月が太陽に追いつく日まで

石之宮カント

第一章

第1話 怖い人たちから逃げていたら、もっと怖い人に助けられました/3

 ☪


 リィンは賢い子だね。

 昔からそう言われてきたし、リィン自身もある程度それを自覚してはいた。


 勿論それを鼻にかけたり、驕り高ぶるような真似は慎まなければならない。だが、同じ年頃の子供たちと比べた際に客観的な事実として、彼女が早熟であるのは確かなことだった。


 だがそれはあくまでも『子供にしては』という言葉が頭につく話だ。まだ11歳のリィンは大人に比べれば思慮も浅ければ知識も乏しいということくらいはわかっていた。ましてや体格や運動神経については、同じ年頃の子供と比べても少々鈍い。


 だから──


「待て、このガキ!」

「逃がすな!」


 怒声を張り上げ追いかけてくる二人の男達に絶望的な恐怖を感じつつも、彼女は必死に森の中を逃げ惑っていた。


 直線的に逃げては子供の足だ。すぐに捕まる。だから低くはった枝の下をくぐり、藪を抜け、狭い木々の間を抜けて逃げる。足の遅さを、リィンは観察力と思考の早さでなんとか補っていた。


 だが、それも限界に近い。吐息には血の味が混ざり、脇腹がズキズキと痛む。足はしびれ殆ど感覚が無くなっていて、一度足を止めたらもう二度と走れないだろうという予感があった。


「おらっ! 捕まえ……なっ!?」


 男の一人がリィンの長い髪を掴む。しかし一瞬の後に髪の毛はするりとその手のひらからすり抜けて、体勢を崩した男は木の根に躓いてすっ転んだ。


 その隙に、リィンはとにかく逃げる。しかし、どこに──?


 鬱蒼とした森の中、助けを求められるような人家は見当たる気配もなく、人里がどちらの方角にあるかさえわからない。けれどとにかく、リィンには走り続けるしか道は残されていなかった。


 張り出した木の根を乗り越え、低木の枝をかき分けるように抜けて……


「ひっ……!」


 そして、そこに立っていた男の姿に、リィンは咄嗟に足を止めた。


 止めて、しまった。そうしたら、もう動かせないと思っていた足を。


「あ……ああ……」


 その場にへたり込み、リィンは男を怯えた表情で見上げる。


 まるで、夜を人の形に固めたような男だった。

 真っ黒な髪に真っ黒な瞳。身につけている服までが上から下まで見事に黒一色。

 幼いリィンと比べるまでもなくその背は高く、見上げるとその様はまるで天を衝く柱のよう。

 その顔には何の感情も浮かんでおらず、野獣のような鋭い視線がリィンに注がれていた。


 リィンは思わず身を竦め、目をぎゅっとつぶる。しかしいつまで経っても、男はリィンを捕らえようとしたり、怒鳴りつけてきたりすることはなかった。


 恐る恐る目を開けば、つぶる前と同じように男は無感動な瞳でリィンを見つめていた。


「なんだ、てめぇは」


 背後から聞こえてきたどら声に、ハッとしてリィンは振り返る。先程までリィンを追いかけていた男たちが、警戒するように黒尽くめの男を睨んでいた。どうやら、この黒尽くめは追手の仲間というわけではないらしい。


「た……助けてください!」


 リィンは藁にもすがる思いで黒尽くめの男に懇願する。だが彼は眉一つ動かさず、言葉を返すこともなかった。


「その娘をよこしな」


 追手の二人は腰に下げた剣を抜き、男を脅した。


「痛い目にはあいたくねえだろ?」


 そこで初めて黒尽くめの男はリィンから視線を外し、追手の二人に目をやった。そしておもむろに口を開き、答える。


「失せろ」


 その声色には怯えも怒りもなく、ただ明確な拒絶の意志だけが乗っていた。


「構わねえ、やっちまうぞ!」


 追手たちは激高し、剣を振りかぶって男に襲いかかる。


「な……!」

「は……?」


 その次の瞬間、目の前の光景に追手たちのみならず、リィンも目を見開いた。

 男は振り下ろされた二本の刃を、篭手を嵌めているとはいえ、手のひらで受け止めたのだ。そしてその手の中で、白刃はバキバキと音を立てて砕け散る。


 ──鉄の剣を、握りつぶした。


「ひっ……ば、化け物……っ!」


 信じがたい行動に追手たちは恐慌に陥り、慌てふためいて逃げ出す。


 その光景を呆然と見つめながら──疲労が限界に達し緊張の糸が切れたリィンは、意識を失うのだった。



 ☀



 また、やってしまった。


 ソルラクの頭の中は、その言葉でいっぱいだった。


『ひっ……ば、化け物……っ!』


 初対面の相手から言われた言葉が、何度も思い返される。


 ──そんなに言うことないじゃないか。


 正直言って落ち込むが、ろくに事情も聞かずに相手の剣を握りつぶした加害者はこちらだ。謝罪しようにも相手は逃げてしまってどこへ行ったのかもわからない。


 そして目の前には気を失った、恐ろしく美しい少女。……いや、幼女と呼んだ方が正しいかもしれない。年の頃は十かそこらの、まだ小さな女の子だ。


 木々の間から彼女が現れた時は、地上に迷い込んだ天使か何かかと思った。緩やかにウェーブした、アメジストのような紫色の髪。ルビーのような赤い瞳。そして美しく整った顔立ち。もう十年もすればとんでもない美女に成長するだろう、と確信を抱かざるを得ない、今までソルラクが目にした中でも一番の美少女だった。


 そんな女の子が、まるでボロ布のような服を着て、全身に擦り傷を作りながら男に追われているのだ。恐らくは深い事情があるのだろう。


 人相の悪い剣を持って脅してくる中年男二人と、助けを求める儚げな少女。どちらに味方するかなど、考えるまでもない。ないのだが……


 ソルラクは、己の行動を反芻する。


『失せろ』


 それにしたってあの対応はなかった。もっと事情をきちんと聞くべきだった。だが怯える少女の姿に動揺して、何も聞けずにそう言ってしまっていた。


 ソルラクはいつもそうだ。彼の舌は言いたいことの百分の一も伝えてくれず、他人の心情を思いはかる能力も、気を回すような機微もない。そして全てが終わったあと、ああすればよかった、あの行動はしなければよかったなどと一人思い悩むのだ。


 しかし今回に限れば、それは現実逃避に過ぎなかった。


 目の前には気を失った少女が一人。胸元がかすかに上下しているから、死んでしまったわけではないだろう。しかしあまりにも美しく、触れるのもためらわれる。


 一体どうしたらいいのか。


 ソルラクは頭を抱え、思い悩んだ。

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