3 駆除班

 翌朝、意外とぐっすり眠れた僕はチャトとフィーナと共に管理局のロビーに集合していた。朝の管理局はまだ始業前なので、ロビーに市民は僕らしかいない。カウンターの向こうも、職員が数名暇そうにしているだけで空間がスカスカだった。

「チャト、シャキッとしてくださいよ」

 フィーナがチャトの背中をぱしぱしはたく。チャトは眠たそうに欠伸をした。

「ツバサの持ってた物が面白くって、楽しくなっちゃってあんまり眠れなかった……。夜中じゅうおいしい匂いするし……」

 くあっと開いたでっかい口から、鋭い牙が突き出している。「おいしそう」な僕は、ぞっと鳥肌が立った。

 そんな僕はというと、リズリーさんに用意してもらった服に着替えて、慣れない服装に気恥ずかしさを感じていた。初めて触る感触の生地のシャツに、これまた初めての感触の上着。ズボンは丈が少し短めで、腰からチャリチャリと金具が垂れ下がっていた。アウレリアの識族にとっては一般的な服装なのだろうが、僕からしてみればゲームの世界の登場人物の恰好をしているみたいな気分だ。それまで着ていたジャージは汚れを払って、リュックサックに詰め込んだ。

「お待たせ!」

 リズリーさんの声がした。振り向くと、白い制服を着たリズリーさんと、その後ろにふたりの男女の立ち姿があった。ふたりとも、モスグリーンの上着を羽織っている。リズリーさんの制服とは違う恰好だった。

 まず目を引いたのは、鋭い目をした女の人だった。腰まである編み込まれた髪は、上着の深い緑色によく映える、燃えるような赤だった。歳の頃は二十代くらいだろうか。リズリーさんと同じくらいに見える。

 上着の中には黒いインナーを着ていて、下は膝上二十センチくらいの短いパンツを穿いている。腕には赤い腕章を付けていて、胸元には勲章のようなバッヂがあった。

 なにより目が行くのはその不機嫌そうな面持ちである。なにもしていないのに、怒られるような気がして縮こまってしまう。

 そんな彼女に笑いかけるのは、一緒にいた男性だった。

「班長、そんな顔してたら怖がられちゃいますよ」

 服装はほぼ、怖い顔の女性と同じである。違うのはパンツの丈が長いことと、腕章の色が白いことと、胸にバッヂがないことだ。

 やや青みがかった黒髪の青年で、隣の女性とは正反対の落ち着いた柔らかな微笑みを浮かべている。赤い髪の怖い女性よりも頭ひとつ分背が高く、僕は顔を見るのに少し見上げるほどだった。

 不機嫌そうな顔の赤い髪の女性が、リズリーさんをギロリと睨む。

「リズリーお前……急に呼び出すからなにかと思ったら!」

 リズリーさんの肩をがしっと掴む。その形相の迫力に僕は体を強ばらせた。

「ガキの面倒でも見てろって言いたいの!?」

「違うわよ」

 リズリーさんは余裕げに笑っている。

「連絡が今朝になったのは謝るわ。でも仕方ないわよね、非番の日の夜はランってば必ず酔い潰れてるんだもの」

 状況が分からなくて僕は固まっていた。僕が首を竦めているのに気がついて、彼女たちと並んでいた青年がにっこりと微笑んだ。

「おはよう。君がツバサくんかな。話は聞いてるよ」

 その爽やかな笑顔に、赤髪の女性が目を見開く。

「はあ!? 話は聞いてるって……なんで私が聞いてなくて、フォルクは聞いてんだ!」

「だってフォルクは酔い潰れてないから」

 リズリーさんがいたずらっぽく笑う。赤い髪の女性はリズリーさんの肩を揺すった。

「そういうのは! 班長の私に! 先に言え!」

「だってランは酔い潰れてたでしょ」

「それは否定しないけど……!」

 混乱している赤髪の女性を差し置いて、ニコニコスマイルの男性が僕に挨拶した。

「俺はフォルクオルセン。大変だったみたいだね、ツバサくん」

 そして隣の赤い髪の女性の肩に手を乗せた。

「この怖い顔して朝から喧しいのはラン班長。よろしくね」

「喧しいとはなんだフォルク!」

 ラン班長というその女性は、殺気がかった鋭い目線で彼を突き刺した。肩に置かれた手をパンッと払い、再び僕らを眺める。

「言っておくが、私の目つきが悪いのは生まれつきだ。怖いというのなら……うん、どうしようもないから、近づくな」

 目つきもそうだけれど、態度も充分怖い……と、僕は思った。

「リズリーさん、この人たちは?」

 僕はリズリーさんに視線を向け尋ねた。リズリーさんは両手を広げて隣のふたりを指し示した。

「アウレリア政府兵団特殊特攻部隊マモノ対策駆除班、略して駆除班。ラン班長とフォルク副班長よ」

「駆除……班?」

 僕は目をぱちくりさせて繰り返した。仏頂面で赤髪の女性ラン班長と、朗らかな男性フォルク副班長を交互に眺める。フィーナがぱちっと両手を合わせた。

「聞いたことあります! マモノが悪さをしたら、真っ先に駆けつける特攻班があるって。あなた方がその駆除班の方々なんですね」

「へえ……」

 よく分からなくてとりあえず相槌を打った僕に、フィーナは生き生きと語った。

「政府兵団ですよ、都市の治安を守る正義の味方ですよ!」

 政府兵団というのは、どうも警察官みたいな存在のようだ。チャトのおバカな行動を正しているフィーナは正義感が強そうなので、こういう職業の人に憧れがあるのかもしれない。

 興奮気味のフィーナに、フォルク副班長は苦笑いを返した。

「そんな恰好いいもんじゃないよ。使いっ走りみたいなものだから」

 彼の自虐を否定せず、リズリーさんが言った。

「ツバサくんの腕輪を捜すのには、このふたりについて行ってもらうことにしたの。いずれにせよあの森に噛み付きトカゲがいるんじゃ危ないから、追い払うなり駆除するなりしないといけないからね」

 居住地域に近づいてきているマモノを退治するついでに、一緒に腕輪を捜してくれるということだ。僕は駆除班のふたりに大きく頭を下げた。

「今日はよろしくお願いします!」

 心強い味方が増えて、ほっとした。あの大きな化け物がまた出たりしたらと思うと恐ろしかったけれど、マモノの駆除に長けた人たちが護衛してくれるのなら安心だ。

 リズリーさんは駆除班のふたりに目配せをした。

「ラン、フォルク、頼んだわよ。私が仕事でついて行けない分、あなたたちに任せるんだからね」

「私だけまだ説明聞いてないんだけど……捜し物なのね?」

 ラン班長がリズリーさんを横目に睨んだ。

「なら、日が暮れる前にさっさと見つけるよ。説明は道中で聞く。行こう」

 ラン班長は迅速な判断を下し、僕たちに出発を促した。


 *


 朝の外の空気は少しだけ冷たかった。空の色は相変わらず、うっすらピンクがかった色である。僕たちはリズリーさんと別れ、僕とチャトとフィーナの三人に駆除班のふたりを加え、森へ向かった。

 王都の坂道を下っていると、街の外までが一望できる。広がる広大な森が僕らを待ち構えていて、あの中から小さな腕輪を捜すと思うと気が滅入った。

「なんだって? それじゃつまり、このツバサって子がどっか別の世界から来たってこと?」

 ラン班長は怪訝な顔で僕を見ていた。今日お願いする腕輪捜しの概要を聞いた彼女は、当惑で怖い顔をもっと歪めたのだ。

 リズリーさんから先に経緯を聞いていたフォルク副班長は、そうだねえと笑う。

「だから元の世界に帰るために、来たときに使った腕輪を捜すんだそうです」

「なんでお前はそんなにあっさり受け入れてんだよ。異世界だぞ? そんなの実在すると思ってるのか?」

 困らせてしまうのも無理もない。僕だって自分の境遇を未だに受け止めきれていないのだ。戸惑うラン班長に、フォルク副班長は落ち着いて返した。

「そりゃ俺だって信じらんないですよ。だけど信じる信じないは別にして、大事なものをなくして困ってる人を助けてあげるのに理由はいらないでしょ? 噛み付きトカゲの仕事のついでなら、お断りなんてできないですし」

「くっそー、そのとおりだけどな……しかし信じられん、異世界なんて」

 ラン班長が眉間に皺を刻む。その怖い顔にもフォルク副班長は動じなかった。

「リズリー先輩も丸ごと信じてはいないみたいでした。ただツバサくんの記憶が変に改変されてるんだとしても本当に異世界の人だとしても、腕輪はなにかしらのヒントに間違いなさそうなんですよ」

「そういうややこしい話なら、尚更もっと早く説明してほしかった」

「ラン班長、昨日の夜は酔い潰れてたんですよね? そんなんだから俺に先に連絡来ちゃうんですよ」

 長い坂道を、話しながら下りていく。下に行くにつれて朝焼けの街は早くも活気づき、目覚めた人々が市場にお店を出す準備を始めていた。

「駆除班のおふたりは、リズリーさんとは仲良しなんですか?」

 フィーナが尋ねると、ラン班長がこたえた。

「私とリズリーは同期。学生の頃から一緒で、同じ日に管理局に入ったんだ」

「俺はふたりの後輩だよ」

 フォルク副班長が付け足す。

「あ、ツバサくんは知らないか。政府兵団というのは、管理局の部署のひとつでね。その兵団の中でもマモノへの対策に特化した班、それが我ら『駆除班』なんだ」

 どうもアウレリア政府は、リズリーさんみたいな役場のお仕事から警察官みたいな存在である兵団まで、「役人」とひとまとめにして管理局の所属になっているようである。

 ラン班長がフィーナに目をやった。

「百年前にマモノが人間の居住地域を攻めてきたとき、アウレリアは兵団が応戦したんだ。だがマモノは人間とは違って動きが読みにくいこともあって、めちゃくちゃ苦戦したんだそうだ」

「あ、聞いたことあります。当時のアウレリアはマモノ学が進んでなかったから、マモノの弱点が分からなくて大変だったと……」

 フィーナが言うと、ラン班長は頷いた。

「そこで、兵団の中でも動体視力が鋭くて瞬発力もあり、狙撃の腕も充分な若手が抜擢されて、学術的に進んでいたメリザンドに留学することになった。それが対マモノのスペシャリスト、駆除班の前身だ」

 聞いていた僕は、はあ、と感嘆した。ここにいるラン班長とフォルク副班長は、条件を満たした優秀な兵士なのだ。眠そうにしていたチャトも、いつの間にか興味を示して耳を立てていた。

「じゃあそれの班長と副班長やってるランとフォルクは、すごーく強いのか!?」

 途端に、ラン班長が黙った。代わりにフォルク副班長があはははっと笑い出した。

「そうだったらよかったんだけどね! 最強特殊部隊『駆除班』はもはや過去の伝説。何十年もかけて折角駆除班が完成された頃には、都市の守りも強くなってたからマモノの襲撃が減って、出番がなくなってたんだ。お陰様ですっかり衰退して、人数がどんどん減らされちゃって、今は班長と俺しかいないんだよ」

 僕とフィーナとチャトは絶句した。そうか、ふたりしかいないから必然的に班長の副班長になるのか。

「ですが、今でも時々マモノが人の領域に入り込んでくるじゃないですか。そういうとき、駆除班が動いたって街の人たちは噂しますよ」

 フィーナがフォローすると、ラン班長が決まり悪そうに頭を掻いた。

「たしかにマモノ被害があれば私たちが動いてる。だが近頃は滅多にないから、普段は他の班や他の部署の使いっ走りだ……」

「噛み付きトカゲが出たって聞いてちょっとびっくりしたくらい。うわ、本業だ! って」

 フォルク副班長が自嘲的に笑う。ラン班長が少し真顔になった。

「とはいえ……本来森には出ないはずの噛み付きトカゲが、森に現れたわけだからね。ここのところマモノが一方的に人を襲う事例は聞いてなかったから油断してたけど、不自然なところに不自然なマモノが出たというのはなにかの前兆かもしれない。百年前にも起こったマモノの凶暴化が、再び起こったりして……なあんて……」

「まっさかあ。噛み付きトカゲは巣から散歩に出て迷子になったかなんかじゃないですか? 不吉なこと言わないでくださいよ」

 楽観的に笑い飛ばすフォルク副班長を、ラン班長はむっすり睨んだ。

「可能性だ、可能性。そうなったらフォルク、最前線で戦うのは私たちなんだからな」

「はいはい。分かってますよ」

 僕らはアウレリアの坂道を下りきって、国境の水路に架かる橋を越えた。平坦な草原をしばらく歩くと、徐々に木が増えて、僕たちは森に呑み込まれた。

 ラン班長が振り向いて、一旦歩みを止めた。

「さて、早速腕輪捜しをするよ。噛み付きトカゲ及びなんらかのマモノを発見した場合は、直ちに私がフォルクに報告しなさい。その際、大声は上げないこと。マモノを刺激してしまうと危険は拡大する。冷静に行動するように」

 それからラン班長は僕の方に目を向けた。

「腕輪の特徴は?」

「えっと……無色透明の輪っかです。内側にほんのりと白っぽい筋が通ってて、光を受けるとそれが七色に反射します。大きさはこのくらい」

 指で輪を作って説明すると、ラン班長はふむふむと頷いた。

「ツバサがその腕輪を落としたのは、噛み付きトカゲに襲われたときだと言ったね。それならその近辺に落ちてるはず。ツバサが噛み付きトカゲと遭遇した辺りに連れて行ってもらおうか。場所は覚えてる?」

 全く覚えていない。森から脱出するときだって、チャトとフィーナに案内されてようやく出られたのだ。森の地形なんかさっぱりだった。だが、チャトは堂々と頷いた。

「覚えてるよ。俺たちは毎日、薬草を取りにこの森を散策してるからね。ついてきて!」

 チャトが元気に飛び出した。突如披露された獣族のすばしっこさに、一同がぎょっとした。フィーナがチャトの尻尾を追いかける。

「チャト! あなたはまたそうやって走り出す。はぐれますよ」

 一緒になって走り出すフィーナに、フォルク副班長が慌てて続く。

「こらこら。噛み付きトカゲが増えてたらどうすんの」

 僕も追いかけようとしたが、森の木々が道に根を張って歩きにくい。ラン班長は先に消えていくフォルク副班長と転びそうな僕を交互にキョロキョロした。

「ああ、待ちなさい! 全く、これだから協調性のない移住種は!」

 追いかけようにも慣れない道に足を取られる僕と、そんな僕を気遣ったラン班長は、すっかり遅れを取って先を行く三人を見失ってしまった。

 鋭い目つきのラン班長にじろりと睨まれ、僕はびくっと縮こまった。

「ごめんなさい、僕が遅かったせいで」

「いや……私の指示不足のせいでもある。あの子供たちはフォルクに任せて、私たちは私たちで捜すか」

 ラン班長はため息とともに木の根を踏みつけて進んだ。僕もよたよたと追いかける。正直、ちょっと気まずい。温厚そうなフォルク副班長ではなく、よりによって怖そうなラン班長とふたりきりにされてしまった。

 しばし、無言で森の奥へと足を進めた。ラン班長は時々ちらちら振り向いて僕がついてきていることを確認している。僕はその度に、彼女の目を見上げて「遅くてすみません」の小さな会釈をした。

 何度かそんなことをしているうちに、やがてラン班長は足を止めて振り向いたまま僕を睨んだ。

「あのさ。私、そんなに怖い?」

「えっ!? いや、怖くは……」

 咄嗟に否定しようとしたが、声が裏返った。ラン班長ははあと大きなため息をついた。

「いいよ別に。子供から怖がられることには慣れてる。外面担当はフォルクに任せてるから、私はもう開き直ってんだ」

 それから彼女は、またのしのしと歩きはじめた。

「あの移住種のふたりとは、どういう経緯で出会った?」

「移住種……あ、チャトとフィーナのことですか?」

 問いかけられて、僕はたどたどしくこたえた。

「僕が噛み付きトカゲに襲われてたところに、薬草の採取に来てたふたりが偶然通りかかって助けてくれたんです」

「ふうん。獣族と精霊族って、付き合いづらくない?」

 振り向きもせずに言われ、僕はついむっとした。

「そんなことないです」

 昨晩フィーナが話していたことを思い出す。識族は識族以外の種族のことを、ちょっと見下している。ラン班長も、獣族であるチャトと精霊族であるフィーナのことを下に見ているのだろうか。

「チャトはまあ……僕のこと食べようとしてる感じがなくもないけど、フィーナはかわいいしとっても心優しい、いい子です」

 そんな僕の小さな反抗心を察したのか、ラン班長はこちらを振り向いた。

「別に異種族だからってバカにしてるとかじゃないからな? ただ、異種族は感覚や価値観なんかが全く違うから、付き合ってくのに苦労すんの」

「そう……なんですか?」

 転びそうな足元を気にしつつ、ラン班長を見上げる。彼女も僕の足元を注視していた。

「獣族はあのとおり、身体能力の高さが半端じゃない。それが彼らの誇りであり、己の価値だ」

 ラン班長の言葉を受けて、僕はチャトの顔を思い浮かべた。ラン班長が続ける。

「活動的で行動的。考えることが嫌いで、良くも悪くも真っ直ぐ。他人と打ち解けるのが早いが、同時に喧嘩っ早くもある。魔力が芽生えない種族だから、魔導にはさっぱり興味がない。本能で生きてるのが獣族」

 チャトの行動をいくつか思い出す。僕が噛み付きトカゲに襲われていれば、躊躇なく駆けつけてあの巨体に噛み付いていく。出会ったばかりの僕にも人懐っこくて、壁がない感じがした。リズリーさんとの会話を思い起こすと、チャトはたしかに、興味がないことは分かろうとしない節があった。

「精霊族は美を最も重んじる。容姿はもちろん、立ち振る舞いに言葉遣い、全てにおいて美しくてこそ、種は繁栄するとしている種族」

 ラン班長がまた前向いて歩き出した。僕はそれを追いかけながら、今度はフィーナを脳裏に浮かべた。フィーナはびっくりするくらいの美人だし、言葉もきれいだ。服装も、動きやすさ重視のチャトとは違ってきれいな衣装を身に纏っていた。

「品が良くて穏やかできれい好きなのはいいが、神経質で融通が利かない面倒な奴らでもある。調和を大切にする習慣があるみたいで、周りに合わせようとするから個々に行動力がない。生まれつき魔力を持つ種族なのに、それを伸ばして強くなろうとは考えない。平和が好きなんだそうだ」

 これもいくつか思い当たる。フィーナはチャトのやんちゃな行動を制していたし、周りの迷惑や識族からの視線を気にしていた。自分たちがどう見られているか、を重要視している感じがある。そしてそれ故になのか、とても親切だ。まさに、清く正しく美しく、といった性格である。

「そして私たち識族は、知性を最重要とした種族」

 ラン班長がまたちらりとこちらの様子を見た。

「学業を発展させて便利なものや街の運営機関、農業、工業、商業を豊かにした。文化も他の種族よりずっと発達してる。そりゃあもう移り住んできた異種族がびっくりして順応するのに時間がかかったほど進んでるんだ」

「言われてみれば、獣族や精霊族は森とか泉の周りで暮らしてたっていうのに、識族は地形を生かして大きな国を造ってるんですもんね」

 僕はアウレリアの町並みを思い出していた。あらゆる側面で他の種族より文化的だったから、マモノが大暴れしだした百年前も国を三つ守ることができたのだ。ラン班長は僕の足取りを気にしつつ、少しずつ前に進んだ。

「だが経済を発展させたがために、同種族内で格差が生まれたのも識族くらいのものだ。貧富の差が開いて、その差のせいで貧しい者は勉学を充分に受けられない。すると知を重んじる識族において、学のない者は見下される。格差拡大の悪循環は、アウレリアに限らず識族全体の課題だな……」

 彼女の言葉に僕はなにも返せなかった。僕が知っている現代社会に似ている。辿ってきた歴史は違うはずなのに、同じような結果を招いてしまうのは、文化を発展させた生き物のさがなのだろうか。

 ラン班長は振り向きざまに僕と目を合わせた。

「分かった? 種族が違えば、考え方が根本的に違うんだ。だから互いを尊重するためにも、異種族同士は関わることを避けてしまいがちなの」

 現代日本でもそうだったかもしれない。学校のクラスひとつ取っても、似た者同士でグループを作り、趣味が合わない人同士はなるべく関わらないようにする。差別とか侮蔑とかではなく、心地よさの問題なのかもしれない。

 ラン班長はさらっと付け足した。

「そもそも寿命が全く違うしな。識族は八十年生きれば平均だが獣族は二十年で長生き。精霊族は五百年くらい平気で生きる。これじゃ生死に関する観念が違いすぎて、上手く渡り合えなくて当然だ」

 そうだったのか。では同じ年月を過ごしても感じる密度は全然違うのだろう。そこまで考えてから気がついた。

「え!? じゃあチャトとフィーナって……」

 ぎょっと目を見開いて叫ぶと、ラン班長は真顔で言った。

「推定だが、チャトは二歳くらいでフィーナは百五十歳を越えたくらいかな。フィーナくらいのサイズなら、例の百年前のマモノ襲撃事案を間近で体感してるはずだ」

 衝撃的だった。チャトが二歳、生まれて二年で小学生くらいの大きさまで成長していることにも驚きだが、なによりフィーナにびっくりである。てっきり同い歳くらいだと思っていたフィーナがまさかそこまで思い切り歳上だったなんて。

「それじゃ、獣族であるチャトと精霊族であるフィーナはなんで一緒にいるんでしょうか」

 僕は疑問を呈した。今聞いた話だと、獣族と精霊族は元々の生活スタイルこそ似ているものの、性質は殆ど逆である。行動的で自分優先の獣族と、内向的で他人優先の精霊族では相性が悪いはずだ。

 ラン班長はあっさりこたえた。

「それはあれだ、獣と精霊の元来の習慣だ」

「元来の……ってことは、アウレリアに引っ越してくる前から、獣族と精霊族は協力する関係にあったってことですか?」

「そうだ。居住地が近くにあることが多く、生活習慣が似ていたから、獣族と精霊族は異種族同士なのに例外的に交流があったんだ。そして互いに得意なことは逆だ。獣にはない魔力と冷静さを精霊が持ち、精霊にはない身体能力と行動力を獣が持ってる。お互いの足りない部分を補い合って、それぞれの種族を繁栄させてきたんだ」

 言われてみて、かなり納得した。チャトとフィーナを見ている限りでも、まさに正反対の性格を持ってバランスを取っているのが分かる。あれは獣、精霊、両種族全体の習慣だったのか。

「とはいえ、親が働いて子を養っていれば、あんな小さいガキ共はわざわざ手を組む必要はないんだがな」

 ラン班長は腕を組んだ。

「ここからは推測の域を出ないが……あの子たちは親がいる様子がない。多分フィーナは百年前の移民時に親を失った孤児で、チャトは獣族であるが故に生みの親はすぐ死んでしまったんだろう」

 ここまで言われて、僕はハッとした。自分のことでいっぱいいっぱいになっていて気づかなかったが、たしかにチャトとフィーナはそれぞれに家族がいる様子はなく、ふたりで互いに身を寄せ合っている感じがある。

「そういう異種族移民の子供は多い。親がいない分、子供同士で手を組んで、薬草集めや農工に働きに出たりする。周りの大人の手を借りながら生活してるんだよ」

 僕らが出会ったときも、ふたりはこのマモノが出るか出ないかギリギリの森の中で薬草を集めていた。そしてそれを都市で売って、生計を立てているようだった。

「あいつらの場合は、フィーナの方がずっと歳上だからフィーナがチャトの面倒を見てるんだろうな。といっても、フィーナは百を越えてるといえど精霊としてはまだまだ子供だ。ひとりで生きていくには弱すぎる」

「そっか……だからチャトとフィーナは助け合って暮らしてるんだ」

 沈んだ声を出した僕に、ラン班長は言った。

「識族だってその問題をほっといてるわけじゃないからな? そんな苦労をしてる移住民たちを、管理局移住課がフォローしてる」

「あっ、だからリズリーさんはチャトとフィーナにあんなに懐かれてるんだ!」

「そんなわけで、識族はやはり異種族を支えてやってるという立場になってるから、高慢になりがちだ。周りの反応を気にする性質のある精霊族は識族のそういう態度を敏感に感じ取る。逆に獣族はなにも考えてないから、識族からすれば手を焼くガキみたいなもの。……そうやって、溝ができていくんだ」

 ラン班長はザクザクと、僕の数歩先を歩いた。

 僕は自分が情けなくなった。突然全く知らない場所に送り出されて混乱するあまり、まるで周りが見えていなかったのだ。自分に必要そうな情報を集めることに必死になってしまって、助けてくれたチャトとフィーナの事情を考えようともしていなかった。

 ラン班長は自身の足元を見下ろした。

「逆に言えば、それだけ種族差があっても、お互いを理解すれば共存できないことはない。適度な距離を保って、分からんことは分からんなりに接する。分かり合えるところは何族だろうが分かり合えるから、それで充分だろ」

 彼女の言葉は胸にストンと馴染んだ。チャトとフィーナと一緒にこの世界の食べ物を食べたとき、口に合う合わないは別として、ああしているのが楽しかった。きっと、そういうことなのだ。

 ラン班長がこちらを振り向き、ニヤリとした。

「因みに、異種族間で結婚する猛者もいる。精霊族が美男美女揃いだから、他の種族が惹かれやすくてね。実際、あんたもフィーナのかわいさに惹かれてんじゃないか?」

「え!? や、えっと……美人だなとは思うけど、そんなんじゃないです!」

 突然こんな話を振られて動揺した僕は、ひっくり返った声で返した。ラン班長は、はははっと軽快に笑った。

「精霊族は美こそが己の価値だから、それでいいんだよ。ひとつ注意なのは異種族の間に生まれる混血児はまず身ごもること自体滅多にないし、仮に無事に生まれても長生きできないということだ。さっきも言ったとおり、遺伝子レベルで違うから」

「だから、そんなこと考えてないってば……!」

 意地悪を言って困らせてはくるが、僕は少しラン班長に安心していた。外見の怖さに萎縮してしまったが、こうして一緒にいると案外話しやすい。僕が歩き慣れていないのを気にして振り返ってくれる、細やかな気遣いも身に染みる。思ったより怖くない人なのだと、今なら分かる。

「しっかし、お前の腕輪どこにも落ちてないな。鼻がいい獣族か、木の葉と連携が取れる精霊族がすぐにでも見つけてきそうなのに」

 ラン班長が足場の悪い道をひょいひょいと身軽に進む。

「危険性の高いマモノの気配も今のところ感じないな。問題ないのはちらほらいるようだけど」

「えっ、いますか?」

 僕はキョロキョロと周囲を見回した。ラン班長は立ち止まり、傍にあった木の幹を指さした。

「あそこに垂直ネズミが三匹もいる」

 彼女が指さす方を見上げて、僕はわっと叫んだ。

「なんだあれ!」

 コロンとした体格の褐色の小動物が三匹、木の枝に並んでいる。それはいいのだが、よく分からないのは三匹が三匹、全員長い尻尾を真っ直ぐ縦に伸ばして枝に絡め、尻尾の力で本体を浮かせていることだ。つまり、尻尾で立っているのである。

「ラン班長、あれなんですか!? なんであんな無理な姿勢してるんですか!?」

「だから垂直ネズミだって。あいつらは基本あの立ち姿だ。移動も尻尾でぴょんぴょんする。寝るときでさえ尻尾で枝にぶら下がって、逆さになってでも垂直で眠る」

 ラン班長は謎の生物の生態をさらっと説明し、付け加えた。

「大丈夫だ、あれは刺激しなければなにもしてこない。むしろ人間を警戒して、追いかけたら逃げてくような奴らだ」

「ああいう小さい生き物も含めて、マモノなんですか?」

「そうだよ。アウレリアの上空を飛んでいたのも鳥型のマモノ、都市の一部の人たちが家で飼育してるマモノもいるし、牧場で育てられてる畜類もマモノ。人間以外の生物はマモノだ」

 僕は口を半開きにして、垂直ネズミを見上げていた。噛み付きトカゲのインパクトのあまり、マモノといえば全てが全て危ない生き物を指すのだと思っていた。だがマモノというのはあくまで「動物」を総称する言葉のようで、中には人間と共存共栄の関係にあるものもいるようだった。そういえば、昨夜チャトも「無害なものが殆どで、元々はマモノも人間を襲うようなことはしなかった」と話していた。

「ラン班長は……駆除班は、対マモノのスペシャリストなんですよね。駆除班に入るために、いっぱいマモノの勉強したんですか?」

 聞いてみると、彼女はまあ、とこたえた。

「したよ。でも順番が逆。マモノの勉強をしていたから、たまたま駆除班に抜擢された」

「じゃあ、詳しいんですね」

「学者の元で勉強してたからな」

 僕はずっと気になっていたことを、尋ねてみた。

「百年前にマモノが急に凶暴化したって話……ラン班長は、なにが原因だと思いますか?」

 一瞬、ラン班長の足が止まった。彼女はちらりと僕の方に目線を送り、また前を向いた。

「私も、気になってる。なんの前触れもなく、いきなり一斉に凶暴化したなんておかしい。なにかあるはずなんだが、なにしろ百年も前だ。当時はマモノ学が進んでいなかったから分析もできず、当時を知る精霊族などの長寿種族も、きっかけのようなものはなかったと話している」

「でもやっぱり、ラン班長もおかしいとは思ってるんですね」

「絶対なにかあったはずなんだ。世界がぶっ壊れたのには、理由があるはずだ」

 語気に力が篭っていた。

「自分なりに、いくつか仮説を立てている。でも実証するものなんかない。結局、三都市と僅かな居住地域が残された以外の全てが奪われた、その現実は変わらない」

「仮説って……?」

 さわさわと、森の木々が揺れる。小さなマモノが木と木の間を飛び越えていったのが見えた。ラン班長の後ろ姿が語る。

「気候や有毒ガスなんかがマモノの神経を狂わせたのかとか、人間がなにかしらマモノに危害を加えて怒らせたんじゃないかとか、考えたんだけどね。どれもピンとこないんだ。気候や物質については精霊族がそんなものはなかったと言っているし、マモノを怒らせたという説なら対象のマモノが怒り狂うだけで、多くのマモノの一斉凶暴化には繋がらない。そこで私は……」

 ラン班長は、そこでひとつ大きな呼吸をした。

「もしかしたら、なんらかの強大な魔力を持った人間が……マモノを操ったんじゃないかと推測した」

 声が少し強ばっている。僕は木の根につまづいてつんのめりながら、黙って聞いていた。

「何者かが、世界をめちゃくちゃにするためにマモノを操る魔導を使ったんじゃないかと思うんだ。それなら戦力にならないマモノは大人しいままであることも説明がつく」

 僕は固唾を飲んだ。

 ラン班長の言うとおり「誰かしらの策略」なのだとしたら、それはその人物がわざと世界を壊したということになる。ラン班長は振り向いて苦笑いした。

「これも有り得ないんだけどな。だって、なんのためにそんなことをしたのかは分からないし、マモノを大量に操るのなんて尋常じゃないほどの魔力が必要だ。常軌を逸してる」

「それじゃ、やっぱりラン班長も結論は出せてないんですね」

「結論出てたらとっくに学会に報告してる」

 ラン班長が投げやりに言った、そのときだった。

 バサササッと、木から鳥がたくさん飛び立った。ラン班長が急に立ち止まる。

「止まれ」

「へっ?」

「小さいマモノが逃げていく。近くになにかいるぞ」

 ラン班長が少し、腰を落とす。僕は心臓がひゅっと窄む感じがした。

 チャッと、金物の擦れる音がした。ラン班長の深緑色の上着から、銀の拳銃が覗く。僕は肩を強ばらせて辺りを探った。胸がどくんどくんと暴れて、不安で声が出せなくなった。

「なにかいるけど……気配がない。どこから来るか分からんぞ。気を抜くな」

 ラン班長が声を潜める。鳥の群れがまた舞い上がった。僕はびくっと縮こまって、ラン班長の背中に隠れた。

「あのでっかいトカゲですか?」

 ようやく声を絞り出した僕に、ラン班長は声を殺してこたえた。

「そうだったら足音や鳴き声が聞こえるはずだ。これは恐らく……」

 ラン班長が突然、ハッと顔を上げた。

「上だ!」

 同時に、彼女はドンッと僕に体当たりした。ただでさえ足場の悪い場所で突き飛ばされて、僕は後ろにつんのめった。木の根っこに背中と頭を打ち付けて一回転し、べしゃっと地面に潰れる。土が口に入った。けほっと噎せながら顔を上げた僕は、目に飛び込んできたそれに言葉を失った。

「くそ……見事に擬態しやがって」

 ラン班長は、両腕と左脚を拘束されていた。真上から伸びる、太くて長い無数の蔦に。

「ラン班……ちょ……」

 僕は掠れた声を出した。いや、声になっていなかったかもしれない。

 ラン班長は縛られた腕をギシギシと引いて抵抗していたが、蔦は解けない。拳銃は、絡め取られた手に握られていた。

「ツバサ、逃げろ」

 ラン班長が低い声を出した。逃げたい。だが腰が持ち上がらなかった。そろりとラン班長の上空を見上げて、僕はひっと息を呑んだ。

 それは、大きな雨傘のように見えた。木と木の間、幹の太い枝に引っかかるようにして、ドーム型の樹皮の塊のようなものが広がっているのだ。そこからダラダラと蔦を垂らし、ラン班長に絡みついている。ひっくり返した袋状の本体から長い蔦を伸ばす姿は、材質こそ植物のようでも形状はさながらクラゲのようだった。

 ラン班長の腕は蔦で不自然な方向に曲げられ、締め上げられた皮膚が擦れて血が滲み出していた。

 この樹皮の固まったようなものも、マモノなのか。植物にしか見えないけれど、その蔦はたしかに意思があるように蠢いている。

「逃げろと言っている。森クラゲの触手は可動範囲が案外狭い。お前の距離なら逃げられるから、さっさとここを離れてフォルクを連れてこい」

 ラン班長はこんな状況でも落ち着いている。

「でも……フォルク副班長がどこにいるのか……」

 傷が痛んだのか、ラン班長はうっと呻いた。

「早くしろ。このままだと私、こいつに養分取られて頭上の母体に捕食される」

「そんな……!」

 僕ははあっはあっと荒い息を繰り返した。ラン班長は、僕を突き飛ばしてマモノから距離を取らせ、自分が囮になったのだ。本当ならきっと、鈍臭い僕がああして手足を絡め取られていた。

 僕の身代わりになったラン班長を、これ以上苦しめるわけにはいかない。僕はよたっと立ち上がって、叫ぼうとした。

「副班長っ……」

「大声で呼ぶな。その声で他のマモノが刺激されて、襲ってきたらどうする。見てのとおり今の私は身動きが取れん。流石の駆除班班長でも、この状態のときに噛み付きトカゲでも来ようもんなら死ぬ」

 ラン班長は不機嫌そうな声で僕を止めた。苦しそうに息を荒らげているけれど、彼女は冷静だった。逆に僕は、焦りで頭が回らなかった。

 地形が全く分からないこの広大な森の中で、しかも大声で呼ぶことが禁じられていて、フォルク副班長と合流することなんてできるだろうか。仮にできたとして、ここまで案内できるだろうか。それまでに、ラン班長の体はもつのだろうか。

 絶望的な気持ちになった。

「早く行け」

 ラン班長の首にも、蔦が巻き付きはじめる。僕はカタカタと身を震わせた。ラン班長が蔦の絡まった手をぐっと引っ張り、拳銃を真上に向けた。タンッと軽い発砲音が弾ける。僕はびくんと全身を強ばらせた。

「私は二日酔いで機嫌が悪いんだ」

 元々強面のラン班長が、余計に鬼の形相になる。

「何度も言わせるな。思いどおりにならないと殺意が芽生える。このマモノに対しても、お前に対してもな」

 発砲された弾は、真上の樹皮の傘みたいなマモノに命中した。木の皮のようなマモノの皮膚が、パラパラと零れ落ちる。

 僕は震える足でずりっと地面を擦った。

 行かなくちゃ。

 分かっているのに、すぐにでも行動しないと間に合わないかもしれないのに、体がいうことをきかない。パニックで動けない。

 タンッと銃声が響く。ラン班長はもう一度、真上のマモノに弾を撃ち込んでいた。ただ、腕を縛られているせいで安定せず、弾の軌道は逸れて横の樹木に当たった。

「フォルクと合流できなきゃそれでもいい。私は大丈夫だから、お前はとにかくここを離れろ」

 その言葉を聞いたとき、僕の中でなにかが駆け抜けた。

 自分の中で、時間が急激に逆流した感じがした。


「……なに?」

 公園の砂場にいた、小さな女の子。

 まだ五歳に満たないくらいだろうか。かわいらしい顔をしているのに、服は汚れ、肩に届かない長さの黒髪は乱れ、顔には大きな痣がある。汚れたワンピースから伸びる手脚はガリガリに細い。目なんか、死んだ魚みたいだった。

「なにか、用?」

 女の子は感情が死んでいるかのような声で、僕に問いかけた。

 なんの音もしない。蝉が鳴いていたはずだし、公園には他の子供もいた。でも、僕にはなんの音も届いてこなかった。

 ただ、彼女の声だけが、冷たく染み込んでくる。

「えっと……」

 返事をした僕の声も、幼稚園に通っているくらいの幼い子供の声だった。

「君、血が出てるよ。痛いの?」

「痛かったら、助けてくれるの?」

 真夏の陽射しが眩しすぎて、彼女の無表情は白く霞んで見えた。

「できないでしょ?」


「ツバサ! ぼけっとしてないで行け!」

 ハッと、僕は我に返った。ラン班長の怒声で現実に引き戻される。

 目の前には蔦に絡まれたラン班長、そして彼女を取り込もうとするマモノがいる。

 一瞬見えた、真夏の砂場にいた少女のビジョンは水を浴びた火のようにシュッと消え失せた。今のはなんだ? あの女の子は誰なんだ? 分からないが、ただ分かるのはあれは間違いなく僕の記憶だということだ。

 そうだとしたら、きっとそのとき、僕は。

「ちょっと、耐えててください!」

 僕は背中に背負っていたリュックサックを地面に脱ぎ捨て、中からペンケースを引っ張り出した。そこからハサミを持ち出し、ラン班長の方へ駆け出した。

「バカ! こっちに来るな!」

 ラン班長が怒鳴る。それでも僕は、ありったけの武器を手に特攻した。

 きっと僕は、あの子になにもしてあげられなかった。あの公園にいたボロボロの女の子に、僕はなにもしてあげられなかったのだ。

「できないなんて言わないで。できないかもしれないけど、でも放っとくのは嫌だ」

 ラン班長を締め付ける蔦に、ハサミの刃を突き立てた。蔦は僕の手首ほどもある太さで、簡単にはちぎれない。

「なにを言ってるんだ! こっちに来たらお前も共倒れする!」

 ラン班長の怒声がぶち当たっても、僕は更にハサミを蔦にくい込ませた。

 頭では分かっている。僕までこのマモノの餌食になったらいよいよ助けが間に合わないかもしれない。ラン班長に頑張ってもらって僕が助けを呼んでくるのがいちばん合理的だ。

 そんなのは分かっている。でも、一瞬駆け抜けたあの記憶の彼方の映像が、未だに脳裏に焼き付いている。あのなにもかもを諦めた、幼い少女の目。

 にゅっと伸びてきた他の蔦が、僕の足首に絡みつく。振り払ってもしつこく伸び、そのうちギリギリと巻きついた。ハサミで噛み付いたが、少し蔦に傷が付いただけでチョキンと切れる太さではない。

「この糞ガキが……」

 ラン班長が僕に悪態をつく。またひとつ、銃声が上がった。途端にするりと、僕に絡んでいた蔦の力が弱まった。ラン班長の発砲が運良く僕に絡む蔦の根元に命中したのだ。

「次はお前を撃つぞ。離れろ」

「嫌だ、置いていきたくない!」

 あの少女になにもしてあげられなかった、その罪悪感が胸を締め付ける。来るなと言われて本当に逃げた、あの自分が許せない。

 あのときの少女とラン班長とを重ね合わせるのは違うということも、分かっている。でも、同じ過ちを繰り返したくない。

「おい! 言うことを聞け!」

 ラン班長が棘のある声で怒鳴ったときだった。

 タンッと、新たな銃声が響いた。

「大声出したらマモノが余計に興奮しますよ、班長」

 涼やかな声と、タンッタンッという爆ぜるような音。ラン班長の腕がするりと蔦をすり抜けた。僕の腕に絡まりかけていた蔦も、ぽろっと地面に落ちる。ラン班長がはあ、と大きな息を吐いた。

「よくここが分かったな、フォルク」

 僕らの前には、拳銃を構えたフォルク副班長、その横で目を丸くするチャト、そのチャトを後ろから取り押さえるフィーナの姿があった。

 ラン班長が僕の腕を引き、マモノの真下から飛び退いた。フォルク副班長の方へと駆け寄り、もう一度大きなため息をつく。

「久しぶりに死ぬかと思った。助かったよ」

「お菓子でも奢ってくださいね」

 フォルク副班長はにっこり笑って、蔦をうねうねさせるマモノにもう一発弾を撃ち込んだ。蔦がまたひとつ、ぷつんとちぎれる。マモノは怒っているのかこちらに向かって蔦を伸ばしてきたが、距離が伸びずここまで届いてはこない。高い木の幹にいるマモノ本体がずるりと移動を開始したが、フォルク副班長に狙撃されて動きが止まった。

 フィーナがチャトを離してラン班長に駆け寄る。

「傷を見せてください。魔導で回復を速めます」

「助かる。なるべく暴れないようにしたから傷は浅いが、かなり体力吸い取られた」

 ラン班長は息を荒らげて座り込んだ。

 僕は呆然として、その場でへたっと膝を折った。助かった、のか。

「ツバサ、大丈夫?」

 チャトが僕を覗き込む。僕はなにも返事ができなかった。なにか言いたかったのに、声にならなかった。ただ押し寄せてくる安堵と震えに、ぼろっと涙が零れ出た。

 それを見ていたラン班長が般若の顔で睨む。

「お前な……泣きたいのはこっちだぞ。さっさと援護を呼んでくれればいいものをグダグダしやがって」

「ご、ごめんなさい!」

 僕はぼたぼた泣きながら謝った。

「ラン班長の言うとおりにすべきなのは分かってました。でもパニックになっちゃって、判断力が鈍ってしまって……!」

「そんなのが兵団で通用すると思うか!? お前みたいな身勝手な奴のせいで犠牲者は増えるんだ!」

「ごめんなさい!」

「まあまあ! ツバサくんは兵団員じゃないし。それに、結果的に間に合ったからよかったじゃないか」

 フォルク副班長がラン班長を朗らかに宥める。

「こちらとしてはツバサくんが班長の傍から動かなかったから、ここに辿り着けたんだよ」

「はあ?」

 ラン班長が声を裏返す。フォルク副班長はチャトの耳と耳の間をぽふんと叩いた。

「チャトが腕輪を捜すのに、『おいしそうな匂い』を辿るでしょ。辿ってるうちに腕輪じゃなくてツバサくん本体の匂いをキャッチしちゃって、ここまで来たんだ」

「マジかよ。便利だな、その匂い」

 ラン班長がぐったりと頭を垂れた。チャトは僕が零した涙を興味深そうに見つめている。尻尾をぶんぶん振って嬉しそうにしているので、多分涙からもおいしそうな匂いがしているのだろう。

 ラン班長の怪我に治癒魔導を当てて、フィーナが真剣な顔をで言った。

「班長さんのお怪我のこともありますし、一旦アウレリアに引き上げませんか?」

 彼女は僕らの顔をそれぞれ見渡した。

「噛み付きトカゲに振り回されて腕輪が吹っ飛んだとして、考えられる範囲は調べました。目で見て捜しましたし、私は森の木々の声も聞きました。ですが、そんなものは落ちてないみたいなんです」

「えっ……?」

 僕は眉を寄せた。フィーナは困り顔で頷いた。

「木々は動けませんから、情報は限定的です。より遠くの情報は伝言ゲームになってしまうし、なにより彼らはあまり物事に関心がないので腕輪のことにも興味がないようでした。それでもできる限り情報をかき集めましたが……この付近にはないと言うんです」

「でも昨日はたしかに、自分の腕に引っ掛けてあったのを見たよ? この森でなくしたのは間違いないんだけど……」

 この森で目を覚まして、僕はすぐに自分の腕を確認した。そのとき間違いなく、光るのをやめたあの腕輪があったのをこの目で見ている。なくなったことに気がついたのは、噛み付きトカゲに襲われた後だった。

 チャトがぱちぱちとまばたきをする。

「だけど、俺も腕輪の匂いを見つけられなかった。やっと匂いがしたと思ったらツバサ本人だった」

 木々の声を聞いたというフィーナと、遠くにいる僕を見つけられるほどの鼻を持つチャト、このふたりがないというのなら、本当にないのかもしれない。

 フィーナはちらりと、宙でモニョモニョしている蔦のマモノを見上げた。

「班長さんがこんなに衰弱してるのに、このまま森を歩かせるわけにはいきません。アウレリアに戻りましょう」

「うん……ごめんなさい、足を引っ張ってしまって」

 僕のせいで森に来ることになって、僕のせいでラン班長に怪我を負わせた。しょんぼりと肩を竦めると、背中をトンと叩かれた。いつの間にか、フォルク副班長が僕の横にしゃがんでいた。

「気にすんな。マモノ討伐の仕事が入ると給料増えるし、怪我をすれば手当金が出る」

 屈託のない笑顔で励まされ、僕も頬を緩めた。


 *


 アウレリアに帰って政府管理局に戻ると、窓口にいたリズリーさんが僕らに気がついた。

「お帰り! 思ったより早かったわね。腕輪見つかった?」

 向き合っていた書類を放って、彼女はカウンターからこちらへ駆け寄ってきた。そしてボロボロのラン班長に目を丸くする。

「あら、噛み付きトカゲに苦戦したの?」

「トカゲじゃない。これは森クラゲに吸血されたんだ。この糞ガキのせいで」

 ラン班長は恨み節で僕を睨み付けた。僕がびくっとすると、フォルク副班長がそっと僕の肩に手を置いた。

「この子も一生懸命応戦してました。それはそうと、噛み付きトカゲは取り逃したみたいです。フィーナちゃんが森の木々に聞いたところ、迷い込んでいた噛み付きトカゲは一頭、そしてその一頭は昨晩のうちに岩山の方角へ戻っていったようです」

「そうなの? それじゃ噛み付きトカゲはアウレリアに攻めるために近づいてきていたわけじゃなかったのね。なにをしに森に来たのよ」

 リズリーさんが疑問を呈すると、フォルク副班長も首を傾げた。

「さあ? 単に迷子になっちゃったんじゃないですか?」

 僕はフォルク副班長を見上げて尋ねた。

「あの森クラゲっていうマモノは、駆除しないの?」

「んー、あれは元から森にいるものだから、殲滅してはいけないものなんだよ。駆除班と名乗ってはいても、駆除に値するマモノってほんの一握りでね。よっぽどどうしようもないとき以外は、殺しちゃいけないんだ」

 人間にとってどんなに危険な生物でも、全部駆除してもいいわけではないらしい。そういえば僕がいた元の世界も、人間の都合で生き物を絶滅させてはいけない。それと同じなのだろう。

「でも、あんなのがいる森で薬草集めてたらチャトとフィーナが危ないんじゃ……」

 心配したが、それにはチャトがこたえた。

「森クラゲの汁は臭いから、いるの分かるから近づかないよ」

「チャトが嫌がるところに行かなければ大丈夫なので、私も心配ないです」

 フィーナもチャトの隣で続いた。ラン班長が話していたのを思い出す。獣族と精霊族が子供同士で結託し、力を貸し合って暮らしている……それはまさに、こういうことなのかもしれないな、と思った。

 ラン班長の怪我と僕の足にも負った傷を診るため、リズリーさんは僕らを連れて二階の医務室に向かった。

 椅子にかけるラン班長の怪我を手当しながら、リズリーさんは問うてきた。

「この様子だと、腕輪は見つからなかったのかしら?」

「はい。チャトが匂いを探っても、フィーナが森に尋ねても、見つかりませんでした」

 僕本人は歩くのに精一杯で、まともに周囲を捜せてもいなかったのだが。リズリーさんはラン班長の腕に薬を塗り付けて、眉を寄せた。

「困ったわね……森にないなら、もう誰かが拾ったのかもしれないわ。森を散策していた人間が拾ったとか、マモノが巣作りの材料にするために持っていったという可能性もあるわね」

 ラン班長が難しい顔をする。

「だとしたらもう回収は不可能だな」

「え、じゃあ僕、帰れないんですか?」

 僕は素っ頓狂な声を出した。唯一並行する世界が繋がるヒントだった腕輪がなくなってしまったら、帰るすべがひとつも見当たらない。絶望で目の前が真っ暗になる。このまま一生、この知らない世界で暮らすのか。

 チャトがパタタと尻尾を振る。

「ないなら作っちゃおうよ」

「流石は獣。発想が斜め上だな」

 ラン班長が怪訝な顔をする。チャトは不思議そうに首を傾げた。

「そう? 案外魔導で簡単に作れちゃう魔導具かもしれないぞ?」

 だがフィーナが首を捻る。

「うーん……並行する世界を繋げるだけの魔力って、相当強いと思いますよ?」

「それもそうかあ」

 そんなやりとりを見て、リズリーさんがふと真面目な顔をした。

「……ジズ老師」

「ん?」

 小さな呟きが聞こえて、僕はリズリーさんに聞き返した。リズリーさんは、顔を上げて今度ははっきりと言った。

「正直言って、私はまだツバサくんが異世界の人だなんてフィクションみたいな話は信じられないわ。でも、仮に現実だとしたら、会ってみてほしい人がいる」

 彼女はそう前置きして、言った。

「メリザンドっていうここから東にある都市に、私に魔導を教えてくれた教授がいるの。ジズ老師といって、魔導を極めるだけでなく魔道具の開発なんかもしてる、多彩なおじいちゃんよ」

 そして彼女は、にこりと口角を上げた。

「とても変わり者でね、並行するもうひとつの世界の存在を信じて独自に研究している人なの。ツバサくんの腕輪が本当にふたつの世界を繋いだものなのだとしたら、彼ならその腕輪のことも知ってるかもしれないわ」

 瞬間、僕の中に希望の光が差した。魔道具に詳しくて、尚且つ僕の住む世界のことを知っている人。その人ならきっと、あの腕輪のことも分かるに違いない。

「その人、メリザンドってところにいるんですね!?」

「ええ。メリザンドの魔導学園で、書斎に篭ってるわ」

 リズリーさんが真剣な顔で続けた。

「まずは老師宛に伝言鳥を飛ばして、腕輪を知っているか聞いてみましょう」

 リズリーさんはラン班長の手当と治癒の魔導を終え、一旦席を外した。僕はフィーナと顔を見合わせた。

「伝言鳥って? 名前からして通信手段っぽいけど……」

「伝言鳥というのは鳥型のマモノの一種で、餌を与えると伝言を覚えて指定の相手に伝えに行ってくれるんです」

「言葉を覚えるの?」

「はい。でも間違えてしまう場合も多いので、足に手紙を結びつけて運んでもらうこともできますよ」

 すごい。オウムみたいに言葉を覚えて、伝書鳩みたいに人から人へ伝言を持っていくのか。

 ラン班長が僕らに目を向けた。

「とはいっても、そこらへんの青い伝言鳥はミスが多いからな。言葉は間違えるし、手紙は落とすし、伝える相手を忘れてしまうケースすらある。だから管理局では、ミスが少ない緑の伝言鳥を専用で飼育してる」

「機密情報に至っては鳥には任せられなくて、人間が自力で伝えに行くしね」

 フォルク副班長が苦笑いした。それから少し屈んで、僕の耳元でひそひそ声を出す。

「班長は子供の頃、伝言鳥のミスで街が大騒ぎになるほどの大変なことに事態を起こしてるから、伝言鳥を信用してないんだってさ」

「聞こえてるぞフォルク」

 子供の頃の失敗談を洩らされたラン班長は、ドスの効いた声で威嚇した。


 *


 リズリーさんの伝言鳥が返信を持って帰ってくるまで、僕は管理局の医務室で子供向けのマモノ図鑑を読んで過ごしていた。チャトとフィーナに図鑑のマモノについて説明してもらっていたのだ。

 ラン班長は寝台で休みながら僕らの様子を見ていて、フォルク副班長は他の部署に呼ばれて雑用を手伝いに行った。

 数時間もすると、肩に緑色の鳥を乗せたリズリーさんが医務室に戻ってきた。

「ツバサくん。ジズ老師があなたに会いたいって」

「ジズ老師、腕輪のこと知ってたんですか!?」

 図鑑から顔を上げて叫ぶ。リズリーさんは眉を寄せて唸った。

「はっきりとはこたえてこなかったわ。でも、確かめたいことがあるみたいで、いろいろ見せたいものや説明したいこともあるから、直接会いに来てほしいと言ってる」

「行きます!」

 僕は食らいつく勢いで即答した。なぜかチャトも耳をピンと立てた。

「メリザンド! 俺も行きたい!」

 つぶらな瞳をきらきらさせて、尻尾を振っている。

「メリザンド名物、コケケ鳥のタマゴのお菓子があるんだ。ずっと食べてみたかったんだよ!」

「食欲かあ」

 僕は目を輝かすチャトに苦笑いした。リズリーさんは、しばし考えた。

「ただ、メリザンドまで行くのにあの森を抜けてマモノに占拠された地域をずっと歩かなくちゃいけないわ。岩山をひとつ越えることになる」

「う……」

 少し気持ちが陰った。垂直ネズミみたいなただの小動物のようなものならともかく、噛み付きトカゲや森クラゲみたいな危ない生物に会ってしまったらと思うと気が重い。

「ツバサは弱っちいからなあ。小ちゃいマモノにもびっくりしそうだね」

 チャトが口を挟んできた。

「俺が一緒に行ってあげようか?」

「さっき言ってた名物のお菓子が食べたいだけでしょ……」

 チャトは否定はしなかった。

「俺には牙も爪もあるから、強いんだぞ」

 ニヤッと笑い、チャトが鋭い牙を覗かせる。手を招き猫みたいに掲げて、指から伸びる尖った爪も自慢してきた。それを見ていたフィーナが言う。

「なんにしろ、この世界のことが分からないことだらけのツバサさんを、都市の外にひとりで放り出すなんてできませんね。なにかの縁ですし、私も一緒にメリザンドまで案内しますよ」

「そんな、危ないんでしょ? 巻き込むわけにはいかないよ」

 そんな会話をしていると、リズリーさんがふふふっと笑った。

「子供だけで行かせるのは流石に私も心苦しいわ。どうせ暇でしょうから、マモノのプロフェッショナルを同伴させましょう」

「はいはい、どうせ暇だよ」

 ラン班長が投げやりに言った。

「だが私たちも本業は『人を襲うマモノの駆除』だから、要請が入ったらお前ら置いてでもアウレリアに帰るからな」

「そんな要請滅多に入らないくせに」

 リズリーさんが意地悪に笑った。

「ツバサくんすぐにでも帰りたいだろうし、準備ができ次第メリザンドに向かいましょう。私もいろいろと手配しておくから、あなたたちも出かける用意を整えておいてね」

 彼女に勧められて、僕はチャトとフィーナと一緒に都市へと買い物に出かけた。


 *


 メリザンドへは、いちばん近いルートなら半日あれば着くらしい。今の時間は昼前くらいのようなので、これから出発すれば夕方から夜までに着くことができる。

 僕らはアウレリアの市場や商店を巡り、着替えや食べ物、怪我をしたときのための薬などを買い集めた。リズリーさんは「意地でも経費で落とす」と僕らを送り出してくれたのだった。

 買い物をしていた市場は人で賑わっていた。見たことのない食材がコンテナに入って売り出され、チャトとフィーナがああでもないこうでもないと言い合いながら買い物カゴに入れている。僕はふたりと一緒に見慣れない食べ物を見ていたが、ふと、視界の端に映ったものに息が止まった。

 人混みの中に一瞬、長いミルクティー色の髪が見えた。

「えっ……」

 思わず、振り返る。

 人混みの中に混じって歩いている、長い髪の女の子がいる。その後ろ姿に、僕は直感的に叫んだ。

「天ヶ瀬さん!」

 同じクラスの、天ヶ瀬つぐみ。

 背中まである印象深い色の髪が、咄嗟にそう判断させる。

 ここにあの子がいるはずがない。そう分かっているはずなのに、僕には彼女が天ヶ瀬さんに見えた。

「天ヶ瀬さん、天ヶ瀬さん!」

 追いかけようとしたら、チャトが僕の腕を掴んだ。

「どうしたのツバサ! 知り合いでもいた?」

「うん、多分……!」

 声が消えそうになる。チャトは怪訝な顔をした。

「ツバサは他の世界から来たんじゃないの? この世界に知り合いいるの?」

「そうなんだけど! でも、今……!」

 しかし、あの少女は幻影かなにかだったみたいに、人混みに紛れていなくなってしまった。

 いるわけ、ない。

 頭では分かっているのに呑み込みきれない。

 フィーナがきょとんとしている。

「ツバサさんの世界の方がいたとしたら、もっとツバサさんみたいに慌ててると思います。ただのそっくりさんでは?」

「そっか……だよね」

 そうに決まっている。天ヶ瀬さんまでこちらに来ていたら、きっと混乱しているはずだ。こんな風に、街を普通に歩いているはずがない。

 僕はその少女がいた方を、呆然と眺めていた。

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