第2話・翼の生えた猫

 草と枯葉で覆いつくされた地面から立ち上がれず、ずっとへたり込んだままでいる飼い主の膝の上で、白地に黒の雌猫はゴロゴロと喉を鳴らしていた。

 小さな艶やかな毛並みの頭を幾度となく葉月の頬や顎に擦り寄せたりしている姿は、茫然とし続ける彼女を健気に励ましているようにも見える。


「……はぁ、意味わかんない」


 口から出てくるのは溜息ばかりだった。


「何だろうね、ここ……」


 部屋に現れた光の塊が関連してそうなのは、何となく理解していた。あれに頭から突っ込んだ後、目を開いたらここにいたから。


 ゴロゴロ……。

 猫はリラックスしている時しか喉を鳴らしたりはしない。自宅にいる時と変わらない猫の様子に、こちらも思ったよりも焦りの感情は湧いてこない。


 ――でも、なぜか翼が生えてるんだよね……。


 また気になり始めたので、そっと背を撫でて確かめてみる。嫌がる素振りは全くなさそうだ。何ならもっと撫でてと身体を押し付けてくるくらいだった。


「うん、生えてるね」

「みゃーん」


 触れられた箇所が心地よかったのか、くーは伸びでもするように翼をゆっくりと広げた。

 その長さは女子高生の葉月が両手を広げた時の腕の長さと同じくらいで、小柄な猫の身体のパーツとしてはかなり大きめに感じる。


 閉じている時はとてもコンパクトでそれほどではなかったが、翼を全開にした姿はなかなかの迫力がある。いつまでも小さくて可愛いと思っていた愛猫だったのに、よく分からない場所に来た途端、なかなか強そうになってしまった。


「猫に翼は生えてくるし、ここはどこか分かんないし。何なんだろ……はぁ」


 相変わらず、溜息しか出てこないのは仕方ない。


「……みゃっ!」


 翼を折りたたみ膝の上で甘えて喉を鳴らし続けていた猫が動きを止めて、ピクリと耳を動かした。


 風が吹く度にザワザワと木々が騒めきたてるのとはまた違う、何かが近づいてくる音。枯れ枝や枯葉、砂利が踏みつけられる気配。森に住まう獣か何かがいてもおかしくはない。


 ただ、葉月はこれまでに野生動物なんてものと遭遇した経験はなかった。反射的に、恐怖で身体が硬直する。


 その場から逃げようにも、今の彼女は裸足である。ゆったりサイズの部屋着のスウェットに素足では走って逃げ切れる自信はない。例え靴を履いて走り易い恰好をしていたとしても、どの方向へ逃げれば助かるのかすら分からないし、慣れない人間が森の中をまともに走れるとも思えない。どうすることもできない。


 すぐ目の前の茂みの後ろから、バキバキと木の枝を激しい音を立てて折りながら現れたのは黒く大きな獣。2メートルほどある肢体は短く堅そうな毛で覆われており、四足歩行している脚は太く、大きな爪を携え、その獰猛そうな顔の中央には角があった。


「ひっ……!」


 熊でも猪でもなく、全く見たこともない獣の姿に身動きができない。例え熊や猪だったとしても、動けなくなっているのは同じだろうが、未知の獣ならなおのこと。恐怖で脚に力が入らない。


 獣が葉月に向かい、低い唸り声を上げながら近づいてくる。明らかな敵意。近づけば近づくほど、漂ってくる獣臭はこれまで嗅いだことがないほど臭くて鼻にくる。


「……!」


 もう、怖くて声すら出なくなっていた。無意識に両手を強く握りしめ過ぎて手の平に爪が食い込みそうになっていることすら気付く余裕はなかった。

 と、翼を全開に広げたくーが葉月の前に庇うように踊り出る。


「シャー!」


 猫特有の威嚇の声。掠れた声無き声を獣へと向ける。前に立ち塞がれている葉月からはよく見えなかったが、眉間に目一杯の皺を寄せて威嚇音を発しているのだろう。

 すぐ目の前で揺れている鍵尻尾は毛が逆立って普段の倍以上の太さになっている。勿論、尻尾だけでなく、背中の毛も完全に逆立っている。まだら模様の一対の翼は最大限に広げられていた。


 位置的に眉間の皺は見えなかったけれど、威嚇の声と一緒に猫の口から出た光の塊は確かに葉月からも見えていた。

 自室で見た光の塊よりは遥かに小さくてゴルフボールくらいの大きさだったけれど、薄ぼんやりとした光は間違いなく猫の口から出ていた。


 そしてそれは真っ直ぐにスピードを上げて獣に向かって飛んで行き、その身体にぶつかると瞬く間にボウッと静かに燃え上がった。


 ――全てがほんの数秒程の出来事だった。瞬きする間も無かった。

 未知なる大型獣が葉月達の目の前に現れて、翼を広げた猫が威嚇の声と共に光の塊を口から発し、2メートル超えの獣が炎上し、いとも容易く消えてしまったのは。


 後に残されたのは、元は獣だっただろう消し炭と、口を閉じるのを忘れてポカンとした表情の少女。そして、再び喉を鳴らして甘える猫。


 褒めて欲しいとでも言いたげに、猫は飼い主の腕に擦り寄った。


「みゃーん」


 風が止み、ゴロゴロという猫が鳴らす喉の音だけが響いていた。

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