第二章

第31話 最悪の醜態を晒してしまいました/15

 ☪


「はい、水持ってきたよ」

「申し訳……ありません……」


 リィンはノロノロと上体を起こすと、ニコの持ってきてくれた木製のコップに口を当てた。ツンと刺激臭が鼻を突く。なんでも、船上で用いる飲料水には防腐のために酢を入れてあるのだという。


 ぎゅっと目の間に力を込めて喉に流し込むと、その酸っぱい味と生ぬるい温度に腹の奥から吐き気がぶり返した。


「うっ……!」


 リィンは急いで船室の窓へと向かい、そこから首を出す。そして、思いっきり胃の中のものを吐き出した。


「大丈夫?」

「すみません……」


 ニコに背中を撫でてもらいながら、リィンは再びベッドに横になる。ゆらり、ゆらりとゆっくり揺れる床に腹の中をかき回されるような感覚。それを必死に堪えながら、リィンは己の脆弱さに嘆いていた。


 内心、ワクワクしながら臨んだ初めての船旅は、最悪なものだった。


 途中で補充というものが一切効かない船旅は、とにかく何もかもが質素だ。食べられる物は固く焼き締めたパンと干した肉くらいのもの。陸上の旅であれば木の実を採ったり獣を捕らえたりできるが、海上ではそうはいかない。


 魚を取ったり火を炊いたりするのさえ、波や風のない日を見計らって行わなければならないのだ。温かいスープを飲むことも出来ず、水すら吐き気を催す味。そしてその上、四六時中揺れている足元に吐き気がこみ上げてきて、リィンは何度も吐き戻してしまっている。


 そんなところをソルラクに見られてしまったのがリィンにとっては何よりつらいことだった。今は幸いどこかへ姿を消しているが、それも嫌われてしまったからではないのか。そんな弱気な心が顔を出す。


「暑くないかな。扇ごうか? それとも寒い?」

「大丈夫です……」


 ニコは逆に何くれとなく世話を焼いてくれるが、正直放っておいてほしかった。今の体調では返事をするのも億劫だし、どれほど気遣ってもらったところで吐き気が消えるわけでもない。ただただ申し訳ないばかりだ。


 こんな旅が最寄りの港まで、あと最低でも5日はかかると言う。そう考えると、リィンは絶望的な気持ちになった。


「うーん。もうちょっと毛布を追加した方がいいのかな」

「あの……大丈夫、ですから……」


 ただでさえ水分をろくに取れない上に吐き戻しているのだ。この上汗までかいては水分不足になってしまう。揺れる頭でそう考えてニコの服を掴もうとするが、彼はあまり人の話を聞いていないようだった。


「大丈夫、すぐ戻るからね。リィンちゃんはここで寝てて」


 ニコは優しい声色で言いながらリィンの手を外し、立ち上がって部屋を出ていこうとする。そうじゃないのに、と手をのばすその先で、扉が突然開いた。


 ソルラクだ。


「あっ、どこ行ってたのさ。リィンちゃんが大変だってのに。さっきもまた吐いちゃってさ」


 言わないでください。そう思うも口には出来ない。ソルラクはニコに答えることなくリィンに近づくと、ずいと何かを差し出した。


「飲め」


 相変わらずの端的な言葉とともに突き出されたのは、小さな貝殻の上に乗せられたペースト状の何かだった。


「えっなにこれ? 汚泥? 飲めるわけ無いでしょこんなの」


 それを見て、ニコは露骨に顔をしかめる。貝殻にいれられたそれは濁った緑をしていて、ひどい悪臭を放っている。ニコの反応ももっともではあった。


 けれどリィンはそれを受け取り、覚悟を決めて一息に飲み干した。


「躊躇なく飲んだー!?」


 ドロドロとした舌触りに、鼻まで突き抜けるような生臭さ。思わず目尻に涙が浮かぶほどのまずさにリィンが盛大に顔をしかめていると、ぐいと革袋が突き出された。


 リィンはすぐさまそれを受け取り、ぐっと中身を飲み干す。それは先程ニコから差し出されたものとは違って、変な味のしない冷たい水だった。ソルラクがどうやってこんなものを用意したのかわからなかったが、それはするりとリィンの喉を通って滑り落ちる。


 久しぶりに飲む清浄な水に、先程まで感じていた生臭さと一緒に吐き気までもがすっきりと消え去るようだった。


「リィンちゃん大丈夫? まさか毒じゃないよね?」


 心配そうな表情でニコが覗き込む。


「はい。なんだか、随分楽になりました」


 まだ頭はフラフラするが、少なくとも先程までの酷い船酔いは随分とマシになった気がする。


「ええ……? あまりの不味さに吐き気が吹き飛んだってこと?」


 怪訝そうな表情でニコに、リィンはそんな事もあるのだろうか、と首をかしげる。するとソルラクがリィンの手から空になった貝殻をひょいと取り上げ、言った。


「酔い止めだ」

「先にそれを言いなよ!」


 至極もっともなツッコミを入れるニコに、リィンはクスクスと笑みを漏らすのだった。



 ☀



「いやーまさかあれが酔い止めだったとはね。良薬口に苦しとは言うけどあれは苦いなんてものじゃなさそうだったね」


 まだ本調子ではなさそうなリィンを寝かせてソルラクが甲板に出ると、そんなことをペラペラと喋りながらニコとかいう男がついてきた。


 妙な男だ、とソルラクは思う。


 旅刃士というのは基本的に、金にならない仕事はしないものだ。リィンの旅に同行することで儲けられる可能性は低い。少なくとも当分の間はゼロといっていいだろう。金にもならない仕事をわざわざ自分から引き受ける理由がわからなかった。


「ねえ、なんでソルラクくんはリィンちゃんについてきてるんだい?」


 などと思っていたら、逆に聞かれてしまった。


 なんで、か。とソルラクは改めて考える。最初はただ、他人と会話をする練習になればいいと思っていただけだった。


 だが今は違う。リィンの事が、誰よりも大切だからだ。


 彼女の望みをできる限り叶えてやりたいと思うし、彼女に降りかかる全ての悪意から守ってやりたい。


 まさか自分と同じ思いをニコも抱いているというわけではないだろう。そこまでの覚悟を抱くにはいくらなんでもリィンと接した時間が短すぎる。だからといって会話する能力に乏しいようにも思えない。本当になぜ彼がついてくるのか、ソルラクには理解が出来なかった。


 どちらにせよ、ソルラクにはその辺りのことを問いただす能力もなければ、問われたことにうまく答える方法もわからない。


 彼はニコに背を向け、背嚢から鉄の鍋を取り出した。


「えっ鍋? なんで今鍋出したの? それが理由?」


 手元を覗き込んでくるニコを無視して取っ手にロープを結わえ、船の端から垂らして海水を汲む。そして同じく背嚢から取り出した石を積んで簡単な炉を作ると、その中にカレドヴールフを突っ込んだ。


「炎刃ラヴァティン」


 その刀身に宿った魔刃の力を小さく開放してやると、先端から炎が吹き出す。船上では風があればうまく火をつけることも出来ず、また燃料にも限りがあるためにそうそう火を使うことは出来ないが、この魔刃の力があれば話は別だ。


「海水なんて煮てどうするの?」


 グツグツと泡の立ち始めた鍋の上に布を張る。その布には鉄でできた骨が仕込んであって自立するようになっており、鍋から立った湯気が水滴となって滴り、下においたマグカップに落ちる仕組みだ。後はこれを革袋に入れ、しばらく海水に浸して冷ましてやればいい。


「へえー。なるほどなあ、そうやって真水を作るわけかー! さっきの酔い止めは何から作ったの?」


 本当に妙な男だ、とソルラクは思う。


 普通の人間はソルラクがろくに会話できないのを知ると、たいてい怒り始めるか相手をしなくなる。そうでなかったのはリィンだけだ。


 だが彼女ですら、最初はソルラクのことを恐れてろくに話すことはできないでいた。単にソルラクしか頼る相手がいなかったから、仕方なく対応していただけだ。


 だがニコはこちらが喋ろうが喋るまいがお構い無しで話しかけてくる。こんな相手は初めてだった。


 ソルラクはカレドヴールフの先端に釣り糸をくくり、先に針と干した魚の肉を付けて垂らす。程なくして魚がかかる感触がしたので、カレドヴールフを回して釣り上げた。


 ナイフで魚を捌き、その肝をすり潰してあらかじめ採っておいた薬草と混ぜる。これは爺さんが教えてくれた薬だ。昔のソルラクもよく船に酔っていた。


「あっ、さっきの色になってきた! なるほどなあー。どこで覚えたの? そんなの」


 薬を調合するソルラクの後ろで、ニコは一人賑やかに騒ぎ立てている。


 もしリィンと最初に出会ったのがソルラクではなくニコだったらどうなっていただろうか。このお喋りで親しみやすく、気も利く男が道連れであったら、リィンの旅はずっと快適なものになっていたのではないだろうか。


 もちろん今更、何があっても守るというリィンへの誓いを覆す気など毛頭ないが、どうしてもそんなことを考えてしまうのだった。


 その時のことだ。


 突然、船が異常に大きく揺れ、絹を裂くようなリィンの悲鳴が聞こえてきたのは。

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