8 霧の山脈

 冷えた風が吹いている。草原の草が波打ち、フィーナの長い髪が膨らむ。チャトの尻尾が向かい風に撫でられて毛束が後ろ向きに靡いていた。

 草原の随所には、サラに狩られていたような角のあるマモノが草を食んでいた。フィーナが言うには、あれは大ツノという名の大人しく臆病なマモノであり、人を見ると興奮してその大きな角で襲いかかってくるそうだ。余計な怪我はしたくないので、僕らはマモノたちに気づかれないように距離を取りながら慎重に歩いた。

「竜族って本当にいたの?」

 チャトが遠くの突き出た岩山を眺めている。

「クラウスが言ってたやつ。フィノも見たことない?」

「ええ、残念ながら。でも聞いたことはありますよ。魔族と一緒で、他の種族と離れて暮らしていたから、独立した文化を持っていたという希少種族です」

 フィーナもその高い霊峰を見上げた。

「でも全く他種族に興味がないのではなく、竜族はマモノの奇襲を受けて自分たちが完全に滅びる前に、伝言鳥を使って各地にマモノの異変を知らせてくれたんですよ。獣族と精霊族はピンと来なかったんですけど、識族、特にメリザンドはいち早く反応して襲撃に備えた。だから識族の都市は被害が少ないんです」

「へえー。大陸が完全にマモノに支配されずに踏み止まったのは、竜族のお陰だね」

 チャトが霧に霞む山に目を凝らす。フィーナが髪を掻き上げた。

「竜族以外にも、マモノの襲撃のために滅んだ種族は何種かあるんですよ。精霊族の亜種の小人族とか……それから、鳥族もギリギリまで追い詰められたと聞いています」

 それを聞いて、僕はサラに聞いた話を思い出した。

「鳥族、そんなに被害があったんだ。この山脈のどっかに棲んでるところがあるらしいね」

 フィーナが山々を仰ぐ。

「生き残った鳥族が再建してるんですね。彼らはとてもプライドが高いので、別の種族の住処には引っ越したくないらしいです。他の種族と交わりたくないみたいで、棲んでいるエリアも兵団にすら開示されてなくて、一部の特権階級の商人しか知らないんです」

 僕はフィーナの言葉を聞きながら、遠い山の向こうを見つめた。

 鳥族は、意地っ張りだったのが災いして他の種族を頼れなくて、滅亡ギリギリまで追い込まれてしまったのだろうか。誇りが高いのは素晴らしいが、関わりが希薄すぎるというのも考えものかもしれない。

 歩いている草原に徐々に傾斜がついてきて、周辺の草が短く細くなってきた。だんだん目が霞んでくる。自分の目がおかしいのかと思ったら、どうやら環境の方に変化が出てきたようだ。

「これ……霧?」

 僕は顔の辺りを手でぱたぱたと扇いだ。フィーナがこちらに目を向ける。

「山脈の霧が草原の方まで流れ出てるんですね。名前のとおり、この岩山一帯霧が立ち込めてると聞いたことがあります」

「そうなんだ。山脈が近づいてきた証拠だね」

 僕はリュックサックの横ポケットから地図を取り出した。霧のせいか、ちょっとしなっとしている。地図によると草原は徐々にゆるやかな斜面となり、標高が高くなっていくようだ。

 フィーナは僕の持つ地図を覗き、画面の端っこの海を指でなぞった。

「この霧が気流に乗って、海の方まで広がってるんです。だから海は遠くが全然見えないくらい真っ白なんですよ。危ないので海は霧の向こうには誰も行ったことがないんです。陸地ならともかく、海で遭難したら帰ることができませんものね」

「あ、だからこの地図上も白く塗られてるんだね。本当の本当に未開の地なんだ」

 僕はそう言ってから煙る周囲に眉を顰めた。

「それだけ濃い霧が、この山から流れ出てるんだよね? なら、発生源である山の中は海よりも霧が深いってこと?」

「そうなりますね。はぐれないように気をつけましょう」

 フィーナがチャトの腕を掴まえる。よそ見していたチャトはハッと振り向いていた。


 どれくらい歩いただろう。あまり一面がどんどん白く煙っていく。先程まで足元に蔓延っていた短い草はもう殆ど見受けられない。薄茶色の細かい砂と丸っこいジャガイモみたいな石が転がった、岩山の斜面に変わっていた。

 歩いていて感じたのは、霧の濃さには波があることだ。うっすら白くぼやけるくらいのところもあれば、五メートル先が真っ白で見えないほどのところもある。

 珍しい景色にはしゃぐチャトをフィーナが引っ捕まえている。

「こら、霧で見えないところにマモノが潜んでたらどうするんですか」

 だが元気のいいチャトはフィーナを引きずってでも先に進みたがる。

「大丈夫、大丈夫!」

「大丈夫じゃないですよ。岩山には噛み付きトカゲをはじめ、様々な大型のマモノがいるんですよ」

 フィーナの注意を聞いて、少し後ろを歩いていた僕はひゅっと肩を竦めた。噛み付きトカゲといえば僕がこの世界に来て真っ先に出会ったあの恐ろしいマモノである。これだけ視界の悪い中にあんなものがいたらと思うと、ぞっとお腹が寒くなる。僕がびくびくしていようとも、チャトは楽しそうである。

「大丈夫だって。俺は鼻も耳も勘もいいから、マモノの気配はすぐに分かっ……」

 チャトは、途中で喋るのを中断した。いや、意図的に中断したのではない。

 目にも止まらないほんのコンマ数秒の出来事だ。チャトの小さな体が、ひゅっと弾かれるように高く吹っ飛び、霧の中に消えてしまった。

「えっ……」

 僕はチャトが弾き飛ばされたその場所の、数メートル後ろで立ち止まった。その場にはチャトの腕を掴んでいたはずのフィーナだけが取り残されて、彼女も唖然として固まっている。僕はまばたきすら忘れた。事態が呑み込めない。

「待って……今、なにが起きたの?」

 ようやく声を出してみたが、フィーナには届かなかったのか固まったままだ。

「チャト、チャトどこ? ねえフィー……」

 もう一度話しかけようとしたときだ。

 霧の中を切り裂いて、びゅっと太い腕のようなものがフィーナの真ん前に飛び出した。腕と言っても恐ろしく大きい。拳の大きさがフィーナの身長くらいだ。ゴリラを思わせる、筋肉質な白っぽい剛毛の腕だった。

 その腕が現れた瞬間、フィーナはびくっと肩を縮め、後ろに飛び退いた。彼女は尻餅をつき、上を見上げた。声が出ないのか、足が動かないのか、その場に座り込んでいる。

 巨大な腕はすぐに、もうひと振りフィーナに拳を振り上げた。

「フィーナ!」

 僕は叫んだ。突然のことに理解が追いつかない。ただ、数歩先に見るからに「ヤバイもの」が潜んでいることだけは分かる。

 フィーナは殴られる直前で咄嗟に顔を引っ込め、両手を突き出した。手のひらから発された魔導で、周囲の霧が含む水滴がピキピキピキッと音を上げて凍りつく。お陰で辺りを埋め尽くしていた霧が氷の粒になって、その周辺だけ少し視界が開けた。

 そして見えたものに、僕は絶句した。

 石灰岩の塊に目玉と腕を付けたような、巨躯のマモノがいる。

 知っている動物でいえば、ゴリラに近い。だがその体は、背中を丸めている姿勢にも関わらず恐らくは三メートルは超えている。どっしりと地を踏む足はフィーナを一発で踏み潰しそうな面積があり、筋肉が盛り上がった腕は樹木を引っこ抜きそうなほどの迫力がある。

 待って、待って。僕は目を回しながら考えた。

 チャトはあの腕に殴られて吹っ飛んだのか? あんなのを前にしたら僕らなんか虫ケラ同然だ。小さなチャトは潰れてしまったのではないか……。

 僕が呼吸を乱しているうちに、再び霧がマモノの姿を包んだ。

「いや……」

 フィーナが手をかざし霧を凍らせるが、彼女自身が動揺して冷静さを失っているためか、一部の水滴が粉雪になるだけでマモノを氷漬けにはできない。

「やだ、どうして、私、なんで」

 混乱したフィーナがひたすら魔導を撃っては中途半端に周囲の霧を凍らせ、パラパラと散らす。僕は少し離れたところでカタカタ震えていた。

 なんだあのマモノは。あんなに大きいのに霧で見えなくて、全く気がつかなかった。いつからいたんだ。どうしたらいい? チャトは大丈夫なのか? フィーナは?

 頭が全然回転しない。恐怖で体が冷えきっていく感じがして、全く動けない。リュックサックのポケットに入れたダガーのことを思い出す。これを握って突っ込めば、あの腕に突き刺せる。いや、無理だ。近づこうとした時点で、僕もあの腕に放られてしまう。

 無理に決まってるだろ。はじめから勝てるはずがないのだ。あんな大きな相手に、太刀打ちできるわけがない。

 大腕がフィーナに襲いかかる。僕は息を呑み、今度は考える間もなくフィーナに向かって転がり込んだ。

 座り込んだ彼女に体当たりして、一緒になって地面を転がる。ふたりでべシャッと山道に這いつくばって、全身を打った。息を吸いこんだら噎せて、僕は目を見開いて背後を確認した。

 霧の中に溶け込んでいた拳が、僕らの真上にある。僕とフィーナが声を上げるより先に、それはまとまって地に伏せる僕らを叩き潰すかのように振り下ろされた。僕は身じろぎし、目を固く瞑った。

 このままぷちっと潰されてしまうのだ、そう思ったときだ。

「グアオオオオ!」

 突如、マモノが雄叫びをあげた。

 あまりの大声にびくっと目を開ける。顔に生温かいものがプッと吹きかかったのも、そのタイミングだった。

 マモノの腕から、黒い汁が吹き出している。そのどろりとした汁が飛び散って、フィーナの顔を濡らしている。多分、僕の鼻先を伝う温かいものも、この液体だ。

 呆然としている僕らの前にスタッと降り立つ、深緑色のコートが見えた。霧の中でもはっきりと浮かぶ、長い赤い髪。筋肉の筋がくっきり浮かぶふくらはぎ、コートの二の腕で躍る真っ赤な腕章。

 僕は、その背中に震える声を零した。

「ら……ラン班長……?」

 オオオオというマモノの断末魔に掻き消されそうになる。それでも僕の声を聞き取った彼女は、相変わらず鋭い目つきでこちらを振り向いた。

「あ? ……あれ、なんだ、お前だったのか」

 ラン班長は両手に小型のナイフを携え、けだるげに言った。

「ハズレか。ま、どっちでもいいが」

 彼女はタッと地面を蹴り上げ、悶絶するマモノに飛びかかる。ナイフを突き立てて特攻するラン班長は、あまりに身軽で重力がかかっていないみたいだった。

 僕とフィーナが地面に寝そべった姿勢のままでラン班長を眺めていると。

「みっけた」

 楽しむような声がして、霧の中からもうひとつ、深緑色のコートが姿を現した。腰のベルトにナイフを差した、フォルク副班長である。

「なんで駆除班が……」

 フィーナが掠れた声で呟く。フォルク副班長はにこりと笑いかけてきた。

「こんなところで君たちに会うとはね」

 よく見ると、フォルク副班長は両腕でチャトを抱きかかえていた。

「チャト! よかった」

 僕は安心して名を呼んだあと、はたと気がついた。チャトはフォルク副班長の首の後ろに腕を回してコートのフードしがみついてはいるものの、目線は腕のマモノの方をしっかり睨んでいる。

「あの剛腕化物め……よくもぶっ飛ばしてくれたな」

 耳の毛と尻尾を最大まで逆立てたチャトは、フォルク副班長の腕を脱したかと思えば彼の胸を蹴り、その勢いで腕のマモノに向かって飛び上がった。

「あっ、こらこら!」

 腕からすり抜けられた上に飛び石にされたフォルク副班長はチャトを捕まえようと宙を掻いたがもう遅い。チャトはラン班長と同じく、マモノに突っ込んでいった。

 チャトが噛んだのかラン班長が切りつけたのか、マモノのギャアアという悲鳴が霧の中から聞こえる。

 数秒後、僕らの正面に再びラン班長が降り立ってきた。

「チッ。逃がした」

 続いて、チャトもぽてっと落ちてくる。

「まっず」

 口に入ったらしいマモノの毛をペッと吐き捨てている。マモノの黒い血液を浴びて、チャトも墨を飛ばされたみたいに黒くなっていた。

 同じように返り血を浴びたラン班長が腕で顔を拭っていると、フォルク副班長が苦笑した。

「逃がしたもなにも、あれは殺処分許可が出てませんよ。投げ飛ばされたチャトくんが受け身を取り損ねて死んじゃってたら、今のキリ大腕も殺処分に切り替わったとはいえ」

「この山ん中なら誰がマモノ殺ったかなんて分からんだろ」

 ラン班長がぐしぐしと顔を腕で拭く。腰を抜かしていた僕とフィーナは、地べたに座り込んでラン班長を見上げていた。

「あの、助けてくれてありがとうございました」

 僕が言うと、ラン班長がこちらに目をやった。

「おお。なんか襲われてる奴いんなと思ったら、まさかあんたらだったとはな」

 彼女はギロリと怖い顔で睨む。

「気いつけろバカ。霧の中にはキリ大腕がいる。あいつらの体毛は霧の環境下ではほぼ完全に迷彩になって姿が見えなくなる。匂いは土地の匂いと同化してるし、必要以上に動かないから音もしなきゃ気配もない。細心の注意を払ってないといきなりぶん殴られるぞ」

 鼻と耳と勘に頼っていて気づかずにぶん殴られたチャトは、耳を伏せてバツの悪そうな顔をした。

「さっきは油断してただけだよ! 集中すれば俺ならマモノを見つけられる」

「まあ、たしかに霧の中でも百発百中でマモノに攻撃当ててたしな」

 ラン班長がそこは認めた。チャトは引き続き自らを正当化した。

「それに、吹っ飛ばされても反射的に体勢整えて受け身取ったし」

「よく言うよ、体は咄嗟に受け身を取れたけど頭は追いつかなくて芋虫みたいな姿勢で思考停止してた子が」

 チャトを救出したフォルク副班長は、ははっと笑ってチャトの頭をくしゃくしゃにした。

 それからフォルク副班長は、座り込んでいるフィーナに手を差し出した。

「それにしても、なんでこんなとこに君たちが? メリザンドに辿り着いたとこまでは聞いたんだけど……まさかこんなとこにいるとは。ここは危ないよ?」

「えっと、ツバサさんの腕輪を作るためにこっちの方まで行く必要があったんです」

 まだ狼狽気味のフィーナはかなり短縮した説明をした。フォルク副班長の手に縋って立ち、彼女は逆に問うた。

「駆除班のおふたりこそ、なぜここに?」

「仕事だよ。久々の大物のね」

 フィーナを引っ張り起こして、フォルク副班長はラン班長に目配せした。

 フォルク副班長といえば、アウレリアの方でマモノがたくさん出たと伝えられて、熱水の岩穴の前からアウレリアに引き返している。ラン班長が腕を組んだ。

「アウレリア周辺でマモノによる怪我人が出たと言っただろう? その攻め入ってきたマモノの一種が、都市の人間をひとり連れ去ったという目撃情報があった」

「えっ!? 人がマモノに拉致されたんですか!?」

 僕は腰を上げながら聞き返す。フォルク副班長が神妙な顔になる。

「大型の鳥のようなマモノだそうだよ。ツバサくんくらいの子供を掴んで飛んでいったらしい」

 ラン班長は大きなため息をついた。

「基本的にはマモノは泳ぐことができないものが多い。だからアウレリアの堀を越えてくるものは滅多にいない。だがたまに出てくる空から来るマモノは防げないんだよな。まあそんなわけで、駆除班を含め政府兵団の暇そうな奴らが各地に分散して、その連れ去られた子供を捜してるんだ」

 なるほど、それでマモノに襲われている僕たちの影に気づいて駆けつけてくれたというわけか。ラン班長が「ハズレ」と毒づいた意味が分かった。ラン班長が眉間を押さえる。

「人がひとり攫われてるからな、兵団が動くほどの大ごとになってる。お陰で兵用の運び鳥を出してもらえたんだが、その運び鳥が霧を怖がるから草原に置き去りにする始末」

 彼女は面倒くさそうに唸った。

「この辺のマモノだと予想できると発言したんだが……他の兵団員は別の場所ばっか捜してやがる」

「どうしてこの辺と睨んでるんですか?」

 僕の問いに、ラン班長はこたえた。

「霧の山脈周辺には鳥族の谷がある関係で、鳥型のマモノが多く生息してるんだ。だからかなり候補として有力なのに、他の兵団員らは視界が悪くなくて近場から順番に捜索するっつってこっちに来やしない」

 マモノの生態に詳しい駆除班らしい見解だ。ふたりは先陣切ってこの劣悪な環境から捜索しはじめたのである。

 フィーナが睫毛を下げて憂う。

「攫われた方はきっと怯えていらっしゃるでしょうね……。マモノに連れ去られて、全く知らないところに連れてこられて。それも、まだツバサさんくらいの歳の頃ということですし」

「もうとっくに食われてる可能性すらあるからな」

 ラン班長が不機嫌そうに言った。

 僕は言いかけた言葉を呑み込んだ。もう死んでいると思う。アウレリアにマモノが接近したと連絡を受けて、フォルク副班長が呼び出されたのはもう三日も前のことだ。そのとき出現したマモノが少女が誘拐したというのなら、少女は長くて三日もマモノに捕らわれている。連れ去られた理由が捕食だとしたら、マモノが巣に帰った時点で食べられてしまったのではないか。

 僕がそこまで考えたのが分かったのか、ラン班長は付け足した。

「捕食目的で連れ去ったのだとしたら、餌である人間がたくさんいる都市を覚えて何度も来るようになるかもしれない」

 ぞっとした。青ざめた僕を見て、フォルク副班長がまあまあと苦笑した。

「そんなに脅かすなよ班長。まだ分からないよ。鳥型のマモノは賢いものが多いからな、単純に人間を困らせて遊んでいるだけということもある」

 僕を安心させるように柔らかく言ってから、彼は問うた。

「君たち、それらしい子を見なかった?」

 僕はチャトとフィーナと顔を見合わせた。

「見てないです。涼風の吹く森で獣族と精霊族に会った以降、人とは遭遇してません」

 僕はこたえてから、続けた。

「もしかしたらこの先で出会うかもしれないので、どんな人か教えてもらえますか?」

「うん、淡い茶色っぽい長い髪の女の子だって。多分識族」

「名前は?」

「それが分からないんだ」

「分からない?」

 フォルク副班長の回答に僕は耳を疑った。彼も不思議そうに眉を寄せる。

「そうなんだよ。名前だけじゃなく、容姿の情報も後ろ姿で確認できた髪の毛だけなんだ。人がいなくなったんなら、その家族が『うちの子がいない』とか言ってくれそうなものなのに、そういう声が全く上がってこない」

「なんだそれ……なんかおかしくないですか?」

 僕くらいの子供だったというのなら、大人と一緒に暮らしているのが自然だ。フォルク副班長が頷く。

「手掛かりが少なすぎるんだよね。連れ去られた子供がいるという情報自体がいたずらなんじゃないかという声もあるくらいだけど、目撃情報はそこかしこで出てるから嘘ではなさそうなんだよね……」

「そのガキ自体もいわく付きっぽいってことだ。都市が把握しきれてない問題が浮かんでくるかもしんないから、都市政もそのガキのことを放っとかないんだよ」

 ラン班長がいらついた口調で言う。フォルク副班長が声を潜めた。

「手掛かりが少ないのに政府が焦ってるから、お陰様でうちの班長の機嫌がすこぶる悪い」

「うるさい。無茶を強いられてんのに風当たり強いってそりゃ腹立ちもするわ」

 ラン班長自身も不機嫌を否定しなかった。

「で。腕輪を作るためにとか言ってたが、なにがどうなってあんたたちがこんな岩山にいるんだ? 兵団員も嫌煙するような場所なんだが」

 怠そうに問われて、僕は地図を広げながらこたえた。

「ジズ老師に聞いたところ、僕が拾った腕輪は尋常じゃないくらいに強大な魔力が込められた魔道具、アナザー・ウィングだったことが分かったんです。それを作ったのが魔族だって言われてて……」

「ちょっと待て、あのジジイがそう言ったのか?」

 ラン班長が待ったをかけた。

「あの異世界研究マニアの変人ジジイが、お前を異世界の人間だと認めたのか。じゃあツバサ、本当に異世界の人間だったのか!?」

「だからはじめからそう言ってるじゃないですか! 僕の腕輪は、ジズ老師が集めてた本にたしかに載ってました!」

 まだ疑っていたラン班長につい声を大きくした。ラン班長の隣で聞いていたフォルク副班長は、目を丸くしたあとであははと軽快に笑い出した。

「まさか本当だったとはねえ! 老師のコレクションに記されてたんならきっと間違いないんだね。いやあ、そんなことって本当にあるんだ。娯楽小説の中だけだと思ってたよ」

 異世界から来たなんて言っても、信じてもらえなくて当たり前だろう。しかし本当にそうなってみるとなかなか証明できないものなのだと思い知った。ようやく信じてくれた駆除班に、僕は改めて切り出した。

「それで。僕が見つけた腕輪は文献にも残ってる魔道具だったことが判明して、作ったのが魔族だとされてたから魔族に会いに行くことになったんです」

「魔族かあ。この山脈の北側にある森のどっかに暮らしてるって聞くよね」

 フォルク副班長が北の方に顔を向けた。が、霧でそんなに遠くまで見えない。

「魔族の里は場所が明確じゃない。その上、そこまでの道程は都市から離れてて人の目が届いてない。訳分からんマモノもいるんじゃないかな」

 彼はちらっと、ラン班長に目配せした。

「どうでしょう班長。この子たちに同行しませんか? 魔族のところへ行って帰ってくるなんて危なっかしい言ってますし、さっきもキリ大腕に襲われてましたし……」

「お前なあ……そんなこと言ったって、私たちにこいつらを護衛してる余裕はないぞ。例の拉致された子供を捜さないといけない」

 ラン班長はこたえつつも、やや語尾を萎ませていた。フォルク副班長が追撃する。

「でもですよ、この子たち放っておいてマモノに食べられちゃったらどうするんです? そんな後味悪いの、俺は嫌ですよ」

「私だって放っときたくはない。だけど、私たちは都市政府の指示が最優先だ。都市民の税金で動いてる限り実働時間を別のことに充てるわけには……」

「バレませんって」

「じゃあお前、拉致された子供は心配しないのかよ。大体、アウレリアとメリザンドの間を行き来する商人の中にはこいつらより小さい子供だっている。極端な話、このくらいのガキの冒険家もいる。異世界人が混じってるからってこの子たちだけを特別扱いするのか?」

「今回はかなり特殊なケースだと思います。班長が仕事に専念したいんなら俺だけでもツバサくんに同行します」

「ふたり以上の班で行動するのが決まりでしょうが!」

 揉めはじめた駆除班ふたりに、僕は慌てて仲裁に入った。

「すみません、僕が変なこと言ったから! 僕らだけで大丈夫です。これからはもっとマモノの気配に気をつけるようにします」

 黙っていたフィーナが加勢してくれた。

「そうです、私は魔導が使えますしチャトがマモノの気配に敏感に気づくレーダーになります」

「そうは言っても、さっきキリ大腕に太刀打ちできてなかったよね」

 フォルク副班長が眉を顰めるも、フィーナは食い下がった。

「あれは動揺してしまっただけ。冷静であれば、これだけ湿度が高ければ氷も取れるし吸着させて水流を起こすこともできます」

 それから途中から話についていけていないチャトの頭をぽんと撫でる。

「チャトも並の獣族の比じゃないくらい、鋭く周囲を感知できるんです。チャトが早めに気づいてくれるから、メリザンドからの荒野の道でマモノの接近を避けてこられたんです」

 そのときだ。チャトがぴんっと耳を立てた。

「ん! 今まさにマモノの音がした」

 その一声で、ラン班長とフォルク副班長がこちらに背を向けて周辺を警戒した。僕もフィーナに一歩寄って、少し腰を落として周りを見渡す。

 チャトが目を瞑って集中する。

「羽音が聞こえる。あと、香ばしい感じの匂い。上の方から」

 ラン班長とフォルク副班長が上を見上げた。僕も顔を上げたが、霧で霞んだ薄紅色の空が見えるだけである。羽の音や匂い、空中というヒントから、鳥のマモノだろうかと僕は思った。チャトの方を見ると、彼はいつになく真剣に耳をそば立てていた。

「んっと……近づいたり遠のいたりしてる」

 それからぱっと顔を上げ、空中を指さした。

「あそこだ!」

 そこにいた全員が、チャトの指の方向へと顔を向けた。霧で隠れた空に目を凝らすと、無数の鳥の影があった。形や大きさは鳶に似ている。それが十羽を越える群れを作り、西の空から向かってきている。ゆらりゆらりと高低をつけながら飛ぶので、影は霧の中で浮いたり沈んだりして数がはっきりと分からない。

 ラン班長が目を細めた。

「なんだ? 見たことないマモノだな……。なんにしろああいう大型の鳥が群れを作るなんて珍しい」

「こっちに威嚇してる様子はないから気にしなくてもいいマモノだけど……なんか不自然ですね」

 フォルク副班長が霧を邪魔そうに扇ぐ。それからハッとふたり同時に叫んだ。

「ビンゴ!」

「嘘だろ!?」

 僕にはまだ見えなかったが、鋭いチャトにもそれは確認できたようだ。

「女の子が捕まってる!」

 チャトが鳥を指さす。僕とフィーナはえっと声をあげてもう一度鳥を見上げたが、鳥が高すぎて全然見えない。

 反応が素早い駆除班ふたりは、既に鳥の進行方向に沿って追いかけはじめていた。

「でかしたチャト! あれが政府が血眼になって捜してるガキに違いない」

 ラン班長が霧の中を上だけ見上げて駆けていく。その分フォルク副班長が周囲を警戒しつつ追いかけ、チャトも一緒になって走っていた。

「群れの真ん中らへん! 今は低いとこにいる。あ、高くなった!」

 獣族だからこそ持ち合わせている鋭さでサポートしている。僕とフィーナも、はぐれないように後ろを追った。

 班長の読みは正しかった。アウレリアの少女を攫ったのは本当にこの山脈のマモノだったのだ。霧で喉がしっとりする。フィーナが宙の鳥を見上げて呟いた。

「よかった、生きてたみたいですね。捕食目的じゃなかった。でもあんな高さに上げられて、捕まってる人は意識あるんでしょうか……」

「あの高さだし同じ鳥に囲まれてるし、怖くて失神しちゃうよ。むしろ意識を失いたい」

 僕は空中に釣り上げられた少女に同情した。

 ラン班長の髪が霧の中で揺れるのが見える。僕は先を行く駆除班とチャトの見失いそうな背中を必死に追いかけた。

「フォルク、対象の鳥を撃ち落とせ」

 ラン班長が怒鳴り、フォルク副班長が周囲を確認しつつ返す。

「無理です、あの高さでこの霧じゃ狙えません」

「あんたがやらないなら私が撃つ!」

「無茶しないでください! 女の子に当たったらどうすんですか!?」

 判断が荒い班長に対し、副班長がブレーキをかける。

「どこかで羽を休めるはずです。とまるまで追いかけましょう」

「バカか! これで見失ったらまた税金の無駄遣いと罵られて予算削られるぞ」

 霧のせいで体が冷たくなってくる。走ったせいでべたべたした汗が出てきて、息苦しい。上を見上げても、霧で掠れて鳥の影はよく見えない。

 視界が悪い。その上汗は蒸発しなくて、しかも寒い。今までよりも霧が濃くなっている。どうやら山脈の中でも霧の深いエリアに入ったようだ。足が重たくなってきた。傍で聞こえていたフィーナの呼吸が、だんだん遠のいてきた。

 僕はぷらぷらになった脚から徐々に力を抜いて、立ち止まった。肩で息をして、振り向く。数メートル後ろでフィーナが腰から体を曲げてぜいぜいしていた。

「苦し……」

「大丈夫?」

 足を引きずって、僕はフィーナの元へ引き返す。彼女は重そうに顔を上げた。

「すみません、体力がなくて……」

「ううん。僕ももう息が上がった」

 酸素が足りなくて、頭がぼうっとする。僕はしばらく息を整えてから、周りを見渡した。霧が深い。三メートル程度先ですら白くぼやけて見えないほどだ。

「チャトと駆除班の人たち、見失っちゃった」

「置いていかれちゃいましたね……」

 身体能力の高い獣族であるチャトと、鍛錬を重ねた兵団員の駆除班は、精霊族のか弱い女の子と平和ボケした中学生には到底追いつけない。

「どこかで合流できます……よね?」

 フィーナが荒い呼吸を繰り返す。僕はくらくらする額に手のひらを押し付けた。

 まともな道がなくて地図もないこの広い山脈の中で、はぐれてしまった。闇雲に捜して合流できるとは思えない。

 なにより、僕たちはマモノを敏感に感知してくれるチャトを手放してしまった。頼もしい駆除班もいなくなり、今マモノに襲われたらどうしようかと不安になってくる。

「とにかく、ここから動こうか。ここは霧が濃くてあまりにも視界が悪い」

 僕ははあはあと息を切らすフィーナに投げかけた。

「少しでも霧が晴れてるとこに行こう」

「そうですね、よりにもよってここは霧が溜まってますものね」

 霧の中で気配を消す巨大な腕のマモノに会ったばかりだ。ああいうものに会う確率を少しでも減らすためにも、霧の少ないところへ出たい。

「東に向かって歩いて、チャトと駆除班を追いかけましょうか? それとも北に向かって進みます?」

 フィーナが尋ねてくる。判断を委ねられた僕は、えっと、と思考を詰まらせた。

 山脈は、東西に長い。南北の幅はそれほどでもないのだ。言い換えれば、東に向かえば出口がなく、岩山を長いこと彷徨うが、北に進めば上手く行けば山脈を越えられる。

「チャトと駆除班はどこまで行ったか分かんないし、違う道を通って折り返してきてたら入れ違っちゃうよね」

 僕は意を決して、北に足を向けた。

「先に進もう。チャトは駆除班と一緒だから心配ないよ」

 マモノを探知してくれるチャトを失ったのは大きいが、この岩山には長く滞在したくない。できるだけ早く、下りてしまいたかった。

 フィーナも僕の決断に納得してくれた。

「はい。私とツバサさんだけでも、行きましょうか」

 僕とフィーナはへたへたとゆっくり歩いた。頭が働かないなりに周囲を警戒して、マモノの気配を探ってみる。今のところは、風の音とその風で低い木が揺れる音、僕らのざりざりという足音しか聞こえなかった。

 霧の中を延々と歩いていると、時間感覚が狂ってくる。傾斜をよく歩いたせいで、お腹はぺこぺこだった。

「一旦休んで、なにか食べようか」

 僕はフィーナに提案し、比較的霧が薄いスポットを探した。チャトと駆除班とはぐれた辺りよりはまだましな視界を確保できる場所を見つけ、僕はフィーナと共に大きな岩に寄りかかって座り込んだ。

 リュックサックから食糧を取り出して、齧る。

「今どの辺なのかなあ」

 僕は真っ白な行く手を眺めて呟いた。

「地図で見ると、この山脈って東西に長いんだよね。北に向かって縦断するとそんなに幅はないはずなんだ」

「地図上の幅で言うと、メリザンドから涼風の吹く森までの道程よりも山脈の縦幅の方が狭いですよね」

 フィーナも僕の隣でもぐもぐとポンを食べている。背中を預けた岩が背中を刺激して、痛い。僕はぼこぼこの足元に目を落とした。

「道が急斜面だし霧もあるから、平面の地図で見るほど楽じゃない。一日では越えられないと覚悟はしてたよ。それにしたってどれくらい進んだのか全く分かんないものなんだね」

 せめて、もう真ん中くらいには来ているといいのだけれど。

 フィーナはポンを少しだけ齧って、布袋に包んでしまった。

「ツバサさん、ごめんなさい。私ちょっと眠いです」

「え?」

 体を横向きにして、フィーナは岩に完全に寄りかかった。目を瞑って、潰れるように岩に全体重を預けている。彫刻作品のようなきれいな顔がこちらを向いている。僕はその青白さに、不安を覚えた。

「大丈夫……?」

 常に品よく振る舞うフィーナが、こんなところで無防備に眠るなんて意外だ。余程疲れているのか、それとも。

「高山病……とか?」

 フィーナの返事はなかった。ただ目を閉じて、浅い呼吸をゆっくり繰り返している。僕はどっと、背中に汗をかいた。

 こんなときどうしたらいいのだろう。僕は少ない知識を必死に掘り起こした。たしかこういう症状は、酸素が足りなくて起こるものだった気がする。今のフィーナのようなとろけたような姿勢では、呼吸が浅くなり余計に酸素が取り込めなくなるのではないか。

 だが、だからといって闇雲に歩かせるわけにもいかない。どこかもう少し環境のいい休憩場所を探すべきかとも思った。でもフィーナをここに置いて散策することもできない。

 僕はぐちゃぐちゃに混乱する頭を両手で抱えた。どうしよう、僕にはなにもできない。僕が魔族のところになんか行くと言ったせいで、こんなことになった。今マモノが襲ってきたらどうする? 今僕がすべきことはなんだ? どうしたらいい?

 ガンガンと痛くなる頭を押さえて、目を回していたときだった。

「ツバサさん、大丈夫ですよ」

 フィーナが眠たそうな声を出した。

「私は治癒の魔導を使えます。自分自身の体も、少しずつ癒すことができます。すぐ落ち着くので、心配しないで……」

「ごめんねフィーナ、ごめんね」

 僕は謝ることしかできなくて、リュックサックから水筒を引っこ抜いた。

「水分摂って、楽にしてて。ごめんね、なにもできない……」

 喋れば喋るほど、情けなくなってくる。思えば僕は現世、イフでもなにもできない人間だった。クラスで除け者にされても我慢することしかしなかった。ひとりで僕を養うお母さんにも、たまにご飯を作るくらいしかできない。

 あの夏の公園の、女の子にも。

 ビキッと、雷に打たれたような頭痛が走った。公園の砂場に佇む女の子のことを思い出した瞬間だ。あの傷だらけの女の子に、僕は自分の無力さを思い知らされた。それ以来、行動を起こすより先になにをやっても無駄だろうと考えるようになったのだ。

 チャトもフィーナも、後先顧みず僕と同行してくれる。自分の逃げ道の確保ばかりの僕とは違って。

 僕はよろりと立ち上がった。少しでも、周りに注意を払うことにしたのだ。マモノの気配をできる限り早めに察知したい。察知できたところで僕になにができるかといえばなにも言えないのだが、間に合わないよりましだ。

 霧がうねっている。濃さを増したり、薄らいだりの波を起こして、僕の視界を不安定に揺らしていた。

 霧が風に流されてすうっと薄くなったとき、僕はようやく何メートルも先の景色を目にすることができた。そして、思わずあっと声を出した。

 見渡す限りのゴツゴツの斜面が広がる中、ぽつんと山小屋が建っている。幻影かと思って絶句しているうちに、再び立ち込めてきた霧に包まれて山小屋は見えなくなってしまった。

 僕は目視で確認したその山小屋に、希望を見出した。フィーナの横にしゃがみ、ぐったりと横たわる彼女の肩を揺する。

「フィーナ、フィーナ! 歩ける?」

 フィーナがうっすら目を開けた。僕は山小屋の方を指さす。

「建物があった。あそこに退避しよう」

 フィーナは青い瞳をとろんとさせて僕を見上げていた。声が届いているのかどうか怪しいくらい、反応が鈍い。

「立てる?」

 もう一度声をかけると、彼女はほんの数センチだけ頷いた。しかし立とうとしたフィーナは、よろけて座り込み、頭を抱えてしまった。

 僕は彼女の腕を自分の肩に回して、立ち上がった。フィーナは細っこいけれど、ぐったりしている分、体重がのしかかってくる。膝がかくっと折れたが、僕は脚を踏ん張って持ち直した。

「待ってね、連れていくから」

 泥の詰まった袋を背負っているみたいだ。フィーナは僕に支えられてようやく立てるくらい、弱っていた。

「ごめんなさい……」

 耳元で消えそうな声がする。

「謝るのは僕の方。行こう」

 たしかに見えた山小屋の方へと、僕はゆっくり歩き出した。フィーナもふらふらと足を動かす。かなり顔色が悪い。こんな霧の中では体が休まらない。屋根のある山小屋に一刻も早く逃げ込みたい。山小屋なら、マモノからも身を隠せる。

 フィーナを引きずるように歩かせて、僕自身も重たい足でずるずると歩いた。今は霧で見えない、あったはずの山小屋に希望を託していた。霧の冷えた細かい水滴が頬をじっとりと湿らせる。は、と息を吸うと喉まで濡れる感じがした。

 よたよたと歩いていると、空中からアー、アー、という妙な音が降り注いできた。鳥の声だろうか。見上げると褐色の大きな鳥が五、六羽、頭上を旋回している。

 チャトと駆除班が追いかけていた鳥と同じ種類か、と考えたが、シルエットが少し違う。先に見たものは鳶に似ていたのに対し、僕の上を飛んでいる鳥は首がやけに細長いのだ。くちばしも鶴のように長いので別の鳥のようだ。なにより、今回のは先程の鳥とは違い、こちらに向かって変な声を出している。

「クワーックワーッ」

 頭上をくるくると回って、首をこちらに向けて伸ばして鳴いているのだ。嫌な予感がする。

「フィーナ、ちょっと急ぐよ」

 よろけていた脚に気合いを入れ直す。それまでより一歩を大きくした。フィーナがしんどそうに頷いて、よろけながらも歩みを共にする。

「グワーッ」

 鳴いていた鳥の内の一羽が、突然こちらに向かって滑空してきた。長く鋭いくちばしで突っ込んできて、僕の背中を突いてくる。

「痛っ!」

 それを皮切りに、空中を旋回していた鳥が次々とこちらに突撃してきた。

「痛いっ、痛いって!」

 片腕で払ったが、威嚇状態の鳥たちは一度離れてもまた戻ってきてくちばしを突き刺してくる。太い足の爪で僕の腕や頭にまとわりつく。掴まれたところが傷だらけになってヒリヒリした。

「やめろ、来るな」

 何度振り払ってもしつこく突っ込んできてつついてくる。

 鳥の羽ばたきにフィーナの髪がくしゃっと舞い、彼女の白い腕にも鳥の爪が刺さった。フィーナの柔らかい皮膚が鳥の爪で破られ、ぷくっと赤い血の玉が浮かぶ。ただでさえ体調の悪いフィーナは、声にならない叫びを呑むように息を詰めた。

「来るな! あっち行け」

 フィーナに止まろうとした鳥を追い払う。僕が片腕をバタバタさせるせいでフィーナがふらついた。それを慌てて抱き寄せて、彼女の腕を背中に背負い直す。

「フィーナ、しっかり掴まって」

 少し先に、ぼんやりと山小屋が見えてきた。このまま真っ直ぐ突き進めば辿り着ける。

 僕は必死にフィーナを支え、もう片方の腕で鳥を振り払い続けた。鳥が僕の肩をがっしり掴まえて、長い首を正面に回してきた。細長いくちばしの先端で目を狙ってくる。僕はまた腕を振ってその首を払い除けた。鳥は一旦飛び上がったが、今度は他の個体がフィーナの腕に止まってフィーナにくちばしを向ける。僕はそれも手の甲で払った。複数の鳥が一度に襲ってくると、きりがない。

 よろよろしていたフィーナがすっと左手を伸ばした。瞬間、その手の周辺にパキンと氷柱ができた。が、すぐに溶けて消えた。

「フィーナは無理しないで!」

 魔導で支援しようとする彼女の手を取り押さえて、僕は更に先へ突き進んだ。鳥から逃げるように、しかし思うように走ることもできず、顔に生温かいものが伝う。

 霧を掻き分け、鳥の攻撃を耐え抜いて、僕はようやく山小屋の前に到達した。息を切らせて、半開きの扉を押し開ける。フィーナを先に詰め込んでから、僕も山小屋へと流れ込んですぐに扉を閉めた。しつこくついてきた鳥が外でギャアギャア鳴いている。僕は扉に背中を押し付けて噎せるような呼吸をした。フィーナは木目の床に崩れ落ちるように座り込んだ。

 山小屋の中は、窓から差し込む僅かな光でほんのり照らされていた。正面にカウンターがあり、床にはひっくり返った椅子やテーブルが無造作に散乱している。荒廃しきっているが、どうやらレストランか宿泊施設だったような名残があった。

「ツバサさん、怪我は……?」

 床で蹲るフィーナがか細い声を発した。僕は息を整えながら、自分の手を持ち上げた。腕は服が破けて血が滲んでいる。頬を拭ってみると、べったりした薄い血液が手の甲を濡らした。顔や体からは汗だか血だか、それらが混ざったものかが滴り落ちていた。

 夢中になって鳥の中をくぐっていたが、いざ傷を目にすると意識から消えていた痛みが直撃してきた。

「痛い……フィーナは?」

「私はツバサさんが庇ってくれたので、怪我はそんなにありません」

「よかった……」

 外ではまだ、鳥が威嚇している声が扉を叩いている。僕は扉に背中を預けてへろへろとしゃがんだ。息が上がって、まともに頭が働かない。喉で空気が絡まるような感じがして、声も上手く出せなかった。

 フィーナがこちらに向かって手を伸ばす。ぼんやりとした頭でその仕草を見ていると、じくじくと痛んでいた傷からちょっとずつ痛みが引いた。

 ありがとう、と言おうとしたが、やはり喉で詰まって声にならなかった。フィーナは自分も限界のはずなのに、僕の怪我に薬草で作った薬を塗って、魔導で癒してくれた。

「お陰様で、私は自分に治癒の魔導を巡らせてだいぶ楽になってきました」

 まだ完全回復とは遠いが、フィーナの顔色は先程よりもよくなっている。僕も、フィーナの薬と魔導で傷も塞がり、だんだん息をするのも軽くなってきた。

「よかった。もう少しここで休んでいこうか。ここなら霧もないしさ」

 建物の中を見ようかと、僕がのっそりと立ち上がった、そのときだ。

 ドンドンドンと、背中に衝撃が走った。

「えっ?」

 僕は背中を寄せていた扉を振り向いた。なにかが、扉を叩いている。

 ギャアギャア騒ぐ鳥の声と、バサササと暴れる羽音がする。僕とフィーナは互いの青い顔を見合わせた。

「なにかいる」

 扉がドンドンと激しく叩かれる。僕は咄嗟に扉を両手で押さえつけた。鳥の群れの中を突っ込んできた、なにかがいる。扉を叩く強さからしても、まず小動物ではない。そして、ここに僕らが逃げ込んだことを知っている。

 危険なマモノだ。扉に押し付けた腕が震える。

 しかし、直後に聞こえた声が僕をハッとさせた。

「ツバサ! フィノ! 開けてー!」

 それは裏返って泣きそうな、チャトの声だったのだ。

「えっ、チャト!?」

 僕は押さえつけていた腕を引っ込めた。途端に扉が半開きになり、隙間からチャトが雪崩るように飛び込んでくる。一緒に首を突っ込もうとした鳥を跳ね除けて、僕は再び扉を閉めた。

 チャトは床に突っ伏してぺしゃんこになってしまった。

「チャト……どうしてここに? 駆除班といたんじゃ?」

 僕が素朴な疑問を投げかけると、チャトはヒイヒイと掠れた息の隙間でこたえた。

「……はぐれた……から、ツバサの……匂い、辿って……戻っ……」

「そうだったんだ……閉め出してごめんね」

 僕と同じように鳥に襲撃されたチャトは、あちこち傷だらけになっていた。耳と尻尾をくったり寝かせてうつ伏せで潰れている。フィーナが彼に薬を付けた。

「こんなにボロボロになって……。でも、よくここまで来られましたね」

「そうだよ。よくひとりで戻ってきて、僕とフィーナを見つけたよ」

 僕は扉を押さえつつ言った。チャトはヒュウヒュウと細い息の音を立てて、返事をしなかった。相当疲れているみたいだ。喋ることもままならない様子を見ると、僕やフィーナを見ても大声を出せなくて呼べなかったのだろう。扉の前で叫んだときは、全力を絞り出したに違いない。

「私、都市から離れることを甘く見てました」

 フィーナがチャトの怪我を手当てしながら言う。

「いくらマモノが自由にしていると言っても、凶暴化が起こる前までのマモノは人間を避けましたから、刺激しなければ襲ってこないと思っていました。事実、都市から離れて暮らしている人もいるくらいです。都市ではマモノがこれほど好戦的だと周知されていません」

 僕についてきたことを後悔しているのだろうか。僕は黙って膝を抱えた。しかしフィーナはこちらに目を向け、微笑んだ。

「ツバサさんに同行してよかった。あなたひとりじゃ心配ですものね」

「はは、そうだね」

 ちょっといたずらっぽく言ったフィーナに、僕は苦笑いした。フィーナがゆっくりとまばたきをする。

「ツバサさんに限らず、私でもひとりじゃ怖かった。ツバサさんがいて、チャトがいて、それなら乗り越えられる気がするんです」

 僕は自分の膝に目線を落とした。言葉も美しくあろうとする精霊族の習性なのだろうか、フィーナはこういうとき、恥ずかしげもなくきれいな言葉で僕をほっとさせてくれる。

「うん、きっと大丈夫だね」

 力不足の自分を、許せる気になる。

 酷く疲弊していたチャトは、うつ伏せに倒れたまま眠ってしまったようだった。傷の手当てをしていたフィーナは、ややもすると重そうに腰を上げた。

「この建物の中を調べてきます。なにか危険なマモノが巣を作っているといけないので」

「僕も行くよ」

 僕は倒れていたテーブルで扉を塞いだ。まだ外からは鳥の声がする。眠っているチャトを抱き上げてみると、びっくりするくらい軽かった。

 カウンターの横にあった階段を、フィーナが恐る恐る上っていく。僕はチャトを抱えて、その後ろをついていった。階段の上や手摺には埃が積もっていて、ところどころ床が剥がれている。霧のせいでじめじめしていることもあり、足元が滑る。湿り気が多いからか、壁がかびていた。

 そろりそろりと階段を上り、二階に着いた。一本道の廊下には扉が四つある。外に面した壁では、割れた窓がカタカタ鳴っていた。その高さまで首の長い鳥が飛んできてホバリングしていたので僕は思わずびくっとしたが、彼らは割れて尖ったガラスを怖がるのか、飛び込んできたりはしなかった。

 四つある扉のうちいちばん手前の扉を、フィーナがそっと開けた。瞬間、足元をサササッとなにか駆け抜けた。

「きゃあ!」

 フィーナが叫ぶ。僕もチャトを抱えた腕をぎゅっと締めた。拳くらいの大きさの小動物が階段の方へ走っていく。ネズミみたいなものだろう、フィーナは壁に背をつけて安堵のため息をついていた。

 気を取り直してフィーナが部屋を開ける。中を覗き込むと、狭い寝台が三つ並んだ民宿みたいな室内だった。フィーナが中を見渡し、部屋に足を踏み入れる。

 室内には寝台の他に、小さなテーブルやクローゼット、本棚なんかがところ狭しと詰まっていた。案の定布団はかびていて変な匂いがする。フィーナは慎重に、テーブルやクローゼットを調べてなにもないことを確認していた。そして彼女は、本棚にあったボロボロの本を引き出した。僕はチャトを抱え直しながら、一緒にその表紙を覗き込んだ。

「ロッジ……ミストーレ」

 大きく書かれた題字を読む。表紙はまだボロ屋になっていない、きれいな状態のこの山小屋が描かれていた。

「ここ、登山客向けの宿泊施設だったみたいですね」

 フィーナが手にしていたのは、どうやらこの辺りのガイドブックだったようだ。

「まだマモノが凶暴化していない頃は、この岩山もレジャースポットでした。だからこういう山小屋の施設もたくさんあったと聞いています。この近くにもキャンプ場があると書いてありますね」

 フィーナが湿ったページを剥がすように捲った。

「あっ、ツバサさん、これ見て」

 興奮気味に僕の方に傾けられたページは、だいぶボロボロにくたびれていたが、それはこの辺の山道の地図だった。

「このロッジ、ミストーレはちょうど南と北の真ん中辺りに位置してる。このまま真っ直ぐ十分くらい登ったら、そこからは下り坂になるみたいです」

「やったあ! もう半分は過ぎたんだね」

 僕が思わず大声を出すと、チャトの耳がぴくっとした。フィーナと僕は目配せし、また声を潜めた。

「魔族の里の位置は……載ってないか」

 ガイドブックは岩山のことだけしか触れておらず、森のどこかとしか情報がない魔族の里については書かれていない。

「岩山だけでも充分だね。霧でいまいち周りが見えないとはいえ、地図が手に入ったのもラッキーだ」

「このロッジが運営されてたのはマモノが暴れ出す前ですから、これは少なくとも百年以上前に描かれた地図ですよね。この当時と今とでは風景が変わってるとは思います。でも目印になるものが残ってたら助かりますね」

 まだ半分も残っているというのに、それよりももう半分乗り越えたという喜びの方が大きい。地図も手に入ったことだし、僕は希望の光を見つけたような気持ちになっていた。

 僕はチャトを抱っこして、フィーナは地図入りのガイドブックを片手に、他の部屋も調査した。どの部屋も殆ど変わらず、荒れた室内に寝台と同じ家具、同じ本の入った本棚があった。幸い、どの部屋にも危なそうなマモノは潜んでいないようである。

「よかった、このロッジは安全そうだね」

 最後に調べた部屋で、僕はボロボロのカーテンがかかった窓に目をやった。鳥の声は依然として聞こえるが、入ってくる様子はない。僕が喋ったのが気になったのか、チャトが僕の腕の中でむにゃむにゃと寝言を言った。

「んん……ここが魔族の里……」

「魔族のとこに着いた夢を見てるみたい」

 僕は寝台に腰を下ろした。

「ちょっとここで休もっか。チャト寝ちゃったし、僕も疲れた。フィーナもまだ体調万全じゃないでしょ」

 かび臭い寝台の比較的きれいなところにチャトを横たわらせる。フィーナは汚い寝台を睨んでしばらく無言でいたが、やがて諦めて僕の隣の寝台に座った。

「すごく汚いけど、仕方ないですね」

 美意識の高い精霊族にとっては、かびの臭いは屈辱だったようだ。荒野の廃墟の方がまだましだったらしく、彼女は不服そうに妥協した。

 部屋には寝台が三つあるので、ひとり一台ある。だが僕は足がくたくたで動くのも面倒になってしまい、チャトを寝かせた寝台に一緒に横たわった。ちょっと狭いけれど、もう動きたくない。フィーナも隣の寝台で横になった。それから彼女は、ふわっと手のひらを宙に上げた。すると、周囲の空気がほのかに暖かくなってきた。空気の温度を調節する魔導だ。心地よい温度が僕を包み、なんだかうとうとしてきてしまった。


 *


 目が覚めたのは、おいしそうな匂いのせいだった。体を起こすと、部屋の床でチャトがこちらを振り返った。

「あっ、ツバサが起きたよ」

 すっかり元気になったようで、無邪気な笑顔を取り戻している。チャトの隣にはフィーナもいて、一緒に床に座り込んでいた。

「疲れが溜まってたせいで、寝過ごしてしまいました。外が暗くなってるので、今夜はもう外に出るのはやめましょう」

 チャトとフィーナがいるところから、ほくほくと湯気が上がっている。クリームシチューみたいな、甘いようなしょっぱいようないい匂いだ。

「なに作ってるの?」

 寝台から尋ねると、チャトがニーッと牙を見せて笑った。

「涼風の吹く森で持たせてもらったお土産を使って、スープを作ってるんだ」

「へえ! 豪華だね」

 僕は床に足を下ろし、ふたりの方へ近づいた。見ると、ガラクタを組み合わせてかまどを作り、そこに火起こしの燃料を焚べている。かまどの上では、ボウルのような形の厚い器で、白いスープがぐつぐつと煮込まれていた。

「おいしそう。このかまどの材料とか器は、どこで手に入れたの?」

「ロッジの調理場にありました。ただ調理場自体は崩れてて使い物にならなかったので、汚れてなくて使えそうなものを拾って持ってきたんです」

 フィーナがレードルでスープをかき混ぜながらこたえた。清楚な顔をしているのに、この子はどんどんサバイバル慣れしていくなあ、なんて僕はぼんやりと思った。

 スープに目をきらきらさせているチャトを見て、僕はいろいろと聞けていなかったことを思い出した。

「ねえチャト、駆除班と追いかけてた鳥と女の子はどうなったの?」

 チャトは駆除班と一緒に、いや、むしろ野生の勘が働くチャトが駆除班を誘導して、女の子を掴む鳥を追いかけていたはずだった。チャトはくるっとこちらを向いた。

「それがさ! 気がついたらランもフォルクもついてきてなかったの!」

「え!?」

「俺も鳥にばっかり夢中になってて、そういえば声が聞こえないなって思ったらいなくなってた」

 チャトはさらっと言うが、考えてみたら当たり前だ。空を飛ぶ鳥を地上を走って追いかけるのは、相当厳しい。鳥がどこかに止まるのを待って追っていたわけだが、止まってくれなければ追いつくわけがないのだ。いくら兵団員でも識族は真人間である。途中で限界に達しても無理はない。

 逆に言えば、駆除班がついてこられなくなるまで走り抜けたチャト、獣族というものがいかにスタミナがあるのか思い知らされる。

「駆除班がいなくなっちゃったからちょっとキョロキョロしてる隙に、女の子を連れ去った鳥のことも見失っちゃった」

「そっか、それでひとりぼっちで必死に元の道を戻って、僕とフィーナを捜したんだね」

「走ってきた自分の匂いを辿って、同じルートを戻ってった。途中で噛み付きトカゲに追いかけられて迷ったよ。転んだりもした。でも、それでも歩いてたらツバサのおいしそうな匂いを見つけた」

 ふう、とチャトがため息をつく。フィーナが泣きそうな顔になった。

「そんなことになってたなんて……つらかったですね。よくここまで来れました」

「ツバサとフィノが鳥に襲われながら山小屋に逃げ込んでくの見て、俺もふらふら追いかけた。そしたら今度は自分が鳥につつかれて、死んじゃうかと思ったよ」

 チャトがむーっと僕の方を睨んでくる。僕は肩を竦めて苦笑いした。

「扉を押さえつけて開かなくしたのは悪かったよ。チャトが近くにいたことに気づかなくって 」

 それから僕は、真面目な声色に切り替えた。

「駆除班のふたりは大丈夫かな……。今どこにいるんだろう」

 心配した僕に、フィーナが木製の器を手に言った。

「不安ですけど、きっと大丈夫ですよ。駆除班は兵団員だから、遭難したときの対処法まで分かってます。あの人たちはその筋のスペシャリストですから」

「なんとかなってるといいなあ」

 もうひとつ、心配なことがある。僕はスープをレードルで掬って、フィーナの手に持たれている器に流し込んだ。

「連れ去られた女の子は、無事なのかな……」

 折角駆除班が見つけたのに、救出には至らなかったのだ。何日にも渡ってマモノに囚われている、例の少女が気になって仕方ない。それにはフィーナも顔を曇らせた。が、自分のスープをよそっていたチャトが珍しく真顔で言った。

「すごく高いとこを飛んでたから、髪が靡いてるのが見えたくらいではっきり確認できたわけじゃない……だから、見間違えかもしれないんだけどな」

 彼は少し言いにくそうに、言葉を詰まらせた。

「女の子が、マモノを乗りこなしてるように見えたんだ」

「……へ?」

 僕は眉を寄せ、フィーナは口をぽかんとさせた。バカなことを言ってしまったと思ったのか、チャトは早口で続けた。

「俺もそんなの変だなと思うよ。だから見間違えかもしれないって先に言ったでしょ。でも、マモノが足でバスケットみたいなものを掴んでて、女の子はそれに乗ってるように見えたんだよ」

「あー、そっか。運び鳥みたいに人間に手懐けられてるマモノなのかな? 空を飛ぶタイプの運び鳥とか?」

 僕はそんなのもいそうだなあと軽い気持ちで言ってみたが、フィーナは怪訝な顔で首を傾けた。

「そんな乗り物、聞いたことがないです」

「そうだよねえ。見間違えかな」

 チャトはスープの器を両手で支え、口元で傾けた。

「おいしい!」

「ほんと、おいしくできましたね。ツバサさんもほら」

 フィーナもスープを飲んで頬をほんのり赤くした。僕の分のスープを器に入れて、こちらに渡してくれる。受け取ってひと口啜ってみると、じゃがいものポタージュに似た柔らかな味がした。煮込まれたお肉の味もして、野菜も入っている。なんとなく、お母さんの手料理を思い出して、懐かしくなった。

 お母さんは忙しかったはずなのに、時間を見つけてご飯作ってくれる日があった。すぐに温められるように、お鍋にひとり分のスープを作って置いてあったのを思い出す。そんなに前のことではないはずなのに、すごく昔のことのように感じる。

「……帰れるかなあ……」

 いつの間にか、僕はそんな言葉を口にしていた。

 チャトがスープの器を傾けて振り向き、フィーナはぱちぱちとまばたきをした。僕はハッとなって、笑って誤魔化した。

「ごめんね、なんか急に」

 僕が帰るためにこのふたりを付き合わせているのに、僕が弱気になるような言葉を言ったらだめだ。チャトがこちらを見つめ、ふっと笑った。

「ツバサがそんな風に言うんだもんね。イフってきっとすごーくいいとこなんだな」

「んっ!?」

 びっくりして、耳を疑った。チャトは小首を傾げている。

「だってそうでしょ?」

「えっと……いいとこ、かなあ」

 考えてみると、よく分からなかった。意地悪な人たちに学校でいじめられて、家は貧乏で皆と遊ぶゲームや漫画も我慢している。しかし、イカイはどうだ。チャトもフィーナも、今まで出会ってきた人たちも、僕をいじめたりしない。ゲームとか、そういう欲しいものは手に入れなくても、充分楽しい時間を過ごさせてくれる。マモノがいるのは少し怖いけれど、渡辺やその取り巻きに比べれば、不快な悪意がないだけかわいいものだ。

「うん、いいところ……だと思う」

 上手い返事が思いつかなくて、適当にこたえてしまった。チャトはいいな、行ってみたいなと無邪気に尻尾を振っていた。

「今夜は、このままここで、朝を待ちましょうか」

 フィーナがスープに息を吹きかける。僕は膝を抱えて、スープの水面を眺めた。

「うん、暗い中歩くと危ないよね。霧のせいで足元滑るし……」

「明日に備えて、しっかり寝ましょう」

「もういっぱい寝たよ」

 チャトが不満そうに頬を膨らませる。フィーナはふふっと笑った。

「それじゃ、ちょっとお喋りして眠くなったら寝ましょうか」

「やったあ。ツバサ、イフの話聞かせて」

 パタパタ振れる尻尾が僕の足元を掠める。不思議な話だが、ちょっと楽しくなってきた。無法地帯の岩山の中の山小屋に避難していることを忘れてしまいそうだ。

 友達って、こういうことを言うんだろうな。そう考えながら、僕は、当たり前の日常の話をして夜を過ごした。


 *


 たくさん寝たと思っていたけれど体には疲れが残っていたようだ。いつの間にか寝てしまったみたいで、気がついたら割れた窓から朝日が差していた。

「肌寒いな……」

 標高が高いせいだ。山の朝は寒くて、僕は自身の両腕を摩った。寒かったせいか、同じ寝台の上にチャトもフィーナも寿司詰め状態で眠っていた。毛布にくるまって丸くなり、はみ出したチャトの尻尾までもがくるんと巻いている。

 僕はぼうっと窓の外を見てふたりが起きるのを待った。外は相変わらずの濃霧である。そういえば、山小屋の外で待ち伏せしていた変な鳥がいない。夜のうちにどこかへいなくなったようである。

「ふあ……ツバサさん、早いですね」

 フィーナが欠伸をして起きてきた。僕は彼女の方に顔を向けた。

「おはよう。見て、鳥がいなくなってるよ」

「本当ですね。今のうちにここ出て、北に向かいましょうか」

 そうと決めたらフィーナの行動は早く、チャトを叩き起こして出かける準備を整えた。

 僕らはこのロッジを出ると、本棚から貰ってきたガイドブックを手に歩き出した。山小屋の脇から、霧で霞む北の方角を見つめる。

「この先を真っ直ぐ行くと山頂。キャンプ場があるから、それが目印になるね」

「そこからは下り坂になるんですね」

 フィーナが僕の手元のガイドブックを一瞥する。地図を確認すると、僕らが昨日歩いてきた道からロッジ、キャンプ場を経由して北へ下る流れは、もともと登山ルートとして使われていた道だったようだ。山の北側の、木々も凍る森へと続く道もなだらかで歩きやすい道となっている。僕らは泉の精霊族から貰った焼き菓子を食べながら歩いた。霧が出ているとはいえ、地図のお陰で気持ちに余裕ができた。時々、チャトがマモノの気配を察知して遠回りを提案してくるときもある。そういうときは素直にマモノを避けて関わらずにやり過ごし、山頂を目指した。登れば登るほど寒くなっていく。途中から僕たちはメリザンドで買っておいた上着を着込んで体を温めた。

 噛み付きトカゲが二回も近づいてきたものの、チャトのお陰で事なきを得て先へ進む。コツコツと霧をかき分けて進むこと数十分、チャトが耳をピンと立てた。

「あっ!」

「なに、トカゲ!?」

「違う、見て。あそこにあるのキャンプ場じゃない?」

 真っ先に警戒した僕にあっさり否定し、チャトが先を指さす。ふっと霧が薄くなったとき、僕の目にもはっきりと見えた。ボロボロに朽ち果てているが、それはたしかに屋根がある休憩所だった。井戸が引かれており、簡易的なかまどがいくつか設置され、それはまさしくキャンプ場である。

 僕たちは無事に山頂へと辿り着いたのだ。

「ようやくここまで来れた……! あとは下りだね」

 僕はぐっと腕を振り上げて伸びをした。ここまで来ると空気が痛いほど冷たかった。息が霧よりも白い。すごく高いところにいるのだから景色を楽しみたいのに、霧のせいで全く見えなかった。

 空を見上げると、大きな鳥が数羽、群れを成して飛んでいた。僕らを山小屋に追い立てた首の長い鳥ではなく、別種類の鳥だ。羽を開いたシルエットが鳶に似ているので、多分、アウレリアの少女を攫った鳥と同じだと思われる。

「あの人攫い鳥がいる……チャト、フィーナ、気をつけてね」

 念のため注意喚起したが、鳥は気ままに飛んでいるだけでこちらを気にしている様子はない。僕はだいぶ薄くなってきた霧の中をしばらく散策し、キャンプ場の休憩所の屋根に止まる青色の小鳥を見つけた。

「あっ、伝言鳥がいる!」

 ジズ老師が「どこにでもいる」とは言っていたが、こんなところにもいるものなのか。フィーナがタタッと伝言鳥に駆け寄った。

「駆除班のおふたりに連絡を取りましょう。心配してるだろうから、リズリーさんとジズ老師にも。私たちは山頂に着いたと伝えて」

 フィーナの言伝を受けて、伝言鳥が飛び立つ。

「よーし、今日は一気に行こう!」

 チャトが元気よく先へ駆け出した。フィーナが慌てて追う。

「こらこら! よく見ないで走るとまたマモノに……」

 しかし、先に行ったふたりは途中でピタリと足を止めた。あとからのそのそついてきた僕は、首を傾げてふたりの背後に立った。

「どうしたの?」

 聞いたあとで、あ、と僕も息を呑んだ。

 数メートル先には、道がない。山頂のキャンプ場を越えた先……そこは、崖だったのだ。

 あれ? なんで先がないんだ。僕はぽかんと間抜けな顔をしてその切り立った崖を眺めていた。

「危なー……このまま突っ込んでたら落ちるとこだった」

 チャトが呟いた。それを受けて、僕は我に返る。

「なにこれ、どうして? ここから緩やかな下り坂になってるはずなのに……」

 僕は狼狽してガイドブックの地図を広げた。たしかに、キャンプ場の先には道が続いている。こんな絶壁ではない。なんで、と混乱して地図と睨めっこしているうちに、僕は気がついた。

「……百年の間に、地形が変わったんだ……」

 この地図は、少なくとも百年以上前に描かれたものである。その当時から今までの時間のどこかで、土砂崩れでも起こったのかもしれない。この先にあったはずの道は崩れてなくなり、断崖絶壁になってしまったのだ。

「これじゃここからは進めませんね。残念ですが他のルートを探しましょう」

 フィーナが崖を悔しそうに見つめる。

「ここに沿って東西のどちらかに歩いていけば、どこかしら崩れていないところがあるんじゃないでしょうか」

「そうだね。安全に下りられる道を探そっか」

 僕は改めてガイドブックを開いた。冷たい風が吹き付ける。僕とフィーナは羽織っていた上着に首を引っ込めた。

「寒いなあ……えーと、登山ルートは他には……」

 僕とフィーナが薄れている地図に目を凝らしている間、チャトは崖の方へとそろりそろりと歩いていた。彼の上着の裾がパタパタと風に舞っている。好奇心旺盛なチャトは、ぷるぷるしながらも崖の際まですり足で近づいていく。

「うわ、すっげー。ほんっとに崩れてる。下が真っ白だよ」

「下も霧なの?」

 僕が返すと、彼は崖の下を眺めたままこたえた。

「霧は左右に流れてて、下には行ってないみたい。晴れてるよ。でも真っ白だ」

「なにそれ、霧はないんだよね?」

 びゅ、と風が吹いた。ガイドブックが吹っ飛びそうになり、フィーナの髪がきらっと靡いた。チャトの上着の裾がふわっと浮く。

 次の瞬間、僕とフィーナは同時に息が止まった。

 チャトの小さな体が、コロンと崖から転がり落ちたのだ。

「チャト!」

 僕は崖まで駆け出した。

 頭の回路は止まっていた。脳に血が行かなくなったみたいに全ての思考が止まり、ただただ冷たい汗が吹き出す。

 ひゅおおお、と足が竦むような音が崖を切り裂いている。僕は膝を震わせて下を覗き込んだ。

 数メートル下で、岩にしがみついているチャトがいた。

「うわー、こっわ」

 耳をぺたんこに下げて尻尾を丸め、岩肌の凹凸を足場にしている。壁に飛び出した岩を両手で抱えることで、なんとかその場で踏ん張っていた。

「なにやってるんですか! 登ってこられますか?」

 フィーナが真下のチャトに向かって叫ぶと、彼はこちらを見上げて首を傾げた。

「ごめんー! ちょっと待って、這い上がれると思う」

「気をつけてよ、チャトが獣族じゃなかったら死んじゃってたよ」

 僕もこれには彼を叱り、それから崖の際にしゃがんで下に向かって手を伸ばした。

「ここまで来たら引っ張り上げるよ」

 しかし、重心のかけ方が悪かった。僕が座っていた場所が、パラパラと砂を零しはじめた。

 そうなってから、足場が崩れるまでは早かった。バキッと音を立てて崖が崩れて、反射的に後ずさった僕の足は霧で湿った地面に滑った。起こったことを頭が理解するより先に、体が浮かぶ感覚がする。

 フィーナが僕を呼ぶ声が聞こえた気がした。

 落下はスローモーションに感じるのに、どこかに掴まる余裕はなかった。ぱし、とフィーナの手が僕の手首を掴む。が、彼女の力で僕を引き上げることなどできるはずもなく、逆に重力に負けた。フィーナもろとも、頭から落ちていく。途中で、チャトにぶつかった。バランスを崩したチャトも、巻き込まれて足場を失う。

 体全体が分厚い空気の層を切っていく。

 ガイドブックはとっくにどこかに落とした。意識が遠くなる。自然と目を閉じた。

 しかし、僕の背中はストンとなにかの上に着地した。ぶつけた背中がビリビリするが、地面に叩きつけられて潰れた感じはしない。目を瞑ったままで、ぴくりと指を動かしてみる。どうやら僕は生きているみたいだ。

 そろ、と目を開けてみると、視界は白と茶色の斑の羽毛で埋め尽くされていた。なにが起こったのか分からない。ただ、頬を切る風が横向きに流れている。

 僕は混乱した頭で現状を整理しようとした。自分の体勢は、仰向け。お尻を低くして、上半身と脚が投げ出されている。僕はひとり掛けの椅子程度の大きさのバスケットの中に仰向けになっていたのだ。揺りかごのようにバスケットの中で寝そべる僕は、もう一度上空を見上げた。バスケットの持ち手は僕の肩から手のひらまでくらいの長さで、その持ち手の真ん中を黄色い鱗のある足が握っている。足の付け根にはふかふかの羽毛が生えて、その両サイドに大翼が広がっている。

「わあっ、なにこれすごい。楽しい!」

 チャトの無邪気な声がして、その方向に目をやる。鳶のような鳥がバスケットを掴んでおり、そのバスケットの中でチャトが目をきらきらさせている。

 よく見ると同じようにバスケットを掴んだ鳥が数羽、僕らの周りを飛んでいた。唖然としているフィーナを乗せているものもいる。僕は自分を運ぶ鳥を見上げた。

「え、この鳥……」

 昨夜のチャトの言葉を思い出した。アウレリアで攫われた少女は、鳥を乗りこなしていた、と。

 この鳥は少女を掴んで飛んでいたものと同じ種類のようだ。そうだとしたら考えられるのは、この鳥たちはアウレリアの少女と同じく僕らをどこかへ連れ去ろうとしているか、或いは。

 思考がまとまる前に、鳥はバササと羽ばたいて高度を落とした。揺れるバスケットの中で僕は淵を掴んで小さくなり、怯えているうちにバスケットは地面に降り立った。付近にチャトとフィーナも下ろされる。チャトは興奮してキャッキャと喜んでおり、フィーナは放心状態で固まっていた。

 鳥はバスケットの底を地に着けて、自分は持ち手に止まって僕を見下ろしている。僕はその、黄色くて丸い目を見つめた。

「助けてくれたの?」

 言葉は通じないかもしれないが、声をかけてみた。鳥は微動だにしない。

 地面に下ろしてくれたということは、巣に持ち帰る目的ではなかったということだ。この鳥型のマモノに、僕らを攫う意思はなかったのだ。

 僕はバスケットを降りて、鳥の顔を見上げた。

「君が拾ってくれなかったら、生きてなかった。ありがとう」

 鳥はくり、と首を傾げ、それからぶわっと翼を広げて飛び上がった。バスケットを持った鳥が大空へ消えていく。チャトとフィーナを乗せていた鳥たちも、それぞれを降ろしたら同じ方向へと飛び立っていった。

「バイバーイ!」

 チャトがぶんぶん手を振っている。僕はいまだ、なにが起きたのかいまいち把握しきれていなかった。

 今の鳥がなんだったのか、アウレリアの少女もあれに乗っていたのか、だとしたらなぜなのか。そういうことは全く分からないが……。

「つ、冷たっ……」

 足に染み込んでくる凍てつく雫。

 僕らは、見渡す限りの銀世界に立たされていた。

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