第30話 絶体絶命



「な、なんですか、あれは‥‥‥」


 敵を前にしているというのに武器を構えるのを忘れて、ロバートは驚愕の表情でその光景を見る。


 彼の視線の先に広がるのは、空を飛ぶ人間らしき影と、先ほどまで晴天だったはずの青空が黒い闇に変わっていく様相。


 まるで、自分に向かって夜が‥‥‥いや、それ以上の何かが迫ってくるようだった。


 ロバートは、自分でも気が付かないくらい小さく震える。


 それは暗闇に飲み込まれるという、人間の根本的な恐怖からくる震えだ。


 しかし、対照的にシルファは頬を赤くした歓喜の表情でその光景を熱く見つめていた。


「あぁ、リオン様‥‥‥」


 やがてシルファたちのいる海上も夜に染まって、シルファのその姿は少しずつ変化していく。


 森の恵みを食むための歯が血を吸うための牙に、髪と同じエメラルドグリーンの瞳が血のような紅色に、深緑のエルフの姿が吸血鬼へと。


 ロバートに付けられた浅い傷も治っていき、内に秘める力が盛り上がる。


「――っ!? あな、たは……?」


 夜を引き連れる人物が巨大戦艦に向かって飛んでいくのを呆然と眺めていたロバートは、突如自分のすぐ近くに膨大なエネルギーを感じて、ハッと我に返った。


 そしてその正体にすぐに気づき、それがさっきまで自分が戦っていた敵であるのに、まるで別人のように変わっていることに困惑する。


 そんなロバートの狼狽ぶりに、シルファはさっきまでとまるで違わない柔らかい笑みで微笑み返した。


「お忘れですか? シルファです」


「それは、わかってますが‥‥‥」


「それから、少々事情が変わってしまいました。あなたとの勝負をこれ以上長引かせるわけにはいきません。なのでここからは本気で戦わせていただきますね」


 シルファは小さな風の刃を作ると、それをロバートに放つのではなく、自分の人差し指を傷つけた。


 小さな赤い線がシルファの細い指先に走り、溢れた血液が滴る。


「【真血武装ブラッディ・アームド】——”紅血嵐槍トルメキア”」


 シルファは唱えた瞬間、落ちるはずだった彼女の血の球が空中で静止し、霧のように霧散してシルファの持つロンドを覆い纏わりつく。


 やがてそれが収まると、シルファの手には穂先の部分が常に鮮血が吹き荒れる一本の槍が現れた。


「では、いきますね」


 囁くようなその声は、さっきまで離れたところにいたはずなのに、なぜかロバートのすぐそばで聞こえた。


 同時に、彼の心臓が大きな警鐘を鳴らす。


「‥‥‥は? ——っ!?」


 ロバートは一瞬、何が起きたのか理解できなかったものの、無意識のうちに身体が前に向かってこけるように飛び出した。


 そして、風なのに風じゃない何かが首の後ろを撫でる感覚に、自分が今攻撃されたのだと、遅れていた思考が追いつく。


 すぐに後ろを振り返り武器を構えれば、予想通りさっきまで自分がいたところに槍を突き出すシルファの姿。


「あら、外してしまいました。流石です」


「‥‥‥今のは私の移動法ですね。いったいどうして」


「どうして、と言われてもやり方は何度も見ましたし、私は風魔法には自信があるんです。出来ない謂れはありません。それに——」


 シルファは紅の瞳を夜に煌めかせる。


「——言ったでしょう? さっきまでの天気は”私には日差しが強すぎる”と」


 言い切ると同時、シルファの姿が再び風に攫われるように掻き消えた。



 ■■



 何かが自分の傍を通る気配がするたびに、一つまた一つと身体に傷が増えていく。


 ——左から気配を感じ、咄嗟に身をよじるも身体の側面が浅く裂かれる。


 一つ一つの傷は決して深い重傷というわけではないものの、じわじわとダメージを蓄積させ徐々に身体の動きが鈍くなっていく。


 ——今度は頭上、真上からの攻撃を察知し低い姿勢から後ろに下がろうとするも、避けきれずに足の甲を貫かれる。


 それでも、宣言通りに背後を取らせないのはフロガが卓越した格闘センスがあるからか、はたまた意地と運と根性か。


 ——再び左、しかし今度はやや下方からの太ももを狙った切り上げ。少し下がってわざと肉を切らせた後、その足を軸足に右足回し蹴りを放つも、相手は深追いをしてこず細剣で受け流した。直ぐに追撃を打ち込もうと踏み込めば、その時には既にあいての姿はその場から消えていた。


 だいたい三回に一回できるかできないかの反撃は届かないことは無いものの、ダヴィドは防御にも隙が無く、反撃に移られた瞬間に深追いを割けるため、フロガはなかなか決定打を打ち込めないでいる。


 ——次に細剣が狙ってきたのは堂々と正面からの喉だ。反撃をしやすいが、受ければ致命傷は免れない。そして迫りくる細剣はとても早く正確で、反撃をしようとしたらきっとその時点で喉に細剣が突き刺さる、フェイントだろう。反撃することは直ぐに放棄し全力で回避に専念する。


 他の第一軍団の者たちならば、既に数百回は死んでいるであろう攻防を続け、フロガは全身を血に染めながら必死に相手の気配を探り戦う。


 かつてないほどの極限の集中状態で常に五感を、神経を、肉体を研ぎ澄ませ続ける。


 ——正面からの刺突をなんとか薄皮一枚で避けることに成功し、次の攻撃の気配を探ろうとして‥‥‥いつもなら直ぐにヒットアンドアウェイに戻る敵が、その場で一歩踏み込み細剣を持った腕を引いていることに気が付ついた。狙いは首ではなく腹。しかし、攻撃モーションや狙いが分かったとはいえ、既に大きな回避行動をとっていたせいで隙だらけの今の状態では避けられそうにない。


 そしてダヴィドの細剣が腹部に貫通するほどの穴を開け、フロガは遅まきながら距離をとる。


 細剣が抜ける際、フロガの腹部から血がドバドバと地面にこぼれて。


 全身が鉛のように重い倦怠感と、大量の血が失われた喪失感にフロガは思わず地面に膝をついた。


「どうした? もう終わりか?」


「チッ! うっせえ! まだまだに決まって——かはッ!!」


 ダヴィドに挑発され、カッとなって立ち上がろうとしたものの、無造作に振るわれた足蹴に立ち上がれずに吹き飛ばされる。


「ふん。まぁ、この俺とこれだけ殺りあえたんだ。お前は十分強い」


「だ、まれ! まだ終わりじゃねぇって言ってんだろ——」


 と、その時、フロガたちのいる空間の天井を突き破って、巨大な鉄球と、それに直撃している白鱗の竜、そして豪快に笑う大巨漢の男が侵入してきた。


「——ジジイッ!?」


 それは巨大戦艦の甲板で大激突を繰り広げていたエルドラドとバッカスだ。


 全身から血を流し、骨という骨が折れ、間接という間接がねじれ曲がった、既に瀕死でおかしくないエルドラドの姿に、フロガは驚愕する。


「フロガ、か。すまんがワシはここまでかもしれん。あの男がめっぽう強くてのぅ‥‥‥って、お主もなかなか悲惨な状況なようじゃの」


「うるせえ! オレ様はまだやれる!」


「そんな傷だらけで威勢のいいもんじゃな」


 エルドラドから見たフロガの姿も、全身という全身が裂傷、刺傷しており、傷の無い部分を探す方が困難なくらい血で染まっている。


 それでもなお大口を叩くフロガに呆れを含んだ苦笑を返す。


 巨大戦艦に侵入した孤高の十二傑の二人と、ポセイドン軍の船団長の二人。


 それぞれ一騎当千の強者たちがこの場で一堂に会すことになった。


 しかし、一方は両者が満身創痍、もう一方はまだまだ十分に戦える状態で。


 バッカスはエルドラドにとどめを刺そうと、吹き飛ばした天井から飛び降りてくる。


「ガハハハハ! どうしたもう終わりか? ん? ダヴィドの野郎じゃないか!」


「バッカス‥‥‥お前は、もう少し静かに戦えないのか」


「ムリだな! ガッハハハ!」


「だから俺はこいつに防衛をさせるのは反対だったんだ」


 ダヴィドは室内なのに空が見えるようになった天井を見ながら、きっと外全体が同じ状態になってることが簡単に予測出来て思わずため息をつく。


 対するバッカスは、そんなダヴィドのお小言にも全く意に介した様子は無かった。


「はぁ、こいつに何言っても無駄か‥‥‥まぁいい、それより俺の方も終わったところだ。とどめはお前に任せる」


「ん? なんだ、珍しいな? お前さんが獲物を譲るなんて」


「もう勝負はついた。それに久しぶりに動き回ったから俺は疲れたんだ」


 ダヴィドはそれだけ言うと、細剣を鞘に戻して踵を返す。


 その姿はもちろんフロガも見ていて、「おい! どこ行きやがる! 勝負はまだ終わってねえぞ!」と、叫んでいるが、ダヴィドは無視をした。


「まぁ、やれと言われたらやるが」


 ダヴィドの姿を見送りながら、バッカスはモーニングスターを構える。


 その際にチラとダヴィドが相手していた人物を見て、ダヴィドに「疲れた」と言わせたことに関心を寄せていた。


心臓穿ちコルトゥシュ≫ダヴィド。


 自分の身体を鍛え上げ、戦闘に必要なもの以外をそぎ落とし、常に強者を求めるその姿勢は、剣一本で第二船団長の座まで上り詰めて、最近ではダヴィドと渡り合える者は主神であるポセイドンとデュレイくらいのであった。


 そんなポセイドンの眷属たちの中でも、別格の強さを持つダヴィドと十分に戦えたことは称賛に値するものだろう。


(俺と戦った竜もそれなりにやる! これは期待以上だ!)


 新たな地球代表の仲間は、新入りにしてはかなり強い。


 そのことにバッカスはニヤリとして、巨大鉄球のついたモーニングスターを大きく振り回し始める。


 上には上がいることを知らしめ、今の自分たちの強さに驕りを持たぬよう、戒めるために。


 バッカスの馬鹿力で振り回される巨大鉄球はすぐに最高速度に達し、暴風を吹かせ当たったものを粉々に砕く。


 そんな、いつ鉄球が飛んできてもおかしくない状況で、フロガとエルドラドは次に来るであろう絶体絶命の攻撃を避けるために必死に身体を動かそうとしていた。


 しかし二人とも足に力が入らず、水に溺れる蟻のようにジタバタと無意味に暴れることしかできない。


 そして——。


「それじゃ、楽しかったぜ! これで終いだ! ”グレート・パンク”ッ!」


 バッカスが叫びながら、巨大鉄球を思いっきり二人に向かって投げつけた。


「くっそ! このままじゃやべえ!」


「どうやら本当にここまでのようじゃ。ワシはもう身体が動かん。‥‥‥この後、陛下に合わせる顔が無いのぅ」


 フロガはなんとか打開策をさがそうと、エルドラドはもう半ば諦めの境地に至りながら、迫りくる巨大鉄球を眺める。


 眺めることしか、できない。


「くっそぉぉぉぉぉおおおおおおっ!!」


 巨大鉄球がすぐ目前に迫り、もう避けることもできなくなり、最後にフロガの叫びがこだまする。


 しかし——。


「月華流剣術・十五夜——”天満月あまみつき”」


 二人の身体がひしゃげる寸前、目の間を巨大な月光の剣撃の奔流が埋め尽くした。


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