9 木々も凍る森
あの鳥についてはまるで分からないことだらけだが、ひとまず僕らは生きて岩山を下りられた。崖から落ちたところを偶然鳥に拾ってもらって結果的に下界まで下りてきたという形だが、下山は下山だ。
「一瞬の出来事だったから全然頭が追いつかないんだけど……ここって、木々も凍る森だよね」
僕たちは、雪景色の雑木林に立っていた。吐く息が白い。
「そのようですね。名前のとおり、木が凍ってます」
僕らの周囲は真っ白に凍った木々で囲まれていた。背の高い木々が広げた枝が、雲海のように白く染まっているのだ。中には樹木自体が雪に埋もれて、のっぺりした柱になってしまっているものも見受けられる。
「めちゃくちゃ寒い……尻尾の先まで凍りそうだよ」
チャトが上着の中に縮こまって震えている。フィーナも白い息を手のひらに吐いた。
「岩山の山頂も寒かったけれど、ここの寒さは比べ物にならないですね」
僕は毛布に顔をうずめて頷いた。寒すぎて痛いくらいだ。サクサクした雪が靴を濡らして冷たい。吹雪みたいな風が僕を突き刺し、顔がヒリヒリする。あまりにも寒くて、僕たちはメリザンドで買っておいたマフラーと手袋、耳当てを慌てて着けた。これでもまだ寒い。
でも、ついにここまで来た。
「この森のどこかに、魔族の里があるんだね」
僕は白く塗り潰された景色を見渡した。冷たくて息が詰まりそうだ。だが、魔族の里まであとひと息だ。
ただそのひと息が、全く手がかりなしなのである。
「どうしようか。どうやって魔族の里を探せばいいんだ?」
地図上で見る森は、山脈より北の大地を埋め尽くすほど広い。こんな恐ろしく広大な土地を、ノーヒントで散策するしかないというのか。
フィーナが赤らんだ頬をして、いちばん手近な木を見上げた。静かに目を瞑っていると思ったら、しばらくしてこちらを振り向いた。
「今、こちらの樹木に里の場所を知らないか聞いてみました」
なにごとかと思ったが、そうだった。精霊族であるフィーナは、草木とコミュニケーションを取ることができるのだ。最初に腕輪を探したときに、森の木々に聞き回ったと言っていた。
「なんて言ってた?」
「そんな場所があるのにすら、興味がないそうです」
よりにもよって絶望的な返答である。
「ですが、こっちの木は存在していることは知っていると言ってます。こっちのは迷い込んで里を見てきたという伝言鳥と会ったことがあると」
フィーナが木々の前をうろうろしながら続けた。僕は白く凍った木々にそれぞれ目を向けた。
「フィーナのその能力で、情報を少しずつ集めながら探してみようか!」
樹木一本一本は、わりと淡白な反応をするらしい。だがこれだけ数があるのだ、小さな情報でも集めていけばなにかのヒントになるだろう。
僕らは木から得た情報を頼りに、里まで迷い込んだ伝言鳥が現れたという方向に向かって歩き出した。降り積もった雪に、足が沈む。寒さに弱いのか、あれほど元気だったチャトが静かになってしまった。
「樹木のひとつが言っていたんですが、この森が寒いのは北の海から流れ込んでくる冷たい風の影響なんだそうです」
フィーナが高い木々を見上げる。
「この風のお陰で、この森の方には山脈の霧が流れてこないようです。冷たい風は岩山でブロックされて山脈より南には流れず、この森にばかり循環する……だから、山脈の北側だけが桁外れに冷え込んでるんだそうです」
「そうなんだ。木が凍っちゃうわけだね」
返事をしながら鼻がぐずぐずした。寒さで鼻先と耳が痛い。
「こんなに寒いとこなら誰も住みたくないもんね。だからこそ、他の種族と距離を置いてる魔族はこういうところを選んで住んでるんだなあ」
しかし、こんなに寒くてもそれが適しているものもいるらしい。木々の中をタタタと駆け抜ける、小型のマモノがいた。
「こんなとこにもマモノはいるんだ」
「全く見たことのないマモノです……なんなのか分からないので、慎重に行きましょう」
フィーナがちらりとチャトに視線を投げた。チャトは耳をしょげさせて尻尾を体に巻き付け、猫背になっていた。
「体じゅうが悴んで、感覚がない」
どうやら、寒さのせいでいろいろな器官が鈍っているみたいだ。
「今マモノが来ても気づけないかも……」
フィーナがチャトに手をかざす。温風を魔導を当てているようで、僕の方にもほんのり温かい風が流れてきた。
「私自身も体が冷たくなっていて、あまり長くは魔導を維持できない……ごめんなさい」
そんなふたりを見て、僕はリュックサックを開け、そこから丸まって入っていたジャージと学ランを引き出した。
「これ、足しになるか分かんないけど、よかったら羽織って」
どちらも大した保温性の高い生地ではないが、一枚あるだけで違うはずだ。寒くてたまらないらしいチャトは震えながらジャージを受け取り、フィーナは戸惑いながら学ランに手を伸ばした。
「いいんですか……? ツバサさんも寒いんじゃ……」
「寒いよ! でも、チャトとフィーナの方がすごい能力持ってるんだから、体を大事にしてもらわないと」
皮肉なことに、僕は我慢には慣れている。フィーナは苦笑いののち学ランを手に取った。チャトが上着を一旦脱いでジャージを着た。近所の元気な小学生みたいな風貌になっている。見慣れたイフの格好をしてくれると、面白いほど親近感が湧く。対して、フィーナが学ランを羽織った姿はちょっとドキリとした。人形のような美貌の女の子が男物の制服を着ている姿というのは、どことなく神秘的で背徳感すらある。ふたりはその上から、一時的に脱いでいた上着を着込んだ。
「こんなに厚着してもまだまだ寒いね」
チャトが耳をぷるぷるさせる。僕はしばし考え、そうだと提案した。
「毛布で体をくるんで、コート代わりにしよう」
「いいね!」
早速チャトは鞄に入れていた毛布を取り出し、体に巻き付けた。厚着の上に毛布なので、モコモコでまん丸である。僕も同じように、眠るとき用の毛布を被った。まだ冷えるけれど、ないよりはずっと温かい。
「フィノもこうした方がいいぞー」
チャトが無邪気に誘うが、フィーナはちょっと苦笑いしていた。恐らくこの、毛布に包まれたコロコロした外見がフィーナの美意識に反するのである。
「見た目は恰好悪いけど、あったかいよ」
僕も笑いかけると、フィーナは諦めたように毛布を羽織った。お陰様でフィーナは毛の生えたダルマのようになってしまったが、彼女も毛布に顔をうずめて呟いた。
「あったかい……」
プライドと引き換えに温もりを手に入れ、フィーナはこちらに顔を向けた。
「チャトの反応が鈍ってる分、より慎重に周りを観察しましょう」
フィーナは先程駆け抜けていったマモノが通り過ぎた付近で、地面を見下ろした。
「幸い、雪が積もってるので足跡が残ってます。マモノがたくさんいるところにはマモノの足跡がある」
ここを通ったマモノの足跡がくっきり残っている。猫の足跡によく似た、ぷっくりした肉球の形だ。
「うん、大きな足跡とか爪のあるものとか、見かけたら注意ね」
僕とチャトは木々の隙間から遠くに足跡がないかを見ながら、フィーナは木の声を聞きながら、森の中を進んだ。木が徐々に多くなって、その一本一本の高さも高くなっていく。森が深まってきて、辺りは薄暗くなってきた。
周囲を警戒するチャトとフィーナは静かになってしまった。寒くて暗くて、更にマモノの気配も殆どなく、森は気持ち悪いくらい静かだった。自分たちの足音しか聞こえない。その足音も、反響することなく雪に吸い込まれていく。
僕はこの沈黙を破った。
「アウレリアで攫われた女の子のこと、チャトは『鳥のマモノに乗りこなしてるように見えた』って言ってたよね」
崖から落ちた僕たちをバスケットでキャッチした、器用な鳥のことを思い出す。
「それは見間違えじゃなかったんだ。女の子が連れられていたのは僕らを助けてくれた鳥と同じ種類の鳥だと思う」
「私もそう思いました。あんな風に人を乗せて飛ぶマモノがいるなんて聞いたことがありませんが……実際に乗ってしまった」
フィーナが眉間に皺を寄せる。見間違えではなかった可能性が強まり、チャトも自信がついたようだった。
「やっぱそうだったんだ! ほらね! 俺の目が正しかった」
「でも彼女が乗りたくて乗っていたかどうかまでは分かりませんよ。あの鳥のことは駆除班でも知らないんです。一般的なアウレリア住民があの鳥の存在を知っていて、いきなり乗りこなしてるとは考えにくいです」
フィーナの言うとおりだ。女の子が見知らぬ鳥のマモノに連れ去られたと騒ぎになるほどの、謎のマモノなのである。僕は先程の鳥の純粋無垢な黄色い目を脳裏に浮かべた。
「分からないけど、あれは伝言鳥とか運び鳥と同じように、人に手懐けられてる種類のマモノだと考えて間違いなさそうだね。人間を警戒しないどころか、僕らを助けてくれた。それに足に持ってたバスケットは、人工的に作られてるものだもん」
誰かしらがあの鳥にバスケットを持たせて、そこに人を乗せることを覚えさせたのだ。それも一羽や二羽ではない。あの鳥は群れで行動していたのだから、たくさん手懐けているに違いない。
都市の市民であるフィーナやチャト、駆除班すらもが知らない鳥だというのだから、都市を離れ独自の住処を作った人たちの文化だろう。山脈のどこかでひっそり暮らしてる人が、ああいうマモノを生み出したのだ。
チャトが不思議そうに首を傾げる。
「それじゃ、そのマモノを手懐けた人が、アウレリアの女の子を攫ってくるように指示したのかな」
それは僕にも疑問である。なぜそんなことになったのか、あの女の子は結局どこへ連れて行かれたのか、全く分からない。
そんな話をしているときだった。
ぴょこ、と、木の陰から小さなマモノが顔を出した。僕はびくっと足を止める。
「なにかいる! こっちを見てるよ」
顔はウサギのようだが、体はしなっとした細身の猫に似ている。全身が白い毛皮で覆われていて、背中にはぽつぽつと茶色い斑模様があった。大きさは猫や小型犬くらいで、噛み付きトカゲみたいな恐ろしさはない。
だが見た目がかわいくても、未知のマモノはなにをしてくるか分かったものではない。向こうはじーっとこちらに真っ黒な目を向けてくる。僕はここから立ち去るべきかとも考えたが、ひとまずそのマモノの様子を窺っていた。
やがて、マモノはぴょこんぴょこんとこちらに向かってきた。チャトが耳の毛を逆立て、フィーナが身構える。僕も少し身を屈めた。が、マモノは大人しく僕らの前で立ち止まり、ボタンみたいな瞳でこちらを見上げた。くりんと首を傾げ、耳をぴくぴくっとさせる。
「攻撃してくる様子はないね」
それどころか、なんとなく友好的な気配すら感じる。マモノの方もこちらの様子を窺いながら、ちょこちょこと歩み寄ってくる。僕の足元まで来ると、無垢な瞳で僕の顔を覗き込んだ。
そして僕が体を包んでいた毛布に、かぷっと噛み付いた。
「ん? なに?」
僕自身を攻撃するのではなく、あくまで毛布を噛んでいる。ぐいぐい引っ張ってきて、僕は折角のコート代わりの毛布を奪われそうになった。
「なにこれ、なにがしたいんだろう」
引っ張ってはくるものの、体の大きさ相応の力なので毛布を引き剥がされるほどではない。困っている僕と毛布を離さないマモノの引っ張り合いを見て、チャトが言った。
「どこかに連れていこうとしてるのかな?」
「なるほど」
僕は毛布でしっかり体を包んで留めている手を離さず、マモノが引っ張る方へと一歩踏み出した。マモノも毛布を咥えて、その分後ずさる。
フィーナが傍の木を見上げた。
「樹木の声によると、このマモノは少なくとも木々にとっては害がないようです。大丈夫でしょうけど、危険そうだったら引き返しましょうね」
行く先が定まらない僕らは、とりあえずこのマモノにこのマモノが引っ張るままに歩みを任せることにした。
足の感覚が消えるような雪道をざくざくと歩く。凍った木々は更に高さを増し、広げた枝が重い影を落としている。森がどんどん暗くなって、不安になる。
マモノは人懐っこい表情で、ぐいぐいと僕の毛布を引っ張った。
「ついていって大丈夫かなあ……なんか怖くなってきた」
寒くて薄暗いというのは、無性に孤独感を煽られる。だが周りに嫌な気配があるわけでもなく、引き返すきっかけがない。むしろチャトは乗り気で楽しげに追っている。
「行くだけ行ってみようよ、魔族の里に案内してくれるかも」
「そんな都合のいいことあるわけないよ」
木々の密度が高まっていく。風が木を揺らし、もがり笛が吹く。薄暗い中で雪が異様に明るく反射して、白いマモノもほんのり光って見えた。
やがて、マモノは一本の樹木の前で止まった。口から毛布を離さないで、上目遣いで僕を見ている。僕はマモノに合わせて立ち止まって、周りを見渡した。目の前の木と同じような高さ、太さの木々が並んでいるだけで、今までの風景とさほど変わり映えしない。雪の上には小さな足跡がてんてんと散らばっている。このマモノの足跡だろう。他に探してみても、目立って危険そうなものはなかった。
ふいに、チャトが木を見上げて声を上げた。
「あっ、あそこに巣がある!」
僕とフィーナも顔を上げた。たしかに、木の枝の上に巣のようなもの引っかかっていた。巣は複雑に絡んだ小枝や石でできていて、なにか布切れらしきものが飛び出し、綿みたいなものも溢れ出ている。
マモノがまた、毛布を引っ張った。端っこを口に咥えて、木登りをしようとする。
「あの巣はこのマモノのものみたいだね。もしかして、この毛布を巣材にしたいのかな」
巣からはみ出しているものを見る限り、このマモノはふわふわした素材のものを集めている様子である。僕が毛布を手放さないことが分かったのか、マモノは口を離して今度はフィーナの毛布に目をつけた。同じように端っこを咥えて引っ張るが、もちろんフィーナも手放そうとしない。マモノは諦めてチャトの方に行ったが、チャトは取られる前に毛布の裾を上げて威嚇した。マモノの方も身を引き、いちばん鈍臭そうと判断したのか、再び僕の毛布を引っ張りはじめた。
「そんなに引っ張ったってあげないよ」
僕も負けじと引っ張り返す。マモノはしつこく毛布を欲しがった。これを渡すわけにはいかないのだ。貴重な防寒具である。これがなくなってこの寒さの中に放り出されたらひとたまりもない。
だというのに、僕の手は悴んで感覚がなくなり、毛布を掴む力も緩んでしまっていた。
するっと手のひらを抜けて、毛布が開く。そこからのマモノの動きは速かった。はらりとはだけた毛布を咥え、俊敏な動きで木を駆け登っていく。
「あっ! こら、返して!」
マモノはほぼ垂直の幹を難なく走って登る。顔はウサギだが体は猫に近いだけはあって、猫の木登りと同じ要領で登っていくのだ。体を引っ掴んで止めようにも、あまりの素早さに追いつかず、とうとうマモノは枝の巣まで毛布を持ち込んでしまった。
僕は情けなくも、木の根元から巣を見上げて叫んだ。
「えー! 返してー!」
「あははっ、ついに盗られた!」
チャトがケラケラ笑う。僕としては笑いごとではない。体温を溜めていた毛布を引き剥がされて、極寒の地に晒されてしまったのだ。凍える風が容赦なく吹き付け、上着を着ていても血まで凍りそうだ。なんとしてでも、あの毛布は取り返したい。このまま夜を越すことになったら、凍死待ったなしだ。
僕は幹に両手を添えて、ぐっと押した。木を揺らして毛布を落とす作戦だ。だが、木はびくともしない。木の外周を抱きしめて揺らそうとした。でも体からいたずらに体温を盗まれるだけで、巣から毛布が落ちてくるなんてことは起こらなかった。
フィーナが上に向かって手を伸ばした。巣から垂れた毛布がふよふよ揺れる。
「うーん、魔導で風を起こしてみたんですが、私の魔力が弱いせいで風圧が届きません……」
それを受けてチャトが、幹に手をつけた。登ろうとしたようだが、すぐに手を引っ込めて手袋を外す。滑ると思って外したようだが、素手で凍った木を触って再度手を離した。
「冷たっ! だめだ、触ってられない」
チャトの身軽さならあの高さまで登ることは可能かもしれないが、木が凍っているという条件下ではその理屈は通用しない。
そもそもだ。元はと言えば僕がぼさっとしていたせいで毛布を盗られたのである。こんなことまでチャトやフィーナに頼るわけにはいかない。僕は覚悟を決めた。
「ごめん、ちょっと時間を頂戴」
僕は真下から巣を睨み、チャトとフィーナに言った。
「直接奪い返してくるよ」
「木登りするの? すっげー冷たいぞ!?」
チャトが目を剥くが、僕はもう腹を決めていた。手袋を外し、リュックサックに詰め込む。
「でも、あの毛布を諦めてマモノにあげるわけにはいかないよ」
もしかしたら、この時点ですでに僕の頭は寒さでいかれていたのかもしれない。実は僕は、良好な天候だろうと木登りをしたことはなく、むろん凍った木を登るなど初めてである。
僕は自分の経験のなさのことなど考えず、無我夢中で木に手のひらをつけた。手が凍りそうなほど冷たくて、悲鳴をあげそうになった。だが、とっくに感覚が弱まっていたお陰か冷たさに慣れてしまいそうだ。幹の僅かな凹凸に足を引っ掛け、体を押し上げる。足を置いた辺りに付着していた氷の幕がパラパラと粉になって零れた。
意地でも登ろうとした僕は手が滑り、足も滑って呆気なく根元に転げ落ちた。背中を打ったが、高さがなかったことと雪に受け止められたお陰であまり痛くはない。
「無理ですよ、巣の位置はかなり高いですよ」
フィーナが止めようとする。僕はうーんと唸って、木を見上げた。
「でもなあ、揺らしても落ちてこなくて風を起こしてもだめだったら、もう登るしかない。ごめん、こんなとこで時間食って申し訳ないんだけど」
僕は変な意地を張りフィーナは困り顔をする中、チャトはスイッチが入ったように盛り上がりはじめた。
「よっしゃー、ツバサ頑張れ!」
獣族の血が騒ぐのか、ご機嫌である。
「あのね、腕を輪っかにして木の幹を支えるんだ。抱きついちゃだめだよ、体は木から離した方がいい。それで、足で幹を蹴って駆け上がるようにすると上手く登れるぞ」
コツまで教えてくれた。僕はありがたくアドバイスを聞いて、チャトが言うとおりに木に手を添えた。フィーナが戸惑っているが、チャトは気にしない。
「一気に登った方がいいよ。疲れたら足で木に絡みつくようにきて、這いずるみたいにする。枝まで手が届けばあとは楽勝だぞ!」
「ありがとう! 行くぞ!」
手の冷たさ、突き刺さる風の冷たさは、もう麻痺しはじめていた。一刻も早く毛布を取り返す。今はそれだけを考えて、夢中になって木を駆け登った。
驚いたことに、初めてだったにも関わらずスイスイ登ることができた。チャトがコツを教えてくれたお陰だ。幹の表面の氷のせいで足を滑らせることもあったが、脚で幹にしがみつくことで落下は回避できた。枝の巣に座るマモノがこちらを見てぎょっとしている。
もしかしたら、僕は意外と身体能力が高かったのかもしれない。木登りをしながらそんな悦に浸り、プラシーボ効果もあってか、僕の手のひらはついに太い枝をガシッと掴んだ。分かれた太い枝に足を乗せ、巣に向かっていく。手がピリピリする。霜焼けは覚悟した。チャトが歓声を上げているのが聞こえるが、怖くて下は見られなかった。
マモノの巣まで辿り着くと、あの友好的だったマモノがフーッと威嚇してきた。自分の家が荒らされるのだ、怒って当然だろう。だがこちらとしても、毛布は返してもらわなくては困るのだ。
「ごめんね、毛布だけは返してね」
そろりと巣を覗き込み、気がついた。巣の中は柔らかい布切れだけではなく、いろいろなものが持ち込まれていた。鳥の羽根やきれいな石、なにかのマモノのうぶ毛など。どこから拾ってきたのか、ペンダントまである。どうやらこのマモノは、自分の巣に気に入ったものをなんでも持ち込み、お部屋をコーディネートする習性があるみたいだ。ゴミばかりとも言えるが、このマモノが欲しいと思ったものが詰め込まれた巣の中は、ちょっとした宝石箱のようである。
「君は素敵なものをたくさん持ってるんだね。でも毛布は返してもらうよ」
マモノは僕の毛布を踏みつけて、取られないように守っている。僕はその足元に手を伸ばして、毛布を掴んだ。マモノが牙を剥き出しにして威嚇する。なんとなく申し訳ない気がしてきて、僕は慎重にリュックサックのサイドポケットからダガーを取り出した。
「分かった、ちょっとだけあげる」
毛布の角にダガーを当てて、切り取る。巣に入る大きさにした毛布の欠片を、マモノの巣に置いた。
「これをあげるから、毛布本体は返してね」
改めて毛布を手に掴んだ、そのときだ。体の重心を変えてしまい、全身がぐらりと左に倒れた。慌てて枝に脚を引っ掛けようとするも、氷に足を取られて滑る。
手には毛布を掴んで、僕は真っ逆さまに木から滑り落ちた。
毛布がずるっと這いずったせいで、マモノとマモノの巣に集まっていたガラクタもろとも転げ落ちる。僕の頭の中は真っ白になった。
高いところで、足を滑らせてしまった。木登りを始める前も一度落っこちてはいるが、それは地面に近かったから無傷で済んだ。今回は違う。考えなくても分かる。目を閉じることも忘れて、声も上げずに落下していた。頭の端で、フィーナの悲鳴を聞いた気がした。
と、同時に、僕の体は予想より早く冷たいものに着地した。しかしそれは雪の大地ではなく、薄いガラスのような氷の板である。なんなのか理解する前に、氷は僕の背中の圧であっという間に割れた。やや加速度が落ちたものの再び落下し、またその下に張られた氷にぶつかり、突き破り、落ちていく。薄い氷の板をパリンパリンと割り続け、僕はついに割れない雪の上にドサッと仰向けで倒れた。
「い、生きてる」
まばたきを忘れたせいで、目が乾いた。霞んだ視界には、逆さまに映るチャトとフィーナの姿がある。チャトはぽかんと口を開け、フィーナは息を切らせて両手を高く上げていた。
「大丈夫ですか?」
フィーナが青白い顔で僕を覗き込む。それを見て僕はようやく気づいた。フィーナが魔導で、空中に氷の板を形成してくれたのだ。階段になるほどの強度はなかったものの、あれがクッションになって衝撃を吸収してくれた。氷の板を背中で連続で叩き割るのは結構痛かったし冷たかったけれど、あれがなかったら僕は加速度のついた全衝撃をもってして地面にめり込むところだった。
「ありがとうフィーナ、助かったよ」
僕も息切れし、下手くそな笑いを浮かべた。ぽかんとしていたチャトが我に返って、跳ね回った。
「すごいすごーい! 毛布取り返したぞ!」
死ぬかと思った。でも手にはしっかり毛布を掴んでいる。毛布にはマモノが集めていた鳥の羽根や綿がくっついていた。僕と一緒に巣から落ちたマモノは、やはり身体能力は猫に近いのか器用に着地して無傷のようだ。が、集めた巣材が落とされてしまったことを怒って、僕に毛を逆立てている。
危険を察知した僕は、毛布を手繰り寄せて立ち上がった。
「逃げよう!」
チャトとフィーナに合図して、一気に走り出す。
「ニャアー!」
マモノが僕に飛びかかってきた。正確には僕の毛布にだ。奪い取ろうとして前足で宙を掻く。僕は毛布を自分の方に引いたが、マモノの爪が少し掠った。くっついていた羽根がピンッと飛ぶ。
僕らはひたすら走った。どこに向かうかなんて考えていない。自分のつけた足跡を戻り、そこから逸れて、闇雲に逃げる。風で毛布がパタパタして、巣からくっついてきた羽根や綿が取れていく。巣を荒らされて怒るマモノが追ってこなくなるまで、ただただ逃げるしかなかった。
ひたすら走り続け、マモノがいなくなったのを確認して僕らは立ち止まった。全身が痛むほど寒いが、走ったお陰で少し体が温まった気がする。
「マモノになんかついていかなければよかった……」
僕は体を腰から折り曲げて、ぜいぜいと息を整えた。頭の酸素が足りなくてくらくらする。細っこくて体力がなさそうなフィーナなんか、座り込んで苦しそうな呼吸をしていた。チャトでさえも、寒さで堪えている分疲れが溜まるのが早いようで珍しく怠そうな表情になっていた。
「かなり暗くなってきたな。時間はそんなに遅くないはずなのに……森の深いとこまで来てるってことだね」
チャトがキョロキョロする。僕も折り曲げていた体を起こし、膝に手をついた姿勢で辺りを見た。
チャトのいうとおり、より暗くなっている。木の枝々が重なるせいで、光が届かないのだ。雪の地面と凍った無数の木という代わり映えのない景色なのに、明るさだけはみるみる落ちていく。
棒になる脚で、よたよたと歩みを進める。魔族の里に繋がるヒントがひとつでも見つからないかと、暗闇を掻き分けて歩く。
しかし、雪の地面だけがやけに煌々と明るい真っ暗な道が続くだけで、景色はまるで変わらない。暗くなって視界が悪くなる一方だ。
「はあ……お腹空いた」
チャトが途中で座り込んだ。チャトの言葉で僕も自分の空腹に気がついた。かなりの距離を歩いた上に、食事をまともに摂っていなかった。この暗さは森の木々が光を遮るせいだろうか。それとも、もう日が暮れたのだろうか。昼でも充分暗かったので、今がまだ昼なのか、この暗さはもう夜の暗さなのか、時間は分からない。ただ、霜焼けができそうな寒さと空腹、薄気味悪い暗さが僕をめちゃくちゃに疲労させていた。
「ちょっと休もうか……。もうくたくただよ」
僕はチャトの横にしゃがんだ。脚を折り曲げると、パンパンになった腿が伸びる。息を整えていたフィーナも、ぜいぜいしながら雪の上に崩れ落ちた。
お腹は空いているが、それ以上に疲れた。座り込んだら最後、もう立ち上がることができない。どんどん眠くなっていく。脳が体に「休め」とシグナルを出していて、無性に眠くなるのだ。
「寒くてお腹が空いて、眠くなると凍死しちゃうんだって……」
僕はぼうっとする頭で言って、鞄から食糧を出した。一緒に、着火燃料も用意して火を焚く準備をした。薪になる乾いた枝が見当たらず、仕方なく僕はノートを一冊火種にすることにした。フィーナが魔導で燃料を温める。燃料が熱くなると、ノートに引火してボッと焚き火になった。
お腹を空かせていたチャトが、もぐもぐとポンを頬張る。フィーナも無言で眠たそうに食べはじめた。僕も、重い瞼をこじ開けて味気ない食事をした。体が重い。寒くて、痛くて、動きたくない。
食事のあとは、真ん中に座っていた僕の肩に、チャトが倒れ込んできた。
「なんか、うとうとしてきた」
僕は黙って頷いた。元からくるまっていた毛布に全身を引っ込めてうずくまる。チャトとフィーナと身を寄せ合って、互いの体温で暖をとる。チャトは温かいが、フィーナの体温は低かった。一箇所にぎゅっとくっつくことで温かくなるかと思ったが、やはり歯が鳴るほど寒い。ずっと毛布で体を包んでいても、焚き火を起こしても、そんなもので打ち勝てる寒さではない。風邪を引いたかもしれない。風邪くらいおかしくない天候なのだ。縮こまってもまだ体が冷たくて、眠いのに眠れない。
「ごめんね」
僕は目を半分閉じて呟いた。
「こんな寒くてつらい思いさせて」
「ツバサさんは来るなと言いました。私もチャトも、勝手についてきました。まあ、これほどまでに寒いと分かってたらちょっと考えたかもしれないですけどね……」
フィーナが眠たそうな声で言う。チャトがちらりとこちらに目を上げた。
「ツバサがおいしそうな匂いさせてるんだもん、ついていきたくもなるよ。もうここまで来ちゃったらヤケだ。絶対魔族に会ってやる」
「あはは、それはそうだね」
頬にふわふわと触れるチャトの耳が擽ったい。フィーナが高い声をぽつりと落とす。
「ツバサさん、寒くて死んじゃうのはやめてくださいね」
「大丈夫だよ……」
寒さで頭がぼうっとする。
「でも万が一、僕がここで凍死したら……チャト、お詫びに僕を食べてもいいよ」
「匂いはおいしそうだけど、本当においしいのかなあ」
「分かんない……」
冗談だか本気だか分からない変な会話をして、目を瞑る。ふうと息をつくと、暗がりの空気を白く染めた。寒さで鼻先がヒリヒリする。
そんなときだ。突然、毛布がほわっと温かくなってきた。
ついに自律神経が壊れたのかと思った。が、フィーナが僕に微笑みかけてきた。
「今、私の毛布の中からツバサさんとチャトの方に熱の魔導を当てています」
「あ……あったかい」
すうっと体が楽になる。ぼくはうとうとしながらフィーナの方に顔を向けた。
「でも、魔導って波動を操作する力とかなんとか……。こうしてる間は、フィーナが眠れないんじゃない?」
「私が寝ちゃうまでに、毛布の中を温めてしまいましょう。一緒に魔族の里に行きましょうね」
微笑む彼女に、僕は声を出さずに頷いた。
魔導というものは、武器にもなるが優しさにもなる。フィーナが送り出してくれる温かさは、単なる温度の魔導だけではない気がした。なんて心地よいのだろう。
チャトはあっさり眠ってしまった。僕も、膝を抱えてすとんと眠りに落ちた。
*
「さっ……む……」
寒さで飛び起きると、周囲は変わらず真っ暗だった。
眠ってしまっていたのに体が冷えて起きるとは、いよいよ凍死寸前だと頭から信号が出たのかもしれない。
寝る前に焚いた焚き火がまだ少し残っている。ノートがめらめらと燃えて、そこだけが明るくなっていた。元々暗くて時間が分からなかったというのに、眠ってしまったせいで完全に時間感覚がなくなった。何時間眠っていたのかも分からない。そして寝る前と起きたあとで周りの暗さが変わらない。本格的な夜が訪れているのかも、分からないのだ。僕が跳ね起きたせいか、寄りかかっていたチャトとフィーナも連鎖的に目を覚ました。
「真っ暗ですね」
フィーナが上空に手をかざし、魔導を放った。ほんのりと周囲を明るくなる。だが、無数に並ぶ木々の間はブラックホールのような闇に呑まれていて、その先までは全く見えなかった。
「ツバサの毛布、まだいろいろくっついてる」
チャトに指さされて、僕は手に持っていた毛布に目をやった。疲れたあまりに気にせずに眠ってしまったが、僕の毛布は羽根や綿が張り付いていた。マモノの巣にあった細々したガラクタたちが毛布にくっついてきていたが、殆どが吹き飛んだ。それでもまだちょっとだけ残っていたのだ。毛布をパンパンはたいて、汚れた綿をむしり取る。なんだかよく分からないが、細い鎖までくっついている。
「なんだろうこれ。ペンダント?」
銀色の鎖が毛布に絡んでいる。シャラシャラと垂れていて、先っぽには親指の爪ほどの大きさの琥珀みたいな石がぶら下がっていた。金色に透き通っており、内側からほんのり光っているように見える。チャトがふあ、と感嘆した。
「きれいだねえ。取れる?」
「うーん、絡んでて解けない」
金属の噛み合わせが毛布の繊維を噛んでいるようだ。取れないのだから仕方ない、これは毛布にくっつけたままにしておいた。
「ペンダントは人間が作ったものだよね。これが巣にあったってことは、あのマモノは人間からペンダントを貰ったってことだ」
僕は毛布の端でシャラシャラする石を眺めた。
「旅人から貰ったのかな」
「魔族のものだったりして!」
チャトが瞳にきらきらと石の光を宿す。フィーナがペンダントを見て、えっ、と声を上げた。
「これ、本で見たことがあります。閃光水晶っていうんですよ」
「閃光水晶?」
「痺れキツネの尻尾の毛を閉じ込めた人工石です。これ、結構な高級品ですよ。お金持ちが持ってたら自慢できるくらいの」
「そうなの!? それがなんでマモノの巣なんかに。偽物じゃないかな」
この石はマモノの巣の中で羽根や綿くずと一緒くたにされて、高級品だとは思えない扱いを受けていた。フィーナも怪しんで、眉を寄せた。
「本物の閃光水晶だったら、こんな高級品をマモノに奪われて放っておくことなんてできませんよね……。試しに使ってみましょう。ツバサさん、それの石を握ってみてください」
「えっ? うん」
僕は言われるままに、毛布に絡まったペンダントの石を握った。じわじわと手が熱くなる感じがする。
「手が温まってきましたか?」
「きてる」
「そしたら、その手の温かいものを放す感じで開いてください。チャトと私の方には向けないでくださいね」
「こう?」
フィーナがレクチャーするとおりに、僕はチャトとフィーナを避けて誰もいない方に向けて指を開いた。ペンダントの石は手から零れ落ちて毛布にぷらんと下がる。僕の手は雪の積もった地面に向けられた。
すると、手のひらから五十センチほど離れた空中でバチバチバチッと火花が弾け飛んだ。
「うわあ!? なにこれ」
あまりの衝撃に、肩を竦めた。眩しくて音もあって、チャトもびっくりして尻尾を逆立てていた。教えてくれたフィーナも驚いている。
「本物だった! 本物の閃光水晶です!」
「今、なにが起きたの?」
「静電気を利用した魔導です。石自体が持つ魔力が自動的に波動を練って、雷撃魔導を起こしたんです。私も実物の閃光水晶は初めて見ました」
「すげー! ツバサ、俺にもやらせて」
チャトが尻尾をぶんぶんさせて、僕の毛布にぶら下がる石を握った。しばらくしてそれを離し、空中に手を伸ばす。バチバチッと黄色い閃光が暴れる。
「面白い!」
おもちゃを手に入れたチャトは何度も僕の毛布に飛びつき、ペンダントを握っては上に向かって火花を放ちまくった。握る時間が短いと小さな火花がポチポチと線香花火みたいに光り、長く握ると大きな花火がバンッと起こる。慎重に手を開くと、パチッと静電気のような音がしただけで大きな火花は発生しなかった。反対に大きく振りかぶると遠くでパアンと弾ける。
僕は暗い森を瞬間的に光らせるその火花にぽかんとした。
「魔力がないはずのチャトとか僕でも、こんなことができるの?」
フィーナも黄色く爆ぜる火花を見上げていた。
「魔道具にもいろいろありまして、元々ある魔力を底上げするものと、このペンダントの閃光水晶のように道具自体が魔導を発動させるものがあるんだそうです。後者は魔力がなくても、擬似的に魔導を使える道具ということです」
なるほど、つまりこの火花はチャトが作っているというよりは、道具が持つ力をチャトが解放しているという形なのだ。
「ツバサさんの腕輪……アナザー・ウィングも、こういう魔導を起こすタイプの魔道具なんでしょうね」
フィーナに言われて、僕は本来の目的を思い出した。ただの真人間である僕が手のひらから火花を上げたように、アナザー・ウィングは時空間を歪めて、真人間の僕をイカイへと飛ばした。火花を起こせるだけでも結構な高級品だというのに、アナザー・ウィングにはそれを上回る魔力が封じ込められているということだ。
チャトが無邪気に火花を打ち上げている。上に向けて放ち、地面に向けて放ち、雪を部分的に溶かし、木にぶつけてみたりと、大喜びである。楽しくてたまらないチャトが、四方八方に火花を飛ばしまくっていると。
「んぎゃ!」
火花を放った先、正面の木の向こうで悲鳴が上がった。途端にチャトが固まる。僕とフィーナも絶句した。
なにかに、火花を当ててしまったようだ。それまで楽しそうだったチャトが気まずい顔になり、遊んでいた手のひらを胸元に引き寄せる。声がした木の方を黙って見つめ、様子を見る。だが、暗くてよく見えない。
僕は冷や汗を垂らして、位置を動かずに暗がりの中を覗いた。なにがいるのか、大きなマモノなのか、頭の中で嫌な予感がぐるぐる回る。声がした方向に、フィーナが手をかざす。魔導の灯りが当たると、木の向こうでゆらりと動く、黒い影が見えた。僕ら全員がびくっと肩を寄せる。僕はもう逃げるつもりで片足が後ずさっていた。樹木の根元で黒っぽいものがもぞもぞと這いずっている。それがじりじりとこちら側に向かってくる。
例えば、ひとりの部屋であるはずのない視線を感じると、正体を探してしまうようなもので。頭ではいつ逃げ出そうかと考えていても、それがなんなのか捉えるまでは、目が離せなくなってしまう。
這いずっていたものが、のそっと立ち上がった。身長は僕と同じくらいある。立ち上がっても真っ黒で、影みたいだった。雪の反射で少しだけその出で立ちが見える。黒いマントのようなものを体にぐるぐるに巻き付けているのか、全容がずんぐりした泥人形のようだ。足が竦む僕の方に、その真っ黒なものが顔を上げた。
顔があるはずのところには、カッと眩しい青白く丸い光。
僕はひっと、声にならない声を上げた。
光る目がある以外、顔がない。
暗闇を黒いマントの中に閉じ込めたような真っ黒な中に、自転車のライトみたいな丸い光が真ん中にひとつあるだけ。
なににも形容できない姿を前に、僕の足は竦んだ。目の前にいるものがなんなのか、全く分からない。思考回路が止まり、脳から指令が来ない。体が動かない。
硬直状態になった僕の耳に、声が届いてくる。
「……ぞ」
もごもごと篭った声にびくんとして、チャトが飛びつくように僕の毛布のペンダントを握った。黒いなにかに向けて火花を投げようとした彼を、僕は咄嗟に引き止めた。
「待って!」
チャトの前に手を伸ばして制する。チャトは閃光水晶を手の中に握りしめて僕を見上げた。フィーナも不安げにこちらを見る。
黒いなにかが、また声を滲ませた。
「い……痛い……」
今度ははっきりと聞こえた。人の言葉だ。
「バシバシする魔導は周りに人がイナイことを確認してカラ使ってほしい……」
黒くてズモズモした外見に似合わず、声変わりする前の少年のような、ちょっとハスキーな女の子みたいな、そんな声で話す。少し訛っているが、言葉として聞き取ることはできる。人間の外見ではない。だが、会話が通じる相手だ。
「君は……?」
僕はまだ威嚇しているチャトを片手で抑えつつ、正面のものに尋ねた。青白く光るひとつ目が僕の顔に向く。
「アルロは、閃光水晶のペンダント、取り返シにキタ」
光の加減で、その姿がはっきりと確認できた。黒いマントに全身を包んで手も足も引っ込めて、フードの隙間から顔を少しだけ覗かせている。そこら見えるのは光るひとつの目だけ。姿が見えたところで、やはりなんなのかよく分からない。
「君の名前、アルロっていうの? 閃光水晶はこれのことだよね」
僕はチャトが握っている手を指さした。チャトは火花が弾けないよう、そうっと手を開く。小さな火花がパチパチ散る中から、金色の石がコロンと零れ出る。
「ソレ」
アルロと名乗った黒い人が、こちらに歩いてきた。歩くといってもスススッと地をスライドしてくるような不思議な移動の仕方で、見慣れない動きに僕はびくっとしてしまった。チャトがペンダントの鎖を摘んで、向かってくるアルロに掲げた。
「君のものだったんだね」
アルロのマントの中からにゅっと細長いものが飛び出す。枯れた木の枝かと思ったら、どうもこれは手だったらしい。四本に先分かれした小枝みたいな指に、閃光水晶の垂れた鎖を引っ掛ける。
「ヌウ……? 絡まってル」
鎖が毛布に絡まっていて、ムムが引っ張ってもペンダントが取れない。僕はリュックサックのダガーを引き抜いた。
「ちょっと待ってね」
鎖の絡んだ辺りに刃を当てて、そこだけ毛布を切り取った。ペンダントの鎖が毛布から落ちる。枯れ枝みたいな手に、毛布の生地が絡みついたペンダントが渡った。
「助かッタ。礼言ウ」
それからアルロは光る目でなぞるように僕らをそれぞれ見渡した。
「識族と……獣族と精霊族とお見受ケした。こんなトコロに外の種族が来ルのは珍シイ」
アルロがきらきら光る閃光水晶のペンダントをマントの中に吸い込んだ。
「ここ、他種族は迷子ナル。魔族の案内ナシでは、魔族の里に行くの無理」
「魔族……」
アルロの言葉の中から聞こえたワードが、僕をハッとさせる。アルロは光る目で僕を不思議そうに見ていた。
「ワレワレ魔族に用がアッテ来たカ?」
どうやら僕たちは、願ってもない幸運に恵まれたようだ。
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