2 王都アウレリア

「いらっしゃいませー!」

「おいおい、遊ぶ順番守れよ!」

 あちこちから、明るい声が飛び交っている。噴水のある広場に市場が展開されて、屋台を構えたおじさんたちが声高に叫んでいる。その付近には小さな子供たちが駆け回り、中には僕には見たことがないようなおもちゃを用いて遊んでいる子供もいた。

 桜色の空に向かって突き出す高い建物は、全て赤い屋根で統一されている。屋根から屋根へと、鳥が飛び移る。活気のある街の平和な景色を、僕は口を半開きにして見回していた。僕の視界のずっと奥には、圧巻なほど大きな城がそびえ立っている。どうやらあれがアウレリア城のようだ。

 ここは、王都アウレリアというらしい。

 あの後、僕たちは森を抜けて平坦な道を数分進んだ。その間、チャトはしきりに僕のことをおいしそうだと言っていた。

 歩いているうちに、水路にぶち当たった。水路には大きな橋が架けられていて、その向こうには、坂道に連なる赤い屋根の集合体、そしてそれに囲まれるように建つ城がある。

 アウレリアは急な丘の頂点に建つ城を取り囲むように、坂道に形成された城下町なのだという。チャトとフィーナはこの街の坂の下の方に住んでいるのだそうだ。

 街にいる人々を観察してみると、どうやら僕と同じような「普通の」人間が多いのが目に付いた。チャトのような耳と尻尾、フィーナのような尖った耳を持つ人ではなく、丸い耳のただの人である。日本人の顔でこそないが、見慣れた風貌の人が多くて少し安心した。よく見るとチャトやフィーナみたいな不思議な容姿の人々も混じっている。見たところ普通の人間の半分以下くらいの割合で、たくさんいるようではなかった。

「そんなにびっくりした顔して……ツバサ、アウレリア来たの初めてなの?」

 チャトが街を歩きながら怪訝な顔をする。僕はその背中を追いかけていた。

「初めてだよ。本当にこんなとこあるんだな」

 こんな街並み、ゲームでしか見たことがない。チャトがうーんと唸る。

「アウレリアっていう地名すら知らなかったもんね。識族の街の中でもいちばん大きいのに知らないなんて……」

「だから、何度も言ってるように僕は別の世界から来たんだよ。多分」

 きっと、そういうことなのだ。僕はあの腕輪によって、次元の違う別の世界に飛ばされてしまったに違いない。未だに夢だと思うが、体がこんなに痛むのに目が覚めないので信じざるを得なかった。何度そう主張しても、チャトにはピンとこないようだった。

「アウレリアを知らないんなら、ツバサが住んでた『ガッコ』はもっと遠くの街なんだろうね。もしかして霧の海の向こうから来たのかな」

「だから……街とかそういう単位のことじゃなくって。あと学校は街じゃないよ」

 どうしたものかと思うが、致し方ないのも分かっていた。別の世界から来たなんて、普通信じない。僕だって、自分でヘンテコな理屈だと思っている。

 チャトだけでなく、フィーナも分かってくれない。

「メリザンドかエーヴェのご出身かと。識族なのは間違いないけど、変わった服を着ていますし、その中でも少数民族なのかも」

 馴染みのない言葉が一気にたくさん出てきて、僕は反応できなかった。

 チャトとフィーナとしばらく一緒にいて、少しずつ分かってきたことがある。まず、彼らが僕のことを「識族」だと思っているということだ。

 どうも、この街にも多くいる通常の耳の人間のことを「識族」というようだ。そしてチャトのような獣と人間が混じったような外見の人のことを「獣族」といい、フィーナのような尖った耳の妖精じみた姿の人のことを「精霊族」というのだ。

 それからこの世界には大きな都市が三つあり、そのひとつがここ、アウレリアらしい。残りがメリザンドとエーヴェである。

 更にいえば、獣族と精霊族はいずれも別の場所にいたそうなのだが、識族が構築したこれらの街に移住してきたということも分かってきた。

 赤い屋根の連なる坂道を、僕らはのぼり続けた。中を見上げると空はやはり桜色と黄色の混じった色である。太陽が真上にあるので、多分、今は昼だ。

 高いところまでのぼるにつれて、振り向けば街の坂道を見下ろすことができた。たくさんの建造物で埋め尽くされた坂道が俯瞰できる。その下には、僕が迷い込んだ森が見えた。かなり広い緑が広がって、更にその奥には岩山がそびえていた。顔の向きを変えてみると、今度は海の欠片が見えた。水平線は白く霞んで見えない。どうやら、この街は海に近いらしい。街を囲む水路はあの海に繋がるのだろう。

 太陽も、海も森もある。自然の体質は僕がいた世界とあまり変わらないのかもしれない。ただ、空の色が変な色なのが気になるけれど。

「着きましたよ」

 フィーナに声をかけられて、僕は立ち止まった。そこには一際大きな建物が、ずっしりした扉を構えていた。

「アウレリア政府管理局です」

 フィーナが扉を押し開ける。僕はドデカイ建物を見上げてはあ、と感嘆した。

「管理局……」

「住民の管理をするところですけど、異国の旅人さんの補助もしてくれると聞いたことがあります。なんでも屋さんみたいな感じですよ」

 フィーナに教えてもらって、僕はもう一度はあと間抜けな返事をした。それではここは、役所みたいなものだろうか。

 管理局の中は白い板の張られた床と壁の、広い空間だった。空間を半分くらいに隔てるカウンターがあって、そこからこちら側には市民が何人かいるロビーになっており、向こう側には職員らしき人たちがくるくる動き回っていた。職員側の壁沿いは天井まである書類棚で埋め尽くされた、中には気持ち悪くなるくらいびっしりと書類が敷き詰まっている。

 カウンターはいくつかの窓口に分けられているようで、それぞれに看板が立てられている。

「ツバサさん、こっちです」

 フィーナに手招きされたところにも、看板がある。全く見たことがない奇妙な文字が刻まれている。が、なぜか僕はその看板に書かれた言葉の意味が理解できた。文字どおりの発音の仕方なんかは分からないのだが、「移住課」といった雰囲気の言葉であることは分かる。奇妙な感覚だ。

「リズリー!」

 列のない暇そうな窓口へと、チャトが駆けていく。窓口にいた女の人があらっと声を上げた。

「チャトくん、いらっしゃい。フィーナちゃんと一緒?」

「うん。今日はツバサもいるぞ。おいしそうな匂いがする奴だ!」

 チャトと話すリズリーと呼ばれた女性は、金髪に近い茶髪のかわいらしい人だった。長い髪を後ろで一本に束ねて肩に垂らしている。二十代くらいだろうか、笑い方は大人っぽいけれど、顔は童顔で若く見える。白いコートみたいな上着に黒いスカーフを巻いたその衣装は、どうもこの仕事の制服らしかった。

「リズリーはね、俺たちみたいなアウレリア外からの移住民の管理をしてる人なんだ」

 チャトが僕に紹介してくれる。なるほど、移住民を担当している人だというのなら、どこからか流れ着いた僕の面倒も見てくれるかもしれないということか。僕はフィーナと一緒に、リズリーさんの窓口の前に立った。

「初めまして。僕、翼っていいます」

「ツバサくんね。私はリズリー。管理局移住課の窓口担当よ。よろしくね」

 優しそうで、品のいいおねえさんだ。気さくに挨拶してくれたリズリーさんに向き合い、フィーナが僕の肩をぽんと撫でた。

「こちらのツバサさん、さっき森で噛み付きトカゲに襲われて怪我をしてるんです。応急処置で治癒魔導をかけたんですが、私の魔力じゃ追いつかなくて」

「森に噛み付きトカゲ? なんでまた。森にいるようなものじゃないわよ」

「それは分からないです。とにかく、リズリーさんって治癒魔導がお得意でしたよね。ツバサさんの脚を癒してほしいんです」

 フィーナがあまりに気遣うので、僕は却って申し訳なくなった。

「大丈夫、脚はもうそんなに痛くないよ。フィーナのお陰でよくなったから」

「だめ。私の治癒魔導は血を止めたのと、一時的に痛みを緩和させてるだけなんです。早く完全修復しないとすぐに激痛が戻ってきますよ」

 ピシャリと言い切られて、僕は言い返せなくなった。

 なんだか分からないが、フィーナは魔法のようなものを使える。あのトカゲの口元を凍らせたり、僕の脚の傷を治したり、そんな不思議な力を手をかざすだけで起こすことができる。フィーナはそれを、「魔導」と呼ぶ。

「怪我のこともですし、相談したいこともいっぱいあるんです」

 フィーナにせがまれて、窓口に肘をついて見ていたリズリーさんは頷いた。

「旅人のケアも私の仕事の内だものね。いいわ、おいで」

 彼女はカウンターに取り付けられた小さな戸を開けて、こちらに出てきた。


 *


 リズリーさんに案内されたのは、建物の二階にあった医務室だった。仮眠がとれる寝台が四つと、書類の乗ったテーブルがあり、壁は薬棚が埋め尽くしていた。僕は部屋の真ん中に置いてあった椅子に座らせられて、リズリーさんは僕の前にしゃがんだ。

「ツバサくんだっけか。傷を見せて」

「お願いします」

 僕は右脚を捻ってリズリーさんに傷の方を向けた。ジャージが破けて露になった脚には、枝が突き刺さった跡が顔を覗かせていた。リズリーさんは、丁寧に傷を観察した。

「傷口は塞がってるけど、跡が大きいわね。幸い貫通はしてないか。それにしても、これ噛まれた怪我ではないわね?」

「えっと……噛み付きトカゲとかいうやつに、ぶん回されて木に投げ飛ばされて、枝が刺さりました」

「めちゃくちゃ痛かったでしょ」

「うーん……怖くて怖くて生きた心地がしなかったので、脚の感覚なんて覚えてないです……」

 気が動転していたので、痛みを感じている余裕すらなかったのだ。とにかく、あのときは痛みより恐怖が勝っていた。

「まあ、噛まれたんじゃないならまだよかったわ。噛み付きトカゲの牙には毒があるから」

 恐ろしいことを言いながら、リズリーさんは躊躇なく僕のジャージをずり上げた。

「木に投げられたってことは、怪我はこれだけじゃないんじゃない?」

 ワイシャツごと胸まで上げられると、腰の辺りの痣や小さな切り傷まで露出した。

「思ったより酷いわね。よくここまで歩いて来られたわ」

 驚くリズリーさんを見て、僕の隣に立っていたチャトとフィーナも覗き込んできた。

「うわ! 痛そう」

 チャトが悲鳴を上げ、フィーナは絶句した。リズリーさんは傷を見ながら、ふいに眉を寄せた。

「ん? 治りかけの傷もあるわね」

「あっ、それは……トカゲは関係ない傷だと思います」

 僕は引き攣った苦笑いを浮かべた。

 多分それは、渡辺に付けられた傷だ。僕が多少の痛みには耐えられたのは、普段から痣を残しているせいかもしれない。なんて、恰好悪くて言えなかった。

「転んだり……したので」

「そう。まあいいわ、まとめて治癒しましょう」

 リズリーさんは立ち上がって、壁沿いの薬棚の引き出しをあちこち開けはじめた。

「魔法で治すんじゃないんですか?」

 なんとなく聞いてみたら、彼女は振り向かないで引き出しをパカパカさせながらこたえた。

「あら、知らない? 治癒の魔導は薬品と併用した方が早いのよ」

 ゲームの中の回復魔法とは違うのか。アイテムを使うか魔法を使うかは同じ効果のもので、同時に使うイメージではなかった。そんなことを考えている僕の横に、椅子を運んできたチャトが座った。

「魔導なんて、使わない人は分かんないよ。俺だってよく分かんないもん」

「チャトくんは何度教えても忘れるじゃない」

「聞いたって分かんないもん。俺は魔力なんかなくたっていいし」

 チャトと不毛なやりとりをするリズリーさんは、すっと人差し指を立てた。

「チャトくんは獣族だものね。生まれつき魔力がからっきしだから、仕方ないか」

 人差し指がほわっと光り、それに伴って座っていたチャトの体がふっと浮かんだ。僕はぎょっとし、急に浮かされたチャトもびっくりしていた。

「フィーナちゃんみたいに生まれつき魔力を持ってる人もいれば、チャトくんみたいに種族ごと全く才能がないも子いる」

 リズリーさんは指をくるくるさせた。それに突き動かされるみたいに、チャトの体が宙返りする。尻尾がふわんふわんとチャトの体にまとわりついていた。

「私のように努力で身につけることもできる」

 リズリーさんが人差し指を親指の腹で擦ると、途端にチャトはストンと椅子に戻された。チャトがむうとむくれる。

「なにもくるくるしなくたっていいだろ。びっくりしたよ」

 一部始終を見ていた僕はぽかんと口を開いて固まっていた。チャトがリズリーさんの指一本で意思と反する動きをさせられていた。それもサーカスみたいな、超能力みたいな動きだったから余計に衝撃的である。

 チャトと同じく椅子を持ってきたフィーナは、そんな光景にも見慣れているのか落ち着いて切り出した。

「ツバサさんは、どうやら遠くから来たらしいなんです。ちょっと記憶が曖昧なのか、いろんなことが分からなくなってるみたいで」

「ああ……時々いるわよ。旅の途中でマモノに襲われて、頭を打ったショックとかで記憶が変になっちゃう人。でも大体、休めば戻るから大丈夫よ」

 リズリーさんはフィーナの言葉には驚かなかった。むしろよくあることみたいに、落ち着いて対応している。リズリーさんが薬棚から包帯や貼り薬みたいなもの、それから瓶に詰まった緑色の薬を集めてきて改めて僕の前にしゃがんだ。

「ツバサくんは、なにがどこからどこまで分からないのかしら。母国は分かる?」

 向かい合った彼女は、僕のことを「他の国の識族」だと解釈したようだった。問いかけられた僕は、どこから説明すればいいのか戸惑った。

「こんなこと言って信じてもらえるか分かんないんですけど」

 僕はぽつぽつと切り出した。リズリーさんは頷きながら、僕の脚の傷に緑色の薬をペタペタ塗っていた。

「僕、ここじゃない全く別の世界から来たみたいなんです」

 薬はべっとりしていて冷たい。けれど、沁みたりはしなかった。リズリーさんが引き続き傷に薬を塗り込んでいく。

「ん? 遠くの国ってことかしら?」

「そうじゃなくって……僕が住んでた世界は、機械が喋ったりとか、服装も僕みたいなのが普通だったんです。魔導っていうのかな、そういうのを使える人もいない」

 なんと言えば伝わるのか、分からない。

「えっと、これを見てください」

 僕は背中に背負っていたリュックサックをお腹の方に持ってきて、ファスナーを開けた。そして中から教科書やノート、ペンケースなんかを次々と出してみせた。数学の教科書を手に取ったリズリーさんは薬を塗る手を休めて、パラパラッと捲って目を剥いた。

「なにこれ。なんて書いてあるの? 言語が全く違う」

 チャトはペンケースからシャープペンや油性ペンを取り出して感嘆した。

「なんだこれ、面白い! ここ押すとカチカチ鳴るぞ。これは頭が外れる」

「これはなんですか……? 一体どこの、どういった文化の産物なんですか?」

 フィーナが目の前に広がる目新しいものに驚きながら問うてきた。僕は三人を見渡し、慎重に話した。

「僕は日本という国の中学生です。学校できれいな腕輪を拾って出来心でつけてみたら、急に光り出して、気づいたら森の中で眠ってたんです」

 伝わるか伝わらないかは抜きにして、とにかく状況を説明した。リズリーさんは怪訝な顔をして、教科書を捲る手を止めた。チャトはきょとんとしているし、フィーナも困った顔をしていた。

 やがてリズリーさんが、教科書を僕に返した。そして再び塗り薬を塗りはじめる。

「チャトくん、フィーナちゃん。あなたたち面倒事は全部私に押し付けたらいいと思ってない?」

「なんでも相談してねって言ったの、リズリーじゃん!」

 チャトがくわっと牙を剥いた。僕は突き返されていた教科書をぎゅっと握った。

「ごめんなさい、面倒事で……」

「並行する次元にもうひとつの世界が存在して、それはこの世界とは通常交わることなくそれぞれの時間、空間を構築している。でも、なにかの弾みにふたつの世界が繋がることがある。そのとき、住む世界と違う世界に紛れ込んでしまう人がいるという」

 リズリーさんが淡々と言った。

「そのもうひとつの世界は、人間は識族しか存在せず他の種族はいない。マモノもいない。魔導もないが、化学が魔導と同じくらいの力まで発達している……らしい」

 まさに僕が言いたかったことが伝わったようで、僕はぱっと面をもたげた。

「そう! そうなんです、僕は並行してる世界から来たんだと思う」

「っていう娯楽小説が流行してるのは知ってるわよ。あなたもそういうのを読むの?」

 歓喜した直後に突き落とされた気分だった。パラレルワールドの存在は、架空の世界だとされているようだ。そりゃそうか、僕だってこんな世界が実在するとは思っていなかった。

 このままでは僕は流行の娯楽小説に酔って、自分が主人公になりきっているおかしな人だと認識されてしまう。

 どうしたものかと頭を悩ませていると。

「けどリズリー、俺にはツバサが嘘をついてるようには見えないよ」

 チャトがシャープペンをカチカチさせて、言った。

「自分をお伽噺の登場人物だと思い込んでるような感じもしない。俺、獣だからそういう勘は鋭いぞ」

「私も、そう思います」

 フィーナもそろりと手を上げた。

「思い込みだけで、こんな不思議な道具を作ったりはできない」

 僕が見せたありふれた日常の道具が、決定打になったようだ。リズリーさんもそれには頷いた。

「そうなのよね……。でも異文化の人だとしたら、なんで私たちと同じ言語で話せるのよ……」

 薬を塗り終えた彼女は、慣れた手つきで包帯を僕の脚にくるくる巻き付けた。

「なんで話せるのかは僕も分からない。でも多分、あの腕輪のせいだと思う」

 僕は前のめりになって主張した。

「こっちの世界に引きずり込まれるときに、言語が理解できるようにされちゃったんだと思うんです。全部あの腕輪のせいなんだ」

「腕輪かあ……それ、見せてくれる?」

 リズリーさんが僕を見上げる。僕はううっと首を竦めた。

「なくしました。でっかいトカゲに振り回されたときに、どこかに飛んでいっちゃった」

 そうだ、あの腕輪があれば、もしかしたら元の世界に帰れるかもしれないのだ。もう一度同じように腕に嵌めたら、同じように光に包まれて、戻る。しかしそれが手元にないのだから、どうしようもない。

 リズリーさんは難しい顔をして唸った。

「私は並行するもうひとつの世界があるなんて、あまり信じてないんだけどね。私に魔導を教えてくれた恩師は大真面目に信じていて、そのもうひとつの世界に関する文献を集めて調べていたわ」

 腰や背中にできた痣にも、リズリーさんは貼り薬をぺたぺたくっつける。

「だから、もしかしたらそんな世界が実在するのかもしれないなとは思ってる。ツバサくんの話を完全に信じたわけじゃないけどね」

 彼女はちょっと面倒くさそうに苦笑いした。

「嘘や思い込みだったとしても、アウレリアの外からの来た人間の補助は私の仕事だもの。ちゃんとフォローするわ。それに、仮に君の言ってることが本当だったらとんでもない事態だし」

 彼女は薬を塗った傷跡に手をかざした。冷たいような温かいような、フィーナに手をかざされたときと同じ感覚がする。

 体の傷が楽になっていく。包帯や貼り薬の下であの緑色の薬がきゅーっと濃縮されて、体に染み込んでいく気がした。

「これはね、治癒の魔導。魔導というのは空気中を漂う波動を自身の魔力で捏ねて、形を変える武道のこと」

 リズリーさんがそう丁寧に教えてくれた。

「波動を変化させることで、温度、摩擦、活性……そういった目に見えにくいものを操作するものよ。治癒の魔導は活性の魔導の一種。人の体の治癒能力を早めたり、薬の効果を強めたりしてるの」

「はあ……」

 間抜けな相槌を打つ僕に、リズリーさんはちらりと目を上げた。

「記憶喪失で現実が分からないにしろ、本当に別の世界から来たにしろ、いずれにしてもあなたが知らない常識を教えてあげないといけないものね」

 僕が余所の世界の者だと分かってくれたからだろう。それが感じられて、僕は安心してすうっと体の力が抜けた。

「……はい、教えてください。なんにも分からないです」

 体が重くなっていく。リズリーさんは他の怪我にも手をかざした。

「腕輪が見つかっても同じ要領で帰ることができるとは限らないわ。でも聞いた感じその腕輪が原因なのはたしかなようだし、現物を見せてもらう価値はある。解決の緒はそこにあるはず」

 リズリーさんの声は聞こえるが、意味が理解できるまでに時間がかかる。徐々に頭が回らなくなって、僕はかくんと俯いた。

「まずはその腕輪を探すところからね」

 彼女の言葉を最後まで聞くか聞かないかのところで、僕の体はぐたっと崩れ落ちた。


 *


 目が覚めたときには、布団の中で横たわっていた。薄目を開けて微睡みの中でぼうっと考える。ここはどこなのか。見慣れない風景だ。……そうだ、僕はたしか、アウレリア政府の管理局に来ていて、その医務室にいたのだった。ではこの布団は、医務室の仮眠用の寝台だろうか。

 まさかな。きっとあれは夢だったのだ。僕は学校で掃除をした後、疲れて眠ってしまったに違いない。おかしな夢を見たものだ。

 妙に体が重いと思って、横に向けていた顔を真上に向けたときだった。

「気がついた?」

 僕の体の上にのしかかって顔に鼻先を近づける、チャトがいた。

「わっ……びっくりした!」

 布団の中で肩をはね上げた僕を、チャトは顔を離して面白そうに見ていた。

「いい匂いするから、寝てる間にちょっとだけかじろうかと思ってたのに。起きちゃったな」

「食べようとしてたのか! やめてよ」

 今までのことは全て夢で、一度眠って起きたら元に戻っていたりしないだろうかともどこかで思っていた。でも今ここにチャトがいるということは、やはり現実だったみたいだ。

 周りを見回すと窓に目が止まった。外が暗くなっている。

「僕、寝ちゃったんだね」

 ぽつっと呟くと、チャトは僕の腰から降りて寝台の淵に座り直した。

「なんかね、治癒の魔導は怪我が治るのを早くするから、体の働きがぎゅーんと忙しくなって、疲れちゃうんだって。だからツバサは眠っちゃったんだって、リズリーが言ってた」

 なるほど、細胞を無理に働かせたからその分負荷がかかったということなのか。のっそりと体を起こす。僕は肘まで袖を捲り上げていた腕に目をやった。かすり傷まできれいに治っている。

「フィーナとリズリーさんは?」

「フィノはさっき集めた薬草を売りに行ったよ。ついでにツバサが食べられそうなものを買ってくるって」

「そっか、ありがとう」

 そういえば、お腹が空いたかもしれない。いろんなことが一気に起こってそれどころではなかったが、考えてみたら学校でお昼を食べて以来なにも口にしていなかったのだ。

「リズリーはお仕事の仲間にツバサのこと話しに行ったよ」

 チャトが少しだけこちらに顔を傾ける。

「どう説明しようか困ってたけど、リズリーがちゃんと話せばきっと皆助けてくれるね」

 にこっと無邪気に笑うチャトに、僕も釣られて頬が緩んだ。

「チャトは、僕が異世界から来たって信じてくれたの?」

 リズリーさんは、ちょっと半信半疑だった。チャトは小首を傾げた。

「分かんない。本当に別の世界があるなんてびっくりするけど、でもそういうこともあるのかなって気もする。ただツバサが困ってるのだけは分かるから、だからなにかしてあげられないかなって思ってるだけ」

 どうなるかと思ったけれど、協力的な人たちに出会えて運が良かった。

「リズリーさんって、アウレリアに移住してきた人たちを担当するお仕事してるんだよね? チャトとフィーナもどこからか移住してきたの?」

 聞いてみると、チャトは少し首を傾けた。

「フィノは精霊族の泉から来たんだけど、俺は生まれも育ちもアウレリアだよ。でも、アウレリアは識族が造った国だから、識族以外の種族は皆『移住種』っていう括りになるんだって」

「ふうん。識族以外のっていうと、獣族と精霊族だっけか?」

 チャトが獣族で、フィーナは精霊族だと聞いている。チャトは大きな耳をぴくんとさせた。

「だけじゃないぞ。他にも魔族とか鳥族とか、あんまり見かけない種族も存在してはいる。でもアウレリアで暮らしてたら識族と獣族と精霊族しか見かけないから、俺も見たことないんだけどね」

 それからチャトは、考えながらぽつぽつ話した。

「ずーっと昔、俺が生まれるよりもっともっと、ずーっと昔だよ。俺のご先祖の獣族は皆で森の中に村を造って暮らしてたんだ。精霊族も同じで、泉のある洞穴に自分たちの村があって、そこから出ることはなかった。識族の都市も、識族だけが暮らしてた」

 誰かから教わったらしい話を、チャトは思い出すように語った。

「種族ごとに全く違う文化を持っていて、それぞれあんまり関わることはなかったんだって。まあ、獣族と精霊族は住処が近くて文化も似てたから、昔からちょっとは交流があったらしいけど」

「ふうん……」

「でも、今から百年くらい前に、そんな生活がぶっ壊されたんだ。マモノたちが人を襲うようになったんだって。獣族の村もマモノに荒らされて、棲めなくなっちゃった」

「マモノ?」

 僕は出てきた言葉を繰り返す。チャトがちらとこちらに目を向けた。

「うん。さっき森で遭遇した噛み付きトカゲみたいな」

 ああいう生き物を、マモノと呼ぶようだ。チャトは付け足すように言った。

「でもね、怖いのばかりがマモノじゃないぞ。無害なのが殆ど。元々マモノたちだって、それぞれの生息地域で大人しく生活してて、人間を襲うことなんてなかった。そりゃあ刺激すれば怒るし、威嚇もするよ。でもわざわざ人間の居住地域に入ってきて荒らすようなことはしない。そのはずが、突然凶暴化したんだ」

 そういえば噛み付きトカゲとかいうあの大きなトカゲは、普通は森にはいないものなのだと聞いている。それが森に現れて、なにも刺激していない僕に襲いかかってきた。

「それでね。住処を奪われた獣族や精霊族は、住み良い地域を泣く泣く捨てて、比較的安全だった識族の都市に移り住んだ」

「そうか、だから識族以外の種族はまとめて『移住種』なんだね」

 歴史の中で移住してきた種族だから、そのように括られていたのだ。

「識族の街も、本当はもっとたくさんあったんだよ。でもその殆どが、マモノに襲われて壊されて、住めなくなっちゃったんだ」

 チャトは耳をへたっと倒した。

「残ったのは賢者がたくさんいて強い武器を作ることができたメリザンド、海に浮かぶ島だったからマモノが一匹も来なかったエーヴェ、後は地形に恵まれていてマモノがあんまり入ってこなかったアウレリアだけ」

 この城下町、アウレリア周辺の地形を思い浮かべた。

 坂の上から見下ろしたときに、街の周りを取り囲む広大な森が見えた。森よりも外からの襲ってくるマモノたちは、あれを抜けてこないと街に辿り着けない。

 森を抜けたとしても、今度は都市と外を区切るように水路が流れている。マモノは海を渡ることができなかったというから、あの水路で侵入を防いだのだろう。

 そしてアウレリアの街は坂道の上に形成されて、大事な城をてっぺんで守っている。マモノが街まで侵入してきたとしても、コアになる城や城の周りにあるであろう大事な機関に到達する前に坂の下の方の市民たちが応戦する。

 だからアウレリアは、被害が少なくて済んだのだろう。

 その結果、破壊された街に住んでいた他の識族や識族以外の異種族たちが安全なアウレリアに移住してきたのだ。

「都市にいればマモノが来るようなことはほぼないから安心して。このまま技術が進んでマモノを追い払えるようになれば、いつかはきっと獣と精霊の故郷も修復して、戻れるようになるんじゃないかな」

 チャトがそう言ったときだった。

「チャトが世界史をきちんと覚えてて、びっくりしました」

 突然、部屋の中に涼やかな声が響いた。いつの間にか戻ってきたフィーナが、廊下からこちらを覗き込んでいる。

「ツバサさん、お加減はいかがですか?」

「怪我はきれいに治ったよ。眠ったから頭もすっきりした」

 傷ひとつなくなった腕を掲げてこたえると、フィーナは微笑んで寝台に近づいてきた。

「お腹空いたんじゃないですか。食べ物持ってきましたよ」

 フィーナの細い腕にはバスケットが吊り下げられていて、そこには柔らかそうな布に包まれたパンらしきものが詰まっていた。

「わ……! おいしそう。ありがとう」

「チャトの言うとおり、精霊族と獣族はマモノから身を守るために愛しい故郷を捨てて識族の街を間借りする形で住ませてもらってるんです」

 フィーナが僕の枕元にバスケットを置いた。丸くて黄色っぽいふわふわしたパンのようなものが覗いている。

「識族が造った都市は、森の中の集落とは違って便利なもので溢れています。文化もとても進んでますし、なにより識族は頭がいい。新しいことをどんどん思いついて、なんでも器用にこなしてしまうんです」

 フィーナは寝台に腰を下ろした。チャトの隣を陣取り、彼女は続けた。

「だから当然といえば当然なんですが……識族の方々は、私たちみたいな別種族をちょっと下に見てるんです」

 僕はバスケットの中の食べ物に手を伸ばして、止めた。

 アウレリアの城は、坂道のいちばん高いところにあった。チャトとフィーナの住む地域は坂の下の方だと聞いた。都市のいちばん端っこというわけだ。

 獣族や精霊族は、「助けてもらった側」であり文化的にも識族より遅れていた。だから、身分が低いのだ。

 絶句していた僕に、フィーナは慌てて付け加えた。

「あ、いや……識族の人は皆が皆そうだというんじゃないですよ。さっき見てのとおり、リズリーさんは私たちにとてもよくしてくれます。市場の人たちも皆さん優しいですし……」

 そうは言っても、彼女が劣等感を感じるような境遇にはあるのだろう。僕には分かる。話しかけてくれる人が平等とは限らないのだ。

 フィーナは寂しそうに微笑んだ。

「獣族と精霊族の中には、識族の暮らしが肌に合わなくて、安全な都市での暮らしをやめて元の住処に戻ったり、別の場所に新たな居住キャンプを造った人たちもいます。悲しいことですが、種族ごとの溝というのはどうしても埋まりかねるようですね。とはいっても、大概の獣族と精霊族は、識族の都市に甘えています。なにしろ文化が発展してて便利ですからね」

 なんとなく、学校の教室のことを思い出した。渡辺みたいな強い奴がいて、僕のような弱い奴がいる。強い奴は、弱い奴をからかう権利がある。弱い奴は歯向かうと過酷な運命を背負うことになり、楽することを選ぶと我慢を強いられる。全く別の世界であるここでも同じようなことが起こっていることには、悲しいというより「どこもそうなんだなあ」なんて平たい感想が浮かんだ。

 再びバスケットに手を伸ばすと、先にひょいとひとつ奪われた。チャトが横から取ったのである。ぱくぱく食べはじめたチャトに気づき、フィーナが目尻を釣り上げた。

「こら。それはツバサさんに買ってきたんですよ」

「いいじゃん。ツバサっておいしそうな匂いがするから、近くにいるとお腹が空くんだよ」

 チャトはぷいっとそっぽを向いて食べ続けていた。叱ろうとするフィーナを、僕はまあまあと宥めた。

「僕はチャトとフィーナと一緒に食べたいな」

「ほら、ツバサもこう言ってるよ」

 チャトがニーッと笑うと鋭い牙がちらっと見えた。

 バスケットの中の黄色いふわふわを、僕は手に取った。結局なんなのかはよく分からないけれど、ほんのりついた焦げ目が食欲をそそる。

 僕はそれを口元まで運んで、止めた。

 徐々にだが、いろいろなことが見えてきた。この世界には何種類かの人種がいること、獣族と精霊族らは歴史の中で居住地を移り、識族の都市に身を寄せたこと。そして発展していて最も文化的である識族の都市ですら、今では三つしか残っていないこと。

「……百年前、一体なにがあったんだ……?」

 僕は眉間に皺を寄せた。チャトとフィーナが僕を振り向く。僕はふたりに問いかけた。

「それまではマモノも好き勝手に暮らしてて、人間の居住地域を襲うことはなかったんでしょ? それがどうして、突然暴れだしたんだ? 人間の住処を奪うほどなんてよっぽどだよね。たくさんのマモノが、一気に凶暴化したってことでしょ?」

 あちこちの街が壊滅させられたくらいだ。人間が対処しきれないほど、マモノが暴れたのだ。なぜ突然そんなことになったのだろう。

 フィーナが真剣な目でこたえた。

「私たちも、分からないんです。なにがきっかけなのかさっぱり解明されてない。ただ突然、天変地異のようにマモノたちが人々を襲い、大陸のあらゆる場所を次々と破壊していったんです」

 なんの前触れもなく、突然世界が変わった、ということか。フィーナは息苦しそうに眉を寄せた。

「今でも、薬草の森より外側には必要以上には行かない方がいいと言われてます。識族の三大都市はなんとか平和を保ってますが、その外はマモノたちに征服されてるんです」

「それじゃあ、その三大都市を行き来するのも大変だね」

「そうですよ。旅商人の人たちなんかは、マモノの大群に出会っても逃げ切れるように、武器を持ったり防具を着たりして出かけるんです」

 ではアウレリアの外から来たのに軽装備で、噛み付きトカゲに襲撃されていた僕は、余程珍奇な存在だったことだろう。

 チャトが再び、パンみたいな食べ物を口に運んだ。

「マモノのすることなんて予測できないよ。こっちにできるのは、マモノから身を守るために安全な場所からなるべく出ないで暮らすことだけ」

 言ってから、チャトはむうと頬を膨らめた。

「でも俺はいつかはマモノから世界を取り返したいと思ってるよ。獣族の故郷を取り戻したい。俺は獣族なのに、獣族の森に行ったことがないまま死ぬなんて嫌だ」

「私だって、精霊族の泉に住みたいです。識族の都市は便利で住みやすいですけど、本来私たちの体に適してるのはそういった地域なんですから……」

 フィーナも同調して、語尾を萎ませた。

 マモノらはどうして、人を襲ったのだろう。どうしてここまで壊滅するまで人々を追い込んだのだろうか。考えても分からないので、僕は手に持っていた黄色い食べ物を再度口元へと寄せた。まさか異界の食べ物を口にする日が来るとは。思い切って口に含んでみる。

「あっ……おいし……い?」

 殆ど無味の中に、ほんのり甘いような、しょっぱいような、未知の味が見え隠れした。不味くはないが、すごくおいしいということもない。食感だけはモチモチしていて癖になる。

 フィーナも食べはじめ、それから僕の顔を窺った。

「お口に合いました?」

「うん、なんていうか、飽きがこない味だよね。これなんて食べ物なの?」

「ポンです」

 フィーナの返答に、僕はくすっと吹き出しそうになった。偶然なのか、パンみたいな名称だ。笑いそうな僕を見て、フィーナは嬉しそうに目を細めた。

「よかった。ツバサさん、自然に笑えるようになった」

 そう言われて、僕はハッとなった。混乱と不安と焦りで、頭がぐちゃぐちゃになっていて、笑う余裕なんかなかった。

 こうしてチャトとフィーナと喋って、一緒に同じものを食べていたら、いつの間にか緊張は解れていた。なんだろうか。安心するにはまだ早いのに、友達ができたお陰で笑えるようになっていた。

 チャトが頬に詰まったものを飲み込んだ。

「ツバサが腕輪をなくしたのは森の中なんだよね。どこまで飛んでいったか分かんないけど、一緒に捜せばすぐに見つかるよ。俺、すごく鼻が利くんだ。ツバサはおいしい匂いがするから、腕輪にも同じ匂いが移ってると思う。それを辿れば見つかる」

「私は森の植物に聞いてみます。精霊族は木の葉の声が聞こえるので」

 フィーナが尖った耳に指を添えた。ふたりとも、なにやらすごい身体能力を持っている。これが獣族と精霊族の力なのか。

「ありがとう。心強いよ」

 なんの根拠もないけれど、多分なんとかなるだろうな。僕はいつの間にか、そんな楽な気持ちに切り替わっていた。

 と、そこへリズリーさんが戻ってきた。

「あらあら! ツバサくん起きたのね。ご飯も食べてるし、元気そうね」

「お陰様で。ありがとうございます」

 お辞儀する僕にリズリーさんはうふふっと笑った。

「さっき局長のところへ行って、ツバサくんのことを報告したわ。宿屋を取ろうかとも思ったんだけどツバサくんの場合は事情が複雑だから、一晩この医務室の寝台で過ごしてもらうことになった」

 そんな手配までしてくれたのか。驚いていると、チャトが前のめりになった。

「ねえリズリー、俺も今夜はここに泊まってもいい?」

「こら、チャト!」

 フィーナが窘めるもチャトは引こうとしない。

「だって楽しそうじゃん。俺もっとツバサとお喋りしたい」

「私だって、そうですけど……! 私たちは帰らないと、管理局の人たちにご迷惑です!」

 争うふたりに、リズリーさんはうーんと顎に指を当てた。

「そうねえ。ツバサくんのこと心配だし……様子見要員として、特別に泊まれるように頼んでおくわ。フィーナちゃんもよろしくね」

「やったあ! ツバサの持ってた本のこととかカチカチする棒のこととか、聞きたいこといっぱいあるんだ!」

 チャトが両手を振り上げて耳をピンと立てた。フィーナはちょっと戸惑った。

「い、いいんですか?」

 戸惑いながらも楽しそうに尋ねたフィーナに、リズリーさんはにっこりした。

「ただし、いつまでもお喋りしてないですぐに寝るのよ? 明日に備えてたっぷり休むこと! いいわね」

「明日?」

 僕が繰り返すと、リズリーさんの目線はこちらに動いた。

「捜すんでしょ? 腕輪。あの森の中を。いくらチャトくんとフィーナちゃんが手伝ってくれるといっても、あれだけ広いと楽じゃないわよ」

 僕は眠りに落ちる前に聞いたリズリーさんの言葉を思い出した。

 腕輪が見つかっても同じ要領で帰ることができるとは限らない。だが腕輪が原因なのはたしかで、解決の緒はそこにあるはず。

 そうだ、僕はまずあの腕輪を取り戻さなくてはならない。そう思うと同時に、怖気付く自分がいた。

 あの巨大なトカゲがいた森に、もう一度入らなくてはならないのか。それに、あんなに広くてまともな道もないようなところ、迷ったら戻ってこられないかもしれない。

 不安が湧いてきて顔を下に向けていると、見かねたリズリーさんが優しく微笑んだ。

「はぐれないか不安なのかな? 大丈夫よ。ちゃんとフォローするから」

 心強い言葉をかけてもらって、僕は目を上げた。リズリーさんの微笑みが、ちょっと意地悪な笑みに変わる。

「仮に迷っちゃっても、チャトくんがおいしそうな匂いを辿ればあなたを見つけてくれるわ。食べられちゃったら元も子もないけどね」

「……ずっと思ってたんですけど、獣族って人を食べるんですか?」

「そんな事例は聞いたことないけどねえ……。チャトくんが人に対して『おいしそう』って言ってるの、初めて見たわ」

 とりあえず、獣族に食人の文化がないのであれば、安心してもいいのだろうか……。

 余程僕が不安げに見えたのか、リズリーさんは僕の頭をぽんぽんと撫でた。

「心配しなくてもなんとかなるわよ。突き当たりに体を洗うところがあるから使ってね。着替えも用意しておいたから」

 気が利くリズリーさんはそこまで世話を焼いてくれて、僕はしきりにお礼を繰り返した。


 *


 その夜、約束どおり同じ部屋で眠ることになったチャトとフィーナと僕は、寝台を降りて医務室の真ん中で遊んでいた。

「このカチカチするやつ、ペンだったのか。すごい、こうすると付かなくなる」

 チャトはシャープペンやボールペンなんかで大喜びし、更には消しゴムで字が消えることにも感動していた。フィーナはいろんな教科書を開いては目を輝かせている。

「本当に知らない言語! これはなんの本なのですか?」

「それは僕がいた世界の歴史の教科書だよ」

「挿絵の人物が本当に識族しかいない。ツバサさんがいた世界には、識族しかいなかったんですね」

 ただの筆記用具やつまらない教科書がこんなに喜ばれると、僕も嬉しくなってくる。

 夜遅くまでキャッキャと騒いでいたら、巡回してきた夜勤の職員から叱られた。

「こら! 明日に向けて休めとリズリーから言われてるだろ」

 リズリーさんと同じ制服の男から怒られて、僕たちは慌ててそれぞれ寝台に飛び込んだ。布団に潜って、こそっと隣の寝台に向かって呟く。

「チャト、寝てる間に僕を食べようとしないでよ」

「お腹空いたら我慢できないかも」

「やめて」

 なんかちょっと、修学旅行みたいだ。とんでもない事態になっているというのに、不謹慎にも僕は少し、この状況を楽しんでしまっていた。

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