第1話 常識の崩壊
皆は、怪異という者を信じているだろうか。
少なくともオレは、それを見るまで信じてはいなかった。
だが、信じる信じないに関係なく、ヤツらはいるのだ。怪異という概念が生まれた、その時から。
オレはそれに出会った。
そう。
それはオレの、常識という名の世界が、崩壊した日だ――。
家族を守るような立場にいた叔父を、彼は尊敬していた。彼は叔父のようになりたいと思っていた。
そのために、彼は小学生でありながら、放課後は友達と遊びもせず、毎日図書館で勉強をしていた。全ては、両親を、叔父を、守れる存在になるために。
その日も、彼はいつものように図書館で勉強し、家に帰ってきた。
「ただいまー!」
年相応な元気の良い声を出しながら、彼は玄関のドアを開ける。しかし、リビングに明かりがついていなかった。
今彼が帰宅した時刻は五時ピッタリ。冬が終わりに近づいているような時期ではあるが、そんな時間であれば明かりがついていなければかなり暗くなっている。さらには、いつものように、母親が夕食の支度をしながら転んだり皿を割ったりする音が聞こえるはずなのに、今日は音がしない。
そんな異変に彼は気づかず、リビングの扉を開く。すると、足元に広がっていた何かの液体に滑り、転んでしまう。
「んでっ! いたた……。なんでこんなところに水が……? それになんだか鉄臭いような……」
手に付いたその液体は、生暖かくヌメっとしていた。
それは、血だった。
彼ははっと目を見開き、息を呑んだ。滑りそうになりながら壁に寄りかかってなんとか立ち上がると、血の海が、足元どころかそこらじゅうに広がっていたことに気付く。
さらに、鉄臭い匂いに混じり、肉を解凍したときに感じるような、独特なあの香り。彼は血の海を
そこには、両親の死体が、転がっていた。
父の死体は腹が切り裂かれ、中の腸や何やらの内蔵がはみ出しており、すぐには死ねなかったのだろう、顔には苦悶の表情が貼り付いている。さらには目が上を向いているため、偶然か否かその目は彼を見ているかのよう。
母の方は、即死とひと目でわかるような有り様であった。左頬がぐしゃりとひしゃげ、顔左半分がない。右半分はその衝撃のためか眼球が飛び出しており、辛うじて神経か何かの筋でまだ、繋がっていた。
そんな、日常ではありえないような光景に、彼は完全に思考が停止していた。だが、すぐに気付く。そのさらに向こうに、何者かが立っていることを。
そこには、叔父が立っていた。
だが正確には、叔父ではない何かだった。
血走った白目。獣ような荒い息。甥っ子である彼に対して剥き出しの殺意。
そして、なによりも異常なのはその姿だった。
右腕は肥大化し、触手のように複数の腕があらぬ方向に向かって生えている。左腕の方は腕の至る所に刀の刃のような鋭いものがいくつも内から生えていた。
「え……? お、叔父さん……? 何? その姿……え……?」
彼は訳が分からず、普通でなくなってしまった叔父の元へ向かおうとしてしまう。しかし、足元の血で足を滑らせ転倒する。
その瞬間、さっきまで頭のあった場所に、叔父の左腕の刃のひとつが伸びて壁につき刺さった。
今転んでいなければ、彼は死んでいた。このとき、彼はようやく理解する。もうアレは、叔父ではないと。
恐怖のあまり、彼は座ったまま後ずさる。そんなことで死をまのがれることはできなくとも。
「止めてよ、叔父さん……。なんで、そんな風になったの? オレ、なんか悪いことした……? なんか言ってよ……ねぇ、叔父さ」
その言葉の続きは、言えなかった。獣と化した叔父の凶刃が、彼の額を穿つ――。
「本当に、ここで合っているな?」
「うん、間違いないよ。その家の中から、
「
長身の男が一人、光の家の前に立っていた。
妙齢で黒髪の長髪、口の周りと顎に無精髭を生やし、眼光は鋭く仏頂面。服装は、もう冬の終わりだというのにコートを着用し、腰には民間人ではありえない物、日本刀を携えていた。
その男は、家を見上げ、見えるところに対象がいないことを確認する。
「……少なくとも、ここから生きた人間の気配はない。また、手遅れだった」
「そう気を落とすなよ、
「わかっている」
長髪で判りにくいが、男の耳に通信機が装着されており、それで向こう側にいる誰かと話しているようだ。架と呼ばれたその男は、目の前の玄関を開けた。
扉を開けると、家中に死臭が立ちこめているのが分かった。それに慣れているのか、男は気にすることなく進む。
少し進むとすぐにリビングがあり、そこには大量の血と二つの死体が転がっていた。それに向かうように、子どもの足跡らしきものが点々とついている。そこから逃げたのか、子どもの死体は無い。
しかし、架はそこで奇妙なモノを見つける。床の血の跡を見るに、子どもが背をつけていたであろう壁だ。
そこに、二つの刺しあとがあった。そこはいい。奇妙なのは片方の刺しあとに、血が付いていたのだ。それだけではない。飛び散った血に混じり、脳髄の破片があったからだ。
だが架が見渡しても子どもの死体は無い。架は不思議に思う。なぜなら
死体が勝手に動く? そんなことは有り得るはずがない。もちろん、脳髄が子どものものではなくそこに転がっている母親のものだとも考えられるが、それなら脳髄はいたるところに散らばっているはずであり、それは見られない。
そこで、ある仮説を思いついた架は、通信機に向かって喋りかける。
「
「ん? いきなりどうし……え? 君が気配を読み間違えるなんて珍し、い……。ま、まさか!?」
「そのまさかかもしれない。
架は喋りながら子どもの行方を探す。
そのとき、子どもの悲鳴が聞こえた。すぐさま現場に向かう架。
向かった先では、子どもが
腹は何度も切り裂かれ、血だけでなく肉片や内蔵が飛び散り、頭蓋骨は砕けて頭の原型を失っている。
それはまるで、生き返ることがないように、念入りに殺しているようだった。
そこで架は理解する。
なぜ
それは、目の前の子どもを殺すためであったのだ。
「
架はその思考を開始すると同時に、いつの間にか抜いていた刀で何かを飛ばして、いくつもの斬撃を
その斬撃は
「グゥガあアアぁああア!!」
子どもを
光が生き返る力を持つかどうか見定めるためだ。
だがここまでくると、
だから望みは薄い、そう思ったときだった。
光の周りに光球が漂い始めた、そう認識できた瞬間、生易しい言葉では言い表せないほどであった致命傷の全てが、消えていた。
もはやそれは、再生とは言えなかった。そう、それはまるで、
「…………!!!」
架は絶句した。そんな再生の仕方は、
それが目の前で起きた架にとって、それがどれだけ衝撃的だったことだろう。しかし、目の前で起きた以上、受け入れるほか、なかった。
そんななか、光は目を覚ます。
「う、ん……? あれ……おっさん、誰……」
「……俺のことはどうでもいい、お前のその力、一体どこで手に入れた? なぜお前の体は無事なんだ?」
「か、らだ?」
そこで光は、今まで自分がどうしていたか思い出す。何をされていたか、思い出す。今まで見た光景がフラッシュバックする。
自分の血で濡れた光景を。
異形になった叔父に何度も何度も、何度も殺された光景を。
声をあげそうになったとき、架にその口を手で塞がれる。
「今騒がれるとまずい、トラウマなのはわかるが、
光はそれどころではなかったが、架の手の平が淡い光りが灯る。と同時に、なぜか光は次第に落ち着いていった。
「……? あれ、なんで……」
「もう一度聞く、なぜお前のからだは人の形を保っていられるんだ?」
「わかんない……オレにも……」
そんな質問をされるが、光は自分でもよくわからなかった。大きな怪我すらしたことがなかった光は、元からこの力を持っていたのかわからない。
だが、光にとってそれはどうでもよかった。
「それよりも! なんで叔父さんはああなったの!? なんで叔父さんは……オレたちを殺したの?!」
「……聞いても辛くなるだけだ。それでも聞くか?」
光は頷く。
「……あれは、
「くるい、びと…?」
「ああ、あれはある
「か、怪異……? 霊能者……? 何を、言ってるの? そんな非現実的なのがいるわけ……」
「ここでは広まっていないか……。だがそれ以外、他に説明がつくか? お前の叔父が、ああなった理由を」
「……っ」
「さらに悪いことに、ああなってしまってはもう、元に戻ることはない。怪異とあいつの精神が互いに傷つけ合っている、怪異を取り除いても精神がボロボロだ。異形の腕も治らん。……諦めろ」
「そ、んな……。朝、あんなに元気で、なんともなかったのに。笑顔でオレを見送ってくれたのに。なんで、どうして。叔父さん……!」
「なっ、おい待て!! 危ない、近寄るな!」
光は架の制止を振り払い、叔父の元へ駆け出した。先程の斬撃がかなり効いたのか、暴れる力もなく横になったままの叔父へと駆け寄る。
「叔父さん、嘘だよね? 今の。まだ生きてるよね? もう大丈夫なんでしょ? だからお願い、嘘って、言ってよ……」
光が懇願する中、叔父は何も言わず、光を見ている。
「戻ってきてよ、叔父さん!」
叔父の右腕から生えている、一本の腕が光に近づく。また光が殺される、そう思い一気に距離を詰める架であったが、その腕は、光の頭を優しく撫でたのだ。
「叔父、さん……?」
「ヒ、ヵ……ル…。ス……まな……イ、こんナこと二、ナッてしマって……。両親ヲ殺し、お前を何度、モ……殺しタだけ、デなク、お前だケ、おいていッテしまウことヲ、許シてく、レ……」
「そんな、そんなの嫌だよ! 叔父さん!!」
架はまたもや驚愕する。自我を保っている人間など、十数年前の、
「……ッ」
だが、何とか冷静を保ち、光に近づく。また、いつ暴れてもおかしくないからだ。
「そいつから離れろ、ヒカルとやら。こうなった以上、この怪異はベースを殺さなくては死滅しない。今からそいつを殺す。……そうしないと、そいつも苦しむだけだ」
そう言うと、架は再び抜刀した。その刃を、叔父に向ける。
「そんな……!」
「その人ノ、言うトオりだ……ひかル。あトチョットしか、もたナい……。だから、ソの前に、話ヲさせテ欲しい……。ドうか、お願い、シマす……」
叔父は架の目を見て、そう言った。架はその目がはっきりしていることを確認すると、刀を下げた。
「……わかった。好きにしろ」
「アり……がとう、ござイます……。……光、約束したの、覚えて、ルか…? 俺と二人で、家族の約束をしたこト……。『何かを守れる存在であれ』……。俺は、それヲ最後まで出来なカッタけど、お前に……託す。だから、後は……任せタ、ぞ……お前ニは、そノ力があル……」
叔父の呼吸が、浅くなり始める。限界が、近いのだ。それでも、叔父は喋り続けた。
「ソの力は、……光を苦しまセルことにナるかもしれ、ない……。でも、俺は信じてる……。お前ハ、優しイ子だから……。今までモ、これからも……愛しているぞ、光……」
「……うん。わかった……」
光は、精一杯、笑う。
それが、家族の約束だからだ。
『別れのときは泣かず、精一杯笑え』
それが、死に逝く人への、せめての餞になるから。
まだ光は人の死を経験したことがなく、別れというものがどういうものかはよく知らなかったが、それが今であると、理解した。
だから、笑った。笑顔で、見送る為に。
「ありがとう、叔父さん」
架は無言で、叔父へ刃を振り落とす。苦しまないように、一撃で。
光は、それを見ていた。叔父が死ぬところを。でも、泣かなかった。叔父が死ぬ、
光はその後も、泣くことはなかった。ただ、放心していた。
それも当然だろう。年端もいかない少年が、泣かなかったことでさえ奇跡だ。
……いや、ここは讃えるべきなのだろう。肉親が相次いで亡くなったのにも関わらず、約束を守るために、尊敬する人が亡くなるその瞬間まで笑顔でい続けた、その努力を。
その反動故か、彼はしばらくぼーっとしたままだった。
しかし、いつまでもそうしているわけにはいかず、架は光へと声をかける。
「……ヒカル、といったな。お前、このあとどうしたい?」
「……。……どうって、何も……無いけど……」
「そうか、なら俺について来い。今からすぐに支度しろ」
「……。…………。………………は?」
「お前のその力、とてもじゃないが普通には生活出来ん。だから、俺が面倒を見てやる」
「いや、だからと言ったっていきなり……」
「ごちゃごちゃ
「……わかったよ、ちょっと時間ちょうだい」
そう言うと、光は支度をするために自分の部屋へと歩いていった。
対して架は玄関まで進み、通信機を繋げる。
「任務、遂行完了。今から帰還する」
「!? いやいやいやちょっと待ってよ、さっきから今まで何があったの!? 随分時間かかってるし、それに生存者はいたのかい?!」
「耳元でそんな大声を出すな……。さて、何から話したものか……。先ずは、生存者アリ。子どもだ。下の名前しか聞いていないが、ヒカルだそうだ」
「ほんとにいたのかい……。で、体は無事なのかい? いくら
「無傷だ」
「無傷!? そんなことあるわけ――」
「あいつは、『
「……!!?」
架が放ったその一言に、時雨は息を呑む。
「正体はわからないが、アレは間違いなく神獣以上の存在が合わさってる。あの治り方は、他にいない」
「……本当、なんだね……。何百年、いや千年ぶりだよそんなこと……すぐに報告しなきゃ」
「いや、報告は待て。俺に考えがある。それより、『移動屋』を呼んでくれ。子どもを抱えてはさすがに帰れん」
「……わかった、すぐに手配する。そこから西に三キロのところに森があるからそこで待ってて」
「了解した、そこで待つ」
「……で、その子はどうするつもりだい? 君、つい先日弟子をとったばかりだろう? まさかもう一人とか言わないよね?」
「よくわかったな、弟子にする」
「本当にするんだ?! 珍しいね、君のような人嫌いが弟子をとったことでさえ驚きなのに……。はあ……まあいいよ、君の勝手だし。こちらで教育する手間も省けるしね」
その言葉に、架はニタリと笑う。
「それなら安心しろ、俺が徹底的にしごいて……もとい、教育してやる」
「……やっぱ安心できないな……。ねぇ、やっぱりさっきの発言はなしということに」
「お前はさっき、俺の勝手と言っただろう? 取り消しはさせんぞ。それに、あんな力を持っていたらお前らじゃ手に余る。俺が見といた方が安全だろう?」
「まぁそうなんだけどさ……。さっきの発言がなければ、気持ちよく任せられたのに……はァ……」
「それは了承の意として取るぞ。……それにあの霊力量なら、この剣術を全て使いこなせるはずだ。才能があれば、の話だが」
架は、腰の刀を触りながら言う。
「霊力量の多い俺ぐらいしか、膨大な量の使い方を教えられるやつはいない。そして使い方を覚えれば、あいつは俺以上の『化け物』になるぞ」
架はニヤリと笑う。しかし、その笑顔をすぐに消すと、刀の鯉口を一回鳴らした。
「……まぁ、本物の『化け物』にするつもりはない。間違ってそうなったとしても、そのときは……俺が殺す」
オレは、まだ知らない。
その言葉通り、本物の化け物……『怪物』になる日が来ることを。
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