12 イリス

 鳥族の谷を出て、僕らはアウレリアに帰還した。

 水路に囲まれた坂道と、赤い屋根で統一された建物、賑わう人々。久々に人がたくさんいる場所に着き、僕は安堵のため息で体が萎んでしまいそうだった。

 ラン班長とフォルク副班長は、まず兵団の上司の元へと向かった。その後は運び鳥の荷物を市場の商人に受け渡し、それから鳥をアウレリアの鳥牧場まで返しに行くそうだ。

 鳥のことなどは駆除班に任せ、僕らはリズリーさんに会いに管理局へ向かった。坂道をのぼり、平穏な街を歩く。今までの苦労があった分、この平和な街のありがたみが身に染みた。

 管理局に着くと、リズリーさんは僕らを見るなりすぐに駆けつけてくれた。

「チャトくん、フィーナちゃん! おかえりなさい。無事でよかったわ」

 チャトとフィーナの帰りに、リズリーさんは泣きそうな声を出した。柔らかな声は、やはり伝言鳥の真似る声とは違う。本物の声と優しい微笑みは、なんだかすごく懐かしく感じた。

 リズリーさんがチャトとフィーナを同時に抱きしめ、頭を撫でる。フィーナは嬉しそうに抱きしめ返した。

「ご心配をおかけしました!」

 チャトが恥ずかしそうに耳を下げる。

「大袈裟だよ。ちゃんと伝言鳥で報告してたでしょ」

「それでも心配するに決まってるじゃない! 私はあなたたちが行くのはメリザンドまでだと思ってたのに、魔族の里まで行っちゃうんだもの」

 リズリーさんはふたりを離すと、今度は僕の方を向いた。

「ツバサくん。よく頑張ったわね。マモノのことも世界のことも全然分からないのに、怖かったでしょ」

 ぽんぽんと頭を撫でられて、擽ったい。

「うん、でもチャトとフィーナがいてくれたから大丈夫でした」

 ふたりには、本当に感謝している。チャトとフィーナがいなかったら、絶対にクリアできない道程だった。

 僕はリズリーさんを見上げ、苦笑いした。

「ただ……なにも得られなかったんだけど……」

 牧場の伝言鳥で、全ての結果をリズリーさんに先に報告していた。リズリーさんも一瞬苦い表情になったが、すぐに優しく微笑んだ。

「大丈夫。きっと他にも、イフに帰る方法はあるわ」

 リズリーさんは僕をぎゅっと抱き寄せた。柔らかい体に包まれて、僕はどきりとする。変な声が出そうになったのを、咄嗟に息を止めて耐えた。

「はあ、無事帰ってこられたな」

 背後で声がして、僕はリズリーさんの胸の中で首を動かした。視界の端にラン班長と、それにのんびりついてくるフォルク副班長が映る。

「ランとフォルクもお疲れ様。兵団部から聞いたわよ、あなたたち、例の少女を見つけたんだって?」

 リズリーさんがようやく僕を解放した。二日酔いが覚めてきたラン班長は、ロビーの椅子にどかっと腰を下ろした。

「見つけたは見つけた。取り逃したけどね」

 その背もたれの後ろで、フォルク副班長が苦笑する。

「歯痒いですね。折角あそこまで接近したのに、回収できなかった。けど情報はかなり掴んだ。兵団員を多めに派遣して、空運び鳥を扱う鳥族の牧場の協力を仰げばすぐ見つかりますよ」

「鳥族の住処があそこだけとは限らないから、そこら辺も調べないとな。流通のために特別に場所を知ってる商人を捕まえて、協力させるか」

 ラン班長は椅子の上で脚を組むと、眉間に深い皺を作った。

「にしても……正直、私らが想像してたよりずっと過酷だったな。今までわざわざ都市の外のマモノを相手することなんてなかったから、状態を理解しきれてなかった。岩山の状態があんなだって分かってたら、ジズのジジイもガキ共だけで向かわせんのは止めたかもしんないほどだよ」

「私たちが把握してるより、マモノはずっと凶暴なようね……。あなたたちや他の兵団員から報告が入って、焦ったわよ」

 リズリーさんも神妙な顔をした。ラン班長が、思い出したように言う。

「あ、そうだリズリー。ツバサと反対にアナザー・ウィングでイカイからイフにいなくなった人がいるかもしれない。アウレリアの住民の行方不明情報を調べたい。私も時間を見つけて兵団が動員された事案から調べてみるが、リズリーも移住課の資料から見てくれないか」

 そうだった、まず集めたい情報はそれだ。リズリーさんはふむと頷いた。

「なるほど、分かったわ。他部署にも知らせておく」

 それから彼女は、突っ立っている僕とチャトとフィーナに目を向けた。

「あなたたち、もう都市から出ないようにしましょうね。チャトくんとフィーナちゃんは、薬草の森の浅いところまでしか行っちゃだめよ」

「えーっ! ちょっと深いとこまで行った方が珍しい草あるのに」

 チャトがわがままを言っても、リズリーさんは顔を険しくする。

「だめ。噛み付きトカゲが出た一件もあるでしょ? 危険性を把握しきれていなくて子供を放り出した私たちは、反省しなきゃいけない」

 それからリズリーさんは、僕の方にも目を向けた。

「ツバサくんも、今回みたいにアナザー・ウィングを探しに行くのは、もうこれっきりにするのよ」

「えっ……」

 僕はちょっとたじろいだ。リズリーさんがため息をつく。

「これからは新しい情報が入っても、あなたたちは直接動かず、管理局に任せて」

「でも、管理局も兵団を動かしたりするのは大変なんだって、この前言ってましたよね……?」

 僕は眉を寄せた。メリザンドから魔族の里まで行くと伝言鳥で伝えたとき、リズリーさんは「兵団員を送りたいが管理局はそこまで面倒見られない」と零していた。それは分かる。兵団員は警察官みたいなもののようで忙しいのだろう。異世界から来たなんていう普通なら相手にされない僕みたいな奴の世話ばかりに手を焼いていられない。

 しかしそうだとしたら、アナザー・ウィングの情報があっても、兵団員はすぐには動かないということになる。自分で確かめに行けないということは、アナザー・ウィングが更に遠のいたということではないか。

 リズリーさんもそこまで考えているようで、目を逸らして濁した。

「まあ……情報が入り次第考えるとして。アナザー・ウィングを拾った人がいるとしたらアウレリアの住民である可能性が高いから、都市から出なくても大丈夫なはずだしね。とにかく、ツバサくんはもう都市から出るの禁止」

 少しもやっとする。だが、リズリーさんの言うことはもっともで、僕は首を縦に振るしかなかった。リズリーさんはよし、と僕の肩を叩いた。

「ツバサくん、狭くて申し訳ないんだけど、しばらくここの医務室で寝泊まりしてくれるかしら」

 そういえばこの後どこで過ごすか考えていなかった僕は、それを聞いてほっとした。

「助かります」

「こちらとしても、上司からツバサくんをちゃんと管理した方がいいと言われてるの。一応あなたはジズ老師から異世界人ということで認められたからね」

 リズリーさんが言うと、チャトがピンと耳を立てた。

「ツバサここにお泊まりするのか? じゃあ俺もこっちに……」

「チャトくんはおうちに帰りなさい」

 ピシャリとこたえたリズリーさんに、チャトはショックで口をあんぐりさせた。

「なんでー!? ツバサ、おいしそうな匂いするのに! おいしそうな匂いに包まれて眠るといい夢見られるのに!」

「帰るところがある子は帰りなさい。遊びに来てもいいから」

 リズリーさんがきっぱり断る。まだ不満そうなチャトだったが、諦めて耳を倒した。

「分かった……。今日のところは帰って寝る」

 大人しくなったチャトの手を、フィーナが握る。彼女はリズリーさんを見上げた。

「それでは、今日はこれで失礼します」

 僕はふたりに改めて向き直った。

「ふたりとも本当にありがとう。なりゆきで巻き込んじゃったけど、たくさん助けてもらって……一緒に来てくれてよかった」

 心から、感謝が溢れていた。

 チャトとフィーナがいて本当によかった。旅を支えてくれたこともそうだが、それ以上に、孤独に潰されそうだった僕を安心させてくれた。このイカイという世界で、僕の初めての友達になってくれたのだ。

 フィーナは品よく笑い、お辞儀をした。

「私の方こそ、貴重な経験をさせていただきました。これからも協力できそうなことがあったら教えてくださいね」

「また遊びに来るからね!」

 チャトはフィーナに握られていない方の手をぶんぶん振った。


 *


 チャトとフィーナと別れると、僕はひとりぼっちになった。医務室に荷物を降ろして、寝台に座ってぼうっとする。

 今はすることがない。待機の状態だ。リズリーさんやラン班長たちがアウレリアの行方不明情報を調べてくれるまで、なにもできない。いや、仮にそれらしい行方不明者がいたとしても、僕自身はなにもできないか。

 本当は一刻も早く情報が欲しいから、僕も情報収集をしたい。でも管理局の情報は部外者の僕が触っていいものではないだろう。

 メリザンドのジズ老師のところへ行って、アナザー・ウィング以外の同じ能力の魔道具がないか調べられないか、とも考えた。ジズ老師の書斎には膨大な量の本があった。なにか手がかりがあるかもしれない。だが、リズリーさんから都市の外へふらふら出かけることは止められた。

 手持ち無沙汰である。僕は寝台に寝転んで、天井を見上げた。

 いろいろ考えてみて、ひとつの結論を導き出す。

 行方不明情報を調べるのは、管理局の人だ。その人たちが忙しかったら、調べてもらうのはどんどん後回しになる。では、僕が管理局の人のお手伝いをして、仕事を減らせば早く情報が手に入るのではないか。

「よし!」

 僕は勢いをつけて寝台から立ち上がり、医務室の外へ飛び出した。

 廊下に出るとすぐ、木箱に詰まった書類を運んでいる男の人に遭遇した。知らない人にいきなり話しかけるのには勇気がいるが、ここでたじたじしている暇はない。

「すみません、それ、半分持ちます」

 思い切って声をかけた。が、その男の人はえっと叫んだ。

「気持ちはありがたいけど、これ重要な書簡だから……あまり見られてしまうのはよくないんだ」

「あ……そうなんですね、ごめんなさい」

 僕は大人しく身を引いた。

 いきなりスカを出してしまった。でもきっとなにか僕にもできることがあるはずだ。リズリーさんのところへ行こうと、移住課のスペースへ向かう。リズリーさんは窓口に立って、精霊族の市民男性とやりとりをしていた。彼女の仕事が空いたところで、僕はカウンターに手を乗せて尋ねた。

「リズリーさん、なにかお手伝いすることありますか?」

「大丈夫よ、ツバサくんは休んでて」

 案の定、リズリーさんはすぐには仕事を与えてくれなかった。

「僕でもできることないですか?」

 粘ってみたが、リズリーさんは書類をトントン整えながら微笑むだけである。

「いいのいいの。機密資料ばっかりだから、触らせてあげられないしね」

 そんな僕の背後を、兵団員らしき人たちが四、五人駆け抜けていった。

「行くぞ、運び鳥の用意はできてるか!?」

「先程、第五十六班が手配をかけました」

 その兵団員の後ろを、ラン班長とフォルク副班長も駆け足で追っている。リズリーさんがふたりに声をかけた。

「どうしたの?」

「草原地帯調査中の第四十二班が空運び鳥の群れを確認したようだ。比較的山脈から外れたところで見かけたらしくて、うちの班とあと三つの班に調査要請が出た」

「行ってきまーす!」

 ラン班長が振り向きざまにこたえて、フォルク副班長はにっこり笑って敬礼した。リズリーさんはカウンターから身を乗り出して、走り去るふたりの背中に手を振った。

「帰ってきたばかりなのに大変ねえ。行ってらっしゃーい」

 駆除班や他の兵団員たちもばたばたしているようだ。僕も手伝いに、と思ったのだが、僕は都市の外に出られない。

 どう見ても忙しそうなのに、自分ができることがなにもない。

「なにかないかな……」

 ぽつりと呟いてみると、リズリーさんは資料になにかを書き込みながらこたえた。

「ツバサくんのお仕事は、よく休んで、元気でいてくれることかな」

 その言葉で、はっきりと理解した。大人しく引っ込んでいた方が賢明だ。逆に僕がなにかしようとしたって、却って邪魔にしかならない。僕はすごすごと、医務室に消えることにした。


 医務室の寝台に寝転がって、僕は目を瞑った。

 すごくやきもきする。一秒でも早くイフに帰るヒントが欲しいのに、ひとつでも行動したいのに、実際の今の僕はなにひとつ身動きが取れない。いっそ眠ってしまおうかとも思ったが、頭が変に冴えて眠れない。

 僕はのそのそとリュックサックを手元に寄せた。ポケットからはみ出している、透明な杖を引っ張り出す。暇潰しに、この杖の形でも変えて遊ぼうと思ったのだ。

 握って体温を伝えてみる。漠然とやってみたら、杖はいきなり割れて形を変えはじめた。最初に見たときと同じ、白くて大きな羽根になった。

「だから、これはなんなんだ……」

 ひとり言を呟く。羽根はパラパラと崩れ落ちて、手の中で杖の形に戻った。

 たしかこれは、意志の形になるとアルロは言っていた。意志の形という言葉自体がぼんやりしていてよく分からない。もしかして、想像したものに近づくのだろうか。それまで羽根になってしまったのは、イメージが固まっていなかったから、曖昧なものになってしまっただけかもしれない。

 僕は頭の中でダガーをイメージした。リズリーさんに貰ったダガーである。それだったら見た目をはっきり思い浮かべることができる。目を瞑って、杖を握った。

 パキンと音がして、杖が光る。少し期待したのだが、また羽根になってしまった。

「想像が形になるわけじゃないのか」

 羽根をふよふよさせて睨んでいると、パタタと軽やかな羽音が聞こえた。見ると、開いていた窓に伝言鳥がとまっている。

「なんだろう。誰だ?」

 僕は窓に駆け寄った。伝言鳥が喋り出す。

「ツバサ様! チャト様ヨリゴ伝言デス」

「チャト!? どうしたんだろ」

 伝言鳥はチャトの声で言った。

「『ツバサー! 今日の夜、医務室の窓を開けておいてね。秘密で遊びに行くぞ!』」

「なんだって!? リズリーさんにだめって言われたばかりだろ」

 僕は思わず伝言鳥に向かって叱ったが、伝言鳥は言葉を覚えてきただけなので、淡々と続けた。

「『おいしい夢を見たいから、ツバサの近くにいたいんだよねえ。フィノも頭が固くって、怒られるから泊まっちゃだめって言うんだ。だから俺だけでこっそり行くぞ。誰にも内緒にしててね』」

「いやいや、おいしそうな匂いがするってだけの理由で?」

 あいつのことだ、今夜本当に遊びに来るだろう。怒られるよなあ、と思ったのだが、チャトはこのとおり頭があまりよくないので、多分フィーナに見つかって作戦は中断することになるだろう。

 僕は伝言鳥に返事を託した。

「あんまりやんちゃしてフィーナを困らせちゃだめだよ。あと、リズリーさんにも叱られるから、夜じゃなくてお昼に遊ぼうね」

 まあ、おバカなのがチャトらしいといえばチャトらしいのだけれど。

 伝言鳥がいなくなると、それと入れ替わりになるように部屋の扉が軋む音が聞こえた。

「ツバサくーん、商業課の子が旅商人の情報を調べてくれたわ」

 噂をすればリズリーさんである。彼女は資料を片手に医務室に入ってきた。

「行商登録にはアナザー・ウィングらしきものはないみたい。ちゃんと商品情報を登録してる商人は殆どいないから当てにならないんだけど」

 どういう資料なのかわからなかったが、アナザー・ウィングに繋がる情報が得られなかったということだけは伝わってきた。リズリーさんが頬に手を添える。

「私も合間合間の時間でここ最近の移住種族の行方不明者を調べてるんだけど……ツバサくんが現れた日まで遡って、行方不明になった人はいないのよ。いたとしても、すぐに見つかってる人ばかり」

「そうですか……」

 僕はしょぼんと声を萎ませた。行方不明者がいないということ自体は平和でいいことなのだが、アナザー・ウィングに繋がる手がかりはなにも見つからない。

「駆除班を含め兵団は、例の少女の件でバタバタしてて、アナザー・ウィングの情報収集までに手が回ってないわ」

 リズリーさんが苦い表情で言う。僕はうん、と唸った。

「忙しそうですもんね」

「駆除班が空運び鳥の存在をキャッチしたから、捜査が進んでね。今は追い込みをかけてるところなのよ。すごいわよ、いつでも出動できるように局の裏に運び鳥をたくさん常駐させることになった」

「え、じゃあ今この建物の外に運び鳥がいっぱいいるんですか?」

「鳥牧場から借りられるだけ借りてきたみたいよ」

 あの大きな鳥がたくさん並んでいる景色を想像してみた。なかなか圧巻である。

「さて、私も行方不明者以外の切り口からも、アナザー・ウィングのこと調べてみるわ」

 リズリーさんはそれだけ伝えて、また忙しそうに医務室を出ていった。

「ありがとうございます。お忙しいのにごめんなさい」

 僕はぺこっと頭を下げた。忙しい人に余計な仕事をさせているだけでも申し訳ないのに、しかもこたえに辿り着けないときた。僕自身も、悪足掻きすらできない。

 気持ちが重くなってくる。僕はぽふっと枕に顔をうずめて、ゆっくり深呼吸をした。


 *


 今更になって、旅の疲れと大きな安堵が一気に襲ってきたのだろうか。僕はいつの間にか眠ってしまっていた。夢も見ないくらいの爆睡の末、目を覚ましたら夕方だった。

 目が覚めた理由は、廊下から聞こえる声に起こされたからである。

「なにバカを言ってるんだ?」

「知りませんよ、本当にそういうのが来てるんですって」

「鳥に連れていかれた少女じゃなくて?」

「それとは別件らしいです。駆除班のフォルクが連れてきたそうで」

 扉の隙間から見える廊下を、兵団員らしき影が横切る。僕は寝台から起き上がり、ノコノコと廊下に出た。

 なんだか、局内が全体的にざわついている。すれ違う人たちがコソコソ話していたり、野次馬の顔をした人がどこかに向かって走っていったりする。

 なにかあったのだろうか。僕は向かっていく人が多い方に流されるように歩き、階段を下りて、移住課の前のロビーに出た。

 ざわざわしている中から、一際大きく女の子の声が響いている。

「だーかーらー! 私は獣族ではないと、さっきから言っておるではないか!」

「うん、うん……分かったわ」

 リズリーさんがやや身を屈めて困ったような笑顔を浮かべている。その隣にはラン班長とフォルク副班長の後ろ姿があり、なにかを囲んでいるようだった。

「どうしたんですか?」

 僕がそろりと近づくと、リズリーさんが顔を上げた。

「あっ! ツバサくんいいところに。あなた、さっきお手伝い探してたわよね?」

「なにかすることありましたか!?」

 やっと僕にも役に立てることができたようだ。ラン班長とフォルク副班長が動いて、三人が囲んでいたものが僕にも見えた。そこにいた少女の佇まいに、僕はぎょっと目を剥く。

 真っ先に目に飛び込む、青磁色の髪。肩までの長さのその髪から、羊のようにくるんと巻いた角が突き出しているのだ。赤い瞳が僕を捉える。

「む……こやつなら私の話が分かるのか?」

 口から覗く牙は、チャトのそれと同じように鋭く尖っている。見た目は僕と同じくらいの年齢に見えるが、話し方は古風な印象である。

 リズリーさんが僕に言った。

「この子、イリスちゃんっていうの。草原に調査に出てた駆除班が帰ってくるときに、薬草の森で迷ってたみたいでね。それをフォルクが保護して連れてきたのよ」

 なるほど、アウレリアの外から来た迷子というわけだ。リズリーさんが続けた。

「耳の形は識族と同じなんだけど、この角でこの牙だから、多分珍しいタイプの獣族だと思うの」

 しかし彼女がそう言った瞬間、イリスという少女はくわっとリズリーさんに牙を剥いた。

「違う! 獣族ではないとさっきから言っておろう、バカ娘が!」

 すごい剣幕である。僕はイリスの顔を覗き込んだ。

「そうなの? じゃ、君は何族なの?」

 するとイリスは、拳を自身の平たい胸に押し付けた。

「私は竜族じゃ!」

 はっきりと、そして自信満々に告げられた。

 僕の目は点になった。リズリーさんが苦笑いし、ラン班長が冷めた顔をし、フォルク副班長は気まずそうに目を逸らした。

 僕は頭の中を整理した。

「竜族……というのは……」

 マモノに襲撃されて、百年前に滅んだ、はず。

 ラン班長がため息をついた。

「こっちも何度も言ってるが、竜族は滅亡した」

「だからあ、私は竜族の生き残りじゃ!」

 イリスも負けじと言い返す。リズリーさんが僕の方にすすすっと歩み寄ってきて、耳元で小声で言った。

「獣族だと思うんだけどね……このとおり、ちょっと様子がおかしいのよ」

「はあ」

 僕は間の抜けた声を出した。リズリーさんがちらとイリスを一瞥した。

「ごっこ遊びに夢中になってるのかもしれないし、或いは自分を竜族と思い込んでしまってるのかもしれない。竜族ってちょっと神秘的なイメージがあるでしょ? だから、一部の子供たちの間で流行しててね。自分を竜族だとして振る舞って遊ぶ子がいるのよ」

「ああー……そういうことですか」

 このイリスという少女は、もうとっくに存在していない幻の種族、竜族であると主張しているのだ。

 リズリーさんが額に指を押し当てた。

「少なくともアウレリアの子ではない。どこかの森からここまで来ちゃったんだと思う」

 彼女はイリスとのおかしな応酬に手を焼いているようで、僕に助けを求めた。

「ツバサくん、イリスちゃんが落ち着くまで、話を聞いていてあげてくれないかしら」

 めちゃくちゃな話をして大声を上げるイリスに時間を取られては、リズリーさんの他の仕事が止まってしまうのである。

「そういうことでしたら……」

 僕は頷いて、ラン班長と言い合いをするイリスに声をかけた。

「僕にも話を聞かせて。医務室でゆっくり座って話そう」

「むっ。おぬしはまともに人の話を聞けるのか?」

 イリスの瞳が僕をじっと見つめた。僕はひとまず頷いた。

「うん。行こっか!」

 僕はイリスに手招きし、医務室の方へといざなった。ついてくるイリスの背後で、リズリーさんがしきりに僕に頭を下げていた。


 *


 医務室の寝台のうち、いちばん右端に僕が座り、真ん中のものにイリスに座ってもらった。

「それで……イリス、君は竜族なの?」

 とりあえず気が済むまで喋らせようと思い、僕は彼女が話したいであろう話題を切り出した。イリスは大真面目に頷いた。

「そうじゃ。私は百年前、滅亡の危機に瀕した竜族が、未来の種の保存を託すため、竜族の男女を五人、コールドスリープさせたのだ。私はその中のひとり。生憎、残りの四人は見当たらない……マモノに食われたのかもしらん」

「コールドスリープ?」

「うむ。簡単に言えば仮死に近いかもしれぬ。竜族や竜は、自身の体内に流れる時間を凍結することができるのじゃ」

 イリスが寝台から下ろした脚を組む。

「とにかく、無事に覚醒したのは私だけだった。だから私は、百年前に竜族が呈した予言を、世界の王であるアウレリア国王に伝えなくてはならないのだ」

 異世界から来ましたと言った僕が言うのもなんだが、イリスの話は規模が大きい。これが妄想だと思うと恐ろしささえ感じる。

「そこで、流星の霊峰からはるばるアウレリアを目指して旅をしてきたのじゃが、生憎途中で力尽きてしまったのだ。なにせ、私には食料がなかったからの」

 イリスの発言に、僕はえっと眉を寄せた。竜族がかつて住んでいたという流星の霊峰は、たしかあの巨大山脈のいちばん高い山だったと記憶している。そこから食料を持たずにアウレリアまで目指してきたとなると、それは倒れてしまっても無理もない。

「なんでそんな無茶したの」

「仕方なかろう? 竜族の住んでいた居住地域はとっくに壊滅しておる。食料なんかどこにも残っておらぬのだ」

「国王宛に伝言鳥を飛ばすのは?」

「こんな大事な話を伝言鳥なんかに任せられぬ。大体、直接国王宛に飛ばしたって城の番人で塞き止められる」

 まことしやかに語るイリスの話を聞いて、僕は頷きながら掘り下げる。

「竜族の予言って、なに?」

 イリスが神妙な顔つきになる。

「それは……この世界の、滅亡じゃ」

「んっ?」

 聞き間違えかと思って、唸る。イリスはもう一度はっきり繰り返した。

「マモノによる都市の破壊が起こるのだ。竜族は流星群の夜に占いをする。そして百年前、まだ竜族が残っていた頃、導き出したのだ。百年前のマモノ反乱は世界滅亡のオーヴァチュアに過ぎぬ。本当の破壊がはじまるのは、この百年先……つまり今なのだと!」

 なにを言い出すかと思えば。

 話の規模の大きさはすごいものだなと感じてはいたが、こんなことまで言い出すとは思わなかった。冗談にしてはセンスが悪い。

 イリスは角の横に垂れた青い髪を、耳に引っ掛けた。

「で。私はひとり、竜族の予言を国王に伝える使命を受けて来たのだが、ここの愚民どもは誰も私の話を信じないのだ。緊急事態だというのに、平和ボケしてのんびり勘違いしておる。私のことを獣族だと思って、悪ふざけをしてると見ているのだろう。折角アウレリアまで来たというのに、国王に会わせてもらえぬ」

 僕はぽかんとしていた。竜族は滅亡した。だからイリスが竜族だというのは嘘か妄想か遊びだと思う。しかし、僕自身も異世界から来たと主張して信じてもらえなかった過去がある。あのときのもどかしさといったらなかった。

「イリスが竜族だっていえる、証拠はある?」

 尋ねた僕に、イリスはむっと眉を吊り上げた。

「おぬしも信じておらぬのか!?」

「いや、そうじゃなくて! 国王に会わせてもらうには、やっぱり信用されないといけないと思うんだ。だから、誰から見てもイリスが竜族だって認めざるを得ない証拠を突きつける必要がある」

 早口に言うと、なるほど、とイリスも納得した。

「竜族である証拠か……なにがあれば信じてもらえるのだ」

「獣族だと思われてるんなら、獣族にはできなくて竜族にはできるものを見せたらいいと思う。たとえば、獣族は魔導を使えないらしいから、イリスが魔導を使えたら獣族ではないっていう証拠になるよ」

「むっ、そうか! 魔導なら使えるぞ!」

 イリスが自信満々に、寝台の上に立ち上がる。アドバイスをした張本人でありながら、僕はびっくりして仰け反った。

「使えるの!? 本当に獣族じゃなかったのか」

「やーっぱり疑っておったか! 私たち竜族は、あの魔族をも凌駕する超最大火力の魔導『竜魔導』を生み出した誇り高き種族なのじゃ!」

 イリスは寝台で仁王立ちして、僕にびしっと人さし指を向けた。

 僕は絶句して、イリスのしたり顔を見上げていた。これが本当なら、竜族は生き残っていたことになる。

「早速管理局の人に魔導を見せて説得しようよ! 」

 もしも竜族が残っていたのだとしたら、そして予言というのが本当だとしたら、とんでもないことだ。真面目に取り合わなくてないけない話になってくる。イリスがやる気満々で目を輝かせた。

「よーし、ゆくぞ! おぬしもついてくるのじゃ!」

「うん!」

「そなた、名はなんと申す?」

「翼です!」

「うむ、ゆくぞツバサ殿。おぬしは今から私の配下にしてやる!」

 自信に満ち溢れた態度で宣言してから、イリスはハッと固まった。

「いや……ちょっと待った。竜族の竜魔導は、竜型のマモノがいないと使えぬのだ」

 彼女は急に失速し、すとんと座り込んだ。

「竜は流星の霊峰にしか生息しない。つまり、今の私には魔導は使えぬのだ」

「なんだ……できないんじゃないか」

 なんだか肩透かしを食らった気分になった。本当は竜魔導も使えないのではないか。やはりイリスは獣族で、竜族に憧れているだけなのかもしれない。

 そんな疑惑が僕の中で浮かんでいても、イリスはまだ自分を竜族だという主張を曲げなかった。

「むー、どうしたらいいのだ! 私は竜族じゃぞ、本当なのだぞ!」

「信じてあげたい気持ちはあるんだけどね……」

 僕が現れたときのリズリーさんも、きっとこんな気持ちだったのだろう。イリスが布団の上に仰向けに倒れる。左右にのたうち回って脚をばたつかせていた。

 こんなに必死なのなら、竜族だと信じてあげるべきだろうか。真に受けるのもまだ抵抗があるので、僕はひとつ、質問をした。

「じゃあイリス、アナザー・ウィングって知ってる?」

 竜族の魔力が込められているというアナザー・ウィングのことを知っていれば、それは証拠になる。そう思ったのだが。

 のたうち回るイリスはピタリと動きを止めて、起き上がった。

「へっ? アナザー……なんなのだ? それ」

 不思議そうに首を傾げる彼女は、どうやらアナザー・ウィングを知らないようである。却って嘘っぽさが増した。

「アナザー・ウィングは竜魔導の魔力を込められた魔道具の名前だよ……」

「そうなのか。竜族史のいつの時代のものなのだろうな。少なくとも私は知らぬ」

 これも知らない言い訳に聞こえてしまって、僕は苦笑いをした。


 その夜、仕事を終えたリズリーさんが僕とイリスの様子を見に医務室に来た。

「私これから帰るけど、大丈夫?」

「お疲れ様です」

 僕は寝台から降りて、扉から覗くリズリーさんに歩み寄った。彼女はちらとイリスのいる真ん中の寝台に目をやり、声を潜めた。

「イリスちゃんはどう?」

「わーっと喋った後、寝ちゃいました」

 あれからイリスはずっと竜族の証明に悩み、寝台に突っ伏して唸っていた。しばらくして唸り声が聞こえなくなったと思ったら、眠ってしまっていたのだ。どこから来たのか定かではないが、きっと遠くからひとりで歩いてきたのだ。疲れてしまっても仕方ない。

「自分は竜族だって言って聞きませんでした。一瞬、本当かもしれないなって思っちゃいました」

「竜族は滅んでるのよ。百年前に真っ先にマモノに襲われた。のちに様子を見に行った当時の兵団員の記録では、そこには亡骸ひとつ残っていなかったというの」

 リズリーさんがため息をついた。

「竜族については、その当時から詳しいことが分からない種族だったそうよ。コミュニケーションが得意じゃない種族柄で、他種族との対話は伝言鳥を使うくらい。その伝言鳥でのメッセージも、必要最低限にしか伝えてこなかったと言われてる」

「じゃあ、よく喋るイリスは竜族らしい性格ではないですね」

 僕はイリスに顔を向ける。眠っているイリスの背中は、呼吸に合わせて膨らんだり萎んだりしていた。

「イリスが、竜族の予言を伝えに来たっていうんです」

「そう言ってたわね。国王に会わせろとまで言い出したわ」

「はい。世界がいよいよ滅亡するって……」

 たしかにこの予言は、必要最低限というか、詳しく語っていない予言だと思う。リズリーさんが目を伏せた。

「最近、ただでさえ妙な現象が続いてるのに……滅亡なんて、不吉ね」

 森にいないとされる、噛み付きトカゲが森に出現した。アウレリアには来ないはずの空運び鳥がアウレリアに来て、なぜか少女を攫った。しかもその少女は、身元不明。

 僕は、あの長い髪の少女を思い浮かべた。忘れたつもりだったのに、まだ脳にこびりついている、冷たい無表情。

「見間違えかもしれないんですけど……」

 ぽつり、リズリーさんに呟く。

「僕、鳥族の谷で、例の少女らしき子が空運び鳥に乗るのを間近で見たんです。でも、それは辻褄が合わないことだらけだったので、僕が疲れのせいで幻覚を見たんじゃないかってことになったんですけど……」

 頭に残って、消えない。

 高いところから僕を見下ろす、天ヶ瀬さんの姿が。

「その件については、駆除班から報告が上がってるから聞いてるわ」

 リズリーさんが目を閉じた。どうやらラン班長は、あの場では信じていないようだったが情報として報告しているようである。

「ただ、やっぱり谷の鳥族の証言から推測するに、空運び鳥の習性の点で不自然なのよ。イフの人間かもしれないということも、受け入れられる人はまずいない。イフの存在自体、さくっと認めちゃうのはジズ老師くらいのものだから」

 リズリーさんはふうと息をついた。

「それじゃあツバサくん、私は帰るわね。困ったことがあったら伝言鳥を飛ばしてね」

「はい。お疲れ様でした。おやすみなさい」

 寝て起きたら、きっとイリスも落ち着いて素に戻るだろう。僕もゆっくり眠ることにして、寝台に戻った。


 *


 カタカタ。

 深夜に変な音がして、僕は目を覚ました。音だけでなく、何者かの気配もする。むくりと体を起こすと、窓辺に佇む人影が見えた。頭から伸びるふたつの角にぎょっとしたが、それがイリスの影だと気づく。

「どうしたのイリス」

 起き抜けの掠れた声で話しかけると、イリスはガラッと窓を開けた。

「起こしたか」

「起きた。なにしてるの?」

「うむ。下の階には夜勤の局員がおってな。出歩いていると捕まってしまうのだ」

 青白い髪が、窓風でふわりと膨らむ。外には丸い月が浮かんでいた。

「なにをし……」

 僕が問いかけた瞬間、イリスは窓に足をかけた。

「うわああっ!?」

 僕は寝台から跳ね起き、イリスの方に駆けつけた。床に置いてあったリュックサックの肩ベルトが足に引っかかり、ベチッと転び、それを引きずりながらイリスの腕を引っ掴む。

「なにしてるの! 危ないよ、ここ二階だよ」

「うむ。普通に門から出られなかったのでな」

 イリスは平然と窓に座っていた。僕は目を白黒させる。

「だからってどうして!? 寝てなよ!」

「しーっ、大声を出すでない! 人が来たらどうするのじゃ」

 イリスが僕の口を塞ぐ。

「今から私は、エーヴェに向かう」

「えーうぇ……?」

 口を押さえられていたせいで、上手く発音できなかった。エーヴェといえば、たしかマモノの襲撃に耐えた三つの都市のひとつで、海に浮かぶ島だった。イリスが真顔で頷く。

「アウレリアの国王に会わせてもらえないのなら、エーヴェに行くしかない。エーヴェは海を隔てている分、大陸と違う秩序を持っておるのだ。エーヴェの島主殿の権力はアウレリア国王の次くらいに大きい」

 イリスは小声でひそひそ話した。

「しかし私は現在、このアウレリアの移民課に保護されている状態じゃ。逃げ出そうものなら引っ捕まえられる」

 だから窓から脱出しようというのか。

「ではな。短い間じゃったが、世話になったの!」

 イリスは早口に言い、僕の口から手を離したと思うと再び窓から身を乗り出した。僕は彼女の胴にしがみつく。

「だめだって、危ないよ!」

「邪魔するでない!」

 僕が引っ張っても、イリスは重力に任せて窓から飛び降りてしまった。イリスを掴んでいた僕も諸共転がり落ちる。

「ふああっ!?」

 体じゅうがひゅっと縮こまる。足に絡まっていたリュックサックまで一緒に引きずり落とされて、共に真っ暗な深夜の闇に落下していく。地面に叩きつけられる恐怖に叫んだ。

 が、僕を受け止めたのはぽふっと柔らかい衝撃である。

「へ……!?」

 なにが起こったのか理解できぬところで、真下から声がする。

「クワアアー!」

 声と同時に暴れだし、僕とイリスは振り落とされた。地面に転がった僕は、混乱した頭で頭上を見上げた。茶色い大きな鳥が、目を見開いて鳴き叫んでいる。

 僕の頬に触れていた柔らかな羽根、独特の香ばしい匂い。僕は自分が運び鳥の背に着地したことに気づいた。まだ頭の整理はつかない。ただ、兵団が運び鳥を大量に待機させているとリズリーさんが言っていたのは思い出した。鳥の足に綱が括りつけてあり、それが柵に結び付けられて、たくさんの運び鳥が並んでいる。

「暴れるでない!」

 イリスが立ち上がって、運び鳥の首を抱きかかえる。背中にいきなり人が落ちてきた運び鳥は、驚いてパニックを起こしていた。その叫び声で他の運び鳥も目を覚まし、連鎖する。

「カアー!」

「パアー!」

「こら、静かにするのじゃ! 騒ぎを聞きつけて人が来てしまう!」

 騒ぐ鳥たちをイリスは小声で制し、ちらと僕に目線を投げた。

「繋がれておる。ツバサ殿、なにか切れるものは持っておるか?」

「えっ? ええっと、はい」

 足に絡んでいたリュックサックから、ダガーを取り出す。混乱していた僕は、よく考えもせずにそれをイリスに渡してしまった。イリスはダガーの刃で、たくさんいる運び鳥の内、一羽の綱を切った。

 イリスが自由になった運び鳥の荷車に飛び乗る。僕はリュックサックにつんのめりつつ、荷車の淵に手を引っ掛けた。

「だめだよイリス、勝手に乗っちゃ……!」

 と、そこで突然僕の手が後ろから引っ張られた。

「うわっ」

「なにやってんのツバサ!」

 僕の腕を引くのは、びっくり顔のチャトだった。

「チャト、なんでここに」

「言ったろ、夜に遊びに来るぞって! そんなことよりなにしてるの」

「本当に来たのか。えっと、今ちょっと取り込み中で」

 鳥がぎゃあぎゃあ騒ぐ中で、僕はイリスとチャトを交互に見比べた。

 そんなことをしていると、バタバタと足音が聞こえてきた。

「なんだなんだ。どうしたんだ?」

 鳥の大声を聞きつけて、夜勤の管理局員が様子を見に来たのだ。イリスが身を屈める。

「まずい。行くぞ」

 イリスが運び鳥の背中を叩いて、動かした。

「だめだって! 叱られるよ!」

 引き留めようとした僕は荷車からはみ出したイリスの手を掴む。しかしイリスは止まるつもりはなく、僕はイリスを止めたい一心で、リュックサックを肩に引っ掛けて荷車によじ登った。それを見ていたチャトも、荷車に飛び乗ってくる。

「なになに、なにするの?」

 パニック状態の運び鳥は、首を振りながら走り出した。チャトがボッと尻尾を膨らめた。

「わっ、どこ行くの?」

 夜闇の中に駆け出す運び鳥に、管理局の職員が駆け付ける。魔導で周囲を照らされて、暴れる運び鳥と発進した僕らが浮かび上がる。

「あっ!? 君たち、待ちなさい!」

 夜勤の職員の声が届いたが、運び鳥の荷車はもう僕らを乗せて走り出していた。僕は荷車の上で膝をつき、イリスの背中に叫んだ。

「まずいよイリス、戻ろうよ!」

「もう後には引けぬ!」

 徐々に加速する運び鳥に、別の声が届いてきた。

「チャト! どこに行くんですか!?」

 フィーナの声だ。チャトが荷車から身を乗り出す。

「あれ、フィノ! なんでいるの!?」

「待って、どこに行くの!?」

 状況が呑み込めないフィーナは裏返った声で叫び、通り過ぎる荷車を追いかけて走った。僕は咄嗟にリュックサックに刺さっていた杖を抜き、ぶわっと羽根に変えた。

「掴まって!」

 何度か練習したお陰で、すぐに形を変えることに成功した。羽根の先をフィーナに差し出すと、彼女は細い手を伸ばしてその羽根の先を掴んだ。なんとか握っているのを確認して、僕は羽根をぐっと引っ張った。千切れてしまうかと思ったが、流石は魔道具だ、フィーナの重みと荷車の速さに耐えている。でもこのまま運び鳥が加速したら、流石にフィーナは振り落とされる。

 フィーナが諦めかけた瞬間、チャトがぴょこっと荷車の淵に立った。必死に羽根を掴むフィーナの手に直接手を伸ばし、荷車がガタッと揺れた衝撃を利用してその手首を掴んだ。僕はさっとチャトを抱きかかえてから羽根から手を離し、そのままぐいっとチャトごとフィーナを引きずり上げた。

 羽根を握ったフィーナがチャトの腕に釣られ、ぽてっと荷車の中に転がり込む。運び鳥の足は加速し、夜のアウレリアを切り裂いていく。

「はあっ、はあ……なにやってるんですかツバサさん。チャトも……」

 フィーナが呼吸を荒らげる。荷車のいちばん前に座るイリスがちらと振り向いた。

「説明は後じゃ」

 街の坂道を滑走する。真っ暗でどの方向に向かっているのかすら分からない。ただ下り坂なので、都市の外周に向かって進んでいるのだけは分かる。

 やがて建物が低くなってきて、目の前に水路が見えてきた。月に照らされて光る水面に、僕はガタッと身構えた。

「まずい、このままじゃ運び鳥が水に突っ込む」

 パニックを起こした運び鳥というものは、暴れて荷車を壊すほどだったのを覚えている。水路に気づかずに落ちたりしたら、余計に混乱して暴走してしまう。

 僕の焦燥が募る中、水路はみるみる近づいてくる。フィーナがすくっと立ち上がり、荷車の手前側の淵ギリギリとのところに立った。イリスが彼女を見上げる。荷車が揺れると、フィーナはその淵に手をついて耐えた。運び鳥が水路に落下する、その寸前だった。

 パキパキパキッと軽やかな音が鼓膜を震わせる。

 漂ってくる冷気に、僕はそわっと鳥肌が立った。落ちたはずの運び鳥はスピードを落とさずに駆け抜けていく。フィーナが凍らせた、水路の上をだ。

「間に合った……!」

 フィーナの半分無声音の声が、風の中に霞む。

「クァアアッ」

 滑る足元に驚きながらも水路の上を抜けた運び鳥は、荷車をガラガラ引いて、真夜中の都市外へと飛び出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る