18 毛族の密林

 岩から浜辺に向かって歩き、波の届かないところまで来て、砂の上にぺたんと座り込む。僕らは互いの青い顔を見合わせた。

「はあ……とりあえず助かったのかな……?」

 声が、白い息とともに消える。イリスがひとつくしゃみをし、自身の腕を抱いた。

「めちゃくちゃ寒いがの……」

 イリスの言うとおり、寒い。気温は多分、零度以下だ。全身ずぶ濡れのイリスは凍えてしまう。僕はリュックサックから毛布を取り出そうとしたが、ファスナーを開けても中にそれはなかった。そうだ、慌てて飛び出してきたから、船の客室に置いてきてしまったのだ。

 フィーナの手のひらからぽわっと柔らかい光が洩れる。

「ちょっと待っててくださいね。もう少しで温かくなります」

 光の当たるところは、ほんの少し温かかった。僕も、リュックサックに少しだけ残っていた着火燃料を取り出した。しかし水飛沫を浴びて濡れてしまい、湿気てしまったようだ。フィーナの魔導で温められても熱を発することはなかった。

「船、沈んじゃったな」

 チャトがぽつんと言う。

「船がヒントだったのに、なくなっちゃった。駆除班は俺たちのこと見つけてくれるかな」

 救助の足がかりはあの船だった。僕らがどこに漂着したかまでは、誰にも伝わらない。

 どんよりした絶望を振り払い、僕は辺りを見回した。着陸したこの場所がどんなところなのか、伝言鳥はいるのか。暗くて殆ど見えないが、この海岸から数メートル先に、背が高い木々の影が揺れているのは分かった。

「いかにもなにか出そうじゃの」

 イリスも同じ方向を見ていた。膝を抱えてくしゃみをし、ぶるっと身震いする。

 フィーナの魔導の光は、揺らめいて消えかけていた。周囲が極寒の地なので、寒さの方がまさってしまう。フィーナ自身が疲れているのも災いしているようだ。船からの移動のために魔導をたくさん使ったし、しかも彼女は睡眠をとっていない。

 どこか、休める場所はないだろうか。波打ち際にいるよりは、木の近くの方が風を防げる。思い切って立ち上がり、僕は揺れる木の影に向かって歩き出した。

「ちょっと見てくるよ」

「危ないですよ」

 フィーナが声をかけてくる。僕は首だけ振り返って、先に向かった。

「フィーナはイリスを乾かしてあげて。フィーナ自身も」

「そうだぞ、大丈夫。ツバサにはアルロの杖があるよ」

 チャトが言うと、フィーナは唸りながらも黙った。

 星の明かりで、ぼんやりと辺りが見える。暗闇にも、段々目が慣れてきた。

 歩み寄ってみて分かったのだが、木々は凍ってはいなかった。木々も凍る森の木は雪で真っ白だったのに、同じくらい寒いここの樹木は違うのだ。

 樹木の種類も違う。ぐねぐねとうねっていて、その上、よく見ると樹皮に毛が生えている。なんだか気持ち悪い。それが奥の方までびっしり広がっていて、ジャングルになっている。

 木々の群れの中へ足を踏み入れてみると、砂浜に比べて明らかに気温が違った。雪の外から暖房の効いた部屋に入ったときみたいな暖かさだ。

 僕はフィーナの放つ光に向かって、声を投げた。

「こっちの方があったかいみたい。来て」

 それに反応して立ち上がる影が見える。寒々と震えながら寄ってきた彼らは、各々その奇妙な樹木に目を丸くした。

「変な木じゃのう。こんなの初めて見たぞ。毒があるかもしれぬの」

 イリスが言っている傍から、チャトがぺたっと幹に手をくっつけた。

「おおっ、なんかぽかぽかするぞ!」

「うわ! 毒があるかもって言ってるのに!」

 僕はチャトの腕を引っ張って手を離させた。しかし今度はイリスが幹に手を伸ばす。

「む!? 本当じゃ!」

「毒があるかもって、イリスが言ったのに!」

 僕がぎょっとしている内に、フィーナまで幹に指をつけた。

「本当ですね。発熱してます。不思議な木ですね」

「触んない方がいいんじゃない?」

 僕がびくびくしていると、フィーナは苦笑いした。

「毒消しの薬草を持ってるので、ある程度は大丈夫ですよ。でもそれが効かなかったらいけないから、あんまり触らない方がいいかもしれませんね」

「そう思うなら、よく触る気になったね」

 驚く僕の手首を、チャトが引っ掴む。こちらに拒む隙すら与えず、僕の手のひらは幹にくっつけられた。

「わあっ!」

「ねっ、あったかいでしょ」

 妙にふかふかしていて気持ち悪い感触だが、なるほど、ほんのり温かい。こんなに寒いのに凍らないのは、この植物自体が発熱しているからなのだろうか。

「今、樹木の声を聞いてみました。この密林にも、なにか生体がいるみたいです。ただ、詳しいイメージが伝わってこなかったのですが……」

 フィーナが毛の生えた木を見上げる。こんな変わった植物が生えている密林だ。誰も知らないマモノがいるかもしれない。それに、暗がりに見えるだけでも木々が地を這って道を塞ぎ、人間の侵入を拒んでいるようにすら思えた。

 好奇心旺盛なチャトはしばらく興味深そうに密林の奥を見つめていたが、やがて温かい木に背中を預けて座った。凍えていたイリスとフィーナも、倒れ込むようにして木の放つ熱に体を預ける。

「それにしても、ここどこなんだろうね」

 チャトがあどけない声で言う。僕も腰を下ろして、膝を抱えた。

「地図には海のことはほとんど載ってないからなあ。ここが島なのか、大陸の端っこなのか、それすらも分からないね」

 暗くてどの方向にどれくらい進んでいるのかも、分からなかった。

「完全に遭難しちゃったね。駆除班、見つけてくれるかなあ」

 訥々とぼやく僕を、イリスが睨む。

「明るくなったら伝言鳥を探してみればよかろう。とりあえず今日はここで、日が昇るのを待つほかない」

「それもそうだね」

 ぽかぽかと温かい木に体を寄せていると、眠たくなってくる。浜辺で寝たら寒さで死んでしまうような気がしたが、この木に寄り添っていれば大丈夫だろう。気がつくとチャトが寝息を立てはじめていた。フィーナもこくりこくりと舟を漕いでいる。フィーナが眠くなりはじめると、魔導の灯が小さくなっていく。

 疲れていたのもあるだろうが、もともと森育ちのチャトとフィーナは、こんな場所でも眠れるようだ。こういうとき、ふたりのワイルドさを感じさせられる。

 イリスだけ、膝に頬杖をついてふたりを見比べていた。

「マモノにいち早く気づく獣のチャト殿も、魔導を使える精霊のフィーナ殿も眠ってしまったのう」

 遠回しに、僕では役に立たないと言われた感じがする。

「ツバサ殿も寝たらどうじゃ。私はさっき寝たし、水に濡れた体が寒くて寝られん」

「得体の知れない密林でなんて寝られないよ」

 体が疲れていても、気が休まらない。船の中で少し寝たお陰で、強制的に眠りに落ちることもない。

 やがて、僅かに浮いていた魔導の灯が完全に消え去った。鬱蒼と茂る木の下にいるせいで、星の光も遮られている。僕らは真っ暗な闇に呑み込まれた。

 ふいに、イリスが静かな声で尋ねてきた。

「ツバサ殿は、どこから来たのじゃ?」

 眠っているチャトとフィーナに気を使っているようで、闇の中に溶けて消えてしまうような声だ。それでいて、彼女の声は無音の空間にたしかな体温を感じさせる。

「そなたは、なんだか異文化というか……遠くから来たような感じがする」

 そういえば、イリスにはまだ、僕がイフから来たという話をしていなかった。

「信じてもらえないかもしれないけど、僕はこの世界じゃない、並行して存在する別の世界から来たんだ」

「ふむ?」

 案の定、イリスは聞き返してきた。僕は膝を抱き、話した。

「アナザー・ウィングっていう魔道具に導かれて、世界の次元を飛び越えちゃったんだ。でもその魔道具がどこかになくなっちゃってね。元の場所に帰りたくて、今もアナザー・ウィングを探してるんだ。チャトとフィーナは、ずっと一緒に探してくれてるんだよ」

「ほお。チャト殿から、『大陸の北の果てまで一緒に行った』という話は聞いておったが、そういう事情だったのじゃの」

 イリスが珍しそうに感嘆する。今度は僕がびっくりする。

「信じてくれるの?」

「私も、自分が竜族であることをツバサ殿に信じてもらいたいからのう。似たような境遇じゃ。荒唐無稽な話の当事者になって、苦労する立場。お互い大変じゃの」

 彼女のしれっとした口調に、僕はぽかんとすると同時にほっとしていた。普段ははちゃめちゃな言動で僕を振り回すイリスだが、こうしてすっと受け入れてくれる寛容さもある。周りは味方がたくさんいても、異文化の中でうっすら孤独を感じていた僕にとって、この共感はすごく嬉しかった。

 イリスが声を尖らせる。

「というか、竜族の生き残りより、異世界から来た者の方が現実味がないではないか。ツバサ殿は私の身の上をもっと最初から信じてくれてもよかったはずじゃ!」

「僕もそう思ったけど、そんなにあっさり納得できなかったんだよ」

 僕は抱いていた膝に顔をうずめた。

「それでね。そのアナザー・ウィングっていう魔道具には、竜族魔力が込められてると分かったんだ。でも竜族はもう滅亡したって聞いたから、作り直せなくて……」

「ああ……」

 イリスは真面目な声色で唸った。最初に会った日に僕が「アナザー・ウィングを知らないか」と尋ねたのを思い出したようだ。

「アナザー・ウィングは、竜族である私も知らぬ。だが私は竜族としては歳が浅いから、私が知らない時代に作られたものかもしれぬの」

 彼女の淡々とした声が、闇に吸い込まれていく。

「つまりその魔道具は、竜魔導の魔力があれば再度作れるのじゃな?」

「そう考えられてる」

「ふむ。では私が作ればよいではないか」

 イリスの言葉は、あまりにもさらっとしていて聞き流しそうになった。

「……ん!?」

 膝から顔を上げて叫ぶ。周りは真っ暗で、イリスの顔は見えなかった。ぼんやり影が確認できるだけである。その影がこくんと頷く。

「だって、私は竜族じゃ。竜族だから、竜型のマモノさえいれば竜魔導を使える。莫大な魔力を発揮するくらい、できるぞ?」

 イリスが言ってのける。僕の方は、戸惑いを隠せなかった。

「……え、いや。だってそれは、イリスが本当に竜族であれば、という前提でしょ?」

「だから、今のそなたはそれを信じてくれておるのじゃろう?」

「あ、うん、そのつもりだけど……」

「じゃあ、私が竜族である、イコール、アナザー・ウィングを生み出せる、というのも当然じゃろう」

 イリスがこんなに淡白に話しているのに、対峙する僕の頭は騒然としていた。

 言われてみれば、イリスの言うとおりだ。初めは僕はイリスが竜族だなんて信じていなかったが、それが本当であるとするならば、彼女にだって竜魔導は使えるのだ。すなわち、アナザー・ウィングは再製できる。

「本当に!? 本当に作れるの!?」

 声が大きくなる僕に、イリスはシーッと無声音を発した。

「この状況を打破するのが先じゃ! 遭難してる状態では、竜魔導どころの騒ぎじゃなかろう」

 そうだった、今はそもそも生きるか死ぬかの瀬戸際だ。アナザー・ウィングを作れそうだと分かって、いても立ってもいられないのに、これではどうしようもない。

「ああ、こんなところにいる場合じゃないのに!」

「私もそうじゃ。こっちは世界規模じゃぞ」

「僕なんか世界を跨いでるんだよ!?」

「興奮するでない。静かにするのじゃ」

「そうだけどさ! でも、嬉しくって」

「静かに!」

 イリスの注意が、少し厳しめの声になる。舞い上がってしまっていた僕は、気持ちを抑えて黙った。イリスは慎重に、続けた。

「静かにするのじゃ。なにか、聞こえる」

「えっ?」

 途端に、僕の高揚はすっと鎮まった。イリスは、僕が調子づいたのを叱ったのではない。スイッチが切り替わったみたいに、彼女は低い声を出した。

「なにか、近づいてくる」

 そして、僕の耳にも聞こえた。カサカサと、植物の擦れる音がする。僕の熱くなった頬は、一瞬で冷めた。膝を抱えていた腕を解き、立ち上がる。

「逃げよう。チャト、フィーナ、起きて!」

「うむ。一旦、広さがある砂浜の方へ……ひゃあっ!」

 イリスの語尾は、悲鳴に消えた。僕は顔を上げて、彼女の声の方を振り向いたが、暗闇のせいでなにが起きたのか全く分からなかった。

「イリス!? イリスどこ? 大丈夫!?」

「んん、動けぬ! ……うひゃあっ!」

 悲鳴と共に、ザザザッと引きずられるような音が遠ざかる。

「イリス! どこにいるの!?」

 なにが近づいてきたのか、イリスになにが起きたのか、暗闇のせいで全然見えない。焦燥がひたすら募って、冷静に考えられない。

 僕とイリスの大声を受けて、フィーナが目を覚ました。

「なんですか!?」

「分かんない。でもなにかいる!」

 直後、フィーナが魔導で周囲を照らした。ほわっと光が舞うと、ぐねぐねと這う密林の木々が視界を埋めた。そして同時に、僕の額の数センチ先まで伸びてきていた、太い蔓に気づく。

「うわっ!」

 後ずさって叫ぶ。なんだ、この蔓は。テラテラヌメヌメしていて、気持ち悪い。来たときにはなかったはずだ。

 そしてその蔓の先を目で追って、ひっと息を呑んだ。

 数メートル先に、イリスが横這いの木の上で臥せっている。その腰には、僕の目の前まで来ていたのと同じ蔓が巻きついていた。イリスは巻き付く蔓に、密林の奥へと引きずり込まれようとしていた。

「た、助けて」

 らしくないか細い声が、イリスから届いてくる。彼女は引っ張り込む蔓に必死に抵抗し、横に伸びる木にしがみついて耐えていた。

 蔓の根元は、密林の闇に呑み込まれて見えない。一体どんななにが潜んでいるのか、その姿が確認できないのだ。

 チャトも起きて、突然の状況に目を白黒させていた。

「なに? なんか知らない匂いがする。すごくやな匂い。臭い」

 フィーナが煌々と、魔導の光を強める。

「森クラゲ……ではなさそうですね。蔓が違うし、チャトが匂いを知らないんですから」

「なんだろう。でもイリスを助けないと!」

 怖いけれど、選択肢はない。僕はリュックサックからアルロの杖を抜き、ひと振りした。真っ白な羽根がふわっと開く。フィーナの魔導の光を孕んで、鉱石の粒が煌めく。

 今までみたいに、これでマモノを追い払うことができれば。

 まずは目の前まで伸びてきていた蔓を切り裂くように、羽根をかざした。相手に動きはない。僕は竦む足を奮い立たせ、足元の悪い密林の中を突き進んだ。

「ツバサさん、危ないですよ!」

 フィーナが叫んでいる。僕は振り返らずに、なけなしの矜持で返した。

「フィーナはそこで光を頂戴。チャトも離れて!」

 フィーナの魔導の光が届いてくる。そしてイリスが突っ伏すその向こうの、「本体」が僕の目に映った。

 ぞっと、背筋に冷や汗が流れる。

 ウゾウゾと蠢く、長い毛が見える。大型の犬が寝そべっているようにも見えるが、頭がどこにもない。なだらかなドーム状になっているのだ。全く未知の生物であると分かる。光が届かなくて正確な色は判別できないが、黒っぽいように見えた。そこから僕の腕くらいはある太い蔓が二本伸びている。その片方が僕の鼻先で止まったもので、もう片方がイリスを引っ捕まえているのだ。

「うわあっ!」

 叫ばずにいられなかった。飛び退くと足が木の根に取られ、尻餅をつく。長い毛の生物が、ぬっと膨らんだ。先程見えていたのは一部だったようで、今、その影は僕の身長を越えるほど大きくなっている。

 暗闇の中に、その巨体の影がくっきり見える。全体がずんぐりと丸い球状になっていて、そして全身びっしり毛むくじゃらだ。

 周辺の明かりが、ゆらっと強くなる。フィーナが魔導を強めたようだ。

「イリスを離して!」

 僕は立ち上がり、白い羽根を振りかざた。が、次の瞬間、その姿勢のまま動けなくなった。

 目の前の巨大な毛玉が、クワッと大口を開けたのだ。

「ズァン……」

 地の底から響くような声と、裂けた口から除く無数の尖った牙。むわっと広がる、肉の腐ったような匂い。

 僕の理解を完全に超えたその生物を前にして、腰に力が入らなくなった。

 なんだこれ。怖い。

 その感情だけが、僕の頭を埋め尽くす。

 パチンと爆ぜるような音がして、僕の手の中の白い羽根が粉々になった。透き通った棒切れに戻り、僕の手のひらに横たわる。

 しかし、背中から聞こえた声で我に返った。

「むっ? 解放された」

 イリスだ。目だけ彼女の方に向けると、木に引っかかっていたイリスもこちらに顔を向けていた。腰に絡みついていた蔓は解かれ、すすすっと引っ込んでいく。

「ゴェン……ナ」

 また、毛玉が低い音を出す。僕は目線を毛玉に戻し、鋭い歯列を眺めた。

「……今、『ごめんな』って言ったの?」

「ンゥ……」

 偶然かもしれないが、僕には「ごめんな」と聞き取れた。その前の鳴き声も、「すまん」だった気がしてくる。事実、僕が「イリスを離して」と言ったら、聞き分けたかのように蔓を解いた。

 でも、こんなものがコミュニケーションを取れるとは到底考えられない。

 頭に疑問符を浮かべていると、イリスがこちらにやってきた。

「うう、ベトベトするのう。なんじゃ? このマモノは」

「分かんない。初めて見た」

「マモノ、ヂガウ」

 また、蔓の生えた巨大毛玉が口を開けた。僕は悪臭に息を止めつつ、繰り返す。

「『マモノ違う』……? マモノじゃないの?」

 不思議な感覚なのだが、この生き物の声は聞き取りにくくて言葉らしくないのに、なぜかスルッと意味が頭に入ってくる。なにが言いたいのか、分かる気がするのだ。

「ツバサ殿、なにをしてるのじゃ。早く逃げるぞ」

 イリスが僕の腕を掴むが、僕は彼女を制した。

「待って。なにか言ってるから聞いてみよう」

「なにか言ってる? このマモノがか?」

「だから、マモノじゃないって」

「む? どうしたのじゃ、ツバサ殿……」

 イリスが困惑した様子で僕と毛玉を見比べる。

 遠くから見守っていたチャトとフィーナも、恐る恐る近づいてきた。

「ほら、来てチャト」

「行きたくない、臭いよ」

 鼻のいいチャトは拒絶しているようだが、フィーナが手を引っ張って連れてきた。

 僕は引き続き、目の前の毛玉に問いかけた。

「マモノじゃないってことは、なんなの?」

「オデダヂ……ケゾク」

「けぞく……?」

 僕は首を傾げ、集まってきた仲間を振り向く。

「ねえ、ケゾクってなに?」

「それよりツバサ殿……」

 イリスが目をぱちくりさせる。イリスだけではない。後ろに並んでいた三人は、全員ぽかんとしていた。

「これの言葉が分かるのか?」

 イリスが指さした毛玉は、また低い声で唸った。

「コトバ……通ジタ、オデモ、驚イダ」

 そこでようやく、僕は気がついた。この毛玉の言葉は、僕にしか聞き取れていなかったのだと。

 フィーナが駆け寄ってきたことで、周囲が明るくなった。目の前の毛玉が照らされる。二メートルはあるずんぐりした茶色っぽい毛の塊で、背中から二本の蔓が伸びている。正面には体躯の三分の一はある大口があるが、目などの他の器官は見当たらない。手足もない。どう見たって化け物である。

「毛ノ、ジュゾグ……ジギゾグガ、ヅゲダ、名前」

「『毛の種族。識族が付けた』。へえ……ごめんなさい、マモノなんて思っちゃって……」

「毛族」。言葉を読み取るうちに分かったのは、毛玉の正体がそういう種族だということだった。とりあえず謝っておいたが、こんな毛むくじゃらな巨大鞠はマモノにしか見えない。

「うーん……聞いたことありませんよ、毛族なんて」

 フィーナが訝っている。僕も、この生き物が「識族」などと同じように、人間の分類といわれても信じられない。だが考えてみたら、魔族なんて実体がなかったし、かつて滅んだという水守族は顔がトカゲだった。そうなってくると、こういう例えようのない未知の形状をした種族もいるのかもしれない。

「ケゾク、他ノ種族知ラナイ」

 毛族の言葉は、何度試してみてもやはり僕にしか理解できない様子だった。

「他の種族を知らないんだ。この密林の外には出ないのかな」

 翻訳すると、イリスが首を傾ける。

「なんでツバサ殿にだけそやつの言葉が分かるのじゃ。デタラメ言ってるのでないのか?」

「デタラメじゃないよ。逆に、なんで他に誰も聞き取れないのか不思議だよ。ちゃんと喋ってるじゃないか」

「ギャオーとしか聞こえぬ。ツバサ殿の気のせいではないか?」

 そう言ったイリスだけでなく、フィーナもチャトも、毛族の言葉は単純な吠声にしか聞こえないみたいだ。フィーナが首をもたげて毛族を眺める。

「もしかしたら、これもアナザー・ウィングの持つ魔力かもしれませんね」

「アナザー・ウィングの?」

「ほら、ジズ老師がおっしゃっていた、あれです。ツバサさんは私たちと全く違う言語の世界から来ていて、それなのに言葉が通じ合うのは、アナザー・ウィングの強大な魔力の反動で言語が混同するからだって。毛族の言葉が分かるのも、それではないでしょうか?」

 なるほど。フィーナが言うには、僕、フィーナたち、毛族はそれぞれ別の言語を使っていて、僕は全ての言語を理解でき、フィーナらと毛族の間には壁があるというわけだ。

「そっか。じゃ、やっぱり僕が言葉として聞き取ってるのは気のせいなんかじゃないんだ。そうだよね、『離して』って言ったらちゃんと通じたもん。僕と君は会話が成立してるんだよね」

 僕は再び、モサモサの影を見上げた。毛族なるその人が、牙を覗かせて呻く。

「毛族、ビガリ、ニガデ。体、ウゴガナイ」

「フィーナ、毛族は光が苦手だって。ちょっと光を弱めてあげて」

「は、はい」

 フィーナが戸惑いながら、魔導の光を小さくした。途端に、毛族の背中からぬっと二本の蔓が伸びる。僕らは全員、びくんと肩を跳ねあげた。特に一度引きずられたイリスは尚更だ。

「うわああっ! だから申したでないか! やはりマモノじゃ!」

「ヂガウ」

 蔓がそろりと伸びてきて、イリスの頬に触れた。

「客ギダラ、モテナズ。ダガラ、来デボジカッダ」

「お客さんだと思って、もてなそうとしてくれたんだ。来てほしかったって言ってる」

「ううう、本当にか? 自分の耳で聞き取れないと、信じられぬ」

 イリスが怯えるのも、分からないこともない。毛族の外見は不気味そのものだ。得体の知れない存在で、蔓はベタベタで、しかも悪臭もする。僕は意思疎通ができるからともかく、なにを言っているのか分からなければ信用できなくて当然だろう。

 毛族なるその人は、話しながらゾゾゾと体を引きずった。フィーナの魔導が弱まったお陰で、動けるようになったのだ。

「モデナズ」

 もてなす、と言っている。僕は足元を慎重に踏み分けて、毛族の影を追いかけた。

「行くんですか?」

 フィーナが控えめな声で聞いてきた。僕は暗闇の中で少し葛藤し、こたえる。

「もちろん、すごく怖いよ。ただでさえ密林だし、その……毛族だって、ああだし」

 たとえ言葉が分かったって、やはり僕も毛族の姿や匂いには恐怖が強い。しかし。

「でも、『もてなす』って言ってくれてるから」

「罠かもしれぬぞ!」

 イリスがはっきり注意してくる。毛族には言葉が伝わっていないので、当の毛族は気にしていない。僕も、怖々とでも先へ進んだ。毛族の意思が本当に善意だったら、踏みにじりたくない。

「イリスの言うとおりかもしれないね。それじゃ、僕だけで行くよ。チャトは嗅覚が鋭いぶん大変だろうし」

 僕の勝手な判断で、仲間を巻き込んではいけない。そう思って促したのだが、フィーナがため息をついてからパキッと枝を踏んだ。

「全くもう。ツバサさんって、変なところで無鉄砲ですね。私が行かないと、光がないじゃないですか」

 フィーナが珍しくつっけんどんな声で言う。

「毛族は光を当てると動かなくなる。それは実証済みです。ツバサさんの目の前で蔓が止まっていましたからね。万が一襲われそうになったら、私が強い光を起こしましょう」

「たしかにそうだね。フィーナがいてくれるのはありがたい」

 だが戸惑うイリスと匂いに苦しむチャトは、互いの苦い顔を見合わせた。

「私は行かぬぞ。今まさに蔓に絡め取られて、殺されかけたのじゃ」

「俺もやだ。こんな匂い、耐えらんない」

「分かった。ふたりは浜辺の方に戻ってて」

 僕が頷くと、フィーナは一旦口を噤んでから、チャトとイリスの肩に手を添えた。

「朝になっても私たちが戻ってこなかったら、捜しにきてくださいね」

「うん。気をつけて」

 チャトが息を止めた舌っ足らずな声で返す。

 チャトとイリスが元の道へと戻っていくのを見届けて、僕はフィーナと目を合わせた。

「フィーナも、怖かったら戻ってね」

「戻りたいですよ。でも、光がないとツバサさんが危険だから」

「ごめん」

 嫌々ながら付き合ってくれるフィーナに、申し訳ないようなありがたいような気持ちになった。

 フィーナが魔導で、微かに道を照らせる程度の光を放つ。僕らはほぼ視界を奪われた状態のまま、木々のうねる密林を慎重に進んだ。モゾモゾと前を行く、毛玉の影だけを頼りに歩く。

 毛族の悪臭は、口さえ閉じていればだいぶ大人しい。本人が自覚しているのか、それともただ無口なだけなのか、毛族は無言で先を這っていた。

「もてなす」という言葉を信じるつもりではいるが、この暗闇の中をただただ歩いていると、不安は募るばかりだった。毛族についていって、その先であの大きな口で食われるかもしれない。フィーナが光を当てて動きを止めてくれたとしても、僕らはこの道無き密林を逃げ帰ることなんてできるのだろうか。

 ちらとを見ると、明かりを灯すフィーナの不安げな顔が見えた。

 再び罪悪感に襲われ、僕は目を逸らすように前を向いた。巻き込んでしまったフィーナには申し訳ないけれど、今更引き返せない。

 密林は、奥に行くにつれてべたっとした蒸し暑さが増した。熱を放つ木が密集しているせいだろう。浜辺の寒さが嘘みたいに、汗が滲むような温度である。海水に濡れていたフィーナも、寒さが引いた様子である。

 周りをよく見れば、蛇や虫に似た生き物が樹木や地面に張り付いていた。それらは攻撃してくることはなく、むしろサササッとどこかへ逃げていく。多分、この密林の中でいちばん強い生き物が毛族なのだ。だから毛族が近づけば、逃げ出すのだろう。

 顔を上げて、毛族の背中を眺める。毛まみれの背にはふたつの黒い穴が見えた。どうやらこの穴に、蔓をしまっているようだ。ますますもって生体の分からない存在だ。

 そんな背中の向こうが、ふと視界に入る。微かな光に浮かび上がる、無数のモコモコした影が見えた。僕らを導く毛玉と同じようなシルエットである。

「もしかして、あれ全部、毛族?」

 小声で投げかけると、案内人の毛族はこちらを向くことなく返事した。

「ヴァ……」

 聞き取れない言葉でも、それが肯定の意味であることはなんとなく分かる。

「あの、ツバサさん」

 フィーナが細い声を出した。

「毛族の匂い……後ろからも、しませんか?」

 言われて、振り向く。本当だ。毛族のシルエットが浮かんでいるのは正面だけではない。後ろにも、いや、左右にもモゾモゾした不気味な影が、密林の木々の隙間に見える。

 いつの間にか囲まれていたようだ。いよいよ背中に汗が流れる。囲いこまれたら、光を当てても逃げ道を塞がれるのではないか。嫌な予感が立ち込めてくる。

 暗がりの中の毛族たちは、じりじりと詰め寄ってきていた。フィーナが怯えた顔で僕の腕にくっついてくる。しかし僕も、情けなく震えていた。

 突然、僕を案内していた毛族がぎゅんと振り向いた。びくっとした僕とフィーナは、互いの腕にしがみつく。毛族は裂けた口をくわっと開けて、悪臭を垂れ流した。

「着イダ。ココ、オイシイギノゴアル」

「……へ?」

 僕は首を竦めながら、周囲を見渡した。フィーナが泣きそうな目をする。

「今のはなんて?」

「『ここにおいしいキノコがある』って」

「キノコ?」

 フィーナが繰り返した途端、びゅんっと僕らの頬の横に蔓が伸びてきた。僕とフィーナは飛び上がって仰け反る。しかしよく見ると、蔓の先にはコロンとした形のキノコが握られている。

「木ノ実モアル」

 その声は背後から聞こえた。フィーナが再度、びくんと跳ね上がる。いつの間にか距離を詰めてきていた別の毛族が、蔓にビタビタと木の実をくっつけて佇んでいた。

 それ以外にも、毛族たちが各々、蔓に葉っぱや花などを蔓の粘液で貼り付けて持ち寄ってくる。

「モテナズ」

「モテナズ」

「怖いです、ツバサさん、やっぱり逃げましょう」

 普段はしっかりしているフィーナが、悲鳴に近い声で促してきた。僕も異様な光景にぞっとしたが、だが毛族の行動に悪意はなさそうなのだ。

「大丈夫、だと思う。『もてなす』って言ってる」

「でも……! 毒のあるものを持ってきてるのかも」

 恐怖に押し負けてしまうのも無理もない。言葉を聞き分けられる僕でさえ、この気味悪さには腰を抜かしそうだ。

「こんなにたくさん、どこから出てきたんだろう」

「オデガ、信号ダジダ。匂ィデ毛族、コミュニゲージョン」

 正面の毛族が言うには、どうやら毛族同士のコミュニケーションは匂いで信号を出し合うもののようである。そして案内してくれた毛族が、仲間に僕らの存在を伝えたそうだ。

 僕らが怯えた顔をしているのが分かったのかもしれない。毛族たちは皆して臭い口を開いた。

「ゴワイナラ、ビガリ、当デデヨイ」

「ウゴギフブジデヨイ」

「『怖いなら光当てていい』『動き封じていい』だって」

 翻訳できる僕は、慎重に言葉を聞き取ってフィーナに伝えた。フィーナは今にも泣きそうな顔をして、僕の訳を確かめる。

「そんなこと、言ってるんですか?」

「うん。僕らが怖がってるのが分かるみたい」

「それじゃ、この人たちは、本当に私たちを怖がらせたくなくて、おもてなししたいだけなのですか?」

「そうみたい」

 フィーナがぽわっと魔導を強めた。光が拡散し、たちまち周囲の景色がはっきりする。目が闇に慣れてしまっていた僕は、眩しさで目を細めた。明るくなって見えたのは、木々の隙間を埋め尽くすように集まった毛族たちだ。僕が認識していたより、はるかにたくさん寄ってきている。そしてそれぞれ皆、伸ばした蔓に食べ物を貼り付けていた。

 その毛族たちが、光を受けて硬直する。キノコや木の実をくっつけた蔓も、その場で固まったみたいに止まっていた。

「毛族ハ、モデナジ、ズギダ」

 正面の毛族が喋った。もはやこれが案内してくれた毛族かどうか分からなくなってきたが、多分そうだ。

「コノズガダ、怖ガラレル。毛族、醜ィ。デモ毛族、ワルギナイ。デモ怖ガルノモ、ワルギナイ」

『この姿、怖がられる。毛族、醜い。でも毛族、悪気ない。でも怖がるのも、悪気ない』。毛族の言葉が、僕の頭の中で知っている言葉に変換される。

「怖イノハ、ジガダナイゴド。ゼメデ、毛族、害ガナイノ、知ッテボジイ」

『怖いのは、仕方ないこと。せめて、毛族、害がないの、知ってほしい』。僕は一度ゆっくりとまばたきをし、フィーナに顔を向けた。

「怖がるのは仕方ないって、毛族も分かってるみたい。だからこそ、本当は怖くないのを知ってほしいんだって」

 僕は噛み締めるように、フィーナに伝えた。

 毛族は外見の醜さ、体臭などから、他の種族から恐れられる。悪いことなどひとつもしていなくても、不気味な性質が恐怖心を誘ってしまう。おもてなし好きな、優しい心の持ち主なのに、だ。

 フィーナはまだ、不安げな目をしている。僕は小さめの深呼吸をし、目の前で止まっている蔓に手を伸ばした。握られているキノコを取ると、蔓の粘液がベタッと糸を引いた。

 フィーナが血の気の引いた顔をしている横で、僕はもう一回深呼吸した。そして覚悟を決めて、ベタベタのキノコを口に運ぶ。

 当然ながら、まず蔓の粘液が舌に広がった。ベトベトしていて生ぬるく、甘いような塩辛いような味がした。そこに毒があるかもしれないキノコのコリッとした食感が加わる。口の中で未知と遭遇した。

 フィーナが引いた顔をして眺めている。

「え……食べた……?」

「フィーナ、もし毒があったら、後で解毒の薬草を頂戴」

「それはもちろんですけど」

 ひと口、またひと口と、キノコを頬張った。だんだんおいしく感じてくるから不思議だ。

 見ていたフィーナも、諦めたように他の毛族が持ってきた木の実を口に入れた。

「本当ですね。毒ではなさそう……」

 ぽかんとした顔で毛族を見上げる。疑っていたことが申し訳なくなってきたようで、フィーナは力が抜けたように頭を下げた。

「怖がって疑ったりしてごめんなさい。おもてなし、とっても嬉しいです」

 フィーナの言葉が分からない毛族に、僕が再度繰り返して意味を伝える。毛族は光で身じろぎもできないが、裂けた口を開けて『よかった』と言った。

 どこだか分からない蒸し暑い密林の奥、鼻の曲がりそうな悪臭の中、奇怪な生物に囲まれてベタベタの自然食材を口にする。酷い罰ゲームのような状況だけれど、なぜか少し、心が躍る。悪意がないのが分かったからだろうか。

 思いが伝わってほっとしたようで、毛族側も満足そうだ。

「毛族、元々バ、モデナジ好ギナワケジャナイ」

「毛族は元々、もてなし好きなわけじゃなかった?」

「アル識族ガ来デ、ゾレガラ」

 ある識族が来て、それから。毛族はのんびりと、思い出話を語り出した。


 *


 大昔、千年以上も昔。

 毛族もかつては、大陸で暮らしていた。しかし当時毛族は、文化があることを認められず、マモノ同様の扱いを受けていたという。その姿形は他種族から恐れられ、迫害の対象だったのだ。

 いずれ毛族は船を造り、大陸からこの島へと移り住んだ。そして、長い長い歴史を経て、やがて大陸の種族から忘れ去られた。

 大陸から切り離された毛族は、この密林で独自の生活を営んだ。他種族の迫害から開放されたこの島は、楽園のようだった。と、当時の文献には残っている。

 今となっては、当時を生きた毛族はいない。そうして毛族の方も、大陸の存在を忘れていった。

 そしてこれは、それよりずっと新しい時代の出来事だ。毛族には暦がないため正確な年月は分からない。新しい出来事だが、とても昔の記憶のようにも思える。

 ある日、この島にはいないマモノがやってきた。それはけして危険なものではなく、小さな鳥だ。鳥は、毛族にはない言語を話した。のちに分かったのだが、この言葉は発展を遂げた大陸の言語であり、マモノは伝言鳥というものらしかった。

 毛族は見様見真似でその言語を模して、伝言鳥に言葉を預けた。鳥は飛び立ち、いなくなった。

 それから日が暮れて夜が開けた頃だ。この密林に、またも未知なる存在が踏み入ってきた。毛族よりずっと小さく、毛のない部分も多くある妙な生き物である。その者は、肩に例の伝言鳥を乗せていた。どうやらあの鳥は、この者が放ったもののようである。

 毛族にはこの生き物の言葉は分からなかったが、相手に敵意がないことは分かった。そしてようやく理解できたのは、その者が「識族」という、大陸の「人間」だったこと。そして我々を、「毛族」と名付けたことだった。

 また毛族は、識族の者が腹を空かせていると感じ取った。故に、密林の中で食べられている食材を、その者に振る舞う。

 識族の者は、それらを口にして、喜びを見せた。

 その表現は毛族にはないものだ。毛族には顔がないが、識族にはある。“表情”というものを介して、気持ちを伝えてきたのだ。

 毛族はその表現の持つ意味を知らなかったが、本能的にこれは『喜び』であり、『感謝』であり、その表情を受け取ると毛族は幸福感を得るのだと知った。

「おもてなし、ありがとう」

 識族はそう口にした。毛族は自分たちの行動の名を「モテナシ」というのだと学ぶ。そして自分たちが「モテナス」と、相手が喜びの“表情”を浮かべ、それを感知した毛族は幸福になると、学習したのだ。

 ところが、ややもするとまた別の識族が現れた。今度はひとりでなく、十はいただろう。この識族とは違う性質のものもいたから、もしかしたら全てが識族だったのではないかもしれない。

 ともかく彼らは、毛族に敵意を見せた。光を放って毛族の身動きを封じ、そして音と光の出るもので威嚇した。

 そのとき毛族は、過去の文献に残っていた迫害の歴史を思い出した。自分たちが大陸の者を受け入れたとしても、大陸の者は毛族を受け入れない。

「毛族」に名前を与えた識族は、その者どもに連れていかれてしまった。

 毛族はもう一度、忘れ去られていた己の歴史に、思いを馳せた。どうやら我々は酷く醜く、外部の者からは攻撃の対象になるのだと。

 しかし毛族は、識族が見せた喜びの表情を強く記憶した。またあのような幸福感に満たされたい。迫害されてきた歴史があるからこそ、あの表情が嬉しくてたまらなかった。きっといつか、他にも、ああして喜んでくれる人が現れる。毛族はそれだけを信じてきた。

 だから毛族は、密林の外から異なる存在がやってくるのを心待ちにしていた。「モテナシ」をしたくて、ずっと待っていたのだ。


 *


「そっか……僕らの他に、識族がやってきたんだ。怖がらなかったなんて、すごいなあ」

 話を聞いた僕は、ベトベトの木の実を口に寄せて呟いた。

 毛族は遠い昔に大陸から追い出され、この密林の中で独自の文化を築いて暮らしていた。そこへ識族が迷い込み、その人に食べ物を与えたことで、おもてなしの楽しさを知ったのだ。同時に、自分たちが恐ろしい姿をしていたことも理解したという。

 状況を想像すると、最初にやってきた識族は伝言鳥とその人ひとりで迷い込んできている。大陸では行方が分からなくなったとして騒ぎになったかもしれない。毛族を威嚇したのはきっと、その人物を救助しに来た人たちだ。行方が分からなくなった人物が未知なる毛むくじゃらの生き物に囲まれていたら、驚いて攻撃してしまうのも仕方ない気がする。

 いずれにせよ、毛族にはそういう経緯があった。だから久々の来客である僕らを見つけ、喜んでもてなそうとした。おいしいものがある場所に連れていきたくて、蔓で引きずり込もうとしたのだ。

 結果こちらは、訳も分からずいきなりイリスを絡め取られた。毛族の見た目も匂いにも恐怖を誘われた。

 だがこれらも全部互いを知らなかっただけで、毛族の言うとおり、お互い悪気はなかったのだ。文化の違いなのだ。

「毛族は、かわいいですね」

 あれだけ怯えていたフィーナも、今ではすっかり心を許していた。僕は一度頷いてから、えっと聞き返す。

「かわいい?」

「ええ、外見も内面もふわふわしていて、かわいいです」

 毛むくじゃらではあるが、ふわふわというよりベトベトしているし、牙の生えた大口は不気味である。毛族に悪意がないと分かっていたとしても、容姿が恐ろしいことには変わりない。

 流石にかわいくはないよ、と僕は思ったが、ふとフィーナは精霊族であると思い出した。

 精霊族は、美を是とする種族だ。醜い生き物の順位は低い。そんな精霊族の言う「かわいい」は、きっと最上級の賛辞だ。

 今のは、醜い毛族と美しい精霊族が、互いの文化の壁を超えた瞬間だったのかもしれない。

「ん? ちょっと待って。毛族は、例の識族が来たとき以来、ずっと新しい来客を待ってたんだよね」

 僕は光で大人しくなっている毛族たちを見渡した。

「てことは、ここには滅多に他種族は来てないんだね?」

「ヴム。アレッキリダ」

 毛族が口だけ動かす。あれっきり、だそうだ。こんな珍しい種族が住んでいるのに、調査に来る者はおらず、僕らのようになにかの弾みで漂流してくる人もいなかったと。海は霧が深くて、開拓が進んでいない。だから、この島も忘れ去られているのだろう。

「やっぱりかなり辺鄙なところなんだね。助けは来るのかなあ」

 ぽつりと零すと、たくさんいる毛族の中のひとりが声を発した。

「助ゲ……?」

「あ、うん。僕たち、壊れた船に流されて間違えてここに来ちゃったんだ」

 簡単に経緯を説明すると、毛族たちが各々喋り出す。

「ズッド、イレバイイ」

「ココデ暮セバイイ。オ前タチハ、毛族、怖ガラナイ」

 ずっとここで暮せばいい、と提案してきている。僕らの持つ“表情”が新鮮でならない毛族たちは、僕とフィーナを仲間に加えたいようだ。

「ありがとう。でも、僕たちは毛族の皆さんとは違って、光がないと周りになにがあるか分からないんだ。生活様式も違う」

 受け入れてくれる気持ちは嬉しいが、僕はここに馴染むことはできない。毛族たちは寂しそうに口を閉じた。表情がないのに、なんとなく感情が伝わってくる。

「ナラバ、引キ止メナイ」

 毛族が諦めたように語る。

「助ケガ来ルマデ、ユックリ休ベ」

「うん」

 僕は置いていかれているフィーナの肩をパタパタ叩いた。

「『助けが来るまでゆっくり休んで』って言ってるよ」

「恐れ入ります」

 フィーナが嬉しそうな顔をすると、毛族たちはその表情を察知し、満足にくわっと口を開いてみせた。

 僕は毛族の話を振り返った。毛族の話が本当なら、この密林に伝言鳥が来たということになる。未開の海の霧の中を渡り、やって来た。ならば、アウレリアから僕らを捜す伝言鳥が来るかもしれない。ちょっと安心した。

 と、そこへ、甲高い叫び声が飛んできた。

「わーっ!? こんなにいる!」

「この辺りにツバサ殿とフィーナ殿がおるのか!? もう喰われておるのでは……いや、光があるから少なくともフィーナ殿は無事かの!?」

「臭すぎてツバサのおいしそうな匂いが掻き消されてる」

 チャトとイリスだ。まだ毛族に不信感を抱いているふたりは、大量に詰め寄る毛族を見つけて驚いたのだ。

「大丈夫、大丈夫だよ! お願いだから毛族を攻撃しないでね!」

 僕は毛族の群れから大声で訴えた。

「む! ツバサ殿、生存しておるようじゃの」

 イリスの声がする。続いて、チャトも声を投げてきた。

「朝になっても戻ってこなかったから、迎えに来たんだよー!」

「えっ? 朝?」

 それを聞いて、僕とフィーナは上を見上げた。うねった木々の隙間から、赤みがかった晴れ空が覗いている。

「気づかなかった……夜が明けてたんですね」

 フィーナが魔導の明かりを小さく縮めても、周りを目視で確認できるほどには明るくなっていた。

 光が苦手だという毛族は、鈍い動きで身をよじり、なるべく暗い木陰へと逃げ込んだ。毛族が動いたことで、その向こうにいたチャトとイリスと目が合う。

「本当に、なにもされなかったのか?」

 イリスはまだ戦いているし、チャトは鼻と口を手で塞いで青い顔をしている。僕はフィーナと目配せし、こたえた。

「なにもされなかったというか、おもてなししてくれたよ」

「毒を盛られたのでもないのか」

 訝しげに毛族を警戒するイリスを、フィーナが窘める。

「毛族は醜くも美しい種族です。私たちより、ずっと澄んだ心をお持ちですよ」

「幸い、この密林の中には食べられるものがある。困ったときは毛族が頼りになるよ。大陸から助けが来るまで、ここで過ごさせてもらおう」

 僕が言うと、チャトとイリスは戸惑いながらも頷いた。

 空からほんのりと日の光が差してくる。毛族たちは暗がりで小さくなり、その姿さえも木陰に溶けてしまいそうだった。

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