下、神天にしろしめす

 私は懐かしい実家を出て、父の車に乗り込む。助手席には母の入院先に持って行く荷物が積まれていた。


 私は後部座席に座る。運転する父の横顔を見たのはいつ以来だろう。あの頃は補助席に座って見上げていたのに、今はずっと距離が近い。

「忘れ物はないか?」

「うん……お父さん」

「何だ?」

 私は二十年分の思いを込めて吐き出す。

「おかえり」

「今から行くんだぞ」

 父は呆れたように笑った。僅かに開いた窓から吹き込む春風が頰を撫でた。



 感傷を感じる間もなく、東京の街が流れていく。記憶の中と変わらない通りもあれば、見たこともない店やビルのある通りもあった。行き交う人々の顔は変わらない。


 父はハンドルを切りながら言った。

「江里からお前の卒業祝いが届いてた」

「江里さんが?」

「金だけ寄越して手紙ひとつもなし。あいつらしいな。俺がいない間お前の面倒を見てくれたから文句も言えないが……」


 車窓を雑踏が過ぎ去る。私は黒い頭の波の中に見知った顔を探した。見つかるはずはないとわかっていても、ここに片岸さんたちが紛れていないかと思ってしまう。


 信号が赤に変わり、父がブレーキを踏む。緩やかな反動で、ポケットの中の何かが転がったのがわかった。私はスーツの懐に手を差し込む。ボールペンより少し太く固いものがある。取り出してみた。

「礼、どうした?」

「何でもない」

 私は思わずそれを握りしめた。煤で黒く汚れたペンライトだった。



 信号が青に変わる瞬間、運転席の窓がこつりと叩かれた。父は怪訝な顔で外を見る。ガラスを覆うように立つ、痩せた胴体が映り込んでいた。


 周りの車が動き出し、クラクションが鳴り響く。父は外の人物を手で追い払い、車を路肩に寄せると、窓を半分押し下げた。


 上ずった青年の声が入り込んだ。

「あのさ、ええっと……」

「何か?」

 父は眉間に皺を寄せる。私には聞かせたことがない、ドスの効いた低い声だった。


 青年はしばらく黙り込んでから言った。

「あんたの車、変な音がしてたんだよな。たぶんファンベルトが緩んでる。このままじゃ事故になるぜ」

「何?」

「俺が直すよ。自動車屋でバイトしてんだ。ちょうど道具があるから」

 青年は運転席に突き込むように道具箱を見せ、車の後ろに駆けていった。後部座席の窓から青年の頭が上下するのが見える。父は困惑気味に後ろを見遣った。

「詐欺じゃねえだろうな」

「きっと善意だと思うよ」

 私は笑いを噛み殺した。


 しばらくして青年が息を切らせながら戻ってきた。

「これで直った」

 父は疑いの色を消して、財布を探る。

「すまない、助かった。少ないが……」

「金なんていいよ。困ったときはお互い様だろ。電車が止まっちまって暇だったからさ」

 青年はそう言いながら窓の外から動こうとしなかった。父は運転席から身を乗り出す。

「せめて、行き先まで送って行く。いいよな、礼?」

「勿論」

 青年は肩を揺らして迷った後、小さく頷いた。

「じゃあ、東京駅まで」



 私は座席を詰めて彼が座る場所を開けた。青年が扉を開けて滑り込む。車が動き出し、中が静かな走行音で満たされた。


 青年は道具箱を抱え、何かを待つように忙しなく足を動かしていた。春先だというのに薄いアロハシャツ一枚で、スニーカーは汚れ、髪も乱れている。

 私は父に聞こえないよう、顰めた声で言った。


「本当はそんな感じなんですね、烏有さん」

 烏有定人は豆鉄砲を食らったように驚きを見せた。そして、少年じみた笑顔を浮かべた。

「覚えてたのかよ……」


 父がラジオを流す。途切れ途切れの音声がゆっくりと広がった。私は烏有に身を寄せる。

「烏有さんも覚えているんですね」

「まあな。俺は昔からひとと違って変なものが見えるから。それとも、そこに在わす神に近づきすぎたせいかもな」

「他の皆さんは?」

「まだ全然見つけきれてねえよ。あれから血眼で探したけど、前みてえな権力持ってねえな。難しいや」

「そうですか……」

「梅村は大学の医学部で助教授をやってた。しかも、凌子さん……礼ちゃんは知らねえか。神よりも怖え女がいて、そいつと同じ大学で働いてんだよ。あいつ、記憶が戻ったらひっくり返るかもな」

 烏有は歯を見せて笑った。


「烏有さんは今何をしてるんですか?」

「バイトだよ。俺、戸籍ねえからさ。あんまりいい仕事はねえんだけど真面目に働いてる。まともに生きようと思ってさ」

 彼は東京の街に別のものを幻視するように目を細めた。



 ふと、ビルの隙間に奇妙なものが見えた。いつもならそこに赤く聳える東京タワーがあるはずだった。

 今、林立する白い巨塔の間に、緑色の入道雲のような大樹が鎮座している。

「何あれ……」


 ラジオからざらついたノイズが流れ出した。父はボリュームを上げる。

「やっぱり"ししどおり"か。電車の復旧まで時間がかかりそうだな」

「ししどおり?」


 父が車を路肩に寄せる。他の車も次々と傍に避け、何かが通るのを待つが如く道を空けた。

 そのとき、車が波に揉まれるように振動した。砂塵が窓外を霞ませる。


 私は目を見張った。車道の中央に砂色の煙が満ちる。荘厳な響きが四方から鳴り出した。


 烟る通りを、得体の知れないものが過ぎる。

 先頭は顔を白布で覆った、黒い法衣の人影だった。鈍色の錫杖や、炎を湛えた燭台を手に進んでいる。


 その後ろに、巨大な山車のようなものが続く。

 高さは左右のビルをゆうに越していた。赤や紫など五色の打ち掛けを重ねた布の塊は、頂上に烏帽子と金の角を生やしていた。

 異形の神の行列が、都会の大通りを歩み続ける。



 唖然とする私の隣で、烏有は乾いた唇を舌で舐めた。

「まだ何も終わってねえってことだろ」

 砂塵が消え去った。謎の行列は影も形もない。父は当たり前のようにエンジンを吹かし、再び発車した。周囲の車も淡々と合流し、一方向に向かって走り出す。


 私はビルの隙間から覗く大樹を見つめた。まだ世界は人智の及ばない何かがある。



 車は何事もなかったように東京駅に辿り着いた。煉瓦造りの駅舎は春の陽に燦然と輝いている。


 烏有は礼を言って降車した。後に続こうとした私を、父が呼び止めた。

「彼と一緒に行くのか?」

「うん。見送りありがとう」

「そうじゃなく、まあ、悪い奴じゃないだろうが……」

 歯切れの悪い言葉に、吹き出しそうになった。

「大丈夫、いいひとだって知ってるから」

「顔見知りか?」

 私は答えを濁してドアを開けた。



 改札付近はひとでごった返している。仄暗い駅舎の天蓋の中で澱んだ生温かい空気が立ち込めていた。


 私は人混みに呑まれながら烏有の後を追う。

「どこに向かってるんですか? 電車は停まってるみたいですよ」

「ひとと会う約束してたんだよ。ひとじゃねえか」


 スーツの肩を掻き分けると、改札の傍に誰もいない空間があった。人々は聖域を避けるようにそこだけ近寄らない。

 その中央に細い影があった。運転見合わせを告げる電光掲示板の光が透ける、色素の薄い佇まい。今さっき会ったばかりのようで、遥か昔に見たような気もする。



「穐津さん……」

「私たちを、神を消さなかったんだね」

「また会おうって言ったじゃないですか」

 あきつ神は喜びと嘆きをない混ぜにしたような顔をした。

「宮木さんは何を願ったの?」

「神もひとも世界を守ろうとした存在が報われるように、です」

「……それは願いというより祈りだね。神は信仰によって永らえる。だから、そこに在わす神は壊れずに済んだのか」

「あの神様も無事なんですか」

「しばらくは世界を作り変えるような力は戻らないだろうけど」

 彼女は肩を竦めた。


「宮木さんはこれでよかったの?」

「ええ、充分です。それに、全ての神を消すなんてどこかで矛盾が生じると思いますから」

「そうだね。神を消す願いを叶えるのもまた神なら、前提が曖昧になる」

 私は首肯を返し、電光掲示板を見上げた。「ししどおりにより停電」の文字が流れる。



「国生みの神がいなくても領怪神犯は生まれ続けるんですね」

「彼女が神を生み出す存在だとして、彼女はどうやって生まれたのか。結局何もわからなかった」


 烏有が私たちの隣に並んだ。

「人間がいる限り神も居続けるんだろ」

「私もそう思います」

「でも、特別調査課はもうないぜ。誰が調べて対処するんだよ。このままじゃ危なくねえか」


 穐津は平坦な声で言った。

「作り変わった今の世界にも君たちのような機関があるかもしれない。なければ作るつもり」

「じゃあ、俺も入れてくれよ。稼ぎ口がねえんだ」

「私も手伝いますよ」

 ひとの姿の神は静かに頷いた。



 自動改札が開き、ホームの奥からたくさんのひとが吐き出された。私たちは壁際に避けた。

 人波が流れる。こだまする声の中に、懐かしい響きがあった。


「実咲、やっぱり俺も行かなきゃ駄目か?」

「もう、今更そんなこと言って。兄さんに会いたくないだけでしょう」

「俺があのひと苦手なの知ってるだろ」

「兄さんはそうじゃないみたいだけど」

「縁起でもねえ」


 私の目が釘付けになる。人混みの中でふたりの姿だけが切り取ったように浮き出して見えた。どこにでもいる、幸せそうな若い夫婦の後ろ姿だ。


 ふたりは少し進み、女性の方が足を止める。

「あれ、定期入れがない。代護だいごからもらったの。落としちゃったのかな」

「鞄につけてたはずだよな。一旦ホームに戻るか」


 色とりどりの靴が過ぎる地面に、赤いリコリスの花が刺繍された定期券入れが落ちていた。私は咄嗟に飛び出し、踏まれる前に拾い上げる。


「すみません!」

 夫婦が振り返った。私は驚くふたりに歩み寄り、定期券入れを手渡す。

「これ落としませんでしたか?」

 女性は目の下の黒子が消えるほど明るく微笑んだ。

「ありがとうございます。大事なものなんです」

「わざわざすみません」


 彼女の夫が頭を下げた。他人行儀な仕草に、僅かに胸が痛んだが、ふたりの笑顔を見てそれも消えた。

 全てが報われた気がした。私はこれを守りたかったんだ。


「それから、これも返しますね」

 私はポケットからペンライトを取り出し、汚れを拭って差し出した。指先がぶつかった瞬間、彼は静電気が走ったように手を震わせた。

「何処かで……?」

 片岸さんが私を見つめる。


 電気が復旧したのか、薄暗かった駅舎に光が戻った。吹き抜けのガラスを透かして空の青が降り注ぐ。


 世界はすっかり変わってしまった。なべて世は事もなしとはとても言えない。でも、今この瞬間、変わらないものがここにあった。



 願わくば、これからも変わらないでほしいと思う。私は祈る。聞き届けてくれる神は、天にもっと近くにいると知っているから。



〈領怪神犯第三部・了〉

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