17 白煙の海域

「ごめんなさい……私が迂闊に燃料を触ったりしたから」

 クルーズ客船の中の食堂で、フィーナが頭を下げる。

「あの燃料が光の魔導で稼働するものだったとまでは知らなかったんです。ごめんなさい」

 僕は泣きそうな彼女を慌ててフォローした。

「フィーナは悪くないよ。まさか動くなんて思わないもん。あのときピアスが光ったように見えたよ。フィーナでも予知できなかった魔力がたまたま発動しちゃったんだよ、きっと」

 顔を伏せっぱなしのフィーナを横目に、イリスがテーブルに頬をくっつけてぼやく。

「うむ……これからどうするかの」

 少量の燃料と少量の魔導の反応で、死んでいたはずのクルーズ客船は生き返った。生き返ったといっても、完璧に現役まで戻ったという感じではない。船全体がギギギと変な音を立てて、ぐらつきも大きい。そのくせ、電動らしきランプなんかはしっかり点いて、室内がほわっと明るくなっていた。

「この船、棄てられてたくらいだからどこか壊れてるんだよね。このままだとどうなるんだろう?」

 チャトが耳をぴくぴくさせる。緊張感のない声色のチャトを一瞥し、イリスが声を静めた。

「最悪、沈没するじゃろうな」

「ご、ごめんなさい……」

 フィーナがより一層深く俯く。

 エーヴェから離れれば離れるほど、海の霧は深くなった。自分でも意外なのだが、僕を含め、皆、落ち着いている。壊れかけの船が勝手に進んでしまって流されているというのはとんでもなく恐ろしいはずなのに、慌てて騒いでも仕方ない、とどこかで諦めてしまっていたのかもしれない。

 チャトに関しては、事態を呑み込めていないだけとも思える。

「この船、なんで勝手に進んでるの? どこに向かってるの?」

 彼は怯えでも諦めでもない普段どおりの声色で聞いてきた。

「風に流されてるのか?」

「いえ、こういうクルーズ客船は、自動で決まった海路を回るようにできているんです」

 フィーナがぽそっと返す。

「ですので、この船が現役だった頃に停まっていた港で停まるはずです。途中で沈まなければの話ですが……」

 最後の方は、もはや声が消えかけていた。イリスはフィーナの泣きそうな声を受けてから、ため息混じりに言った。

「そうなる前になんとかするのじゃ。私はこんなところで死ぬ気など毛頭ない。竜族の生き残りとして、島主殿の今後の行動、世界の動向、いろいろ見守らなくちゃならぬのだ」

「そうだね。僕も元の世界に帰りたい」

 僕も冷静に頷いた。

「大丈夫だよフィーナ。駆除班のふたりは見てたんだから、なにか手を打ってくれるよ。この前みたいに、伝言鳥をたくさん飛ばしてくれるかも」

 僕が言うと、イリスもそうじゃの、と続いた。

「フィーナ殿の言うとおり、この船が決まった海路を進むんなら、駆除班殿がこの船がいつの時代のなんて船か調べてくれれば自然と航路が分かる。そうすれば救助が来るはずじゃ」

「でも船が壊れてますから、航路計が狂ってるかも……それに、助けが来る前に沈んじゃったら……」

「それは考えても仕方ないじゃろう。それより一刻も早く救助を呼べる方法を考えるのじゃ」

 流星の霊峰から飲まず食わずでアウレリア付近までやってきただけはある。イリスはこういうとき、強い。

 僕はテーブルに、両手で頬杖をついた。救助を呼ぶ方法が、なにも思い当たらない。

 僕らは一先ず、この食堂を出て船の中を散策することにした。ばらばらに行動しようかとも考えたが、ひとりのときに怪我をして動けなくなったりしたら大変なので、全員でまとまって動くと決めた。

 まず、この食堂の隣にキッチン、それと食糧庫があった。キッチンは使えなくなった調理具や食器がそのまま放置されている。食糧庫はもぬけの殻だ。使えるものや食べられるものは、船を廃棄する前に引き上げられてしまったのだろう。

 不幸中の幸いだが、僕らはエーヴェでお土産の食べ物をたくさん買っていた。食糧は、少しはこれで凌げる。

 先には階段があり、上ると客室がたくさんあった。どの部屋を開けてみても、外れた窓から砂浜の砂や潮が入り込んでいる。ひとり用の寝台やクローゼットがあったが、どれも汚れて劣化していた。

 救命ボートのようなものはないかと探してみたが、ない。置き場らしき場所はあったのだが、もう使わない船であるこのクルーズ客船からは取り払われ、別の船の救命ボートになってしまったのだろう。

 歩き回ってから、僕らは甲板に出た。夜を迎え、空は真っ暗になっている。その上、周囲にはうっすらとした霧が立ち込めていた。海風が頬を撫でる。船尾に立って通ってきた海路を眺めてみたが、遠くは霧にかき消されて見えなかった。

 僕の隣で、チャトが柵に腕を乗せ、暗い海の果てを眺めている。

「エーヴェ、見えなくなっちゃったね」

「どのくらい離れたのかな。どっちの方向に進んでるかも、分かんないね」

 僕も一緒に、柵に肘を乗せた。暗くなってしまったし、こんなに霧に包まれていては、捜す方も見つけられないかもしれない。なんて、嫌な予感がつきまとう。

 フォルク副班長から貰った地図を、頭に思い浮かべる。海は白く塗り潰され、大陸の周りになにがあるのか、示されていなかった。たしか、霧の山脈で発生した霧が、気流に乗って海に流れているのだ。お陰で海は真っ白に煙り、遠くまで進めない。故に、海の向こうは未開の世界なのだ。

 救助を呼びたいのに、伝言鳥もいない。人間がいないから、伝言鳥も来ないのだろう。未開の海だからなのか、或いは霧で見えないからなのか、僕らを捜して飛んでくる気配もなかった。

 連絡手段なし、現在地不明。僕らにできることは、なにもない。助けが来るのを待つしかないのだ。

 だんだん、霧が濃くなってきた。甲板までもがほんのりと白く霞んでいる。

「この前入江でさ、おっきな水棲マモノを見たよね」

 チャトが霧で濡れた耳をぴくぴくさせる。

「あんなのがこの海にもいるんだよな」

「怖いこと言わないでよ」

 僕が窘めると、チャトは少し耳を倒し、またピンと立てた。

「うーん。波の音に混じって、変な音が聞こえるから。注意した方がい……」

 彼が最後まで言い終える前だった。

 ドンッと大きな波が押し寄せ、船が傾いた。僕は尻餅をつき、チャトはころんと転げて、フィーナが首を竦める。イリスも柵にしがみついて唸った。

「なんじゃ!?」

 座り込んだまま、僕は床に手をつけて顔を上げた。霧で霞む甲板に、なにか大きな影が見える。霧の中に溶け込んで、ほぼその姿は見えない。だが、圧倒的な迫力が、たしかにそこにある。

 まるで、巨大な岩にぶつかったみたいな。全容が見えないその中に、浮かび上がる黒い目玉。

 僕は山脈で聞いたその名前を思い出した。

「キリ大腕……」

 間違いない。これは霧の山脈でも見た、岩のようなゴリラのようなあのマモノだ。腕ひと振りでチャトを吹き飛ばした、あのマモノ。霧の中で迷彩になる体毛を持ち、その巨体は空間と一体化する。

「これ、海にもいるの!?」

 キリ大腕が体を揺すると、ザブンと波が荒れた。

「きゃあっ」

 フィーナの悲鳴が聞こえる。だが霧でどこにいるのか、よく見えない。

 山脈で同じマモノに出会ったときの、あの恐怖がフラッシュバックする。まずい。この巨躯、このパワーのマモノに襲われたら、この船は絶対もたない。

 僕をひと握りで潰しそうな手のひらが、海から突き出された。その挙動ひとつひとつが波を起こして、船がひっくり返りそうなくらい傾く。

「来ないで!」

 フィーナの声と同時に、空気がキンッと冷たくなった。霧と水飛沫が氷の粒になって、煌めいているのが見える。

「ギャアオオ」

 キリ大腕の咆哮が、船を振動させる。

 フィーナの魔導がキリ大腕の指を凍らせたようだ。痛みを振り払うように、キリ大腕がその腕を引っ込める。またひとつ波が起こり、その揺れで転んだイリスがギャッと悲鳴を上げた。

 このままこのマモノの相手をしていたら、そのうち船が転覆する。もしくは船を破壊されて、沈んでしまう。

 大きな波が船をさらに揺すった。バランスを崩したチャトが、僕の傍までころころ転げてくる。

「ツバサ、あのときみたいに助けてよ!」

 チャトの叫びは、こんなに傍にいても波の轟音で掠れて聞こえた。

「あのときって……」

 すぐに、入江でのマモノとの対峙を思い出した。魚のような巨大なマモノに襲われ、間一髪のところで、マモノが大人しくなった。

「でもチャト、あれはなんでああなったのか、よく分からないよ」

「わあっ」

 僕が返事をしている間にまた船が傾き、チャトがころころと吹き飛ばされていく。フィーナに凍らされた指が復活したのか、キリ大腕が再びこちらに体を寄せてくる。高い波が甲板までせり上がり、床が水浸しになった。

 僕はリュックサックの横ポケットを手で探った。

 入江のマモノが大人しくなった、その理由は分からない。ただの偶然かもしれない。

 キリ大腕の巨大な手のひらが、僕の上空に影を落とした。甲板に向かって、岩肌のような手が振りかざされる。

 なにも分からないけれど、迷っている暇はない。

 揺れる甲板にようやく立ち上がって、上空を睨む。霧で視界が悪い。でも確かな圧が霧を押しのけて、手のひらが降ってくる。

 リュックサックから杖を引き抜く。一瞬でぶわっと白い羽根に変わり、その波動で押し寄せる波の水滴が弾き飛ばされた。クジャクの尾羽根ほどはある、白く輝く羽根。僕はその根元を、両手で握りしめた。

 たしかに振り下ろされてくる手のひらの影へと、大きく羽根をひと振りする。

「うわああ!」

 無我夢中に叫んで、頭上の手のひらを切り裂く。しかし羽根がなにかにぶつかるような感触はない。外したとすら思った。だが、目の前にある手にはたしかに貫通して見える。

 振り下ろされかけた手は、そこで止まっていた。

「オオオ……」

 キリ大腕が振り上げていた手をゆっくり引っ込める。先程までの咆哮ではなく、地響きみたいな唸り声が聞こえる。そして数回、ザプンザプンと僅かに船が傾かせ、キリ大腕の姿は霧に吸い込まれて見えなくなった。荒い波も静まり、船は元どおり航路をのんびり進んでいる。

「皆さん、無事ですか……?」

 フィーナが甲板の隅っこで呟いた。ほんのりと煙る霧の向こうで、驚いた顔をして縮こまっている。イリスもぺたんと座り込んだ姿勢でひょろっとした声を出した。

「なんだったのじゃ……? 今のマモノ、いなくなったのかの……?」

 僕は呆然と、自分の手のひらを見た。羽根はもう、もとのステンドグラスみたいな杖に戻っている。

 なにもかもがスローモーションみたいだった。頭の中まで霧がかかったみたいに白くて、まだ整理がつかない。

「ねえっ、見たでしょ!?」

 大声を出したのはチャトだった。

「ツバサの白い羽根がマモノをスパーンッてして、マモノがしゅーっと大人しくなった。見たでしょ!? 入江にいたマモノも、ああなったんだ!」

 ぴょんっと立ち上がって、チャトが僕とフィーナとイリスそれぞれの顔を交互に見る。

「やっぱり、偶然じゃなかったんだよ。ツバサのその杖……その羽根は、マモノを落ち着かせる力があるんだ、きっと」

「そんな魔道具、聞いたことないがの」

 イリスが首を傾げる。それを受けてフィーナも唇に手を添えて考えはじめた。

「アルロさんが言うには、その杖はツバサさんの意志の形になるんでしたよね」

 たしかアルロは、そう言っていた。僕自身でも自分の「意志の形」なんて想像できないから、この魔道具がどんなものなのか、よく分からずにいた。そのときの感情で変わるのでも、変幻自在に作りたいものになるのでもない。

 フィーナが不思議そうに僕の杖を見つめる。

「マモノを傷つけずに落ち着かせたい、というツバサさんの思いが、その魔道具の姿であり、能力なんでしょうか」

「傷つけずに……」

 僕は手の中の透けた棒切れに目を落とした。

 相手を切りつけたり殴ったりするものではなく、柔らかに包み込むことができる、羽根。その羽根の姿をしたこれは、触れたマモノが落ち着きを取り戻す。

 もしかしてそれは、僕がずっと抱え続けている「戦いたくない」という意志の姿なのだろうか。

「あはは、そっか。僕が戦うのを拒絶するから。臆病だから、そうなったんだ」

 僕は自分で笑ってしまった。

 意志というのがこの臆病な本質の表れだったのか。それなら、この杖を手にしたのが僕でなく、他人にわざわざつっかかる渡辺なら、素早く切りつける武器になったかもしれない。彼の周りで一緒に盛り上げる人たちなら、仲間の攻撃力を高めるものだったかもしれない。

 そして僕はいつも、言われるままされるがままで生きてきた。だから身を守る意思も大してなく、故に、杖は防具にはならない。

 僕は戦いを前にすると、逃げる判断をする。そういう「意志」が形になった。ちょっと情けない。

 チャトがピンと耳を立てる。

「だとしたらさ、ツバサってめちゃくちゃに強いんじゃない?」

「えっ?」

「だってさ、どんなマモノに襲われたとしても、その羽根でふわってすれば、マモノは攻撃をやめるんだよ。それってどこへ行っても、どんなマモノに出会っても大丈夫ってことじゃないか」

「たしかにそうだね」

 言われてみれば、そうだ。

「まあでも、まだ分かんないよ。相手が戦いたくなくなるかもっていう、仮説に過ぎないから。マモノを避けた方がいいというのは変わらないかな」

 僕は透明な杖をリュックサックに戻した。

 船はゆらゆら、どこかへと向かっていく。周囲は相変わらず霧に包まれて、なにも見えない。

 イリスがふうと、ため息を洩らした。

「少し、休もうかの。朝が早かったから眠いのじゃ」

「先にごはんにしようよ」

 チャトが返事をする。僕は白く煙った星空を見上げて、ゆっくりとまばたきをした。

 僕も疲れて眠い。お腹がすいたし、それに、ちょっと寒い。

 イリスがチャトと話しているのが聞こえる。

「またマモノが出るかもしれぬし、船の調子が悪くなるかもしらぬ。交代で休憩するのはどうじゃ?」

「そうだね。ねえツバサ、フィノ、どうする?」

「僕はまだ大丈夫。甲板で周りを見てるよ。皆、休んできて」

 僕が言うと、フィーナが立ち上がった。

「私は燃料の具合を見てきます」

「そうか。ならばチャト殿、私たちはお言葉に甘えて休むとするかの」

 イリスが言うと、チャトはこくんと頷いた。

「エーヴェで買ったお土産のお菓子食べよ」

「そうじゃの」

 ふたりの背中が去り、フィーナもエンジンルームに下りていく。甲板に残った僕は、柱にもたれかかって座り、白くもやのかかった星空を見上げていた。

 この船はどこに向かうのだろう。いつ沈むかも分からない。

 そんな言葉が頭に浮かび、まるで僕みたいだ、と思う。

 僕自身もこの船みたいに、ずっと旅をしている。アナザー・ウィングを作る方法はまだ分からない。いつ死ぬかも分からない。

 いや、この世界に来てからはじまったことではない。僕はイフで暮らしていた頃から、目的みたいなものはなく、ただ漠然と生きていた。自分がどこに向かっているのかなんて、考えてもいなかった。

 きっとこういうのは、僕だけではないのだ。

 こたえの出ない難しいことを考えてしまうのは、僕が今、眠いからかもしれない。まだ大丈夫だと返事をしたものの、本当はちょっと、無理をした。

 マモノが来ないか見ていなくてはと思っているのに、頭にまで霧がかかったみたいにぼんやりしてしまう。

 まばたきのつもりで瞼を閉じたら、そのまま開けられなくなった。


「ツバサさん、ツバサさん」

 フィーナの声で、目を覚ます。気がついたら僕は、甲板の柱に背中を預けて眠ってしまっていた。慌てて柱から背中を離すと、体がミシッと痛む。

「うわ……見張りのつもりだったのに。今どのくらい寝てたんだろう」

「私がエンジンルームから戻ってくるまでの、ほんの数秒ですよ。そんな短い時間に眠ってしまうほど、お疲れだったんですね」

 自ら見張り役を買って出ておいて務まらなかった僕を、フィーナは咎めずに微笑んだ。僕は膝を抱えて、彼女を見上げる。

「燃料、大丈夫そう?」

「少し弱まっていましたが、もう一度光の魔導を当てたら元気に稼働しました」

 フィーナが僕の横に座る。

「なんだか、寒くなってきましたね」

 霧のせいかとも思ったが、むしろ霧は少しずつ晴れてきている様子さえある。星空がやけにくっきり見えてきた。

「ツバサさんはもう休んでください。私と交代しましょう」

 フィーナが労ってくれる。僕は目を閉じて膝を抱き寄せた。

「うーん、フィーナだって疲れてるでしょ?」

 心遣いのつもりで言ったら、フィーナは逆にむっと眉を寄せた。

「ツバサさんは気を遣いすぎなんですよ」

 フィーナのきれいな顔が歪んで、僕を睨む。

「優しいといえばそうかもしれないんですが、そんなんだからアルロの杖もあんなふわっふわになってしまうんですよ」

 最後の方は、冗談めかしていた。僕はくすっと吹き出す。

「やっぱり、あの杖はそういうことなのかな」

 戦いたくないという意志が通って、本当に戦わなくて済む方向に物事が進む。誰も傷つかない。そうだったら、ちょっと嬉しい。

 僕を見つめて、フィーナも笑った。

「その杖を手に入れたのが、ツバサさんでよかったです」

 彼女は柔らかに言ったあと、柱に背中をくっつけた。

「触れただけでマモノが退散するなんて、どんな魔導より心強いです」

 なんだか僕が褒められているみたいで、擽ったい。

「僕はただ、臆病なだけだよ。僕の意志の形が、そんなに立派なものだとは思えないな。チャトにも言ったけど、まだこの杖の力は仮説に過ぎない」

「そうですか? 私は、とても納得しました。その羽根はツバサさんそのものだなって思います」

 フィーナは物腰が柔らかいけれど、頑固でもある。自信満々に話す彼女は、どこか確信めいた声色になっていた。

「あなたの“臆病”は、もちろん自分が傷つきたくないというのもあるんでしょうけど、『相手を傷つけたくない』というのもあるんだと思うんです」

 フィーナの声が、冷たい夜風をはっきりと切っていく。

「接してると分かるんですが、ツバサさんはそういう人です」

「そうかな……」

「そうですよ。その性格を鑑みたら、チャトの仮説はとても納得がいきます」

 戸惑う僕を楽しむように、フィーナは語った。

「身を守るために、戦うすべがほしいのはたしかです。でも、本当は誰だって、傷つきたくも傷つけたくもない。戦いのきっかけになるものをまるごと取り除けるのなら、そんなに素晴らしいことはありません」

 彼女の言葉が、少しずつ僕の胸に落ちていく。あの白い羽根の能力ははっきりと断言できないけれど、でも。

「……そうだったら、いいな」

 そう考えたら、僕は僕自身にちょっとだけ自信を持てるのだ。

 自然と微笑が零れる。フィーナはそんな僕を満足げに見ていた。

「さ、見張りはあとは私に任せてください。ツバサさんはなにか食べて、休んで」

 夜風にフィーナの髪が揺れる。

「私はこの船を動かしてしまった責任がありますから」

「それ、気にしなくていいって」

「とにかく休んできてください。その、すごいかもしれない羽根を使えるのはツバサさんだけなんですよ。力尽きてしまったら困るんです」

 やっぱりフィーナは、頑固だ。

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 挨拶を交わしたのち、僕は彼女のお言葉に甘えて船室の方へと引っ込んだ。船の中を、しばらく歩く。どこも潮と砂まみれで、ところどころ床や壁が腐っている。

 客室フロアのいちばん最初の扉を開けると、汚れた寝台にチャトが突っ伏していた。よく見るとイリスもくっついている。ひとり用の寝台にふたりで入って、小さく丸まっているのだ。薄くなったボロの布団で体を包み、すうすうと寝息を立てている。

「寒かったんだね」

 僕は無声音で呟いて、寝台に座った。ふたりがこんな寝方をするのも無理もない。どんどん気温が下がってきている。

 山脈や木々の凍る森でもこうしたように、体を寄せ合えば温かい。僕もその体温が羨ましかったけれど、寝台が狭いので諦めた。でも他の部屋に行くよりは同じ場所にいたくて、鞄から毛布を取り出し、床でくるまった。

 目を瞑ると、頭の中にお母さんの顔が浮かんだ。

 お母さんは、元の世界でいなくなった僕を心配しているのだろうか。もしかしたら、向こうでは僕はもう死んだことになっているのかも。

 一度薄く目を開けて、もう一度瞑る。眠っている間に船が沈んだりしたら、本当に死んでしまう。そして僕は自分が死んだことにも気づかないだろう。

 考えると涙が出そうだ。軽すぎる毛布の中で身じろぎして、今度こそ眠る体勢に入った。


 *


 それから、何時間経ったのだろうか。

 ガタンッと大きな揺れが、僕の目を強制的に覚ます。音と揺れに驚いて跳ね起きると、寝台から転げ落ちたチャトが僕にのしかかってきて、もう一度驚いた。

「なっ、なに? 今の」

 チャトが僕の背中にしがみついて叫ぶ。僕も体は一気に覚醒したものの、頭はまだ微睡み半分で、なにも整理がついていない。

「なんじゃ!? マモノか!? 船が沈むのか!?」

 イリスも寝台の上でキョロキョロしている。

「フィーナ殿は無事なのか!?」

「そうだ! フィーナ!」

 ひとつずつ冷静を取り戻し、僕はリュックサックを肩に引っ掛けて客室を飛び出した。バンッと扉を開けたその先に、ちょうどフィーナがいた。真っ青な顔で、甲高い声を張り上げる。

「皆さん無事ですか!?」

「大丈夫だよ。フィーナも怪我はない?」

「ええ、ちょうど今皆さんを起こしにきたところで……大変です!」

 また、船がガタンと大きく揺さぶられる。廊下が斜めになって、僕は壁にもたれかかって転ぶの耐えた。よろめいたフィーナが僕の腕にしがみつき、チャトはころんと転げた。その手をイリスが掴んで引き止める。

「マモノか?」

「いえ、私も暗くてよく見えなかったんですが……!」

 フィーナが話している間に、船の傾斜はみるみる急になっていく。

「陸に乗り上げてるみたいです!!」

「陸!? 港についたのか!?」

 イリスが叫ぶも、船が揺れる轟音でかき消される。聴覚の鋭いチャトには大きな音が僕らより響くようで、茶色い耳を両手で押さえて目をぎゅっと瞑っていた。

 傾斜がじわじわ上がっていく。このままでは、立っていられなくなる。僕は甲板に出る扉に目線を向けた。

 船が傾くにつれ、扉の位置が下がっていく。船尾を残して、船が頭から下がっているのだ。

「とにかく、陸に辿り着いたんなら船を降りる? あ、でも危ない島だったらどうしよう。船にいた方が、駆除班がルートを確認しやすいかも……」

 迷っている僕のすぐ傍で、チャトがハッと目を開いた。

「沈む!」

「えっ!?」

「水音がする。船が沈んできてる」

 僕の耳にも、ちゃぷっと水滴の音が届いた。甲板の方から、微かに聞こえる。

 躊躇っている暇はなさそうだ。

「行こう!」

 フィーナの腕を引いて、角度が急になっていく廊下を駆け出す。イリスが転んでいたチャトを引っ張り、チャトも体勢を整えた。

 甲板に続く扉がガタガタと震えている。殆ど体当たりするような勢いで扉を破り、甲板へ出た。

 外は闇に包まれていた。ただ微かに、星の光が周囲を僅かに照らしている。霧はなく、ただ冷たい風が吹き付けてくる。吐いた息が白く伸びて、暗闇に溶けていく。

「きゃ……」

 フィーナが悲鳴に近い声を出す。

 甲板はもう、半分以上が海面に飲み込まれていたのだ。

 僕らの立っているこの場所が、どんどん沈んでいく感覚がある。どうやら陸に乗り上げた衝撃で船の下部が大破し、そこから海水が侵入してきているようだ。

 暗くてよく見えないが、正面には乗り上げた陸地があるはず。しかし船の先端が沈みかけているせいで、僕らの立ち位置から十メートルくらい先まで波間の光があった。飛び移るには、遠い。

 青ざめる僕を他所に、チャトが迷いなく沈むみよしに向かって駆けていく。

「早くしないと沈んじゃうぞ!」

 いかにも獣っぽい本能的な動きで駆け降りようとする彼を、ぼくが腕を引いて止めた。

「海に落ちたら戻ってこられないよ! いくらチャトでもあんなに跳べないでしょ!」

「でも陸は近いんだし、泳げばなんとか……」

 落ちたら船の圧に押されて沈んでしまいそうだ。深さは分からないし、この気温なら水は間違いなく冷たい。マモノもいるかもしれない。しかしこの船自体も沈みかけている。恐怖で、頭が真っ白になる。

 フィーナが身を屈め、左手を正面に突き出した。

「ツバサさん、チャトをしっかり掴まえててください!」

 ピンッと鋭い音がして、周囲の空気が一瞬凍りつきそうなほど冷たくなった。途端に、弾ける水飛沫が氷の礫になって、きらっと星を宿す。

 数秒後に僕は、海面に薄い氷が張られたのだと気づいた。

 それを認識するや否や、チャトが走り出す。彼の腕を掴んでいた僕は引っ張られて一緒に氷の上へと駆け出した。海面の氷は足を乗せるとパキッと割れてしまう。冷たくて、滑って、それなのに暗くて周りが見えない。しかし恐怖を感じている隙もない。氷が割れて、沈み、海水が跳ね上がる。背後では船が海に飲み込まれていく音がする。僕の手がチャトの腕を離す。枷がなくなったチャトはより素早く駆け抜けていった。

 後ろからイリスが、そしてフィーナも続いてくる。フィーナは時折海面に手をかざし、足場を作った。本人も必死であることもあり、弱くて薄い氷が生まれては割れてを繰り返す。

 目を凝らすと、数メートル先に岩の密集した陸地が見えてきた。

 もう、そこに向かって走るしかない。

 ようやく岩に足を乗せたら、ぬるっと滑って海に落ちかけた。他の岩にしがみついてなんとか堪える。少し前を見ると、既に着地していたチャトが岩の先へとよたよた歩いていた。そして足を滑らせて海に転落しかけ、それを僕が慌てて腕を取って止めた。

 後ろを見ると、フィーナとイリスも追いついてきていた。イリスは一度は着水したようで、全身びしょ濡れである。フィーナも腰のあたりまで水に濡れていた。

 その更に後ろで、巨大な船の影がずぶずぶと海面に飲み込まれていく。その速度はみるみる速くなり、大波を立てて沈んでいった。

 突き刺すような風が吹く。僕らは波に飲まれていく巨大な影を、ただただ見据えていた。

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