第4話 怖すぎてもう少しで泣いてしまうところでした/26

 ☪


 リィンは一人、見知らぬ町をさまよいながら困り果てていた。


「あの、すみません」

「おやまあ、可愛いお嬢ちゃん。どうしたんだい?」


 町の人達は皆親切だ。道行く人や店先で働く人に話しかければ、愛想よく答えてくれる。


「ルーナマルケという町を、ご存知ないでしょうか」

「うーん……ごめんね、聞いたことないね」

「そう……ですか。ありがとうございました」


 だが、誰もルーナマルケを知らないのだ。


 物知りそうな老人や世事に詳しそうな店の人、様々な相手に尋ねてみたが、場所はおろか名前を聞いたことがある人すらいなかった。


(……やっぱり、ソルラクさんについていった方が良かったのかな……)


 自ら断っておきながら、リィンは今更になってそんな事を思う。

 迷わなかったわけではなかった。彼が何を考えているのかは全くわからなかったが、多分、悪い人ではないのだろうとも思う。


 けれどあの目。何の感情も映さない黒い瞳に見つめられると身体が竦み上がり、震えが止まらなくなってしまう。二人きりで行動するなんて、とても出来ない。そう、思ってしまったのだ。


 それに──もし、彼が何の他意もなく、純粋な気持ちでリィンを助けてくれたとして。それはそれで、何から何まで頼り切ってしまうのは申し訳なくなってしまう。ただでさえ、追手から救ってもらい、食料や毛布も分け与えてもらったのに。


 だから、ルーナマルケへの道さえわかれば、後は自分ひとりで何とかしよう。リィンはそんな決意を込めて町で聞き込みを続け……そして、打ちひしがれているのだった。


「お嬢ちゃん」


 声をかけられたのは、そんなときだった。


「さっきから尋ねてたのを見てたんだが。ルーナ……」

「ルーナマルケをご存知なんですか!?」


 リィンは反射的に立ち上がり、声をかけてきた男性を見上げる。柔和な笑みを浮かべた、人の良さそうな中年男性だった。


「ああ。知ってるとも」

「よかった……」


 彼がにこやかに頷くのを見て、リィンは全身から力を抜いてホッと胸を撫で下ろす。


「案内してあげよう。ついておいで」

「はい!」


 リィンは慌てて駆け出そうとするが、男性はゆっくりと彼女に歩調を合わせてくれた。


「迷子になるといけない。手を繋いでいこうか」

「あ……えっと、はい」


 初対面の男性と手を繋ぐというのは少々気恥ずかしかったが、確かに往来は人通りも多い。リィンは素直に差し出された手を握り返した。その手は汗で少し湿っていたが、親切にしてくれる相手に失礼な事を考えるものじゃない、とリィンは努めて気にしないようにする。


「あの、助かりました。ルーナマルケの事、誰も知らなくて……」

「この辺りじゃあ、あんまり知られてないかもしれないね」

「そうだったんですね……やっぱり、ここから遠いのでしょうか」

「ああ。ちょっと歩くよ」


 男性の返事に、リィンは内心首を傾げた。


「そうなんですか?」

「奥まったところにあるからね」


 彼が言う通り、二人はどんどん町の奥、人通りの少ない方へと歩いていく。


「ええと……馬車、とか……地図屋さんが、という事でしょうか?」

「ん? ああ、そうさ」


 ルーナマルケがここから歩いていけるような場所にあるのなら、誰も知らないはずがない。国境近くの町で隣国の名前すら知らない人なんて、そうそういるはずがないからだ。


「……あの。ルーナマルケは、ここから歩いて何時間くらいでつきますか?」

「どうだったかなあ」


 リィンの的外れな質問を、男は笑いもせずにはぐらかした


 ルーナマルケの名前を誰も知らないということは、ここは間違いなく別の国だ。そして恐らく、隣国ですらない。だとすれば、歩いて辿り着くには早くて数日、恐らくは何ヶ月もかかるだろう。何時間などと聞けば、笑わなくてもこんな返事はしないはずだ。


「あの、わたし……すみません。道を思い出しましたから、大丈夫です」


 そう言って離そうとするリィンの手を、男はがしりと掴んだ。


「まあまあ。目的地はすぐそこだよ。ここまで来たらちょっと寄ってお茶でも飲んで行きなさい」


 リィンはさぁっと全身から血の気が引き、汗が吹き出すのを感じた。それは紛れもなく、恐怖。にこやかに笑っているはずの男性の目が、まったく笑みの形に歪むこと無く、まるで値踏みするかのようにリィンの全身を無遠慮に見つめていることに気づいたからだ。


「いやっ……離してください!」

「聞き分けなさい! ワガママを言うと、お母さんに叱ってもらうよ!」


 逃れようと腕を引くと、男性は殊更に大声を張り上げてリィンの身体を持ち上げた。


「お母さん……!?」


 男が何を言っているのかわからず、リィンは一瞬混乱する。しかし、周囲から注がれる視線に彼女はすぐに気がついた。


 男は、自分の父親を装っているのだ。


「違う! あなたなんて、わたしのお父様じゃ……」

「またそんな事を言って! いい加減にしなさい!」


 リィンの声を、男の怒声がかき消す。傍目には喧嘩している親子にしか見えないだろう事を悟り、リィンは絶望した。


「いやっ……やめて! 離して!」

「大人しくしろ。痛い目は見たくないだろう?」


 リィンは何とか逃れようともがくが、身体を押さえられ、低い声で脅されて動きを止めた。


「いい子だ」


 男は満足げにそう呟くと、リィンを連れて路地裏の奥、粗末な小屋の中へと入る。リィンの小さな体はかび臭いベッドの上にどさりと投げ落とされる。


 かと思えば、その上に男の身体がのしかかってきた。


「やめて……やめて、ください……」

「なぁに、大人しくしてりゃあ優しくしてやるよ。じっとしてれば、すぐに済む」


 打って変わって優しげな男の声が、かえって恐ろしかった。荒く息を吐きながら血走った瞳でリィンを見つめ、片腕で抑え込みながら何か金属の音をカチャカチャと鳴らす。


 男が一体何をするつもりなのか、リィンには理解できない。だが根源的な恐怖と嫌悪感に肌が粟立った。


「いやっ……助けて……! 誰か……! お父様ぁっ!」


 恐怖のあまりリィンが助けを求めると、男は興奮したようにごくりとつばを飲み込んだ。


「いい……いいぞ。ほら、もっと助けを呼んでみろ。次はママか?」


 下卑た笑みを浮かべながら男はリィンの服に手をかけ、ぐいと引き上げようとする。


「助けて……っ!」


 助けなど、来るはずがない。そんな事はわかっている。けれどその時リィンの脳裏に浮かんだのは、あの恐ろしい黒い双眸。


 追手から助けてくれた、男の瞳だった。


「助けて、ソルラクさんっ!」


 そう、リィンが叫んだ瞬間の事だった。


 小屋の壁が、粉々に砕け散ったのは。


「な、なんだ……!?」


 男は上半身を起こして、砕け散った壁と、その向こうに立つ男に目を剥く。


 黒い髪に黒い瞳。上から下まで黒一色の衣服。腰に下げた長剣と、何の感情も映さない表情。


 先程リィンが思い浮かべた通りの男が、そこにいた。


「なんだ、お前──」


 皆まで言うより早く、ソルラクは男の胸ぐらを掴み上げると、まるで小石でも放るかのように投げ放った。男は壁に激突し、そのまま床に落ちて動かなくなる。


「ど……どう、して……?」


 リィンは呆然とソルラクを見つめ、呟くように言った。

 いや、それは事実としてつぶやきであった。


 助けて貰っておきながら疎み、自ら離れたリィンの事を、何故また助けてくれるのか。


 そのような意味の言葉であった。



 ☀



「ど……どう、して……?」


 至極もっともな問いかけに、ソルラクは押し黙る他なかった。


 わかれたはずの男が偶然たまたま危機に通りすがる。物語であればよくある話だが、残念ながら現実はそのようには出来ていない。勿論これは偶然などではなかった。


 リィンの容姿は目立つ。彼女を見かけた者たちは少なくない数が恐ろしく容姿の整った少女のうわさ話をしており、それを追いかければリィンを見つけることは難しいことではなかった。


 そしてソルラクは仲よさげに見知らぬ男と手を繋ぐリィンに声をかけることが出来ず、この小屋の前までずっと後をつけてきたのだった。


 助けを求める声を聞いて慌てて割って入ったものの、やっていることを客観的に見れば床で伸びている男とそう違いはないように思える。幼女誘拐犯と幼女追跡魔ストーカーだ。


 とは言え、ソルラクは別にリィンに対して良からぬことをしようと追っていたわけではない。それを証明するために、彼は金入れから聖白絹の袋を取り出し、リィンに差し出した。


「え……?」

「返す」


 目を瞬かせるリィンの手に押し込むようにして、それを手渡す。リィンはそれを見つめ、袋の口を開けて中を確かめる。そしてそこに指輪を見つけ、ほっと胸をなでおろしたようだった。ソルラクに渡したのはそもそも何かの間違いだったのかも知れない。


「あの……ソルラクさん。教えて下さい」


 袋を握りしめたまま、リィンはソルラクを見上げる。


「ソルラクさんはルーナマルケをご存知なのですか?」

「……………………行ったことはない」


 どう答えるか少し悩んで、ソルラクはそう答えた。

 嘘では、ない。行ったことはない。ルーナマルケを出た後、今まで二度と戻ることはなかったのだから。


 ソルラクのその答えに、リィンは驚いたように少し目を見開いた。旅刃士としてどうかと思ったのかも知れない。


「……とても遠い」


 言い訳するように、ソルラクは付け足した。


「あの……」


 おずおずと、リィンは手に持った袋を差し出し、ソルラクを真っ直ぐに見つめる。


「わたしを……ルーナマルケまで連れて行っては頂けませんでしょうか。これで、お代が足りるかわからないのですが……」


 そしてそんな事を言い出すリィンに、ソルラクはどう答えたらいいんだと頭を抱えた。


 こんな高価なものを、そう気軽に差し出すんじゃない。別にルーナマルケに向かうこと自体はソルラクにとって損でも得でもない。だから、報酬をもらうような事ではないのだ。


 あんな胡散臭い男についていき、自分のようなものに頼るということは、やはり彼女には身寄りがないのだろう。一度離れたのも、ソルラクの事が信用できなかったからに違いない。


 よくよく考えてみれば己のようなろくに会話もできない旅刃士など、胡散臭く思って当然だ。むしろよく警戒したと褒めるべきだろう。


 そんな風に困っている子供を助けるのは、当たり前のことだ。

 ましてや子供が金の心配などするものじゃない。


 ……そういう想いを込めて、ソルラクは言った。


「二度とそんな口を叩くな」


 そして、震えながら涙を浮かべる少女に、ソルラクはどうやら自分がまた言い方を誤ったらしいと悟った。

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