15 旅絵描き

 水守族の港町の跡を通り過ぎてからは、砂漠のような砂地が延々と続いていた。

「暑い……喉が渇いた……」

 チャトが壊れた荷車の隅っこで突っ伏している。荷車の壁でできた僅かな日陰に体をねじ込み、毛が長くて暑そうな尻尾をぺしゃんこに広げていた。

 日差しを遮るものがなにもないせいで、暑さで干からびてしまいそうである。時折フィーナが魔導で空気中の水分を集めようとするのだが、空気自体が乾いているせいで魔導がまともに発動しない。

「困りましたね……飲み水がないのは致命的です」

「うむう、エーヴェまであとどのくらいなのじゃ?」

 イリスが髪を掻き上げながら地図を見ている。僕も一緒に見てみたが、周りになにもないせいで、現地点がどこなのか分からなくなってしまった。

「港町は通り過ぎて、そこからもう、一時間くらい走ったかな?」

 日がだいぶ傾いてきたのを見ると、時刻は夕方のようだ。随分長いこと日干しにされている。深夜にアウレリアを飛び出してから、僕らはまともな食事を一度もせずにきた。お腹が空いたし、喉が渇いた。お腹がすけば僕の匂いを嗅いでくるチャトですら、喉の渇きでそんな元気すらないみたいだ。

 唯一の救いは、港町で持ってきた餌のお陰で運び鳥が元気になったことだった。たまに歩かなくなってしまうことがあっても、餌を与えればすぐに元気になる。元々、人間の役に立つように遺伝子ごと躾されているマモノだからなのか、運び鳥はとても働き者だ。

 ただでさえ暑くて苦しいのに、時々強い風が吹きすさんで砂嵐を巻き起こす。細かい砂の煙に襲われると、荷車はあっという間に砂まみれになり、運び鳥が痛がって止まってしまう。美意識の高いフィーナが、体についた砂を神経質に砂を払う。チャトなんか耳と尻尾に砂が吸着してすっかり汚くなった。僕とイリスも、髪の毛に砂がまとわりついて何度も落とし、落としてはまた風に煽られて砂まみれにされた。

「なんていうか、本当に町がないね」

 僕は熱くなった荷車の板に手を乗せた。周りは、白っぽい砂で埋め尽くされている。

「かつてはここにも、人が住む町があったんだろうね。今ではこんな更地になってるけど……」

 砂の中から、哺乳類っぽい外見のマモノが顔を出したり引っ込めたりしている。ワニみたいなマモノがカンカン照りの中、日光浴をしていたり、ここにはここの生態系が存在しているらしかった。イリスがマモノたちの生活する姿を一瞥する。

「ああやってマモノが蔓延っておる以上は、人が町を興そうとすれば襲われてしまうのじゃろう」

「とはいえ、少しでも人の住む町が残っていれば助かったのに。涼風の吹く森みたいにさ。けど、これだけ土地がカラカラじゃ無理か」

 僕はごろんと荷車の床に寝転がった。板が固くて体が痛い。運び鳥の足の回転に合わせて、荷車がガタガタ揺れている。

 アルロの杖のことは、やはりよく分からなかった。チャトが見ていた様子を聞いた感じでは、僕がマモノに羽根を振りかざした途端、羽根が大きく伸びてマモノを通り抜け、切り裂かれたマモノが大人しくなったという。そこから推測すると、あの羽根にはマモノの興奮を静める力があると考えられるが、まだ分からない。あくまで一回、そう「見えた」だけである。周辺にいるマモノで試してみたい気もするが、命懸けになるかもしれないと思うと余計なことはしないで荷車に揺られていたかった。

 ここまでに、何度か伝言鳥が飛んできた。リズリーさんをはじめとする、僕らを捜す人たちからだ。中には政府が公的に飛ばしたらしい堅苦しい伝言の鳥もいたし、駆除班から知らせを受けたのか鳥族のカイルさんからも飛んできた。しかしこれまでと変わらず、イリスがちゃんと返事をせずに帰してしまう。

「カイルさんまで心配してるじゃないか。もうアウレリアに帰ろうよ……」

 困っている僕を見て、フィーナが言う。

「イリスさんがここまで頑なにエーヴェを目指すんですから、彼女が竜族というのは嘘ではないと思います。そうだとしたら、彼女の話を取り合わないアウレリアに戻るのは時間の浪費なのでは?」

「滅亡した種族を名乗ってるのを信じるの?」

 僕が怪訝な顔をすると、チャトが冗談を聞いたみたいに吹き出した。

「ツバサこそ、異世界から来たじゃん!」

「それを言われちゃうとなあ」

 異世界から来た僕が実在するのだから、滅亡した竜族が残っていることもありうる、のだろうか。僕は高い空へ飛び去る伝言鳥の背中を見上げた。

「伝言鳥に食べ物や飲み物を持たせてもらうことはできないのかな? 折角街と行き来してるんだから、物資を持ってきてもらえたら助かるよね」

 しかしフィーナは首を振った。

「生憎、伝言鳥は荷物を運ぶことはできないんです。伝言鳥は頭の良さと飛行能力を高めた鳥なので、どんなに小さな荷物でも足に結びつけると、重たくて飛べないんです。持たせられるのは小さなメモまでですね」

「そっかあ。困ったな。喉が渇いたよ」

 僕は寝そべった姿勢で、憎たらしい太陽を睨んだ。額から汗がこぼれ落ちる。天日干しにされて、からからの干物になりそうだ。

 この乾きのせいで土地が痩せており、地面も地割れを起こしていた。そんな割れ目を、運び鳥は自主的に避けて進む。同じ風景の中、延々と肌を焼かれ続ける。無限に終わらない地獄のような気がしてきた。

「このまま夜になったら危ないよね。マモノから身を隠せる場所がない」

 僕がぽつっと言うと、フィーナが真顔で頷いた。

「それもありますし、こういう地形の場所は、日があるときは暑いのに夜はものすごく冷え込みます。危険ですね」

「でも、夜中も走りっぱなしというわけにはいかないよね」

「運び鳥は夜は殆ど目が見えないので……。アウレリアから出てきたときも、真っ暗で怖くてパニックになってました」

 そうか、運び鳥は鳥だから、鳥目なのか。僕はそんなことを考えながら目を閉じた。夕方の眩しい日差しのせいで、まぶたの裏まで真っ赤に見える。

 チャトが体を起こして耳を立てたのは、そんな道程の途中だった。

「ん!? 水音がする!」

「えー、この環境に水?」

 砂漠のような光景からは信じられない言葉だった。僕が訝ると、チャトは目を瞑って耳をぴくぴくさせた。

「少しだけどね。木が揺れる音も聞こえるぞ」

「この不毛の大地に?」

 喉が渇いたあまりに幻聴が聞こえはじめたのではないかと疑った。が、先頭にいたイリスが立ち上がって叫んだ。

「本当じゃ! あそこに木が群生しておる!」

「えっ!?」

 僕も跳ね起きて正面を見た。チャトとフィーナも、荷車の上で背伸びする。

 かぴかぴに乾いた荒野の果てに、ぽつりぽつりと緑が見える。木があるということは、そこには水があるのだ。

「やった! あとちょっとの辛抱だね」

「水が近いぞ!」

 僕はチャトと共に両手を振り上げて喜んだ。そのタイミングで砂吹雪が吹いて、僕とチャトの汗ばんだ腕は砂まみれになった。

 地図を見ても、オアシスらしきものは描かれていない。この地図が作られたときには確認されていなかった場所なのだろう。

 運び鳥が緑の塊に向かって走っていく。割れた地面を避けて遠回りしながらも、着々とそのオアシスへと近づいていった。

 やがて、青々とした樹木が立ち並ぶその中へ、僕らは吸い込まれた。こんな草木も燃え尽きたような大地に突然出現したその木陰は、ひんやりと涼しくて天国みたいだった。

 木々の間を進むと、その真ん中にきらっと光が見えてきた。チャトが目を輝かせる。

「水だー!」

 目の前に広がるのは、学校の五十メートルプールと同じくらいの広さの泉だ。透き通った水面がきらきらと光を反射して、漂う星に目を細めてしまう。

 その周囲は、今までの乾燥した大地が嘘だったみたいに緑が蔓延っている。涼しくて空気がしっとりして、気持ちいい。

 運び鳥が立ち止まる前に、チャトが荷車からまろび出た。

「やっと水を飲めるー」

 ぺしゃっと地面に落っこちて転がりながら体勢を立て直し、泉にかけていく。そのまっしぐらな行動に目を剥いて、フィーナが身を乗り出した。

「危ないですよ! マモノがいるかもしれないですし!」

 チャトは既に泉の淵まで行き着いていて、僕らを乗せた運び鳥もその隣に到着した。運び鳥が真っ先にくちばしを泉に突っ込み、ゴクゴクと水を飲みはじめた。僕は荷車から足を下ろし、その横顔を覗く。

「鳥が飲んでる。まだこの水が安全に飲める水かは分からないのに」

「鳥が飲めるなら大丈夫だよ!」

 チャトが泉に手を突っ込もうとしたときだ。

「その水は安全よ。エーヴェの海水が自然洞窟で濾過されたものが、地下水になって流れ、湧き出たものなの。世界一ともいえるくらい、きれいな水よ」

 ふんわりした、女の人の声がした。誰もいないと思っていた僕らは、びくっと肩を跳ね上げて声の方を振り向いた。

「旅人さんかしら? 子供だけのパーティなんて珍しいわね」

 艶のある黒髪のおねえさんが、こちらに歩み寄ってくる。髪には青地に白い模様のヘアバンドのような髪飾りを垂らしていて、日焼けした肌に映える緑色の目がすごくきれいだった。

「飲めるって! よかった、干からびるとこだったぞ」

 チャトが無邪気に泉の中へ手を浸す。僕も、恐る恐るその水を手で掬った。僕は水は水道から出るのが当たり前だと思っていて、こういう自然の水を飲んだことがない。手のひらにできた小さな水溜まりは、一切の淀みなく透き通っている。夕日を浴びてきらきらしていた。思い切って口に含んでみると、冷たくてすっと体に馴染み、全身の力が抜けた。

「生き返る……って、こういうときに言うんだろうね」

「大変だったのね」

 黒髪の女性は微笑んだ。耳の形などから、識族のようだ。だがその服装は、アウレリアやメリザンドで見かけた雰囲気とは少し違い、やや肌の露出が多く布地も軽そうだった。手には、スケッチブックらしき紙の束を抱えている。

「あなたたち、どこから来たの?」

「初めまして、僕たちはアウレリアから来ました。エーヴェを目指してます」

 僕がお辞儀をすると、彼女は口元に指を添えた。

「アウレリアからだったらこのオアシスは通らないから、どこか地図にない別の地から来たのかと思った」

「えっと、ちょっと遠回りしてしまって……」

「エーヴェまではもうすぐよ。ここからなら、何事もなければ半日で行ける」

 おねえさんの言葉に、僕はフィーナとイリスと顔を見合わせた。

「やった! なんとかなりそうだね!」

「ほらの、私の言ったとおり無事だったじゃろう」

 イリスが胸を張る。そんなやりとりを見て、黒髪の女性はくすっと笑った。

「ただ、エーヴェに行くには海を越えなくちゃならない。船がないと行けないわ」

「そういえばエーヴェは島都市だった。イリス、エーヴェに行く船はどうする予定?」

 僕がイリスに尋ねると、したり顔だったイリスがそのまま硬直した。どうやら、そこは見通していなかったようだ。

 黒髪の女性は、髪を掻き分けて苦笑した。

「私はシルヴィア。エーヴェから来たの。よかったら、私の船に乗っていく?」

「本当ですか!? とっても助かります!」

 フィーナが目を輝かせる。シルヴィアさんは小首を傾げて続けた。

「ただし、今からエーヴェに向かうと、夜中の海を進むことになる。それは危ないから今夜はこのオアシスで休んだ方がいいわ。朝になったらここを出ようね」

「そっか。真っ暗な中、海を行くのは怖いですよね」

 僕は日の沈みかけた空を見上げ、眩しくて目を細めた。走ってきたのは運び鳥であり、僕らはただ荷車に乗っていたにすぎない。だが、座り心地の悪い荷車に延々と揺られ、お腹も空いて、暑くて、体は疲弊していた。運び鳥も、水を飲んだらすぐに背中にくちばしをうずめて眠ってしまった。

「この子には無理させちゃったね。ありがとう」

 僕はぐっすり眠る運び鳥の背中を撫でて、また泉の水を口に含んだ。

「シルヴィアはなにしに来たの?」

 すっかり元気になったチャトが、シルヴィアさんに近づいた。彼女はチャトにスケッチブックを見せる。

「絵を描きに来たの。この泉の絵をね」

「すごい! 上手!」

 チャトがスケッチブックを前に叫ぶ。僕もその用紙に目を向け、おお、と感嘆した。

 明るい緑色の木々に囲まれた、美しく澄んだ泉の絵だ。薄紅の空がオアシスを包み込み、その日差しで泉が煌めく、その様子まで描かれていた。

 チャトが耳を立てて、尻尾をぱたぱたさせる。

「シルヴィアは画家さんだったんだね。有名な人?」

「そんなことないわ。エーヴェの美術学校を出たばかりの、駆け出しの旅絵描きよ」

「旅絵描き?」

 僕は耳慣れない言葉を反復した。シルヴィアさんが頷く。

「ええ。絵の修行のために、美しい景色を求めて旅をするのが旅絵描き。マモノに出会う可能性もあるから、最近はやらない人も多いんだけどね」

 チャトが彼女の絵を、吸い込まれるように眺めている。

「こんなに上手なのに、これでも修行中なんだ。すっごく上手だから、玄人かと思ったよ」

 シルヴィアさんはチャトの頭を撫でて、苦笑いした。

「そうかなあ。でも、ありがとう」

 その複雑そうな表情に、イリスが顔を上げる。

「む? シルヴィア殿は、その絵が気に入らぬのか」

「納得がいかないのよね」

 シルヴィアさんは自分の描いた絵を睨み、泉に目をやった。

「全然満足できなくて、何度も何度も描き直してる。でも、どれだけ描いてもまだだめなのよ」

 フィーナがチャトの横に来て、その絵をまじまじと覗き込んだ。

「素敵な絵だと思いますけど……」

「うむう、良い絵じゃがのう。シルヴィア殿が気に入らぬというのなら、なにかが足りぬのだろうな」

 イリスも傍で眺めはじめたが、それでもシルヴィアさんは首を捻っていた。

「なにが足りないんだと思う?」

「素人にはさっぱり……」

 フィーナが申し訳なさそうにこたえた。シルヴィアさんは、絵をひと睨みしてため息をついた。

「私も集中し続けて、疲れが出てるのかもしれないわ。あなたたち、ご飯食べてないわよね。これから一緒にどう?」

 シルヴィアさんはそう言って絵を畳み、食事の支度をはじめた。


 *


 久しぶりに、お腹いっぱい食べた気がした。シルヴィアさんが持ってきていた即席のシチューみたいなものに加え、僕が持っていた食べ物も一気に消費した。エーヴェまでの距離が近いと判明したので、それまでのようにちびちび節約する必要がなくなったからだ。

 シルヴィアさんは即席で作ることのできる食品を持っていた上に、調理台や火起こし燃料、果てはテントまで持っていた。

「ひとり用のテントだから狭いけど、あなたたち小さいから大丈夫ね」

 彼女は手際よくテントを組み立てて、僕らに寝床をくれた。僕はこの圧倒的準備の良さに驚愕していた。

「そっか、旅の絵描きさんだからこういう支度もしてるんですね」

「ええ。夜までじっくり描くこともあるから灯りは大切だし、マモノ対策も取らなくちゃいけないし。旅の絵描きも大変なのよ」

 シルヴィアさんはテントの壁に手のひらを寄せ、笑っていた。

 僕は絵心がからっきしである。だから、シルヴィアさんのような絵描きさんがどんな努力をしているのか、想像できない。でも海を越えて都市を離れ、この場所で何時間も描き続けるというのだから、単純にすごいなと思う。

 お腹がいっぱいになって満足したチャトはすぐにテントに入って寝てしまい、その面倒を見ていたフィーナも一緒に眠ったようだった。イリスは、目を覚ました運び鳥に餌を与えていた。

 僕はシルヴィアさんと一緒に泉の淵に座り、彼女が入れてくれた温かいミルクを飲んでいた。

「すごいなあ、旅をして絵を描き続けるなんて」

 僕がそう洩らすと、シルヴィアさんは手元に置いたスケッチブックを一瞥した。

「これ、集中して一日かけて描いたのに、納得のいく絵にならなかった。悔しいわ」

 泉の水面に星の明かりが映っている。すっかり日が沈んだこの場所は、フィーナが言っていたとおり冷え込んでいた。

「このオアシスは、美しい場所としてエーヴェでは有名なの」

 シルヴィアさんが目を瞑った。

「画家のたまごの多くが、ここへ来てこの場所の絵を描く。題材として人気の景色なの。だから私も、ここへ来て誰より美しくこの泉を描きたかった。そのためなら、何日でも滞在してやるつもりだったわ」

 ちょっと冗談めかして言う彼女の向こう側に、絵が放り出されている。僕は暗闇の中にぼんやり浮かんで見える、その用紙を眺めた。

「うーん、チャトたちも言ってたけど、僕もすごくきれいな絵だなって思いましたよ?」

 描けるだけでも素晴らしいことなのに、シルヴィアさんは悩んでいた。

「本当にそう思ってる? 褒められるだけじゃだめなのよ。できれば本音でダメ出ししてほしいんだけど……」

 そう言ってから、彼女は遠くを見つめて呟いた。

「『だめなところは自分がいちばん分かっているから、いいところだけ教えてモチベーションを上げてほしい』と言う絵描きもいる。でもね、だめなところを自分で分かってたら、とっくに直してるのよ。分からないから、こうして自分探しの旅をする」

 シルヴィアさんの声が、水面に吸い込まれていく。僕はホットミルクの湯気を、黙って見ていた。

「以前、都市最大の絵の祭典で、私の絵はあとちょっとのところで受賞を逃した。で、絵描きの先生に言われたいの。『なにが足りなかったのかは、自分で分析しなさい』と」

 ほんの少し、風が吹いた。木々がさわっと鳴って、水面が僅かに揺れた。

「だけど、自分じゃ分からなかった。完璧な絵だと思ってるという意味じゃなくて、なにかが足りないのは分かるけど、なにが足りないのか分からない、そういう感じ。でも画家仲間に聞いても褒めるばかりでなにが欠けていたのか教えてくれなかった。先生も、説明してくれなかった。結局私は、自分の絵になかったものが今でも分からずにいるの」

 シルヴィアさんがぽつぽつ話すのを、僕はミルクを飲みながら聞くことしかできなかった。

「褒められたら伸びる、というのも、事実なんだけれど……私はだめなところはだめだと、はっきり言われたいの」

「だけど、僕にもどこがだめなのか、さっぱり」

 ご機嫌取りでもなんでもなく、僕にはこの絵のなにがだめだったのかがわからない。シルヴィアさんはひとつため息をつき、僕に微笑みかけた。

「そうよね、ごめんね。ツバサくんに頼むことじゃないわよね」

「お力になれず、ごめんなさい」

「こっちこそ、愚痴を吐いてしまってごめんね。気にしないで、絵描きは大体、皆こういう難題に頭を悩ませるのよ。皆一緒、なにも私だけが特別じゃない」

 シルヴィアさんが諦めたような言い方をする。僕は、両手でミルクのカップを包んでいた。

「特別じゃなかったら、皆と一緒だったら大丈夫ってわけじゃないでしょ。シルヴィアさんが今苦しんでるという事実は変わんない」

 言ってから、僕はミルクの丸い水面に俯いた。

「なんて……僕にもなにもできないんだけど……」

「聞いてくれただけでも嬉しいわ。ありがとうね、ツバサくん」

 シルヴィアさんが僕の背中に手を回し、肩を抱き寄せてきた。僕はこてっとシルヴィアさんに寄りかかる姿勢になってしまい、慌てて彼女を見上げた。

「僕はなにもできてないです! 素人ながらになにか分かればよかったんだけど……!」

「なるほどのう」

 突然後ろからイリスの声がして、僕はびくっとした。体勢を立て直そうとしたが、シルヴィアさんが僕の肩をしっかり掴んでいるので動けなかった。

「甘やかされるだけでは成長せぬと、シルヴィア殿は分かっておるのじゃな。まあ、私は成長しなくてもいいから甘やかされたいがの。お主が成長を望むのなら、私が再度よく見てやろう」

 僕らの会話を聞いていたらしい。運び鳥に餌を与え終えたイリスが、背後から近づいてきた。シルヴィアさんをまんなかにして彼女も泉の淵に座り、放ってあった絵を拾う。

「シルヴィア殿は絵が上手い。写実的で、デッサンに狂いがない」

 イリスは偉そうに足を組んで、絵を眺めた。

「ただ、それだけなのじゃ。パッションがない」

「……そうなの?」

 シルヴィアさんは僕を放し、きょとんと目を丸くした。イリスが人さし指を立てる。

「よいかシルヴィア殿。絵をいうものは、上手なだけでは意味がないのじゃ」

「そうなの?」

 今度は僕が、シルヴィアさんと同じ反応をした。イリスは大きく頷いた。

「絵に限らずじゃがの。表現の技術があるにこしたことはないけれど、本当に大事なのは『なにを表現するか』なのじゃ。『ある姿』の問題ではない。『在りよう』の問題じゃ。シルヴィア殿はこの絵を描くことで、『なにを描きたかった』のじゃ?」

 イリスの言っていることは、僕には難しくてよく分からなかった。シルヴィアさんもしばらく考え、言った。

「……分からない」

 しかしこれは、僕の「分からない」とは違うもののようだ。

「私、ただ正確に描くばかりで、なにを表現したかったのか、決まってないわ」

「きっとそこなのじゃ。お主が訴えたいものがあやふやだから、ただそこにあるただの風景になってしまったのじゃ」

 イリスはスケッチブックをシルヴィアさんの膝に乗せた。そこにあるのは、美しく描かれた泉の景色の絵。ただ、美しいだけのものだ。僕が美しいと感じるものはあるが、シルヴィアさんがなにを言おうとしているのかは、この絵からは伝わってこない。

「ただ上手に描きたいだけなら、それでもよいのだ。だが、シルヴィア殿は自分で納得できていない。お主が納得できる作品というのは、メッセージの在り処でないといけなかったのではないかの」

 なんか、分かった気がする。

 僕はテントの横に放置した、リュックサックに目をやった。横のポケットから魔族のアルロに貰った杖が顔を覗かせている。

 あれは、僕の心の形に変化するといっていた。しかし僕がどんなに闘士を持とうと、どんな気持ちでいようと、羽根の姿にしかならない。きっとあの羽根が、僕の「在りよう」なのだ。

 シルヴィアさんは、自身の絵を見つめていた。

「……私なんて、空っぽなのよ」

 声が静かな泉の水面に落ちる。

「優しくもないし面白いことも言えないし、人になにかを与えられる人間じゃない。だから私は、自分自身の存在価値を、制作することにしか見いだせない。なにも作っていない自分は、全くの無価値のような気がして」

 彼女の言葉が、僕の胸にのしかかる。声を詰まらせる僕を一瞥し、シルヴィアさんは目を伏せた。

「描いたものの価値が私自身の命の価値だと思ってるの。もちろんそれは歪んだ価値観であることも自覚しているんだけど、でも心の根っこでそう思っているから、意識が変わることももうない」

 旅をして、何時間も絵に集中する、それがシルヴィアさんの考える生きる意味なのだろう。僕はホットミルクに息を吹きかけた。

「ふらふらになってここにやってきた僕らを助けてくれたのは、シルヴィアさんだよ。優しいって思ったし、話してて楽しかった」

 ミルクの湯気が鼻腔を擽る。鼻先を濡らす温度は、甘くて柔らかかった。

「シルヴィアさん、絵を描きはじめたきっかけは? 存在理由を探すためだったんですか?」

 僕がそう問いかけたとき、シルヴィアさんはハッと目を大きく開いた。

「きっかけ……そうだ。私、上手く描くことばかり考えてた。どうして絵を描きたかったのか、忘れてた……」

 膝に乗せられたスケッチブックを手に取った。

「子供の頃、やんちゃして怪我をしたことがあってね。そのときお母さんが、包帯を巻いてくれたの。痛くて泣き止まない私を元気づけようとして、お母さんは包帯に、花の絵を描いてくれた」

 懐かしそうに言って、シルヴィアさんがスケッチブックの淵を撫でる。

「決して、上手な絵ではなかった。でも私は嬉しくて元気になったの。そして、絵の力でこんなに明るい気持ちになれるということにびっくりした。私も、泣いてる人がいたら、笑わせてあげられるような……そんな絵を描きたいと思った」

 シルヴィアさんはスケッチブックで膝を打ち、両手で片方ずつ、僕とイリスの頭を撫でた。

「ありがとうツバサくん、イリスちゃん」

「ふあっ!? なにをするのじゃ!」

「あなたのお陰で大事なことを思い出した。本当にありがとう」

 驚いて目を白黒させるイリスの反応などお構いなしに、シルヴィアさんは何度もお礼を言った。

「ありがとう! 私、また最初から描き直す。ありがとう」

「う、うむ。気づいたのならよかったのう」

「皆、明日はエーヴェに向かうんだものね。私も今日はもう寝るわ。ふたりも早く寝なさいね」

 シルヴィアさんは晴れ晴れとした笑顔でくるりと泉に背を向け、テントに入っていった。台風のような勢いに、僕はぽかんとした。イリスも呆然とテントを見ている。

「すごいねイリス、芸術が分かるんだね」

 僕がイリスの横顔にぼそりと言うと、イリスはテントを見つめたまま真顔で返した。

「いや、全く分からぬ。さっきシルヴィア殿に言ったことは、全部テキトーじゃ」

「え!?」

 思わず大声を出すと、イリスはバチッと僕の口を塞いだ。

「しっ。私だってびっくりしておる! でも、いい加減に言ったとシルヴィア殿にバレたらいけない。大声を出すな」

「ごめん。けど、テキトーだったの? なんで分かりもしないのにそれっぽいこと言ったんだよ」

 僕はイリスの手を押し退けて、今度は小声で聞いた。イリスは決まり悪そうに腕を組んだ。

「私は竜族じゃぞ? 流星の占いで未来予知をする、神秘的な種族じゃ。それが悩んでおる者に手を差し伸べることのひとつできなくてはみっともないじゃろう」

「上から目線でアドバイスしたかっただけってこと? 見栄っ張りなんだから」

 呆れた、偉そうに言うから分かっているのかと思えば。イリスも自分から喋ったくせに、展開に驚いているようだった。

「じゃがシルヴィア殿が納得しておるのだから、私の説教に筋が通っておったということじゃろう? 結果よければよいではないか」

「イリスってそういうとこあるよね」

「だって、こんなに親切にしてもらってなにも返さないというか……無能と思われたくないではないか!」

 イリスは唇を尖らせた。

「それに、ツバサ殿を見ていて率直に思ったのじゃ」

「僕を?」

「ツバサ殿は、芸術のことなどとくと分からぬ様子じゃったが、シルヴィア殿の話を真剣に聞いていた。できないなりになにかしようとする、『在りよう』が伝わってきたのじゃ。分からなくても、できなくても、なにかできないか探そうとする、そういう在り方じゃ」

 僕はミルクに息を吹きかけてイリスの話を聞いていた。

「それも、後付けでテキトーに言ってるんじゃないの?」

「むっ。これは本音じゃぞ」

 イリスは僕をひと睨みし、立ち上がった。

「私も寝るとする。ツバサ殿も、そのミルクを飲み終えたらさっさと寝るのじゃぞ」

「うん。おやすみ」

 僕はミルクのカップに口をつけた。冷え込みに晒されて、ちょっとぬるくなっている。

 僕の心の形、在りようが、アルロの杖の形だとしたら、あれはなにを表現したものなのだろう。白くてふわふわしているけれど、僕がそんなに穢れない存在ということもない。やはり、考えてもよく分からない。

 僕はミルクをぐいっと飲み干して、ひとつ息をついた。


 *


 翌朝、目が覚ますとシルヴィアさんが朝食を作ってくれた。なんらかのマモノの干し肉を挟んだ、サンドウィッチみたいなものだった。

 食事を食べ終わるなり出かける支度をはじめたシルヴィアさんは、僕らに言った。

「大陸の浜辺とエーヴェの間を行き来する海運び鳥の船を止めてあるから、そこまで送るわ。私はもう少し旅を続けるから」

 そんな彼女を見て、フィーナが問いかける。

「シルヴィアさんは私たちを案内してくれたら、またこのオアシスに戻って絵を描くんですか?」

「そうねえ、このオアシスはもういいかな。この場所に私の描きたいものはないみたいだから。別の場所へ向かうわ」

 シルヴィアさんはからっと笑って手をひらひらさせた。彼女が悩んでいたところまでしか見ていないフィーナは首を傾げ、チャトも不思議そうにまばたきしていた。シルヴィアさんは多くを語らず、太陽が上る空の逆側を見据えた。

「それより、なるべく日が高いうちに海を越えた方がいいわよ。行こう」

 アウレリアから夜逃げみたいに脱走して、丸一日。いよいよ、エーヴェに着く。

 シルヴィアさんが持ち込んでいたキャンプ道具を運び鳥の荷車に積み込み、僕らも乗り込んだ。シルヴィアさんも乗り、荷車は狭くなった。オアシスから西へ、鳥が駆け出す。

 ガタガタ揺れるシルヴィアさんの荷物を、フィーナが見ている。

「シルヴィアさんは、このたくさんの荷物を抱えて海を越えて来たんですね」

「それだけなら大した距離じゃないからね。アウレリア、メリザンド間の行き来より、こことエーヴェの間の方がずっと短いわよ。これからの旅は、もっと長い」

 シルヴィアさんが荷車の淵で頬杖をつく。黒髪が風に靡いていた。

「この辺りはね、エーヴェの島が浮かんでる海が近いから、塩害で砂漠化してるのよ」

 シルヴィアさんの説明を聞いて、チャトが彼女を振り向く。

「海のせいで土地が枯れちゃったってこと? でもさっきのオアシスは、海水がきれいになったもの湧いてきたできたんだよね?」

「そう。海の塩で砂漠になったけど、海の力でオアシスが生まれてる。自然って不思議よね」

「ふうん」

 聞いたくせによく分からなかったらしく、チャトは雑な返事だけして荷車の外の景色を眺めはじめた。風にそよそよするチャトの尻尾を見つめ、シルヴィアさんが頬杖をつく。

「私も、この砂漠と同じなのかもしれないわ」

 彼女の呟きが、風に乗って僕の耳にも届く。絵のために自分を見失い、絵のお陰でそれを取り戻した。彼女はきっと、体が芸術でできているのだ。

 西の方角に海が見えはじめると、砂漠が砂浜に変わり、運び鳥が歩を緩めた。柔らかい砂にざぶざぶと足を沈め、やがて波打ち際で立ち止まる。

「ここから真っ直ぐ海を進めば、エーヴェの港に辿り着くわ」

 シルヴィアさんが海を仰いだ。僕も広がる海原に目をやる。遠くは白い霧で霞んでいるものの、その中に浮かぶ島の影が見える。あれが、エーヴェだ。

「あそこにあるのが、私がエーヴェから乗ってきた船よ」

 シルヴィアさんが荷車から指をさす。その先を見ると、浜辺に小型のボートのようなものがあり、隣には白い水鳥が大量に座っていた。

「なにあれ、あんなマモノ初めて見た。船が囲まれてるよ?」

 チャトが不思議そうに言うと、シルヴィアさんはああ、と説明した。

「あれは海運び鳥。エーヴェの海運ではもうすっかりメジャーになったけれど、鳥族が開発したばかりの新種のマモノよ。あれが船を引っ張るの」

「陸の運び鳥だけじゃなくて、空ときて、海もいるんだ……」

 僕はおしくらまんじゅうする白い羽毛の塊に驚いていた。シルヴィアさんの髪が潮風に揺れる。

「陸の運び鳥のように所有者がいるタイプじゃなくて、伝言鳥みたいに野生のものを集めて使うタイプのマモノよ。船の傍にいると餌を貰えるのを知ってるから集まってきてるの。あれだけいれば船はすぐに出航できるわ」

 それから彼女は、さてと荷物に手を伸ばした。

「私はここまで。エーヴェと大陸の間の海域は安全だから、あなたたちだけでも大丈夫」

「シルヴィアは、これからどうするの?」

 チャトが尋ねると、シルヴィアさんは宙を見上げた。

「そうねえ……アウレリアにでも行ってみようかな。あそこの坂の高いところから、海に浮かぶエーヴェを見て絵を描きたい」

「アウレリアに行くんですか!? だったら、この荷車を使ってください!」

 僕が言うと、シルヴィアさんは目を丸くした。

「助かるけど、でもこれはあなたたちの鳥でしょ?」

 僕は荷車の前に座る運び鳥を一瞥し、素直にこたえた。

「荷車とあの運び鳥は、アウレリアの管理局が用意していた鳥なんです。それを勝手に連れ出してきてしまったので、アウレリアに行くんなら、そのままこの鳥も連れて行ってあげてほしいんです」

「そういうことだったのね。私も荷車があれば助かるし、ぜひこの子と一緒にアウレリアに行かせてもらうわ」

 シルヴィアさんが苦笑して、運び鳥の褐色の背中に目をやった。

「エーヴェからは行商の運び鳥が乗った貿易船が出る。帰りはアウレリア行きの便に乗せてもらうといいわよ」

「それなら安心です。ここまで親切にしてくださって、ありがとうございました」

 僕がぺこりとお辞儀をすると、フィーナとイリスも続いてお礼を言い、チャトも遅れて真似をした。シルヴィアさんは微笑み、白い鳥がたかっている船の方へと腕を広げた。

「さあ、海運び鳥が集まってるうちに行きなさい」

「うん!」

 チャトが荷車を飛び降り、砂浜を駆け出した。ぽつぽつと等間隔に並ぶ足跡を追いかけ、イリスも荷車を降り、フィーナもその後を追った。僕も行こうとして、シルヴィアさんに腕を掴まれた。

「やっぱり、ちょっと待って」

 引き止められて振り向くと、シルヴィアさんは大荷物の中からスケッチブックを取り出した。

「ギリギリまで迷ったけど、決めた。これを貰ってほしいの」

 言いながら彼女は、紙束の中からその一枚をビリビリと破りとった。差し出された一枚を受け取り、僕は息を呑んだ。

 淡い色彩の絵の具で描かれた、僕らの姿だ。テントの中で眠っていた様子だと思われる。左端に僕、隣で足を投げ出すチャト、それを抱き寄せるフィーナ、フィーナの背中にくっつくイリス。

「寝てる姿を勝手に描いてごめんね。でもなんだか、たくさんはしゃいで疲れちゃったような眠り方と、寄り添い合う信頼感とか、そういうものを感じて……記録せずにはいられなかったの」

 シルヴィアさんは、言い訳でも並べるかのようにたじたじと話した。

「最初に見たときは子供ばっかりでびっくりしたし、今も心配。でも、少し話してみたら、思ってたよりずっと頼もしかった。あなたたちはまだ子供で弱いから、だからこそ協力し合ってきたのよね」

 彼女の声を聞きながら、僕はまた絵に目を落とした。眠る僕らを起こさないように、さっと急いで描いたようだ。泉の絵よりあっさりとしていて、淡く透き通る絵の具がすごくきれいだった。

「寝姿だし、勝手にモデルにしたし、私自身がドキリとしたものだったしで、これをあなたに渡すのは躊躇しちゃったんだけどね。でも、私にはあなたたちがこんなに羨ましいってことを知ってほしかった。よかったら受け取って」

 シルヴィアさんが照れくさそうに笑い、僕もはにかんだ。

「ありがとうございます」

「いつかあなたたちがその絵を自慢できるくらい、有名な画家になってみせるから」

 バサササ、と、鳥の羽音がした。チャトが船に近づいてくるのを見て、海運び鳥たちが反応しているのだ。大勢で白い羽根を羽ばたかせてアピールしている。

「これ、海運び鳥の餌ね。行きたい方向に向かって船から投げれば、鳥が船を引っ張るわ」

 シルヴィアさんが瓶に入ったペレット状の餌をくれた。僕も鞄から、水棲マモノの腐肉を取り出す。

「この荷車の運び鳥はこれを食べます。途中でお腹をすかせたら食べさせてあげてください」

 僕とシルヴィアさんは互いに餌を交換し、僕は荷車から降りた。

「じゃ、気を付けてね!」

「シルヴィアさんも。運び鳥をよろしくお願いします」

 僕は胸に彼女の絵と海運び鳥の餌を抱え、一礼した。

 シルヴィアさんが運び鳥に指示を出す。運び鳥はぶるぶるっと体を振って、太い脚で走り出した。砂浜の砂がぴんぴん跳ねてくる。荷車に乗るシルヴィアさんが遠のいていく。ここまでの旅を共にした運び鳥とも、ここでお別れだ。

「ばいばーい! またね!」

 先を行っていたチャトが大きく手を振る。フィーナはお礼を言い、イリスも飛び跳ねて手を振った。砂浜の砂が巻き上げられて砂煙になる。運び鳥はみるみる加速して、シルヴィアさんの姿はすぐに東に向かって消えた。

 シルヴィアさんが残してくれた船に近づくと、白い海鳥型の運び鳥たちがギャアギャア鳴いた。チャトとイリスは既に船の上に乗っており、フィーナは周りをくるくる回って船の形を調べていた。

「私、船を使うの初めてで……」

「シルヴィアさんに海運び鳥の餌を貰ったよ。これを進行方向に投げて、海運び鳥を引きつけるんだって」

 僕は鳥に奪われないようにこっそりフィーナに瓶を見せた。

 船は実に簡素な造りのものだった。大人が五、六人くらい乗る大きさの、カヌーに似た形状のものだ。先端に頑丈そうな綱が十本ほどついており、その先には足輪が結ばれている。ここに海運び鳥を繋げるのだろう。その足輪は船上にたくし上げられているが、綱の根元である船の先端は海水についていた。

 海運び鳥は、近くで見ると意外と大きかった。ダチョウクラスである陸の運び鳥に比べれば小さいが、それでも彼らの頭は僕の腰くらいの高さにある。白くて丸々とした外見は、アヒルに近い。でもくちばしはカモメに近くて、やはりイフの鳥とは全く違うものであることを実感させられた。船を運ぶことを前提として生み出されたマモノであるからか、水かきのある足はがっしりと太い。人馴れしており、僕らが近づいても怖がらないどころか、船に乗ったチャトとイリスに寄り添って座っているものすらいる。

「あの足輪を繋ぐんだよね。おいで」

 僕は足元にいた鳥にそっと両手を伸ばした。鳥はのたのた歩み寄ってきて、僕を見上げた。頭や背中を触ってみても、大人しくしている。綱を一本取ってみて、近づいてきた鳥の足に足輪をつけた。フィーナが同じ要領で別の鳥にも足輪をつける。見ていたチャトとイリスも、一緒に乗っていた鳥を連れて船から降りてきた。鳥は抵抗しないし、全員で作業したお陰で全ての綱に鳥が繋げられた。まだ海運び鳥は余っているが、船を動かすにはもう充分だ。

 僕らは船の上によじ登り、西の果てに浮かぶ島に目線を飛ばした。チャトが腕を振り上げる。

「よし、出航だあ!」

「うん、行くよ!」

 僕は鞄の中に隠した海運び鳥の餌をひとつ握り、浮かぶ島の方向に向かって投擲した。餌が飛んだことに気づいた海運び鳥が、一斉に突き進む。

「うわあっ」

「捕まって!」

 誰ともなく叫んで船の淵にしがみつく。パシャッと水音がして冷たい雫が跳ね、僕の頬を微かに濡らした。海運び鳥に引っ張られた船が着水し、勢いよく海を進んでいく。

 唖然としているうちに、最初の餌が食べられたらしい。海運び鳥たちが不服そうにギャアギャア鳴き、自由に動きはじめた。

「ツバサ、遅いよ!」

 チャトが僕の鞄から餌を取り、ぶん投げる。弧を描く餌に海運び鳥たちの目線が見事に吸い寄せられ、全員が真っ直ぐ餌に向かって泳ぎだした。船がずんずん進む。

 周りには足輪をつけられていない他の海運び鳥も、餌につられてついてきている。それが船の周りを泳ぐので、海流ができて船が滑らかに動いているようだ。チャトが餌を投げると僕より飛距離が出るので、それを追いかけて鳥たちが急ぐ。餌を投げるたび、船は加速した。

 餌に気がついて、今までいなかった海運び鳥も集まってきている。いつの間にやら僕らの船は白い羽毛に取り囲まれていた。

「足を繋がれてない鳥の方が、有利に餌を食べられるよね。これは繋がれて船を引いてくれてる鳥がかわいそうじゃない?」

 僕が横から口を挟むと、フィーナがこっそり餌を手に取った。そしてチャトが別の粒を投げている間に、フィーナがそっと近くの鳥にも餌を撒く。周りの鳥が、遠くに投げられた餌を追いかけてV字の水流を作り、船を引く鳥が、やや近めに投げられた餌を追って船を引く。上手い関係構造が構築されて、船は順調に進んだ。

 風はなく、天気もいい。砂漠と違って水があるお陰か、暑くもない。かといって寒くもない。絶好の航海日和だ。

 僕は日差しに煌めく波間を見渡した。

「シルヴィアさんが言ってたとおり、安全な海域みたいだね。怖いマモノもいない。海運び鳥が大量にいるだけだもんね」

「そうですね。入江で見たような大きな水棲マモノがいたらどうしようかと思いましたが、いそうな様子もないですし」

 フィーナが餌を投げながらこたえる。餌がひゅっと薄紅の空を飛び、水面にポチャッと落ちる。船のいちばん後ろに座っていたイリスが、その餌の行方を眺めて言った。

「元来マモノは、人の生活を脅かすものではなかった」

 船の淵に肘を乗せて、彼女はどこか遠い目をしていた。

「マモノの凶暴化は、これから始まる滅亡への序章に過ぎぬ」

「イリスは、前にもそう言ってたね。その話をアウレリアで聞き入れてもらえなかったから、エーヴェに行くんだって」

 僕はイリスの前に座り、膝を抱いた。船がゆらゆらする。海運び鳥がギャアギャア鳴いている。イリスは頷きながら目を閉じた。

「……かの人は、なぜ人類を滅ぼそうとするのじゃろうな」

「えっ?」

 鳥の声に掻き消されるほどの小声が、微かに僕の耳に届いた。だが、しっかり確認する前に、船の先端にいたチャトの大声が飛んできた。

「あと一回餌を投げたら、港に着きそうだよ!」

 穏やかな海が進みやすかったお陰だ。僕が前を振り向くと、エーヴェの港はすぐそこまで迫ってきていた。

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