13 雑木林
「で……なにをしてるんですか。まずはチャト」
疎らな草が生えた荒野を、運び鳥の荷車が進む。薬草の森が見えてこないところを見ると、あの森の方とは別の方角から都市を出たらしい。
加速する荷車に、フィーナがぺたんと座り込んだ。チャトがイカ耳になってぽそぽそこたえる。
「ツバサのところへ遊びにきてました……」
「夜中にいきなりいなくなって、びっくりしたじゃないですか! ツバサさんのとこだろうなって予想はできたから、すぐに駆けつけたけれど!」
ガミガミ叱ってから、フィーナは今度は僕の方を向いた。
「それでツバサさん。この状況は一体?」
「これは、僕にも分かんなくて……!」
僕はおどおどとフィーナとイリスを交互に見た。
「イリス、まずいよ。戻ろうよ」
「戻るわけにはいかぬ。都市から追っ手が来ておる。なるべく離れないと、そのうち追いつかれる」
「だから大人しく帰ろうって言ってるんだよ!」
イリスは真っ直ぐ正面ばかりを見ていて、振り返ろうとはしなかった。
「ツバサさん、この方は?」
フィーナが怪訝な顔で僕に尋ねてきた。僕はチャトとフィーナかがイリスと初対面だったと気づく。
「この子はイリス。駆除班が森で保護した迷子の……」
「竜族の生き残りじゃ!」
僕の声に被せて、イリスが勝手に自己紹介した。フィーナはぎょっとし、チャトは目を輝かせた。
「竜族!? 生き残りがいたのか!? すっげー!」
あっさり信じたチャトの方に、イリスがちらと目を向ける。
「うむ。おぬしは獣族のようじゃな。ツバサ殿の知り合いか?」
「うん、俺はチャト! ツバサとは一緒に大陸の北の端まで旅した戦友だよ!」
こんな状況でもマイペースなチャトは、にこにこ笑っていた。フィーナが戸惑いながらもお辞儀をする。
「初めましてイリスさん。私はフィーナです。あの、竜族というのは……」
聞きにくそうに、でも気になるらしいフィーナはおずおずと切り出す。イリスは運び鳥に揺られて髪の先を跳ねさせた。
「なかなか信じてもらえぬがな、私は滅びる直前の竜族が未来を託すために……」
医務室でも話していたとおりの話をはじめ、フィーナをぽかんとさせる。チャトは冒険物語を聞いているみたいにわくわくと尻尾を振っていた。
「すごいすごい! 竜族って本当にいるんだ」
「だが、私はアウレリアの国王に謁見させてもらえなかった。そこで自治の違うエーヴェに向かうことにしたのじゃ。アウレリア国王は諦めて、エーヴェを統治する島主殿に相談するのじゃ」
「じゃあ、この荷車は今エーヴェを目指してるんだな」
「そうじゃ」
楽しげに食いつくチャトとしれっとこたえるイリスの後ろで、フィーナが愕然としていた。
「そんな。私たち、巻き込まれちゃったんですか?」
「ごめん、今すぐ戻ろう」
僕はフィーナに謝りつつイリスに頼んだが、イリスはちらっとこちらを見ただけである。
「別に私とて、おぬしらについてきてほしいだなんて言っておらぬ。そっちが勝手に乗ってきたのであろう? 降りたきゃ降りたらよい」
「でもこの速さで走ってたら降りられないよ」
まだ気が動転している運び鳥は、ものすごい速さで荒野を駆け抜けていく。引きずられる荷車も当然爆速で、石ころにつんのめるとひっくり返りそうな勢いなのだ。その上、今どこにいるのかもよく分からない。なにしろ暗くて、荒野がただただ広い。都市から随分離れただろうということだけは分かる。なんだか大きな川にぶち当たったが、朽木を積んだような橋があったお陰で運び鳥は立ち止まらずに川を越えていった。
チャトはわくわくと尻尾を降っていた。
「エーヴェは“楽園の島”と呼ばれてるんだよ。気温が暖かくて、人々は陽気なんだって。俺、いつか行ってみたいなって思ってたんだ」
「うーん……まあ、一度見てみたい場所ではありますね」
気乗りしない様子だったフィーナも少しそわそわしはじめる。僕はポジティブな彼らを見て眉間を押さえた。エーヴェがどんなところだったとしても、アウレリアから鳥を奪って脱走してきた事実は変わらない。アウレリアの管理局では騒ぎになるだろうし、リズリーさんたちにもきっと迷惑をかけてしまう。が、イリスの言うとおり後戻りできないのも事実だ。
僕はリュックサックをごそごそやって、端が破けてきた地図を出した。
「エーヴェって、西の海にある島だよね」
ガタガタ揺れる荷車の真ん中に地図を置くと、チャトとフィーナが覗き込んできた。イリスも床に手をついて地図に顔を寄せる。
大陸地図の周りは霧の海で囲まれ、そのうち西側にだけぽつっと小さな島が描かれている。これが三都市のひとつ、エーヴェだ。
「ここに向かってるってことは、今は西に進まなきゃいけないってことだけど……」
僕はちらりとイリスの方に目を向けた。
「こっち、西?」
「知らぬ」
イリスがしれっとこたえる。
「運び鳥が勝手に走り出した方に流されておるだけじゃ」
「えっ!? 僕たち今どこにいるんだ!?」
叫んだ僕を、イリスは何食わぬ顔で受け流した。
「知らぬ。私はアウレリアから脱出するまでしか考えてなかったからの。その後は、これから考えるのじゃ」
なんてことだ。こんな行き当たりばったりな計画に巻き込まれたとは。
フィーナが地図の中のアウレリアを指さす。
「アウレリアの東には薬草の森があるはずなので、少なくともこっちは東ではありませんね。私とチャトも薬草の森の方向からしか都市を出ないので、他の方角の景色は見慣れないんですよね……」
「うむ。真逆に進んでおるということはなさそうじゃな。まあ太陽が昇ってきたら進んでる方角くらいは分かる。それに、そのうちどこかしらで自営する小さい村にでも行き当たるのではないか。そこで現在地を確認すればよい」
イリスは悠長に言って、正面に向き直った。僕はそんな彼女の後ろ髪を睨んだ。
「どこにも村がなかったら? 地図はアウレリアのもので、アウレリアが把握してないところは載っていないんだよ。村がどこにあるかだって分からない」
「もし村がなかったとしても、とにかく日の沈む方に進んでおれば西の海に出るのであろう?」
「そうだけどさ……」
この先どんななにがあるかも分からないのに、イリスは余裕綽々だった。
荒野をひたすら駆け抜ける。僕らの目はだんだん暗闇に慣れてきて、景色を微かに把握できるようになってきた。かつて街があったらしい廃屋の塊や、草むら、砂地と、みるみる風景が変わっていく。
空にほんのり朝日が昇りはじめる頃、いつの間にか落ち着きを取り戻した運び鳥が徐々に減速した。運び鳥が足を止めたのは、背の高い木が立ち並ぶ雑木林の中だった。
「夜通し走って疲れたようじゃな」
イリスが荷車から手を伸ばし、運び鳥の背中を撫でた。鳥はクルルと喉を鳴らすと、その場にぺたんと座り込んだ。
周りは見渡す限り、痩せ細った色白の木々に囲まれている。僕の腰くらいの高さの低い植物が周辺を蔓延り、枝同士が絡んで、深く踏み込めない。通れる道は限られているようだった。
僕は荷車に広げていた地図に、もう一度顔を寄せた。
「ここはどこだろう」
今走ってきた場所は、アウレリアから見て南、或いは西のエリアである。走ってきた方向と昇ってきた太陽の位置関係を見てみる。
「左側から日が差してきてるから……南に進んでたみたいだね」
「ふむ。ではここから軌道修正じゃな」
イリスが東の空を睨む。
地図上には森や林が点在していて、あちこちが緑色に塗り潰されている。アウレリアの南の大地も、広いものから狭いものまで様々な森があった。
「今いるのはどの森だろう。えっと、たしか砂地があったからこの辺は超えてるな」
夜の闇の中でようやく確認した風景を思い出し、地図と記憶と照らし合わせる。
「恐らくここかな」
僕が指さしたのは、地図の中の下から二番目の緑の塊だ。面積は中くらいで、東西に長い楕円形になっている。真ん中よりやや西の方に、緑の楕円を三分の一くらいに分断している川が流れていた。原点を辿ると、アウレリアとメリザンドの間、熱水の岩穴があった岩山から続いている川だった。この川は岩山から荒野を流れ、森を分断し、南の海に流れ込んでいる。
イリスが地図を覗き込み、顎に指を添えた。
「ふーん、ここじゃとしたら、あともうひと晩くらい運び鳥を走らせておったら海にぶち当たったのう」
僕は地図上の森の周辺を目でなぞり、悶々と考えた。今頃アウレリアでは騒ぎになっているはずだ。保護していた僕とイリスが、兵団が用意した運び鳥を強奪していなくなったのだから。チャトとフィーナは完全にただの巻き添えである。この運び鳥をアウレリアに連れて帰らなくてはならないし、イリスの勝手な行動に付き合う必要はない。この運び鳥が回復したら、またアウレリアに戻って素直に謝ろう。
そう切り出そうしたときだった。
「ツバサ様! ゴ伝言デス!」
タパパという軽やかな羽音と共に、緑色の小鳥が飛んできた。それがチャトの頭にとまる。僕はその小鳥に目を剥いた。
「ドリーくん!」
伝言鳥のドリーくん、リズリーさんの鳥だ。
「すごい。どうして僕らがここにいるのが分かるんだろう」
「伝言鳥の習性だよ。細かいことはまだ解明されてない部分が多いんだって」
チャトが自身の頭の上を見上げて言う。
「ツバサ様! リズリー様ヨリ、ゴ伝言デス」
ドリーくんがチャトの耳の間で、リズリーさんの声で喋り出す。
「『ツバサくん、どこへ行ったの? イリスちゃんとは一緒にいる?』」
優しい語調だが、焦りと小さな怒りが垣間見える。
「ああっ! ごめんなさい!」
僕は思わず、伝言を運んできただけの伝言鳥に向かって謝った。やはり管理局が混乱しているようだ。ただでさえ兵団が動いて少女捜しで忙しいというのに、僕らまで暴走したのでは大迷惑である。
「ごめんなさい。すぐに帰ります!」
そうだ、ドリーくんを使ってアウレリア管理局にこの状況を伝えよう。そしてあわよくば迎えに来てもらえれば……と考えついたときだった。
僕が返信の言葉を言う前に、イリスが僕と伝言鳥の間にサッと介入してきた。
「運び鳥はしばらく借りるでの! 私らを捜すでないぞ!」
「ちょっと、イリス!?」
僕がぎょっと叫ぶのも気にせず、イリスは言い切ってしまった。
「以上じゃ。リズリー殿によろしく頼む」
「承リマシタ」
ドリーくんはチャトの頭で羽根を広げ、林の中を飛び去ってしまった。
「ああー! もう、イリス! なんでそんなに勝手なことするんだよ!」
伝えたい内容が全く入らなかったドリーくんを、僕は見送るしかできない。イリスは僕がなぜ怒っているのかもピンとこないようだ。
「折角アウレリアからここまで逃げ切ってきたのだぞ? 場所を特定されたら厄介ではないか!」
「なにがなんでも帰らないつもりだな……!」
「当たり前じゃ! 何度も言っておるように、この世界は危機に晒されておる。竜族の予言は、なんとしても世界に行き渡らせなくてはならぬのだ。話の通じないアウレリアには、いつまでいたって無駄じゃ。ならばさっさと他の都市に報告に行った方がよかろう?」
イリスはアウレリアには戻らない固い意思を持っていた。僕はそんな彼女の力強さにたじろぐ。イリスが滅んだはずの竜族だなんてまずそこから怪しいし、竜族の予言というのも嘘くさい。だがこれが本当なのだとしたら、たしかに話を聞いてくれそうな場所を求めた方が合理的だといえる。
そんなやりとりをしているうちに、フィーナが傍の樹木と話を終えたようだった。
「この木に聞いてみたところ、居住民族はいないそうです」
「誰もいないのか……。ほらイリス、どうするんだよ。食糧とか、なにも用意してないでしょ」
僕はリュックサックを一瞥し、ため息をついた。魔族の里へ行く前に準備した乾きものの非常食、毛布、あとはクロコゲ由来の発火燃料は残っているが、量はたくさんはないし、そもそも荷物をきちんと持ってきていたのは僕だけである。ひとり分しかないのだ。しかし頭を抱えているのは案外僕だけである。チャトがイリスの代わりに手を上げた。
「そんなもの、現地調達でなんとかなるよ」
フィーナも問題なく頷く。
「人のいるところまで、木の実や食べられる草で食い繋いでいけば大丈夫です」
「ふたりとも強いねえ」
僕が愕然とするのを、フィーナはうふふと笑った。
「獣族と精霊族は元々狩りを中心とした自給自足の生活をしていた種族ですから」
どうも獣族と精霊族は、DNAごとサバイバル向きらしい。
切り替えの早いチャトとフィーナは、もうイリスと共にエーヴェに向かう気になっているようだ。これでは僕がいくらアウレリアに戻る提案をしても受け流されてしまう。
「……竜族『ごっこ』なら、そのうち収拾がつかなくなってやめてくれるよね……」
ため息と共に、小さなひとり言を洩らす。仕方ないので、僕は一度イリスの強情に流されることにした。
イリスは足を畳んで座る運び鳥の首を撫でた。
「まずはこの運び鳥をしばらく休ませる。こいつが動けるようになったら、北西方向に向かって森を突っ切るとしようぞ」
西の海に出るためには、軌道の修正が必要だった。南下しすぎてしまったので、北へと上りながら西方向にも進むのがよさそうである。僕は地図を確認した。
「そうだね。現在地も曖昧だけど……仮に、この雑木林にいると仮定して」
地図の中の、楕円形の緑を指さす。先ほど現在地として推測した場所だ。ここから北西に向かって、指を進める。
「直線距離でエーヴェまで向かおうとすると……」
ぴたりと、指が止まった。地図で見ると大陸がえぐれており、北西にの大地には入江ができていた。チャトが目を丸くする。
「うっわあ、ここ海になってるの? こんなふうに地形が凹んでることなんてあるんだね」
「運び鳥は海は渡れないから、ここは迂回するしかないか。この入江を避けると……」
僕は大陸をくり抜かれたような入江から指をずらした。入江の周りは、地図にはなにも書き込まれていない、更地だった。
「ここにはかつて、街があったと聞いたことがあります」
フィーナが僕の横から地図を覗く。
「例の百年前のマモノ暴走がきっかけで滅んでしまった、
「水守……?」
聞いたことのない名前が出てきた。地図から顔を上げた僕に、フィーナは丁寧にこたえた。
「体に鱗があって、手足の水かきが発達した種族です。彼らの都市に行ったことはありませんでしたが、お会いしたことはありますよ。とても陽気で社交的な方々でした」
マモノに破壊されて滅んだ種族だというから、フィーナが会ったと話しているのも少なくとも百年以上も前のこと、というわけだ。
「海辺に街を作って、漁をして他の土地に売りに来るんです。でもマモノが暴走して数年もすると、どこにも姿を見せなくなり、兵団や冒険者が彼らの住んでいた場所に調査に行ってももぬけの殻だったそうで……」
フィーナがそう言うと、自称竜族も、百年前の記憶が残っているらしく寂しそうに憂いだ。
「む……名こそ耳にしたことはあったが、あの者たちも滅んでおったか」
「彼らは水中に逃げることもできたのですが、漁以外の産業は他の種族の都市に依存していましたからね。大都市への通路がマモノに占拠されて行商に行けなくなり、経済がもたなくなってしまったそうです」
フィーナもまた聞きの知識のようで、ちょっと曖昧な言い方をした。僕は地図の入江付近の空白になっている箇所に、再び目を落とす。
「そうか……じゃあ、ここは人が住んでいた土地ということだから、それなりに歩きやすいのかな」
「だね、この切れ込みみたいな海を避けて港町の跡地を通っていこう」
チャトがなんだかわくわくした口調で言う。この港町の跡地までは、アウレリアからこの森までの距離と同じくらいの直線距離がある。できれば途中に、なにかの種族の自治区があればいいのだが。
そんなことを考えていると、チャトが耳をピンと立てた。
「んっ!? なにか聞こえる」
「なになに?」
僕は声を潜め、フィーナとイリスはハッと周囲を見渡した。チャトが無声音で言った。
「なにかいるよ……生き物の気配がする」
「ここには居住民族はいないはずですから……マモノですね」
フィーナの言葉に、緊張が走る。僕も耳をそば立てて、静寂の中を探った。微かに、カサカサと音がする。風の音と僅かにずれた、感覚にばらつきのある音だ。
僕にもようやく聞こえたとき、チャトはしゅっと尻尾を細くした。
「分かった! あっちだ!」
チャトが運び鳥の向こうを指さす。僕とフィーナ、イリスは同時にその指の先に顔を向けた。うとうとしていた運び鳥がパチリと目を開ける。チャトの声に反応したのか、枝の絡んだ背の低い植物がガサガサッと揺れた。
なにか来る、と、僕は咄嗟に片足だけ後ずさりした。危ないマモノだったらどうしよう、と冷や汗をかく。
が、草陰を掻き分けて飛び出してきたマモノを前に、拍子抜けした。
「なにこれ……?」
真っ先に目に入ったのは、頭から伸びる大きな葉っぱだった。黄色っぽいひょうたんみたいな姿の、五十センチないくらいのマモノである。頭と首周りに葉っぱが生えていて、お尻にも尻尾のような蔦がある。向こうも驚いているようで、つぶらな瞳でこちらを見上げ固まっていた。
「キュロボックルだ!」
チャトが大声を出すと、葉っぱのマモノがびくっと跳ね上がった。
「見てっ、フィノ、キュロボックルだよ。本物初めて見た!」
興奮気味に指をさすチャトに、キュロボックルなるマモノはびくびく震える。そして出てきた低木の中に再度飛び込んで、ガサガサ音を立てながら逃げ出してしまった。
「あーっ! 待て待て!」
チャトが興奮して枝の隙間に入ろうとする。フィーナが彼の尻尾を引っ掴んで止めた。
「こら、そこは危ないですよ」
「でも! 逃がしたら勿体ないよー!」
じたばたするチャトをフィーナが必死に取り押さえている。僕はマモノが立ち去った方向をぽかんを見ていた。
「今のマモノ、珍しいの?」
「珍しいなんてもんじゃないよ! 人間の住んでる地域の近くには絶対現れないって言われてて、どこに生息してるかも不明だったんだ!」
チャトが熱く語るのを、フィーナが補足した。
「キュロボックルの葉っぱや種子なんかがすごくいい薬になるんです。人里から離れたところにはごく稀に現れると言われてるんですが、あまりに見かけないのでもう絶滅したのでは……とすら考えられているんですよ」
「そうなのか?」
イリスも知らないマモノだったようで、彼女は目を輝かせた。
「ではあのマモノを捕まえておけば、後でどこかしらの人里に辿り着いたときに高値で売れるのではないか?」
「そうだ、そうすれば食べ物もあったかい毛布もたっくさん買えるよ!」
チャトがこくこく頷く。フィーナも珍しいマモノに驚いていた。
「群れで生活する習性があるので、一匹いたということはこの森にはキュロボックルのコロニーがあるのかもしれないですね」
「高値で売れるものがたくさんおるということか!」
イリスはよし、と拳を握った。
「これを逃す手はないぞ! あのマモノを捕まえるのじゃ!」
「よっしゃー!」
ふたりがキュロボックルの消えた方へ駆け出した。枝の絡んだ低木をくぐり抜け、道なき道へと潜り込んでいく。いきなり行動を始めてしまうふたりを、フィーナは慌てて追いかけた。
「こらこら、危ないですよ! 人間には通れないような狭いところを、キュロボックルなら行っちゃうんですから!」
「ちょっ、ちょっと! 待ってよ」
僕も置いていかれるわけにはいかない。が、この運び鳥を置き去りにするわけにもいかない。大きな運び鳥は、キュロボックルが逃げたような狭い道には入ることができない。
しかしチャトとイリスは猪突猛進である。チャトが周囲の気配を耳や鼻で感じ取って、先へ進んでしまう。
僕はまだ休みたそうな運び鳥の首を撫でた。
「ごめんね、ちょっとだけ付き合ってね」
「クルルゥ……」
荷車をカラカラ引いている鳥を連れて、皆と外れて大回りできる道を探す。少し先でフィーナがこちらを振り向いて待ってくれている。
先へ飛び出したはずのチャトとイリスも、狭いところを無理に通ろうとしたために足止めを食らっている。運び鳥の通られる道を探しながら来た僕も、のたのたしているチャトとイリスにすぐに追いついた。
「枝で怪我したら大変だよ。もう少し広い道を探していこうよ」
僕が言うと、実際に髪に葉っぱや枝くずをくっつけたチャトとイリスが観念して頷いた。フィーナもふたりに注意を促す。
「こんな知らない土地で迷ったら大変です。単独行動は禁止ですよ」
「はあい」
チャトが髪の葉っぱを取り除く。
「もしはぐれちゃったら、俺は匂いや声で誰かしら捜して合流するね」
「私は魔導で光を起こしたりして合図をします。でもはぐれないことが第一ですからね。特にイリスさんはさっきから勢い任せの行動が目立ちますから気をつけてください」
フィーナはイリスを横目に念を押した。イリスが決まり悪そうにむくれる。
「わ……私は竜族の末裔じゃぞ……口を慎まぬか」
「竜族とか関係ないです」
フィーナからスパッと言い切られたイリスは、更に酸っぱい顔をして押し黙った。
そうこうしているうちに、チャトの耳がまた小さな音を拾った。
「カサカサ音がする。キュロボックルかも」
「違うマモノかもしれないから、慎重にね」
僕は勝手に走り出しそうなチャトの襟首を掴む。
チャトの感知力を頼りに、僕らは雑木林の獣道を歩いた。運び鳥が引く荷車のタイヤがカロカロと鳴っている。進めば進むほど、雑木林の木々の密度が深まっていく。
フィーナが白っぽい幹の木に触れてその声を聞く。
「この近辺の木々は今までの木よりキュロボックルをよく見かけているそうです。コロニーに近づいてます」
僕は運び鳥の綱を引っ張りながら、静かな木々のざわめきをぼんやり聞いていた。
「キュロボックルは攻撃してこないマモノなの?」
小さなマモノだったが、マモノである以上なにをしてくるか分からない。チャトがうーんと唸った。
「俺も本物は初めて見たから詳しくはないんだけど、本で読んだ様子だと、頭の葉っぱに水を汲んでかけてくるだけらしいよ」
「え、それが精一杯の抵抗?」
「そう。仲間を呼んでくることもあるそうだけど、仲間と一緒に水にかけようとするだけ」
マモノは水を嫌うものが多いと聞くから、水が他のマモノへと威嚇なのだろう。とはいえ攻撃の手段がそれしかないというのは、とても弱っちいマモノなのかもしれない。
チャトは更に言った。
「葉っぱに水を汲んでくるために、まずその場を離れて水場を探しに行く。汲んできたところで、かけるしかできない。とってもか弱いマモノなんだ」
「そんなに弱いから絶滅危惧種なのかなあ。人里の近くには現れないって言ってたよね」
ということは、この雑木林の周辺には人里はないのだろう、などと考えてみる。チャトが耳をピクピクさせながら言った。
「昔はいろんな森にいたらしいよ。でも、人間の都市が発達してから一気に減っちゃったんだって」
フィーナが付け足す。
「薬になると判明して、人間が乱獲してしまったんです。それで絶滅の危機に瀕しているんですね」
「ああ、だから里の近くを離れてるんだね……人間を怖がってるんだ」
百年前、マモノが人間を襲って世界を殆ど滅ぼした。でも、人間の方もマモノを追い込んでいたのだと知る。
僕のいた世界であるイフでも、人間のせいで絶滅した生き物は数多くいる。イカイの人間とマモノにも、そういう関係があるのかもしれない。
鳥の綱を引っ張りつつそんなことを考えていると、チャトがまた耳をぴくぴくさせた。
「水の音が聞こえる。川が近いのかな」
「そういえば、地図にも川が流れてたね」
僕は先程確認した地図を再度広げてみた。東西に広がった楕円形の森を、北東から流れる川が貫いている。西三割、東七割くらいで分断されているので、現在地がこの楕円の森で間違いなければ森の西側まで進んできたことになる。
雑木林が風にさわさわ揺れる音の隙間に、微かな水音が聞こえる。涼しくて、気持ちいい。
木々のざわめきに混じってコロコロと甲高い音が聞こえてきた。木でできた笛が鳴るような、軽やかな音色である。チャトの耳がぴんと立つ。
「なんだ?」
そして、白ぼけた木の向こうを覗き込み、あっと声を上げる。
「いた! キュロボックルだ」
チャトの小声に、僕とフィーナとイリスも木の裏から覗き込んだ。木々が少し開けた空間に、緑色の葉っぱがぴょこぴょこしているのが見える。キュロボックルが、ぱっと見ただけでも五、六匹いる。イリスが僕の真横で囁いた。
「たくさんいよるのう。全部捕まえたら、どれくらいの食べ物と交換してもらえるのじゃ?」
「高級なおやつまで買えちゃうかも」
チャトが尻尾をぱたぱたした。その毛先が触れたのか、僕が引いていた運び鳥がびくっと羽毛を膨らめた。
「クァアア」
鳥が大きな声を出し、それに驚いたキュロボックルが一斉にこちらを振り向いた。僕らもぎょっと肩を竦め、運び鳥の顔を見た。キュロボックルたちがバタバタ走り出す。
「キュルルル」
木製の笛のような声を出して、もたもた逃げる。慌てたチャトが木の隙間から飛び込んで逃げ遅れたキュロボックルに飛びついた。
「逃がすか!」
「キュローッ」
チャトが覆い被さった下で、キュロボックルが高い声で叫ぶ。他の数匹が逃げ切る中、この一匹だけはチャトの胸に抱きしめられて動きを封じられてしまった。イリスがチャトの横に座る。
「むう、キュロボックルはすばしっこいのだな。あんなにいたのに一匹しか捕まらなかった」
覗き込んでくるイリスを見上げ、チャトに抱かれたキュロボックルが震える。フィーナもその傍に歩み寄り、キュロボックルの頭の葉っぱに指を添えた。
「この頭の葉っぱと、尾と、それから首の葉が薬の材料になるんです」
僕は運び鳥と共に、木の影の向こうからそれを見ていた。キュロボックルが怯えている。あの小さなマモノの葉っぱを毟ってしまうのだろうか。カタカタと小刻みに震えるキュロボックルを見ていると、僕はなんだかチャトやフィーナがすごく意地悪に見えてきた。
「待って……!」
木陰に隠れていた僕も、運び鳥と共に彼らのもとへ飛び出す。
「いくら高く売れるといっても、やっぱりかわいそうだよ。こんなに怯えてる」
「んっ?」
こちらに顔を向けたチャトは、既にぷちっとキュロボックルの首の葉っぱをちぎったところだった。あっと声をあげようとした僕を見て、フィーナが僕の懸念に気がついた。
「もしかして、丸ごと連れ去ると思いました?」
「違うの?」
「葉っぱを採るだけですよ。全部採ってしまうと再生に時間がかかってしまうから、半分くらいの枚数は残して……」
途中まで話してから、フィーナはハッとした。
「そっか、言ってませんでしたね。キュロボックルの葉っぱは抜いても再生するんです。野生の子たちのは勝手に抜けて地面に落ちてるくらいです。すぐに土の養分になってしまうので、落ちてるものはあまり見かけませんけど」
フィーナの言葉に、僕はくたっと膝を折った。意外と平和的で、安心した。
「殺しちゃうのかと思った……。でも、すぐに戻る葉っぱを採ってただけなのに、どうして絶滅しそうになってるの?」
「養殖するために、乱獲して連れ帰った人間がいたんですよ。しかしながら、キュロボックルに適した環境は人間には作ることができなくて……たくさん死なせてしまったんですね」
フィーナの説明で、なるほどと納得した。効率的に葉っぱを採るために人間の元へ連れていったが、それが合わなくて減ってしまったということらしい。キュロボックルからすれば人間に連れ去られて帰ってこられなくなっているのだから、人里を離れたというのもうなずける。
チャトがキュロボックルの首から三枚ほど葉っぱを採取した。そのうち、キュロボックルは短い足でバタバタ暴れてチャトの腕から抜け出し茂みの中に逃げ出した。イリスがその尻尾を追いかける。
「あっ、すぐ生えるんならもう少し寄越すのじゃ!」
が、直後その茂みがガサッと大きく揺れた。イリスが肩を竦め、僕とチャトとフィーナも身じろぎした。フィーナが声を潜める。
「なに……? すごく揺れましたね」
「明らかにキュロボックル一匹の大きさじゃない」
僕は運び鳥の首にすがり付いた。なにか大きなマモノが飛び出してくるようなら、すぐにでも逃げた方がいい。
低い樹木の茂みがガサガサと揺れる。僕が運び鳥の背中に手を添えた、そのときだった。
「キュルルー!」
茂みから飛び出してきたのは、おびただしい数のキュロボックルたちだった。正面の茂みから三十は超える数が次々と溢れ出てきて、反射的に後ずさりした僕の背後からも更に何匹も現れる。
「嘘っ、こんなにいるの!?」
僕はもはや運び鳥の首に抱きついていた。いつの間に囲まれていたのか。一匹一匹は小さなマモノでも、こうもたくさんいるとぞっとする。気持ちとしては、大量のネズミに囲まれたような感覚だ。
「たくさんいるけど、本当に貴重なマモノなの?」
「分布が少ないんです。でも……驚くくらいいますね。どこに隠れてたんでしょうか」
フィーナがたじろぎながらもこたえる。
キュロボックルの頭の葉っぱの葉脈に、小さな雫が溜まっている。僕は先程チャトから聞いた話を思い出した。キュロボックルは警戒すると、頭の葉に水を汲んできて、敵に浴びせようとするのだ。
チャトが目をきらきらさせた。
「すごーい! 薬になる葉っぱがこんなに!」
キュロボックルたちは弱々しいなりに臨戦態勢なのだが、チャトとイリスの目には「薬になる葉っぱ」に映ったようだ。
「高級なお菓子がたくさん買えるではないか!? 少し拝借するぞ」
イリスが真正面から向かってくるキュロボックルに手を伸ばし、抱き上げようとした。しかし、当然のようにキュロボックルは抵抗し、葉っぱに乗せてきた水をぴちゃっと手に振りかけられる。
「うわ、冷た」
「キュルー!」
最初に行動したイリスに対して、キュロボックルたちの視線が集中した。控えていた他のキュロボックルも、一気に飛びかかってきてイリスに小さな雫を振りかけた。
「わあっ、やめるのじゃ! 私は竜族の末裔じゃぞ!?」
「キュロボックルにそんなの関係ないから!」
僕の方にも、ちょっとだけ雫が流れ弾になって飛んできた。親指の爪程の雫なのでなんてことないのだが、集中攻撃を受けたイリスは違った。水をかけ終えたキュロボックルは再び逃げ出し、控えていた別のキュロボックルが水をかけ、逃げて、またその控えが現れて、と、イリスは雫をいくつもいくつも無限にかけられている。
しかしこちらもやられるばかりではない。水をかけて逃げ去ろうとするキュロボックルを、チャトが素早く追いかけるのだ。
「待てー! ちょっとでいいから葉っぱ頂戴!」
そしてそんな姿勢を見せたチャトにも、キュロボックルの水かけ攻撃が襲いかかる。無限にいるのではないか、と思えてくるくらい、キュロボックルが次々と飛び出してくる。仲間が攻撃している間に他のものが水を汲みに行って戻ってきてと、交代しているのだろう。
水をかけられて尻尾がしぼんだチャトが目の色を変えた。
「この……っ!」
逃げようとするキュロボックルにくわっと手を伸ばすが、それをフィーナが窘めた。
「乱暴に扱ってはだめですよ! 貴重なマモノなんですから!」
キュロボックル一匹一匹は弱くても、大量に、それが代わる代わる襲ってくるので隙がない。キュロボックルの雫が運び鳥に当たり、冷たさに驚いた鳥が叫ぶ。
「クワーッ」
「まずい、運び鳥がパニックになる!」
僕は抱きついていた運び鳥の首に、更に強くしがみついた。このパワー型の大きな鳥が暴れだしたらいよいよ危険だ。熱水の岩穴のときのように逃げ出されてしまってもいけない。
焦る僕の心配どおり、運び鳥は羽毛をしぼめて頭を振り乱した。僕が必死に首を押さえつけても、止められる力ではない。
「葉っぱはもう諦めよう! 逸れる前に荷台に乗って!」
僕の叫びを聞いて、フィーナがチャトの襟首を掴んだ。びしょびしょになったイリスもこちらを振り向く。それでもキュロボックルを諦めきれないイリスに、フィーナが甲高い声で促した。
「イリスさん、早く!」
「ううー……でも」
「運び鳥が逃げ出したら、エーヴェに行くのに苦労しますよ!」
「ぐう! 背に腹は変えられぬか……!」
やっということをきいたイリスも、キュロボックルの群れから抜け出してこちらに駆けつけた。チャトとフィーナ、それからイリスが荷台に滑り込み、僕も運び鳥を抑えていた手を離した。途端に、運び鳥が狂ったように突進しだす。
「クワーッ!」
「わあっ!」
暴れだした運び鳥の太い足が、僕の左脚を蹴り飛ばす。僕は茂みに転がり、二、三回転して柔らかい草の上に放り出された。あちこちからキュロボックルのキュロキュロという鈴のような声が聞こえる。暴れた運び鳥に驚いて散り散りになって逃げているのだろう。
「ツバサ!」
チャトの声が遠くなっていく。顔を上げると、走り出した運び鳥とその荷車からこちらに身を乗り出すチャトが見えた。隣から血相を変えたイリスもこちらに手を伸ばしているが、走り出した運び鳥からは全く届かない。チャトが荷車から飛び降りようとしたが、危ない、と叫んだフィーナが彼を抱きとめる。
運び鳥が猛ダッシュで雑木林を駆け抜けていく。カラカラと遠のいていく荷車の音を、僕は呆然と聞いていた。そして、我に返る。
「あれ……? おいてけぼり?」
チャトもフィーナもイリスも、荷車に乗って行ってしまった。キュロボックルも退散した。僕はひとりぼっちで、草っぱらに寝そべっているのだ。
「そんな、こんな辺鄙なところで……!?」
荷車を追いかけなくちゃ、と体を起こす。しかし起き上がろうとすると、左脚がズキッと痛んだ。ズボンをたくしあげてみたら、ふくらはぎが赤くなっていた。運び鳥に強く蹴られたせいだ。じきに痣になりそうな痛みである。
痛みを堪えて起き上がってみたが、歩くには脚がよたよたした。これではどう考えても運び鳥の脚力には追いつかない。
絶望的な気持ちになった。こんなところにひとりで置き去りにされるなんて、どうしたらいいのか分からない。
真っ白になった頭を、両手で抱える。
「大丈夫、大丈夫……」
自分に言い聞かせるように、繰り返しそう言ってみた。
「運び鳥が落ち着いてくれたら、フィーナたちが鳥を操縦して戻ってきてくれるはず。見捨てられることはないはずだから……」
不安なあまり、動き回って捜したいのが本音だ。だがこの脚ではたくさん歩けないし、仲間が戻ってきてくれるならなるべく動かない方がいい。
脚がズキズキする。分からないが多分骨折はしていなくて、打撲程度だと思う。だが真っ直ぐ歩くことすらままならない痛みで、僕は脚を押さえながら奥歯を噛みしめた。
キュロボックルが水を運んでイリスとチャトにかけていた場所が、少しドロドロになっている。土と細かい草が濡れてぬかるんでいるのだ。僕はそれを眺めて、左脚を抑える手にぎゅっと力を込めた。
水辺が近いのなら、脚を冷やせないだろうか。
あまり動きたくはないが、このまま脚の怪我を放っておくのもつらい。水辺は、キュロボックルが何度も行き来できる距離にあるはずだ。
「よし……」
僕の居場所は、チャトの鼻に頼るとして。僕は痛む脚を引きずって、慎重に歩いた。耳を澄ませば、風に乗って微かに水の流れる音が聞こえる。
低い茂みをかき分けるようにして、ゆっくりゆっくり歩いた。脚の痛みで汗が滲んでくる。ふいに、どこからか高い声が聞こえた。
「キュロッ」
その声に顔を上げると、木の下に生えたキノコに座る、小さなキュロボックルがいた。つい先程まで見ていた他のキュロボックルよりかなり小さくて、僕の手のひらに乗るくらいの大きさしかない。群れとはぐれたのか、一匹で座っていた。
「まだいたんだ。小さいな……子供なのかな」
ぽつりと声を出すと、キュロボックルはびくっと頭の葉っぱを振り上げた。僕は咄嗟に謝る。
「ごめん、怖がらせるつもりはなくて!」
「キュルル!」
警戒するような声を出して、小さなキュロボックルがキノコの上から飛び降りた、短い足をバタバタさせて、走っていく。
「ああ、ごめんって!」
小さいのに速い、ネズミみたいな動きだ。木々の茂みの中をシューッと駆け抜けて消えていく。僕は足を引きずり、その先を追いかけた。
おぼつかない足でもたもた追うと、水音が近づいてくるのが分かった。警戒すると水かけ攻撃をするキュロボックルは、僕に攻撃するために水辺に向かったようだ。雑木林の木々の向こうに小川が見えたのは、僕がキュロボックルのその習性に気がついたときだった。
「キュル……」
キノコの上にいた小さなキュロボックルが、川の淵に立ってこちらを振り向いている。
川は、大股で歩いて十歩くらいで越えられる程の幅だった。水はかなり透き通っている。覗き込むと、深さがまちまちになっていて特に深いところは僕の膝下くらいまであるのが分かった。丸まった石が周囲に転がり、キュロボックルの足跡らしき濡れ跡が点々と残っていた。
僕は小さなキュロボックルから距離を取って、川の淵に腰を下ろした。左脚のズボンをずり上げて、痛むふくらはぎを出す。川に手を浸すと、冷たくて気持ちよかった。透明な澄んだ水で手を濡らして、脚の患部に当てる。ズキズキ痛む脚が、ひんやり冷やされる。
小さなキュロボックルが腰を屈めて僕の方を眺めている。僕に攻撃の意思がないのが分かったのか、様子を見ているようだ。目を合わせると怖がられそうなので、僕はキュロボックルを視界の端に入れるだけで、直接目を見ないようにしていた。
キュロボックルは警戒しているのか、真っ黒な目で僕を見つめている。僕はその純真な瞳を見ていないふりをして、脚を冷やしていた。
そのときだ。
「ツバサ様!」
上空から羽音と声がした。伝言鳥の声だ。キュロボックルが驚いて跳ね上がり、草陰に飛び込んで隠れた。
「あっ、待って……」
思わず止めようとしたが、キュロボックルを追いかけても仕方ない。僕は諦めて、頭上の小鳥を見上げた。
「ツバサ様。ゴ伝言デス」
緑色の伝言鳥がホバリングしている。リズリーさんのドリーくんだ。
「あれ? さっきも来たよね」
「リズリー様ヨリ、ゴ伝言デス」
どうやらドリーくんは、一度アウレリアに戻ってリズリーさんに伝言を伝え、またここまで飛んできたようだ。
「すごいな……伝言鳥って、小さいのに飛ぶのが速いんだね」
ドリーくんが僕の腕にとまる。くりっと首を傾げ、リズリーさんの声で語り出した。
「『ツバサくん、イリスちゃんといるの? 調べてみたらチャトくんとフィーナちゃんも都市の中にいないみたいだし、もしかしてあの子たちとも一緒にいるの?』」
アウレリアにいるリズリーさんは、なにも分からず混乱している様子だった。先程もちゃんと説明しようと思ったのだが、イリスが邪魔してきて事態を伝えることができなかった。ドリーくんがリズリーさんの言葉を続ける。
「『運び鳥を連れていったと言ったわね。たしかに一羽足りない。いちばんの若鳥で、臆病な個体よ』」
「そうだったんだ」
「『とにかく、今いる場所を教えて? 兵団が捜しに行くわ』」
彼女の声は、柔らかいが焦りが透けて見えた。優しい物言いのリズリーさんでも、突然いなくなった僕らを怒っているのだろう。
僕はドリーくんの黒い瞳をじっと眺めて、ひとつひとつ状況を整理した。まずリズリーさんに伝えなくてはならないのは、僕がイリスとチャトとフィーナと共にいて、今はこの名前も知らない雑木林に迷い込んでいて、そしてエーヴェ方面を目指していること。
整理してから話そうとして、僕は開きかけた口を閉じた。
運び鳥が戻ってこなかったら、どうしよう。
あの運び鳥は特別臆病な子だったらしく、実際、アウレリアでパニックを起こして夜通しここまで走ってきてしまうような鳥だった。あの運び鳥が今もパニックを起こして駆け出して行ったのだから、ひょっとしたらもうこの雑木林を離れて、どこか遠くへ行ってしまったかもしれない。もうチャトやフィーナがどんなに指示しても、戻ってこられないほど遠くまで行ってしまった可能性すらある。バラバラでいると、兵団が救助に来るのにも手間を取らせてしまう。
そう考えた僕は咄嗟に、ドリーくんに向かって言っていた。
「ドリーくん。チャトかフィーナ、イリスでもいい。皆に、伝言を頼みたい!」
「承リマス」
リズリーさんに自分の居場所を伝えるよりも先に、三人と合流する方を先回しにした。
「チャト、フィーナ、イリス、三人揃ってる? 怪我はない?」
僕はドリーくんに、冷静に語りかけた。
「僕は雑木林の中の小川にいます。待ってるから、戻ってきてね! ……じゃあドリーくん、よろしく」
「カシコマリマシタ」
ドリーくんが僕の腕から飛び立つ。緑色の羽根が林の中に消えて、やがて見えなくなった。
バラバラでいると、兵団が救助に来るのにも手間を取らせてしまう。それもあったけれど、自分の胸に問いかけてみれば、それだけではなかった。単純に、ひとりでいるのが不安だったのだ。
仲間のことは信じているけれど、もし、このまま置いていかれてしまったら。運び鳥を扱いきれなくて遠くへ進んでしまったら。僕がいない間になにかのマモノなんかに襲われて、三人もバラバラになってしまっていたら……。そんな不安を、一刻も早く払拭したかった。
脚がズキズキする。僕は再び、川の水に手を浸した。露出させていた脚の怪我に濡れた手を当てて、冷やす。川に直接脚を投げ出してしまおうか、考えていると。
「キュルー……」
甲高い、微かな声が聞こえた。振り向くと、茂みから顔を出すキュロボックルがいる。やたらと小さいそれは、先程まで僕を見ていたあのキュロボックルに違いなかった。
「戻ってきたの?」
「キュル……」
キュロボックルはびくびくしつつ、茂みから出てきた。大回りして僕を避けて、川に歩み寄っていく。
なにをするのかと思えば、キュロボックルは頭の葉っぱに水を汲んでいた。他のキュロボックルより小さなこのキュロボックルは、頭の葉の面接も他のキュロボックルの五分の一くらいしかない。狭い葉脈に水を汲んだキュロボックルは、トコトコとこちらに歩み寄ってきた。
小さいなりに僕を威嚇しているのかと思ったのだが、どうも様子が違う。ぷるぷる震えながらも、自らこちらに近づいてきて僕の左脚に寄り添ってくる。
「キュ……」
消え入りそうな声とともに、僕の脚の怪我に水をかけてきた。小指の爪程の雫の粒が、僕の脚に落ちる。キュロボックルは水を垂らした後で、不安げな目で僕を見上げた。
キュロボックルなりに、僕が怪我をしているのが分かったのかもしれない。葉っぱに水を汲んでかける行為は本来は攻撃だったはずだが、このキュロボックルのこの行動はそれとは別に思えた。脚を冷やす僕を見て、同じ場所に水をかけて手伝ってくれているような気がするのだ。
「心配してくれてるの?」
僕は小さな声で尋ねた。キュロボックルがびくっと身を屈めて後ずさる。逃げてしまったかと思ったが、少し離れたところでまた水を汲んで、恐る恐る戻ってきた。
元来、マモノは人に危害を加えるものではなかった。
鳥族の牧場にいる畜産系のマモノや、伝言鳥なんかもそうだが、人間に寄り添ってくれるマモノもいる。キュロボックルが人間を警戒して必死に攻撃を仕掛けることをはじめ、他のマモノも皆、本来はそこまで攻撃的ではなかったのではないだろうか。
キュロボックルが、僕の脚の怪我にぴちゃっと水を飛ばした。撫でようとしてそっと手を伸ばしてみたら、キュロボックルは驚いて遠くへ走っていってしまった。が、やはり途中で止まってまた川で水を集めている。
百年前、マモノが突然攻撃的になったと聞いている。それがきっかけで世界の秩序は崩壊し、上手く渡り合っていた他種族間のやりとりすらもそれまでどおりにはいかなくなった。涼風の吹く森に住む獣族と精霊族の関係がまさにその典型だ。
キュロボックルを見て思う。マモノの突然の凶暴化は、やはりなにか理由がある。僕は駆除班のラン班長が言っていた仮説を思い出してみた。
『もしかしたら、なんらかの強大な魔力を持った人間が……マモノを操ったんじゃないか。何者かが、世界をめちゃくちゃにするためにマモノを操る魔導を使ったんじゃないかと思うんだ。それなら戦力にならないマモノは大人しいままであることも説明がつく』
これを言っていたラン班長自身、「そんなことをする意味が分からないし、有り得ないほどの魔力が必要」だと付け足していた。
そこまで考えたとき、僕はハッとイリスの言葉を思い出した。彼女が呈していた、竜族の予言。
『百年前のマモノ反乱は世界滅亡のオーヴァチュアに過ぎぬ。本当の破壊がはじまるのは、この百年先……つまり今なのだと!』
イリスの言葉が本当なら、マモノの凶暴化はこれから更に加速する。イリスが滅亡したはずの竜族の末裔というの自体が怪しいから、これが作り話である可能性も高い。
だがラン班長の曖昧な「仮説」と、イリスの嘘くさい「予言」の両方を信じてみると。
「百年前にマモノを暴走させた、なんらかの巨大な魔力を持った人物が、再び動き出すということ……?」
竜族は、流星の占いでこの未来を予言しているとイリスは言う。占いでどこまで見透かしたのかは分からないが、もしかしたら、竜族はマモノが凶暴化する理由まで分かっているのかもしれない。
キュロボックルが、葉っぱで川の水を掬っている。
「もしも、ラン班長の仮説が正しいんだとしたら……」
僕は、水を運んでくる健気なキュロボックルを眺めていた。
「僕はそんなことをした人間を許せないよ……」
世界をめちゃくちゃにしたことも、マモノたちを変えてしまったことも、人と人、人とマモノ、様々な繋がりを壊したことも、理解できない。
イリスの話が本当だったとしたら、これから更にマモノが荒れる。その人物が、今以上にマモノを狂わせる。人間の生活の営みも、崩されていく。
「……僕には関係ない、はずなのにな」
僕はこの世界の人間ではない。絶対にイフに帰るという誓いもある。それでも、この世界が何者かによって壊されようとしているのなら、それは見過ごしたくなかった。
キュロボックルが僕の脚に一生懸命、水をかけてくる。この小さな生き物の小さな思いやりを、僕はどうしても、大切にしたかった。
運び鳥が戻ってきたのは、そのしばらく後のことだった。
「ツバサ! よかった、無事だった」
チャトの声がして、木々の脇から荷車を引く運び鳥が顔を出す。荷車にはチャトをはじめ、フィーナとイリスもいて、フィーナの肩にはドリーくんもとまっていた。僕ははあ、と安堵のため息をついた。
「皆も無事だったんだね。ここまで戻ってきてくれてありがとう」
気持ちの上ではもう何時間も待ったような気分だったが、まだ太陽が真上より東にあるところを見るとそんなに長くはなかったようだ。
「信じてたよ、戻ってきてくれるって」
騒がしい声が戻ってくると、安堵のため息で体じゅうの空気が抜けてしまいそうだった。
「フィノが木に川の位置を聞いて、俺が水音を聞き分けて、ツバサの匂いを探って、戻ってきたんだよ」
チャトがぴょんと荷車から飛び降りる。パニックだった運び鳥ももう落ち着いたらしく、今は大人しくなっていた。
チャトに続いてフィーナも荷車を降り、僕の隣にしゃがんだ。
「脚を怪我したんですね。魔導で治癒します」
「ありがとう」
フィーナの手が僕の脚にかざされると、温かいような冷たいような感覚がして、すっと痛みが和らいだ。
「あの、ツバサ殿」
イリスも、荷車から降りてきた。僕の前に立ち、目を泳がせた。
「元はと言えば、私が自分勝手にキュロボックルを怖がらせたせいで、お主は脚を怪我したしはぐれてしまった。その、えっと……」
そして、青磁色の頭をぺこっと下げる。
「すまぬ……」
しおらしく謝るイリスに、僕はぷっと吹き出した。
「今更? イリスは初めからずっと自分勝手だったでしょ」
「ぐう、だから申し訳なかったと、素直に謝っておるではないか!」
「謝る気があるんなら、アウレリアに帰ろう」
「それとこれとは話が別じゃ!」
一瞬だけしゅんとしていたイリスが元の調子に戻って偉そうにふんぞり返る。苦笑いする僕の袖口から、ぴょこっと葉っぱが飛び出した。
「あら?」
フィーナが僕の手元を見て、目を丸くした。
「キュロボックル……?」
「うん、なぜか懐いたみたいで……」
あの小さなキュロボックルは、いつの間にか僕に心を許したらしかった。現れたチャトとフィーナに驚いて、僕の袖口に潜り込んで隠れていたのだ。イリスがはあ、と感嘆する。
「すごいのう、あんなに警戒心の強いマモノがこんなに懐くとはの」
「打ち解けるまでは時間かかったよ。今は僕が危害を加えないって分かってくれたみたい」
僕の腕にくっついているキュロボックルを見て、僕は小さく呟いた。
「この子を連れていったらさ……薬になる葉っぱ、生え変わる度に手に入るよね」
懐いているのなら、警戒するキュロボックルとは違って大人しく採取させてくれる、と思う。折角懐いたのだ。生産性のあるマモノなのだから、このまま連れていったらかなり役に立ってくれる気がする。
しかし僕は、自分で言っておいて首を振った。
「でもだめだと思うんだ。この子が僕を思いやってくれたのを、利用するような形で受け止めたくない。それにこのキュロボックルはここの群れに属してる。きっと、この雑木林に家族がいるんだ」
僕自身も、イフに家族を残してひとりぼっちで知らない世界に飛ばされた身だ。どんな都合があろうと、このキュロボックルを連れ去る理由にはならない。
チャトとフィーナは惜しそうに顔を見合わせ、イリスは勿体ないとでも言いたげに口を結んだ。でも、僕の言い分には納得してくれた。チャトがこくりと頷く。
「……そうだよね。連れてくのはやめよう」
それから彼は、僕の袖から覗くキュロボックルに声をかけた。
「あのね、さっきは君の仲間を怖がらせちゃってごめん。仲間のキュロボックルたちに伝えておいてね」
そんなチャトを見て、イリスも決まり悪そうに言った。
「すぐ生える葉っぱならくれたっていいのに……ケチじゃの。まあ、強引に採ろうとしたことは謝らんでもないがの」
「キュロ……」
キュロボックルが不安げな目で鳴いて、するっと僕の袖から滑り降りた。膝の上に着地して、キュロボックルは僕を見上げた。それから首をふるふる振って、はらりと一枚、葉っぱを落とす。抜けた葉と僕を見比べ、キュロボックルは短い足をばたつかせて地面に降り立った。そして何回か立ち止まってこちらを振り向きながら、茂みの中に消えていった。
僕は膝に残った小指の爪ほどの葉っぱを、慎重につまみ上げた。
「これ……くれたのかな?」
「きっとそうですね」
フィーナが柔らかく微笑む。
「ツバサさんが優しい人なのが、キュロボックルにも伝わったんですね」
「優しいなんて、そんなことないけど」
風が木の葉を揺らしている。僕は小さな葉っぱを、ポケットに入れた。
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