第3話 美味しすぎて6本中5本も食べてしまいました……/7
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「……っ!」
目を覚ましたリィンは、かろうじて悲鳴を上げるのを堪えた。悲鳴を上げそうになったのは、ソルラクが昨日と全く同じ姿勢のままじっとリィンを見つめていたからだ。
「お……おはようございます」
体を起こし挨拶をするが、やはり返事はない。不機嫌なのか、それともそもそも話す気がないのか、それすらもその表情から伺うことは出来なかった。
「あの、これ……ありがとうございました」
リィンは借りていた毛布を綺麗に折りたたみ、ソルラクに手渡す。彼はそれを一瞥すると、奪い取るように引っ掴んでばさりと広げた。
「あ……」
そして畳むのではなく、くるくると巻くようにして円筒形に形を整えると、背嚢に結わえ付けた。よく考えてみれば当たり前のことだ。二重にしてもリィンの身体をすっぽり包めるほどの大きさの毛布を入れたら、背嚢なんてそれだけでいっぱいになってしまう。気を使ったつもりが、かえって手間を取らせてしまった。
「あの……ひっ」
声をかけようとして、すらりとナイフを取り出したソルラクにリィンは小さく悲鳴を上げる。だがソルラクは特に意に介した様子もなく、どこからか取り出した兎の死体を解体し始めた。
「っ……!」
獣を解体する所を見るのは初めてだった。生々しい血の匂いと腹から溢れ出る臓物に、思わずリィンは顔を背ける。その間にも、ソルラクは手際よく兎を解体し、切り分けた肉を木の枝に刺して焚き火の側に並べた。
しばらくすると肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってきて、リィンは思わず鼻をひくつかせる。すると主人の欲求に素直に従って、彼女の腹がくうと鳴った。
「うぅ……っ」
羞恥に顔を染めながらぎゅっと腹を押さえつける彼女に、ソルラクが肉を突き出す。
「あ……りがとう、ございます」
反射的にそれを受け取ると、ソルラクはすぐに彼女から興味を失ったかのように、自分の分を手にとってかぶりついた。
こんな風に肉を焼いて食べるのなんて初めてだ。リィンはちらちらとソルラクに視線を向けつつ、彼の真似をして肉にかじりつく。
「……!」
そして、その美味しさに目を見開いた。
まるで炭のように真っ黒になったその見た目からは想像もできないほど柔らかく、噛みしめるとぎゅっと脂が染み出す。表面には軽く塩が振られていて、それがまた脂と絡んで何とも言えない滋味があった。
「は、ぁ……」
小さな口でかぶりつき、千切り取った肉を噛み締め、飲み込む。ただそれだけの動作が、こんなにも心地良い。疲れ切った身体に栄養が染み込み、満たされていくのがわかった。
あっという間に一本を平らげ、リィンは焚き火の側に突き立てられた木の枝を見つめる。肉はあと四本あった。半分ずつと考えるならあと二本……いや、ソルラクの方が体格が大きいのだし、男性だからたくさん食べるだろう。四本と二本だとしても、あと一本なら、食べても怒られないだろうか。
しかし助けてもらっている身で、もっと食べたいなどと言い出すのも図々しいように思えて、リィンは何も言い出せずじっとソルラクの様子を伺う。彼はそんなリィンの視線に気づいた様子もなく、一本目の肉を食べ終えると、枝をぽいと焚き火の中に投げ捨てる。
そして、そのままごろりと横になった。
「えっ……あの……」
残りの肉は依然として、焚き火の側で炙られたままだ。火からは離れているからそうすぐに焦げてしまうものでもないだろうが、だからといって一眠りするほどの猶予はない。
「ソルラクさん、食べないん……ですか?」
声をかけても、返事はない。もう眠ってしまったのか、それとも無視しているのか。それすらわからない。
「わたしが、頂いても……いい、ですか……?」
念の為そう尋ねてみたが、案の定返事はなかった。
「焦げちゃうと……勿体ない、ですから……」
リィンは言い訳するようにそう呟いて、二本目の肉を手に取る。それはやはり丁度いい焼き加減で、その濃厚な肉汁に彼女は思わず頬を緩めた。
「美味しい……」
今まで食べたものの中で一番美味しいのではないか。ただ塩をふりかけただけの肉がそう思えるほどの味だった。ついつい三本目、四本目とリィンの手が伸びて、気付いたときには残りの肉は全て彼女の腹の中に収まってしまっていた。
「あっ……」
それに気付いたのは、食べ終わったあとのことだ。あまりの美味しさに、夢中になって食べきってしまったことに気づき、リィンは蒼白になる。明らかに、ソルラクの分まで食べてしまった。
途端、ソルラクはむくりと起き上がる。そして鋭い視線を向ける彼に、リィンは震え上がった。
「あ、あの……わ、わた……し……」
あまりの恐怖に謝罪の言葉すら発することの出来ないリィンを尻目に、ソルラクは突然焚き火を踏み消す。
「ひっ……!」
そして身を竦ませるリィンの存在などないかのように背嚢を背負うと、彼女に背を向けて森の中を歩き出した。
「ま……待ってくださいっ」
リィンは慌てて彼の後を追いかける。ソルラクの事は恐ろしかったが、森に一人で捨て置かれては生きていくことさえままならない。
「あのっ、お肉、全部、食べてしまって、すみませんでした……っ!」
ズンズンと進んでいくソルラクを追いかけながら、リィンはその背に頭を下げる。だがソルラクはまるで聞いている様子もなく、バキバキと木の枝を手折り、背の高い草を引き抜いて、まるでなにもない荒野を進んでいくがごとく歩いていく。
ソルラクは返事をしないどころか、後ろを振り返りすらしない。リィンは段々と、本当に彼の後をついていっていいのか不安になってきた。彼の歩みは早い。リィンが三歩かける距離をたった一歩で踏み越えていってしまう程脚が長い上に、動かす速度そのものが早いのだ。
障害物を排除しながら進んでいるから何とかリィンはついていくことが出来ていたが、これがなにもない道だったらとっくに置いていかれてしまっていただろう。まあ、ここまで周囲を破壊して進んでいれば、見失っても道を辿ることが出来るかも知れないが……
と、そこまで考えて、リィンは初めてあることに気がついた。
道が、出来ているのだ。それもリィンがちょうど通れるくらいの道が。
よくよく見ればソルラクは、自分の胸より上にある枝は手折るようなことはしていない。リィンの身長で障害になりそうなものだけを排除している。
(わたしの……為に……?)
考えすぎかも知れない。単に低い場所にあるものの方が邪魔になるから、そうしているだけなのかも。けれど、もしかしたら……
リィンは、本当にそうなのか尋ねることはしなかった。もし尋ねたとしても、返事はかえってこないだろうし、とも思う。
だが、少しだけ不安の消えた足取りで、彼の後を追う。
少しでも気を抜けば置いていかれそうな早さで歩くソルラクの姿は、しかしリィンが木の根に足を取られて転びかけたり、髪を低木の枝に引っ掛けて外すために足を止めたりしても、同じくらいの距離にあるままだった。
やっぱり、案内してくれているんだ。リィンはそう悟ると同時に、しかし一つの疑問を抱く。ソルラクは太い枝も厄介な低木も、全てその手で折り、引き抜いていた。いくら彼が剣の刀身を握りつぶしてしまうような怪力であるとは言え、それは大変な作業だ。
腰の剣を使えばもっと楽に枝を払えるだろうに。兎の解体に使ったナイフでは不足だろうが、腰に吊るされているのは立派な長剣だ。鞘を見るに刀身の幅も広く、木々を打ち払うには便利そうだ。何故そうしないのだろうか。
リィンは不思議に思ったがやはり尋ねることはなく、そしてとうとう、ソルラクは剣を一度も抜かないまま森を抜けたのだった。
☀
「町だ……!」
森が開け、眼下に広がる光景にリィンは瞳を輝かせた。はっきり言って大して見るものもない田舎の小さな町だが、随分嬉しそうだ。森で余程恐ろしい目にあったのだろう。
兎の肉をただ焼いただけのものをあれほど美味しそうに食べるくらいだから、随分腹も減っていたに違いない。町によればもっとまともなものを食べさせてやれる。
それに、旅の支度も必要だ。リィンが身につけているのはボロボロの服だけで、荷物らしきものは何も持っていない。ルーナマルケに向かうにはとても十分な状態とは言えなかった。
今すぐ駆け出そうとするリィンの気配を背後に感じつつ、ソルラクは足早に町の入口へと向かう。町は魔物対策にぐるりと周囲を壁で囲われていて、通るには通行税を支払う必要があった。これは大人だろうと子供だろうと変わらない。
リィンが物珍しそうにキョロキョロと周囲を見回しているうちに、ソルラクはさっさと二人分の通行税を支払った。税さえ支払えば衛兵は基本的に何も言わないし、金額も決まっているから楽なものだ。
この後は宿を取り、旅に必要なものを買い揃えなければならない。その際にどれだけ他人と会話が必要になるかを考えると、ソルラクは暗澹たる気持ちになった。
「あのっ、ソルラクさん!」
町に入るとすぐに、リィンに呼びかけられる。何事かと視線を向けると、彼女はまっすぐにソルラクを見上げ、なにかいいたげな顔をしていた。
「ここまで連れてきて下さって、ありがとうございました」
別に礼を言われるほどのことはしていない。ソルラクにしてみれば一晩余分に森で過ごし、ただ町へ戻ってきただけのことだ。わざわざ頭を下げる必要などないとは思ったが、それをどう伝えていいかわからなかったし、何よりリィンのそういった礼儀正しい所を気に入っていたのでソルラクは何も言わなかった。
「お陰様で……本当に、助かりました」
だが、重ねて頭を下げるリィンに、流石にソルラクも妙だと思った。それはまるで。
「……いいのか」
「はい。ここまで連れてきて頂ければ十分です」
リィンが行きたいと言っていたルーナマルケまでは、まだ何ヶ月もかかる距離だ。ここまでで十分などということがあるわけがない。
だが逆に、そんな距離であるからこそなにか当てがあるのだろうとソルラクは考えた。こんな小さな子供がたった一人で目指すような場所ではない。この町に親か知り合いでもいるのだろう。ならばソルラクに頼る必要もない。
「そうか……」
買い物の必要が殆どなくなった。宿だって一人で泊まるのなら面倒な交渉の必要もない。だが、ソルラクが感じたのは、安堵よりも大きな失意だった。
何故自分がそんなことを感じるのかわからないまま、ともかくソルラクは踵を返す。
「あ、あのっ」
その背に声をかけられ振り向くと、リィンは何か小さな袋を両手で掲げるようにしてソルラクに突き出していた。
「お礼にお渡しできるものが、これくらいしかないのですが」
彼女の手のひらに乗ってしまう程度の大きさの、細かく刺繍の入った白い布でできた袋だ。ボロ布を着込んだ彼女の姿には不釣り合いに美しく、素人目にもひと目で高価な品であるとわかる。
一体こんなものをどこに隠し持っていたのか。
「ありがとうございましたっ!」
そう思いつつもソルラクがそれを受け取ると、リィンはもう一度頭を下げて走り去っていってしまった。その小さな背中をぼんやりと見送り、もう一度袋に目を向けて、ソルラクはため息をつく。
着ている服には似合わないが、その見目にはぴったりの、美しい袋だ。恐らくどこか上流階級の娘なのだろう。ボロボロの服を着て逃げていたのは、奴隷商人にでも捕まったのか。
いずれにせよ、旅刃士のソルラクなどとは本来関わり合いになるような相手でないことは確かなことだ。すっぱり忘れることにして、ソルラクは足を刃局へと向けた。
刃局とは、ソルラクのような旅刃士に仕事を斡旋してくれる施設のことだ。大抵、人通りのない裏路地の奥にひっそりと店を構えている。
別に違法であるとか後ろ暗い事情があるわけではないのだが、旅刃士になるような人間は大抵気が荒く礼儀知らずだ。ならず者やごろつきに近いような人間も多く、一般人と事を荒立てないためにそうなっていた。
「おう。戻ったか、『黒曜』」
ソルラクが刃局に足を踏み入れると、顔見知りの主人がだみ声をあげた。黒曜というのはソルラクにつけられたあだ名のようなものだ。気付いたらいつの間にかそう呼ばれるようになっていた。多分、髪が黒いからだろう。
「相変わらずの早さだな。お前さんなら問題ないと思うが、一応改めさせてもらうぜ」
ソルラクが出した袋を開き、主人は中から恐狼の耳を取り出す。リィンのいた森で最近数が増えたという恐狼を間引くのが、ソルラクが今回受けていた依頼だった。恐狼は一頭一頭が小さな熊ほどの大きさを持つ魔物で、群れで行動するため増えすぎると人里を襲うこともある。
そういった魔物を定期的に殺すのも、旅刃士の仕事の一つだった。
「よし、三十頭分、確かに。これだけ倒しておけば当分は問題ねえだろ」
恐狼の耳を袋に入れ直し、主人はかわりに金貨を数枚カウンターに置く。ソルラクはそれを数えもせずに金入れに放り込み、ふとそこに入れた白い袋の事を思い出して、カウンターに置いた。
「ん? なんだこりゃ。こんな洒落たもん、どこで手に入れたんだ?」
主人はそれを手に取り、しげしげと眺める。商売柄、彼はこういったものへの目利きが得意だ。
「こいつぁ聖白絹じゃねえか。それも多分、混じりけなしの純度百パーセントだ。中に何か……」
主人は呟きつつ、袋の口を閉じた紐を解き、中身を取り出す。大粒の宝石をあしらった指輪が一つ、転がりでた。
「おいおいおい、『黒曜』、お前さんこんなもんどうしたってんだ!? 袋だけでも恐ろしい価値があるってのに、こんな指輪、うちをひっくり返したって買い取れねえぞ!」
目を大きく見開き、恐怖の色さえ滲ませて主人は叫ぶ。鮮やかな紫色の宝石はソルラクの目から見ても高価そうな代物だ。だがそんなことより、その宝石の色はリィンの美しい長い髪を強く思い起こさせた。
これは、彼女が持っているべきものだ。
そう強く感じた彼は、素早く指輪を袋に入れ直し、刃局を飛び出した。
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