7 涼風の吹く森

「いたたっ! 痛い痛い!」

 朝いちばんで、寝惚けたチャトに食べられそうになった。

「んう、おいしい匂いがする」

「食べないで、食べないで!」

 いつの間にかこちらの毛布に入り込んでいたチャトが僕の腕を噛んでくる。鋭い牙がグッサリ刺さって、同時にフニフニした舌が腕の皮膚の柔らかいところを撫でてくる。何重にもぞわぞわして僕は腕を振って抵抗した。

「痛いって! チャト、離して!」

「もう……朝から騒々しい」

 フィーナが不機嫌な顔で上体を起こす。僕は彼女に助けを求めた。

「フィーナ、どうにかして!」

「はいはい。こらチャト」

 寝起きの気だるげな声で言い、そして声の割に勢いのあるゲンコツでチャトの脳天をゴンッと殴る。殴られた拍子にチャトはばっちり目を覚ましたが、同時に牙が深く腕に刺さって僕も声にならない叫びをあげた。

 チャトが耳をぺたんと下げて頭を押さえた。

「いってえ……」

 僕の方はというと、腕を押さえてしばらく悶絶していた。腕からどくどくと血が出ている。流石は狼型のマモノを追い払った牙だけはある。目が覚めて我に返ったチャトは急に僕を心配しはじめた。

「ごめんツバサ! 血が出てる。舐めたら治るかな、舐めてもいい? ちょっとだけ。ちょっと味見するだけ……」

 僕は悶えつつも全力で首を振った。犬が血の匂いに反応して野性を取り戻すことがあると聞いたことがある。舐めさせてしまったらいよいよ腕がなくなる。

「ツバサが近くにいると無限にお腹が空くよ」

 チャトが僕の匂いに鼻をふんふんいわせている。イフの人間の匂いが獣族にとっておいしそうというのは、はぐれたときに便利だがこういう場合にこちらの命に関わる問題でもある。

 のたうち回る僕を見かねて、フィーナが薬草をすり潰した薬と治癒の魔導で僕の怪我を治してくれた。僕はズキズキする腕に項垂れた。

「マモノに襲われたのならともかく、味方に噛まれて余計な怪我をするなんて……」

「眠ってる間に食べられなくてよかったですね」

 フィーナは苦笑いするが、僕にとっては笑い事ではなかった。ため息と共に顔を天井に向ける。屋根の抜けた天井から、丸く切り取られた空が見える。昨日までの夜闇色の空は明るい桜色に戻っており、雲ひとつない眩しい天気だった。

 寝台なんて贅沢なものはなくて瓦礫の中で寝たせいだ。体じゅうがミシミシする。筋肉痛に似た、張るような痛みだ。

「軽く食事をしたら早速北に向かいましょうか。今日もなるべくたくさん進めるといいですね」

 フィーナが朝のご飯を鞄から取り出す。

 昨日焚いた焚き火はもう、夜のうちに燃えて今は焦げた木のカスしか残っていなかった。僕らは各々食事を済ませて、床に残った燃えカスを踏んで散らした。

 一晩を越した廃屋から出てみると、カラッとした晴れた空の下に瓦礫の山がどっさり積まれた異様な光景が広がっていた。忘れ去られたかつての町はすっかり死んでいるのに、平然と回る世界の自然な明るさがその跡地を照らす。風で飛ばされる木片が乾いた大地を這うように転がる。

「北はどっちだっけ?」

 チャトが瓦礫の山を猿みたいに登って、チャト自身の身長の二倍以上はある高いところから、辺りを見渡していた。彼の尻尾が風でふよふよする。

「太陽が昇ってる方が東だから、こっちが北だよ」

 僕はチャトを見上げて、進行方向を指さした。チャトが僕の指が示した方向に顔を向ける。

 重なる瓦礫が噛み合ってバランスを取っている山は、今にも崩れそうでヒヤヒヤする。フィーナが山の下からチャトを呼んだ。

「危ないですよ! 怪我しちゃうから降りて」

 だがしかし、チャトは聞いていない。

「ん! 見える見える! 向こうに森が見えるぞ!」

「本当に!?」

 思わず僕も瓦礫を登りそうになったが、無理だと気づいてやめた。チャトが耳をピンと立てて遠くを指さす。

「案外近いみたい。マモノも、目立つほど大きいのは見当たらない」

 それから彼は瓦礫の上を器用に歩いて北へと向かっていった。僕とフィーナはその下の瓦礫の少ない、地面に近いところを歩いた。

「チャトは元気だねえ」

 危なっかしいところを身軽に歩く彼を見上げ、僕は感嘆した。チャトが上からにっこり笑う。

「そりゃあ、だって涼風の吹く森に行けるんだもん。ね、フィノ。獣族の故郷のひとつなんでしょ?」

「ええ。私も久しぶりの故郷がどうなってるか、見てみたいです」

 フィーナも嬉しそうに微笑む。

 そうだ、チャトにとっては見たことがない自分たちのルーツの場所であり、フィーナにとっては故郷なのだ。識族の都市であるアウレリアよりも、伸び伸びとできる場所だ。そんな場所に僕も行ってみたくて、足取りが軽くなる。

「都市から戻った人たち、いるかな。どんな暮らしをしてるんだろう」

「もしかしたら、マモノに襲われる前の状態まで回復してるかもね! そしたら俺、アウレリアに戻らないで森に住もうかな」

 チャトが浮き足立って、瓦礫の上で軽やかに跳ねる。屋根の一部が山から崩れ落ちたが、身軽なチャトはバランスを崩すことなくいちばん高いところを歩いている。フィーナが微笑ましそうに笑う。

「識族の都市のように便利ではないけど、空気が澄んでて風が心地よくて、素敵なところですよ」

 かつて住んでいたその場所を思い起こし、彼女は気持ちよさそうに目を閉じた。

「きれいな湧き水があって、飲んだら元気になるんです。それで、泉の近くには大人しくて無害な綿ピクシーというマモノがたくさんいるんですよ」

「へえ。見てみたいな」

 フィーナがこれほど懐かしむのだ。きっときれいな場所で、その綿ピクシーというマモノもかわいいのだろう。

 瓦礫を踏みしめて街の跡地を歩くうちに、高いところにいたはずのチャトが僕の目線くらいの位置まで下りてきていた。瓦礫の山が低くなってきたのである。足元に散らばる瓦礫や板屑も徐々に減っていって、そのうちチャトの立ち位置も僕らと同じ高さになった。まだ建物の欠片はそこらじゅうに落ちているものの、密集していた場所は抜けたようだ。その頃には、広がる乾いた大地の向こうに緑色のモコモコが見えはじめていた。

「森だ。周りがまっさらだから距離感が掴めないけど、目に見えるってことはもう数十分歩けば着くのかな」

 僕が背伸びして遠くの木々を見ていると、フィーナが嬉しそうに頷いた。

「既にこの辺にも、木が増えはじめています。この辺りはもう獣族のハンティングテリトリーだったところですね」

 少し足元に目を落とせば、廃墟の町の前までは大地がからからに枯れていたのに今は草が生えている。荒野は「不毛の大地」から「弱った草原」に変わったのだ。大人しそうな鹿のような牛のようなマモノが草の上を駆けている。

「まさに獣族はああいうマモノを狩ってました」

 フィーナがマモノを横目に言うと、チャトが耳を立てた。

「じゃああれ、おいしいのか!」

「チャトでも狩れるかな」

 興味本位で呟く僕を、彼は純粋な目で見上げた。

「でも、あのマモノよりツバサの方がおいしそうだぞ」

「怖い台詞引き出しちゃったな……」

 そんなやりとりをしていて、僕らは気がついた。

 あのマモノはなにかから逃げている。北の方からなにか走ってきているのだ。黒っぽい褐色の大きな生物がマモノを追っている。また別のマモノが出たか、と僕は身構えた。動きが速そうな相手だ、どうやって身を守ろうか。隠れられる場所を探してキョロキョロしているうちに、それは風に乗るような素早さで突進してきた。

「どうしよう、どこに逃げ……」

 しかし、チャトのフィーナは逃げようとも迎え撃とうともしなかった。それどころか食い入るようにその駆け抜けるそれを真っ直ぐに見つめているのだ。僕も、向かってくるものの方に目を向けた。近づいてくるそれを見て形を捉えてからは、僕も固まった。

 それは、鹿のようなマモノの背にくわっと飛びついた。

「人……だ」

 細身なのに筋肉質な体格に、黒っぽい焦げ茶の耳と尻尾を持つ、小麦肌の女性だ。チャトと同じような耳と尻尾を持ち、動きも似ている。獣族だ。外見では僕よりもやや歳上、十代後半くらいに見える。

 野生動物の狩りのシーンを見た気分だ。暴れるマモノから牙と爪を離さず、しつこく弱らせる。やがて彼女は、鹿のマモノを華麗に仕留めてみせた。

「わあっ! すっげー!」

 チャトがぱあっと顔を輝かせた。

「おねえさんすげえ! ねえ、それおいしい?」

「ん? なに?」

 フレンドリーに駆け寄るチャトを見てから、黒褐色の獣族は僕の方に視線を向けた。

「最高にうまそうな匂いがすると思ったらこれじゃなくて、そっちの識族!?」

 獣族はイフの人の匂いがおいしそうだと感じる、のだった。冷や汗をかいた僕の代わりに、チャトが首を振った。

「ツバサは食べちゃだめだぞ。ちょっと齧っただけでも怒られるからやめときなよ」

「そうなの? ところであんた、見ない子ね」

「うん、俺はこの辺の獣族じゃないから。アウレリアから来たんだ」

「なに、出戻り? 精霊族と一緒に戻ってきたの? あれ、それじゃあなんで識族も連れてるの?」

 混乱しはじめた彼女に、僕も慎重に歩み寄った。

「僕たち、ずっと北を目指してる途中でして。それで……」

 僕は、彼女に問いかけた。

「あなたは、涼風の吹く森の獣族さんですか? 今、その森を第一ポイントとして目指してるんです」

「子供だけで? なんか事情がありそうだね。まあいいや、そういうことならついておいで」

 彼女は珍しそうに僕らを眺め、仕留めたマモノを引きずって森の方へ向かった。


 *


 涼風の吹く森は、アウレリアに沿っていた薬草の森に比べ明るく感じた。木々の密度が小さいのだ。木の葉に程よく遮られた陽射しが柔らかに入ってきて、地面に斑の木洩れ日を落としていた。

 陽射しが弱いこともあり、吹き抜けてくる風が涼しい。心地よい空気は、学校の遠足で訪れた森林公園に似ていた。

「私の名前はサラ。涼風の吹く森の、獣族の村に住んでる」

 黒い獣の少女が名乗る。

 サラはチャトより色黒の耳と尻尾を持ち、似たような色の肩までのボブカットの髪をしていた。瞳の色は金色で、耳と尻尾はチャトのものよりシャープなシルエットである。チャトが犬に似ているとすると、サラはどちらかというと猫に近い印象だ。

 僕らもそれぞれ名乗っていると、森の中に突然、薪みたいな木材を重ねたような壁が現れた。壁といってもさほど高さはなく、僕の身長よりもやや高いくらいだ。木の棒を乱雑に積み上げ、崩れないようにロープで結びつけて、それを更に自生する森の木に繋いで固定している。

 その上を見上げて、僕は思わず目を見張った。

 ツリーハウスだ。木々の上に、丸太を組んだ家がある。壁の向こうにはそれがいくつもあるのだ。

 そのうちひとつのツリーハウスから薄茶の耳のおばちゃん獣族が出てきて、こちらを見下ろした。

「サラ! おかえり」

「ただいま!」

 サラが見上げて手を振る。

 僕はこの光景にわくわくしていた。見たことのない住まいの生活が目の前に広がっている。大自然の中の村は僕の好奇心を刺激しまくった。

 村を囲んだ壁は、一部に腰の高さまで低い場所があり、そこは片開き扉のフェンスゲートになっていた。

「昔はこんなの作ってなかったらしいけど、マモノが入ってこないように作ったんだってさ」

 サラがゲートを押し開けた。

「識族の都市にはこういう壁があって、それでマモノを防いだって、先人の教えでね」

 捕ったマモノを引きずって壁の向こうへ入っていくサラに、チャトがついていく。フィーナも中を窺いながら入り、僕もその後ろから足を踏み入れた。

「サラ、おかえり!」

「おかえりー! 大物捕れた?」

 帰ってきたサラに反応して、あちこちから声が聞こえた。

 僕は辺りを見渡して、息をつくのも忘れてしまった。

 高いところに連なるツリーハウス、アスレチックのように繋がれたハンモック。木々の下にはマモノの肉が吊り下げられたロープがあったり、切り株に座って談笑する獣族がいたりと、そこにはたしかにひとつのライフスタイルが形成されていた。

 初めて見る文化に圧倒された後、僕は今度は安堵のため息が出た。マモノしかいない荒れた大地を歩いてきたのだ。ここで久しぶりに、会話が成立する人間のテリトリーに入ることができた。雑ではあるが壁もあり、マモノが侵入してくるのを防いでいる。

 フィーナが僕の横で目を細める。

「そうだった。獣族はこんな村を持ってた。懐かしいです……」

 フィーナは約百年ぶりに戻ってきたのだ。そしてこの場所を知らないはずのチャトは、本能が掻き立てるのか興奮で尻尾を振り回していた。

「すごい! なんだここ、すっごく楽しそう」

「獣族は本来こういう暮らしをする種族だもん。羨ましいでしょ」

 サラがチャトのほっぺたをつつく。

 サラの帰還を受けて、住んでいた獣族たちがわらわらと集まってきた。大人も子供も合わせて、二十人くらいはいる。

「おかえりサラ。お、この人たちはなんだ?」

 ガッシリした躯体の黒毛の獣族のおじさんが僕らを眺める。サラは捕ってきたマモノを、肉を干したロープの傍まで運んだ。

「旅人さんだよ。北を目指して都市から来たんだとさ」

「はあ、なんの目的で?」

 住民たちは物珍しそうに僕らを見て、それから全員の目線が徐々に僕に集まった。

「お前……うまそうだな……」

 瞬間、僕は全身の毛穴がひゅっと窄む感じがした。

 獣族にとってのおいしそうな匂いをさせる僕は、大勢の獣族を前に命の危機を感じた。それをサラが手を突き出して止める。

「食べちゃだめらしいよ。まあ人間だし、やめといた方がよさそうだよね」

「食わねえよ。流石に人間は食わん」

 獣族たちがふんふんと僕を嗅いでいる。彼らには理性があり、すぐにでも食らいつくような人たちではない。それはチャトを見ていれば分かるのだが……。

「食べないけど……けどなんかうまそうな匂いがする」

 若干、危険な気配がする。寝惚けたチャトに噛まれたばかりの僕は、おずおずと後ずさった。

「それはともかく、都市から来たんだって? 大変だっただろ。識の坊やと精霊のお嬢ちゃんなんて体力もたないんじゃないか? 獣族の子もまだガキだしさ」

 黒毛の男がチャトの頭を撫でる。それから彼は威勢よく腕を振り上げた。

「どれ飯を食わせてやろう。野郎ども、宴だー!」

 途端に、周りにいた獣族たちがわあっと盛り上がった。

「サラが捕ってきた新鮮な肉を調理しよう」

「酒を開けるぞー!」

 それぞれに役割でもあるのか、彼らは散り散りになった。

 獣族は人との間に壁を作らない種族なのだと聞いている。獣族が獣族らしく暮らすこの村の獣族は、本当にフランクだ。いきなりやって来た僕たちを受け入れて、歓迎会まで開いてくれるのだ。

「あの黒い毛の男の人はオイゲン村長。この村のリーダーだよ」

 サラがこちらを覗き込んできた。

「あんたたち、アウレリアから来たんでしょ? 識族の都市なんて窮屈だったんじゃない? ここの獣族たちは皆自由だよ! 朝から歌って踊って、夜は松明を焚いてパーティしてさ」

「楽しそう! いいなー」

 チャトは目をきらきらさせているが、僕とフィーナは顔を見合わせて苦笑いした。ずっとどんちゃん騒ぎというのは、流石に疲れそうである。獣族は他の種族より体力があるから、長いこと騒いでも元気なのだろう。

 ふと、獣族と住居が近いという精霊族のことを思い出した。見たところ、ここには獣族しかいない。獣と精霊が入り混じっているわけではないようだ。

「精霊族も近くに住んでるの?」

 サラに尋ねると、彼女はちらと村の囲いに目をやった。

「いるよ。ただ、この壁より向こうだけど」

「分かれて暮らしてるんだね」

 サラは少し周りを窺い見てから、くいっと親指で方向を指した。

「行ってみる?」

 フィーナがこくっと頷いた。

「私の故郷なんです。今どうなってるか、見たいです」

「おし。じゃ、宴の準備を待ってる間に行ってみようか」

 サラは僕らを引き連れて、再び壁に付いたゲートを抜けた。さわさわ揺れる森の中を、身軽に歩いていく。チャトは流石獣族といったところか、サラとほぼ同じペースで先を行く。

 僕は少し遅れをとって、フィーナはそれに付き合うようにゆっくりめに歩いてくれた。

「なんか、ちょっと意外でした」

 フィーナがぽつりと呟く。

「百年程前……私がまだここに住んでいた頃は、獣族と精霊族はもう少し混じってたんですよ」

「あれ、そうなんだ」

「生活スタイルは違うので、居住地域自体は近いけど分かれてました。でも、こうやってお互いに完璧に隔離していることはなくて、互いのテリトリーにふらふら遊びに行く感じだったんです」

 僕はふうんと鼻を鳴らした。獣族の村に、精霊族はひとりもいなかった。遊びに来た精霊族の姿なんてなかったのだ。

 しばらく行くと、苔むした岩でできた洞窟に遭遇した。だが入口はなく、岩壁で封鎖されている。

 サラはその前に立ち、岩の板の端っこをぐっと引いた。すると岩は引き戸になっていたようで、ギシギシと隙間ができて入口が出てきた。

 その中に向かって、サラが声を飛ばす。

「クラウスー! いる?」

 ややあって、サラは頷いた。

「お、聞こえたようだな」

 僕には全く分からなかったが、返事が聞こえたようである。

 フィーナがバッと顔を上げた。

「クラウス……さん!?」

 しばらくすると、岩の扉が更に開き、中から精霊族らしきおにいさんが現れた。やや青みがかった白い髪に青緑の瞳で、フィーナと同じように白いマントを羽織っている。びっくりするくらいに整った顔をしていて、背が高い。

「こいつはクラウス。数少ない精霊族の友達だよ」

 サラが彼を紹介し、そして逆に彼に僕らのことを話した。

「この人たちはアウレリアから来た旅の人たち。精霊族の村を見たいっていうから連れてきたんだ」

「そうでしたか。初めまして、クラウスと申します」

 クラウスと呼ばれた精霊族の青年は、丁寧に頭を下げた。そして顔を上げてから、えっと小さく叫んだ。

「フィーナ……?」

「クラウスさん!」

 フィーナも口を押さえて目を丸くしていた。

「ご無事だったんですね。移民のときに一緒にいなかったから、心配してたんです……!」

「あのときは岩穴の奥に隠れてて逃げ遅れたんです。でもなんとか乗り切って……そうか、フィーナも無事にアウレリアに移住できたんですね」

 ふたりで盛り上がりはじめたのを見て、僕はぽかんとした。そうか、ここはフィーナの故郷だから、フィーナの知り合いがいてもおかしくないのだ。百年前のマモノ凶暴化のタイミングで移住しなかった人たちや、一度都市に来たけれどここに戻った人たちもいる。

「皆フィーナに会いたがりますよ。お友達も一緒に、ほら」

 クラウスさんに呼ばれて、僕とチャトも洞窟に入った。が、サラだけはついてこない。

「サラは来ないの?」

 振り向いて呼ぶと、彼女は首を振った。

「私はここで待ってる」

 それを聞いて、ちらっと思った。獣族の村に精霊族がいなかったように、精霊族の村にも獣族は入らないのだろうか、と。

 入口をくぐってすぐ、僕とチャトは思わずわあっと叫んだ。

「きれい!」

「なにこれ、きらきらしてる」

 広い通路のあちこちに、壁からも天井からも、青い水晶が突き出しているのだ。それらが煌々と光を放ち、周囲を青く照らしている。そのお陰で洞窟の中だとは思えないくらい明るかった。

「すごい。持って帰ってもいいの?」

 チャトが水晶に触ろうとすると、クラウスさんがちらっと彼を見た。フィーナがこらっとチャトの耳を摘む。

「持って帰っちゃだめです」

 フィーナの髪が、光を孕んできらきらする。

「この鉱石は空気を浄化して、そのエネルギーで発光する水晶です。精霊族はこういう水晶が形成される洞窟に住むんです」

 僕は絶句して周囲を見渡した。上を見ても横を見ても、先に進んでも、どこまでも青くきらきらして、なんてきれいなのだろう。洞窟そのものが宝石箱みたいだ。

 僕の横をふわっとなにかが通り過ぎた。目で追ってみると、手のひらに乗るくらいの大きさの綿毛が飛んでいる。鳥の羽根に似た白い翼が生えていて、テグスみたいな尻尾の先に柔らかな光を灯している。

「あれが綿ピクシーです」

 フィーナが手を伸ばすと、羽根の生えた綿毛がふわふわと寄ってきてフィーナの手に止まった。僕はその柔らかそうな綿毛に目を奪われた。

「かわいい……」

「大人しくって、人に懐くんですよ」

「食べられる?」

 チャトが興味本位で聞くと、クラウスさんが眉を顰めた。フィーナがチャトを窘める。

「食べてはいけません」

「ごめん……」

 少し進むと、僕らは更に驚かされた。

 通路の先は広い空間が開けており、僕らは切り立った坂の上に立っていた。見下ろすと真ん中に泉が湧いていて、それに迫るように全体に坂がそり立っている。泉を先端とした、逆さ向きの円錐型に洞窟が開けているのだ。坂には岩の穴や水晶でできた住居が連なり、通路を精霊族の住民たちが坂を上り下りしている。空中にはたくさんの綿ピクシーが舞い、水晶の青い光と綿ピクシーの尻尾のほわほわした光が拡散していた。

「ここが……フィーナの故郷か」

 ため息が出るような光景を前に足が竦む。なんてきれいなところだろう。

「あらクラウス、お客さん?」

 鈴の音のような澄んだ声がして、僕はその方向を振り向いた。そしてそこに立つ女性を見て、また言葉を失った。

 膝くらいまである淡い桃色の長い髪に、翡翠色の瞳。潤んだ唇は花びらのようで、肌は彫刻みたいに滑らかで白かった。彼女を見るなり、フィーナが目を見開いた。

「エルザさん!」

「あら、フィーナ!」

 この女の人もフィーナと顔見知りのようだ。クラウスさんが説明に入る。

「エルザさんは、ここに残り続けて今では村長なんです。エルザさん、フィーナは今、この識族の子と獣族の子と共に旅の途中で立ち寄ったそうです」

「そう……大きくなりましたね」

 エルザ村長はフィーナの髪を撫でた。フィーナも品よくお辞儀をする。

「お久しぶりです。お元気そうでよかった」

 穏やかな再会の挨拶の後、エルザ村長はふと僕とチャトに目を向けた。

「識族と……獣族?」

「ああ、この獣族の子はアウレリアから来てるので、森の村の者ではなくて」

 クラウスさんが言うと、エルザ村長はしばしチャトを見つめてからにっこり微笑んだ。

「そう。ゆっくりなさってくださいね。フィーナも、どうぞ住民たちに挨拶してらして。そうだわ、もしこの後お時間ありましたら、歓迎のティーパーティーでもしませんこと?」

 フィーナは一瞬目を輝かせたが、すぐに予定を思い出した。

「あっ、お気持ちは嬉しいんですけど、この後お呼ばれしてるので……」

「そう。ではまたの機会に。わたくしはこれで失礼させていただきますわ」

 そして彼女は、丁寧にお辞儀をしてから去っていった。

 フィーナはその後ろ姿にうっとりしていた。

「ああ、なんて品行方正。エルザさん、絵に描いたような麗しい精霊になられて……!」

 しかし、チャトは洞窟に入ってきたときのテンションが嘘だったかのように耳を下げている。彼は僕の背中に隠れて腕にしがみついた。

「なんか……あの人、ちょっと怖かった」

 僕にだけに聞こえるくらいの声で訴えてくる。僕も、それは少し思った。

 なんとなくだが、エルザ村長からは敵意のようなものを感じたのだ。美しすぎて住む世界が違う気がしてしまったせいだろうか。壁があるような印象だ。

 フィーナがクラウスさんを見上げた。

「しかしクラウスさん、洞窟の入口に扉を付けられたんですね? あれ、百年前はありませんでしたよね。マモノ避けですか?」

「そうですね。百年前に入ってきて村を荒らしたマモノを追い払った後、もう来ないように即席で蓋をしたんです。百年かけてようやくここまで復興しました」

 クラウスさんはそうこたえてから、目を伏せた。

「しかし……あのような扉を付けてからというもの、獣族との溝は深まりました」

 彼の口から獣族と出て、チャトが尻尾を立てた。クラウスさんがゆっくりと歩き出す。

「実は、今はかつてのように獣族と精霊族は交流がないんです」

「えっ!?」

 フィーナが目を丸くした。

「なぜ? 獣族の身体能力と精霊族の魔力で、力を合わせて生活してたのに」

「百年前までは、獣族の村にある壁も、この洞窟の扉もありませんでした。ですので互いの村に行き来しやすく、狩りや野菜の栽培も、一緒に食事をしたり遊んだりもしていたものですが……。ああして完全なパーテーションを作ってからというもの、入っていきにくい環境になっていきました」

 住居のある道を歩けば、数人の精霊族とすれ違う。フィーナとは顔見知りが多く挨拶をしている。僕とチャトにも、微笑んでくれた。そして作り物みたいな笑顔で「識族と獣族、珍しいですね」と言う。

 クラウスさんはぽつりぽつりと話した。

「壁も扉も、マモノ避けです。識族の真似をして考えたものでした。決して獣族と精霊族を隔てるものでも、識族などの他の種族を拒むために作ったものではありません。しかし……五十年くらい前かな。事件が起きました」

 僕は彼の端正な顔を見上げて、黙って聞いていた。

「こんな間切りを作ったせいで、互いの生活ペースを把握できなくなったことが原因です。まだ理解力の低い幼い獣族の子供が数人、精霊族のスペースにやってきたんです。そして水晶を壊したり綿ピクシーを食べたりとやんちゃしてしまった」

 クラウスさんの残念そうな声色に、チャトがびくっとした。彼はまさに水晶を持ち出そうとしたり綿ピクシーを食べようとしたりしていた。

「その件で、我らがエルザ村長は当時の獣族の村長に注意しに行きました。精霊族は声を荒らげたりすることを美しくないとしているので、彼女は冷静に事実を伝えました。しかしその落ち着きが裏目に出て、獣族の村長は『精霊族はそんなに怒ってない』と判断してしまい、かなり軽薄な謝り方をしまして……」

 クラウスさんの話を聞いて僕は村の獣族を思い浮かべた。フランクで打ち解けやすく、あまり物事を深く考えていなそうな人たちだ。エルザ村長の静かな怒りは彼らには分かりにくくて、その重度に気づかなかったのかもしれない。

「その辺りから、エルザ村長は獣族を好まなくなりました。そして精霊族の収穫祭に獣族を招待しなくなり、招待されなかったことを感づいた獣族も精霊族の冷たさに気づいたようです。そうして互いに距離を置くうちに、今では全くと言っていいほど交流がなくなってしまいました」

 そういえば、サラはひとりで狩りをしていた。チャトとフィーナみたいにチームを組むのではなく、獣族単体の力でマモノを仕留めていたのだ。

「いわば冷戦状態。お互いのテリトリーに入っても追い出されはしないが、暗黙の了解で入らないことになっているんです。だからサラは入ってこないし、僕を誘い出すにもああして外から大声で呼ぶしかない。獣も精霊も耳はいいので、あれで呼び会えるんですけどね。やはり他の精霊族たちはあまりいい顔はしない」

「そんな……」

 フィーナが寂しそうに俯いた。

「歴史の中でもずっと、助け合ってきたのに。交流がなくなったら、バランスが取れなくなってしまいます」

「そうなんです。両種族の関係はすっかり悪化しましたが、僕は個人的にサラと交流があるので向こうの様子も聞いてます」

 クラウスさんは苦い顔で頭を抱えた。

「獣族は完全に惰性に落ちぶれていってます。遊んで騒いでばかりで、思いどおりにならないと喧嘩をはじめる」

 それから彼は少し声を潜めた。

「精霊族は神経質になりすぎています。精霊の誇りを守るあまりに他の種族を軽視し、感情を表に出さず……そしてその息苦しさに慣れてしまっているんです。というのは、僕がサラから言われたことなんですけどね」

 僕は岩肌の青い水晶を見上げ、黙ってクラウスさんについて歩いた。

 なんとなく、分かる。同じクラスの中にいてもどうしても相容れないタイプの人というのはいる。同じ人間、同じ年齢でも大まかな分類があり、それらはグループを形成して交わらないようにする。

 ラン班長から種族の話を聞いたときも同じことを考えた。馴染みやすい人と気兼ねなく交流を深めることは、心地よさの問題だ。合わない人と無理に一緒にいることはない。

 でも、この獣族と精霊族の問題は、ちょっと違う気がした。

「適度な距離を保つことと、相手を受け入れないことは違うよね」

 僕は小さな声で、言ってみた。

「このままじゃ獣族は精霊族のことを『面倒な奴ら』って思うし、精霊族は獣族のことを『野蛮な人たち』って思うでしょ。そうやって自分たちばかりを正しいと思ってたら、どんどん自分の首を締めちゃうと思う……」

 チャトとフィーナを見ていると、たしかに感覚の違いでよく揉めている。だがチャトはフィーナに素直に謝るし、フィーナもチャトの行動を理解している。お互いを認めることで、良好な関係を築いているのだ。

 その点、この森の中の村はこの状況だ。利己的な感性が強くなりすぎて、それぞれが独善的な風潮を持ってしまっている。放っておいたら両方の種族が共倒れするだろう。

 クラウスさんが長い睫毛を伏せた。

「僕もそう考えています。サラと一緒になんとかならないか考えてはいるんですが、僕とサラが交流していること自体をそろそろ村から咎められそうです。ここに住んでいる以上は、村長の機嫌を損ねるわけにもいきませんし……」

 僕は唇を噛んで考えた。サラとクラウスさんの交流が断たれたら、獣族と精霊族の繋がりはもっとなくなっていよいよ手詰まりだ。住んでいる距離的にはご近所さんなのに、無関心になってしまう。

 しかし僕はただ、魔族のもとへ行く流れでたまたまここを通っただけで、彼らとは無関係なのだ。つまり僕が口出ししていいことではない。僕がどうにかできることでもない。もっと言えば、僕が元の世界に帰ってしまえば、この問題は僕には全く関係のないことである。

 そうだ、僕が頭を捻る必要なんかないのだ。

 円錐型の村をくるっと一周して、フィーナはすれ違う人々に挨拶を済ませた。外へ繋がる通路まで戻ってきて、僕は蓋をされた洞窟の出口の方に目をやった。

「そろそろ獣族の村に戻ろうか。サラを待たせてるしさ」

「そうですね……皆さんに久しぶりに会えてよかった。クラウスさんもエルザ村長も、お元気で」

 フィーナがクラウスさんに頭を下げる。クラウスさんはにっこりと微笑んだ。

「楽しい話がなくて申し訳なかった。フィーナ、また今度時間があるときにでも来てください。それまでにもっと村を楽しいところにしておきます」

 クラウスさんは、洞窟の出口まで僕らを送ってくれた。重たい石の扉を開けて、外の光に顔を出す。外ではサラが胡座を組んでいた。

「おかえり」

「お待たせしました。かつての知り合いに再会できましたし、チャトとツバサさんを案内することもできました」

 フィーナが微笑むと、サラもそうか、と笑った。

 僕はさわさわ揺れる木の葉に、ため息をついた。どの世界も厄介なことは付き物なんだな、というため息だ。人間というものは、どこへ行っても利己的な生き物なのかもしれない。

 座り込んでいたサラがクラウスさんの顔を見上げる。クラウスさんはサラを見下ろした。そして互いに、ため息をついた。

「面倒くさいよな、この距離感」

「本当ですね。サラにも遊びに来てほしいんですが」

 今度はチャトが大きなため息をついた。

「はあ……すっごくアウェイな感じで怖かった。特に村長、俺のこと水晶壊して綿ピクシー食べると思ってる顔してた」

「実際やりそうだったじゃん……」

 僕は限りなく小さな声で呟いた。それから、フィーナまでもがため息を洩らす。

「なんだか……久しぶりに帰った故郷がこうなってるとは思わなかったです」

 寂しげな声色に、僕は彼女の方を向いた。フィーナは僅かに口角を上げて、苦笑のような自嘲のような複雑な表情をしていた。

「完璧に復興して素敵な村になってるか、それかボロボロのままで若干名の人たちが頑張ってるか、そういうのを想像していました。どちらのパターンでも、きっと獣族とは上手く手を組んでるんだろうって……」

「僕だって、フィーナにそういう村の景色を見せてあげたかった」

 クラウスさんが少しだけ、声を尖らせた。それを見てサラが眉を顰めた。

「精霊族ってすぐネガティブになるよね」

「ネガティブなのは物事を深く考えているからです。獣族が考えもなく行動しすぎなんです」

 クラウスさんがびしっと言い返す。サラもカッと牙を見せた。

「ネチネチしてウジウジしてっから、うちの村長が面倒くさがるんだよ」

「そっちが野蛮だから精霊族が怖がるんです」

「ちょ、ちょっと待って! 喧嘩しないで」

 僕は慌ててふたりの間に割って入った。止めに入ってから、はたと気がついた。

「でも……喧嘩できるからお互いの考えを聞くことができるんだよね。他の人たちは喧嘩することすらできない距離にいるんだから」

 これは、僕には関係のないことだ。

 通りすがりの村の問題であり、そもそもイフの人間である僕には無関係である。極端にいえば、獣族と精霊族が戦争をはじめて滅亡したって関係ないのだ。

 でも、なんだかムズムズする。眉間に指を突き立てられて、触るか触らないかのところで止められているときみたいな、どうしようもなくざわざわした感じが体の中を巡っている。

 多分、がっかりしたチャトと故郷の変わりようにショックを受けたフィーナを見てしまったからだ。

「よし……そうだ」

 僕は思い切って、サラとクラウスさんに提案した。

「これから獣族のパーティがはじまる。そこに精霊族も招待してみない?」

 瞬間、サラとクラウスさん、チャトとフィーナまでもが、えっと目を丸くした。僕は考えながら付け足した。

「えっと……お互い反発しあってるのは分かったんだけど、隣の村に入ること自体は禁止されてないんでしょ? 暗黙のルールで寄り付かないようにしてるだけで、入った瞬間立ち所に殴り合いになるってわけじゃないんでしょ?」

「まあ……そうだけど」

 サラが信じられないといった顔をしている。僕は押し切るように続けた。

「それなら、神経質な精霊族の方が獣族の宴に参戦するんだ。獣族はあんまり深く思考しないから『精霊族が気を許したんだな』くらいにしか思わないはず! 逆だったら精霊族は『獣が酒と食べ物にタカリに来た』みたいに思うかもしれないけど」

「あんたねえ! 獣族をバカにしてない!?」

「精霊族を卑屈者みたいに言わないでください」

 サラとクラウスさんと両方から同時に怒られたが、事実だと思うので撤回はしない。

「獣族も精霊族も、入り乱れてパーティをするんだ。おいしいご飯とお酒があったら、きっとまた打ち解けられるよ!」

 僕には無関係だ。面倒なことに首を突っ込みたくはない。

 でも、あんなため息の五重奏はあまりにもしんどい。このまま放っておいて先へ進むのなんて、後味が悪い。

 僕の発想を聞いて、フィーナが真剣な顔をした。

「いいかもしれません。精霊族の人たちだって、私たちを歓迎してくれた気持ちは獣族と一緒です」

「獣族も、そういうことなら拒まないんじゃないかな」

 チャトも肯定してくれる。

 僕たちはお客さんであるという立場を利用して、ふたつの村に歓迎してもらうのだ。自分で歓迎してもらうというのもおかしな話だが、折角の機会だ。

 サラも、意を決したように頷いた。

「……分かった。獣族の仲間たちに、私から伝えておく」

「僕も精霊族に伝えます。フィーナとその友達のための歓迎会だと言えば来てくれるかもしれません。精霊族は律儀です」

 クラウスさんがそう言い、洞窟の中へと戻っていった。

 僕は内心よしっと叫んでいた。これで獣族と精霊族の絆が復活したらいいなと思うのだ。


 *


 サラに連れられて獣族の村に戻ると、村の中心の広場に木のテーブルや椅子がたくさん並べられていた。テーブルには肉や果物がたっぷり盛られた皿が連なり、お酒と思われる樽も置かれている。本能のまま意のままに生きる彼らは、既に摘み食いをしてお酒を飲んで騒いでいた。騒ぐ人々の中から黒い耳を見つけ、サラが駆け寄る。

「オイゲン村長。これから参加者が増えるよ」

 オイゲン村長はきょとんとしてサラに目を向ける。

「あ? まだお連れさんがいたのか。何人くらい来るんだ?」

「うーん、二十人くらいかな」

「はは、多いな! まあ食いもんも酒も足りなくなったら捕ってくりゃいいさ」

 来るのが精霊族だとは知らず、オイゲン村長は豪快に大笑いしている。笑っては食べて、飲んで、騒ぐ。リーダーがこうなので、周りの村人たちも姿勢を崩して座り、ゲラゲラ大騒ぎしている。

 洞窟の中でひっそりと品よく暮らしている精霊族からしたら、たしかにこれはうるさいかもしれない。実際、フィーナがやや苦い顔をしている。

 と、そこへ。

「会場はこちらでして?」

 背中から聞こえた涼やかな声に、僕はぞくっとした。騒いでいた獣族の村人も静まり返る。

「あら、もう始まってらっしゃるのね。遅刻して失礼しましたわ」

 エルザ村長の凛とした声が、静かな会場に響いた。

 壁に取り付けられたゲートを越え、精霊族がぞろぞろと入ってくる。獣族たちはまだ絶句していた。ガラス細工のようなきらきらした髪と白く透き通る肌に、口をあんぐりさせていた。

 精霊族たちも、ごちゃっと散らかった宴の席でわちゃわちゃしている獣族たちを見て唖然としていた。

 エルザ村長だけは、そんな驚きも顔に出さずににっこりした。

「わたくしたちも、フィーナとそのご友人の歓迎ティーパーティーがしたいと思っておりましたの。ご招待いただき光栄ですわ」

 丁寧な言葉遣い、柔和な笑顔なのに、どこか皮肉っぽさを感じる。呼んでおいてこの荒れた有様なのかという静かな怒りが秘められている感じすらする。

 だが、獣族たちはそんなことを察するほど繊細ではない。

「おお、新しい参加者って精霊族の奴らだったのか! 景気がいいなー! きれいな嬢ちゃんたちがお見えだぞ!」

 オイゲン村長が吠えて、獣族の村人は再びわあっと盛り上がった。精霊族たちがぎょっと身じろぎする。クラウスさんも少し引いていた。

 でも、ここまでは作戦どおりだ。律儀にやってきた精霊族、そして深く考えないで受け入れる獣族。このまま一緒に楽しく盛り上がれば、両種族の関係は改善する。はずだ。

「あんたが精霊族の村長か? こりゃ美人だなあ」

 オイゲン村長が臆することなくエルザ村長に向かっていく。エルザ村長は笑顔を崩さない。

「ええ。あなたが獣族の村長さんですのね。今日は素敵な宴の席をありがとうございます」

「呼んでねえけどな」

「んん?」

 エルザ村長の眉がぴくりとする。僕はこの緊張感に心臓をどくどくさせていた。

「わたくしの方も、歓迎のお茶やお菓子をお持ちしましたの。どうぞ皆様で召し上がって?」

 エルザ村長が後ろに控えていた精霊族の村人に合図をし、村人たちは持ってきたバスケットを掲げた。オイゲン村長は大声で獣族の村人に向かって叫んだ。

「おめーらー! 追加の食材が来たぞー!」

 獣族たちがウワーッと歓声を上げた。エルザ村長がびくっと肩を竦める。突然の大声に驚いたのだろう。

 しかしびっくりする彼女にお構いなしに、オイゲン村長はテーブルへと誘った。

「さあ食え食え、今日は歓迎会だぞ、宴だぞ」

 獣族の勢いのよさに、精霊族が引っ張られて席につく。

「このまま打ち解けてくれればいいね」

 サラは満足げにニーッと笑っているが、僕はやや不安を感じていた。僕の背後で、クラウスさんが青い顔をしているのだ。

「ちょっと乱暴すぎませんか?」

「えっ? こんなもんじゃない?」

 サラは逆に、精霊族の繊細さにぎょっとしている。

 たくさん用意された席のあちこちから、悲鳴に近い声が次々と上がる。

「昼間からお酒を飲んでるんですか!?」

「宴だと言ったろう! まあ日頃からも昼でも飲んでるけどな」

「これも食え」

「自分のペースで食べます!」

 お叱り、怒号、嘆きだったりと、激しいぶつかり合いが各所で起こっている。僕は口をぽかんとさせて硬直していた。フィーナが口を押さえて目を剥く。チャトは僕の腕にしがみついていた。

「ねえ、これ和解できるの?」

 相手を疎ましく感じて疎遠になっていけば、付き合いがなくなっていく。付き合いがなくなれば相手を理解できなくなり、溝が広がる。理解できない相手とは、ちょっとした綻びから軋轢が生じる恐れがある。

 だから僕は、関係を修復したかった、のに。

「ちまちま飲んでんじゃねえよ精霊族、豪快にいけよ!」

「獣族って本当に下品!」

 懐の広い獣族と、感情を抑制する精霊族、その両方の怒りの声が飛び交う。

 関係を修復したかったはずなのに、僕はむしろ「ちょっとした綻び」を作ってしまったようだ。

「どうしよう……僕、折角企画してもらった歓迎会を台無しに……」

 僕が余計なことをしたせいだ。そもそもが一触即発だったのだ。

 干渉しないことで崩れそうなバランスを保っていた二種族を、敢えて近づけてしまった。そのせいでバランスが崩れた。

 肌に合わない相手だとしても敵視こそはしていなかった、その絶妙な関係を悪い方向に倒してしまったのだ。

 気がつくとサラとクラウスさんも揉めはじめていた。

「クラウス! 獣族が主催なんだからこっちに合わせるように言っておきなさいよ」

「サラの方こそ、なんで精霊族が押しつけを嫌がることを獣族に言っておいてくれなかったんですか?」

 そこへフィーナが慌てて入っていく。

「ああ、そもそも私たちがおかしなこと言ったせいですから……!」

 フィーナは泣きそうだしチャトはぽかんとしてしまっているし、僕も罪悪感で卒倒しそうだった。

 やっぱり、余計なことするんじゃなかった。無関係の僕は口出ししなければよかったのだ。

 頭を抱えて、膝から崩れたときだった。

「いい加減になさい!」

 空気がびりっとするほどの、高く激しい怒声が響いた。

 その一声で、辺り一帯が静まり返る。空気が凍ったみたいだった。カタッと音を立て、ひとりの女性が動く。飴細工のような赤みのある髪をきらりとさせ、エルザ村長が立ち上がった。

「もう耐えきれませんわ……。獣族、あなたたちあまりにもお品がなくてよ」

「ああ……?」

 地底の底から響くような、重低音の声がする。僕は座り込んだ姿勢で、息を殺して震えた。

「じゃあ言わせてもらうけどよ。精霊族のお前らは、なにを気取ってんだか知らねえがいちいち鼻につくんだよ……」

 オイゲン村長だ。

 椅子に深く腰を据えて、エルザ村長を上目遣いに睨んでいる。飢えた肉食獣みたいな目だ。そんな視線を向けられたら僕なら腰を抜かすが、エルザ村長は堂々としている。

「気高く美しくあることのなにが悪いのです? 蛮族には分かりませんか?」

「誰が蛮族だって? 俺らも好きに生きてんだ。お前らに指図されることじゃねえ」

 村長同士が火花を散らしはじめた。騒いでいた他の村人たちも息を呑んで成り行きを見守っている。

「分かった。じゃあこうしようや」

 オイゲン村長が目をギラギラさせた。

「俺とあんたでどっちがまともか、決着つけようじゃねえか。村長として必要なのは、村をマモノから守る強さだ。強い方が村長として正しいことになる」

「異論はありませんわ」

 エルザ村長も、負けじと冷たい目をした。

「では、村を守れない弱い者は……」

「村長の資格がないということだからな。村ごとここから退散する。あんたが勝てば獣族はこの森からいなくなるが、俺が勝てばお前らに撤退してもらう。それでどうだ」

 オイゲン村長は、なんの躊躇もなく言い切った。自分たちの住居まで巻き込まれた村人たちは、獣族精霊族問わずざわっとした。

 それでもエルザ村長は怯まない。

「構いませんわ。必ずや、わたくしは愛する村を守りますわよ」

 また、村人たちがざわつく。嘘だろ、と呟くのが聞こえる。

「マジか……!」

 サラが掠れた声を出し、クラウスさんが色白の顔をもっと青白くする。

 僕は両腕を地面について項垂れた。最悪だ。最悪なことになった。

 自分に関係のないことに首を突っ込んだせいで、イカイの歴史に残る戦争の火種を作ってしまった。最悪なことをしでかしてしまった。

「そんな……それじゃ、エルザが追い出されたら」

 僕の隣でチャトの声がした。

「そしたらフィノの故郷、なくなっちゃうのか?」

 あどけない声が、僕の心臓をどぐんと締め上げた。視界を占める乾いた砂から目を上げる。そうだ、フィーナ。この森の中の精霊族の村は、フィーナが百年ぶりに戻ってきた故郷だったのに。

 顔を上げた先で、フィーナが口を塞いで凍りついていた。

 こんなことになるなんて、僕はなんて要領が悪いのだろう。

 しかし僕がどんなに自分を責めようと、頭に血が上った村長ふたりの間に割り込む勇気などなかった。

 宴の席は闘技場となり、オイゲン村長とエルザ村長が睨み合う。

「きれいな嬢ちゃんだろうがなんだろうが、俺は男女平等主義なんでな。手加減はしない!」

 オイゲン村長がギンと爪を立て、エルザ村長の腕をガッシリ掴んだ。大男のオイゲン村長と華奢な女性であるエルザ村長とでは、体格差ではどう見てもエルザ村長が不利だ。だがそのエルザ村長を掴んだオイゲン村長の手は、みるみるうちにピキピキと凍り出した。

「わたくしは……大切な村を守りますわよ」

 掴まれているエルザ村長の手が僅かに指を動かす度に、氷の層が厚くなっていく。オイゲン村長がチッと舌打ちして手を離す。だが彼が腕をひと振りしただけで、張り付いていた氷は粉々に割れて飛び散った。

 エルザ村長の手のひらが、光の粒を集めはじめた。荒野のカラカラの空気とは違い、森の中の木々の含んだ湿度のためにきれいな氷の礫が形成されていく。

 だがその魔導自体を切断するかのように、オイゲン村長が彼女の手に向かって爪を立てた手で切り込んだ。ピッと血が跳ねる。エルザ村長の白い手首に、一筋の赤い傷ができた。

 エルザ村長が不愉快そうに傷をひと睨みし、オイゲン村長に向き直る。既にオイゲン村長は次の攻撃に出ており、エルザ村長の胸ぐらを掴んだ。エルザ村長は彼に軽々と持ち上げられたが、負けじと手のひらに作った拳大の氷の塊を、ガツンとオイゲン村長の顔面に叩きつけた。

「くっそ……このクソアマ」

 氷で殴られて、彼の頭からつうっと血が垂れた。

 オイゲン村長が牙を剥き出しにして、掴んでいたエルザ村長を大木に向かって放り投げる。エルザ村長が吹き飛んできた方向にいた村人たちは、ざわつきながらしゃがんだり他の村人にしがみついたりして道を開けた。投げ飛ばされたエルザ村長は空中で魔導を操り衝撃を弱めたようだが、大木に背中を打たれて崩れるように木の根っこの上に倒れ込んだ。そんな彼女に、顔を血だらけにしたオイゲン村長が容赦なく突進する。爪で切り込まれる前にと、エルザ村長が顔を上げて手を振り上げる。その軌道に沿って氷の柱ができて、オイゲン村長の手を飲み込もうとする。彼はそれを見抜いたのかやや切り込む角度を変えたが、指先だけはパキッと白く凍った。

 ほんの数秒の間に、目が追いつかないほどの攻撃が交わされている。目が離せなくて、呼吸の仕方も忘れてしまう。

 そんな光景の中でだ。

「おおーっ、すっげえ!」

「村長、いけー!」

 村の存続がかかっているというのに、お酒の入った獣族たちは元気に応援しはじめたのだ。なぜかチャトまで尻尾を振って興奮している。

「いけえ! そこだー!」

「村長ー! ぶち抜けー!」

 いつの間にかサラもぴょんぴょん跳ねて、オイゲン村長にエールを送っているではないか。それを見てクラウスさんが目を丸くする。

「えっ……いや、あの獣族の村長がうちの村長をぶち抜いたら、僕ら住むとこなくなるんですけど」

「知るか、勝った方が強いんだ!」

 サラが獣族持ち前のサッパリした態度で言い切る。これには律儀な精霊族は黙っていなかった。

「エルザ村長! こんな奴らに負けないでください!」

 クラウスさんが珍しく大声を出すと、他の精霊族たちまで触発された。

「そうですわ、応援で負けていたら精霊族の恥です」

「エルザ様ー! 光の魔導で目潰しして差し上げてー!」

 物静かなはずの精霊族が叫び出すと、獣族も更に燃え上がる。

「潰されるなオイゲン! 避けろ!」

「エルザ村長! 少しずつでも傷の治癒を!」

 宴の席はわああっと盛り上がり、スポーツ観戦でもしているみたいな熱気に包まれた。オイゲン村長の爪のスラッシュが、エルザ村長の美しい顔にえげつなく傷をつけた。美を重んじる精霊族が悲鳴を上げる。しかしエルザ村長の美人な顔に傷は勿体ないと思ったのか、獣族までもがギャーッと嘆く。

 エルザ村長が鬼の形相になる。

「貴様……わたくしの顔に!」

「キレるとブッサイクじゃねえか」

 オイゲン村長が見事に失言をかまし、火に油を注いだ。エルザ村長は華奢な手のひらでガボッとオイゲン村長の顔面を掴むと、そのまま手のひらから魔導をメリメリぶち込んだ。

「あつっ! 熱い熱い」

「ぎゃああ! 村長ー!」

 オイゲン村長の苦しむ様に叫ぶ者がいたかと思えば、ゲラゲラ笑う獣族もいる。

「それ面白いな。いいぞ、エルザもっとやれ!」

 スポーツ観戦なんだか子供同士の喧嘩の観戦なんだか、もうわけが分からない。ただ分かるのは、気がついたら村人たちが楽しそうだということだけだ。

 テーブルにあった肉を各々むしゃぶりつき、お酒を飲んで獣族と精霊族が肩を組む。子供たちもキャッキャと笑って手を叩き、獣族と精霊族が向かい合ってお茶しながらどちらが勝つか賭けたりしている。

 オイゲン村長がエルザ村長を背負い投げすると、随所から歓声が沸き起こった。まさかのフィーナまでもがチャトの背中をバシバシ叩いて甲高い声をあげている。

 エルザ村長のカウンターが決まるとクラウスさんが腕を振り上げ、サラが拍手してジャンプして、声援を送る。

 地面にぺたんこに座り込んで絶句しているのは、もはや僕だけだ。僕は激しく弱点を殴り合う村長ふたりを見て、思い出した。

 喧嘩ができるから、お互いの考えを聞くことができる。

 村長同士は互いの持つ特技を嫌というほど叩き込まれ、村の獣族と精霊族たちはその能力を確かめ合いつつ、同じショーを見て興奮している。獣族は精霊族の繊細な反応を楽しみ、精霊族は獣族に釣られて感情が駄々洩れする。

 村長同士の揉み合いは一時は激しさを増したが、途中から両者とも勢力が弱まっていった。オイゲン村長は考えもなしに特攻するせいで体力を浪費し、しなくでいい怪我をしまくって消耗した。エルザ村長はむちゃくちゃに魔導を発動させたために魔力が底をつき、冷凍食品のパッケージの表面みたいな氷をパラパラ出すだけになった。

 ふたりは相手の腕にしがみついて脚を絡めるような格好で、息を切らせて動かなくなった。

「た……タンマ。酒を、いや水でいい」

 オイゲン村長が息をぜいぜいさせて、消えそうな声を絞り出す。エルザ村長も飲み物を催促して細い腕を伸ばす。村人たちは互いに顔を見合わせて、わいわいと騒ぎ合った。

「終わり? これどっちが勝ったの?」

「もうどっちでもいいだろ。ふたりとも変わんねえよ」

 口々に語り合っている彼らには、獣族も精霊族も分け隔てがない。

「面白かったあ」

「まだお肉ありますよー」

 これはもう、どちらかが森を出ていくなんて空気ではない。エルザ村長が掠れた声を切れ切れの息の間で絞る。

「ちょっと……まだ決着ついてませんよ……」

 しかし彼女も、そのうちくたっと肩の力を抜いた。


 *


 その後はもう、獣族も精霊族も関係なく飲めや歌えの底抜け騒ぎとなった。

 獣族と精霊族は、もともとお祭り好きの種族なんだそうだ。お陰で僕らは村を抜けるタイミングを見失い、宴は夜になってもまだ続いていた。

 一時は顔を青くしていたチャトとフィーナも、今は入り混じって大皿の料理を食べている。困ったことに酔っ払った獣族が僕の匂いに反応して食べ物と間違えそうになるが、それさえ躱せば僕もおいしい食事を食べさせてもらっていた。

 少し周りを見てみれば、騒ぎ疲れて眠くなった獣族を精霊族が案内し、精霊族の泉に休みに行ったりもしている。

 明るかった空は、いつの間にか薄暗くなっている。何時間も元気に笑っている村の人々を眺めて、僕は呟いた。

「どうなるかと思ったけど……結局、獣族も精霊族も和解できたみたいでよかった」

 これでまた共同生活するようになるのだろうか。村を自由に行き来できるようになればいいなと思う。

 小さい体でいくらでも食べていたチャトが耳をこちらに向けた。チャトはマイペースにもぐもぐと咀嚼し、飲み込んで、こたえた。

「村長ふたりも……まあ、あれはあれでいっか」

 オイゲン村長とエルザ村長はタイマンの後しばらく伸びて、それからはヤケになってお酒の量で競いはじめた。僕は子供なのでお酒は遠慮したし、大人のお酒の席というのは馴染みがないのだが、それでも分かるくらいふたりとも酔っている。酔っているのに、村人たちが更にお酒を勧めて煽っていた。

 上機嫌のサラが僕の背中をパンッと叩いた。

「あんたトロそうに見えて意外とやるね」

 僕は食べていた肉を吹き出しそうになったが、なんとか飲み込んだ。

「あ、ありがとう」

「いや、そうでもないか。村長がフリースタイルバトルを始めたのも住民が沸いたのも誤算だもんね。やっぱりあんたトロい」

 サラは褒めたのを撤回して笑顔で貶す。

「なにを思ったか余計なことして、村人全員巻き込んでさ。あんなことになって、私ら種族のどっちかが森から追い出されたらどうするつもりだった? 村長が大怪我したら? 責任取れた? 本当、鈍くさいね。あんたの軽率な判断が招いたんだよ」

「あれっ、僕怒られてる?」

 慌てはじめた僕を見て、サラはあははっと軽やかに笑った。

「冗談。誤算だったとはいえ、結果的には獣族と精霊族が交流を取り戻したのは事実だ。それにはお礼を言うよ。ありがと」

 サラのストレートな性格は、話していて清々しい気持ちになれる。サラの言うとおり誤算だったが、僕は達成感を感じていた。

「ところでサラ。ここから先、北の方に人里はある?」

 聞いてみると、サラは黒っぽい耳をぴくんとさせた。

「んー? 知らないな。私、この森の中からあんまり出ないし、遠出しても森周辺の荒野までだし」

 サラは精霊族が持ってきた焼き菓子を手に取って、それから思い出したように付け足した。

「山脈のどっかに鳥族の谷があるって聞いたことあるけど……山脈はむちゃくちゃ広いから具体的な場所は分かんないね。一部の商人しか知らないの」

「鳥族?」

「うん。空に憧れて高山の中の谷に棲むようになった人たち。私も見たことないからどんな見た目なのかは知らない」

 イカイにはまだまだ知らないことがたくさんある。イカイの人たちだって、その全容を把握できていないほどなのだ。

 サラがお菓子を口の前で止めて、つまらなそうに唇を尖らせた。

「もう先のこと考えてるの? もう少しゆっくりしてったら?」

「んー……本当、この森は居心地がいいよ。獣族のこの村も、精霊族の泉も」

 涼しくて、明るくて、人々が楽しく暮らしている。都市とは違う自由な空気感は、伸び伸びできて心地よい。

「でも、ずっとここにいたくなっちゃうからね。それじゃあだめなんだ。僕は先に進まなきゃいけない」

 どんなに心地よくても、魔族に会いに行く目的は変わらない。なんといっても、僕は腕輪をもう一度手に入れてイフに帰りたいのだ。お母さんが、待っているはずだから。

「……急ぐ旅なの?」

 サラが声のトーンを落とす。僕は少し、首を傾げた。

「期限があるものじゃない。でも……先に進みたい」

 ふうん、とサラは鼻を鳴らした。

「分かったよ。ひとまず今夜は、ここで一泊してきな」

 彼女はお酒で潰れた村長ふたりを一瞥した。

「あの人たち、明日の朝にならなきゃ酒が抜けないと思うんだよね」

「うん。出る前に村長には挨拶したいもんね」

 今日は距離的には全然進まなかった。荒野に残っていた廃墟から森までで、一日使ってしまった。

「はあ、なんでなんにもない北になんて行くのか知らないけど、あんたみたいな鈍くさいのが未開の地に踏み込むなんて、聞いただけでも不安だわ」

 サラは手に持った焼き菓子を睨んだ。また悪態をつかれたが生憎否定できず、僕は苦笑いを返した。

 ゆっくりとまばたきし、彼女は言った。

「あんた鈍くさいけど、ふたつの村を繋げようとした意思は立派だったよ。だからきっと、大丈夫だね」

 サラはそう言い残して、丸太の椅子から立ち上がった。

「とりあえず、あんたおいしそうな匂いさせすぎ。寝てる間に噛んじゃうといけないから、精霊族の村で寝た方がいいよ」

「そうするよ」

 今朝もチャトに噛まれたばかりだ。

 その夜は、クラウスさんに相談して精霊族の村に泊めてもらった。


 *


 翌朝、僕たちはクラウスさんに森の北側に連れていってもらった。森の中は朝露がきらきらして、軽やかな鳥の声と羽音がそこかしこから聞こえてくる。クラウスさんは朝の散歩のような慣れた足取りで、僕らをいざなってくれた。

「昨日はありがとうございました。お陰様で、これからは獣族と上手くやっていけそうです」

 クラウスさんは歩きながらも丁寧にお礼を言った。

「僕も、獣族のことを分かった気になっていただけでサラから聞くことを知識として持っているだけでした。目の当たりにして驚いたこともありましたが、それ以上に、友好的で素敵な方々です」

 彼はちょこちょこついてくるチャトに微笑みかけて、彼の頭をぽふぽふと撫でた。チャトは耳を倒して気持ちよさそうに目を細める。

「すっごく楽しかったな! おいしいものがいっぱいで、皆いい奴で」

「獣族精霊族両方から、お土産まで貰っちゃった。ありがとうございました」

 僕はリュックサックの肩ベルトを両手で引っ張った。出かけると挨拶をしにいったら、彼らは僕にお肉やお菓子、飲み物など、いろいろ持たせてくれたのだ。クラウスさんは端正な顔でにっこり微笑んだ。

「いえいえ。楽しい時間を過ごさせてもらったほんのお礼です。昨日は羽目を外してはしゃぎすぎてしまいました」

 そんなやりとりを見て、フィーナが苦笑いした。

「オイゲン村長とエルザ村長も、倒れ込んでましたね」

 そうなのだ。獣族、精霊族の両村長に出かける挨拶をしたところ、ふたりとも昨日の大喧嘩のダメージを引きずっており、その上二日酔いで体を重たそうにしていたのである。

 フィーナはうふふっと嬉しそうに微笑んだ。

「あのおふたりは、あれはあれで喧嘩友達として認め合ったようですね。私の大切な故郷も、これからも安泰のようです。今後も獣族と程よい距離を保ちながら良好な関係でいてくださいね」

 僕は、挨拶に行ったときふたりの村長がそれぞれに言った言葉を思い返した。

 オイゲン村長は、チャトに。

「この村は好きか? 住みたくなったらいつでもおいで」

 エルザ村長は、フィーナに。

「折角帰ってきたんですから、このままこちらに住むとよいですよ」

 僕は、その言葉を聞いた直後から反芻し続けている。

 考えてみたら、いや考えなくても分かることだった。獣族であるチャトにはあの村の空気はぴったりで、きっとすごく体に馴染んだはずだ。生まれたときから識族の都市しか知らないという彼にとっては革命的だったことだろう。フィーナには、精霊族の村は生まれ故郷だ。マモノが凶暴化してあの場所を襲ったりしなければ、彼女はあの場所で暮らしていたはずだった。

 だからチャトもフィーナも、あの森に永住したいと考えたはずだ。

 クラウスさんに導かれ、僕たちは森を抜けた。

 景色がぱっと開ける。辺り一面が水面のような緑の草原で、ところどころに低い木が生えている。青々とした大地の向こうには、東西に何重にも重なる巨大な岩山が霞んでいた。

「あそこに見える岩山が見えますね。あれは火山が連なった山脈です。霧の山脈と呼ばれています」

 クラウスさんが山々を手で示す。僕はその山に目を凝らし、それから地図を開いた。地図上では山脈が大陸を横切る帯となっており、その山脈の向こうが、木々も凍る森だ。

「でっかい山だねえ」

 チャトが背伸びすると、クラウスさんがチャトの目の高さに屈んで遠くを指さした。

「正面より少し東の方に、とりわけ高くなってるところがあるでしょう? あそこは流星の霊峰という名の山なんです。竜族という種族の住処です」

「竜族? なにそれ、聞いたことないよ」

 チャトが目をぱちくりさせた。クラウスさんは頷く。

「百年前に滅んでしまいましたからね。マモノが活発になって、流星の霊峰に棲んでいた竜族たちは、真っ先に住処を破壊されたんだとか」

 草原を風が吹き抜ける。クラウスさんの青灰色の髪がふわりと揺れた。チャトの尻尾をそよそよと風を孕んだ。

「ふうん、そんなのいたんだ。どんな姿してたのかなあ……」

「さあ。あんな近づきにくいところに棲んでましたし、希少でしたから……百年前を知る僕たち精霊族も、お会いしたことはないんです」

 それからクラウスさんは、背筋を伸ばして僕らを見下ろした。

「さて、僕がついていけるのはここまで。この先までご一緒できず申し訳ありません。どうぞお気を付けて」

「はい。クラウスさんも、お元気で」

 フィーナがお辞儀をする。風でスカートがひらりとした。チャトもぴょこっと手を上げて跳ねる。

「クラウス、またね!」

「行ってらっしゃい。くれぐれも怪我はしないように」

 クラウスさんは右手でフィーナを、左手でチャトを撫でて、最後に僕の肩を叩いた。

「よろしく頼みます、ツバサくん」

「……えっと……」

 僕は、歯切れのいい返事ができなかった。

 チャトが手を振りながら、山脈の方へと歩き出す。

「バイバーイ! サラにもよろしくね!」

 フィーナも小さな会釈を繰り返しながら先へ行く。僕はもう一度クラウスさんを見上げ、先へ行ってしまうチャトとフィーナを確かめ、追いかけて、何度もクラウスさんを振り向いた。

「ねえチャト、フィーナ……本当に行くの?」

 僕は追いついたふたりに問いかけた。チャトもフィーナも、怪訝な顔でこちらを向いた。

「なにを今更……」

「どうしたんですか?」

「いや、だってさ涼風の吹く森の、あの村。すごくいいところだったから」

 僕は未だに、村長たちの言葉が頭の中を巡っていた。

「ふたりとも、あそこに残りたいとは思わなかった?」

 チャトにとって、いちばん住みやすい環境。フィーナにとって、懐かしい故郷。それらをここに置き去りにしてまで、僕と一緒に魔族の住処を目指す意味なんてあるのか。

「僕のことはいいから、あの村に棲んだらいいよ。村長もそれぞれ、おいでって言ってたよ」

 しかし、チャトはうーんと唸った。

「いつかね。いつかはあそこに棲みたい」

 そしてにぱっと屈託のない笑顔を向ける。

「でも今は、ツバサの方が面白い」

 その無邪気な返答に、フィーナがふふっと吹き出した。

「右に同じ、です」

 そのとき、僕はようやく分かった気がした。

 僕に手を貸してくれる人、そしてこうして、頼りない僕についてきてくれる人は、損得で動いているのではない。損得で判断していたら僕はとっくに見捨てられている。

 それなら僕には、その思いに応える義務がある。

 僕は立ち止まって、勢いよく来た道を振り向いた。まだ見送ってくれているクラウスさんに向かって、お腹から全力で叫ぶ。

「よろしくっ……頼まれました!」

 風が吹いて、髪が巻き上げられる。クラウスさんが目を丸くしているのが見えた。

「よくしてくださってありがとうございました! 僕、頑張ります! 鈍くさいけど、でも、応えますから!」

 なにが言いたいのか、ちゃんとまとまらなかった。

 それでもクラウスさんは、にっこりと微笑んで僕に手を振った。

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