第32話 格好良くて思わず見惚れてしまいました/61
☆
まるで、巨大な蛇が何匹もとぐろを巻いているかのような光景であった。
一本一本が人の背丈ほどもある太い触手が甲板にぴったりと張り付き、締め付けている。そしてそれは全て一つの胴体に繋がっていて、巨大な丸い瞳がこちらを見下ろしていた。
イカだ。それも、恐ろしく巨大な。
その全長はニコたちが乗っている船に匹敵するほど大きく、人間の体そのものよりも更に大きな瞳は何の感情も映さずに混乱し逃げ惑う人々を捉えている。
しかし何より重要なのは、その触腕の一つがリィンをつまみ上げていることだった。
それを見た瞬間、ソルラクはいきなりカレドヴールフを抜き放ち、弾かれたように駆け出した。
そのままリィンを掴んだ触腕に足を掛け、駆け上がるように登っていく。だが、うねるように蠢くそれにソルラクの身体は跳ね上げられ、吹き飛ばされた。
「いくらなんでも無茶だよ!」
こともなげに空中で身をよじり、甲板に着地するソルラクにニコは叫ぶ。あの凄まじく巨大なイカの触腕を駆け上がっていくソルラクの姿は、彼には極めて斬新な自殺のようにしか見えなかった。
「ドゥリンダナで俺を投げろ」
「いや無理だよ! 君はいくらなんでも重すぎるし、引っ張る方向じゃないと難しいんだ」
やってみようか、とニコは言って腰の細剣を引き抜く。
「万刃、ドゥリンダナ!」
その名を呼ぶと同時に針のような刀身はリボンのように柔らかく伸びて、ソルラクの体に巻き付いた。だがそれは彼の身体にロープを結わえ付けるのと似たようなものだ。刃を自由自在に操作できるとは言っても、そのまま人間の身体を持ち上げるような力はドゥリンダナにはなかった。
「この状態で刀身を縮めれば引っ張ることはできるけど……」
たわんだ刀身が縮んでピンと張り、柄に向かってぐっと引き寄せる力が生まれる。しかし、動いたのはソルラクではなくニコの方だった。
「君より僕の方が体重が軽い。だから僕の方が動いちゃうんだ」
リィンを釣り上げたときは屋根の上で身体を固定していたし、何よりまだ幼い彼女は酷く軽い。だからこそ出来た芸当であって、ソルラクに対して同じことをするのは不可能だった。
「……奴の腕を撃て」
ソルラクは一瞬の逡巡の後、リィンを掴んだ触腕を指差してそう告げる。
「無理だよ。ドゥリンダナじゃあいつの触腕は切り飛ばせない。それどころか、傷をつける事ができるかどうかも怪しい」
ドゥリンダナは、はっきり言ってあまり戦闘に向いている魔刃ではない。魔刃とは戦うために作られたものであるというのに妙な話ではあるのだが、咄嗟に刃を引いたとは言えソルラクの腕すら切り落とせなかった程度の威力しかないのだ。あの巨大イカの触腕をどうこうできるとはとても思えなかった。
「撃て」
だがソルラクは、ただ同じ言葉を繰り返した。
「理由を教えて」
ソルラクは言うべきことを何も言わない。それが、ニコには気に食わなかった。ニコはソルラクの部下でもなければ金で雇われているわけでもない。対等の旅刃士だ。
そんな事を言っている場合ではないことはわかる。だが、こちらから手を出せばあのイカの注意はこっちに向かうだろう。命を賭けるのであれば、納得の行く説明があるべきであると思った。
ソルラクの瞳がニコを見下ろし、鋭い視線が彼を刺し貫く。あのイカに負けないくらい、感情を読み取ることが出来ない真っ黒な瞳。
だがそこに、初めて何か感情らしいものが見えた気がした。
「……頼む」
それは、焦りだった。
「リィンが危ない」
ソルラクは頭を下げ、ただ、それだけを告げる。
「何の説明にもなってない!」
リィンが危ないことなんて、見ればわかる。ニコだって彼女を助けたい気持ちは同じだ。それをどうにかする方策があるというのなら説明しろと言っているだけの話なのだ。
「なってないけど……わかったよ!」
だが。
ソルラクにとって何が重要であるかだけは、はっきりと分かった。彼がどうしてリィンに付き従っているのかはわからない。だが、彼がリィンを大切に思っていることだけは、これ以上なく伝わってきた。
「万刃、ドゥリンダナ!」
ドゥリンダナの先端が勢いよく伸び、ソルラクが指差した通りにリィンを掴んだ触腕を刺し貫く。ドゥリンダナは元々突きを主体とする細剣状の魔刃だ。斬るよりは突く方が向いている。
「離すな」
短く言って、ソルラクはとんと跳躍する。そして、大イカを貫いたドゥリンダナの刀身の上に乗って一直線に駆け出した。
「そのくらい説明しなよぉー!」
慌ててニコは大イカの触腕を貫いた先端に返しを付けて固定しつつ、ソルラクが上を渡りやすいように刀身を太く平たく膨らませる。万刃の名前は伊達ではない。その程度の芸当はできるのだ。
ソルラクがリィンの元へと辿り着く直前、大イカは彼を脅威とみなしたのか、それとも単に腕の先端に引っかかったドゥリンダナを煩わしく感じたのか、振り払うように触腕を大きく動かした。
「させるかっ!」
ニコはその動きに合わせてドゥリンダナを更に伸ばし、ソルラクの位置を一定に保つ。それを察し、大イカは別の触腕をソルラクに向けて振りかぶった。
「ソルラクくんっ!」
ニコの呼び声に答えるように、ソルラクが一瞬だけそちらに視線を向ける。
「跳んでっ!」
長く伸び、ほんの少したわんでいたドゥリンダナを縮ませる。刀身がピンとまっすぐ張るその反動に合わせ、ソルラクは高く跳躍した。
「無刃」
振るわれる触手の先端を飛び越え、その魔刃を振りかぶる。
「カレドヴールフッ!」
刃を持たない奇妙な魔剣は唸りを上げて回転し、その表面に掘られた溝が大イカの触腕に噛みつき、引きちぎる。リィンを捕らえた触手の先端が緩み、空中に放り出される少女をソルラクはしっかりと抱きとめた。
だが、どう考えてもその後のことを考えていない。片手に魔刃を構え、もう片腕でリィンを抱きとめた状態で先程のように着地は出来ないだろう。しかも高さはさっきよりも何倍も高い。
「万刃ドゥリンダナ! 受け止めるっ!」
ドゥリンダナの刀身がリボンのように柔らかく伸びて、幾重にも渦を巻きクッションになってソルラクを受け止める。彼は案の定自分が緩衝材になってリィンを助けるつもりだったようで、そのまま背中から落下した。
「ぼさっとしてないで、逃げるよ!」
あんな巨大イカとまともに戦うことなんてできるはずもない。何とか船から引き離して、逃げるしかない。
「いや」
だがソルラクは先程までの様子が嘘だったかのような落ち着いた声でゆっくりと立ち上がると、無数の触腕を広げ威嚇する大イカに向かって魔刃をまっすぐに伸ばした。
「混合刃、炎」
カレドヴールフの先端が、炎に包まれる。そしてそれは見る間に大きくなり、螺旋を描いて刀身全体に燃え移っていく。
……いや、燃え移っているのではない。
刀身そのものが、炎になりながら回転しているのだ。
「ラヴァヴールフ」
そしてその炎は更に大きく膨れ上がり、渦となって大イカの胴体を飲み込んだ。破壊と高熱の奔流がほとばしり、目が潰れそうな程の光が辺りを照らす。
ニコがぎゅっと瞑った目を再び開いた時、そこには胴体が消し飛び、焼け焦げた大イカの触腕の残骸だけがあった。
「すげぇ……」
ぽつりと、船員の誰かが呟く。それはその場にいた全員の心情を代弁したものであった。
だが、それは『もう片方』でしかない。
「そんな……」
ニコは、震える声で残りのもう片方を口にする。
「そんな事ができるんなら、初めっからやりなよ!」
万が一にもリィンを巻き込みたくない。そんなソルラクの心情は理解しつつも、ニコは叫ばずにはいられなかった。
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