第7話 すごく、すごく怖かったんです/12

 ☪


 ──怒らせて、しまった。

 リィンは青ざめた顔で、一人ベッドに座り込んでいた。


『黙れ』

『余計なことを言うな』


 ソルラクの、押し殺したような低い声が何度も脳裏をよぎる。


 何故彼が急に怒ったのか、全くわからない。しかし、リィンが何か彼の機嫌を損ねるようなことを言ってしまったのは確かだった。


『二度とそんな口を叩くな』


 思いつくのは、それより少し前。町で男から助けてもらった時に言われた言葉だ。


 共通するのはどちらも、お金に関する話をした時のことだった。恐らくはその禁を破ってしまったから、彼はあれほど怒ったのだろう。


 しかし何故それで怒るのかは、どれだけ考えてもわからなかった。


 ソルラクは部屋を出ていってしまった。彼の荷物も部屋に残ったままだし、まさかこのまま置いていかれるということは流石にないだろうと思う。だが、不安はどうしても拭いきれるものではなかった。


 涙が零れ落ちそうになるのを、リィンは必死に堪える。

 泣いたって、何も解決などしない。今まで何度も言われた言葉を反芻する。謝る時に泣いていたって当てつけがましいだけだ。


 ソルラクを怒らせてしまったことだけは事実だ。謝らなければならない。だが口先だけの謝罪というのは、往々にして逆効果をもたらすことをリィンは知っていた。


 何故ソルラクが怒ったのか理解した上で、己の非を詫びなければ無意味なのだ。


 だがどれだけ考えても彼が怒った理由はわからなかったし、恐らく直接尋ねたとしても、彼は教えてはくれないだろう。では、どうしたらいいのか──リィンの思考は、そんな堂々巡りを繰り返す。


 ドン、と音が鳴ったのはその時のことだった。


 リィンはびくりと身体を震わせる。するとまた、ドン、と先程よりも大きく音が鳴る。それは、ドアが何者かによって叩かれる音だった。


 ソルラクではないだろう。彼はこの部屋の鍵を持っている。扉を叩く必要などない。そもそも、それは明らかにノックとは異なる、ドアを無理やりこじ開けようとする打撃の音だった。


 ドン、ドン、と扉は何度も何度も叩かれる。誰かが、部屋に押し入ろうとしている。その恐怖にリィンはすくみあがった。辺りを見回しても、隠れる場所などない。簡素なベッドの下は丸見えで、そこに潜り込んでもすぐに見つかってしまうだろう。


 やがて扉がミシミシと嫌な音を立て始める。


「ソ……ソルラクさんっ……!」


 リィンは堪らず、彼の名を叫んだ。二度も助けてくれた人の名を呼ぶことしか、彼女にはできなかった。


 途端、扉が叩かれる音が止んだ。


「なんだ」


 ややあって、求めた人の声がすぐそばから──扉の外から聞こえてくる。


 リィンは弾かれるようにして扉のノブに取り付き、開いた。そしてその外に立っていた黒尽くめの長身に、心の底から安心する。


 扉を叩いていたのが誰なのか。ソルラクは何故怒っているのか。そんな考えは、恐怖と安堵によって吹き飛んでいた。



 ☀



 一体、何が起こったのだろうか。ソルラクは心の底から困惑していた。


 というのも、リィンが彼の腹の辺りに抱きついて大泣きしているからである。両手に持ったシチューが邪魔で彼女を引き剥がすこともできないし、もちろん何故泣いているのかなどと尋ねることもできない。


 とは言え彼女が泣き止むのを待っていては、せっかくのシチューが冷めてしまう。


「おい」


 やむにやまれず、ソルラクは勇気を振り絞ってリィンに声をかけた。


「食え」


 ずい、とソルラクの腹に埋まるかのように張り付いている彼女の頭の横のあたりに、シチューの入った深皿を持っていく。リィンはソルラクを見上げると、不思議そうに瞬きした。


 大きな赤い瞳から溢れる大粒の涙は、まるで透明な宝石のように美しい。だが、それを見ていると何やら無性に心がざわついた。


「ごは……ん……?」

「お前の分だ」


 ぐっとシチューを突き出し、半ば無理やりリィンの小さな手の上に皿を乗せる。それでようやく、ソルラクの片手は自由になった。


 安宿の一室に食卓などという洒落たものなどあるわけもない。ソルラクが行儀悪くベッドに座り、スプーンを持ってシチューを掬い口に含むと、リィンもそれを真似るように隣に座って食べ始めた。


「……美味しい……」


 ぽつりとリィンが呟くのを聞いて、ソルラクは胸を撫で下ろす。いつの間にか、彼女の涙は止まっていた。


 泣いていたのも、案外ただ腹が減っていただけなのかも知れない。シチューを平らげてしまう頃には、リィンの涙はすっかり乾いてしまっていた。


 皿を片付けようとソルラクが立ち上がると、ぐいと服の裾が引っ張られた。リィンの身体がそのままベッドにこてんと倒れる。彼女は、いつの間にやらソルラクの服を掴んだまま眠ってしまっていた。


 ソルラクは困った。手を外そうとするが、リィンはぎゅっと握り込んでしまっていて離せそうもない。というか、無理に外そうとすれば彼女の手を破壊してしまいそうだった。それほどリィンの手は小さくて、柔らかくて、温かい。


 もっと硬くて重くて冷たいもの……例えば、剣や鎧や岩などですら簡単に破壊してしまうソルラクにとって、彼女の手を壊さないように外すというのはどう考えても不可能なように思えた。


 それにしても、柔らかく、温かい。こんなに柔らかなものがこの世にあったとはついぞ知らなかった。何となく指先でそれを確かめているうちに、ソルラクにも眠気が襲い始めた。


 そう言えば、昨夜は火を絶やさないようにするために一睡もしていない事を思い出す。


 シチューの皿を返さなければならないのに。


 そう思いながら、ソルラクの意識も夢の中に沈んでいった。

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