5 経済都市メリザンド
熱水の岩穴を抜けて蒸し暑さから解放された僕らは、ため息みたいな大きな深呼吸をした。夜風がひんやりと気持ちいい。空には星が浮かんでいた。昼間は桜色の空でも、夜になったらちゃんと暗くなる。夜空の色は同じなんだなあ、なんて僕はぼんやり考えていた。
外はアウレリア側と同じような荒野が広がっていた。ただ、アウレリア側の岩穴の入口よりもこちら側の出口の方が高い位置にあるようで、穴を出たらすぐに緩やかな坂道になっている。
その緩い坂の先には無数の建物が立ち並んで、青い屋根が壮観な景色を生み出していた。
「あれが、メリザンド……」
ようやく、辿り着けそうだ。なんだかどっと疲れが襲ってきて、このまま崩れて眠ってしまいそうだった。
呟いた僕に、黒いローブのおじいさん……ジズ老師は、浅く頷いた。
「お疲れさん。大変だったな」
メリザンドの魔導学園の教授でリズリーさんの恩師である、ジズ老師。
リズリーさんから僕たちが向かうことを伝言鳥で知らされたが、なかなか来ないので痺れを切らしてここまで迎えに来てくれたのだそうだ。
「大丈夫か、特にお前さん。ヘロヘロじゃないか。ほら、飲み物だ」
暑さにやられてふらつく僕に、ジズ老師は銀色の筒を差し出してきた。水筒らしきそれを受け取って、僕はひと口飲ませてもらった。ちょっと甘い、烏龍茶みたいな味がした。
「お前さんがリズリーの言ってた、異世界人か?」
ジズ老師に尋ねられ、僕は頷いた。
「そうです。助けてくださってありがとうございました」
「あの岩穴を抜ければメリザンドまですぐなのに、あそこでくたばっちゃ死んでも死にきれねえらなあ」
彼はカッカッカッと笑い、緩やかな坂を下りはじめた。
「因みに今飲ませた茶は、クロコゲの老廃物茶だ」
「げほっ」
僕は口に含んでいたお茶を吹き出しそうになった。
「老廃物っ……老廃物ってなに!? 具体的になに? 変なもの飲ませないで」
が、ジズ老師はまた豪快に笑って訂正した。
「あっははは。冗談に決まってるだろ! メリザンド特産の、わしのこだわりの茶だわい」
「びっくりさせないでくださいよ……!」
このおじいちゃんはもしかしたら、ちょっといたずら好きなのかもしれない。
メリザンドへと向かう道中、チャトはフィーナからめちゃくちゃ怒られていた。勝手にいなくなったことに加え、不注意でクロコゲを怒らせ、そしてそのせいで九死に一生を味わうはめになったことを、これでもかというくらい叱られていた。僕も叱ろうかと思っていたのだが、フィーナがあまりの剣幕で叱っているので僕の分は自粛しておいた。
チャトは反省しているようで、耳と尻尾をしゅんと下げていた。だが、途中からフィーナに言い返すようになり、尻尾が焦げたショックを必死に訴えていた。しかもそこからヒートアップしてくると、チャトはお腹が空いたと文句を言いはじめ、それにはフィーナも賛同した。ふたりでギャアギャアと言い合いをしているのを聞いて、僕はこのふたりは案外似た者同士なのではないかと思いはじめていた。
僕はというと、もうくたくたで眠たかった。お腹を空かせたチャトが食べ物を見る目で僕を見てくるし、いろいろな意味で疲れた。でも、僕の元いた世界を信じて研究しているというジズ老師に会えたことで、ちょっと興奮してもいた。
「前の世界では中学校に行ってたんです。それで、帰ろうとしたときにこっちの世界に飛ばされて……いきなり噛み付きトカゲに襲われて」
変に饒舌になった僕は、メリザンドへ着くまでだらだらとこれまでの経緯を垂れ流した。ジズ老師は、うんうんと笑いながら聞いてくれた。
チャトとフィーナが揉めたり和解したりを繰り返し、僕が要領を得ない話をしているうちに、 柵に囲まれた都市へと辿り着いた。僕の身長の二倍はある、槍がいくつも並んだような白い柵だ。その一箇所が大きな扉になっていて、兵団員らしき人たちが門番をしている。アウレリアも水に囲まれて、一部に橋が通ってその先に門を構えていた。マモノが街に侵入してこないように、人が通る度に開け閉めするのだろう。
ぎいい、と軋んだ音がして、門が開かれた。その先に広がる景色を見て、僕ははあ、と喉を空気が抜けるだけの間抜けな感嘆を上げた。
ひしめく建物、色とりどりの四角い石を敷かれた道路。もう空には星が浮かんでいるのに、街は人で賑わっている。マモノしかいない荒れた大地をくぐり抜けた後の僕にとって、この光景はとてつもない安心感だった。
チャトも叱られたのなんてすっかり忘れて、街の賑わいに頬を紅潮させていた。
「すっごーい! なんでこんなに賑やかなの? 今日はお祭り?」
「メリザンドは朝も昼も夜も、毎日ずっと元気な都市なんだ」
ジズ老師がニッと笑む。
「アウレリアは歴史上、王族や貴族が住んでいた都市から成り立っているがな。メリザンドは労働者階級が集まる都市だった。その名残で、今でも街の人たちは働き者だ」
「朝から晩までずっとお仕事してるのか?」
チャトが目をぱちぱちさせる。ジズ老師は彼の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「皆、活動時間が違うだけだ。いつも誰かしらが働いて、その間に誰かが休んどる。そのサイクルが上手く回ってるから、常にこの都市は元気に稼働しとるんだ」
人混みの中をはぐれないように、僕はジズ老師の黒いローブを追いかけた。街の人々は皆、生き生きしている。アウレリアと同じく識族が多く、ぱらぱらと獣族と精霊族が混ざっていた。
「メリザンドの労働者は機転が利く。元々知能が高い識族の中でも特に発想力が豊かで、新しいものを作る能力が高いんだ。だから賢者や職人や商人なんかも集まってきて、人が集まるから更に便利になって……と、好循環して豊かになっていった」
ジズ老師が語る。即ち、アウレリアが王族や貴族のために防御を固めた都市だとすると、メリザンドはそれらを支える労働者が育てた都市ということだ。常に新しいものを、便利なものを探求して、これほどの豊かな都市を築いたのだ。そんな街を形成できたのも識族の知恵の結晶である。他種族より繁栄しているから、識族は絶対数が多いのだ。
ジズ老師に案内されて、だだっ広くて緑の蔓延る公園に出た。建物や出店がなくなり、人も少なくなった。ときどき、僕より少し歳上くらいの若いお兄さんやお姉さんが歩いている。なんの広場なのだろう、と思っているうちに僕は目の前に現れた大きな建物にハッとなった。
お城みたいだ。という、陳腐な比喩が真っ先に浮かんだ。白い壁の高い建物が、いくつもの棟をもって聳えている。屋根にパタパタと旗がひらめかせて、夜の広場にどっしりとその腰を据えている。
「ここが魔導学園ですか?」
フィーナがジズ老師に問いかけた。僕はフィーナを振り向き、また巨大な建造物に首をもたげた。広くて、高くて、見上げていると首が痛くなってくる。老師が頷く。
「そうだ。ここにわしの書斎があるから、そこでツバサの腕輪について話したい」
魔導学園。リズリーさんも卒業したのだと言っていた学校だ。ジズ老師は学園の建物の、開放された扉へ僕たちをいざなった。
床には絨毯が敷かれて、長い廊下が続いていた。ときどき学生らしき人とすれ違い、僕たちを物珍しそうに見ていく。
「すごい。こんなに広いんだね」
想像していたよりもずっと大きくて、僕はぽかんとしていた。ジズ老師が自慢げにニヤリとする。
「ここはメインの魔導棟になるが、公務棟やマモノ学棟も、遠くの方には寮もあるからな」
「魔導学園なのに、魔導学以外のお勉強もするのか?」
チャトが聞くと、ジズ老師はこたえた。
「魔導学がメインだが、そのためには法律の勉強が必要だったり、マモノを知らなくちゃいけなかったりするからな。魔導よりも魔道具商人の勉強に移ったりする生徒もおる。だから幅広く、いろんなことを学べるように集約されておるのだ」
「そういえばリズリーさんも言ってた。魔導は武道だって」
僕はリズリーさんが医務室で話していたことを思い出した。精霊族であるフィーナは元から魔導を使うことかでき、反対に獣族のチャトには全く才能がない。ジズ老師は暗い廊下をさくさく歩いていく。
「リズリーも元はあんまり魔力はなかったんだが、才能とやる気はあったからな。わしが鍛えてやって、あれだけ器用になったのだ。お陰であいつもアウレリアで管理局員!」
彼はリズリーさんを育て上げたことを満足げに語った。
「因みに、ランとフォルクもここの生徒だったんだぞ。ふたりとも、マモノ学を選考してたがな」
「へえ、駆除班のふたりもここを卒業してるんですね。あ、じゃああのふたりも魔導を使えるんですか?」
僕はとジズ老師を見上げた。老師は皺の多い顔に更に皺を寄せた。
「うむ……だがランは『対マモノの戦力として学ぶ』と言ってやる気はあったのに、魔力がからっきし。フォルクは絶対伸びるのに『マモノの勉強だけでいいや』とやる気がなかった。結局ふたりとも、魔力を育てるのはやめてマモノ学に専念しておったよ」
「そういえば、駆除班のふたりが魔導使ってるとこは、見たことないな」
でも、あのふたりはマモノ学に特化したからこそ、ああして駆除班で活躍しているのだろう。
広い校舎を見て目をいちばんきらきらさせているのはフィーナだった。静かだと思ったら、開いている扉を覗いてみたり、外で魔導の訓練をしている学生を窓から眺めたりしている。
「私、精霊族なので生まれつき少しなら魔導を使えるんです。でもあんまり強い魔力はなくって、しかも使えるのは光系か温度系、あとはちょっと風を起こせるだけで……」
フィーナは両手を広げ、自身の細い指を見つめた。
「クロコゲが暴走をはじめたときも、なにもできませんでした。ジズ老師がフロア全体を瞬間冷却してくださったのを見て、『冷却魔導も魔力が強ければこんなことができるんだ!』って感動しました」
それから彼女は、興味津々にジズ老師に問いかけた。
「私も、ジズ老師に弟子入りしたらもっと強くなれますか?」
「そうだなあ、精霊族は土台がしっかりしてるからな。お前さんの努力次第でどこまでも伸びるぞ。うちの生徒にも精霊族がおるが、煙火魔導や雷撃魔導を使える者もおるぞ」
ジズ老師の返答にフィーナは更に顔を輝かせた。
「すごい! 私ももっといろんなことがしたい。いつかここに入学したいです!」
魔導ってすごい。なんでもできちゃうんだ。僕は口の中で呟いた。リズリーさんの話を思い出すと、たしか魔導とは空気中の波動を魔力で操作することだった。
部分的に細胞を活性化させて再生時間を早め、怪我を治す。光を屈折させたり、空気の温度を変えられる。フィーナにはできないらしいが、今の話によると炎や雷も操れるようだ。
そうなってくると、時空を歪めることも可能かもしれない。時空を操る魔導が存在すれば、僕が元の世界に帰る方法が見つかるかも。
「さて、ツバサにはいろいろと聞かせてもらいたいが……」
ジズ老師は僕たちより少し前を歩き、そしてある扉の前で手を広げた。
「先に飯でも食え!」
ばんっと開け放たれた先を見て、僕らはわあっと歓声を上げた。
そこは食堂だった。大広間に長いテーブルが五つほど縦に並べられ、奥には見たことのないこの世界の料理が大皿にたっぷり盛られている。お夕食時を少し過ぎた頃だったのか、学生たちはあまり数はおらずちらほら座っていて、各々食事をしていた。
「好きなものを好きなだけ持ってきて食べるがいいぞ」
ジズ老師がしわしわの顔でニッと笑う。お腹を空かせていたチャトが解き放たれた。
「やったー! ご飯だ! あっ、コケケ鳥のタマゴのお菓子もある!」
「あっ、こら! すみませんジズ老師。いただきます!」
フィーナはジズ老師にお礼を言ってからチャトを追いかけた。
そういえば、僕もお腹が空いた。見たことがない料理ばかりだったが、目の前のご馳走に僕も吸い寄せられた。
*
お腹いっぱい食べさせてもらった後、僕らはジズ老師の書斎に案内された。扉が開いた直後、見えた書斎の光景に息を呑んだ。
壁一面本棚で囲まれ、中はびっしり本が詰まっている。部屋の奥には机があるが、それも本で埋め尽くされて書き物をするスペースが失われているほどだ。本棚に収まりきらなかった本が床にも積まれ、ものすごい圧迫感である。その上掃除を怠っているのか、かなり埃っぽい。
ジズ老師は慣れた足取りでごちゃついた床を歩き、机の横の窓を開けた。外から見える木に伝言鳥がたくさんとまっている。 ジズ老師はその中の一羽を、机に置いてあった餌の木の実で呼び寄せた。パタタッと部屋に入ってきた青い伝言鳥を指にとめて、彼は僕の方に向かってその手を伸ばす。
「アウレリアのリズリーに連絡してやりなさい」
「そうだった! 着いたら連絡しないと心配しちゃう。伝言鳥ってどうやって言葉を教えるの?」
伝言鳥が僕の手に移ってきた。この鳥の扱い方を知らない僕に、フィーナが丁寧に教えてくれた。
「まず、相手を教えます。鳥によって個体差があるけど、アウレリアの政府管理局のリズリーさん、と言えば見つけ出してくれます」
「賢いんだなあ」
「そしたら要件を伝えて、送信主であるツバサさんの名前を教えて、それから外に放します。簡単ですよ」
「鳥さん、アウレリア政府管理局のリズリーさんに伝えて」
僕はフィーナから聞いたとおりに、伝言鳥に向かって吹き込んだ。
「リズリーさん、ツバサです。チャトとフィーナと一緒にメリザンドに到着しました。ちょっと死にかけたけどジズ老師に助けてもらって、元気です。ラン班長にもよろしくお伝えください。えっと、フォルク副班長も無事に帰りましたか? あと、それと荷車を付けた運び鳥が逃げてしまいました。ごめんなさい。この運び鳥って……」
しかし一度に喋った量が多かったのか、伝言鳥は餌を咥えて勝手に窓から飛んでいってしまった。
「あっ! まだ全部言えてないのに」
慌てて窓際まで追いかけたが、鳥は戻ってくる様子もなく遠くへ飛んでいく。
「それだけ伝わりゃ大丈夫だろ」
ジズ老師がケラケラ笑う。僕は青い鳥が星空に向かって飛ぶのを呆然と見ていた。フォルク副班長のところへ来た緑の伝言鳥……リズリーさんのドリーくんは、内容の復唱までしたというのに、今の青い伝言鳥はちゃんと覚えたかすら危うい。これが政府で特別に扱っている鳥と野良の鳥との差なのだろう。鳥が人の言葉を運んでいるだけでも充分すごいのだから高望みかもしれないが、やや不安が残った。
「連絡手段って大事なのに、鳥を使うなんて不安定すぎるよ」
僕は鳥の姿が見えなくなった空に呟いた。情報社会で生きていた僕にとっては不便すぎる。ジズ老師が机の前の椅子に腰を下ろした。
「そうだなあ、時空系の魔導がもう少し使い易ければ鳥のマモノなんぞ使わなくても瞬間で声の送り合いができるのにな」
「そうですよね。そうだ、魔導で行きたいところにパッと瞬間移動できたら、運び鳥を使わなくても好きなだけ都市を往復できますよね」
「しかしな、時間や空間を歪める魔導というのはかなりの魔力を消耗するんだ。波動の形状も扱いにくい。治癒魔導は時間を早める魔導の初歩的なものだが、それですら上手くできない者は多い」
「そうなんですか?」
魔法のような力を使う人たちがいる世界なのに連絡手段が魔導ではないのは、そういうことだったのか。ジズ老師は椅子に深く腰掛け、難しい顔をした。
「ああ。時空の魔導は難易度がべらぼうに高い。だからこそ……ツバサの腕輪の持つ力は、計り知れない魔力があるんだ」
彼の言葉にハッとする。
時空の魔導はただでさえ難しいといわれるのに、別の世界と繋げたほどの魔導なんて、ものすごい力を持つのだと分かる。
いくらジズ老師が教授であるほどの魔導使いだったとしても、同じ世界線ですら伝言鳥でやりとりをするくらいだ、瞬間移動のような力はない。当然僕を元の世界へ軽々と帰すことも不可能というわけだ。
「ここまでの道中の間で、ツバサの世界の話は聞かせてもらった。お前さんのいた世界は、空の色が青かったんじゃないか?」
ジズ老師の真剣な眼差しが僕に刺さる。僕は、窓の桟に手を乗せて彼の目を見ていた。
「そうです……空は青かった」
「空が青いの? 変なの」
桜色の空しか知らないチャトが不思議そうに首を傾げていた。ジズ老師が机に山積みにしていた本を、一冊手に取った。
「やはりそうか。わしが集めた文献と一致する部分が数多くあったことから、お前さんの話は嘘じゃないと思う。大昔の文献で、誰が見たとかは全く分からないんだが、その世界の記録がたしかに存在する」
国語辞書みたいな厚さの本を捲り、彼は開いたページをこちらに向けた。
「文献の中では、青い空の世界を『イフ』と呼び、こちらの赤い空の世界を『イカイ』と呼ぶ」
僕の知らない文字で、本の中に文字が刻まれている。知らない文字なのに、それが「イフ」と「イカイ」について綴られているのだと、なぜかスムーズに頭に流れ込んできた。
「じゃあ、ツバサはイフってとこから来たんだな」
チャトが興味深そうに本を覗き込む。
僕がいた当たり前の世界が「イフ」、このゲームの中みたいな世界が「イカイ」。僕はごちゃごちゃしたイカイの文字を見つめて、妙に冷静になっていた。ジズ老師がちらっとチャトの方を見た。
「文献によると、イフの人間は獣族にとっておいしそうな匂いがするらしい」
「えっ、そうなんですか」
僕もぎょっとチャトを振り向く。チャトも目を見開いていた。
「納得した! おいしそうな匂いさせてると思ったら!」
「ふむ。またひとつ文献と辻褄が合った。やはりツバサが別の世界……イフから来たと考えて間違いなさそうだな」
ジズ老師が腕を組む。僕はまた本に視線を戻した。
「文献があるなら、過去にイフとイカイが繋がった事例があるんでしょうか?」
「そうなるな。とはいえこの文献も少なくとも百年以上前のもののようだ。当時を知っている精霊の年寄りに聞いても、詳細は明らかにならない。故に、世間的にはこの文献自体が創作物だとされていたんだが……」
ジズ老師が本と僕の間で目線を行き来させた。
「わしはイフの存在を信じて、研究を続けて四十年以上経つ。ついにイフの者と思しきツバサに出会えたのだ」
そして彼は、開いた本とは別に他の本を手に取り、重たそうにページを開いた。
「だが手放しで喜べることではない。当然ツバサは元の世界に帰りたいのだし、そのふたつの世界を繋ぐ魔導というのは想像を絶するものだからな」
彼が捲る本を、フィーナが覗き込む。
「そうですよね。ツバサさんがイカイに導かれたという腕輪は、一体なんなんでしょうか?」
「心当たりの魔道具がひとつあってな……」
そしてジズ老師は、辿り着いたページを僕らが見ていた本の上に重ねて置いた。
「魔道具とは、魔力を助長したり魔力を貯めておいたり、魔力がないものでも魔導に近い能力を発揮したりできる道具のことだ。人間の『気』に反応するものだから人間であれば使えるが、物によっては特定の人間しか使えないものもある」
ジズ老師はそう前置きし、本を指さす。
「イフの研究をしているうちに見つけた、こんな記述があった」
しわくちゃの指が示すページに、僕はチャトとフィーナと一緒に顔を寄せた。
「見た目は透けた鉱石のような腕輪で、身につけると腕輪が光の羽根を開き、時空間を歪める魔導が発動する。そんな桁外れの魔力が凝縮された魔道具の存在が記されておる」
ジズ老師が文字を読み上げる。
「ふたつの異なる世界を行き来する、大翼を授ける魔道具。それは繋がる先であるイフの言葉でこう名付けられた」
薄汚れたページには文字が敷き詰められて、その真ん中には絵が埋め込まれている。
「“アナザー・ウィング”」
それは、僕が学校で拾ったものにそっくりな腕輪の絵だった。
学校で拾って、好奇心で腕を通したあのとき。腕輪はまるで鳥が羽根を広げたみたいに、僕を光で包み込んだ。
「その強大すぎる魔力の反動で、イフとイカイの言語が混合状態になって、自分ではイフの言葉で話しているつもりでも無意識のうちにイカイの言葉を使い、聞き取り、読めるようになるそうだ」
ジズ老師が低く唸る。
多分、いや、間違いない。僕が迂闊に触れたあの腕輪は、この魔道具「アナザー・ウィング」だ。
「これです。絶対これ。絶対そうだ!」
僕は徐々に熱くなって、ジズ老師の机にバンッと両手をついた。ジズ老師がそうか、と低い声で言った。
「だとしたら、その腕輪はものすごく珍しいものだ。恐ろしいほど強大な魔力が込められている。ツバサが森でこれをなくしたとき、これの価値が分かるものが落ちていたのを拾って持ち去ったとも考えられるな」
僕はジズ老師に激しく問うた。
「この魔道具はどうしたら手に入るの? どこかで売ってるんですか?」
「待て待て、興奮するな。さっきも言ったとおり時空間を歪めるほどの魔力なんて常識じゃ考えられん。それほどの力を持った魔道具なんてその辺で買えるわけがない」
ジズ老師は皺だらけの手をひらひらさせた。僕は一旦ぐっと言葉を呑んだ。老師は続ける。
「簡単に作られるものではない。わしはもう何十年と魔導を鍛え魔道具の制作に力を貸しているが、こんなものを作るなんて想像もつかん」
「でも……この腕輪はたしかに存在はするんですよね。実際にツバサさんはたしかに、その力でこのイカイに来たんですから」
フィーナがおずおずと口を挟んだ。
「常識的に存在自体不可能なものが、たしかに存在していた……どういうことなんでしょうか?」
矛盾点を呈する彼女に、ジズ老師は深いまばたきをした。
「不可能と言っても、『少なくとも我々の常識では』という話だ」
そして彼は椅子の上で屈み、床に放ってあった本を拾い上げた。バサバサと無造作に本を開き、目印の栞があるページを僕らに見せる。
本の中には、真っ黒な影のようなものが描かれていた。くしゃくしゃに塗り潰されているだけに見えたが、それは黒いマントで全身を包み、フードを目深に被った人らしき姿だった。
「資料の中では、アナザー・ウィングを生み出したのはこいつらではないか、と書かれておる」
その飲み込まれるような真っ黒な姿に、僕の目は奪われた。
「これは……?」
「魔族。魔力の概念そのものを、人の形にしたような者たちだ」
そんな種族がいるのか。無言でその黒い姿を眺めていると、不気味なようなそんなことないような、初めて感じるような不思議な感情が生まれた。
「でも、こんな人たち都市で見たことないです」
僕はアウレリアとメリザンド、両方の街中の風景を思い浮かべた。いるのは半分以上が識族で、その残りが獣族と精霊族で、その他の種族なんて見たことがない。
「魔族は木々も凍る森のずっと奥の、暗闇の中で暮らしている。我々と交わりを持たない希少種族だ」
ジズ老師が本の挿絵の黒い人を、指で示した。
「アナザー・ウィングは識族、獣族、精霊族……つまり我々みたいな種族にとっては、まずもって有り得ないほど強大な魔力だ。しかし、この辺境の地でひっそり暮らす魔族なら違うということだな」
魔力の概念そのものを人の形にしたような種族である、魔族。それならば、高名な魔導の教授であるジズ老師よりも更に上回る魔力を持っていそうだ。
フィーナが挿絵をじっくりと見つめている。
「聞いたことはあります。魔族という人たちがいて、彼らは深い森の奥で独特の生活を営んでると」
「うむ。フィーナのように魔導を使う者であれば、存在は知っているよな。習得するために魔族が書いた本を読んで勉強したり、魔族が作った魔道具を持ったりするものだ」
「この人たちの常識外れの魔力をもってすれば、時空を揺るがす魔導具の腕輪も作れるんですね」
「資料の中でも推論の域を出ないから、断言はできないがな。可能性があるとすれば、現存する種族の中では彼らが最有力候補だということだろう」
ジズ老師の言葉を、僕は噛みしめるように聞いていた。
腕輪を作るほどの魔力があってもおけしくないのは、魔族だけ。
「……彼らに頼んだら、腕輪を再現して作ってもらえるんでしょうか」
僕は慎重に尋ねた。
「断言できなくても、少しでも可能性があるのなら……魔族に会ってみたいです」
しかしジズ老師は眉を寄せて考えた。
「魔族の里へ行くのは、恐ろしく過酷だぞ。直接魔族に魔導を習おうとする者もいるが……実際に魔族と対面した者など殆どいない。わしも若い頃行こうとしたことがあるが、周りに止められて行くのを断念した」
「あんまりにも深いとこに住んでるから、魔族に会いにいく人たちが皆、遭難しちゃうんだって」
チャトが無邪気に付け足す。
僕はそれを聞いてぞくりとした。森のずっと奥、光の当たらない場所というのだから、険しい道程になりそうなのが想像できる。間違いなく、過酷だ。それなのに腕輪を作ることができるかどうかは断定できない。リスクの高さに対して可能性が割に合わないのだ。考えただけで気が引ける。
チャトとフィーナが僕の顔を窺う。ジズ老師も、腕を組んで僕をじっと見据えていた。
僕は、意を決して言った。
「でも……それがいちばん可能性があるんなら、僕は魔族に会いたい」
少しでも、あの腕輪に繋がる方へ進まなくてはいけない。
腹を括った僕を椅子から見上げ、ジズ老師はニヤリとした。
「ふむ。正気か? と言いたくなるが、同時にそのこたえを待っていたというのも本音だ」
「よく言ったぞツバサ! 偉いぞ、かっこいいぞ!」
チャトが飛びついてきて、僕の手を両手で握った。
「俺も行く! 一緒に魔族に会いに行く!」
「えっ!? だめだよ、ここまで来てくれただけでも充分だよ。チャトはアウレリアに帰って」
僕は首を横に振ったが、チャトは僕の手を離そうとしない。
「魔族が住んでるのって森でしょ? 俺は森由来の獣族だぞ。森なら俺に任せてよ」
チャトの謎の自信にちょっと心が揺らぐ。僕は都市の人間が使っているという、熱水の岩穴ですら苦労したのだ。それよりも大変な道程になるのだから、ひとりぼっちで行くのは怖い。
「僕もひとりで行くよりはチャトがいてくれた方が心強いけど……巻き込みたくないよ」
まだ小さいチャトを、そんな危険な目にあわせるわけにはいかない。
フィーナがチャトの肩を引っ張る。
「だめですよ。危ないです」
「なんでよー!」
「チャトだけじゃだめです! 私も行きますよ!」
力強く宣言されて、僕もチャトも黙った。フィーナはキッと目を上げて続けた。
「ツバサさんも、無茶なこと言わないでください。ツバサさんひとりで遭難者が出るようなところに行けるわけないでしょう? ただでさえあなたはイフの人で、この世界は見知らぬ場所なのに」
「そうだけど……ふたりは関係ないのに、巻き込んじゃうのは……」
僕はもごもごと反論した。が、フィーナは譲らない。
「だからって見過ごせないですよ。私の魔導では不充分なのは承知ですが、ないよりはいいでしょ?」
もちろんだ。魔導というずるい力を持っている人がいてくれたら、すごく心強い。
ジズ老師に相談しようかと目線を送った。彼とは目が合ったし、僕が揺れているのも分かったはずだが、ジズ老師は無言でピクリともせずに見守っていた。
そこへ、窓辺に羽音が飛んできた。
「ツバサ様!」
窓辺に緑色の伝言鳥が止まっている。僕はチャトに手を掴まれたまま、チャトは掴んだまま、フィーナはチャトの肩に手を乗せたまま、各々が鳥の方を見た。
「ツバサ様。リズリー様カラ、ゴ伝言デス」
「ドリーくんだ」
僕は鳥の固有名詞を口にし、ドリーくんはリズリーさんの声で話しはじめた。
「『ツバサくん、伝言鳥が来たわ。無事にメリザンドに着いたようでよかった。途中でフォルクを取り上げちゃってごめんね。フォルクもこっちに無傷で戻ってきたわ』」
フォルク副班長も、アウレリアに戻られたようだ。ほっとしているうちに、ドリーくんの声がフォルク副班長の声に切り替わる。
「『お疲れー。君たちとはぐれた運び鳥も、俺が偶然見つけて連れて帰ってきたから安心してね』」
「よかった、あの運び鳥も無事なんだね」
僕は荷車を引いてくれた運び鳥に思いを馳せた。熱水で混乱して逃げてしまったが、フォルク副班長が保護してくれたようで助かった。伝言する声が再び入れ替わる。
「『お前ら、ジズのジジイには気をつけな!』」
ラン班長だ。
「『あのクソジジイはいい歳してふざけていたずらするからな!』『ラン、ツバサくんたちが老師と一緒にいたら本人に聞かれちゃうわよ』」
リズリーさんの突っ込みまでしっかり伝言されてきた。リズリーさんの予想どおり僕らと一緒にいたジズ老師は、ニーッといたずらっぽく笑って聞いていた。
「『まあいい、こっちでもお前が落とした腕輪がどっかで見つかんないか、注意して見とく。とにかくジジイには気をつけろよ』以上デス」
ドリーくんが話し終えた。僕はしばらく、ドリーくんのつぶらな瞳を眺めていた。出会った人たちが心配してくれて、支えてくれている。それが僕の背中を押してくれる。
ひとまず、僕はドリーくんに返信を頼んだ。
「リズリーさんに伝えて。僕はこれから、魔族の森へ行きます。ジズ老師に聞いたら、あの腕輪はやっぱりふたつの世界を繋ぐ魔道具で、それを作りそうなのは魔族だって」
それから、やる気に満ちた表情をこちらに向けるふたりに目配せした。
「チャトとフィーナも一緒に行きます」
彼らは得体の知れない僕と、一緒に行くと決めてくれたのだ。こんなに嬉しいことはない。
ジズ老師が満足そうに微笑んでいる。それぞれ腹を決めた僕たちは、ジズ老師から聞いたアナザー・ウィングの詳細も含めて言付けて、ドリーくんをアウレリアに向けて飛ばした。
「魔族の里まで行くとなると、結構な日数がかかるぞ」
ジズ老師が僕らを見渡した。僕はドリーくんを見送っていた空からジズ老師を振り向く。
「そんなに遠いんですか?」
フォルク副班長から地図を貰っていたことを思い出し、背負っていたリュックサックから引っ張り出した。が、見事にぐちゃぐちゃになっている。
「うわ! 熱水の岩穴で転んだときに濡れちゃったんだ」
水が染み込んで張り付いている地図にがっかりしていると、ジズ老師がスッと右手の手のひらをこちらに向けた。地図の周りがほうっと温かくなって、張り付いていた紙面がはらりと開く。
「魔導で修復したぞ。完全には戻せはしないがな」
「ありがとうございます」
捨てるしかないかと思われた地図がきれいに乾いた。少し紙質が歪んだし、中の図や文字も多少掠れているものの、ちゃんと読める。
改めて見ると、この世界の土地は荒野とそれを呑むように広がる森、それからいくつもの小高い山で埋めつくされるような地形をしていた。地図はひとつの大陸のみを示していて、周りは海で囲まれている。西の端っこに小さな島が描かれているが、海はその島以外は白く塗り潰されている。
ジズ老師の本の上に地図を重ねると、チャトとフィーナも横から覗き込んだ。ジズ老師が皺の寄った指で地図の南の方を示す。
「まず、ここがメリザンドだ」
目を引きつける岩山の傍に、青で示された大きな都市が地形を象られている。
「それから北へ」
ジズ老師の指がメリザンドから上の方へと地図をなぞっていく。
「アウレリアからこっちに来るまでの道に似た、荒野がしばらく続く。北に行くに連れて都市から遠ざかるから、マモノに破壊された街の残骸がそのままになっとるような地域もある」
そのまま北上し、森にぶち当たり、それを抜けて次は岩山に差し掛かる。それも、いくつも連なった山脈だ。
「この岩山は熱水の岩穴みたいに人間の通り道として整備されている場所ではない」
「じゃあ、完全な自然の道を登って越えるってことですね」
僕は少し眉を寄せた。連なる岩山を越えたら、次は大陸の北側の淵を埋め尽くすような森に入った。
「ここが木々も凍る森。この広大な森のどこかに、魔族の里がある」
「どの辺りか、分からないんですか?」
「地図には記されてないな。なぜなら魔族は、他種族との関わりをなるべく避けるために、こうして自ら隔離された場所に住みついた種族だからな」
ジズ老師がちらと僕の顔をうかがう。僕は変な汗が出はじめていた。
つまりだ。マモノに支配されて人間が寄り付かなくなったような荒野を抜けて、森をひとつくぐり、岩の山脈を越えて、やっと木々も凍る森に着く。更にその広大な森の中から、魔族の住む場所を探さなくてはならない。
苦い顔をする僕に、ジズ老師が呆れ顔をする。
「だから言ったろ、過酷だぞって」
どうしたものか。なんとかこの行程を通らずに魔族とコンタクトを取る方法はないだろうか。そんなずるい考えが巡りはじめたときだった。
「うっわー! すげえ! こっちの方なんて行く人いないよ。わくわくするね」
チャトが声を高くした。僕はえっとチャトの顔を見る。彼は目をきらきらさせて、尻尾を振っていた。なぜそんなに楽しそうなのか、僕はちょっと戸惑った。
「わくわく……なんてしてる余裕ないと思うよ? よく分かんないマモノがたくさんいるだろうし、都市の人間が捨てた不毛の大地だよ?」
「そうだね、誰も知らない場所を見つけられるかもしれないね!」
チャトは、バカが付くほどポジティブだ。フィーナはというと、チャトとは違ってその道の厳しさに眉を顰めていた。しかし彼女は頑固である。
「一度決めたことです。どんなに大変であろうと、魔族の里までお供しましょう」
チャトとフィーナが心を決めているのに、僕がいちばん逃げ腰だった。やめようか、なんて言い出すこともできず、僕は黙って頷いた。
ジズ老師が深刻な顔になる。
「そうか……行くか。わしもできるかぎりサポートするが、なにせわしの立場ではこの学園を長く離れられん。当然ついていってやれない」
僕も額を摘んでため息をついた。
「そうですよね。言うのは簡単だけど実行するとなるとなにからすればいいのか……。都市を何日も離れるわけだから、食糧をたくさん用意しないといけないですよね」
「あと、野宿になるだろうから毛布なんかも必要だな。着替えもいるだろうし、火を起こせるものもいる。それに山脈は標高が高くなれば当然寒いし、木々も凍る森も、こんな名前だから相当寒いはずだ。防寒具は持った方がいい」
ジズ老師に言われ、僕は更に頭が痛くなった。アウレリアで買い物をしたときは、リズリーさんが経費で落としてくれたからよかったものの、これからはどうやって資金を工面したらいいのだろう。ジズ老師がじっと僕のリュックサックを見つめた。
「なあツバサ、お前のその背中の荷物はなにが入ってんだ?」
「この世界……イカイで役に立たないものばかりです」
僕はリュックサックの肩ベルトを片方腕から外し、お腹の方に鞄を寄せた。ファスナーを開けて中を見てみる。くしゃくしゃに詰めた学校の制服とジャージ、あとは教科書、ノート、ペンケース。学校に行く当たり前の日常で使うものばかりで、学校で禁止されていたから財布すら入っていない。仮に入っていたところで、イフとイカイとでは通貨が違うから意味がないのだが。
せめて校則を破ってお菓子でも持っていればよかった……僕はそんなことを思っていたのに、ジズ老師の反応は違った。
「なっ……なんだ、これは!」
背もたれに寄りかかっていた体をバッと起こして、リュックサックに飛びつく。教科書を引き出して開いては目を見張る。
「これはイフの文献か!?」
「教科書です」
「イフの言葉だ。イフの物質で作られている。なんてことだ……!」
熱水の染みがついた数学と歴史の教科書を興味津々に捲っては、ペンケースに驚愕する。物凄い食いつきで、逆に僕はきょとんとした。
「あっ、そっか。イカイでは珍しいものですよね」
「珍しいなんてもんじゃない! 貴重な資料だ。歴史的発見だ」
僕の生徒手帳なんかをまじまじと見つめ、ジズ老師が興奮気味に言う。
「これは……なんの紋章だ?」
「うちの学校、築綴中学の校章ですよ」
ジズ老師は興奮気味に僕を見上げた。
「ツバサよ、これらのどれかひとつでもいいから、わしに譲ってくれないか。こんな貴重なサンプルは手に入らない」
「教科書とかペンなんかでいいの?」
「研究のために必要だ。少しでも譲ってくれたら、研究費としてお前さんに旅の資金援助もする!」
「教科書とかペンなんかで!?」
繰り返し僕は声が大きくなった。
教科書はまあ、なくなってしまうと困るがなんとかなる。ペンなんかは文具店で百円くらいで買ったものだ。
こんなもので援助してもらうのは不釣り合いな気がするが、ジズ老師が本気で顔を赤くしているところを見るとこれは本当に貴重なものなのだろう。考えてみたら存在自体が否定されているイフという世界の物質なのだから、貴重に決まっている。
「どうぞ、好きなのを受け取ってください。なんなら全部でもいいです」
僕はリュックサックごと、ジズ老師に突き出した。彼は玩具を貰った子供みたいに目を輝かせ、中を探る。
「本当か……本当にいいのか!」
「もちろんです! こんなものでよければ!」
僕は彼に教科書を見せながら、これは数式が載っているものだとか、イフの歴史の資料だとか説明し、選んでもらった。まさか学習道具が役に立つなんて、と驚きは隠せなかった。
「これらがあれば、イフの存在を証明できるかもしれん。わしが長年信じてきた、イフの存在を……!」
ジズ老師は教科書三冊とシャープペンと消しゴムだけで、僕の遠出の資金援助を約束してくれたのだった。
*
その夜は、学園の寮の空いている部屋に泊めてもらった。明日になったらメリザンドの街で食糧などの必要なものを買い集める。
用意してもらった部屋は、四畳半くらいの小さなホテルの一室みたいな部屋だった。寝台の横にちょっとした机があり、僕はそこでノートを開いた。
数学のノートの空いていたページに、今日分かったことをまとめる。あの腕輪はアナザー・ウィングという名の魔道具である可能性が高いこと。その腕輪を作ることができそうなのは、魔族という都市から離れて暮らす種族であること。そして魔族に会うためには、地図に記された険しい道を越えなくてはならないこと。
まさかこんなに大変なことになるとは。噛み付きトカゲにぶん回されて落としてしまったことを酷く後悔した。不可抗力とはいえ、あのとき落としさえしなければ。
コンコン、と窓が鳴った。机の横にある窓を見ると、外にドリーくんがとまっている。どうやらまたアウレリアからこちらに飛んできたらしい。僕は窓を開けてドリーくんを指に乗せた。
「どうしたの?」
「リズリー様カラ、ゴ伝言デス」
ドリーくんの体温がじんわり指に伝わってくる。
「『ツバサくん。例の腕輪……アナザー・ウィングの件、承知したわ。あなたが本当に異世界の人だっただなんて……疑ってごめん。今も信じられないけど、ジズ老師が言うんなら信じるわ』」
リズリーさんの優しい声が再生される。
「『魔族に会いに行くのはものすごく大変な道程になると思うけど、私もできることがあればサポートする。なにか新しいことが分かったら、こっちからも連絡するわ』」
穏やかな声は、聞いているだけでなんとなく泣きそうになった。
「『都市から離れたところについては、私や駆除班、兵団も把握しきれてないの。マモノは本来向こうから人間に近づくことはないから大丈夫だとは思う。でももしかしたら、未知のマモノがいるかもしれない。本当はこっちから兵団員を護衛に送りたいところだけど、流石に管理局はそこまで面倒見てくれなくって……』」
僕は机に置いた開きっぱなしのノートを一瞥した。魔族の森までの、長い道程。都市に住む人たちも再生を諦めた土地だ。
考えただけでもお腹が気持ち悪くなった。アナザー・ウィングという魔道具の存在を確認したときは、気持ちが昂って威勢のいいことを言ってしまったが……。
「不安だなあ……」
ドリーくんに向かって吐いた弱音は、夜の窓辺で静かに消えた。
*
「ジズ老師、お世話になりました」
翌日のお昼、僕たちはメリザンドを発った。早起きして朝からいろんな買い物をして、お腹いっぱいご飯を食べさせてもらい、全ての準備を整えた。
「いや、運び鳥の一羽もつけてやれなくて申し訳ない」
ジズ老師はちょっとむっすりしながら、僕たちを見送ってくれた。
「都市から遠く離れる場合、運び鳥を返却できる確証がないと貸してくれないそうだ」
「そうですよね……」
僕もちょっと、しゅんとした。アウレリアから岩穴まで一気に来ることができたのは、荒野を走ってくれる運び鳥がいたからだった。しかし今回は運び鳥なしで、更に遠くを目指さなくてはならない。
「ツバサはイフの人間であり、希少な存在なのだから安全は確保すべきだ。費用はわしが持つから鳥を貸してくれと頼んだんだがな。鳥牧場のやつらめ……ツバサの価値が分からんとは」
「仕方ないですよ、まだイフの存在はフィクションだと思われてるんだし……」
運び鳥がいなくて、歩く場所は都市から離れていて、マモノもいる。ひょっとしたら、命の危険だってあるかもしれない。昨日は勢いで「魔族に会いたい」と叫んでしまったが、今はもう弱気になりつつある。ジズ老師が眉間を押さえた。
「全く……魔族に会いに行った者どもは続々と遭難してるってのに。向かうのが子供なんだと伝えても『じゃあ行かせるな』と言うばかりで鳥を貸そうとしない」
老師の言葉に僕は更に表情を曇らせた。遭難者が続出し、牧場の鳥飼いも止めるようなところへ、僕は行こうとしている。多分僕は今、乗り物酔いしたみたいな顔色になっているだろう。
全ての準備を整えた、と言ったが、整っていないものがひとつある。僕の覚悟がまだうやむやなままなのだ。そんな僕とは裏腹に、チャトとフィーナはもう出かける気満々である。
「行こうよツバサ! 明るいうちにいっぱい進も!」
「運び鳥がいなくてもなんとかなりますよ。疲れたら休めばいいんですから」
「う、うん……そうだね」
びびっているのを面持ちで察したのか、ジズ老師はぽんと僕の肩を叩いた。
「なあに、実際は殆どのマモノが本来人間を避ける習性がある。そんな顔をするな。さっきのは、ちょっとお前さんを脅かした」
僕はガバッと顔を上げた。
「わざと怖がらせたんですか!?」
「すごい顔しとったから、意地悪したくなったんだよ。すまんすまん」
忘れかけていたが、ジズ老師はいたずら好きなおじいちゃんでラン班長からも注意されていたのだった。ここへきて仕掛けてきたジズ老師は、今度は自信ありげに言い切った。
「伝言鳥はどこにでもいる。なにかあったとしても、わし宛に救助を要請してくれれば、兵団を動かして死ぬ気で捜してやる」
心強い言葉をもらって、僕はなんだかふふっと笑えてきた。
「ありがとうございます。それなら大丈夫ですね」
リュックサックの中は、一週間分の食糧と毛布。少しの着替えと、火起こし用の燃料も、温かい上着とマフラー、手袋、耳当ても持った。チャトとフィーナも肩掛け鞄を用意して、それぞれが同じような中身を揃えた。
あとは僕が、腹を決めるだけだ。
「行ってきます!」
僕はフォルク副班長から貰っていた地図を手に、ジズ老師に頭を下げた。ジズ老師は僕の頭をくしゃっと撫でた。
「おお、行ってこい!」
大丈夫。きっと大丈夫だ。ジズ老師の手のひらから力強さを感じ取って、僕は拳を握りしめた。
僕たちは、メリザンドの北側の門から荒野へと旅立った。
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