4 熱水の岩穴
「これだったら、ツバサくんでも持てるんじゃないかしら」
リズリーさんが僕に差し出したのは、片手で持てるくらいの刃物だった。台所の包丁よりちょっと長いくらいの短剣である。
柄だけを顕にしてすっぽり包んでいる鞘を外すと、銀色の刃がスラリと姿を現した。
「ダガーナイフよ。旅商人の往来を補佐してる、商業課に頼んで支給してもらったの」
リズリーさんは柔らかく笑った。
森クラゲと出会ったとき、僕はせいぜいハサミでしか噛み付けなかった。当然力不足である。ハサミは刃こぼれしてしまった。
それを聞いていたリズリーさんは、護身用にと僕にひとつ武器を持たせてくれたのだ。
軽くて持ちやすいダガーナイフを、僕はありがたく受け取った。
「ありがとうございます。大事に使います」
「使わずに済むことを祈るわ」
それからリズリーさんは、隣にいたフォルク副班長に目配せをした。
「頼んだわよ」
「はーい」
フォルク副班長は、間延びした返事でこたえた。
メリザンドへの道中は、駆除班のふたりのどちらかひとりが護衛してくれれば充分とのことだった。そこでラン班長はアウレリアに残って、フォルク副班長が僕らについてきてくれることになった。
僕たちはアウレリアの国境、水路に架かった橋まで、リズリーさんに見送ってもらった。橋の袂には荷台を引いている大きな鳥がいた。
「うわ、なにこれ」
褐色の羽根に黒い模様のある、首の長い鳥だ。大きなくちばしのある顔から太い脚までの高さは僕の身長と同じくらいある。フィーナがその鳥のくちばしを撫でた。
「これは運び鳥というマモノです。人間に育てられているマモノなので、安全ですよ」
荷台を引いているということは、人間のお手伝いをしているということだ。伝言鳥と同じく、人の生活に寄り添うインフラのマモノなのだろう。リズリーさんが鳥の背中をポンポンした。
「ダガーと同じく、商業課に頼んで手配したわ。この荷車に乗って行きなさい」
「なにからなにまで、ありがとうございます」
僕は深々と頭を下げた。チャトとフィーナがリズリーさんを慕う理由が分かる。この人に出会えてよかったと、心から思った。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
リズリーさんは僕の頭をくしゃくしゃっと撫でて、送り出してくれた。
*
運び鳥がトトトトッと駆け足で進んでいく。僕らはその後ろの荷台に乗って、メリザンドへと向かった。根っこが張っているせいで凹凸の激しい森の中では、荷台がぼこぼこと揺れた。
「すごい、速い速い」
チャトが興奮して尻尾をぶんぶん振っている。荷台の上を動き回ろうとする彼を、フィーナが止める。
「危ないから座りなさい」
尻尾を引っ掴まれて、チャトはギャアッと叫んでしゃがみ込んだ。
「運び鳥って、力持ちですね」
僕は荷台の壁になっている板を両手で掴んで、揺れに耐えていた。フォルク副班長が鳥を一瞥する。
「底なしの馬力なんていわれてる鳥だよ。だから噛まれたり蹴られたりすると最悪は死ぬんだけど、大人しいマモノだから大丈夫」
恐ろしい情報がそっと織り交ぜられて、僕は少し身を縮めた。人を乗せて荷車を引くような怪力の鳥だ、怒らせたら危ないのもうなずける。
森のマモノたちがカサカサと逃げ出していく。大きな鳥が結構なスピードで駆け抜けてくるのだから、小さなマモノたちも警戒するのだ。上を見ていたら森クラゲらしき木屑の塊があったが、それもこちらに触手を伸ばしてくる気配はなかった。
すごい、運び鳥に荷車を引いてもらえば速い上にマモノが近づいてこなくて安全だ。これなら無事にメリザンドに行けそうな気がする。
あっという間に森を抜けた。木々が減って、ぱあっと視界が開ける。目の前に広がる景色に、僕は息を呑んだ。
辺りは一面の荒野だった。ぽつりぽつりと木や岩がある以外、まっさらな大地である。真正面には岩山が聳え、左を向けば地平線が見え、右を向けば遠い海の水平線がある。テレビで放送していた、ドキュメンタリー番組を思い出す。アフリカのサバンナを思わせる、広大な景色だ。
ときどき、遠くで砂煙が立つ。なにかマモノがいるようだ。目を凝らせば鹿みたいなマモノが群れを成して走っていたり、大きめの岩に身を寄せる小動物のようなマモノがいたり、まさに野生の大地といった風景である。
「かつてはアウレリアの隣町として、この辺にも人間の居住地域があったんだよ」
フォルク副班長が僕に語りかけた。
「でももう跡形もなくなってるな。瓦礫ひとつ残ってない」
「こんなにまっさらになっちゃうんですか?」
尋ねてみると、フォルク副班長は頷いた。
「人が集まるアウレリアが近いから、マモノたちも攻め込みやすいように瓦礫を少しずつ撤去したんだろうね。巣作りの材料に持ち帰るマモノもいれば、瓦礫を食べるマモノもいる。百年かけて、こうして更地になったんだ」
「それじゃ、アウレリアみたいな都市が近くにない場所なら、まだ街の残骸が残ってるところもあるんですか?」
「そうだね。こちらも把握しきれていないけど」
フォルク副班長は景色を見渡した。
「残骸どころか、広い大陸のどこかには三都市以外にも人が残って自営してる地域がある。獣族の集落の一部や精霊族の洞穴は、少しだけ人が残って暮らしてる」
「そういえば、フィーナも言ってたね。移民してきた異種族の中には、再びアウレリアを出ていった人もいたって」
医務室で聞いた話を思い出す。フィーナはチャトを取り押さえながら反応した。
「はい。危険な決断だと思いますけど、やる人はやるんですよね」
識族が提供してくれる便利で安全な暮らしに甘えるか、命懸けで故郷を取り返しに行くか。その二択で、一部の頑固な人たちが都市を出たのだろう。僕が同じ選択を迫られたとしたら、間違いなく都市に甘える方を選ぶ。
「おっ、見て見て。あそこに種フワフワの大群がいるよ」
フォルク副班長が子供みたいに荷車から身を乗り出した。彼が見ている方に、僕も目を向ける。白い犬みたいな毛足の長いマモノがたくさん集まっているのが見えた。
「あれね、毛に植物の種子をくっつけて野山を駆け巡るんだ。お陰であちこちに種を回して、そこらじゅうで花咲いちゃうよ」
「そんなかわいいマモノもいるんですね」
毛に植物の種を付けて運ぶだけのマモノなら、人を襲ったりしそうにない。凶暴なマモノばかりではない、と改めて感じる。
「フォルク副班長って、なんで駆除班に入ったんですか?」
なんとなく聞いてみると、彼は種フワフワの群れからこちらに向き直った。
「それがさ、酷い話なんだよ。俺はリズリー先輩みたいに役所の仕事を希望してたんだけど、人事側の手違いでこっちに配属されちゃったんだ」
「そんなことってあるんですか?」
「俺の同期に、狙撃の名手で兵団員希望のファルカって名前の奴がいてね。スペルが似てる上に生年月日も一緒だったせいで混同されちゃってさ。俺とそいつで、配属が逆になっちゃったんだ」
「そんなことってあるんですか?」
驚きのあまり、二回も同じ聞き方をしてしまった。
「人事の仕事の雑さは定評があったからね……不服ではあったけど、諦めてそのままなんだ。なんだかんだで俺はたまたまマモノが好きでマモノ学の勉強はしてたし、兵団員としての動きもできるようにもなった。ファルカも事務仕事に馴染んだ。人間、置かれた状況に順応するのかもね」
フォルク副班長は、ははっと軽やかに笑った。
「それどころかファルカは、うちの班長を怖がってて『駆除班行かなくてよかった』とまで言ってるんだよ。腹立つよね。俺はお前のせいでその怖い班長の下にいるってのに」
僕も苦笑いした。
「あはは……でも、ラン班長って実はそんなに怖い人じゃないですよね」
「え? そう? 俺は班長怖いよ」
フォルク副班長がびっくりするので、僕はちょっと言い直した。
「えっと、怖くないって言ったら嘘になるんですけど……ちょっと立ち振る舞いに気迫があるだけで、根は優しい人なのかなって」
森の中で、ラン班長と話した記憶が蘇る。獣族、精霊族、そして識族の、それぞれの長所と短所を認めるように話していた。彼女と話していて僕は、多角的な視野で他人を認められる人なんだろうと感じていた。
それにあの人は、マモノに襲われかけた僕のために、躊躇いなく盾になった。
フォルク副班長は次第にニヤニヤと頬を緩ませていった。
「まあねえ、班長は態度は悪いけど冷徹無慈悲ではないかもね。といっても、あれが上司だと溜まったもんじゃないけどね……」
副班長に関しては、ラン班長の優しさを知っている上で、それでも体感させられる彼女の厳つさに手を焼いているようだった。
平たい荒野をタタタタと運び鳥が走り抜ける。マモノの遠吠えが聞こえ、鳥の鳴き声がする。乾いた風が頬を掠めていく。
「班長といえばさ。ツバサくん、森クラゲの件でよく班長の命令を無視できたね」
フォルク副班長にさらっと言われ、僕はうっと身をよじった。ラン班長が僕を庇って森クラゲに縛られたとき、彼女は僕に「ここから離れろ」と指示した。それなのに、僕はその指示に背いて森クラゲにハサミを突き立てた。僕が気まずそうな顔をしたのに対し、フォルク副班長はニコニコと笑って首を横に振った。
「違うよ、責めてるんじゃない。あの鬼のような班長に逆らって、得体の知れないマモノに突撃した勇気に驚いたんだ。勇敢というより、無謀な感じがして」
彼は探るように、声のトーンを落とした。
「それまでの君のイメージと違った。なにか思うことがあったのかな?」
穏やかな声色の問いに、僕は口ごもった。チャトが興味深げにこちらを見ている。フィーナもゆっくりとまばたきをして、僕の返事を待っていた。
僕はしばし自分の膝を見つめた。荷車が揺れる。少し考えて、やがて僕は深い呼吸とともに切り出した。
「ラン班長は僕に、『ここから離れてフォルク副班長を呼んでこい』と言いました。それに僕が尻込みしてたら、『合流できなくてもいいから、お前は逃げろ』と言い直したんです」
僕はあのとき、ラン班長に最悪の覚悟をさせてしまったのだ。助けが来なければ身動きが取れない状態でひとりで応戦しなくてはならない。あの人のことだ。勝てない覚悟もしたに違いない。
「そのとき僕は、突然思い出したんです。すごく幼い頃の記憶」
運び鳥の足が固まった土を蹴る、軽やかな音がする。砂の混じった風が髪を巻き上げた。
「知らない女の子が、汚れた服を着て立ってるんです。髪はぐちゃぐちゃで、顔には痣があった。すごく痩せてました。僕は子供ながらに、その子を見て危険な感じがした。この子はなにか、酷い目に遭ってるって、分かったんです」
フォルク副班長が黙って僕の話を聞いている。僕はたどたどしく、言葉を探しながら話した。
「僕はその子に、話しかけようとしました。でも僕もまだ幼くて、どうしてあげたらいいか分からなかった。もしかしたら、自分も怖い目に遭うかもしれないと本能的に察知して、関わりたくなかったのかもしれない」
あの少女の瞳を思い出す。まるでとっくに死んでいるかのような、光のない瞳だった。
『痛かったら、助けてくれるの?』
そうだ、あのとき僕は。
『できないでしょ?』
そう言われて、反論できなかった。
自分はなにもできないのだと、思い知ったのだ。見ず知らずといえど目の前で女の子がボロボロで、明らかに衰弱しているのを見ても、どうしてあげることもできない。
そして、なにもできないと悟った僕は。
「なにも、しなかったんです」
お節介も、大きなお世話も、なにもしなかった。
僕は彼女に突き放されて、素直に身を引いた。彼女を、見なかったことにした。
「その後、その女の子がどうなったかは知らない。僕も忘れてました。でもラン班長に『逃げろ』って指示されて、急にその女の子を思い出したんです。それが今になって、猛烈な罪悪感になって……」
自分は死ぬかもしれないけれど、お前はどうせなにもできないのだから逃げろ。
そういう趣旨の指示をしたラン班長と、あの女の子が重なったのかもしれない。だから僕は、あのまま自分だけ離れられなかった。
「結果的に、ラン班長には怒られちゃいましたけど」
たまたまチャトが僕の匂いを辿ってきて、フォルク副班長がそれを追跡してくれたから助かったものの、本当だったらあれではふたりとも助からなかっただろう。
「そっかあ。反射的に、『もう後悔はしたくない』と思ったのかもね」
フォルク副班長は、僕の気持ちを分かってくれたようだった。
あの真夏の公園にいた、痣だらけの女の子。彼女のことは、もうすっかり忘れて久しかった。だけれど思い返してみれば、あれは僕の性格を形成するターニングポイントだったのかもしれない。自分の非力さを唐突に突きつけられ、妙に納得してしまった。だから僕は、自分がからかわれてもいじめられても、反抗しようとしないのだ。
あの子になにもしてあげなかったのと、同じように。
僕自身が追い詰められても、僕自身を助けようと思えないのだ。
遠くに見えていた岩山が迫ってくるにつれ、タ、タ、と運び鳥の足音が減速してきた。徐々にゆっくりになり、やがて岩山の手前で完全に止まった。
「行き止まり? ……いや、リズリーさんは岩山を越えた先にメリザンドがあるって言ってた」
僕は荷車から岩肌を見上げた。なかなか急な斜面が、高く構えている。
「ええと、ここから少し東かな。洞穴の入口があるはずだよ」
フォルク副班長がごそごそと、上着の中を探った。中からずるりと畳んだ紙を出し、広げた。
持っているのは地図のようだ。僕もそれを覗き込む。
地図によると、岩山を越えてからメリザンドまではさほど距離がないようだった。アウレリアからこの岩山までの距離の方が長い。
「この岩山って、中を通れるんですね」
てっきり登るものだと思っていた僕は、地図を見ながら言った。フォルク副班長は地図が示す岩山に指を当てた。
「まだこの辺りにも街があった頃から、アウレリアとメリザンドを行き来する人のためにトンネルを作ってあったんだ。『熱水の岩穴』と呼ばれてる。今でも、国境を行き来する商人なんかはその道を使ってる。洞窟は中が狭くて、大きなマモノが入ってこられないから、比較的安全だし」
「そっか。そうじゃないとこんな山、越えるの大変ですもんね」
「登って越えることもできるよ。岩山を迂回して平地だけを進む手段もある」
しかし地図を見ただけでも分かるくらい、山の標高は高く、迂回するには幅が大きすぎる。
それに、岩山には噛み付きトカゲの巣があると聞いている。かといって山を迂回して草原を行けば、広いところを闊歩するいろんな種類のマモノがいることは想像に難くない。
それならば、人間のために掘って貫通させたという洞窟を通るのがいちばんなのは明白だ。
フォルク副班長が運び鳥に指示を出し、洞窟の入口の方へと誘導しようとした、そのときだった。
「フォルク様! フォルク様!」
パタタタと軽い羽音がして、甲高い声が降ってきた。僕らは荷台から宙を見上げ、そこを飛んでいた緑色の小鳥に気がついた。
「あれ? ドリーくんじゃないか。どうしたの」
フォルク副班長が人差し指を立てて横に向ける。緑色の小鳥は、彼のその指に止まった。
「フォルク様! ゴ伝言デス!」
どこかで見たと思ったら、この鳥はリズリーさんの肩にとまっていた鳥だ。メリザンドにいるジズ老師の元へ飛んで戻ってきた、伝言鳥である。
フォルク副班長が小鳥を目線の高さに上げた。
「この子はリズリー先輩の専用の伝言鳥で、ドリーくんって名前なんだ。どうしたの? 俺になにか伝言?」
彼がそう尋ねた瞬間だ。突然、ドリーくんの声が変わった。
「『フォルク! 今すぐ帰ってこい。ガキ共の護衛をしてる場合じゃないぞ!』」
「わっ、班長!?」
フォルク副班長が首を竦めた。僕も思わず隣にいたチャトに張り付いた。その怒鳴り声は、びっくりするほどラン班長にそっくりだったのだ。そして今度は急に、鳥の声が柔らかくなる。
「『ごめんねフォルク。都市に大きなマモノが三体も近づいてきて、森の辺りで怪我人が出たのよ。兵団にも援護を要請したんだけど、ここはやっぱり駆除班の出番だって』」
これはリズリーさんの声だ。
「『ツバサくん、チャトくんとフィーナちゃんも。あなたたちは、アウレリアには戻らずに真っ直ぐメリザンドへ行くのよ。不安かもしれないけど、フォルクだけこっちに返してね』」
穏やかな声は僕ら宛てにも発された。それから一転、再びラン班長の声に戻る。
「『どうせ遅いだろうから、運び鳥を一羽そっちに迎えに行かせる。フォルク、すぐに帰ってこい。急がないとぶっ飛ばす!』」
どうやらラン班長とリズリーさん、ふたりで伝言鳥に吹き込んだらしい。
フォルク副班長はしばらく絶句していたが、やがてじわじわ不服そうに眉を寄せた。
「チッ……なんなんだよ、あっち行けっつったり戻ってこいっつったり。班長がそんな横暴な態度取ってるから、駆除班の待遇が悪くなるんだよ」
小声で悪態をつき、彼は憎たらしそうにドリーくんを睨んだ。
「分かりました。早急にアウレリアに帰還します。……と返事をしておいて」
フォルク副班長に吹き込まれ、ドリーくんはくりんと首を傾げた。
「『班長がそんな横暴な態度取ってるから、駆除班の待遇が悪くなるんだよ。分かりました。早急にアウレリアに帰還します』オ伝エシマス。ラン様! リズリー様!」
復唱されて、フォルク副班長は慌てだした。
「違う、最初のは言わなくていいんだよ! やめてくれよ」
「ラン様! リズリー様!」
ドリーくんは伝言をまともに修正できたかどうか謎のまま、パッと飛び立ってアウレリアの方へと戻っていった。フォルク副班長がはあ、と大きなため息をついた。僕はそんな彼におずおずと声をかけた。
「あの、大丈夫ですか?」
「ごめんねツバサくん。事情が変わった。急に帰らなくちゃいけなくなったよ」
「そうみたいですね……」
僕は彼に同情しつつ、戸惑いながら運び鳥の後ろ頭に目をやった。
「ラン班長とリズリーさんは僕らには『メリザンドへ向かえ』って言ってましたけど、僕たちもアウレリアに一度戻って出直した方がいいのかな」
運び鳥の荷車はひとつしかない。フォルク副班長がアウレリアに戻らなくてはいけないのなら、この荷車で来た道を戻るのが速い。だがフォルク副班長は首を縦には振らなかった。
「班長がこっちに運び鳥を送ってくれるっていうから、それと合流して帰るよ。折角ここまで来たんだ、君たちはメリザンドへ向かって」
チャトが不満そうに荷車の壁を尻尾で叩いた。
「えー、じゃあここでお別れなの?」
「そうなるね。ごめんな、うちの班長が鬼だったばかりに……」
それからフォルク副班長は、僕の方に向き直った。手に持っていた地図を、ずいっとこちらに差し出してくる。
「これを抜ければメリザンドはすぐだから迷わないだろうけど、一応この地図を渡しておくね。熱水の岩穴は、人間の通り道にするために掘られた人工的な洞窟だ。だから道はそれなりに整備されてるし、なにより一本道だ。迷わずに抜けられるはず」
僕は彼から渡される地図に手を伸ばして、止めた。受け取ってしまったら、ここから先へはもう一緒に来てくれない。それを確定させる儀式のような気持ちになった。
「ここを抜ければメリザンドは目と鼻の先だからね」
宥めるような声色で副班長が言う。僕は思い切って、地図を両手で受け取った。
「ここまでありがとうございました。お気を付けて」
「ごめんね。無事についたら、メリザンドからこっちに伝言鳥を飛ばして報告してね」
そう言って、フォルク副班長は荷車から飛び降りた。
*
副班長は生身で荒野を駆け出して行った。ラン班長が手配した別の運び鳥と合流するまで、徒歩で距離を縮めていくのだという。
仮にも兵団員で、それも駆除班でありマモノの扱いには慣れているとはいえ、この荒野を単身で駆け抜けていく後ろ姿はなんとも不憫だった。
「なんかフォルク副班長って、飄々としてるように見えて相当苦労性だよね」
僕は運び鳥の荷車に揺られて呟いた。フィーナが眉間を押さえる。
「貧乏くじを引き続けている方でしたね」
「手違いで違う仕事に配属されるわ班長は怖いわ、僕に付き合わされた挙句半端なところで帰還だもんね」
そんな人だから、あんな風に物腰の柔らかい人になれるのかもしれない。僕は妙に納得した。
岩穴の入口を探して、荷車は岩山に沿って走っていた。メリザンド側へと続く、岩山を貫通したトンネルの入口がどこかにあるはずなのだ。
岩肌に沿ってしばらく東に走ると、岩山の一部が崩れている場所を見つけた。岩の壁に穴が空いていて、入口になっている。穴の高さは二メートルくらいで、横幅はその倍くらいある。これなら、荷車に乗ったまま入ることができそうだ。
「ここから入るんだね」
チャトが荷車から身を乗り出して、それから首を傾げた。
「ん? なんか……空気が湿ってる?」
「ああ、そうなんです。この洞窟は湧き水が通ってるんです。そっか、チャトは初めて来たんですね」
運び鳥に洞窟に入るよう促しながら、フィーナが言った。チャトが興味深そうに尻尾をぱたぱたさせた。
「うん。俺、アウレリアの傍の薬草の森より外に出たことないもん」
運び鳥が岩の穴を潜ると、荷車もカタカタと洞窟にいざなわれた。明かりのない岩の中に吸い込まれた直後、頬がむわっと熱くなった。僕は思わず苦悶の声を出した。
「う、暑い……」
汗が噴き出すような蒸し暑さが、僕らを包み込んだのだ。じっとりと湿度が高くて、肌がべとつく。しかも洞窟の中には一切の光源がなく、入口から入り込む僅かな自然光以外、照らすものがない。
「暑いし真っ暗だよ。なんにも見えない」
チャトの声はするが、どこにいるのか全く見えなかった。
「昔は松明があったんですけど、今は管理する人がいないからなくなってしまったんですね」
フィーナの声とともに、辺りがほうっと明るくなった。途端に、暗闇に沈んでいた周囲が浮かび上がる。狭い岩肌に囲まれた道は、一本の通路が通っていた。その両サイドにはたっぷりと集まった湧き水が池を作っており、ほわほわと白い湯気を上げている。
フィーナの方を振り向くと、片手を頬の高さに上げて止めている。僕はこの明かりが、フィーナを中心に広がっていることに気づいた。
「すごい。これも魔導?」
「外の光の分子を集めておいたんです。それを屈折させて、分散させる魔導です」
ふわふわとした柔らかな光に、フィーナの横顔が照らされている。見とれてしまうくらいきれいだ。
「暑くてムシムシするね」
チャトが耳をくたっと垂らす。フィーナが手の角度を変えると、周りを埋め尽くしていた湯気が更にふわふわと光を孕んだ。地に張った湧き水がきらっと星を宿す。
「自然の湧き水が地下熱で温められて、熱いお湯になってるんです。落ちたら火傷してしまうかもしれません。気をつけてくださいね」
湯気の中の小さな水滴の粒子が、魔導の光を乱反射する。
拡散する光の中を見渡すと、大きな通路こそ一本道だが、ところどころに細い横道があるのが見えた。僕がそれを見ているのに気づき、フィーナが横道のひとつを明るく照らした。
「この岩穴に住んでるマモノたちが掘り広げたんでしょうね」
「こんな暗くて蒸し暑い穴ぐらに住むマモノもいるんだね」
「そうですねえ……そういうマモノは大抵、光に弱いので私の魔導に驚いて引っ込んでると思います」
フィーナがそう言ったときだった。突然、湯気の立つ湧き水がパシャ、と揺れた。そちらを振り向くと、なにか岩のようなものがぷかぷか、熱水の中から頭を出してこちらに向かってくる。大きさはラグビーボールくらいだろうか。それを見たチャトが、あっと声を上げた。
「クロコゲだ! 図鑑で見たことある!」
「クロコゲ?」
岩石のようななにかはチャプチャプと近づいてきて、水面から更に顔を覗かせた。フィーナの当てる光の中で浮かび上がったそれを見て、僕は思わず感嘆した。
「わあ、かわいい!」
コロンとした真っ黒な顔に、三角の小さな突起がふたつ、頭から突き出している。光を反射して光るふたつの目はまん丸くて、その顔はまるで耳の小さな子猫のようである。
「あれ、クロコゲっていうマモノなの?」
「うん。よく見たらあそこにたくさんいるね」
チャトが指さす方を見ると、岩の壁に詰め寄って湧き水に浸かっているクロコゲがたくさん顔を出していた。黒猫が大勢で温泉に入っているかのように見える。クロコゲたちは全員で光る目をこちらに向けている。自分たちの棲家に現れた僕たちを、警戒しているようだ。
湯の中を進んでこちらに向かってきたのは、その中の一匹である。多分、僕らが何者なのか偵察に来たのだ。それがパチャッと飛沫を上げ、陸地に上がってきたときだった。
「カアアー!」
突然、荷車を引く運び鳥が大声を張り上げた。
「えっ、なに!?」
僕はびくっと肩を跳ね上げた。運び鳥が頭を振って鳴き叫ぶ。
「アアー!」
体のわりに小さい翼と太い脚をバタバタさせて、運び鳥は暴れだした。繋がれている荷車もガタガタ揺れる。フィーナが高い声で叫んだ。
「いけない、熱水が運び鳥の脚に跳ねたみたい。熱くて驚いてる!」
先程までは一言も鳴かなかった大人しい運び鳥が、パニックを起こして荒れ狂う。
「ガアーッ」
大声が洞窟の中を反響し、わんわん跳ね返って音が増幅して、その声に縮こまっていたクロコゲたちが驚いてバッと散り散りになる。運び鳥は自分の声が響いていることにも驚いて、余計に体を揺すって跳ね回った。荷車が傾く。チャトが荷台から放り出されて、バシャッと水面が割れる音が響いた。
「わあっ! あっ、熱っ!」
チャトがお湯の中に落ちたのだ。運び鳥は暴れ回り、ついに自分で通路から足を踏み外し、熱水の中に落ちた。
「ギャアア!」
荷車はひっくり返り、僕も熱水に叩きつけられた。
「うわっ熱っ!」
四十度は越えるであろう熱水が肌を焼き付ける。熱いというよりは痛い。慌てて立ち上がるも、熱水はふくらはぎの真ん中あたりまでの深さがある。熱くて片足を上げ、もう片足を上げとぴょんぴょんして、僕はわたわたと通路に上がろうとした。だが、いつの間にか目の前が真っ暗で、どちらに進めば陸地なのか分からない。あれ? どっちだ? ここはどこだ? 熱い、苦しい。湯気で息ができない。頭がぐちゃぐちゃになっていく。
荷車がひっくり返ったのだ。フィーナももちろん振り落とされ、そのせいで魔導に集中が欠けて周囲を照らしていた光が消えてしまったのだろう。暗くて視界が悪い中、運び鳥の喚きとバチャバチャ跳ねる水音、チャトの声が響き渡る。
「あっつい! やったなー!」
「きゃあっ! 熱い! チャト、ツバサさん! どこ!?」
フィーナもパニックに陥ったのか、どこからか悲鳴が聞こえる。ここだよ、と叫ぼうとしたとき、足元がジュッと焦げ付く感じがした。
「熱っ」
熱したフライパンが触れたみたいな、火傷するような焦熱だ。お陰で足を跳ね上げて、バランスを崩して僕はまた熱水の中に尻餅をついた。
阿鼻叫喚の状況下で僕は、必死に頭を回転させた。落ち着け、なんとかしないと。暗がりに満ちた周りを見渡して、僕は数メートル先に夕焼け色の光の塊を見つけた。その周りがぼやっと明るく照らされているのが見える。僕は徐々に冷静になってきた。あれは、この岩穴の入口だ。
そうだ、一旦あの入口に戻ろう。入口の方向へ向かっていけば、自然と熱水から陸地に上がることもできる。バシャバシャと足を高く上げて熱水から這い上がったとき、僕は入口から逃げ出していく運び鳥の姿を目撃した。
「クワアア!」
混乱状態の運び鳥は、僕らを置いて夕日の見える外へと飛び出していく。背中には壊れた荷車の残骸をぶら下げ、ガラガラと引きずっていた。
「鳥さん! 待って!」
追いかけようとしたが、やっと熱水から上がった体は濡れて重く、じっくり火傷したらしい脚はヒリヒリして力が抜けた。陸地に上がったはいいが、腰に力が入らず立ち上がることができない。
鳥の喚き声が遠のいて、反響を繰り返していた洞窟の中はしんと静まり返った。嵐のあとの静寂というのだろうか。急に、なんの音も聞こえなくなった。
「……チャト? フィーナ……どこ?」
僕はそっと、沈黙を破った。しかし、反応はなかった。
「チャト! フィーナ! 返事して!」
今度は大声で叫んでみた。呼んでから、耳を済ませる。向こうも僕を呼んでいるかもしれない。しかし、自分の声が岩肌を跳ね返ってくるばかりで、ふたりの返事はなかった。
チャトもフィーナも、どこか先へ進んでしまったのだろうか。なんてことだ、こんな暗い中ではぐれてしまうなんて。
この岩穴は、抜けるための道は一本道のはずだ。僕がいる通路から脇道に逸れず進めば、メリザンド側へと抜けることができる。しかし、暗くて足元が全く見えない。通路がどちらに向かって伸びているのか、どちらに行ったら熱水に落ち、マモノが堀ったフェイクの道に入ってしまうのか、全く分からない。
この世界に来てから、ひとりぼっちで取り残されたのは最初の噛み付きトカゲのとき以来だ。不安が押し寄せて、息ができなくなる。運び鳥もいなくなってしまったし、どうしたらいいのだろう。
僕は濡れた髪をふるふると振って、もう一度ふたりの名前を呼んだ。
「チャト、フィーナ!」
返事はない。僕は力の抜けた脚を奮い立たせ、よろっとその場に立ち上がった。つま先で少し先を探り、慎重に一歩を踏み出す。ここで座り込んでいたって、合流できない。
ゴツゴツきた溶岩みたいな岩の道を、すり足で進む。探りに出したつま先が、コツッとなにかに触れた。
「あちっ」
靴を通しても分かるほどの、高い熱。熱水で濡れたはずのつま先が瞬時に乾いて、あろうことか足先がポッと燃えはじめた。
「うわあ! 火が……!」
その火に照らされて見えたのは、反射するふたつの白い目だった。どうも僕は、陸地に上がっていたクロコゲを蹴ってしまったようだ。
このままでは足が燃えるので、火の光を頼りに湧き水を探し熱水のプールに足を突っ込む。水温こそ高いが、お陰で火は消えた。焦げ臭い足を引き抜いて陸地に戻してから、僕はふと気がついた。
「クロコゲ……君たちはもしかして、めちゃくちゃ発熱してるの?」
クロコゲがいた辺りに向かって、恐る恐る指を伸ばした。固いものにちょんっと触れると、咄嗟に引っ込めるほど熱い。
先程熱水に落ちたとき、足に触れたあの熱を思い出した。湯の熱さとは別の、高熱のフライパンみたいな焼け付く熱さ。あれはクロコゲに触ってしまっていたのか。
どうやらクロコゲというこのマモノは、体温が異常に高いようだ。触った靴の水が蒸発して、乾いて火がつくほどに。
僕は一旦座り込み、びしょびしょになったリュックサックを開けた。ノートや教科書も水浸しを覚悟したが、被せるように突っ込んであった制服とジャージがクッションになり、教科書類は殆ど無事であった。
僕はノートを一ページちぎり、クロコゲに向かって突き出した。
瞬間、クロコゲに触れた紙の先がボウッと燃え上がった。パチパチと火花を上げて、周辺が明るくなった。
これは、松明になる。
僕はノートの切れ端を持って、立ち上がった。足元を照らし、行く先を照らし、今いる場所の全容を見渡す。少し、地形を把握できた。ノートの紙は小さくなってきて、手まで熱くなってきた。
ノートが燃え尽きそうになったら、ノートをちぎって新しい火種を作り、近くにいるクロコゲをつついて火をつける。燃え尽きる古い紙切れは、熱水に浸して火を消す。
幸い、クロコゲはあちこちにいる。こちらを警戒してはいるが、彼らは逃げたりはしなかった。僕の様子を見て水面から顔を出しているクロコゲに手を伸ばせば、大人しく火をつけさせてくれる。ただ、うっかりしていると火傷するので、あくまでそっと慎重に、距離を保ちながらその体温だけをお借りしていく。
恐らくクロコゲたちは、湧き水に浸かることで放熱し、体温を調節しているのだ。この高熱の体温で湧き水が蒸発してしまっても、洞窟という地形のお陰で水蒸気が循環して水が絶えることはない。それに岩穴の中には草などの燃えるものがないから、安全に生活できるのだ。
メインの通路から少し逸れて、細い脇道を覗き込んだ。よくよく見ると、地面の岩石に濡れた足跡がある。誰のものかは判断できないが、チャトかフィーナがここを進んでいったのだと分かる。
「チャト、フィーナ! いる?」
通路の奥に向かって呼ぶと、狭い壁の間でわんわんとこだました。パチパチとノートが燃え尽きる。僕はまた一枚、ノートを破った。脇道の端で僕を観察しているクロコゲを発見し、その黒い体に紙をくっつける。ポッと火がついた。
すると、岩の中を反響する微かな声が聞こえた。
なんと言っているのかまでは聞き取れなかったが、恐らくフィーナの声だ。
「フィーナ! どこ?」
大声を張り上げる。再び、フィーナらしき声が返ってきた。しかしどの方向から飛んできているのか分からない。僕は少し考えて、ハッとなった。
「フィーナ、光! 光を頂戴!」
あまりに慌ててしまって、フィーナが光の魔導で周りを照らしてくれることを忘れていた。僕の声が届いたのか、僕の視界の右奥がほわっとほんのり明るくなった。
この光を辿れば、光源にフィーナがいる。僕はその光を頼りに、道を選んだ。
フィーナの光はゆらゆら揺れて、ときどき弱くなったり、持ち直したりを繰り返していた。通路はどんどん細くなっていく。僕にひとりがやっと通ることができる道幅で、天井の高さも頭をギリギリ掠めないくらいだ。そんな息苦しいほどの狭さだというのに、ときどき道が熱水に沈んでいたり、天井からポタポタと温い湯が落ちてきたりした。
道が狭まるにつれ、クロコゲの姿は減っていった。パチパチと、ノートが燃えて縮んでいく。
「あちっ……」
ついに、紙切れが燃え尽きた。手のひらから落ちた屑が地面でシュッと消える。辺りが一気に暗くなった。しかしこの暗さのお陰で、却ってフィーナの光が判別できる。僕は壁を這うようにして、光が強い方へとにじり寄った。ときどき地面にできた熱水の水溜りに足を踏み込んで、声にならない悲鳴を上げたりもした。それでも光る先に向かって、少しずつ少しずつ進んでいった。
やがて岩陰に、きらりと光を宿す亜麻色の髪が見えた。僕は壁に手を寄せて、そろりと歩み寄った。
「フィーナ」
フィーナは、湿った狭い通路で身を縮めていた。岩の壁に背中をくっつけて、うずくまっていた。膝を抱いた腕は震え、顔は膝の内側にうずめている。光をぽやぽやと浮かべる手のひらだけを、辛うじて上向きにしていた。
地面にうっすら張った熱水の水溜りが、彼女の手から溢れた光を受けてきらきらと反射している。僕は彼女の横で、腰を落として屈む。顔をうずめて上げようとしないフィーナに、そっと声をかけた。
「大丈夫?」
泣いているのかと、思ったけれど。
「はい。ツバサさんこそ、よくここまで来てくれました」
フィーナは案外、落ち着いた声でこたえた。彼女はふわっと、伏せていた顔を上げる。
「すみません、勝手にこんなところまで来てしまって。しかも座り込んだりして、みっともないですね」
こちらに向けているのは、花のような笑顔である。髪が乱れて、きれいな服がびしょびしょで煤がついていても、表情は木洩れ日の中でお茶会でもしているかのように穏やかだった。
泣いているのかと、思ったのだけれど。フィーナはこんな暗くて狭いところにひとりぼっちになっても、柔らかく微笑むことができる。強いんだなあ、なんて僕は陳腐な感想を浮かべた。
「怖くなかった? こんなとこで、ひとりで」
一応聞いてみたが、フィーナの気丈な態度は変わらなかった。
「怖いというか、焦りました。慌てちゃって、魔導で光を灯すことを失念してたほどです」
「でも落ち着いてるね」
大切なチャトとはぐれてしまって、泣いてしまっていてもおかしくないと思った。フィーナは意外とドライなのかもしれない。
フィーナがゆっくりと腰を上げる。
「チャトを追いかけてたんですけど、分かれ道がたくさんあって見失ってしまいました。あの子、かなり興奮してた。ああなると誰がなにを言っても聞こえなくなっちゃうんですよ」
立ち上がると、濡れたスカートが重たそうに萎んでいた。フィーナの脚の形をくっきりなぞるように張り付いている。僕は思わず、すっと目を逸らした。
「どうしましょうか。ひとまず、運び鳥の元に戻りますか」
フィーナの案を聞いて、僕は思い出したように言った。
「そうだった。運び鳥、外に逃げちゃったんだ」
「そうなんですか? うーん……荒野で他のマモノに襲われてないといいけど……」
フィーナは眉を寄せて唸った。
「運び鳥は体は大きいけど臆病なんです。クロコゲが立てた飛沫が熱くて、びっくりしてパニックを起こしてしまったんですね。自分の声が響くから、余計に慌てて、その声に反応したクロコゲたちまでウロウロしだして」
「しっちゃかめっちゃかだったね」
僕も荷車から振り落とされて熱水に落ち、クロコゲに触ってしまって熱くてびっくりした。運び鳥は怯え荷車は壊れ、クロコゲも興奮してバラバラに動き出し、チャトは我を失って暴走し。チャトを追いかけたフィーナは、彼を見失ってこんなところまで来てしまった。
「これ以上先に行くと、余計に迷っちゃいそうだね。一旦戻ろうか」
僕はじゃり、と湿った岩石を踏んで踵を返した。これより奥は狭くて進めないので、恐らくチャトはいくつもある分岐点のどこかで違う道に入っていったのだろう。僕らは来た道を戻ることにした。フィーナが僕の横をすり抜けて、前に出た。彼女の魔導が行く先を照らしてくれる。
「チャト、どうしたんだろうね。どこまで行っちゃったんだ?」
僕はフィーナの背中に問いかけた。フィーナの後ろ頭が少し首を傾げる。
「なんかすごく怒ってましたね。クロコゲと喧嘩して、追いかけてるんじゃないでしょうか」
「ああ……」
そういえば、「やったな!」などと喧嘩を買っているような声を聞いた気がする。フィーナが大きくため息をついた。
「本当、あの子はやんちゃというか無鉄砲というか、バカというか……そういう子だから、迷子になることも多いんですよ」
ちょっと呆れたような口調で、フィーナが語る。
「今回は、最悪は見つからないかもしれないですね。こんな入り組んだ地形で、しかも蒸し暑い。出られなくなって迷っているうちに暑さにやられて動けなくなって、そのまま死んじゃってもおかしくない」
フィーナが比較的洞窟の浅い所にいてくれたお陰で、僕らは戻る道が分かった。ところどころに僕が捨てた、焦げた紙屑が落ちているから間違いない。
だが、目標だけを追いかけて突き進んだチャトはどうだろうか。僕はあの無邪気で人懐っこい笑顔を思い浮かべた。
「死んじゃってもなんて……言わないでよ」
「そうですね。いなくなってしまったら、別の相棒を探さなくてはならない。アウレリアの異種族居住地にそんなに獣族が余っているわけじゃないですから、どこかのコミュニティに入らせてもらう形になるのかな」
チャトを捜すのが心底面倒くさいかのような言い方だ。僕は彼女の後ろ姿に苦笑いした。
「フィーナって、意外とあっさりしてるんだね」
「意外? そうですか?」
「チャトが心配で、繊細に泣いちゃうんじゃないかと思ってたよ」
「そんな、泣くなんてみっともない」
フィーナがこちらを振り向く。手のひらから溢れさせる光にふんわり照らされているフィーナは、思ったより無表情だった。彼女は感情が死んでいるみたいな顔でしれっと言った。
「獣族と精霊族の間の絆は、そんな強固なものではありませんよ」
「え?」
僕は立ち止まって、ぱちくりとまばたきをした。
「獣族と精霊族は力を合わせて生活するんだって、ラン班長から聞いたよ。フィーナとチャトも、姉弟みたいなものじゃないの?」
獣族と精霊族は、昔から協力して暮らす種族だった。育ての親がなく、自分たちの力で生活しなくてはならないチャトとフィーナは、その性質に則って互いに協力し合っているのだ。
フィーナは僕の間抜けな顔を見据え、再び前を向いて先を歩きはじめた。
「おっしゃるとおり、獣と精霊は相互扶助の関係にあります。でも精霊は、獣よりずっと寿命が長いんです。ですので、精霊はなにも知らない幼い獣を拾って、自分たちに都合がいいように躾けて、獣が大きくなって言うことをきかなくなったり老いてきたりしたらまた別の獣を拾うんです」
淡々と語られる彼女の言葉に、僕は絶句した。つい追いかけることを忘れてしまいそうになった僕を、フィーナが立ち止まって振り向いた。
「だって、そうするしかないじゃないですか。同じ個体をずっとパートナーにしておけません。獣族は五百年も生きません」
光が遠くなってしまう。僕は少し早足になって、先で待っているフィーナを追いかけた。
「それじゃ、フィーナにとってはチャトも何人目かの獣族ってこと?」
「ええ、十一代目ですよ」
僕は再度、言葉を失った。姉弟のようなかけがえのない存在かのように見えたこのふたりだったが、チャトは決して唯一無二の存在ではなかった。実はフィーナ側からすればチャトはサイクルの中のひとりに過ぎなかったのだ。
「私にとって『今の相棒』はチャトです。でもチャトにとっては、この先なにも変わらない限りは私が『生涯の相棒』になります。私は自分より生まれたのが遅くて早くに寿命を迎えてしまうチャトを、保護する責任がある」
フィーナの後ろ姿が先を歩いていく。
なんとなく、フィーナが今落ち着いている理由が分かった気がする。チャトが興奮してどこかへ行ってしまえば追いかける責任があるが、もしそのまま戻ってこなくても、彼女は別の獣族を相棒にするのだ。
「今までもいろんな獣族の人と手を組みました。仲が悪くなって解散した人もいますし、どこかで迷子になって戻ってこなかった人もいます。双子の獣族たちと組んで、三人で行動したこともありました」
フィーナの後ろ姿は、無感情な声で続けた。
「出会ったときは私の半分くらいの身長しかなかったのに、十年もすれば精霊である私よりずっと背が高くなって、おじいちゃんになってもずーっと、傍にいてくれた人もいます」
僕は無言で、その背中を見つめていた。
「チャトはその中でも、とびっきり世話の焼ける子です。獣族の特徴を絵に描いたような性格です。やんちゃだし好奇心は強いし食欲は旺盛だし。こうして脇目も振らずにどこかへ走っていってしまうこともしょっちゅうで」
フィーナの乾いた声が、狭い岩の中でこだまする。
「あの子と組んでしまった私は苦労の連続です。面倒見ないといけないですからね。別の獣族と組み直すのは面倒です。なるべく長く、同じ子と組んだ方が効率がいいですし……」
「フィーナ」
僕は、フィーナの語りを遮るように呼んだ。しかしフィーナはまだ、さくさくと歩きながら続ける。
「でもどうしたって、精霊の方が寿命が長いですからね。いつチャトがいなくなっても大丈夫なように覚悟はしてるんです」
「フィーナ」
「だから、今だって私……」
「フィーナ!」
僕は後ろから、フィーナの腕を掴んだ。フィーナがびくっと肩を跳ね上げて、振り向く。僕は彼女の細い腕を、ぎゅっと握った。
「あの、無理……しないで」
勢いで掴んだはいいが、いざその表情を見ると上手く話せなくなった。
振り向いたフィーナは、泣くのを堪えているのが見え見えの、歪んだ顔をしていたのだ。
「我慢しなくていいよ。平気なふりなんて、しなくていいから」
なんとなく、そうではないかと気づいていた。無感情に、冷たい口調で話すフィーナは、弱い姿を見せないように気丈に振る舞っているだけなのだと、僕には直感的に感じ取れた。
精霊族は、美しさに重きを置いている。見苦しい姿を晒したくない性質なのだ。「泣くなんてみっともない」と、そう言ったフィーナは、押し潰されそうな自分を他人に見せたくないのだ。
「我慢だなんて。そんなことないですよ、私はもう何年も生きていて、たくさんの相棒を見送ってきてるんです。置いていかれるのには慣れちゃいます」
フィーナは歪んだ顔で、下手くそに笑った。
「覚悟だって、してる」
笑っているのに、青い瞳がうるうると濡れていく。
「僕はまだ十二年しか生きてなくて、お別れの回数もフィーナほど経験してないけど……」
フィーナは無理に口角を上げるのをやめて、ぎゅっと口を結んだ。僕はまだ、彼女の腕を離さなかった。
「でも分かるよ。そんなの、慣れるものじゃないよ」
フィーナの大きな目に溜まっていく涙が、魔導の光を受けてきらきらする。
「慣れるものじゃないし、覚悟してたってつらいものはつらいよ。覚悟してるのと平気なのは違うんだよ」
僕はその宝石みたいな雫を、じっと見つめていた。
どんなに強がっていても、フィーナは本当は自分で言うほど強かではないのだ。出会ってきて共に過ごしてきた相棒を、ひとりひとり覚えている。それだけ大事にしてきて、何年経っても、風化させない。きっとそれぞれの出会いと別れの度に、感情は揺れたはずなのだ。
フィーナは歯を食いしばって僕を見据えていた。光を灯す手がふるふると震える。拡散する光の粒が、ふわりと弱くなった。
「……チャトは本当に困ったさんですよ。自由気ままで、私の苦労なんて考えないで……」
フィーナの声は、か細くて弱々しかった。
「いなくなっちゃったらどうしようって、私がこんなに、こんなに」
海のような色の瞳から、ぽろっと涙が零れ落ちた。
魔導への集中力が乱れるのだろう。手のひらの光が消えかける。
「チャトは大丈夫だと思うよ。だって、えーっと……」
僕はフィーナの腕から手を離し、自分の胸にぽんと添えた。
「僕、おいしい匂いするらしいからさ。自分じゃ自分の匂いなんて、分かんないけど。チャトのことだから匂いを辿って戻ってくるんじゃないかな?」
自信があるのかないのか、自分でもよく分からないことを言ってみた。フィーナはしばしきょとんと目を丸くし、数秒後、コロコロと笑い出した。
「ふふっ……ツバサさん、そんなにおいしそうな匂いしないですよ?」
「そうだよねえ」
無論、過去に「おいしそうな匂い」とチャト以外から言われたことはない。フィーナはくすくすと口に手を添えて笑った。
「ふふふっ……おいしそうな匂いって、ご自分で言うなんて。ふふ」
「そんなに笑わないでよ。僕だって匂いを自覚してるわけじゃないよ」
言い返しながら、僕も笑っていた。フィーナが手の甲で目尻を拭い、はあ、と息をつく。僕はそのあどけない笑い方に、少しだけほっとした。
「あのさ、フィーナ。泣いちゃうのはみっともないことじゃないと思うよ」
僕は彼女の豊かな表情に、そっと語りかけた。
「涙が出るほど感情が揺さぶられるのは、君がそれだけ、たくさんの人たちを思いやってきた証なんだよ。寂しくて後悔があって、感謝もたくさんしてるんでしょ。それってすごく、きれいな感情だと思う」
何度も入れ替わるからといって、相棒に対してなんの思いもないなんて有り得ないのだ。ひとりひとりに思い出があって、それは消えてなくなるものではない。
フィーナはいつの間にか笑うのをやめて、真顔で僕を見ていた。数回まばたきをして、長い睫毛を伏せる。そしてくるっと背中を向けて、再び前へと歩き出した。
「泣いてないですよ。見間違えじゃないですか?」
精霊族って、頑固なのかな。
僕はその背中を、のそのそと追いかけた。
「うーん、そっかあ。見間違えかあ」
仕方なく、フィーナの泣き顔は見なかったことにした。
「泣いてる顔を見せたくないのは分かるけどね」
苦笑いすると、フィーナは前方へと進みながら頷いた。
「そうですね。泣いたらだめ、では、ないんですよね」
頑固なのかもしれないけれど、僕を認めないわけではないようだ。
道がだんだん広くなってきた。奥まるほど減っていたクロコゲも、道を戻るに連れてまた現れはじめた。フィーナがくれる灯りを頼りに、辺りを見回す。チャトが通った形跡でも残っていればと思ったのだが、足跡なんかは岩の熱で乾いて残っておらず、チャトの消えた先を推測できる材料はなかった。
僕は振り返って、いくつもの分かれ道に向かって叫んだ。
「チャトー!」
トンネルの中をわんわん反響してエコーがかかった。フィーナは光を携えながら黙っていた。奥の方が闇に吸い込まれた、細い通路を睨んでいる。
「フィーナも呼んで」
より声を大きくしようとして、フィーナに協力を仰いだ。しかし彼女は、僕と目を合わせようとしない。
「……すみません、ちょっと、声が震えて」
先の見えない真っ暗闇の迷路に、不安が押し寄せたのだろう。名前を呼べないほど涙を堪えている。彼女は口を結んで闇を真っ直ぐ睨んでいるだけだった。
情けない声を出したくないという、精霊族のプライドはよく分かった。僕は代わりに、フィーナの分まで声を張り上げた。
「チャトー! チャートー! 戻っておいで!」
獣族であるチャトのことだ。耳が良さそうだから、きっと僕の声も拾ってくれる。僕は大きく息を吸って、お腹から声を出した。
「チャトー!」
頼む、届いてくれ。今はそれだけを考えて大声を出す。
「チャトー!」
すると、隣にいたフィーナが、意を決したようにキッと目を釣り上げた。彼女はめいっぱいに息を吸って、体を屈めて叫んだ。
「ちゃっ……チャトー!!」
それは、裏返って変に甲高くなった、恰好悪い声だった。
叫ぶことに全力を持っていかれて魔導への意識が逸れ、ひゅっと周囲が暗くなる。
「チャトー! どこー!?」
必死に叫ぶフィーナは、きれいな顔をくしゃくしゃに歪めていた。声がひっくり返って、ときどき嗄れて、噎せる。魔導の光は安定を保てなくなり、暗くなったり明るくなったりを繰り返した。
僕は逆に、絶句していた。フィーナの中でなにかを脱ぎ捨てたのだろう。彼女はこんなにがむしゃらになって、チャトの名前を呼んだ。
「チャト!」
フィーナの声が、掠れかけたときだった。
「いたいた。フィノ、見て!」
背後から、あっけらかんとした声が届いてきた。僕とフィーナは、目を丸くして振り返った。
「見てほら、捕まえた!」
そこには、他のものよりやや小さめのクロコゲを抱いたチャトが立っていた。抱いていると言っても手のひらを上向きにして、その手の中でクロコゲの足をすっぽり包んでいる持ち方である。クロコゲは大人しくチャトの手の中に足を収めてじっとしていた。
それより僕は、チャトが平然と現れたことに拍子抜けした。
「チャト!? どこにいたの」
「こいつを追いかけてたら、細い道に入り込んじゃったんだけどね。それでも追いかけ続けてたらなんかぐるーっと一周回ったみたいで、また入口の近くまで出てこられた。ツバサの匂いとフィノの声で、すぐここが分かったよ」
大きな目をぱちぱちさせて、無邪気な声で言う。
「でも、洞窟の中は真っ暗だったでしょ? 怖くなかった?」
「真っ暗だったけど、こいつの目が光ってたし匂いも覚えたから絶対逃さなかったよ!」
「すごいね……っていうかチャト、よくクロコゲ持っていられるね。熱いでしょ」
触れた紙が燃えたほど熱い体を持ったマモノなのに、チャトは素手で平気で持っているのだ。チャトが目を見開く。
「大発見。なんとクロコゲ、足はそんなに熱くない!」
「そうなんだ! でも気をつけてよ、他のところに触れたら焦げちゃうよ」
僕が注意を促すも、チャトはクロコゲを逃がさなかった。
「それよりフィノ、こいつ俺の尻尾を焦がしたんだよ。魔導でお仕置きしてよ!」
チャトが言うのを聞いて、僕はちらっとチャトの尻尾を見た。大きな尻尾の先っぽが見事に焦げ付いている。なるほど、チャトはこれに激怒して、犯人のクロコゲを捕まえようと追いかけていたのだ。
フィーナの方に向き直ると、彼女は先程までの絶叫が嘘だったみたいに無表情になっていた。チャトがクロコゲを差し出すのをじっと見据え、一歩チャトへと近づく。
直後、タアンッと叩き割れるような音が、洞窟内に反響した。
フィーナがチャトの頭を、物凄い勢いで引っぱたいたのだ。チャトはクロコゲを手に抱いたまま、驚いて硬直していた。多分、なにが起こったのか理解できていない。僕も口を半開きにして固まってしまった。
「お仕置きなのは! チャト、あんた!」
フィーナの怒号が響き渡る。僕はびくっと肩を竦め、チャトはまばたきすら忘れていた。
「私がどれほどあなたを捜したと思ってるの? どれほど不安で、どれほど心配したと思ってるの?」
怒鳴りつけるフィーナは普段の清楚で穏やかな彼女からは考えられない気迫だった。僕は岩壁に背中をくっつけて小さくなりながら、ラン班長より怖いフィーナに釘付けになっていた。
「見つかんなかったらどうしようって! チャトが怖い思いしてたらどうしようって! 私は、本気で……!」
フィーナの怒号は、たしかな質量があるのに語尾の方は震えていた。チャトはまだ凍りついている。こんなに怒られるとは思っていなかったのだろう。
止まりそうにないフィーナに、僕は恐る恐る声をかけた。
「もう許してあげようよ」
「許しません。私がどんな思いでいたことか」
「じゃあ、後でしっかり叱ろう。この岩穴を抜けてから」
そこまで言ったら、フィーナはまだ不服そうではあったがひとまず落ち着いた。
「そうですね。こんなところで道草食ってたら、メリザンドに着くのが遅くなります」
僕はほっと胸を撫で下ろし、メイン通路の方へ歩き出した。
「さ、早くこんなとこ出ちゃおう。暑くて汗が止まらないよ」
「行きましょう。チャト、今度は勝手にどこか行かないでくださいね」
フィーナは依然として不機嫌そうだったが、手を正面に伸ばして先を明るくしてくれた。僕は一度振り返って、固まっているチャトに笑いかけた。
「おいで」
「……うん。ごめんなさい……」
チャトもようやく怒られた理由が理解できてきたらしく、クロコゲを両手で持ったまま決まり悪そうについてきた。
ちょっと気まずい空気の中、僕たちははぐれないように大きな道に戻った。人間が作った通路は、横も頭上もマモノの道よりはずっと広い。フィーナが魔導の光を少し強めて、拡散させた。周囲にぼやっと、満遍なく灯りが広がる。湯気を立てる熱水から無数の黒い頭が浮かんでいる。クロコゲたちがこちらをじっと観察しているのだ。もしかしたら、チャトがクロコゲを手に持っているのが気になるのかもしれない。
メリザンド側へと向かう道は、流石人間が整備しただけあって真っ直ぐで分かりやすい。熱水に落ちないように、クロコゲに触らないようにと、そっと歩いているうちに出口が見えてきた。
「あっ、もうすぐ出られるよ!」
湯気の向こうに霞んでいるが、岩にぽっかり穴があいて外の景色の欠片が顔を覗かせている。僕はちょっと駆け足になり、チャトが僕を追いかけた。フィーナがチャトを止める。
「こら、そのクロコゲいつまで連れていくつもり?」
「うー……だってこいつ、俺の尻尾……」
尻尾を焦がされたことを未だに恨んでいるチャトは、クロコゲにお仕置きをするつもりでずっと連れてきてしまっていた。だが、フィーナの言うことをきかないと危険だと分かったのか、チャトは素直にクロコゲを地に降ろした。
「じゃあね、バイバイ」
チャトが熱水の淵に、クロコゲの足を降ろしたときだった。
「あちっ」
クロコゲの足以外、つまり熱湯入りのヤカン並に熱い体に、チャトの指が触れてしまった。チャトが脊髄反射で手を引っ込めると、しっかり降り立っていなかったクロコゲはコロンと転げて、頭から熱水に落っこちた。ドボッと飛沫を立てて沈み、クロコゲは再び背中を浮かび上がらせた。そしてチャプチャプと静かな水音を立てて、チャトの方を向く。
クロコゲに表情はない。が、なんとなく、チャトを睨んでいるように見えた。無言の圧力に、チャトが慌て出す。
「あっ、ごめん。わざとじゃないんだ。わざと落としたんじゃ……」
しかし、その直後のクロコゲの反応に、チャトのみならず僕とフィーナも息を呑んだ。
チャトに頭からダイブさせられたクロコゲは、ブシューッと全身から湯気を立てはじめたのだ。熱水からふよふよと上がっている湯気とは勢いが違う。熱水の湯気はお風呂の湯気くらいだが、このクロコゲから発せられているのは、沸騰したヤカンが吹く湯気のレベルなのだ。
「お、怒ってる……?」
僕はクロコゲの湯気に変な汗が出た。
先程までは大人しく抱き上げられていたクロコゲだったが、これには文字どおり沸点を迎えたようだ。しかも、触発されたように他のクロコゲたちまで湯気を吹き出しはじめたではないか。辺りはもくもくと白い湯気が立ち込めて、あっという間に全体を包み込んでしまった。
「えっ、なにも見えない!」
僕は焦ってキョロキョロと周りを見た。しかし隙間を埋め尽くすかのように噴射された白い湯気が煙幕になって、目標の出口はもちろん、いるはずのクロコゲも足元も、霞んで見えなくなった。フィーナの影がなんとなく見えるのだが、彼女が発する魔導の光が湯気の水滴の粒に乱反射して余計に視界を奪う。同じように思ったのかフィーナは自分で光を弱めたが、暗くなっても見えないことは変わらない。
フィーナの怒りが再燃した。
「チャトー! なんであんたは余計なことするの!」
「うわあん! ごめんなさい! わざとじゃないよー!」
やめなよ、喧嘩してる場合じゃない。と言おうとしたのだが、声が出なかった。僕は自分の喉に手を当てた。ハッ、ハッ、と途切れ途切れの下手な呼吸が繰り返されるばかりだ。あれ、と思っているうちに、体の力が抜けて僕は膝から崩れ落ちた。
この湯気は視界を奪われるだけではない。急騰した百度以上のお湯から吹き出すような、分厚い湯気だ。体中から汗が垂れて、喉が焼け付く。息ができない。眩暈がする。ああ、この脳が溶けていくような感覚。体がドロドロの液体になったみたいだ。去年、学校の体育館で熱中症になったときのことを思い出した。
考えてみたら当たり前だ。こんな暑くて狭いところにずっといて、水分を取っていない。熱水に落ちた体は汗をかいても服が吸い取らず、いつまでもベタベタする。その上、このクロコゲたちの沸騰だ。燻される。僕はいつの間にか、ゴツゴツの地面に頬をくっつけて倒れ込んでいた。呼吸が上手くできない。フィーナとチャトの声が聞こえる気がするけれど、なんと言っているのか分からない。
瞼さえも重く感じて、ゆっくりと目を閉じたときだった。
突然、周囲の温度がひゅっと下がった。
薄く目を開けると、周りに立ち込めていたはずの湯気が消えていた。僕を包む空気は程よくひんやりしている。熱水と汗でびしょびしょだった体が、だんだん冷たくなってくる。もしかして死んだのかな、とすら思った。
頭は依然ぼうっとしていたが、頭上から降ってきた声ははっきりと聞こえた。
「大丈夫か?」
嗄れたおじいちゃんの声だ。
「この熱水の岩穴でクロコゲを怒らせるなんて、自殺行為だぞ」
僕は僅かな力で首をもたげた。霞む視界に映る、黒いローブのおじいちゃんが立っている。死にかけの僕を見て、面白おかしいものでも見つけたようにしわしわの顔でニーッと笑っているのだ。
僕はまだ状況を呑み込めていなかった。クロコゲを怒らせて、元々サウナみたいだった岩穴の中が更に湿度と温度を増して蒸されたことは覚えている。意識が飛ぶか飛ばないかのところで、急に視界が開けて、涼しくなった。
おじいさんは筋張った片手を前に伸ばしている。だんだん頭が冷えてきた僕は、地面から体を起こして辺りを見渡した。怒っていたクロコゲたちは、いつの間にやら皆、隅っこに寄って熱水の中で縮こまっている。
「あんまり遅いから迎えに来てみたら、岩穴から湯気が零れとったからな……。温度を急激に冷やして湯気を沈下させた。クロコゲは涼しくなって驚いたのか、皆でお風呂だ。まあそのうち温度は戻るから、クロコゲらのことは心配するな」
おじいさんはにんまり笑って、僕らを手招きした。
「さあ、メリザンドまであと少しだぞ。しゃんとせい」
僕はまだちょっとくらくらしている頭で、浮かんだ名前を呟いた。
「……ジズ老師……?」
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