第45話 今までで一番緊張したかも知れません/14
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『本物の竜』だ。リィンは目を見開いて、そう思う。
竜というのはどの種も巨大なトカゲのような姿をしている。だが、ピアのような笛竜や、駆竜や翼竜などといった眷属とは異なり、『本物』と呼ばれる竜は必ず四本の足と一対以上の翼を持っていると言われている。
しかしその分類方法には何の意味もなかった、とリィンは思った。
足の数など数えるまでもなく、目の前にいるものが『本物の竜』であるとリィンの全身が訴えていたからだ。
ソルラクすら丸呑みに出来てしまえそうなその大きさ。そして何よりも、ただそこに佇むだけで感じられる圧倒的な威圧感。
目の前の『本物の竜』はまるで晴れた空のように澄み渡った青い鱗に覆われていて、暴威というよりは神秘的な美しさを纏っていた。しかしそれでもその威圧感は拭い去れるものではなく、かの竜がほんの少し気まぐれを起こせば、自分などすぐに殺されてしまう矮小な存在であるということを、まざまざと感じさせられた。
逃げることも叫ぶことも──それどころか、怖がることすら出来ず、リィンが呆然としていると、おもむろに竜が口を開いた。その中に並んだ歯はまるで一本一本が魔刃のよう。そして……
『あらあらあらあら、なぁんて小さくて可愛いお嬢さんなんでしょう! ソル君ったらこんな可愛らしい女の子、いったいどこから連れてきたの?』
紡がれる言葉は、なんというか、年かさのご婦人のようであった。
あまりの衝撃にすべて吹き飛び、真っ白になった頭の片隅で、『竜語だ』とリィンは思う。
耳に伝わる音は、その見た目に相応しい低い唸り声。しかし脳裏にその意味や細かいニュアンスまでもがはっきりと伝わってくる。竜語とはそのようなものだと、書物で読んだことがあった。
言葉とは、もっとも古い魔法なのだという。己の頭の中にしかない想いを、他人に伝えることが出来る。なるほどそれはまさしく魔法そのものだ。
そしてこの世でもっとも魔法に長けた竜という存在が、原初の魔法である言葉をもっとも上手く使えるというのは道理であった。
『こんなところで立ち話もなんだし、さあさあお上がりなさい』
ソルラクがミゼットと呼んだのは、やはり彼女のことなのだろう。ミゼットがその恐ろしい外見にまるで似つかわしくない気さくで友好的な声色でそういうと、リィンたちの身体がふわりと宙に浮いた。そのまま信じられない速さで空を移動して、山のただ中にぽっかりと空いた洞窟に引き込まれる。
『人間のお客さんをおもてなしするのなんて久々なものだから、ちょっと散らかっていてごめんなさいね』
ミゼットが口から炎をふくと、天井から吊り下げられたシャンデリアに火が灯り、暗い洞窟の中が煌々と照らし出された。
それは、竜が棲んでいるとは思えないほど整った空間だった。床には石ころどころかチリ一つなく、フカフカのラグが敷かれていて、ミゼットの体格に合わせた巨大なテーブルとソファまでもが設えてある。
ミゼットが大きなヤカンに炎を浴びせると、あっという間に中身の水が沸騰する。彼女はそれを用いてお茶を淹れ、槍のような爪の生えた巨大な手で器用に人間サイズのカップに注いでくれた。
『お砂糖とミルクはいるかしら?』
「いいえ。いただきます……」
音一つなく完璧な所作で差し出されたカップを手にとって、リィンはそれに口をつける。懐かしささえ感じるほど遠い、けれど慣れ親しんだ味と香りが彼女の口内を満たした。
「美味しい……これはエルホワイトですね」
『あらまあ。よくご存知ね』
それはルーナマルケでもっとも親しまれている茶葉であり、リィンが好きな紅茶の銘柄だ。
なぜ『本物の竜』がこんなところにいて、人のような生活をし、リィンたちに紅茶を振る舞ってくれるのかはわからない。けれど一つだけ、わかることがあった。
「はじめまして。リーンゼナヴィア・クリスティア・ルーナマルケと申します。ソルラクさんには、とてもお世話になっています」
リィンはソファの上に立ち上がると、スカートの裾をつまみ上げ、片足を後ろに引いて膝を曲げた。貴人に対し、最高の敬意を表す挨拶の仕方だ。ソファの上でするのは少々頂けないが、降りるのは少々勇気のいる高さなのだから仕方ない。
この竜は確かに女性で、ソルラクと親しい仲であるようだ。
けれど敵でもなければ争い合う相手でもない。むしろ、味方につけるべき相手だと、リィンの本能が察していた。
『クリスティアですって!?』
「ミゼット」
リィンの名前を聞いた瞬間、ミゼットは驚きに目を丸くする。しかしソルラクが嗜めるように短く名を呼んだため、リィンの方もそれ以上追求する事はできなかった。
『……ごめんなさいね。私はミゼット。ご覧の通り青竜よ。そちらは……』
「えーと……ニコです」
視線を向けられ、珍しく恐縮した様子でニコが頭を下げる。流石に彼も『本物の竜』相手にはいつもの飄々とした態度ではいられないようだ、とリィンは思った。
「本物の竜には初めてお会いしましたから、なにか失礼がありましたらすみません」
『あら。うふふふ。面白いことを言う子ね』
人間の持つ常識というのがどこまで通用するのだろうか。そう思いつつ先に詫びておくと、何がおかしいのかミゼットはコロコロと笑った。伝わってくるニュアンスとしては上品な貴婦人の微笑みだが、牙の隙間から炎が花びらのようにハラハラと零れ落ちる。
「リィンを」
『ええ。お安い御用よ。ルーナマルケまでなら、私の翼ならひとっ飛びだもの』
ソルラクの端的な言葉に、ミゼットは鷹揚に頷いてそう答えた。ルーナマルケの話など一言もしていないというのに、言葉以上の情報が伝わっている。
おそらく、竜語というのは話す側だけではなく、聞く側に回ったとしてもその意図を汲み取れるのだろう、とリィンは推測した。
同時に、もしかしてソルラクが全然喋らないのはこの人の影響もあるんじゃないだろうか、とリィンは思う。毎回こんな会話をしていては、口数が極端に少なくなっても不思議ではない。
『でももう今日は遅いわ。うちで休んで行きなさい』
寝る場所がソファしかなくて申し訳ないけれどね、などといいつつも、ミゼットは掛け布団代わりの毛布を用意してくれる。ソファしかないと言っても、リィンたち三人がそれぞれ大の字になって寝転がってもなお余裕があるほどの大きさだから何の問題もない。
「あ、あの」
けれどリィンにはそれよりも優先すべきことがあった。
「ソルラクさんの事、色々聞かせてほしいです」
『あらあらあらあら、まあまあまあまあ!』
たっぷりと『言外の意図』を込めながらリィンがそう告げると、ミゼットはひどく楽しそうに声を上げる。
「……ミゼット」
低く唸るようなソルラクの声。竜語が使えずとも、リィンには彼の言いたいことがなんとなくわかった気がした。
『ふふ。じゃあ、ソル君に怒られない程度にね』
だがミゼットはさして気にした様子もなく、パチリと器用にウインクしてみせるのだった。
☀
『でね、そのときソル君ったらね、何にも言わずに木を叩き割り始めちゃって』
「ソルラクさんらしいですね」
楽しげに弾む女性二人の声に、だから来たくなかったんだ、とソルラクは内心で頭を抱えていた。
リィンとミゼットはすっかり意気投合してしまったようで、延々とソルラクの話をしている。その様子を何やら気の毒そうな目でニコが見ていた。いつものように軽い口調で話しかけてきてくれればいいのに、ミゼットと会ってからは妙に大人しい。
「そう言えば、ミゼットお姉様はソルラクさんとどういうお知り合いなのでしょうか?」
不意に投げかけられた質問に、ミゼットはチラリとソルラクに視線を向けた。
できれば来たくなかったのは、これも理由の一つだ。ミゼットはソルラクの過去を殆ど知っている。つまりは、リィンの母親と彼との関係も。
勿論ミゼットも余計なことを言うつもりはないのだろうが、彼女はとてもお喋りだし、何より竜語は隠し事をするのに全く向いていない。ちょっとでも考えれば、それを全てつまびらかにしてしまうのだ。
『あらあら、こんなおばさんを捕まえてお姉様だなんて。私はこの子の育ての親のシンバと旧知の仲でね。彼が死んだ後、まだ小さかったこの子の面倒をしばらくみていたのよ』
「ということは……お義母様、ということですね?」
リィンがそう尋ねると、ミゼットはおかしそうに笑った。
『うふふふ。そうね、リィンちゃんがそう呼びたいのなら、そう呼んでもいいわよ』
竜語で何か言外の意味を読み取ったのか。リィンの問いの何がそんなにおかしいのかわからなかったが、こんなに嬉しそうなミゼットは初めてだった。
「お義母様。お義母様は、お母様の事をご存知なのですか?」
更にリィンは意味のわからない質問を投げかける。
「ええ。直接会ったことがあるわけではないけれど──」
ミゼットがそこまで言って、ソルラクはようやくリィンの言葉の意味に気がつく。今の『お母様』は、リィン自身の母親のことだ。
「……クリスティアは、母から貰った名前なんです。わたしの名前を聞いた時に驚いてらしたので、ご存知なのかと思って」
そう言ってリィンは紅茶を飲み干して。
「母はわたしを産んですぐに亡くなってしまって、殆ど記憶がないんです。もしご存知でしたら、お話を聞かせてくださいませんか?」
ニッコリと微笑みながら、そう尋ねた。
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