第23話 恥ずかしさで死ぬかと思いました/38
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「わぷっ……」
吹き付ける強い風に、リィンの長い紫の髪がなびく。それは竜上でちょうど後方にいるソルラクの顔に容赦なく当たった。
「あっ、ごめんなさいっ。すごい風ですね……」
慌てて髪を押さえるリィンに、ソルラクはすっと前方の彼方を指差す。
「……? あっ……!」
訝しげに視線を向けるリィンの目が、大きく見開かれた。
「あれって……もしかして、海ですか!?」
「ああ」
きらきらと光り輝く大海原に負けないくらい目を輝かせ、リィンはあぶみの上に立ち上がる。
「……わたし、海、初めて見ました……」
感じ入ったように呟くリィン。しかしソルラクは、風の強い中不安定な竜の背中に立つ彼女が落ちてしまわないか心配で、それどころではなかった。
「あの海の向こうに……ルーナマルケがあるんですね」
重々しく、気を引き締めるかのようにリィンは口にする。
「いや」
「えっ?」
だが、そうではなかった。今見えているのは内海であり、その先にルーナマルケのあるアキルダニア大陸はない。
「それでは……船には乗らないということですか?」
「乗る」
振り向き尋ねるリィンに、ソルラクはそう答える。嘘ではない。船には乗る。乗るが、その船はルーナマルケには向かわないというだけのことだ。
「それはどういう……」
リィンが問い返そうとしたその時、再び強い海風が吹いて、リィンの髪と衣服がぶわりとはためく。煽られ体勢を崩すリィンをソルラクは反射的に支え、その身体をくるりと回して鞍の上に置き直した。
「………………み……見えました……?」
リィンは顔を耳まで真っ赤に染め、スカートを手で押さえながらか細い声で問う。
何の話だ、と思ったちょうどその時、次に向かう町の門が見えたので、ソルラクは答えた。
「ああ」
*
どうやら自分はまた、なにか対応を間違えたらしい。
あれきり一言も発しなくなったリィンに、ソルラクはそう思う。
いつもであれば何かと騒ぐのに、町の門を超えても彼女はうつむき押し黙ったままだった。
「リィン」
「は、はいっ」
名を呼ぶと、リィンはびくりと肩を震わせた。まるで出会ってすぐの頃に戻ったかのように怯えている。少しは慣れたかと思った矢先に、これだ。やはり自分はつくづく人と接するのには向いていないらしい、とソルラクは内心で深くため息をつく。
「見ろ」
「わあ……」
だがそう言って周りを指し示してやると、リィンは歓声を上げながら周りを見回した。海を見たことがないということは、当然港町を訪れるのも初めてなのだろう。
今回やってきたのは大して大きい町ではないが、それでも普通の町とは異なる趣がある。船でやって来る珍しい交易品を並べた店が立ち並び、盛んに取引の声がかわされるさまはまるで祭りのようだ。
子供にとっては楽しい光景だろうというソルラクの予想は、どうやら当たっていたようだった。
「降りろ」
「あ、はい」
大通りの手前でソルラクは竜を止め、リィンにそう促す。リィンはキョトンとしつつも、ピアの背中から竜具を伝って地面に降りた。ソルラクもそれに続いて竜の背を降り、前に回ってピアの手綱を引く。
「……もしかして、お店を見ても良いってことですか?」
すると、聡いリィンはソルラクの意図に気づいてそう尋ねた。
「好きにしろ」
どこに行こうと必ず守り、欲しい物があれば何でも買ってやる。そのような決意を込めて、ソルラクは答える。
「ありがとうございます!」
リィンはぱっと花のような笑顔を閃かせ、楽しげに店を物色し始めた。彼女がこうして店を見て歩くのが好きらしいというのはわかっている。どうやらいつもの調子に戻ってくれた、と密かにソルラクは胸を撫で下ろした。
「あっ。ソルラクさん、見て下さい! これ!」
不意に、リィンは花をかたどった髪飾りを手にとって声を上げる。
花には疎いソルラクは名前は知らないが、花そのものには見覚えがあった。
「ルーナマルケのものです!」
「おや、よく知ってるねお嬢さん」
リィンが言う通り、それは確かルーナマルケの国花だったはずだ。美しいが一晩で花を咲かせ、日の昇るころにはしぼんでしまう。その儚さがかえって人の気を惹くらしく、こうして装飾品のモチーフに使われることは多かった。
「これは船で運ばれてきたんですか?」
「ああ、それは……」
答えようとする店主の手に、ソルラクは金貨を数枚握らせた。遠いルーナマルケから船で運んだとなれば、それなりの値段がするだろう。リィンが気に入ったのなら例え幾らであろうと買うつもりだが、その金額に恐縮されても困る。
「お、おいおい、お客さん、いくら何でも多すぎるよ! 10ソルもありゃあ十分だって」
店主は慌てふためき、金貨を一枚だけ手にとって、ソルラクに残りと釣りの銀貨を渡す。思ったよりもずいぶん安い値段だった。どうやら舶来品ではなかったらしい。
「あ、あのっ……いいん、ですか……?」
「ああ」
受け取った品物をそのままリィンに突きつけ、押し付けるように手渡す。
「ありがとう、ございます……」
リィンは両手でぎゅっとそれを抱えると、まるで気落ちしたかのように俯く。
「……つけないのか」
「あ。はいっ」
ソルラクがそう尋ねると、彼女は慌てたように髪を後頭部の辺りで一つに束ね、髪飾りで留めた。
似合うかどうか聞け。
俯き気味に髪を束ねるリィンを見つめながら、ソルラクはそう念じた。
尋ねてくれれば、「ああ」と答えられる。
自分からそう告げるという選択肢は、ソルラクにはなかった。どのような言葉が人を傷つけ、悲しませるのか、ソルラクにはまったくわからない。今リィンが元気を失っているのだって、何故なのかわからない程に鈍感なのだ。そんな自分が、不用意に言葉をかけていいはずがない。
しかし聞かれたことに是と答えるだけであれば、流石に問題はないはずだ。
だから、聞け。
ソルラクはじっとリィンを見つめながらそう心の中で訴える。
「あの、ソルラクさん」
「ああ」
来た。勢い余ってソルラクは先に答えてしまう。
「そろそろ宿に向かいませんか? あまり遅くなっても……」
だが実際に飛んできたのは、そんな提案だった。
「……ああ……」
もう一度同じ……しかし、本当に返したかったのとはまったく異なる言葉を返し、ソルラクはピアの手綱を引く。それっきり、宿につくまで会話はなかった。
☪
「あ、あの、わたしが部屋を借りてきますね」
宿の前に辿り着いたところで、リィンはソルラクから逃げるようにパタパタと店の中に駆けていった。
恥ずかしさと照れくささで、ソルラクの顔をまともに見ることが出来ない。
スカートの中を見られてしまっただけでも恥ずかしかったのに、ソルラクが有無を言わせない勢いで買ってくれた髪飾りが駄目押しになった。
ルーナマルケにおいて、男性から女性に髪留めを送るというのは求婚の証であるとされている。勿論、ソルラクがそれを知っていたとは思えないし、実際に求婚に使われるのは宝石や貴金属がついたもので、このような普段遣いの髪留めではない。
だがしかし、髪留めを送られたという事実だけで、リィンは完全に浮足立っていた。
「あのっ、二人で一部屋、貸して下さい」
ソルラクがピアを竜舎に繋いでいる間に、リィンは店主にそう告げる。
「80ソルだよ。もう一人ってのは?」
「今、竜を竜舎に預けているところです」
リィンが答えたところで、ちょうどソルラクが店に入ってきた。
「あ、あの人がそうです。お金はこれでいいですか?」
「待て」
「あの、大丈夫ですから」
止めようとするソルラクを振り切り、リィンは自分の財布から銀貨を取り出して対価を代金を支払った。今日は醜態を晒し、その上髪飾りまで買ってもらってしまった。せめて何か返したい。そう思ったからだ。
だが、ソルラクが本当に止めようとしたのが何故だったか、リィンは実際に部屋を訪れてから初めて気づいた。
部屋には、ベッドが一つきりしかなかったのである。
そう言えばアーニャから、宿の部屋というのは指定しない限り二人部屋でもベッドは一つしかないものだから気をつけろ、と言われたのを思い出す。
理由は単純で、ベッドというのは家具の中でも比較的高価なものだからだ。シーツを変えたりする手間もかかる。だから大抵の宿では、大の男でも詰めれば2、3人は寝れる程度の大きめのベッドを一つ用意しておくだけで、二つ以上のベッドのある部屋はそう多くない。
それでもリィンが年頃の娘なら配慮はされたかも知れないが、親子か兄妹だと思われたのだろう。
ベッドが二つある部屋に変えてもらおうか。リィンは一瞬、そう思い悩む。
今から主人に追加料金を払って頼めば、部屋を変えてもらうのは簡単だろう。しかしソルラクと距離を詰めるために、一緒に寝たいという思いもあった。
野営をしている間はいつも彼の膝の上で寝ていたから、正直言って一人で眠るのは少し寂しいというのもある。だが同時に、今の状態だと気恥ずかしいというのも確かなことで、リィンは頭を悩ませた。
だがソルラクはそうしてリィンが頭を抱えているうちに、さっさと部屋の片隅に毛布を敷いて座り込んでしまった。自分はベッドを使うつもりはないという固い意志表示である。
「あっ……」
だがここ数日で慣れ親しんだその格好に、リィンはついつい導かれるようにぽすんとその膝の上に収まった。
「えへへ……」
あぐらの形に組まれたソルラクの足の間に尻を乗せるようにして、彼の胸板に背中を預ける。そうすると、ちょうどリィンの頭の天辺にソルラクの顎が触れるか触れないか、といった感じになるのだ。
全身をすっぽりと包まれるようなこの体勢を、リィンはひどく気に入っていた。
だがソルラクはリィンの身体をひょいと持ち上げ立ち上がると、ベッドの上に半ば投げ捨てるように下ろす。
「ううー……」
まるで猫の子のような扱いに多少恨みがましい目でソルラクを見つめてみたが、彼は意に介した様子もなく再び部屋の隅に座り込んだ。
「ソ……ソルラクさんも……一緒にベッドで、寝ません……か……?」
流石に恩人を床で寝せるわけにもいかない。しかしそれ以上に下心を秘め、リィンは勇気を振り絞ってそう尋ねた。しかし、ソルラクはそれに応じる気配もない。
やっぱり前みたいに、それなら自分も床で寝ると脅す必要があるだろうか。だが先程のように力づくでベッドの上に移動させられてはなすすべがない。
そのせいでソルラクに不便を強いるなら、やはり今からでも部屋を変えてもらった方が良いかも知れない。
そう思ってリィンが身体を起こそうとした、その時のことだった。
ソルラクが突然立ち上がり、リィンの上にがばりと覆いかぶさる。
「えっ……ソ、ソルラクさん!?」
一瞬リィンの脳裏に、ソルラクと出会ったばかりの頃、見知らぬ男に同じように押し倒された記憶がよぎる。
だがしかし、その時のような恐怖も嫌悪も微塵もなく、困惑とほんの少しの不安。そして大きな期待が、リィンの胸の中で一気に膨れ上がった。
「あ、あの、でも、まだちょっとこういうのは早いような……」
そもそも、まだ想いすら伝えていない。何が早いのかはよくわからないが、慌てて言うリィンをソルラクは息もできなくなるくらいに強く抱きしめる。
次の瞬間、爆発音とともに衝撃がソルラク越しに伝わってきた。
一瞬、リィンは自分の恋心があまりの興奮に爆発してしまったのかと思ったが、そうではない。物理的な破裂が、宿の壁を粉々に砕いていた。ソルラクはどのようにしてかそれを察知し、爆発と木の破片からリィンを守ってくれたのだ。
ほとんど同時に、抜身の剣を手に、顔を覆面で隠した男たちが四人、わらわらと部屋に乗り込んできた。ソルラクは即座に魔刃を抜き放ち、リィンを片腕に抱きかかえてそれに応戦する。
乱入者たちの動きは、リィンの目から見ても明らかに洗練されたものだった。互いに邪魔にならないようにソルラクを四方から囲み、タイミングをずらして斬りかかる。以前目にした奴隷商人やその用心棒たちとは異なる、統率の取れた動き。
だがそれを、ソルラクは容易くはねのけた。唸りを上げる魔刃が、乱入者の剣を簡単に叩き折る。無刃カレドヴールフ相手には、受け太刀はする側でもされる側でもまったくの無意味なのだ。
「ソルラクさん、後……」
剣を合わせず、一撃で倒すしかない。乱入者もそう考えたのだろう。前後から息を合わせた一撃を見舞う。
「ろ……」
しかしリィンが警告の声を発するまでもなく、ソルラクはまるで背中に目でもついているかのように背後の剣を破壊しながら、前方の乱入者の剣をかわし蹴りを叩き込む。蹴り飛ばされた男は派手に吹き飛び、破壊された壁の穴から落下した。
二人が剣を折られ、一人は蹴りによって宿の外に叩き出され、状況を不利と見たのか残る一人が手を掲げて合図する。そして襲撃してきたときと同様に、あっという間に姿を消した。
「お客さん!? 何の音ですか!?」
騒ぎを聞きつけたのだろう。部屋の扉が強く叩かれる。ソルラクはリィンを下ろすと、扉を開けて金貨の詰まった袋を店主に手渡す。
その一方で、リィンは一人震えていた。
乱入者たちの装束に、見覚えがあったからだ。
あれは単にリィンの見目や出で立ちに目をつけて売り払おうとしてきた奴隷商人たちとは、根本的に異なる相手だ。彼らは間違いなく、リィンの正体を知った上で、彼女自身を目的として襲ってきた。
──そして、ソルラクをそれに巻き込んでしまったのだ。
「リィン」
「っ……!」
ソルラクに呼ばれ、リィンはビクリと身体を震わせる。差し伸べられたその手を、すぐに取ることは出来なかった。
……もしかしたら、探されているかも知れないとは思っていた。だが、まさか外国のこんな遠い場所にまで手を伸ばしているとは、リィン自身まったく予期していなかったのだ。
ソルラクを──恩人を、想い人を、あんな事に巻き込むわけにはいかない。
そう思うが同時に、リィンにはソルラク以外に頼れる相手もいなかった。一人では身を守ることも、故国に帰ることすら出来ない。
どうしたらいいかわからないまま、リィンの身体は半ば強引にソルラクに抱き上げられた。
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