アナザー・ウィング
1 ガラスの腕輪
あれ……? 死ぬ?
目の前に現れたそいつを見て、真っ先に頭に浮かんだ言葉がそれだった。
恐竜図鑑で見たような、僕の何倍もある巨躯の大トカゲ。それが真っ赤な目を光らせて僕を見つめているのだから。
「あ、えっ、えっと……」
尻餅をついたような姿勢で、僕はその巨大な顔を見上げていた。
黒ずんだ緑の鱗がテラテラしている。僕は情けなくも無意味な声を絞り出していたが、向こうは言葉が通じる相手ではなさそうである。見れば見るほど大きなトカゲだ。顔を見上げているだけで首が痛くなるほどだ。二つの鼻の穴からふしゅーっと白い鼻息を噴き上げて、裂けた口からは鋭い牙がいくつも覗いている。
今すぐにでも逃げ出したいのに、足が竦んで、そしてあいつの赤い目から目を逸らせなくて、一歩も動けなかった。それどころか、立ち上がることすら叶わない。
僕が真っ白になっているうちに、大きなトカゲのようなそいつは、グアッと大口を開けた。
「う、うわあ! やめて、助けて!」
逃げようとしたがやはり足がガクガク立ち上がることができず、僕は手のひらで這うように後ずさった。
なんでこんなことになったんだ。
なんで僕がこんな目に……。
死を目前にして、僕は少しだけ記憶を遡った。
*
ほんの少し前までは、僕はいつもどおり学校に来ていた。
放課後、家に帰ろうとした僕にクラスメイト数名が詰め寄ってきた。
「おい神楽、今日掃除代わってくんない?」
僕は背中まで持ち上げていたリュックサックを、途中で止めた。
「えっ……でも、昨日も一昨日も代わったよね?」
学年の中でも目立つ存在である渡辺和彦と、その連れが四人。
「は? 口答えすんの? 俺これから塾だから仕方ないんだよ」
「早く行こうよ和彦! カラオケカラオケ」
渡辺の後ろにいた畑田が、あっさり本当のことを暴露していた。渡辺にいちばん長いことくっついている畑田、今年になってからつるんでいる大谷、それから彼等のノリの良さに惹き付けられている女子が二人。こいつらはとにかく圧倒的に目立ち、クラスで権力を持っている。言ってみれば、スクールカーストの最上位の者たちなのだ。
「掃除くらいしろよ。お前、そのくらいしか人の役に立てないだろ」
渡辺がでかい体で僕を見下ろす。後ろにいた女子がキャッキャと笑った。
「ちょっと和彦、言い過ぎー! いくら本当のことだからって」
そう、彼らはスクールカーストの最上位に君臨しているのだ。下々の者である僕に、逆らう権利などない。
「……うん、分かった。やるよ」
今日はお母さんが帰ってくる日だったから、早く帰って夕飯を作りたかったのにな。
渡辺たちが大騒ぎしながら教室を出て行った。掃除当番は全員、渡辺を含む彼の仲間たちだったせいで、僕ひとりで掃除をすることになった。
制服が埃っぽくならないように、僕は学ランを鞄に突っ込んで代わりにジャージに上下着替えた。ワイシャツの上からジャージを羽織り、肘の手前まで腕捲りする。
木目柄の床を箒で掃きながら、ため息をついた。今日はカレーを作ろうと思っていたのだ。できるだけ長い時間、煮込みたかった。
お母さんは、ひとりで僕を育てている。離婚したお父さんからほんの少しの養育費を受け取っているらしいが、それだけでは当然足りなくて、お母さんは朝も夜もたくさんの仕事をかけ持ちして働いていた。そんなお母さんが、僕が起きている時間に帰ってくることは結構珍しい。だから、そんな日は早めに帰って僕がご飯を作りたいのだ。
でも、学校の中にある秩序に勝てるほど、僕は強くない。
教室の窓から西日が差し込んでいる。机をひとりで全部動かして掃除をするのは、案外時間がかかる。
誰かに手伝ってと声をかける勇気はなかった。掃除を怠ける勇気もない。バレたらきっと、渡辺から酷い仕打ちを受ける。大人しく奴隷になるのがいちばん安全なのだ。
「……ねえ」
突然、廊下の方から澄んだ声がした。びくっとして振り向くと、教室の戸に手を添えて立つ女の子がいた。
「神楽くん、ひとりで掃除してるの?」
ミルクティー色の長い髪を背中に垂らした、かわいい大きな瞳の女の子。セーラー服の裾が夕焼けの光で輪郭を白く光らせている。僕と同じのクラスの、天ヶ瀬つぐみだった。
いつからそこにいたのだろう。全く気配がなかったせいで、いたことに気づかなかった。驚いて声が出せなかった。
「今週の掃除当番って、渡辺くんと、あと何人かだったと思うけど」
天ヶ瀬さんが無表情で聞いてくる。僕はようやく、口を開いた。
「あ、うん。そうなんだけどね、代わったんだ。渡辺くんが塾だっていうから」
びっくりした、天ヶ瀬さんとは同じクラスにいながら会話したことは殆どなかったのだ。いや、殆どなんてものではない。挨拶すら交わしたことがなかった。もしかしたら、今初めて会話したかもしれない。
天ヶ瀬つぐみは特徴的な明るい色の髪をしているせいで、学年でもわりと有名な存在である。髪を派手な色に染めて校則を破っているような子かと思われたが、実はその髪は地毛であり、生まれつき色素が薄かったのだという。性格も、派手な遊びをするようなタイプではなく、どちらかといえば大人しく本を読んでいるような女の子だった。
「渡辺くんが、塾? 昨日もそうじゃなかった?」
天ヶ瀬さんは、ゆっくりまばたきをした。
言うなよ、塾だなんて嘘だということくらい、僕だって分かっている。
「神楽くん、いつもそうだね。いじめられてるの?」
はっきりと言われて、僕はぐっと唇を噛んだ。ふいっと顔を背けて、再び箒を動かす。
「いじめられてなんかないよ。掃除を代わっただけ」
「でも、いつも仲間外れにされてるよね。授業でも分からない問題に無理に手を上げさせられたりしてるし、休み時間にボールぶつけられたりしてるじゃない」
そりゃそうだ。同じクラスで過ごしている天ヶ瀬さんが、僕がどんな扱いを受けているか、気づいていないはずがない。
さ、さ、という箒と床の擦れる音が、やけに大きく聞こえる。
「……いじめ、じゃないよ。こんなの」
僕は彼女の目を見られない。いじめとは言わない。このくらい、堪えないといけないのだ。
「僕がいじめだと認めなければ、いじめじゃないから」
「そう」
「親を心配させたくないし、三年生になったら受験だってある。余計な問題は抱えないで、こんなの、向こうが飽きるまで耐えた方が得策なんだよ」
「そう」
天ヶ瀬さんは興味がなさそうに相槌を打っていた。
「そっか、ふふ」
なぜか天ヶ瀬さんがちょっとだけ笑ったので、僕は箒を止めてちらと彼女の方に目を向けた。天ヶ瀬さんはそれに気がついて、またくすっと笑った。
「ごめんなさい。神楽くんがあまりにも滑稽だから」
天ヶ瀬さんは、不思議な人である。今初めて話したような人のことを不思議な人だと決めつけるのもおかしな話かもしれない。が、教室で遠巻きに見かけるだけでもそう感じるほど、彼女は他の生徒とはまるで違う異質な空気を放っている。見るからに不審な挙動をするわけでも、クラスで浮いているわけでもない。でもどこか、変わっているのだ。
「……そう」
今度は僕が、そう相槌を返した。
こうして現れたにも関わらず、掃除を手伝ってくれる様子もない。天ヶ瀬さんも、僕のことをバカにしているのだろう。
家が貧乏で、皆と同じように遊べなくて、塾にも行けない、そんな僕を彼女も笑っている。僕はやけくそになって箒を動かした。
「早く帰りなよ。おうちの人が心配するよ」
「そんなこと言って、本当は『見てるだけなら帰れ』って言いたいんでしょ」
天ヶ瀬さんの言葉に、思わず息を呑む。僕はそれでも、目を合わせなかった。
「そう思うんなら帰ってよ」
「やり返そうとは思わないの?」
天ヶ瀬さんはまだ、扉に手のひらを添えて立っていた。長い髪が、廊下の窓の光を受けてきらりと光る。
「どうして、戦おうとしないの?」
心臓がどくんと高鳴った。
戦おうとしない。そういう言葉を遣われると、僕が逃げているみたいだ。いや、逃げているのかもしれないけれど、逃げるのだって賢い選択肢のひとつじゃないか。
いい加減苛立ってきて、僕は箒の柄を握りしめた。
「さっきからなんなんだよ。天ヶ瀬さんになにが分かるって言うんだよ」
初めて話したのに、なぜこんなことを言われなくちゃならないんだ。威嚇する僕にも、天ヶ瀬さんは怖気付いたりしなかった。
「分かるよ。私はずっと、あなたを見てた」
「は……?」
振り向かないつもりだったのに、驚いて顔を上げてしまった。天ヶ瀬さんは、透き通るようなきれいな目で僕を真っ直ぐ見据えていた。
「強い者に屈して抵抗しようとしない神楽くんを、私はずっと見てたよ」
「なんなの……?」
なんとなく不思議な人だとは感じていたが、話してみて確信に変わった。こんなに変な人だったのか。
「見てたって? そんなに僕、クラスでバカにされてるかな。嫌でも目に入るほど」
バカにされてすぎて浮いているのかと思い、苦笑いを返す。天ヶ瀬さんはふるふると首を振った。
「ううん。個人的に気になって、見てただけ」
「……え?」
余計に、訳が分からない。
「気になるってなんで?」
心臓がどくどく暴れはじめた。なんだ、気になるって。どういう意味合いで……。しかし問い質す前に、天ヶ瀬さんはにっこり微笑んで手を振った。
「じゃあね神楽くん。あまり遅くならないうちに切り上げて、帰るようにね」
お節介にも付け加えて、彼女はひらっと踵を返した。急にあっさり帰ってしまったので、却って拍子抜けした。あの人、本当にただ単に僕をからかいに来たのか。
しかし、僕の頭の中はぐちゃぐちゃに掻き乱されていた。
天ヶ瀬さんは僕のことが気になって見ていたと言った。どういう意味だったのだろう。単純に考えると、彼女は僕に好意を持っていた……と解釈できる。
そこまで考えた時点で、僕の頬は既に熱くなっていた。
もしかして、僕がひとりで掃除をしているのを見計らって、告白するつもりだった、とか? そんなはずないだろうと冷静に制する自分と、もし好意だとしたらと浮かれるバカな自分が混在している。
なんだか頭の中がくらくらしてきて、判断力が盛大にぐらついた。気がついたら僕は、箒を教室の床に放り投げて自分の鞄を引っ掴んでいた。
「あまっ、天ヶ瀬さん!」
勢い余って、噛んだ。
呼び止めてどうするつもりだったのか、自分でもよく分からない。一緒に帰ろうと誘いたかったのかもしれない。ただ僕は、咄嗟に彼女の名前を呼んで、廊下に飛び出していた。
しかし、既に天ヶ瀬さんの姿はなかった。鞄の肩ベルトを握ったまま、僕はひとり呆然と廊下に立ち尽くした。いなくなるの、早いな。
僕はのそのそと鞄を背負って、自分の頬を両手でパンッと叩いた。落ち着け、あんなかわいい子が僕なんかを相手にするわけがない。きっと僕を翻弄して面白がっていただけだ。
なんだかばからしくなってしまって、もう掃除なんか切り上げることにした。教室に放り投げた箒を片付けて、机を整えて帰ろう。そう思って教室に戻ろうとしたときだ。
廊下のずっと先で、なにかがきらっと、西日に煌めいた。
なんだろう、なにか落ちている。僕は教室の掃除の仕上げを後回しにして、その光るなにかに歩み寄った。二、三個教室の前を通り越した辺りに、それは落ちていた。
腕輪、だろうか。透明のガラスが細い輪っかになっていて、そのガラスの中を白っぽい筋が通っている。大きさを見る限り腕輪だと思うのだが、デザインが珍しい。よく分からないが、きらきらしていてすごくきれいだ。
こんなにきれいな腕輪だ、多分高価なものだろう。落とした人が困っているかもしれない。僕はそっと、その腕輪を拾い上げた。
近くで見れば見るほど美しい。傷ひとつないつやつやのガラスは、淀みのない湖みたいに透き通っている。その透明のループの中を真っ直ぐに通る絹糸のような白い光は、角度を変えると色がほんのりと、揺らめくように変化する。オーロラを閉じ込めたみたいだ、と、僕はぼんやり思った。
思わず、自分の腕に通してみたくなった。輪っかの中に吸い込まれるように、左手を潜らせる。やけに心臓がドギマギした。
その、瞬間だった。
突然、腕輪の中を流れるオーロラ色の筋が、ほわっと光りだしたのだ。
「えっ、な……なにこれ」
僕は動揺して左手の指を開いた。混乱のあまり、腕輪を投げ捨てるという発想すら浮かばず、ただそのみるみる強くなる光に目を奪われてしまった。まるで鳥が羽根を広げて、周囲の空気を包み込んでいくみたいだ。
「なに、なんだこれ、なんだよこれ!」
光は煌々と強くなっていく。眩くて目をしっかり開けられない。周りが全然見えなくなって、いつの間にか僕は意識を手放していた。
*
体が、重い。
四十度近い熱を出して寝込んだときの、起きる瞬間みたいだった。全身が怠くて、起きられない。
しかし突然我に返って、僕ははっと目を見開いた。なぜ寝ているのだ、掃除はどうなったのだろう。
だが視界は見渡す限りの緑だった。頬を地べたにくっつけて倒れていた僕は、慌てて体を起こした。地にはもさもさと細い草が生えている。少し目を上げれば巨大な木々が僕を囲い、右を見ても左を見ても木ばかりである。呆然と真上を見上げてみれば、高く伸びた木々の幹の隙間から空が見えた。だが、その空の色は僕が知っているような青や夕焼け色なんかではなく、嘘みたいな桜色に淡い黄色がちょこちょこ溶けたようなマーブル模様だった。
「どこだよ、ここ」
情けないひとり言が口をつく。
なにが起こったのだろう。ひとつひとつ整理してみようか。
まず僕は、教室で残って掃除をしていたはずだった。特に変わったことはなかったはずだ。おかしくなったのは……。
ちらと、左手の手首に目を落とした。ガラスの腕輪が手の甲に乗っかっていた。そうだ、この腕輪を拾って、左手を通してからがおかしいのだ。
腕輪はもう光っていない。拾った当初と同じ、透明のガラスにオーロラ色の筋が通っているだけである。あの眩しい輝きは嘘だったかのように静けさを取り戻していた。
頭が混乱して、思考を絞ることができない。ここはどこなんだ? この腕輪が光ったことと関係があるのか? どちらにどう歩けば、家に帰ることができるんだ?
頭を抱えて硬直していた、そのときだ。
ずし、ずし、パキ、と、妙な地響きと木の枝が折れる音が聞こえてきた。僕は目をぱちぱちさせて、辺りを見渡した。なんだ、なにが来るんだ。
音のする方を耳で探して、後ろを振り向いた。
そして、そいつと目が合ったのだ。三、四メートルは優に超える、巨大なトカゲ。ギラギラした赤い目が僕をじいっと見て、裂けた口から牙を覗かせている。
あれ……? 死ぬ?
立て続けに起こる奇妙な事態に、僕の思考は完全に停止した。
「あ、えっ、えっと……」
なんなんだ。
いきなり知らないところで目が覚めて、いきなり巨大生物と対峙して、いきなり生命の危機だなんて。僕はどうしたらいいんだ。
生存本能が僕に逃げろと掻き立てる。分かっている。逃げなくちゃ死ぬ。でも、足が全く動かないのだ。立ち上がることができないのだ。
なにもできない僕を見据え、大きなトカゲがでっかい口をカアッと開けた。ぞろりと並んだ牙がこちらに振りかぶってくる。
「う、うわあ! やめて、助けて!」
腰が持ち上がらない。手のひらと足でずるずる地面を擦って、もたもたと後ずさる。
最悪だ。なにが起こったのか理解できないまま、こんな訳の分からない奴に殺されるだなんて。
なんでこんなことになったんだ。
なんで僕がこんな目に……。
「ガルルルッ」
トカゲが唸り声を上げて噛み付いてきた。僕は咄嗟に転げて避けたのだが、リュックサックの肩ベルトがトカゲの牙に引っかかった。
そのままぶんっと振り上げられて、僕の体は宙で振り回された。遠心力で内臓がひっくり返りそうだ。恐怖で頭が空っぽになる。声すら出せない。
牙がベルトから外れて僕は空中に放り投げられた。三メートル以上もの高さから放り出され、木の葉の中に投げ込まれる。ボスッと葉っぱにキャッチされ、受け身を取る前にズルズルと転げ落ちていく。木の太い枝に何度か中継されながら、僕は徐々に根っこまで落っこちた。
はあはあと息を荒くする。なんとか生きて地面まで下りてくることができたが、木の枝が右脚に突き刺さってしまった。ジャージの生地にじわじわと血が滲み出している。
余計に動きが鈍くなった僕に、トカゲは再び容赦なく牙を剥いてきた。
覚悟しきれない死を目前に、僕はぎゅっと目を瞑った。
「ギャオオオオッ」
地面が揺れるような咆哮が耳をぶち抜く。ぎょっとして目を開けると、僕はまたおかしな光景を目の当たりにした。
僕に襲いかかっていたトカゲが、体を仰け反らせて叫んでいる。
「ギャアア! ガアア!」
なんだろうと目を見張っていると、トカゲの顎の辺りになにか茶色い塊がくっついているのが見えた。トカゲがぶんぶん頭を振ると、顎にしがみついていたなにかがポタッと僕の正面に落っこちてきた。
空中で体制を整えて、シタッと地面に降り立ってくる。人だ。ただ、様子がおかしい。僕の鼻先にふわっと触れる、この茶色い毛束はなんだろう。
「おいしくないや」
その後ろ姿が、ちらりとこちらを振り向いた。
「ねえ君、怪我はない?」
僕はもう一度びっくりした。
そこにいた少年は、頭から大きな三角の耳が生えていたのだ。僕の鼻の頭を擽っていたのは、この少年のお尻から伸びるふわふわの尻尾だった。顔も、体も、たしかに人間のそれなのに、狼を思わせる耳と尻尾がふよふよしている。
「なっ……なに、君、それ」
混乱した僕はそんなぶつ切りの言葉しか出せなかった。少年が眉を寄せる。
「はあ? どしたの」
怪訝な顔をしたのち、彼はスンッと鼻を鳴らした。
「……ん? なんか君……」
向こうでぶんぶん頭を振っているトカゲそっちのけで、少年が僕に顔を寄せてきた。
「なんか君、おいしそうだね!」
「えっ!?」
にかっと笑って目を輝かせた少年を前に、僕は口を開けて固まった。おいしそう、だと。
「めちゃくちゃおいしそうな匂いするぞ。うん、絶対おいしい」
「え、え。待って」
「とにかく今は、どっか引っ込んでなよ」
少年は再び、くるっとトカゲの方に顔を向けた。
「こいつは俺が仕留めるから!」
「アアア!」
大トカゲが怒り狂ってこちらに牙を向けてきた。今にも噛み付きそうな勢いで寄ってくる巨大な頭に向かって、少年はタンッと軽やかにジャンプした。向かってくる牙を迎え撃つように特攻して、その鼻先にガブリと噛み付く。
「ガアアッ」
トカゲが痛がって頭を振るが、少年はしっかり噛み付いて振り落とされなかった。
僕は唖然としていた。なんだあれ、まるで獣だ。犯人を捕まえた警察犬みたい。それより、先程の彼の言葉が気になって仕方ない。おいしそうと言われた気がする。どういうことだ、あのトカゲもそうだが、ひょっとして少年も僕を食べようとする化け物なのか?
と、そこへ背後から声がした。
「チャト! こんなところにいたんですか」
今度は凛とした女の子の声だった。振り向いた僕は、目に入ったその少女に絶句してしまった。
亜麻色というのだろうか、白がかった長い金髪が真っ先に目を引きつける。長い睫毛に覆われたビー玉みたいな瞳は、海のような碧色をしていた。肌はしっとりしていそうな雪のようだ。白いマントを纏っているが、そこから覗く手脚はすらっとしていてそれでいてガリガリでない、ふんわりした肉付きだった。
こんな美少女、テレビでだって見たことがない。一瞬、自分が置かれている状況のことが頭から吹き飛んでしまうほどだった。
少女は腕にバスケットを引っ掛けている。僕の角度からでは覗き込めないものの、緑色のものがちょろっと溢れ出しているのが見えた。ニョロニョロした変な形の草だ。
「フィノ! やっと来た」
トカゲに乗っていた少年が顔を上げた。僕の背後に現れた少女が彼に向かって大声を張り上げる。
「そっちがはぐれたんです! いいからその噛み付きトカゲから離れなさい!」
トカゲが暴れて頭を振る。それに吹き飛ばされて、トカゲの鼻先にいた少年が落っこちた。三メートルは超えるであろう高さから振り落とされたというのに、少年は身軽に姿勢を整えて着地した。
そして、少年が着地する数秒前。
パキパキパキッと軽い音がして、大トカゲの口が開いたまま凍っていくではないか。トカゲも驚いて首を振っていたが、抵抗する術もなく鼻先にから顎に氷柱ができて、あっという間に口の周りだけが氷づけになった。
「クオオ……」
雄叫びが氷の内側に篭ってしまっている。
僕は呆気に取られて、その凍ったトカゲを見上げていた。
「ごめんなさい。氷が溶けるまで我慢してくださいね」
少女の声が聞こえる。気がつくと先程の美少女は、僕の隣で両手をトカゲの方に伸ばしていた。
この子が、凍らせたのか?
呆然と見つめていると、少女の方もこちらに碧眼を向けてきた。
「大丈夫ですか?」
「は、はい……」
僕はまだ尻餅の体勢のまま動けなかった。うっとりするような美少女を前に余計に頭がしっちゃかめっちゃかになって、立ち上がり方を忘れてしまった。
しかし。顔の横でクンクンと鼻を寄せてくる少年の気配で我に返る。
「ふんふん、やっぱり間違いなくおいしそう」
「うわあっ! おいしくないぞ!」
彼から逃げるように、シュバッと立って後ずさった。巨木に背中を預けて震える僕を、少年と少女は不思議そうに見ていた。
「なんだ、動けるじゃん」
「元気そうですね」
「あっ……助けてくれて、ありがとうございました」
僕はようやく、頭を下げた。亜麻色の髪をした少女がにこっと微笑む。
「ちょっとそのまま、動かないでくださいね」
少女が僕の元へ歩み寄ってくる。足元にしゃがんだかと思うと、僕の右脚に突き刺さった枝を躊躇なく引っこ抜いた。
「いったあ!」
「はい、暴れないで」
枝を引き抜かれたときは激痛が走ったのだが、すぐにその痛みは引いていった。冷たく冷やされるような、それでいて温められているような、不思議な感覚がする。
「私の名前はフィーナ。チャトからはフィノとも呼ばれています」
少女が手をかざしながら言う。名乗る彼女の隣で、獣の耳と尻尾を持つ少年が腰を下ろした。
「俺がチャトだよ。君は?」
「僕は……えっと、翼、です。神楽翼です」
とりあえず、流れに乗って名前を名乗った。が、フィーナとチャトはふたりして疑問符を浮かべた。
「ツバサ……カグラツバサ?」
「ツバサさん……? 変わったお名前ですね」
薄々勘づいてはいたが、やはりそうなのか。おかしなものに囲まれたと思っていたのだが、そうなるとイレギュラーなのは僕の方なのだ。
まるで僕だけが、別の世界に迷い込んだみたいに。
気がついたら、痛みは殆どなくなっていた。
「あれ……治った?」
「完治ではありません。でも、傷はかなり浅くなりました。歩けますか?」
フィーナは僕を見上げ、柔らかに言った。
「ここを離れましょう。今でこそ噛み付きトカゲは口の氷を噛み砕こうと必死ですが、あれが割れたり、そうでなくても暴れだしたりしたら大変です」
フィーナの不思議な力で脚の痛みが引いた僕は、事態が呑み込めないながらもこくんと頷いた。
チャトとフィーナが歩いていく方へと、僕もついていった。フィーナが脚を癒してくれたお陰で難なく歩ける。あれは、魔法だろうか。ゲームの中の回復魔法みたいだった。助けてもらったのだから、このふたりはきっと僕の味方だ。しかし、安心しきれないところがある。
「お腹空いたな……」
そう言いながらちらちらと僕をうかがう、チャトだ。僕のことをおいしそうだと言っていたし、こいつも僕を食べる気かもしれない。
チャトは思ったよりもずっと小さかった。先程までは僕が倒れた姿勢だったので気が付かなかったが、並んで立ってみるとチャトの身長は僕の胸の高さくらいだった。耳の先っぽまで入れても、僕の顎まで届かないくらいの背丈である。容姿を見た感じだと、小学校低学年か中学年くらいに見える。だがどんなに小さくても油断は禁物だろう。
そんなチャトを、フィーナが制してくれる。
「こーら。ツバサさんは食べられませんよ」
彼女は僕よりやや背が低いくらいで、僕と同じくらいの歳の頃に見えた。よく見ると、白金の髪から突き出す耳は尖っている。きらきら光る宝石のピアスを付けていて、歩く度にそれがゆらゆら揺れてきれいだった。
「ツバサさん、さっきのは応急処置です。帰ったらちゃんと治療してくださいね」
フィーナが僕を振り向く。やはりうっとりするくらいの美人だ。
「うん、助けてくれて本当にありがとう」
お礼を言ってから、僕は前を行くふたりをちらちら眺めた。トカゲに恐怖するあまり尋ねるタイミングを失っていたが、どう見てもふたりとも、ただの人間ではない。
「あの……その、耳って」
チャトの頭から伸びた、大きな耳に目が行く。耳だけでなく、彼の背中を隠してしまうほどの大きな尻尾も気になってしまう。
「ん? なんか変か?」
チャトが耳をぴくんと動かす。動いているということは、頭にくっつけているアクセサリーではなく、本物の耳ということか。信じられなくて思わずそっと手を伸ばし、三角の耳の先っぽに触れてみた。
「うわ! なにすんだよ」
チャトは跳ね上がって、ぴょんっと飛び退いた。ひとっ飛びで何メートルも先まで飛んでいく身軽さにぎょっとする。
「変な奴だな。いきなり触んなよ」
チャトが腰を低くしてグルルルと喉を鳴らしている。作り物みたいな耳にも神経が通っているみたいだ。やはり本物の耳……。仕草も含めて、まるで獣だ。
不思議なのはあの子の耳や尻尾だけではない。フィーナも人間離れした容姿をしていた。フランス人形みたいな美貌に、きらきらしたブロンドの髪。尖った耳。
「ツバサさん、獣族を見たの初めてなんですか?」
僕の行動に少し驚いている。
ふたりの耳とか尻尾なんかもそうだが、服装も不思議なものだった。チャトはベルトの多いごちゃごちゃした割りに生地の薄そうな上着を着て、足元もボロボロに破れたカーキのズボンといった恰好である。逆にフィーナは、ガラスのショーケースから一歩も出ていない人形かのようなきれいなスカートを着ている。白いマントを羽織った姿は、現代日本ではどこへ行っても見ないようなものである。
あのトカゲから逃れて少しずつ冷静になってくると、次々と疑問が湧き上がってきた。その耳、チャトに関しては尻尾も、一体なんなのか。トカゲと対峙したときなんて、チャトは人間には有り得ない高さまで跳躍し、振り落とされても難なく着地した。フィーナなんか手をかざしただけでトカゲを凍らせ、僕の怪我を癒した。
このふたりは、何者なんだ?
「あの、ふたりはどういった……人たちなの?」
上手く質問できなくてそんな聞き方をした。
「日課の薬草集めに来たんだよ」
チャトが的外れな回答をする。フィーナも付け加えた。
「その途中でチャトが私とはぐれたんです」
「うん、ひとりで歩き回っていたところで偶然あの噛み付きトカゲに襲われるツバサに遭遇したんだよ」
「チャトは迷子にならないように、ちゃんと私についてきてくださいね」
「迷子じゃないよ! ちょっと自由に散策しただけだよ」
屁理屈を捏ねてから、チャトは小首を傾げた。
「にしても、おかしいね。この森に噛み付きトカゲが出たことなんてなかったのに。それもあんなに凶暴なやつ、初めて見たぞ」
「そうですね……迷い込んでしまったんでしょうか?」
フィーナも一緒に不思議がっている。僕はふたりに問いかけた。
「さっきのあれは、普段はいないの?」
「うん。噛み付きトカゲといえば、岩山にいるものだよね」
チャトが返事をして、それから僕を見上げた。
「ねえツバサ、どうして、戦おうとしなかったの?」
その問いかけに、僕はどきんと心臓をはね上げた。
天ヶ瀬さんに言われたのと同じだ。どうして戦わないのか。
「たっ……戦うすべがないから……」
それがこたえなのかもしれない。あの大きなトカゲも、渡辺も、僕にとって勝てっこない相手だった。勝てるはずがないのであれば、逃げたっていい。だから僕は、されるがままにされるのだ。
「武器を持ってこなかったってこと?」
チャトがちょっとずれた解釈をした。
「背中におっきな荷物を乗せてるのに、武器が入ってないの?」
言われてみて、僕はハッと背中のリュックサックに手を触れた。学校から帰るつもりで、通学用のリュックサックを背負ったままだったのだ。といっても、どちらにせよこの鞄の中にあのトカゲに対抗できるような道具は入っていない。中身は教科書や財布くらいのものなのだ。
フィーナが心配そうに僕の方を見た。
「私たちも、まさか噛み付きトカゲがいるとは思いませんでした……けど、これからは武器を持った方がいいかもしれませんね。特に街の外は危ないですよ」
「そうだよ。大体、ツバサはなんでこの森に来たの?」
チャトに問われて、僕はんっと言葉に詰まった。なんでだろう。理由なんて、僕がいちばん知りたいのだ。
「それが、分かんないんだ」
「え? なんで来たのか忘れちゃったってこと?」
チャトが目をぱちくりさせた。僕はうーんと唸って、返事を考えた。
「忘れたんじゃなくて……気がついたら、あそこにいたんだよ」
自分でも、まだ整理がついていない。なんで僕はこんな大自然の中にいるのか分からないし、今目の前にいるチャトとフィーナが何者なのかも分からない。
ただ分かるのは、とんでもないことになっているのではないか、ということだけだ。
チャトが顔色を変えてフィーナの白いマントにしがみつく。
「大変だフィノ! こいつ記憶喪失だよ!」
僕はぶんぶん首を振った。
「記憶喪失ではないよ! 忘れたんじゃない。僕はちゃんと覚えてるよ。さっきまで学校にいて、それでこの腕輪を拾って……」
途中まで話して左腕を掲げたとき、気がついた。
「あれっ、腕輪がない!」
森で目が覚めたときにはたしかに腕にあった、あのガラスの腕輪がなくなっている。一体いつから。少し記憶を辿り、多分あのトカゲに振り回されたときに外れてしまったのだろうと考えついた。
「どうしよう、拾いに行かなきゃ。こんな森の中で見つかるかな……」
慌てて来た道を戻ろうとしたら、フィーナにジャージの首根っこを掴まれた。
「危険です。噛み付きトカゲが動き出してるかもしれません」
「そうだよ、あんなにぶん回されてたら腕輪なんてどっか行っちゃうと思うし」
チャトも僕の腕を引っ張った。
そうか、そうかもしれない。でも、あの腕輪のせいで僕はこんな変なところに飛ばされてきたのだ。
「ツバサって変な奴だよ。噛み付きトカゲの分布が分かってなくて、ガッコなんて聞いたこともないところから来たなんて言うし。それに変な服を着てる。おいしい匂いもする」
チャトが僕の顔を覗き込んで、ぺろりと舌なめずりした。そんなチャトの耳と耳の間をポコッと小突いて、フィーナが言った。
「とにかく、ツバサさんの怪我を治療するのが先決です。腕輪はその後にでも捜しに行きましょう」
心強い言葉に、僕は素直に頷くほかなかった。頷いたまま、僕は下を向いて歩いた。
ここはどこなんだろう。家に帰ることはできるのだろうか。あの腕輪はなんだったのだろう。
僕がいたはずの学校は。僕に用があった様子だった天ヶ瀬さんは。帰ってくるはずのお母さんは。どうなったのだろう。
理解こそできていないものの、心の整理だけは徐々に追いついてきた。そこに浮かび上がってくるのは、妙なまでの悲しさだった。
「カレー……」
ぽつっと呟くと、チャトとフィーナがきょとんとした顔でこちらを見た。
「カレー、作ろうと思ったのに」
なんでこんなことになったんだ。
僕はただ、いじめられても耐えて、お母さんに心配をかけないようにしていただけだ。カレーを作って、食べたかっただけだ。
それがなんで、こんな目に遭うのだろう。
泣きそうになったのが分かったのだろうか。チャトがぽんっと僕の腕を叩いた。
「涙が出るのか?」
「……平気。ごめん」
出会ったばかりの変な格好の男が急に沈みだしたら、チャトとフィーナは戸惑うだろう。なんとか涙を堪えようとした僕に、チャトはきらきらした目で再度問いかけてきた。
「涙出たら、舐めてもいい? おいしそうな匂いがするんだ」
「こら、チャト!」
フィーナに窘められてチャトが首を竦める。僕の涙は引っ込んだ。なんか、それどころじゃない。
僕はジャージの袖でぐしぐしと目の周りを拭った。
大丈夫だ、元の生活に戻る方法はきっとある。絶対に帰ろう。帰って、カレーを作ろう。
これが僕の長い長い旅の始まり、最初の出会いだった。
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