第20話 後でよくよく考えたら物凄く恥ずかしくなってきました/57

 ☪


「いいお天気で良かったですね」

「ああ」


 切り立った崖に挟まれた谷間の道を進みながら、殆ど雲のない青い空を見上げ、リィンはことさらに明るい声を上げる。


 しかしその心の中は、天気とは裏腹に大雨が降っていた。


『お前は、ガキだ』


 言われなくてもわかっている。


 リィンは賢い子だね。昔からよくそう言われてきたし、リィン自身もある程度それを自覚してはいた。だがそれは、あくまで「子供にしては」という言葉が頭につく。


 わかっていたはずだった。自分がまだ未成熟で何も出来ない、小さな子供だということを。


 けれどソルラクにだけは、そう言われたくなかった。


 彼から見たリィンはどうしようもなく子供で、庇護する対象だ。ソルラクは何の見返りもなくリィンを送り届け、そのための費用も支払いながら、当たり前のような顔をする。


 どうしたって対等にはなりえない。それがどうしようもなく悲しかった。


「皆さん、いい人たちでしたね」

「……ああ」


 だからリィンは努めて明るく振る舞う。無邪気な子供のように。ソルラクに庇護され一方的に受け取ることしかできない子供には、そうすることくらいしかできない。


「ソルラクさん、そろそろお昼にしませんか?」


 益体もない話をしながらピアの背に揺られ、太陽が中天に差し掛かった所で、リィンはそう提案した。


「今日、実はお弁当を作ってきたんです」


 移動の最中は、あまり美味しいものを食べられない。たまに狩りや採取で食べ物を手に入れられることもあるが、基本は塩の効いた保存食だ。


 初日くらいは美味しいものを食べようと、リィンはアーニャに教わって弁当を作ってきていた。料理をするのは初めてだから、果たして本当に美味しいかどうかはわからないが。


 しかしソルラクはリィンの言葉を聞いている様子もなく、明後日の方向をじっと見つめていた。


「ソルラクさん?」


 イエスを示す仕草ともまた少し違う素振りに、リィンは不思議そうに彼を見上げる。少し遅れてピアが「くるるるる」と喉を鳴らし、しっぽを揺らした。道を挟んだ崖の上から、からからと石が転がり落ちてくる。


 そこでようやく、リィンは周囲を囲まれている事に気がついた。道の先にも、後ろにも、崖の上にも魔物がいる。


「猿鬼……!」


 それはリィンでも知っている、有名な魔物だった。大雑把な形としては人に似ているが、背丈はリィンよりも小さい。身体は毛皮に覆われていて、鋭い爪と牙を持つ。よく見られる魔物の一種だ。


 ソルラクがぴぃっと口笛を吹く。

 笛竜は体格は大きいが、戦うのにはあまり向いていない。群れを作って逃げる生き物だ。人に慣れやすいのも、群れを作る本能ゆえのもの。ソルラクに従っているのも、守ってもらうことを期待してのことだ。


 つまりは周りをぐるりと囲まれた状態で、ソルラクはリィンとピアの両方を守らなければならないという事だった。


 ソルラクの行動は迅速だった。彼はリィンをさっと抱き上げると、もう片方の腕で剣を引き抜きながらピアの背中から飛び降りる。その方が守りやすいと踏んだのだろう。


「喋るな」


 リィンはソルラクにしがみつきながら、こくりと頷いた。


「無刃、カレドヴールフ」


 名を呼ばれると共に、魔刃がうなりを上げる。同時に、彼はまるで風のような速度でこちらの様子を伺う猿鬼の群れに突っ込んだ。


 ぐちゅり、という濡れた音とともに、猿鬼の頭に穴が空く。飛び散る血液と脳漿から、ソルラクは外套を翻してリィンを庇った。


「怖いなら、目を閉じていろ」


 激しく動き回り剣を振るいながらも、ソルラクの声はいつも通りに低く静かだった。感情を一切感じさせないその声色はかつては恐ろしく思っていたが、いつの間にかリィンにとって酷く安心できるものになっていた。


「すぐに終わる」


 リィンに出来るのは、こくこくと頷くことだけだ。


 だが、目を閉じることはしなかった。


 猿鬼は魔物の中では弱い種類と言われているが、こうして囲まれ、上まで取られては厄介な相手だ。崖の上から投げてくる石のつぶては、落下速度を得て十分な破壊力を秘めている。しかしそれがソルラクを傷つけることは一度もなかった。


 崖の壁際に張り付くようにして丸まっているピアにはいくらか石つぶてがぶつかっているようだったが、そこは仮にも竜の眷属だ。鱗に覆われた巨体は猿鬼の投石程度ではびくともしない。


 大勢に群がられて爪や牙を立てられれば無事ではすまないだろうが、下から近づこうとすれば、ソルラクの剣が容赦なくその生命を奪った。


 ソルラクがリィンを抱えているのはこれを見越したことだったのだろう。あのまま竜上にいては、恐らく投石に打たれて死んでいた。


「跳ぶぞ。掴まっていろ」


 ソルラクがそう告げ、それがどういう意味かもわからないまま、リィンは言われた通りに彼の首にギュッと腕を回す。


 次の瞬間、浮遊感が全身を包み込んだ。


 ソルラクが跳躍し、崖を蹴り、その反動で再び跳躍する。まるで、山羊のようだった。彼はあっという間に崖の上まで辿り着くと、驚きに呆然とする猿鬼たちを剣で貫く。


 殆ど垂直に近い切り立った崖をこともなく降りていく頃には、残った猿鬼たちは皆逃げ去って、影も形もなかった。


「怪我はないか」

「は……はい。ソルラクさんが守ってくれたおかげです」


 答えるリィンの胸は恐怖か戦いの興奮にか、激しく脈打っていた。

 ぶぅん、と最後に高く唸り声を上げて、無刃カレドヴールフが動きを止める。ソルラクはそれを鞘に収めると、リィンを下ろそうとした。


 反射的に、リィンはソルラクの首に回した腕に力を込める。


「あっ……」


 それはほとんど無意識的な反応だったが、リィンはなぜか耐え難い衝動を覚えて、腕に力を込めたままソルラクの肩口に顔をうずめた。


 そうすると、戦いはもう終わったというのに胸の鼓動はますます強くなっていく。ソルラクはしばらくリィンを見つめていたが、やがて諦めたようにそのまま彼女を運び、ピアの背に乗せた。


 どこか夢うつつのようなぼんやりとした思考のまま、リィンはピアの背に揺られ運ばれていく。我に返ったのは、そこからしばらく進んだ沢のそばでピアが足を止めた時だった。


「また、魔物ですか?」


 先程までいた谷間の道と違って、隠れられそうな場所も少ない開けた川のほとりだ。警戒して周りを見回すリィンに、ソルラクは言った。


「……弁当」

「あ、そうでした!」


 先程の戦いで、リィンの頭からはすっかり抜けてしまっていた。


「今すぐ用意しますね」


 食にあまり関心を持たないソルラクが覚えていてくれたことを嬉しく思いつつ、リィンはピアの背から降りて準備を始める。せっかくだからと椅子代わりにできそうな石を見繕い運ぼうと両手をかけると、ソルラクがそれを片手でひょいと持ち上げた。


「あ、えっと、この辺りにお願いします」


 見晴らしの良さそうな場所を見繕って指をさせばソルラクはそこに石を置き、もう一つ、少し大きめの石をその隣に置いた。リィンは沢の水を汲んで手を洗い、ハンカチを二枚取り出して椅子の上に敷く。


「アーニャさんに教わって。料理と呼ぶのもおこがましいくらいのものですけど」


 そして用意しておいた弁当を、背嚢の中から取り出した。弁当と言っても、半分に切ったパンにチーズとハム、レタスを挟んだだけの簡単なものだ。


 一切れをソルラクに渡し、もう一切れを手に取る。そしてソルラクがそれを口に運ぶのを見たあと、リィンもかぶりついた。


「んっ……」


 それは、料理と呼ぶのもおこがましいほどに単純なもの。にもかかわらず、思わず声を漏らしてしまうほどの美味しさだった。


 レタスの水気が全体に程よく行き渡っているおかげで、時間が経ってもパサパサせずしっとりと柔らかい。それどころか時間を置いたおかげで試食したときよりもハムとチーズの風味がパンにじっくり染み通っていて、渾然一体となったうまみを作り上げていた。


「……どうですか? 美味しいですか?」


 黙々とサンドイッチを食べるソルラクに不安になって、リィンは思わずそう尋ねる。


「美味しい」


 オウム返しの簡潔な言葉に、リィンは天にも登ってしまう心地だった。


(あ、そっか……)


 その時初めて、リィンは自分の気持ちを自覚する。


(わたし……ソルラクさんのこと、好きなんだ)


 かつてぼんやりとしていた曖昧なその感情は、リィンの気が付かないうちに大きく大きく育って。いつの間にか、その名前にぴったりと収まる形に成長していた。


 ……そしてそれは、生まれると同時に報われないことがわかっている思いでもあった。彼はリィンの事をそういう対象としてはまったく見ていない。ソルラクにとってリィンはどこまでも保護すべき子供であり、守るべき対象でしかないのだ。


「ソルラクさん」


 ──だとするなら。


「ほっぺに食べかすついてますよ」


 彼の頬に口づけるようにしてパンくずをさらいながら、リィンは囁くように言った。


 ソルラクがリィンをそういう対象として見ていないと言うなら、見てもらえるように努力するまでだ。そんな思考に至った自分に、リィンは自分で驚いていた。


 控えめでおとなしいとか、遠慮深いとか、欲がないだとか。リィンはそんな風に言われることが多かったし、自分でもそう思っていた。


 けれどそうではなかった。単に今までは、何かを望むということがなかっただけのことなのだ。

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