第2話 紙を硬く丸めて少しだけ塩を振ったような味がしました/14

 ☪


 パチパチという木の爆ぜる音に、リィンはゆっくりと目を覚ました。硬い地面に突っ伏していた身体が痛み、気だるさが全身を包み込んでいる。


 これほど寝心地の悪い場所であってもなおのしかかってくるような眠気に抗いつつ、リィンは鉛のように重いまぶたをこじ開けた。


「ひっ……!」


 しかしその思考は一瞬にして覚醒し、彼女はがばりと起き上がる。


 すっかり日の落ちた暗い森。そこを照らす焚き火の向こう側に、夜を煮詰めたような黒尽くめの男の姿を認めたからだ。


「あっ……っ……!」


 思わず反射的に後退ろうとして、リィンの身体にかかっていた毛布がずるりと落ちる。それを見て初めて、彼女は自分の体に毛布がかけられていたことに気付いた。


「あ……」


 同時に、彼が追手から守ってくれたことも思い出す。


「あのっ……助けて下さって、ありがとうございます」


 リィンは居住まいを正し、上ずる声をなんとか張り上げて、頭を下げた。


「わ、わたし、は……リィン、と申しますっ……」


 リィンが名乗っても、男は返事をするどころか、彼女に視線を向けることさえない。もしかして言葉が通じてないのだろうか、と一瞬思うが、記憶が確かならば気を失う前に彼が口にしていたのは聞き慣れた共通語コモンだったはずだ。


「あの……あなたの、お名前を……教えて頂けませんでしょうか……」


 まるでリィンの存在などないかのように焚き火に木の枝を放り込む男にそう尋ねるが、やはり反応らしい反応はない。


 助けを求めておいて、名乗りもせずに気を失ったから、気を悪くさせてしまったんだろうか……リィンは地面を見つめ、思い悩む。


「……ソルラク」


 すると不意に、男が短くそう呟いた。聞き慣れない響きの言葉に、リィンは顔を上げる。


「ソルラクさん、と仰るんですか?」


 そう問うても返事はなかった。リィンに視線を向ける気配さえない。しかし、否定の言葉もまた、なかった。


「あの、わたし……」


 その時、くう、と大きくリィンの腹が鳴った。なにせ昨日から飲まず食わずなのだ。無理もないことだ。しかしリィンは、羞恥に焚き火の炎よりも真っ赤に頬を染めた。


「す、すみませ……」


 腹を両手でおさえリィンが謝罪を口にしようとすると、ソルラクは彼女の目の前に袋をぽんと投げはなった。


「これ、は……?」


 ソルラクの様子を伺いつつ、リィンは恐る恐るといった様子で袋の中身を確認する。そこには、液体の入った革袋が一つと、丸くて黒い何かが二つはいっていた。


 丸いものはまるで石のように硬いが、それにしてはやけに軽い。硬いと言っても本物の石ほどではなく、爪くらいなら立てられそうだ。革袋の方は、多分水が入っているのだろう。となればこれは食べ物なのではないか、とリィンは当たりをつけた。


「食べて……いいのですか?」


 そう尋ねても、ソルラクはいいとも駄目とも言わない。それどころか全く聞こえていないかのようにリィンを見てさえいなかった。


 しかし渡したからには恐らくそういうことなのだろう。ちらちらとソルラクの様子を伺いながら、リィンは黒い塊にかぶりつく。


 途端に鼻をつく風味に、リィンはその塊の正体を悟った。


 これは、パンだ。恐ろしく硬く、味も素っ気もないが、確かにそれはパンであった。


 リィンは革袋に入った水で喉を潤しつつ、パンを咀嚼していく。何度も噛んで唾液でふやかし、少しずつ少しずつ胃におさめていくと、分量以上の満足感があった。


 固いパンはお世辞にも美味しいとは言えないものだったが、極度の空腹に陥っていたリィンはそれをぺろりと平らげる。


「ありがとう、ございました」


 ようやく人心地ついたところでリィンはもう一度頭を下げた。やはりソルラクからの反応はなかったが、話を聞いていないわけでも、言葉が通じないわけでもないようなのはもはやはっきりしている。


「あの、ソルラクさん」


 意を決し、リィンは彼に話しかける。


「ルーナマルケに行きたいのですが、道を教えて頂けませんでしょうか」

「……ルーナマルケ?」


 すると意外なことに、初めてソルラクは反応らしい反応を見せる。


「はい。わたしは……どうしてもルーナマルケにいかなければいけないのです」


 助けて貰った上に食事までわけてもらい、更に頼るのも気が引けるが、今のリィンにはソルラク以外に縋ることの出来る相手がいなかった。


 不躾とも言えるリィンの言葉に、ソルラクは今度は返事をせず押し黙る。今度こそ、機嫌を損ねてしまっただろうか。リィンの心臓が早鐘のように脈打ち、汗が滲み、喉が張り付くように乾いていく。


「……わかった」


 沈黙に耐えきれず、リィンが何かを言おうとした瞬間。ソルラクは頷いて、そう答えた。


 だがそれきり彼は何も言わず、道を教える様子はなかった。夜が明けてからということなのか、それとも案内してくれるということなのか。わかったとはどういう意味なのか。


 聞きたいことは無数にあったが、リィンはそれを問う気概を、ついに持つことが出来なかった。



 ☀



 すやすやと眠るリィンの顔を見つめながら、ソルラクはほっと息を吐く。

 やっと眠ってくれた。そう、彼は心の底から安堵していた。


 人と対する時、ソルラクはいつも過度の緊張を強いられる。なんと言ったらいいのかわからないし、相手の機嫌を損ねたり傷つけてしまったりするのが恐ろしい。


 ──だが、とソルラクは思う。


 だが、今回はかなりスムーズに会話ができたのではないか、と。


 お互いの名前を伝えることができたし、食事をさせることもできた。

 これはソルラクが今まで行ってきたコミュニケーションとしては、かなり上出来な部類だ。


 思うに、それは相手が小さな女の子だったからだろう、とソルラクは思う。女性と話すことはソルラクがもっとも苦手とすることだ。まあ男性でも苦手なのは変わらないのだが。


 だが子供であれば、比較的緊張せずに済んだ。リィンが素直で礼儀正しい子供だったのも大きい。あまりにも美形なのでとても顔を直視できないことを除けば、かなり話しやすい相手だ。


 しかし、ルーナマルケとは。それは海を隔て別の大陸にある、遠い遠い国の名前だった。何故こんな幼い子どもが親もなくそんな所を目指しているのかも不思議だが、まさかあの国を再び訪れることになるとも思わなかった。


 だが、これはチャンスかも知れない、とソルラクは思う。


 この小さな少女と共に旅していれば、自分の口下手が治るのではないか。道案内はいい口実だ。どうせ旅刃士の自分には行く当てなどない。ルーナマルケまでリィンを送り届けても特に不都合はないのだ。


「……ま……」


 小さく何事か呟くリィンに、ぎくりとする。だが彼女は目覚める様子もなく、ただの寝言かとソルラクは胸を撫で下ろした。


 一枚しかない毛布は彼女が使ってしまっているが、どうせ見張りのために寝ることは出来ないのだから問題ない。


 ソルラクは焚き火に枝を継ぎ足しながら、朝がくるのを待ち続けた。

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