだよ!」

「私モダ。なぜコノ場所をお前ラガ知っていル?」

「迷い込んじゃったんだよ」

 チャトとお師匠様が話しているのを、僕とフィーナはぽかんとして見ていた。

 お互いに「なんでこんなところに」という疑問をぶつけ合うのがこんなにしっくりくるシチュエーションも珍しい。こちらが紆余曲折を経て迷い込んだのもややこしい話だし、暗くて寒い森から出ないはずの魔族が、なぜこんな海の中のトンネルにいるのやら。

 フィーナがお師匠様に歩み寄る。

「魔族は光に弱いのではなかったでしょうか? ここは海中とはいえ、光が届いてきていますよ」

「ココは特殊ナ魔力で満たされてイル。極限まで小サクなれば、体力保てるノダ」

 どうやらあの闇の渦のような姿は、そういった事情だったようだ。まさか形態変化ができるとは知らなかった。魔族の体が僕らとは全然違うのは見てのとおりだが、まだまだ分からないことばかりだ。

「ツバサ殿、こいつはなんなのじゃ?」

 イリスが僕の背中に隠れている。

「イリスは初めましてだよね。この人は魔族。僕らはお師匠様って呼んでる」

「唐突すぎるじゃろ! 海の中に魔族が現れるなど!」

 混乱状態のイリスに、お師匠様は緑色の光をぽわっと当てた。

「このトンネルは、魔族ガ作ったノダ。ダカラ、魔族以外が歩いてイルことの方がオカシイ」

「えっ、魔族が作ったの?」

 僕はその言葉を繰り返し、ハッとした。そういえばこのトンネルは、とても強力な魔力によって、空気の道ができているのだと、フィーナが言っていた。魔力がそのまま生命体になったみたいな存在である魔族なら、海を突き抜ける巨大トンネルだって生み出せるのだ。竜族が作ったのだと豪語していたイリスの方を見ると、彼女はわざとらしく目を逸らした。

 お師匠様が、じわじわと黒い煙をたてはじめる。

「海の上ハ霧で周辺ガ見えナイと、他種族カラ聞いタ。だから我々魔族、海の中ニ道作っタのダ。大陸の外の世界、研究スルために」

 煙が徐々に空中でまとまって、お師匠様はまた元の黒い渦に戻った。

「コノ道が未知ナル島に繋がっタのだけは判明してイル。タダ、魔族ハ仕事アル。ダカラ毎日担当変えて、ちょっとずつトンネルの向こうを調べてイタ」

 魔族は海の向こうを独自に調査していたというのだ。海を貫いて毛族の密林の川底まで続く、この奇妙なトンネルを作り、未知なる島へと進出していたのである。

 チャトがへえと感嘆した。

「ということは、このトンネルをずっと歩いていけば、そのうち魔族の里に辿り着くの?」

「ソウダ」

 あっさりした返事を受けて、僕らは互いの顔を見合わせた。

 このトンネルに従って進めば、大陸に帰ることができる。感極まった僕の声は、思わず震えてしまった。

「助かった! 魔族の里に行けたら、アウレリアに戻れるよ。この前みたいに、空運び鳥で鳥族の谷に行って、そこにいる運び鳥を借りていけばいいんだ」

「大陸に着けば、一先ず伝言鳥もいますね! 心配しているでしょう方々に、きちんと連絡できます」

 フィーナもほっと胸をなで下ろす。

 毛族に挨拶もなく出てきてしまったのが少しばかり心残りだが、今は無事に生きて帰れることへの安堵が大きかった。

 まだ状況を呑み込めていないお師匠様が、無言で浮かんでいる。僕は興奮気味に、これまでの経緯を話した。エーヴェの古い船で遊んでいて、知らない島に流されてしまったこと。そしてそこには、毛族という種族が住んでいたこともだ。

「フム……毛族。ソレは危険な種族カ」

 お師匠様が警戒する。僕がこたえる前に、フィーナが返事をした。

「いえ、とても温厚で友好的でした。ただ、言語が違うので意思の疎通は難しいかと」

「調べる価値アル。私、毛族調べるカラ、先へ行く」

 お師匠様は冷ややかに言うと、黒い煙を揺らめかせて僕らの間を縫って通り抜けた。

「このトンネル、魔族の里ノ奥地にアル、魔道具の廃棄所ニ繋ガル。今日はソコでアルロが作業シテル」

 それだけ伝えて、黒い煙のボール状の姿は、ひゅんっと過ぎ去っていった。僕はお師匠様が黒い靄になって消えた道をしばし見つめていた。

「魔族はたしか、魔力が強すぎるから、他種族と関わりを持つのを避けてるんだよね」

 圧倒的な力を持つ自分たちが、弱い者たちを前にしたとき、傲慢にならずにいられるか。その精神力に不安を感じている限り、魔族は他種族との深い関わりを拒む。

「毛族と出会ったら、どうなるのかな」

 強さ故に孤高の種族となった魔族と、迫害された歴史を持つ毛族。

 魔族が自分たちで心配するように、文化が遅れている毛族を下に見るだろうか。表情に敏感な毛族は、顔のない魔族にどんな思いを抱くのだろうか。

 フィーナも、同じ方向を見つめていた。

「どうなのでしょうね。どちらも穏やかで優しい方々ですが……。どの種族にも言えることですが、それぞれがそれぞれに正しくても、種族ごと生活がバラバラです」

 海を貫く微かな日差しが揺れる。フィーナの耳で、ピアスが煌めいた。

「でも、私たち全員違う種族ですけど、仲良しじゃないですか」

 上手くいかない現状を語るのかと思いきや、フィーナは案外あっけらかんとまとめた。僕は拍子抜けしつつも、納得した。

「そうだね。大丈夫だよね」

 他種族と自分との違いを受け入れられれば、案外なんとかなるものかもしれない。

 イリスが両手を振り上げた。

「さ、ゆくぞ! 大陸に着けば、ひと安心じゃ!」

 魚影が上空を通り抜けていく。僕らはまた、透き通ったトンネルを歩きはじめた。

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