第2話 ナシよりの”なし”

「聖女シルヴィアを、私は愛してしまったんだ」



 皇太子であり麗しい婚約者のウィルヘルムは、恍惚とした表情で熱い思いを垂れ流し始めた。



「聖女様を、ですか?」


 

 私は呆れたように皇太子を見つめた。

 


 ”聖女”が現れたのは半年前のことだった。


 奇跡を起こし混乱の世を平定するために生まれるという存在である聖女。

 尊く神聖の象徴が、突如としてこの帝国ザールラントに現れた。

 

 その娘はシルヴィアといった。


 元々は中部の教会区のある寒村で過ごしていた村娘であったが、神の啓示を受け、ある日突然覚醒したのだという。


 数々の奇跡で人々を救う聖女は、貴重な存在である。

 聖女は諸国にランダムで現れ、強大な神聖力を手中に治める為に国家間で獲得競争が繰り広げられるのが常であった。


 今回の聖女はめでたくもザールラント帝国で発現した。

 であるので他国に気付かれる前に速攻で帝室に保護(拉致?)することができ、それ以降は安全な皇宮で暮らしている。


 

 ――その聖女を愛しているという。



この国の皇太子は、人々の希望の光を愛していると言い放ったのだ。

私には正気の沙汰とは思えなかった。

だが……。



「たしかに聖女様がウィルを魅了したのは認めます」


 

 皇太子妃としての公務をこなしていた私も、たった一度ではあるが面会したことがある。


 


 感想は『こんなに可愛らしく美しい子がいるんだ!』の一言。


 

 成人してはいるらしいけれど、淡い薄茶のたゆる髪に潤みがちな大きな緑の瞳。小柄で折れそうなくらい繊細な体。そして控えめな性格。

 女の私でも庇護欲を誘うというのに、異性からしたら”たまらん”存在じゃない?



「けれども。私という公式な婚約者の目の前で、他の女性への愛を語るのはマナー違反だと思います」



 想いが猛っても、もう少し自重してほしい。大人なんだから。



「マナーだと? おまえには分からないんだろうな、コニー。そんなものはどうでもよくなるほどの、気持ちの高まりを。残念な女だ」


 

 誰が残念な女ですって?



「相手がいながら他の女性に心が移るだなんて、わかりません。こう婚約者でありながら実質妻の役割をこなしている私よりも、聖女様がよいということは、由々しき事態ですわ。ウィルは……殿下は聖女様と浮気をなさったのですね?」


「浮気、だと? そんな下等なものではないわ」


「では、なんなのですか? 婚約者がありながら、他の女を愛しているというのは浮気ではないですか」


「まだ肉体的な接触は何もないのだ。お互いの気持ちだ……」


 

 パチン!

 と乾いた音が響き渡った。

 思わず皇太子の頬をはたいた。


 生まれてこのかた、ここまで惨めな気持ちになったことはない。



「わかりました。あなたの気持ちが既に私に無いというのならば、ここにいる意味がありませんね。例え政略結婚でも心は必要ですもの」


「コニー……」

「婚約破棄同意書、署名いたしましょう」


 私はウィルヘルムから渡された文章にざっと目を通した。

 婚約破棄の条件が記載されている。

 

 慰謝料として金貨に西方の領地。

 条件は悪くない。

 むしろ私に有利なほどだ。


 私は公式文章を記載するための魔力のこめられた羽ペンにインクを浸し、さらりとフルネームを記入した。



「これで他人ですわ、殿下」


 

 ペンと書類をウィルヘルムに投げつけると、涙が零れ落ちそうなのを必死に堪えながら、私は笑顔を作った。


 

 ここで泣くと惨めになるだけだわ。

 私が惨めになる必要はないんだもの。

 まっすぐに前を向いていくのよ。

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