猫とゴミ屋敷の魔女 ~愛猫が実は異世界の聖獣だった~

瀬崎由美

第1話・飼い猫と下僕

 なぜか、その日の月明かりは、いつもより強く眩しかった。ベッドの真ん中を占拠して、飼い主を隅へと追いやって眠っていた雌猫は、静かに目を開く。

 トンと軽やかな足音を立て、猫がベッドを降りる。そして、窓辺のカーテンの隙間から覗く月を見上げた。普段よりも少し赤みを帯びたようにも見える、見事な満月を。


 月を見つめ、猫は静かに一鳴きする。眠っている飼い主を起こさないよう気遣ったのか、かすれたようなとても小さい声で。


「みゃーん……」


 次の瞬間、猫の丸い顔の前に浮かび上がる小さな光の玉。薄く光るそれは、猫が静かに見守る中を徐々に大きさを広げていく。大気中の見えない力を集めているかのように、少しずつ。少しずつ。


「くーちゃん?」


 普段は夜中に猫が布団の上をウロウロしたくらいでは目は覚めない。けれど、たとえ小さくても愛猫が意志ある声で鳴けば、下僕もとい飼い主の葉月が起きてしまうのは当然なこと。


「え?」


 そして、愛猫の姿を探して目に飛び込んできた光景に、言葉を失う。


 くーの前で浮いている薄く光る球体。よく見ればキラキラした光の粒子の集合体のようなそれは、最初に出現した時はビー玉サイズだったはずだ。それが想像できないくらいに大きさを変え、すでに猫一匹を取り込んでしまえそうなサイズに拡大していた。


「何?! くーちゃん、危ないから、こっちおいで」

「みゃーん」


 猫は警戒していないようだけれど、得体が知れない。焦って呼べばきちんと返事するくせに、猫は全く動こうともしない。というより、球体が大きくなるのをじっと見守っているようにも見える。


 火の玉? にしては、デカ過ぎる。――何かは分からないけれど、確実に異常事態。


 直径50センチほどになった光の塊は、猫のすぐ目の前に浮いているように見えた。発光しているようだが決して眩しくもなく、ぼんやりとした薄い光。よくみればそれは制止しているのではなく、常時ゆらゆらと揺らめいている。


「くーちゃんってばっ!」


 呼び寄せようとしても全く言うことを聞いてくれない。猫は床にちょこんと座ったままで、じっと光の塊から目を離そうとしないのだ。

 目の前に浮かんでいる物体のことを、恐れているようには見えず、ただ集中して見守っている。


 そして、その光の揺らめきが完全に止まるのを確認したのか、ようやく飼い主の方へ視線を向けて、何かを伝えるかのように一鳴きしてみせる。


「みゃーん」

「え、くーちゃん?」


 立ち上がって光の塊に近付こうとする猫。その姿に気付いて、葉月はベッドから飛び降り、慌てて抱きかかえようと猫へと手を伸ばす。温かくて柔らかいモフモフの身体は、確かに抱き上げた。

 と同時に、ベッド下に放置していた通学鞄に片足を引っ掛け、その勢いのまま体勢を大きく崩してしまう。明日提出する予定の課題と分厚い英和辞典が詰め込まれた鞄に、完全に足を取られた。


 ――あっ!


 あろうことか、猫を抱いたまま、勢い余って光の塊の方へ倒れ込む。避けるつもりが自分から突っ込んでくなんて……。日頃の運動不足が悔やまれる。


 抱えた猫を庇うよう、離さないようにとギュッと腕に力を込めた。光の塊は実際に近付いてしまうと思った以上に眩しくて、あまりの光量に反射的に目を閉じる。そのままの体勢で、間違いなく葉月は光に向かって体当たりした。


 だが、何かにぶつかったような衝撃はまるでない。光の温かさにぼわんと包まれただけ。


 ドサッ、と勢い余って倒れ込んでしまった葉月は、目を開く前から違和感を感じる――おかしい。いろいろと変だ。本能的に、目を開けては駄目だと思った。


 倒れた先の床はどう考えても自室の感触じゃない。土、草、砂利――見事な自然物。手足が触れている物だけじゃない、嗅ぎ慣れない青臭くて砂埃の混じった匂い。周囲の温度も微妙に変わって、どこかひんやりとしている気がする。


 そして、恐る恐る開いた目に飛び込んで来たのは、月明かりに照らされた六畳の洋室の壁紙とは違うし、クローゼットの扉でもない。さらには、最近まともに使ってない勉強机でもない。

 本来はそこにあるはずの、見慣れた光景が一つも無くなっているのだ。


 うっそうとした木々。左右前後どの方向を向いても、植物しか見当たらない。都会っ子の葉月には全く馴染みのない景色が広がっている。


 覆い茂った草や落ち葉が緩和剤になってくれたおかげか、勢いよく倒れた割にはどこも痛くはない。その代償として、部屋着にしていたスウェットは葉っぱまみれになっていたが……。


 ――ジャングル? 森? ここ、どこっ?!


 しかも、ついさっきまでは夜だったはずなのに、周りの風景が認識できるくらいには明るい。満月だったから明るいとかいうレベルじゃない。木が邪魔してるせいで太陽の位置は見えないけれど、今が朝なのか昼なのかすら分からない。でも、どう考えても夜じゃない。


 状況が全く飲み込めず、ただひたすら茫然としていると、抱っこしていた猫がするりと腕から離れた。


「あっ、くーちゃん!」


 よく分からない光に飛び込もうとしていた猫も、何とか無事だったことにホッとする。そして、その姿を改めて確認し、絶句した。


「?!」


 思わず自分の目を疑ってしまいたくなるような、信じられない物が目に入る。

 白地に黒の八割れ模様。ほっそりした長い尻尾は先の方だけ白くて、実は控えめに曲がった鍵尻尾。ツヤツヤの毛並みは日頃の入念な毛繕いと、飼い主によるブラッシングの賜物だ。


 その見慣れた愛らしい肢体から、葉月が知らない物が生えているのだ。


「え、翼?! くーちゃん、何それ?」


 目の前にいるのは、10年以上も一緒に暮らしていた愛猫で間違いない。


「みゃーん」


 呼ばれたらちゃんと返事してくれるし、ゴロゴロと喉を鳴らして葉月の手に擦り寄ってくるのも、いつも通り。

 だけど、背中に大きな翼が一対。身体の毛色と同じ白地に黒のまだら模様の翼は、今は半分に折り畳まれているけれど、広げればどれくらいの大きさになるのか。


「……猫って、翼生えてたっけ?」

「みゃーん」


 当たり前でしょ、とでも言うかのように、絶妙なタイミングで返事が戻ってくる。


 ――いや、無いでしょ、普通は……。


 試しに触っても嫌がる様子はない。毛並みに沿って撫でながら、翼の生え際らしき場所を確認してみる。毛並みも温もりも馴染みのある猫のもので、取り外しできる作り物でもなさそうだ。翼の根元は猫の身体と一体化していて、元から生えてたとしか考えようが無かった。


「生えてるよね、どう見ても……」

「みゃーん」


 翼が生えた馬はペガサスだけど、猫の場合は何ていうんだろ? なんて考えながらも、


「可愛いから別にいいか」


 猫の翼よりも、もっと他に考えなきゃいけないことが山積みなのだ。


「だから、ここどこ?!」

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