14 水守族の港

「さっきの小川がここだから、……こっちの方向で合ってるね」

 僕が荷車に広げた地図を見てチャトがそう言ったのは、運び鳥が雑木林を抜けて、短い草の広がる草原に出た頃だった。だいぶ日が高くなって、日陰のない大地では少し暑さを感じた。

 周辺にはちらほらとマモノがいる。牛のようにも馬のようにも見えるマモノが草を食べていたり、ウサギくらいの大きさのマモノがカサカサと駆け抜けたりした。運び鳥の大きさや荷車の車輪の音に驚いているのか、襲ってくるような素振りは見せない。

「進む方向は合ってるけど、それよりアウレリアに戻った方が……」

 僕はフィーナの肩にとまるドリーくんを横目に、控えめに呟いた。

 アウレリアから来たリズリーさんからのメッセージに、僕はまだ返事をしていない。ドリーくんにリズリーさん宛の言伝を頼む前に、自分の場所を伝えるためにチャトたちに向けて飛ばしてしまった。そして、それきりドリーくんはフィーナの肩にとまったままになっている。

「ドリーくんがリズリーさんの伝言を運んできてるんだ。ちょっと怒ってるみたいだったし、まず運び鳥を止めて、なるべく動かないで返事を……」

「まーだ言っておるのか! アウレリアには戻らないと、さっきも決めたじゃろう?」

 僕の言葉に被せるように、イリスが呆れ顔で言った。

「伝言鳥殿、リズリー殿に伝言じゃ。私たちはなにがなんでも行かねばならないのだ。捜すでないぞ」

「ちょっと、イリス!」

 青ざめた僕をよそに、チャトもドリーくんに吹き込んだ。

「行ってきまーす! じゃあねー!」

「ご心配なく!」

 フィーナまで伝言を寄せている。イリスはドリーくんを大空に飛ばして、ニヤリとしながら僕の方に目を向けた。

「伝言鳥が何度寄越されようと、私は現在地を教えたりはせぬ。アウレリアはたしか今、別の迷子を捜すのに手を焼いておるのじゃろう? こっちにまで派遣させたらそれこそ迷惑じゃろう」

 キュロボックルの一件で少しは大人しくなったかと思われたイリスだが、やはり彼女は我が強い。

 困っている僕を見て、フィーナが苦笑した。

「まあまあ。大丈夫ですよ。私たち、あんなに過酷な魔族の里まで無事に行って帰ってこられたじゃないですか」

「今回も無事に済むとは限らないでしょ! 帰ろうよ!」

 運び鳥を一羽盗んできているだけでも酷いものなのに、その上行方をくらませるなんてアウレリアの管理局に申し訳が立たない。

 しかし、イリスやエーヴェ行きに乗り気になっているチャトとフィーナに刃向かっても多数決で負けている。いくら帰ろうと足掻いても、運び鳥の操作権をイリスに取られてしまったら何度アウレリアに戻ろうとしても軌道修正されてしまう。

 考察の末、僕は彼らに気づかれないように、そっと運び鳥の進路を修正することにした。荷車の先頭に這い寄って、走る運び鳥の後ろ頭にひそひそ命じる。

「アウレリアに帰ろう。ほら、あっちだよ」

 しかし、僕の声に気づいていないイリスが、地図を確認しながら指示をした。

「運び鳥、このまま真っ直ぐでよいぞ」

「クワー」

 運び鳥は僕のいうことはきかず、イリスの指示どおりに真っ直ぐ走った。どうやら僕が皆とはぐれてキュロボックルと共にいる間に、この運び鳥はすっかりイリスに懐いたようだった。

 イリスと一緒に地図を見ていたフィーナが言う。

「今どの辺りですか?」

「分からぬ。だが、日の向きから考えて北西に進んでおることはたしかじゃ。そのうち海が見えてくるはずじゃ」

 イリスが指さすのは、地図の中の入江である。僕はその切り込まれた海を見つめた。

「今のところ進んでいる場所は推測にすぎないんだもんね。この入江が見えてこなかったら、全く見当違いのところを走ってるってことだよね」

「逆に言えば、入江が見えてくれば、着実に進んでるんだね。入江がチェックポイントになるんだ」

 チャトが風に尻尾の毛を靡かせて言い、それから彼はお腹を押さえた。

「その前に、なにか食べられるものはないかな。お腹空いたよ」

 そうなのだ。夜中に運び鳥で連れ出されてから、僕らはなにも口にしていなかった。昨日の夕方にアウレリアの管理局で食べさせてもらった食事が最後だ。フィーナがうーんと唸る。

「さっきの雑木林には、食べられる木の実はありませんでしたね」

「いざとなったら、俺がその辺にいるマモノを狩ってあげる!」

 チャトがワイルドな提案を出す。正体の分からないマモノを食べてみるというのは、僕にはまだ少し抵抗があった。

「魔族の里に行く前に用意した保存食だったら、まだあるよ。これを少しずつ食べよう」

 僕は鞄から乾パンみたいな食品を取り出し、チャトに手渡した。フィーナとイリスにも分け与えて、僕も自分の分を開けた。

「近くに人が住んでるところがあればなあ。キュロボックルの葉っぱも少しだけならあるから、それを売れば旅支度の買い物ができるよね」

 乾いた食品が口の中の水分を奪う。周囲を見渡して、人里の気配がないか探してみたが、これがまたびっくりするくらいなにもない。広大な大地が延々と広がるばかりである。

 周囲を見ていると、上空から向かってくる鳥の影に気がついた。青い羽根のインコのような鳥が飛んでいる。フィーナも同じ鳥を見上げていた。

「あ、あれ伝言鳥じゃないですか?」

 伝言鳥は一羽、二羽と現れて、いつの間にか五羽もの群れになって、こちらに向かって降りてきた。

「うわっ、なんかすごくいっぱい来たぞ」

 チャトが自分の食べ物を鳥に奪われないように、慌てて口に突っ込んだ。僕も思わず急いで口に放り込む。

「ツバサ様! ラン様カラ、ゴ伝言デス」

 伝言鳥のうち一羽が、荷車の淵にとまった。同じく他の伝言鳥も淵にとまったり、チャトの頭やイリスの肩にも降り立った。

「ツバサ様! フォルク様カラ、ゴ伝言デス」

「ツバサ様! リズリー様カラ、ゴ伝言デス」

「ツバサ様! ジズ様カラ、ゴ伝言デス」

「ツバサ様! リズリー様カラ、ゴ伝言デス」

「ツバサ様」

「ツバサ様」

「うわ、待って待って!」

 同時に喋ろうとする伝言鳥たちに、僕は目を白黒させた。ドリーくんを返すのが遅くなったこともあり、リズリーさんをはじめ、この人たちを心配させてしまったのだ。

 たくさんの伝言鳥に囲まれた荷車で、鳥たちが各々要件を喋った。

 ラン班長とフォルク副班長は、「どこに行った、早く帰ってきなさい」というほぼ同じような趣旨のメッセージをそれぞれに送ってきた。ジズ老師は「元気なのはいいが、危険なことはするな。戻っておいで」と豪快にやんわり。リズリーさんに至っては、僕らの居場所をなんとか聞き出そうとする必死なメッセージと、それから追伸で「救助の兵団員を向かわせる」と付け足す伝言鳥も合わせて二羽も飛ばしてきた。

 これだけの伝言鳥が集まってきたのに、イリスが先陣切って返信してしまう。

「残念だったのう、先に私をアウレリア国王に会わせておれば、抜け出したりしなかったのにの!」

「あーっ! 待って! 皆さん、僕らは今、大陸の南の方にいます! エーヴェを目指して……むぐっ」

 状況を説明しようとした僕は、イリスに口を塞がれた。

「救助はいらぬ。なにせ、私は竜族じゃ! 最強の種族である私がおる以上、安泰なのじゃ!」

 いちばんの厄介者であるイリスが堂々と宣言する。集まってきた伝言鳥たちは、ドリーくんを含め全員飛び立っていってしまった。また、救助を呼び損ねた。

 僕の口を塞いでいたイリスの手が離れると、僕はイリスの肩を両手で掴んだ。

「イリスー! この状況分かってるの!? 全然知らないところを、道もよく分からずに走ってるんだよ!? なにかあったらどうするんだよ!」

「ツバサ殿は大袈裟な臆病者じゃの。今申したとおり、私は竜族じゃから大丈夫なのじゃ」

 イリスは悪びれる様子なくしれっとこたえた。なんでそんなに余裕なんだ、とまくし立てようとしたら、彼女は付け足した。

「それにの、ツバサ殿がいて、チャト殿とフィーナ殿がおるから、大丈夫なのじゃ」

「……へ?」

 拍子抜けする僕に、イリスはにっこり笑った。

「竜族は魔力が長けておるから、勘が鋭いのじゃ。おぬしらがおれば大丈夫じゃと、分かるのじゃ」

 僕がぽかんとしていると、チャトが尻尾をぱたぱたさせた。

「わあっ、信頼してるってことだね!」

「ま、そんなとこじゃの!」

 イリスも大きく頷いてみせた。

 信頼されている、と言われると悪い気はしない。僕も素直に言いくるめられそうになった。が、冷静に考えるとやはり、自信満々に逃走する理由にはなっていない。

「せめてどこにいてどこに向かってるかくらいはちゃんと説明した方がいいよ!」

「だめじゃ、今からアウレリアに連れ戻されたら竜族の予言に伝わる世界の崩壊に間に合わぬ」

 イリスの我の強さには敵わない。たくさんいた伝言鳥が、一羽でも僕の発した言葉を拾ってくれていればいいなと願うばかりだ。


 *


 照りつける陽射しの中、サバンナみたいな大地を走り続けた。時に森を抜け、時に砂漠のような砂地を抜けた。運び鳥は休まず荷車を引く。

「この運び鳥、お腹空いてないかな。なにを食べるんだろう」

 僕がそう呟いたのは、松に似た針葉樹が立ち並ぶ森を走っていたときだ。フィーナが首を捻って言った。

「草を食べる子もいれば、枯れ木を食べる子も、肉を食べる子もいます。鳥族が牧場で運び鳥を開発した際、燃料問題を考慮して、数種類の食性パターンの運び鳥ができるよう、遺伝子操作したんだと聞いてます」

「そんなことまでできるんだ。鳥族ってすごいんだね」

 思えば、鳥族は伝言鳥や運び鳥といったインフラになるマモノを生活に根付かせた種族である。フィーナは走る運び鳥の後ろ頭に目をやった。

「この子が平地向きの運び鳥で、草を食べるように品種改良されてる種類だったら……地面に生えてる草を自主的に食べるんですけどね。食べる様子がありませんね」

「じゃ、他のものを食べる種類なんだ。このまま走らせていたら、お腹を空かせて立ち止まっちゃうんじゃない?」

 そんなことを言っていたときだった。

「あっ、あれ! 見て!」

 チャトが揺れる荷車の上で立ち上がった。フィーナが彼の尻尾を引っ掴む。

「危ないから座りなさい! どうしました?」

「海が見える!」

「おおっ!?」

 チャトの発言を受けてイリスも立ち上がった。そして、荷車の揺れでバランスを崩し転倒し、座っていた僕に倒れ込んできた。

「痛いっ」

「ツバサ殿も、ほら立つのじゃ」

 イリスに手首を引かれる。チャトもフィーナも、荷車の正面の淵に手をついて、背伸びしていた。僕も彼らの後ろから、その先を見つめた。

「……あっ……!」

 針葉樹の森が開けたその先に、白い砂浜と水平線が見える。

「ここがあの、地図で見た入江か」

 僕の声が風にかき消される。木々の間をすり抜けて、運び鳥の足は砂浜に躍り出た。

 海の色は、青いというより緑に近いように見えた。僕が知っているイフの海とは、水中の物質が違うのかもしれない。薄紅色の空と緑の海という光景は、なんとも異様に見えた。

 周囲は切り立った崖で囲まれている。ザザン、と静かな波音がして、口の中が少しだけしょっぱかった。

 砂浜に足跡を付けていた運び鳥は、疲れてしまったのか、いきなり座り込んだ。チャトが溢れ出すみたいに荷車から飛び降り、白い砂浜を駆け出した。

「すごいすごい、俺、海をこんな近くで見たの初めて!」

「ここからエーヴェは見えるかの?」

 イリスも浜に降りて、波打ち際まで走っていった。

 入江は、思ったよりも広かった。フィーナが荷車に広げた地図を覗いた。

「入江に着いたということは、現在地はここだと確定しましたね」

 フィーナの指が地図の中の入江をさす。それまで自分たちが走っている位置が推測の域を出なかったが、この入江のお陰で確実に位置を把握できた。

 フィーナはその指を少し北に引いた。

「でも、運び鳥は水を渡ることができないから、実質行き止まりなんですよね。この入江を迂回する必要があります」

「うん、北の方に回らなくちゃいけないんだよね」

 迂回するときに通過するのが、水守族という種族がかつて暮らしていた、港町があった場所だ。

 しかし運び鳥は座って目を瞑っており、立ち上がろうとしない。

「お腹が空いて動けないみたい……。ツバサさん、この子に食べ物を用意しましょう」

 フィーナが僕に言い、僕はリュックサックから手持ちの食べ物を取り出した。持っているのは、乾き物の焼菓子と同じく乾燥した野菜だけだ。運び鳥のくちばしにそれらを近づけてみたが、鳥は顔を背けて食べようとしない。唯一、水だけは飲んだ。

「食べない……。道中で草とか木の枝を食べたりもしなかったから、それも餌じゃないんだよね」

「私が持ってる薬草も食べません」

 フィーナが薬用に持ち歩く草も、この鳥は食べ物と認識していないようだった。

「近くを散策してみて、この子が食べられそうなものを探してみよう」

 僕は膝を叩き、遊んでいるチャトとイリスを振り向いた。

 少し目を離した隙に海に入ってしまったらしいチャトは、尻尾が海水を吸ってチョロチョロになっている。イリスはそれを見て笑っており、互いに水をかけたり砂や貝殻を投げたりしてはしゃいでいた。

「ふたりとも、行くよ! 運び鳥のごはんを探そう!」

 僕が呼びかけると、チャトとイリスはこちらに顔を向け、駆け寄ってきた。


 針葉樹の根元に運び鳥の綱を結んで、僕たちは歩き出した。まずは抜けてきた針葉樹林を戻り、なにか落ちていないか見渡した。

「この木の実は食べられるかの」

 イリスが松ぼっくりみたいな実を拾う。チャトがキノコを摘み、フィーナは木の蜜を採取していた。だが浜辺に戻って運び鳥に見せても、どれも食べようとはしない。

 僕らは更に歩みを進め、針葉樹の森から西向きに進んでいった。

 食べ物として想定できるものを、あれこれ挙げながら進む。

「特定の草や実しか食べないとか?」

「肉食という可能性もあります」

「小さな妖精を食べる子もいるんだよね」

 運び鳥が飢えて野垂れ死んでしまったらかわいそうである。僕たちだって、先に進むのが大変になる。

 森の木々の隙間に西の空が見えてきて、視力のいいチャトがなにかに気づいた。

「向こうになにかあるぞ。あれは……小屋?」

「あっ、本当だ」

 僕はその影に目を凝らした。崖の裾に寄り添うように、ちんまりした建物がある。ちょうど今切り抜けている森の、松みたいな木の細く尖った葉を使った屋根が見えるのだ。

 森を抜けて、その小屋に駆け寄る。しかしそれはぼろぼろに朽ちていて、辛うじて形を保っているに過ぎなかった。

「人が住んでおったのかの?」

 イリスが廃屋を見上げて不思議そうに言う。フィーナがそのほったて小屋の周りをくるりと回ってきた。

「漁場の名残みたいですね……。採った水棲のマモノを加工する設備があります」

「水棲のマモノ?」

 僕が繰り返すと、フィーナが言った。

「マモノの殆どは水を嫌いますが、特殊な例で、逆に水の中にしか住めないマモノがいるんです。陸に上がるものもいますが、すぐに弱ってしまう。種類によっては、加工して食べられますよ」

 僕も小屋の裏に回り込んでみた。フィーナが言うとおり調理台らしきものが残っている。

 この小屋以外にも、周囲はぎりぎり建物の形を保った小さな小屋がいくつも残っていた。

 崩れてしまっていても、かつて建造物だったと推測できる潰れた残骸や、割れた板きれが散らばっている。南側を振り向けば、石で作られた港の形跡もある。

 僕は、海風に吹かれる静かな小屋を見上げた。

「水守族が暮らしてた場所だ……」

 かつてここで繁栄し、そして、消え去った種族。

 地形こそ違うが入江と景色が似ており、崖や砂浜もあった。石造りの港へ降りると、船着場だった場所に腐ったボートが二、三隻だけ残って浮かんでいた。

「ツバサー! 小屋の中に、食べ物があるよ!」

 チャトが数メートル先で声を上げ、港で海を見ていた僕に手招きした。

 港から小屋のある跡地に戻ると、フィーナが近くの小屋から顔を出し、手招きしてきた。

「こっちです。瓶詰めになった保存食があります」

 小屋の中は僕ら四人入ったら狭いくらいの面積だったが、食事をするテーブルや食べ物を保管する棚があって、どことなく生活感が漂っていた。漁に使ったと思われる銛も立てかけられていて、ここで暮らしていた人の息遣いが微かに聞こえる気がした。

 チャトが鼻をくんくんさせて棚を開けて、フィーナとイリスが共に覗き込む。

「なんだろうこれ。食べ物だとは思うけど」

「海ネズミの燻製ですね。こっちにはなにかの塩漬け。すごい、こんなに残ってた」

 フィーナがチャトから瓶を受け取りながら言った。

「水守族が滅亡してしまって以来、世界に出回ることがなくなってしまった幻の食材です」

 チャトが棚から取り出す瓶には、茶色っぽい魚の肉のようなものが詰まっているようだった。多分、イカイ流の缶詰みたいなものなのだろう。

「漁をしてたのは水守族だけでしたから、彼らがいないとこの水棲マモノを採る人がいません。私もこれらの本物を見たのは百年ぶりです」

 フィーナが僕にも瓶を手渡してきた。僕は見たこともない瓶詰めを受け取って、そのドロドロした茶色を眺めた。

「それじゃあ、これももう百年くらい昔のものだよね? いくら保存食でも、もう食べられないんじゃないかな」

「えー。そうかな」

 チャトが無造作に瓶を開ける。瞬間、全員が仰け反った。

「くっさ!」

 もわっと広がって鼻腔にツーンとくる、吐き気をもよおすような悪臭だった。チャトなんか自分で開けたくせに、驚いてすぐに蓋をして棚にしまいこんだ。

「完全に腐ってる」

「運び鳥には腐肉を食べる種類もいるでしょうか……?」

 フィーナは眉を顰めつつも瓶をいくつか抱える。僕はうーんと唸った。

「そんなの食べたらお腹壊しちゃうよ。一応、与えてみる?」

 そんなやりとりをしていると、鼻を押さえていたイリスが、涙目で言った。

「こういう食べ物があるということは、この地にはこの水棲マモノがいるということじゃの」

 当たり前のことを言うイリスに、チャトがまだ苦しそうな顔をしながら返す。

「そりゃあそうだよ、水守族が採ってきて、こうして瓶詰めを作ってるんだから」

「今も海の中には水棲マモノがおるのかのう」

「いるんじゃないかな。そういえば、水棲マモノってどんななんだろう? 見たことないよね」

 チャトが首を傾げ、フィーナもそうねと同意する。

「食材として届いてくるときは、既に加工済みですものね。私も見たことがありません」

「そっか、内地では見られないマモノなんだね」

 僕も言うと、イリスが頷いた。

「内地のマモノは大概水が苦手じゃからのう。水棲マモノは水中に住むから、きっと私たちには想像もできぬような姿をしておるのじゃ」

「水守族自体がどんな姿だったのか、見たことない俺は想像できないよ」

 チャトが冷たい瓶を眺め、呟いていた。

 僕らは小屋の中を今一度調べ、これ以上食べ物がないと分かると、小屋の外に出た。海の風が乾いた髪にまとわりつく。砂浜の細かい砂が舞う。緑色をした海が、ざわざわ波打っていた。

「他の建物も調べてみる?」

 僕は跡地の奥の方に残っていた、少し大きめの建物に目を向けた。周りの小屋が小ぢんまりしているのに対し、その建物だけは他のものの三倍くらいの大きさがある。近づいてみると、残っている部分だけでなく倒壊している箇所もあり、そこまで含めると他の建物より十倍近い面積があるようだった。

「ここはなにか特別な場所だったのかな。集会所とか?」

 斜めになった柱でぎりぎり建っている残骸を見上げていると、フィーナが隣に来た。

「水守族は個人の小屋を持ちながらも、こういった大きな建物に皆で集まって暮らしていたと聞いたことがあります」

「じゃあ、ここが生活の拠点だったんだね」

 木製の床が割れた建物の中には、風で吹き込んだ砂が散乱していた。塩を含んだ木造の家屋は、ちょっとだけ懐かしい匂いがする。

「床が抜けてるから足元気をつけてくださいね」

 フィーナが注意を促している。チャトが無邪気に上がり込んで、イリスもそれをぴょこぴょこと追いかけていた。僕も、崩れた足場を目で確認しながら、そっと中に入った。

 室内は砂だらけで、潮風にやられて木材は腐り、完全な廃墟と化していた。

 先程の小屋と同じように、保存食の瓶詰めがいくつか残っている。どれも腐っているようだったが、持てるだけ持っていくことにした。

 かつては収納家具だったらしき朽ちた木材が、ぺしゃんこになって散らばっている。僕は、その木片の下敷きになっている、ぼろぼろになった書物を見つけた。おもむろに屈んで木屑を退け、その紙切れを手にする。脆くなった紙面は、触れただけでぽろぽろと千切れた。チャトが興味深そうに覗き込んでくる。

「なにそれ?」

「わかんない。水守族がかいた本……かな?」

 掠れた茶色っぽいインクで、絵が描かれている。それは、トカゲのような顔をした人たちが、横並びになって立つ姿だった。フィーナがあら、と声を上げる。

「水守族の姿ですね」

「噛み付きトカゲと顔がそっくり」

 チャトが目を丸くする。フィーナは可笑しそうに笑った。

「遺伝子は似ているんだそうですよ。でもこの方たちは噛み付きトカゲとは違って、頭がいいし言語も話せます」

 この世界では、マモノと人との境界は外見ではない。そこに文化があるかどうか、である。

 僕は今にも砕けてしまいそうな古い紙を、そっと捲った。次の一枚には、魚のようなものが描かれている。お腹の当たりからニョロリと大きなヒレが伸びているが、体つき自体はイワシに近い。

「これなに?」

 覗き込んできたチャトが聞くと、フィーナも少し首を傾けた。

「水守族が採っていた水棲マモノでしょうか……?」

 フィーナも見たことがないらしい。僕には、よく見知ったただの魚に見える。イリスも顔を近づけてきて、絵をまじまじ見ていた。

「不思議な形じゃの。これが水の中を泳ぐのかの? 水の中に住んでおって、苦しくないのかのう」

 僕は絵の中の魚に指を乗せた。

「この尻尾をひらひらさせて、泳ぐんだよ。呼吸は、このエラという器官で水の中の空気を取り入れてるの」

「ツバサさん、このマモノを知ってるんですか?」

 フィーナが目を見開く。説明しておいて、僕は自分でも首を捻った。

「このマモノを知ってるというよりは、イフにも似たような生き物がいるから、同じなのかなって思ったんだ」

 チャトが大きな目をぱちくりさせる。

「同じ生き物がいるんだとしたら……ふたつの世界は、もしかしたらどこかで繋がってるのかな? そうだ、イカイとイフは、本当は同じ世界で、裏と表なのかも」

「たまたま似てる生き物がいただけだよ。そんな不思議なことあるはず……」

 ないよ、とこたえようとして、僕はそこで言葉を止めた。頭に浮かんだのは、あの天ヶ瀬さんにそっくりな少女だ。

 鳥族の牧場で見た、空運び鳥に乗る少女。見間違いだということになったが、僕は未だに気になっている。

「そっか……もし、裏と表なんだとしたら、こっちの世界にも、こっちで生まれた僕がいるのかな。そしてこっちで生まれた天ヶ瀬さんもいて……」

 僕は、あのミルクティー色の長い髪を頭に思い起こしていた。

「そうじゃないんだとしたら、やっぱりあれは天ヶ瀬さんなのかなあ」

「ツバサ、どうしたの? なんの話?」

 チャトはもう鳥族の牧場でのことは忘れてしまっているらしく、僕のうわ言みたいな呟きに疑問符を浮かべている。

「考えても分かんないな。よし、運び鳥のところへ戻ろっか」

 僕は持っていた書物を木屑の上に置いて、集めた食材をリュックサックに詰めた。 


 *


 瓶詰めの重さを肩に感じながら、入江に戻る。運び鳥は顎を砂浜にくっつけて、ぺったんこになって休んでいた。

「お腹空いたね。ごめんね」

 拾ってきた針葉樹の葉や木の実、キノコや採取した蜜なんかを鳥の前に並べる。運び鳥は重たそうに顔を上げてそれらを一瞥したが、すぐにまた寝そべってしまった。

「食べないなあ。なんなら食べるんだろう」

 僕はリュックサックから瓶詰めを取り出した。水守族のところから貰ってきたそれを、ダメモトで開けてみる。途端に、運び鳥の首がぬっと伸びてきた。

「えっ!? うわ、食べてる!」

 くちばしを瓶の口に突っ込み、腐った魚のようなものをもぐもぐ食べているのだ。フィーナとイリスは手で鼻を覆い、チャトなんか瞬発力で遠くに逃げるほどの悪臭なのに、運び鳥は嬉々としてがっついている。僕は運び鳥が食べやすいよう瓶をひっくり返し、蓋の上に中身を出してあげた。

「いちばんないと思ったのに……。でも食べてくれるものが見つかってよかった」

 おいしそうに食事をする運び鳥を呆然と眺めていると、ふいにイリスが手を叩いた。

「あっ、そうじゃ。水守族がかつてこの辺で漁をしておったということは、この海には食材になるマモノがおるということじゃな?」

 背後に広がる海を振り向き、イリスは大きく腕を広げた。

「それじゃ、腐ってない新鮮な水棲マモノも採れるのではないか?」

 その発言に、遠くに逃げていたチャトが耳を立てて反応した。

「そっか! 水守族のところに漁で使う武器みたいのあったよね。採ってみようよ」

 フィーナも賛同し、きらきらした目で僕を見た。

「いいですね! ツバサさん、イフに似たものがいたとおっしゃってましたよね。捕まえ方も同じなんでしょうか」

「あれだけ形が似てるんだから、動きもきっと同じだと思う」

 僕がそうこたえると、チャトが早速海に向かって駆け出した。

「俺、様子見てくる!」

「泳げる?」

 僕の心配も気にせず、チャトは砂浜に小さな足跡をたくさん残して駆け抜けていき、波打ち際に突き進んでいく。僕とフィーナとイリスは、運び鳥に餌を与えつつその後ろ姿を眺めていた。チャトの頭がちゃぷんと海の中に沈む。

 数秒後、ゴゴゴゴと海面が震えはじめた。

「えっ……なに?」

 僕が身じろぎした、そのときだ。

「うわああー!」

 バシャッとチャトが水面から飛び出してきて、つんのめりながらこちらに突っ込んでくる。その背後では、海がずんぐり盛り上がって巨大な波を作り出していた。

「やばい! 逃げて!」

 チャトの悲鳴と共に、盛り上がった海が割れるように波を上げる。そしてその爆発する海面から、ぬらりとした大きな銀色が顔を突き出した。

 鱗に覆われた体に、でろっとした丸い目。直径二メートルはあるだろう口には、細かい歯が何重にも並んでいる。

 それは、巨大なイワシのようだった。

「さっき水守族の書物で見たマモノじゃの! ツバサ殿、イフの人間はどうやってあの生き物を仕留めておったのじゃ!?」

 イリスが僕の腕を掴んだ。僕はカタカタと震えながら、首を振った。

「形は似てるけど……あんなに大きくないよ!」

 やはりイカイとイフは全く違う世界だ、と思った。

 あんなの、僕が知っているお魚とは違う。あんなクジラみたいな大きさのイワシなんか、見たことがない。ふたつの世界は裏表で、共通する軸があるような気がしたのだが、あれを見ると歴然たる違いを思い知る。やっぱり、全く違う。

 巨大な水棲マモノはお腹から伸びたヒレで、砂浜を這うように陸に上ってくる。水の中から出ることもできるなんて、尚更僕の知らない生物だ。

 チャトがびしょびしょの体で叫んだ。

「なんか分かんないけど、やばいよ! 押し潰されたら死んじゃうし、あんなに口が大きかったら丸飲みされる!」

 危険信号を受け取り、フィーナが手のひらをマモノに向けた。魔導が発動し、マモノの濡れた体の表面が僅かに凍る。動きを封じた隙に、イリスが運び鳥の綱を木から解く。運び鳥も大きなマモノに驚いて、今にも既に来た道に足を進めはじめていた。

 巨大魚がうねり、体の霜をパキパキと振り払った。フィーナが再度、巨大魚の腹のヒレを狙って氷を生み出す。

「あの大きさでは完全に凍らせることはできません! 動きを遅らせますから、急いで逃げましょう!」

 僕らがわたわたと運び鳥の荷車に飛び乗ると、運び鳥も急加速して森を駆け抜けた。イリスが運び鳥の綱を取り、フィーナが荷車のいちばんで後ろでマモノに対抗する。

 砂浜をのたのた歩く巨大魚は、その大きさ故に木々をバキバキなぎ倒して突き進んできた。マモノのヒレが地面を叩くたび、振動で地面が揺れる。ガタガタと地震が起こる中を、僕たちは必死に逃げた。

「陸でも動けるのか。なんなんだ……!?」

 地響きに耐えながら、僕は荷車から後ろのマモノを凝視していた。のたうち回って追ってくる魚のマモノは、枝が突き刺さってもものともせずに進んでくる。激しい揺れに、荷車が跳躍する。

「掴まるのじゃ!」

 イリスが合図し、僕は荷車の壁にしがみついた。荷車の右側の壁が樹木にぶつかり、バキッと破損する。

「ふあっ!」

 その壁に掴まっていたチャトが、壁ごと宙に浮いた。

「チャト!」

 フィーナの悲鳴を聞いた頃には、体の軽いチャトは荷車から置き去りにされ、真後ろのマモノの方へと吹き飛ばされていた。僕は咄嗟に、荷車から飛び出した。

「チャト、手を!」

 声が出ていたか、自分でも分からない。ただ僕は、呆然とするチャトに空中で飛びつき、その小さな頭を胸に抱きしめた。びしょびしょに濡れていたチャトから、僕の体に水滴が染み込む。チャトを庇った姿勢で地面に放り出され、二、三転と転がったのはその数秒後である。

「はあっ……チャト、大丈夫?」

 なんとか腰から上だけを起こして、抱きしめた腕を緩めた。チャトが僕を見上げる。

「うん。ツバサは怪我はない?」

「ちょっと腰を打った」

 が、そんな会話をしている暇もなく、バキバキバキッと樹木が倒壊した。すぐそこまで迫ってきた魚のマモノがヒレをうねらせて突っ込んでくる。僕は再びチャトの背中を抱きしめた。

 荷車は僕らを置いて先に行ってしまった。逃げられない。

 死を覚悟しつつも、僕はリュックサックの横ポケットに手を突っ込んだ。たしか、ダガーナイフが入っていたはず。そんなもので太刀打ちできるわけがなかったけれど、なにもしないよりは最後の望みをかけての悪あがきだった。

 しかし慌てた僕が引っこ抜いたのは、アルロに貰った杖であった。

「これじゃない……!」

 これはただ変な羽根になるだけで、武器になんかならない。しかしマモノはもう目と鼻の先まで突進してきている。焦燥と恐怖で、頭はぐちゃぐちゃだった。

 手のひらの杖がふわりと白い羽根になる。

 死にたくない。怖い。でも戦えない。でも、死ぬのは嫌だ。チャトだっている。

 混乱した僕は、一心不乱に羽根の根元を両手で掴み、魚のマモノに向かって振りかぶった。

「うわあああ!」

 目を瞑って、大きく、右上から左下へと振り下ろす。

 瞬間、ぴたっと地響きが止まった。

 全ての音が止まり、迫り来るマモノの暴れる気配もなくなった。僕はそろりと瞼を開いた。

「え……?」

 マモノは、その場に大人しく鎮座していた。死んでいるのではない。息はしているし、目が動いている。だが、こちらに向かってこないで、僕らの数センチ手前で止まっているのだ。

 そして、のた、と動き出したかと思うと、ゆっくりゆっくり後ろに下がり、僕らからかなり距離を開けてから、方向転換して海の方へと帰っていった。

 突然大人しくなったマモノに、僕は尻餅をついたまま唖然としていた。

「なに……? どうしたんだろう」

「ツバサ、今のどうやったの?」

 チャトが掠れた声をこちらに向ける。僕は目だけチャトを振り向いた。

「今なにが起こったの? チャト、なにか見てた?」

「ツバサも分からないの?」

 チャトは目をぱちくりさせて、僕の手の中の羽根を指さした。

「さっき、ツバサがひと振りした瞬間だけ、その羽根がブンッて大きくなった。そんで、マモノを切り裂いたんだよ」

「切り裂いた? この羽根が?」

 そんな感触はなかった。チャトは首を傾けて唸った。

「うーん……切り裂いたっいうか、マモノに傷をつけたんじゃなくて……。水の中を切ったみたいに、羽根がマモノを通り抜けたんだ」

 チャトは難しいことを説明するように、一生懸命言葉を並べた。

「それで、羽根がマモノを突き抜けたら、マモノが急に大人しくなったんだよ」

 信じ難いが、見ていたチャトが言うのなら本当なのだろうか。羽根がぱらぱらと粉になり、杖の形に戻った。僕はその透明の棒に目を落とす。

「これ、なんだかよく分からなかったけど……もしかして、なにか使い道があるのかな……?」

 そこへ、カラカラカラという荷車の音と優しく高い声が飛んできた。

「チャトー! ツバサさーん!」

「あっ、フィノだ!」

 チャトが立ち上がり、大きく手を振る。

「おーい、こっちこっち!」

 荷車が戻ってきてくれたようだ。イリスとフィーナは僕らを見つけると、傍で荷車を停めた。飛び降りたフィーナが僕とチャトを同時に抱きしめる。

「無事でよかった」

「ごめん。でもね、ツバサが助けてくれたんだよ」

 チャトが一部始終を説明するも、羽根が起こした奇妙な現象については、フィーナとイリスも疑問を浮かべるばかりだった。イリスが首を傾げたまま、僕らに荷車に乗るよう促す。

「まあ、マモノがいなくなったからよしとしようぞ。じゃがまた現れるかもしれぬしの、ここから離れた方がよかろう」

「そうだね。先へ進もう」

 荷車は一部壊れてしまったが、右側の壁がなくなっただけで走れなくなるほどの致命傷でない。僕らは再び、荷車で森を進んだ。

 やがて針葉樹の森を切り抜ける。荷車のがたつきが僕らの肩を揺らしていた。

 後ろを警戒していたフィーナが、くたっと座り込んだ。

「……怖かった……。水守族以外の種族が、誰も漁をしない理由が分かった気がします」

「思った以上にでっかかったなあ。あれを仕留めてたんだから、水守族ってすごいんだ」

 チャトが濡れた頭をぷるぷると振る。水滴が僕の方まで飛んできた。

「かつてはマモノが狂暴じゃなかったから、あのマモノも大人しかったんじゃないかな」

 僕は見えなくなった入江の方に顔を向けた。

 ご飯を食べて元気を取り戻した運び鳥がカラカラと荷車を引く。西へ進んでいくと、針葉樹の屋根の小屋が見えた。かつて栄えた水守族の、港の跡。

「水守族は、暴れるようになったああいうマモノに滅ぼされてしまったのかもね」

 水守族の港を通り越していく。チャトがこちらに前のめりになった。

「ねえそれよりツバサ、さっきの羽根の力はなんなんだろう? あれって、ツバサの意志の形になる魔道具なんでしょ? どんな意志なの? なにをしたの?」

「分かんないよ。でも、ちゃんと調べた方がいいのかもしれないね」

 僕はガラス棒みたいな姿になった杖を、空にかざした。

 運び鳥は、迷いなく西に向かっていった。

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