第8話 でも、もふもふしてて、とってもいい触り心地でした/0

 ☪


『君にはきっとこれから、沢山の辛いことが降りかかるだろう』


 遠くから聞こえてくるのは、聞き慣れた優しい声だった。


『でも、それでも……私のわがままを許して欲しい』


 苦しげな、痛みを堪えるかのような声。


『どうか生きていておくれ。可愛いリィン』

「お父様!」


 穏やかな笑みを浮かべ囁く父に向かって、リィンは懸命に手を伸ばした。どれだけ手を伸ばし駆け寄ろうとしても、彼の姿はその分だけ遠ざかっていく。それでもリィンは諦めずに、父親に近づこうとする。


 ぐん、と辺りの景色が歪み、父の姿が目の前に近づいて、彼女の手がその顔に届く。だがその瞬間、彼の姿は犬に変わった。


「お父様……お父様……!? 何故、このようなお姿に……!?」


 全身真っ黒な毛に覆われた、巨大な犬だ。その輪郭を確かめるように、リィンは犬の頭を撫でる。もふもふとした毛並みに覆われたその犬は、されるがままに撫でられながらも、唸りもせずに真っ黒な瞳でリィンを見つめていた。


「お父……様……」


 どこかで見た覚えのある瞳だ。父親の、よくリィンにそっくりだと言われていた赤い瞳とは全く違う。一体どこで見たのか……そう思いながらも、リィンは毛並みの手触りが気に入って撫で続ける。


 そして、ぼんやりと目を開けた。


 途端、体中に軋むような痛みが走る。昨日、ずっと歩き詰めだったせいで感じる痛みだ。その痛みで、リィンは夢から現に意識を覚醒させた。よく考えてみれば、人が犬になるはずなどない。だが不思議なことに、夢から覚めても指先のもふもふとした感触は失われていなかった。


 ぼんやりとした思考の中、まだ暗い部屋の中でリィンは目を凝らす。いつ眠ったのかどうにも思い出せない。昨日は確か、ソルラクが持ってきてくれたシチューを食べて……


「ひっ!」


 そこでようやく、リィンは己が撫でているものに気がついた。それは、ソルラクの頭だ。彼は声を上げることもなく、目を見開いて自分を撫で回すリィンを見つめていた。その光景に、思わずリィンは悲鳴を上げてしまう。


「も、申し訳ございません……!」


 無遠慮に撫で回してしまったことか、それとも顔を見て悲鳴をあげてしまったことか。どちらに謝ったらいいのかすらわからぬまま、リィンは跳ね起きて頭を下げる。


 するとソルラクは何事もなかったかのように起き上がり、床に置かれた皿を二枚拾い上げ、黙って部屋を出ていった。一瞬の逡巡の後、リィンもその後を追いかける。


「おやお嬢ちゃん。体調はもう良いのかい?」


 ソルラクを追って一階に降りると、店の主人が優しげに声をかけてきてくれた。一階の広間に並んだテーブルでは、何人かの客が朝食をとっている。事情をおおよそ察して、リィンは頭を下げた。


「はい。シチュー、とても美味しかったです。ありがとうございました」


 ソルラクがわざわざシチューを持ってきてくれたから、リィンは部屋で寝込んでいるものと思われたのだろう。実際疲れのあまり食事をした後すぐに寝てしまったのだから、それほど間違いでもない。


 リィンの言葉に、主人は己の口ひげを撫でて表情を綻ばせた。


「嬉しいことを言ってくれるじゃないか。そら、焼きたてのパンがある。食っていきな。もう一晩泊まっていくんだろ? 今晩は腕によりをかけて用意するから、楽しみにしてな」

「本当ですか? ありがとうございます!」


 もう一晩泊まっていくというのは初耳だったが、ソルラクがそうしたのなら何か理由があるのだろう。リィンはそう考えて礼を述べ、パンを受け取るとソルラクの隣の席に座った。


 ほかほかと湯気を立てるそれはなんとも言えない香ばしい匂いを漂わせていて、食べる前から美味しそうだ。


 今すぐにかぶりつきたいところだったが、食べてもいいんだろうか、とリィンはソルラクの顔を伺う。すると、彼がじっとリィンを見つめているのに気がついた。何かまた気に触ることでも言ってしまっただろうか。


「……食べても、いいですか?」


 念の為そう尋ねると、彼はリィンから興味を失ったように視線を外した。答えがかえってこないのも段々と慣れてきた。


 何が彼を怒らせるのかはわからないが、少なくともやってはいけないことをしてしまったときははっきりとそう言ってくれるのだ。言わないということは、良いということなのだろう。


「いただきます」


 リィンはそう解釈して、焼き立てのパンをじっくりと味わった。



 ☀



 上級者だ。


 ソルラクの心の中は、感嘆に満ち満ちていた。


 リィンの店主への対応は、驚くべき滑らかさであった。考えてみれば、ソルラクは今まで他人同士が会話するさまというのをあまりきちんと見たことがなかった。


 人同士というのは、あんなふうに会話するものなのか。


 自分のコミュニケーションが拙いというのは理解していたつもりだったが、そのあまりの断絶にソルラクは絶望した。同じ生き物とはとても思えない。今後リィンと接することに慣れることが出来たとして、あんな風に自分が会話できる日が来るとはとても思えなかった。


 そして彼女たちの会話の中で、もう一晩泊まっていくことが決定してしまった。正直ソルラクは、今日にはもうここを発とうと思っていたのだ。金を払わずに泊まってしまえばそれは犯罪だが、多く払う分には罪ではない。鍵を部屋の中において、黙って旅立ってしまおうと考えていた。


 だが、腕によりをかけて晩飯を作るなどと言われ、リィンはそれを楽しみにしていると答えた。そんなリィンに、今日出発するなどとはいいにくい。……というよりも、言えない。そんな事を伝えるくらいなら、もう一泊した方が遥かに楽だ。


 問題は、泊まっている部屋のベッドのことだった。昨日はなし崩しに同衾してしまったが、いくら幼いとは言え出会ったばかりの女性と同じベッドで眠るというのはどうにもまずい。


 なんとか説明しなければならないが、リィンにも店主にも、上手く説明する自信は微塵もなかった。幼い少女とであれば多少は円滑にコミュニケーションを取れているのではないか、というなけなしの自信も、先程の二人の会話を聞いて木っ端微塵に砕けてしまっている。


 その時、不意にソルラクはある名案を思いついた。


 別の宿を取ればいいのだ。この町に宿屋は何もこの店だけではない。別の宿でもう一部屋借りて、リィンはこの店で、ソルラクは別の店で眠れば全てが解決する。


「あっ、ソルラクさん、待って下さい!」


 そうと決まれば早速宿を探しに行こうと席を立つソルラクを、リィンが呼び止めた。そして急いで朝食を片付けると、ソルラクに駆け寄る。


「すみません、おまたせしました」


 その手が、ソルラクの服の裾をきゅっと握った。


「あっ、ごめんなさい。その……こうすれば、はぐれないかと思って。駄目……でしょうか」


 ソルラクの視線に気づいたリィンは、どこか恥ずかしそうにそう説明する。


 駄目だ。そもそもリィンについてこられては困る。二人で宿に入っては、同じことの繰り返しになってしまうではないか。それに、彼女の前で別の宿を借りるというのはどう考えたって不自然だ。


 だが勿論、ソルラクにそんな説明をする事はできず。リィンのするに任せるほかないのであった。

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