第16話 フライパンを投げるのはちょっとひどいと思いました/37
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「おかえりなさい、ソルラクさん!」
宿に戻ってきたソルラクは、部屋ではなく店の入口で出迎えたリィンの姿に驚いた。
彼女はソルラクが買い与えた旅装ではなく、給仕服を来ていたからだ。黒を基調として、大きな白いエプロンのついた給仕服はリィンに反則的なまでに似合っていた。
「あ、この服ですか? アーニャさんが貸してくれたんです。ちょっと大きいんですけど……」
ソルラクの視線に気づいたのか、リィンは袖の部分をちょんと摘んで、はにかみつつも服を披露する。サイズが多少大きく、裾が余っているところもかえって彼女の愛らしさを引き立てる役割しかしていなかった。
だが、恥ずかしそうに微笑んでいたリィンの表情は突然、急速に曇る。
「……っ! ソルラクさん! どこか怪我しているんですか!?」
そしてソルラクの服を見つめ、顔を真っ青にして悲鳴のように声を上げる。刃局でも似たような反応をされたが、服についている血は全て返り血だった。ソルラク自身はかすり傷一つ負っていない。
問題ないと伝えるため、ソルラクはリィンの顔をじっと見つめる。
「本当ですか……? 怪我はしてないんですか?」
泣きそうな顔で更に尋ねるリィン。今度はソルラクはリィンに向けた視線をそらした。これで伝わるはずだ。
「ああとかいやとか言えーっ!」
その時、赤毛の女がすっ飛んできて、フライパンをソルラクに向けてぶん投げた。ソルラクは片手でそれを受け止める。鉄製のフライパンとソルラクの篭手がぶつかって、ぐわんと派手な音を立てた。
「ああ……いや」
そう言えばいいのか。
ソルラクは天啓を得たような気分で、言われた通りに答える。
「本当に、お怪我はないんですか?」
「ああ」
改めて尋ねるリィンにそう答えると、彼女はホッとしたように表情を和らげた。
「ふうーん……確かに怪我はしてないみたいだけど……っていうか服が上から下まで真っ黒だから分かりづらい! リィン、よく気づいたね」
赤毛の女がジロジロとソルラクの服を見ながら言う。何なんだこいつは、とソルラクは思わざるを得なかった。
「あ、こちらはさっき言ったアーニャさんです。この店で給仕をされてる方で」
「はじめまして。アーニャよ。えっと……フライパン投げてごめんなさい。仲良くしてくれると嬉しいわ」
リィンに紹介され、アーニャと呼ばれた女はそう言って手を差し出す。ソルラクは迷うこと無く答えた。
「桶と水を寄越せ」
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「大丈夫ですか?」
「……ああ」
服を着替え、濡れた髪を布で拭きながらソルラクは答える。アーニャに水を頭から思い切りかけられたからだ。
アーニャは店主から思いっきり怒られ、せめてもの詫びにと服は洗って貰えることになったが、彼女は最後まで不服そうだった。
流石にあの対応はソルラクの方が悪いんじゃないかな、とリィンも思ったが、だからといって水をかけていいということにはならない。要するにどっちもどっちだ。
だが一つだけ、リィンはアーニャに感謝することがあった。
「……怒ってますか?」
「いや」
リィンの顔をじっと見つめる代わりに、ソルラクはそう答える。
アーニャに言われた通り、ああとかいやとかだけは答えてくれるようになったのだ。
「もしかして、アーニャさんみたいな人は苦手で」
「ああ」
最後までいい切る前にソルラクが答えて、リィンは思わず笑ってしまった。
アーニャは親切でいい人だと思う。ソルラクもいい人だ。出来れば仲良くしてほしいと思うのに、ソルラクがアーニャのことを苦手だというのはなぜだか少し嬉しかった。
「お怪我がないってことは、あれは……他の人の血ってことですか?」
「ああ」
「……わたしを、追ってきた人ですか?」
「いや」
あれだけの血が出ていたら、相手は恐らく生きてはいないだろう。恐る恐る尋ねると、ソルラクは否定したのでリィンは胸を撫で下ろす。
人を殺すというのは、恐ろしいことだ。相手の方から襲いかかってきたなら殺してしまっても罪にはならない事が多いと聞くが、自分のせいでソルラクが罪人になってしまうくらいなら、捕まってしまった方がマシだと思えた。
しかし、そうでないなら相手は何なんだろうと考えて、リィンはアーニャのいっていたことを思い出す。
「魔物ですか?」
「ああ」
「魔物を倒すお仕事にいってたんですね……」
「ああ」
「あの剣を使ったら、沢山血が飛び散りそうですもんね」
「ああ」
返答を期待していないつぶやきにまで律儀に答えてくれるソルラクに、リィンはなんだか嬉しくなった。最近はイエスかノーかであればだいぶ分かるようになってきてはいたが、やはり直接答えてもらえるのに越したことはない。
特にイエスが続く質問だと、傍目には聞こえていないのか、それとも聞こえていて反応がないのかわからないのだ。
しかし、続けざまに質問をしようとして、リィンはハッと気づいた。
「あ、あの……わたし、色々聞いて、嫌じゃないですか?」
ソルラクがアーニャの事を苦手なのは、勿論いきなりフライパンをぶつけられたり水を被せられればそうだろうとは思うが、あの浴びせかけるような言葉のせいもあるのではないか、と思い至ったのだ。
今、リィンは同じことをしてしまわなかったか。
「いや」
だがソルラクは当たり前のようにそう答えた。
「えっ……」
途端。
リィンの胸が、どくんと震えた。頬に熱がこもって、背筋がぞわぞわとする。
「わ……わたし、もう、寝ますね。おやすみなさいっ」
風邪でも引いてしまったのだろうか。突然自分の身体にあらわれた変化に、リィンはただただ戸惑った。なぜだかソルラクの顔を、まともに見ることが出来ない。
「ああ」
毛布を被り横になるリィンに答え、ソルラクは自分のベッドに座る。だが特にやることもなかったのか、彼もまた横になるのが背中越しに気配で伝わってきた。
ベッドが別々でよかった、とリィンは思う。だが何故そう思うのかまではわからない。
それでも毛布の中で丸まって、多少は落ち着いてきただろうか。そうリィンが思ったとき、小さく、声が響く。
「…………おやすみ」
頬の熱は、引きそうもなかった。
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